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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

詩篇 41篇

2014年06月13日 | 詩篇 第1巻

詩篇41:1 貧しい者をかえりみる人は幸いである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。

新改訳では幸いなことよ。弱っている者に心を配る人はと訳されています。「貧しい者」とか「弱っている者」に配慮する者の幸いが語られています。

主イエスも言われました。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではないとはどういう意味か、学んできなさい。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と(マタイ9:13)。

弱さのある者を配慮できる心……それは、神の御心に通じるものだからです。

神は、人間が何者だからあわれんでくださるのでしょうか。それは、私たちが弱さを担っているからです。神は、人間を、しばらくの間、御使よりも低い者として創造なさって、謙遜と従順を通過して、御国を継ぐ者となるように定められたからです(ヘブル2:6-7)。

ですから、神は、人の弱さを顧みてくださいます。

自分の弱さを認めて悔い改める者を義とされます。そんな弱さを受け止めてもらった私たちも、同様に、弱さのある者たちを配慮するのは、神の御心にかなっています。

弱い者を踏み台にしてのし上がって行く生き方。それは、決して強い生き方ではありません。もし、強さがあるとすれば、それは弱い者を配慮するために与えられた強さのはずです。

神は、弱い部分をいっそう見栄え良くして、からだ全体に調和をお与えになりました。それは、互いがいたわり合うためです(Ⅰコリント12:24-25)。

強さは決して自己誇示のためのものではありません。逆に、弱さは、他者から同情を引き出すための道具でもありません。互いが調和をもって結び合わされ、キリストの姿をあらわすための「違い」です。(Ω)


 


詩篇 40篇

2014年06月12日 | 詩篇 第1巻

詩篇40:10 私はあなたの救を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを告げ示しました。私はあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした。

ダビデ王は、自分の勝利は決して自分の力によるものではないことを知っていました。主である神の助けによらなければ、何ひとつ勝利できないことを知っていました。

その勝利について、主は私を滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、私の足を岩の上におき、私の歩みを確かにされたと告白しています(40:2)。

イエス様も言われました。「わたしはぶどうの木。あなた方は枝である。枝が木から離れて「実」を結ぶことができないように、あなた方は、わたしから離れては実を結ぶことができない」と……。

「そんなことはない。イエスを信じなくても実を結んでいる」と反論したくなる人もいらっしゃるでしょう。でも、その「実」は永遠に残る実でしょうか。天国に持って行ける実でしょうか。

永遠に残る実……それは、ぶどうの木であるイエスにつながることによって結ぶ永遠のいのちです。ダビデ王が体験したまことの勝利も、神である主とつながって結んだ勝利の実でした。

ダビデ王は、この勝利を隠しておかず、人々の前で証ししました。今日の聖句はそのことを告げています。

私はあなたの救を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを告げ示しました。私はあなたのいつくしみとまこととを大いなる集会に隠しませんでした」。

一般的な王であれば、自らの武勇伝を自慢げに話すところです。どうだ!俺はこんなにすごい王なのだ……と、民からの崇拝を得ようとするところです。でも、自慢話ほどつまらない話はありません。真に誉むべきは、神である主だけだからです。

ダビデは、すべてが主の恵みであることを隠しませんでした。

その実を自分の手柄話として捏造(ねつぞう)してはなりません。今あるのは主イエスがしてくださったことです。主を賛美しよう。主をほめたたえよう。栄光は主に。(Ω)



 


詩篇 39篇

2014年06月11日 | 詩篇 第1巻

詩篇39:1 私は言った、「舌をもって罪を犯さないために、私の道を慎み、悪しき者の私の前にある間は、私の口にくつわをかけよう」と。

古今東西、「舌は災いのもと」であることを知っています。余計なことを言って人を傷つけたり、虚栄心で言ったひとことが嘘を生み出したり。何ともこの舌は制御しがたい悪に満ちています。

そこで、「私は黙して物言わず、むなしく沈黙を守った」のです(39:2)。しかし、黙っていられません。「しかし、私の悩みはさらにひどくなり、私の心は私のうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えた」のです(39:2-3)。

口に轡(くつわ)をかければ済むという問題ではない。根はもっと深い。だから、自戒してこう祈っています。

主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかを私に知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください」(39:4)。

自分が何か偉い者であるかのように思い上がるので、この舌は大言壮語します。だから、自分が神の御前で「はかない者」であることを知らせてください……と。ちっぽけな私の人生など無に等しいことを自覚させてください……と(39:4-5)。

根は深いのです。口先だけをコントロールすれば良い問題ではなく、内側です。霊魂の問題です。霊魂が腐っていれば、腐った言葉が出てきます。霊魂が死んでれば、死の毒に満ちた言葉が出てきます。

