詩篇89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
今日の詩篇は、かつて神がダビデに約束なさった契約に基づいて、イスラエルの回復を求める祈りです。主なる神よ。あなたはダビデ王家の子孫を絶やすことなく、その王国をかたく建てると約束なさってではありませんか……と。
「わたしはあなた……ダビデの……の子孫をとこしえに堅くし、あなたの王座を建てて、よろず世に至らせる」(89:4)と。ダビデの家系から出る王によって、神の栄光に富んだ王国を建てるのだという約束です。 ※第二サムエル7:4-17を参照。
その約束が成就したあかつきには、実にすばらしい世界が完成するのだという内容が、この詩篇にはつづられています。
「わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする」(89:20-21)。「彼はわたしにむかい『あなたはわが父、わが神、わが救の岩』と呼ぶであろう。わたしはまた彼をわが初子(長子)とし、地の王たちのうちの最も高い者とする」(89:26-27)。
「わがしもべダビデ」とは、ダビデの子孫として来られる最終的な王のことです。そうです。それはイエス・キリストのことです。しかし、キリストを輩出すべきダビデ王家はいまに滅ぼされようとしているのです。
この詩篇は、バビロンによって国を滅ぼされ、バビロンへ奴隷として捕らえ移されたエホヤキン王による詩篇でだといわれています。とすれば合点できます。
この時点でエホヤキンはダビデ王家最後の子孫です。このまま奴隷状態が続けば確実にダビデ王家は滅んでしまいます。だから、彼は必死で祈り願っているのです。単に自分が助かりたいための祈りではありません。
神よ、あなたの契約はどうなったのですか。このままではあなたの約束は実現することなく、空しく地に落ちてしまいます。あなたは言われたではありませんか。「わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない」と。
くり返しますが、単に自分の個人的な救いを求める祈りではありません。私たちが祈るのは、「神の御心がなされますように」という祈りです。神の御心の実現のために、私たち人間はこの世界に置かれているからです。
しかし、その御心を成すために召されたはずのエホヤキンは堕落した王でした。その結果、バビロンによる王国の滅亡を招き、今や自分は捕囚の身です。
彼は、このバビロンの地で悔い改めました。自分が何のために王として召されたのか、その使命を忘れて、王という立場にあぐらをかき、おごり高ぶった人生を悔い改めたのです。
では、神は、この悔い改めの祈りを受け止められたのでしょうか。聖書はこのように告げています。
「ユダの王エホヤキンが捕え移されて後37年の12月27日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出してねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした」(Ⅱ列王25:27-30)。
あり得ないことが起こりました。バビロンの王は、敗戦国の王であるエホヤキンを解放したばかりか、高く上げたというのです。こんな破格の待遇があるでしょうか。主の御手によるならあるのです。
このような驚くべき恵みを体験したエホヤキンは、主からの答えを受け取ったはずです。神は決して約束をお忘れになっていないと……。そして、ダビデ王家の家系に約束された使命をしっかり受け次いだに違いありません。
やがてペルシャの時代になり、クロス王によってユダヤ人の解放と帰還命令が出るや、エホヤキンの孫にあたるゼルバベルは帰還民を率いて、祖国再建のために戻ってきたのです。
そしてついに、彼の子孫から王であるイエス・キリストが誕生されることになるわけです。
どうですか。神は、ご自分の契約を破ることなく、そのくちびるから出た言葉を変えることはないお方ではありませんか。この神こそ、全幅の信頼を寄せるにふさわしいお方です。御名を讃美します。(Ω)
詩篇88:13 しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。
今日の詩篇の祈りはなんと悲しみに満ちた祈りでしょうか。全詩篇のなかで、この88篇は最も深い悩みと悲しみに満ちた詩篇です。
「私の魂は悩みに満ち、私のいのちは陰府(よみ)に近づきます」(88:3)と告白しているように、彼は死の間際まで追いやられています。彼は神から見離され、絶望のどん底に落ちてしまっています。
「死人のうちに捨てられた者のように、墓に横たわる殺された者のように、あなたが再び心にとめられない者のようになりました。彼らはあなたの御手から断ち滅ぼされた者です。あなたは私を深い穴、暗い所、深い淵に置かれました」(88:5-6)。
この悲しみの詩篇は、やがてキリストが十字架にかかられた受難日の金曜日に朗読されるようになりました。それは、まさに、キリストが十字架で受けられた悲しみのようだからです。
そんな悲しみと悩みの真っ暗な中に、一筋の光が見えています。それは、今日の冒頭の御言です。「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます」(88:13)。
朝を迎えない夜はありません。黄泉(よみ)にまで落とされたかのような暗闇のどん底は、必ず朝を迎えるのです。神が創造なさった一日は、「夕があり、朝となった」であることを思い起こしてください。
夕があり、その次に朝で終わるのです。
キリストの十字架の御苦しみは、三日後の復活で完成したことを思い出してください。どんな暗闇の中でも、「しかし、主よ。この私はあなたに叫んでいます」という祈りをささげたいものです。(Ω)
詩篇87:1 主は聖なる山に基(もとい)を置かれる。
「聖なる山」とは「シオンの丘」のことで、その丘に建てられた「都エルサレム」のことです。今日の詩篇にも何度も「シオン」と呼ばれていますが、それは、エルサレムの都をさしています。
この詩篇は預言的な詩篇です。「神の都よ、あなたについて、もろもろの栄光ある事が語られる」と、この都エルサレムの未来について預言されています(87:3)。どんな未来でしょうか。
「わたしはラハブとバビロンを、わたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテ、ツロ、またエチオピヤを見よ。『この者はかしこに生れた』と言われる」(87:4)。
ラハブとはカナン人です。エリコの町の遊女でしたが、イスラエル軍のエリコ攻略のさいに、イスラエルの神を信じた異邦人の女性です。あるいは、エジプトの国を指すとも解釈できます(イザヤ書30:7)。
「ラハブ」をエジプトであると解釈すると、つづく、バビロン・ペリシテ・ツロ・クシュ(エチオピア)は異邦人の国や町ですから、文脈としてもつながります。イスラエルを取り囲んでいた異邦の国々のことです。
つまり、主なる神とは縁遠い者たちが、シオン(エルサレム)で生まれた者と呼ばれるようになるという預言です。異邦人も、まことの神である主に帰依するようになると言われています。これは異邦人の救いを表しています。
もちろん、本家本元のイスラエルも、主を信じ、救いを得ます。次の聖句はそのことを意味しています。
「シオンについては『この者も、かの者もその中に生れた』と言われる。いと高き者みずからシオンを堅く立てられるからである。主がもろもろの民を登録されるとき、『この者はかしこに生れた』としるされる」(87:5)。
このような預言とは裏腹に、エルサレムは今も戦争に明け暮れる都です。現在、イスラエルに敵対する人々に言わせるなら、「冗談じゃない。死んでもエルサレム出身者だなんて言われたくない」と激怒するでしょう。
しかし、神の御言はむなしく朽ち果てることはありません。たとえ天地が滅びても、神の御言は永遠に滅びることはないと、主イエスも念をおされました。必ず、御言が預言するような世界がやってきます。
これは神が定められたことです。冒頭の聖句のように、主なる神は、聖なる山に……都エルサレムに……基(もとい)を置かれたのですから。救いはここから始まるという意味です。
実は、すでに、霊的には始まっています。2千年前のエルサレムの街で何がありましたか?。そうです。主イエス・キリストが十字架で死んで復活されました。それを信じる者には救いが与えられるようになりました。
イエスを信じる者の霊は新しく生まれ、天国に国籍があるようになりました。その者たちの故郷は天のエルサレムです。その者たちの名は、天に記されています。ちょうど、生まれた町で住民登録するように、私たちの名は天に記されています。
このように、天でなされていることが、やがて地にもなされるようになります。この預言の御言を信じて、今日も祈ろうではありませんか。「御心が天でなされたように、地でもなされますように……」。(Ω)
詩篇86:11 主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理に歩みます。心をひとつにして御名を恐れさせてください。
助けを求める祈りの詩篇です。「主よ、あなたの耳を傾けて、私にお答えください。私は苦しみかつ乏しいからです」(86:1)。切実な状況の中で、神に助けを求めています。
しかし、それは単に「私の道」が通るようにと祈るのではなく、「主よ、あなたの道を教えてください」と求めました(86:11)。そうです。神の示される道です。
さらに、「私はあなたの真理に歩みます」と祈りました(86:11)。神が示される道は、真理の道です。自分の人間的な都合の良し悪しが基準ではありません。たとえ都合の悪い方向であっても、真理であるという場合もあります。