だから、新約の時代へと続きます。

新約にいたって、イエス・キリストが「いのちのパン」となって来られました。わたしを食べなさいと、イエスがご自分を差し出されました。それは、イエスを信じて、神の御言を食べよという意味です。

御言が肉体となってこられたイエスを食べるとは、神の御言を受けるに等しいことです。

だから、イエス様を信じて、食べるようにして迎えよう。そうすれば、いのちのパンであるイエスは、私たちの霊魂を活かしてくださいます。いのちのある霊魂から出てくる言葉が、生きた言葉となって出てきます。

重要なことは、私の霊魂にいのちがあるのか否かです。

いのちがない……つまり死んだ霊魂からは、いのちのない言葉が出てきます。だから、いのちのパンを食べて、私の霊魂が生きるようになることです。

さらに、新約の時代には、聖霊が内住してくださいます。聖霊なる神が内住されるようになると、不思議な賜物(霊的な能力)が与えられます。その中で顕著な賜物が「異言」と「預言」です。両方とも“言葉”に関する賜物であることは興味深いですね。

聖霊が賜る言葉の賜物は、異言を通して、自分自身の徳を高め、霊を養います(Ⅰコリント14:4)。そして、預言を通して、他者を活かし、励まし、その徳を高める言葉となります(Ⅰコリント14:3-4)。

祈りましょう。私たちの内なる霊魂が活かされ、きよめられることによって、いのちのある言葉が出てきますように……。人を活かす言葉、天国の祝福を告げる言葉が出てきますように……。(Ω)


 


詩篇 38篇

2014年06月11日 | 詩篇 第1巻

詩篇38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。(新改訳)

今日の詩篇は「罪の重みに苦しむ姿」が描かれています。おのが罪のゆえに神の御怒りがくだり、肉も骨もむしばまれるような病気で苦しんでいます。

あなたの怒りによって、私の肉には全きところなく、私の罪によって、私の骨には健やかなところはありません」(38:3)。

私の愚かによって、私の傷は悪臭を放ち、腐れただれました。私は折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。私の腰はことごとく焼け、私の肉には全きところがありません」(38:5-7)。

だから、こう祈らずにはいられませんでした。主よ、あなたの憤りをもって私を責めず、激しい怒りをもって私を懲らさないでください(38:1)。

これは弱者の嘆きでしょうか。もっと我慢すべきでしょうか。

戦国の武将の山中鹿之助が、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かって願ったというのは、お馴染みの台詞ですが、神が本気で、罪の結果である滅びをお与えになったら、こんな威勢のよいことを言っていられるでしょうか。

私の不義は私の頭を越え、重荷のように重くて負うことができません」と告白せざるを得ません。

このような苦難の日に、周囲の人々の反応は冷ややかなものです。それまで親しかった者も離れて行きます。これ幸いにと、追い打ちをかけるように非難を浴びせる人もいるかも知れません。

私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています」(38:11-12)。

こんな時、もがけばもがくほど深みにはまります。言い返せば言い返すほど論争はヒートアップします。耳の聞こえない者のように、口のきけない者のようにまでして、主なる神を求めます。

「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです」(3813-14)。そのようにするのは……、

主よ、私があなたを待ち望んでいるからです(38:15)。

主だけが、正しく応えて下さいます。主イエスだけが、「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい」と招き、「あなた方を休ませてあげよう」と言われます。

主だけが、私たちの負いきれない罪の重荷を、あの十字架で負ってくださったお方です。だからこそ、「重荷をおろせ」と言える方です。だからこそ、「休ませてあげよう」と言えるお方です。

このお方のもとで、今日も安息を得よう。(Ω)



 


詩篇 37篇

2014年06月09日 | 詩篇 第1巻
詩篇37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
 
他の訳も紹介しておきましょう。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな(新共同訳)。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな(新改訳)
 
これは、世の悪など気にするな、放っておけという単純な意味合いではありません。そう言うものの、私たちの心には、放っておくどころか、無性に憤りを覚えるものです。
 
しかし、その憤りはどのような種類のものでしょうか。
 
ここで言われている、悪事に対する「いらだち」とか「ねたみ」は、神が悪に対して抱かれる義憤というよりは、悪をなしながら上手くやっていることへの腹立たしさ……といったニュアンスです。
 
「悪をなす者」に対して、私の“肉”が反応しているのです。心のどこかに、「上手にごまかして、うまくやっていることに対するねたみが芽生えるのです。
 
この肉の思いに捕まってしまうと、「悪をなす者」をあたかも真面目に批判しているようで、自分も悪しき思いや考えに巻き込まれます。ミイラ取りがミイラになってしまう格好です。これは巧みな罠です。
 