ですから、祈り求めます。
イエス様は、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。基本的には、イエス様と共に行くことの出来る道は「神の示される道」です。この方向に進んだならイエス様と疎遠になるな~という道は、神の示される道ではありません。
そして、その道は真理へとつながり、いのちへとつながります。
このような道を祈り求めるとき、さらにこう祈ります。「心をひとつにして御名を恐れさせてください」と(86:11)。心がひとつにならないで、神の導きもほしいが、自分のやりたいようにもしたい……というのでは難しいです。
心がひとつになっていないので道に迷います。
ある時、渋滞にはまってしまいました。ならばと、こっちの道へとハンドルを切りました。順調に流れていましたが、もっひどい渋滞でした。ああ、あっちの道が良かった……と。
こんなふうに、人生の道も昔を振り返りながら、あの道の方が良かったのか、いや、こっちの道が……と迷いますか。それは、心がひとつになっていません。
「心をひとつにして」御名を畏れる道……すなわち、主イエスを共に行く道を行くべきです。細い道であっても、それがいのちにつながる道だからです。もう一度祈りますよう。
「主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理に歩みます。心をひとつにして御名を恐れさせてください」。(Ω)
詩篇85:10 いつくしみと、まこととは共に出会い、義と平和とは互いに口づけし、
冒頭の「主よ、あなたはみ国に恵みを示し、ヤコブの繁栄を回復されました」(85:1)とは、イスラエル(ユダヤ人)がバビロン捕囚から戻ってきたことを表しています。その点は新改訳(第2版)が明確に翻訳しています。
「主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人をお返しになりました」。※新改訳3版では訳が異なる。
バビロンからの帰還は、神のイスラエルに対する罪のゆるしであり、罪に対する御怒りが終わったことを意味していました。そのことを、詩人は次のように告白しています。
「あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。あなたはすべての怒りを捨て、激しい憤りを遠ざけられました」(85:2-3)。
捕らわれ人が帰ってきた……とは、繁栄が回復したということです。そして、その基礎は、上記のごとく、「罪に対する正しいさばきとゆるし」だという意味です。
しかし、一般的には、繁栄とは単なる物質の豊かさを連想しますが、それは本物の繁栄ではありません。現代社会がそれを物語っています。いちじるしい科学技術の進歩。それに伴う物質の豊かさや便利さ。
しかし、罪の問題の解決なくして、本当の繁栄とは言えません。今日の詩篇が示しているように、神による「罪に対する正しいさばきとゆるし」の上にもたらされるものこそ、本当の繁栄であることを忘れてはなりません。
さて、バビロンから祖国に帰還したものの、エルサレムの街は荒れすたれ、かつて栄光に輝いていた神殿は焼け崩れて見る影もありません。しかし、神のゆるしを基礎にして、詩人はさらなる回復を祈っています。
「我らの救の神よ、我らを回復し、我らに対するあなたの憤りをおやめください。あなたはとこしえに我らを怒り、よろず世まで、あなたの怒りを延ばされるのですか。あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、我らを再び生かされないのですか。主よ、あなたのいつくしみを我らに示し、あなたの救を我らに与えてください」(85:4-7)。
上記の祈りは、バビロンから回復してくださった神が、エルサレムの街の回復までなさらないはずがありましょうか……という、積極的な祈りです。「罪のゆるし」という霊的な繁栄があって、次に「エルサレムの街の回復」という物質的な繁栄が続くのです。
さて、バビロンによって滅ぼされた民は、神のゆるしを得て祖国に戻ってきました。この一連の出来事を、冒頭の聖句は「いつくしみとまことが出会う」「義と平和が互いに口づけする」と表現しました。
神はまことで義なるお方ですから、罪人のイスラエルをさばき滅ぼされました。
「義」とか「まこと」は、「いつくしみ」とか「平和」と相容れないものです。だから、神がイスラエルをゆるし、回復し、平和をもたらされることは驚きの対応です。
義という正しさを貫徹するのは、罪人はさばかなければならないし、敵を滅ぼすために戦います。恵みとか平和は共存できません。ところが、その両者が「出会って」「口づけ」するというのです。
それが表された場所というのが、バビロンから帰還したイスラエルです。そこから、新しい世界が始まります。「まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます」という世界です。(Ω)
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。私は悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守(かどもり)となることを願います。
「神の家」とは、エルサレムの神殿のことです。神殿に詣でることは、神との親しい交わりの中に生きる幸いを表しています。
しかし、その神殿から遠く離れた地に、この詩人は置かれていたようです。バビロンに奴隷として捕らえ行かれた人ではないかとも考えられています。
エルサレムに住み、いつでも神殿のそばに居た日々は、それが当たり前になっていました。いつしか習慣的なってしまし、いつものように時間が来たので宮に行って祈り、毎年恒例の祭も行事のようにこなす日々。
こんなに近くに神の宮がある生活も、遠くバビロンに捕囚の身となって、はじめてその幸いを知ったのです。詩人にとって、異教の神々の都バビロンでの生活は悲しみの日々でした。
詩人は、神の神殿にいる一日は、捕囚としてバビロンで暮らす千日にもまさる幸いであることを告白しています。異教の神々の町に住むよりは、むしろ、神殿の門番として、その片隅にでさえ住むことの方がどんなにか幸いでしょうか。
しかし詩人も、そのような試練を通して、神とつながる真の信仰へと目覚めて行きました。かつて、エルサレムにいたときは単なる宗教行事をこなすだけの日々でしたが、それが真の信仰の姿ではないことに目覚めました。
まさに、信仰とは、神との親しい交わりです。神殿から遠く離れてみて、はじめて、神との結びつきがいかに大切なことであるかを悟るようになったのです。だから、こう告白しています。
「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます」(84:4-6)。
神の家に住まう人とは、神との親しい交わりの中に生きる人のことです。その人は幸いです。その人の心には「シオンへの大路」があるからです。シオンとはエルサレム神殿が建っている丘の名です。
いま、エルサレムから遠く離れていても、その心にはシオンへ通じる大路があるのです。神のみもとに行くことのできるハイウエイのような大きな道が、まっすぐに開通しているのです。このような人は、神とのつながりが太い人です。
細いパイプでつながるような信仰生活の人は、充分な霊的エネルギーが供給されないので、何か困難があると、くじけそうです。
しかし、太く大きな道でつながっている人は、神からの永遠のいのちが豊かに供給されるので、試練の中にあってもそれに耐えることが出来ます。そのような人は、「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(84:6)。
「涙の谷」(口語訳では「バカの谷」)というわけですから、悲しみの涙はあります。大路があるからといって、涙もなくいつも明るく元気で……というわけには行きません。しかし、その涙の谷は、やがて、幸いな泉のわく所と変えられるのです。
なぜなら、シオンへの大路があって、神との親しい交わりが太いパイプのようにつながっているからです。あなたの心には、このようなシオンへの大路があるでしょうか。あるはずなんですが……。
イエス様は「わたしは道だ」と言われたではありませんか。「イエス」という「道」こそ、神への大路です。天への大路です。そんな道を見出し、体験なさってください。(Ω)
詩篇83:18 主という名をお持ちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを彼らに知らせてください。
イスラエル(ユダヤ)の存亡にかかわる大変な状況での詩篇です。神への心からの嘆願でこの詩篇ははじめられています。
国の周囲は敵に取り囲まれています。敵となった国や民族の名が記されていますが、その中には、親戚筋にあたる民族もあります。エドムはヤコブの兄エサウの子孫。イシマエルはイサクの異母兄の子孫。モアブとアンモンはアブラハムの甥であるロトの子孫。
かつては同じ家族であった者たちからも剣を向けられる悲しい事態です。
しかし、神は、何も言われないかのように感じられます。何もせずになすがままになさっているように感じられます。「神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください」と叫んでいます(83:1)。
そして、こう祈っています。
「あなたの疾風(はやて)をもって彼らを追い、つむじ風をもって彼らを恐れさせてください。彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう」(83:15-16)。
しかし、この祈りは、「こんなひどい奴らに仕返ししてやってください!」という、自分中心の祈りではありません。自分の悔しさのはけ口としての祈りでもありません。また、そうであってはならないのです。
すべては「主の御名があがめられるため」です。
「主の祈り」の冒頭の課題は何ですか?。「天の父よ。御名があがめられますように」でしたね。紆余曲折はあっても、ここに至るように、私たちは祈ります。
そして、人々が、「主という名をお持ちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であること」を知るようになることです(83:18)。(Ω)
詩篇82:8 神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。
今日の詩篇は冒頭から不可解な記述です。「神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる」(82:1)。神が正しいさばきをなさるわけですが、「神々の中で」とはどういうことでしょうか。
ヘブル語で「神」は「エル」。複数形の「神々」は「エローヒム」。神が霊的な存在なので、「神々」とは「霊たち」「天使たち」とも解釈できるのですが、今日の箇所は、その後の文脈では、人間でありかつその指導者たちを表しています。
イエス様も、神の御言をあずかった人間のことを「神々」と評するのに、自分を「わたしは神の子だ」と言うのを、神への冒涜だと責めることは出来ないと言われたのは、この詩篇の箇所からの引用です(ヨハネ10:31-36)。
ですから、この詩篇の場合の「神々」は神の御言をあずかった指導者たち、あるいは神から油を注がれて王となった者たちを表していると理解して良いでしょう。
王をはじめとする指導者たちは、神からの委託を受けて世を正しくさばく者……「さばく者」とは狭義では「裁判」ですが、この場合は広義の「世を治める為政者」の意味……であるはずです。
しかし実際には、その立場に高ぶって民を苦しめる場合がほとんどです。そんな、王・指導者たちに対して、神は……、
「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」(82:2-4)。
……と言われるのです。
王という立場……それは今日的には政治家、社長、教師、裁判官、牧師などの立場……そのような権威を与えられたのは、神に御心に従って、正しく治めるようにと「多くまかされた」立場です。
私の国でもないし、私の会社でもない。私の学校でも、私の教会でもない。すべては神のものであり、神からあずかったに過ぎないことを忘れてはなりません。これを忘れるので、不当な支配、高慢な支配をするのです。
だから、今日の詩篇のように、「神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです」と祈るのです。指導者たは、ゆだねられた民を謙遜になって治めなければなりません。「多くまかされた者は、多く問われる」からです。
イエス様はこう言われました。
「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」(ルカ12:48)。(Ω)
詩篇81:10 あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
イスラエル民族がエジプトから連れ出された時のことをうたった詩篇です。奴隷の地であるエジプトから出てきたものの、道中は荒野の旅でした。道なき道を、ただ神の導きに従って進む苛酷な旅でした。
しかし、そのような試練の旅でしたが、神はその中で守ってくださいました。マナを与え、水を飲ませ、うずらの肉を飽き足りるほどにお与えになりました。荒野の旅は、神に従順するための訓練の期間でした。
その中で、神は恵み豊かな神であることをあらわされました。「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」と主は言われるのです。神はケチなお方ではありません。溢れんばかりに満たして下さるお方です。
ただ、私たちが、大きく口を開かないので、満たすことが出来ないだけです。
天から雨が降って来ますね。ある人はお茶碗を用意して水をためます。しかし、ある人はバケツを用意して水をためます。他の人はダムを用意して水をためます。同じ雨水でも、大きな器を用意した分だけ受け取ることが出来ます。
神が与えようとなさっている恵みも同じです。さあ、口を広く開けよう。主はそれを満たしてくださいます。それは、心を大きく開くことです。神を信頼して、神の御前に心を広げてください。けっして頑(かたく)なになって心を閉じてはいけません。
私たちが荒野を旅するとき……天国に行くまでの地上での生涯は、荒野の旅のようです……神に対して心を開く訓練です。心を広く開いて、神の恵みをしっかり受け取る訓練です。
神のこのような勧めに聞き従ってください。心を閉じてはいけません。
しかし、イスラエルのある人々は荒野で心を閉じてしまいました。そのような民に対して、神はこう警告されています。
「しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。それゆえ、わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた」(81:11)。
神は無理矢理、私たちに恵みを詰め込もうとはなさいません。私たちが心を開くのを待っておられます。「いらない!」と言ってしまった手前、引っ込みがつかなくて、ますます「いらない」っと強情になてはなりません。
神は、「わたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する」(81:13)と言われます。神の命令に素直であって下さい。(Ω)
詩篇80:3 神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください。そうすれば我らは救をえるでしょう。
国は敵軍によって侵略され、破壊されました。それはイスラエルの不信仰と堕落に対する神の御怒りであることを、詩人は理解していました。悲しみと悔い改めの涙は食するパンをぬらしていました。
「あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました」(80:5)。
彼には、この滅びの原因が分かっていました。神に背いたからです。神の民として本来あるべきところから離れてしまったからです。だから、彼はこう祈っています。「神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください。そうすれば我らは救をえるでしょう」(80:3)。
神は、聖なる実を収穫しようと願い、ぶどうの木を移植するようにしてイスラエルをエジプトから引き抜き、約束の地カナンへ植えてくださいました。
「あなたはぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました」(80:8)とは、そういう意味です。しかし、イスラエルの結んだ実は「偶像礼拝」という神の忌み嫌う実でした。
神から離れてしまったぶどうの木が結ぶ実は、滅びの実でした。あの放蕩息子が父から離れて結んだ実も、また滅びの実でした。
イスラエルがそうであったように、新約の時代のクリスチャンも、この世から引き抜かれて神の畑に植えてくださったのに、私たちが神から離れているなら、その結ぶ実はむなしく外に投げ捨てられるでしょう。
そんな自分の姿に気がついた時、あの放蕩息子が本心に立ち帰り、父のもとに戻ってきたように、「神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください」と祈るべきです。「そうすれば我らは救いを得る」のです。(Ω)
詩篇79:9 我らの救の神よ、御名の栄光のために我らを助け、御名のために我らを救い、我らの罪をおゆるしください。
エルサレムの街は異邦人の攻撃によって完膚無きまで、滅ぼしつくされました。これは、バビロン軍による攻撃のことだと思われます。エルサレムは荒れ塚となり、屍(しかばね)を葬る人もなく、空の鳥や野獣の餌食となっていました。
しかも、異邦人たちは、イスラエルの神はどこに行ったのか……と、神をあなどり、信じる者たちをあざけるのです。この詩篇からは、詩人の悲しみや悔しさがにじみ出ています。
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか」(79:5)。
詩人は、単に神に向かって嘆いているのではありません。この悲惨な滅びが、イスラエル民族の罪に対する神の御怒りであることがわかっていました。だから、悔い改めつつ、神による回復を切に願っているのです。
俗にいう、「神も仏もあるものか!」という捨てぜりふとは違います。
詩人の叫びには、必ずや神は私たちをあがなってくださり、回復への道へ導いて下さる時が来ることを信じて祈っています。そして、それは単に、「自分たちのために」そうして下さいという願いではありません。
今日の冒頭の聖句は、「御名のために」……と願っています。
神がお選びになった民が、このような無惨な最後をもって途絶えてしまうなら、神の御名に傷が付きます。どうぞ、神の御名があがめられるようになさってください、という祈りです。
そうです。全ては神の御名のためです。私たち人間も、神の御名を汚さないように生きるのが、人としての道です。
また逆に、神が私たちをお救い下さるのも、私が立派だからとか、私がふさわしい人間だからではなりません。神の御名の栄光のために、神は、慈愛を表されるのです。「主の祈り」のごとく、御名があがめられますように……と祈ろう。(Ω)
詩篇78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
この詩篇はイスラエルの歴史を歌にして、子々孫々に語り伝える内容になっていて、「わが民よ、わが教えを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ」という歌い出しから始まっています(78:1)。
さらに、「我らはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを、来るべき代に告げるであろう」と述べています(78:4)。
新約教会における礼拝も、神が私たちになしてくださった十字架と復活の出来事を子々孫々に語り伝えています。神がいかに愛して下さったか、神がいかに畏(おそ)れるべきお方か……神の慈愛と峻厳とを語り継ぎます。
その目的は、「これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである」(78:6-7)。
そして……
「その先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからとならないためである」(78:8)。
詩篇が語り継げているイスラエルの歴史は、①神がイスラエルをエジプトから呼びだしてくださったこと、②荒野における民対する扱い、③カナンの地に入り王国を建てられたことに至っています。
その歴史に共通していることは、民がいかに不従順であったかということです。
「ところが、彼らはなお神に向かって罪をかさね、荒野でいと高き方にそむき、おのが欲のために食物を求めて、その心の内に神を試みた」(78:17-18)。「すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしき御業を信じなかった」(78:32)。
イスラエルの歴史はこんなことの繰り返しだったのです。
しかし、そんなイスラエルが神の民として歩み続けることが出来たのは、今日の冒頭の聖句のように、「神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた」からです。
民は神の怒りによってそのいのちを奪われる事態になって、悔い改めて神を熱心に求めたことが特筆すべき事です。イスラエルの偉大さは、彼らが罪を犯さなかったということではなく、悔い改めて神に立ち帰ったことです。
旧約の時代、他の民族もイスラエル同様に神の御怒りによって打たれ、滅ぼされ、痛みを負いました。しかし、イスラエルが他民族と違った点は、そのさばきの中から、再び「神をたずね、悔いて神を熱心に求めた」とうことなのです。
いつでも、何度でも、慈愛に富まれる神に立ち帰る柔らかい心をもつべきです。そうするのは、「先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからとならないため」なのです(78:8)。(Ω)
詩篇77:11 私は主のみわざを思い起す。私はいにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。
信仰とは、神を中心にして現実を見て行くことです。しかし、時に逆転して、現実を中心にして神を見ようとするとき、神を見失い、私たちの心は揺れ動きます。
私たちの神は万物を創造なさった神、すべてをご支配なさる全知全能の大きなお方であるにもかかわらず、現実を中心に見ると、神より現実の方が大きくなって見えてくるものです。
今日の詩篇でも、詩人は神を見失いかけていました。神を慕い求めつつも、神は自分から遠く離れておいでになるように感じられます。こう述べています。「私は神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える」(77:3)。
「主はとこしえに我らを捨てられるであろうか。再び恵みを施されないであろうか。そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々長くすたれるであろうか。神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって、そのあわれみを閉じられたであろうか」(77:7-9)。 ※詩篇は、力強い信仰の確信だけでなく、今日の詩篇のように不信仰な告白、時には怒りや呪いの言葉まで登場する。人の弱さも恵みも表現されたのが詩篇である。
ここで終わってはなりません。現実にばかり焦点を合わせていた目を、何度でも神に合わせるのです。神に焦点を合わせ、神の世界から現実を見る訓練をしなければなりません。
詩人は告白します。「私は主のみわざを思い起す。私はいにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす」と(77:11)。
詩人は、かつて神がエジプトを打たれ、神の力強い御手によって先祖の民イスラエルが出エジプトした出来事を思い起こしました。あの海が分かれて脱出の道が備えられた出来事を思い起こしたのです。
「あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった」(77:19)とは、逃げ道のない海の中に、神が道を開いてくださったことをあらわしています。
イスラエルの人々にとって、出エジプトの事件は「原点」ともいえる出来事でした。詩人も、この原点に帰って再び立ち上がろうとしたのです。
新約のクリスチャンにとって原点とは、イエス様の十字架と復活です。自分の愚かさという現実だけを見ていると、今日の詩篇の前半のように、神は私をお見捨てになったのでは……という悲観的な思いが堂々巡りしてしまいます。
しかし、だからこそ、そんな私のために、イエス様は十字架で死んでくださったのです。そんな私の古き人は、十字架で葬られたのです。古い私は死んで、いま生きているのは、イエス様と共に復活した新しい私です。
このように、原点である十字架と復活に、何度でも立ち帰ってください。
私たちは礼拝ごとに主イエスの十字架と復活を記念します。聖餐式のパンと杯にあずかるたびに、イエスの十字架の死と復活を思い起こします。そこに焦点を合わせて出発するのが礼拝です。
1週間のうちにずれてしまった焦点を合わし、それてしまった軌道を修正し、十字架と復活からスタートしよう。そんな毎週の礼拝を大切にしよう。(Ω)
詩篇76:8-9 あなたは天からさばきを仰せられた。神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙した。
先の75篇から続きます。北の超大国アッスリヤに包囲されながらも、神の介入があり、一夜にしてアッスリヤの陣営は滅ぼされました。列王紀には、天の御使(天使)たちによる働きであったと記されています。
まことに驚くべき事です。神のなされることに対して、地は恐れ、沈黙せざるを得ません。
攻め囲んでいたアッスリヤの将軍セナケリブは神をあなどって、「諸国民の神々のうち、どの神がわがアッスリヤの王の手から救ったか。……中略……主がどうしてエルサレムを私の手から救い出すことが出来ようか」と豪語したのです。
しかし、そのような高ぶりの声も、神のさばきの前には沈黙するばかりです。
今、信仰を軽んじる声が聞こえますか。信仰に対するあざけりが聞こえますか。しかし、知ってください。「神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙するしかない」ことを。
忍耐しつつ、主のご介入を祈ろう。(Ω)
詩篇75:6-7 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。
ヒゼキヤ王の時代、北の超大国アッスリヤの大軍に完全に包囲されたことがありました。こんな状況の中で、いったいだれがイスラエル……正確にはユダ王国……を救うことが出来るでしょうか。
この時の出来事は列王紀下(Ⅱ列王紀)の18~19章に詳しく記されているとおりです。まさに風前のともしびのごとく危機的な事態に陥っていました。
「高く上げる」とは、戦いに勝利し敵を支配すること意味しています。では、その「高くする」のは東に位置するモアブ人やアモン人の援軍によるのでしょうか。いいえ。では、西に位置するペリシテ人ですか?。それもあり得ません。
それとも荒野(南に位置する)のエジプトが援軍を出してくれることで、イスラエルが高く上げられるのでしょうか。それも不可能です。周囲の国々はみなイスラエルに敵対する民族だからです。
だから、「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない」のです(75:6)。そうです。それがおできになるのは神だけです。高く上げるのも地獄の底まで低くするのも、それは神のなさることです。
だから、神は、誇る者には「誇るな」と言い、悪しき者には「角(つの)をあげるな、角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言われるのです(75:4-5)。
神の御前にまことの謙遜をもって低くする者を、神は高く上げられます。神の御前で高慢な者は、永遠に低くされます。
イエス様の弟子たちの中で自分が一番偉いんだと高ぶっていたペテロは、大きな失敗を通して、身を低くせざるを得ませんでした。その時の経験を、ペテロは次のように告白しています。
「だから、あなた方は、神の力強い御手のもとに、自らを低くしなさい。時が来れば、神はあなた方を高くしてくださるであろう」(Ⅰペテロ5:6)。
祈りましょう。主よ、順境ゆえに高ぶることなく、また、逆境のゆえに落ち込むことなく、ただ、神の御前にひたすら身を低くすることを学ばせてください。(Ω)