「不正を行う者のゆえに、ねたみを起す」ことから生じる汚れた思いで、人はその心をごがし、その火で自分さえも滅ぼしてしまうことがあります。
 
だから、今日の聖句は、「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな」と語っているのです。その御言の背後には、「むしろ、神のさばきにまかせよ」という意味合いが込められています。
 
神は、放置しておられるわけではありません。御言はさらに告げています。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからであると(37:2)。毒麦が生え出てきても、収穫の時までそのままにして起きなさい……と命じられた主の御言を思い出してください。
 
肉で反応して、自ら汚れを招くよりは、脇目をふらず、まっすぐにおのが道を歩むことこそ、思慮深い者の生き方です。そのような者には、神の御国を受け継ぐようにと主は備えておられます。
 
今日の詩篇は、「国を継ぐ」という語句がくり返されていることにお気づきでしょうか。
 
主を待ち望む者は国を継ぐ」(37:9)。「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」(11)。「主に祝福された者は国を継ぎ」(22)。「正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる」(29)。「主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる」(34)。
 
どうですか。悪しき者の悪の巻き添えを食って、こんな素晴らしい嗣業(しぎょう)を逃してしまってはいけません。(Ω)


 

詩篇 36篇

2014年06月07日 | 詩篇 第1巻

詩篇36:9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。

詩篇の前半1~4節では、罪の力がいかに巧妙かつ、強く、恐ろしいものであるかを語っています。

とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う。その目の前に神を恐れる恐れはない」(36:9)。新改訳では、「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」。

罪(咎)は人の心に語りかけるのです。「これくらい大丈夫だよ」「みんなもやっているじゃないか」「あとで悔い改めればいいじゃないか」……。

罪を人格化すると、それは悪魔です。悪魔もエバに語りかけました。「食べても大丈夫だよ、死なないよ」。「それを食べると賢くなるんだよ」……と。

悪魔がアダムとエバに語りかけたとき、彼らには神に対する畏(おそ)れがなくなっていました。悪魔は、神に敵対する“勇気”を与えてくれるのです。人は、この悪魔に「ノー」と言えません。罪の支配はそれほど巧妙かつ強烈です。

だから、人は、いのちの泉である神につながって生きなければなりません。今日の聖句は、「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る」と証ししています。

神のもとにこそ「いのちの泉」があります。これは、穴を掘って水をたくわえた「池」とは違います。「泉」です。池はやがて涸れますが、泉は汲めども汲めども涸れません。

そのように、神から供給されるいのちは、泉のように涸れることがありません。

自分の努力や頑張りで罪と戦いますか。それは、やがて涸れてしまう池の水を汲みだすようなものです。そううではなく、いのちの泉である神につながることです。

主イエスは言われました。わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう(ヨハネ4:14)。

私たちに足りないものは人間的な頑張りではありません。いのちの泉であるイエスにつながって、永遠のいのちに至る泉を掘り当てることです。足りないのは、罪人の偽善的な行いではなく、神の光に照らされることです。

「いのちの泉はイエスのもとにあり、われらはイエスの光によって光を見る」からです。(Ω)


 


詩篇 35篇

2014年06月06日 | 詩篇 第1巻

詩篇35:3 「わたしはおまえの救いである」と、私に言ってください。

敵の悪意とあざけりを受けて途方に暮れている中から、救いを求めて祈っています。その祈りの中で、「わたしはおまえの救いである」と私に言ってください……と求めています。

味方の軍勢を増やしてくださいと求めるのではなく、主の“ことば”を求めています。わたしはお前の救いであるという、神からのひと言があれば、それが最高の助けだと信じたからです。

神は霊なるお方ですから、見たり触れたりすることができません。肉感で神を知ろうとしても、かなわないことです。神は、ご自分のを、人間の肉感で分かるようには現されません。神はいつも語りかけてくださる神です。

はじめに“ことば”があった。“ことば”は神であったとヨハネ福音書が証ししているように、神は、語りかけることでご自分をあらわされるお方です。ですから、神を肉眼で見ることではなく、神が語ってくださることが重要なのです。

中風で苦しむ部下を持つローマの百卒長は、イエス様に癒しを求めたとき、「お言葉をください」と求めました。それで充分だと考えたからです。

イエス様が直接お越しにならなくても、「いやされよ」というひと言があれば、それはイエス様がじかに手を置いてくださったのも同じだと信じたからです。イエスはこの百卒長の信仰を素晴らしい信仰だと感心されました。

ペテロはガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、水の上を歩いて来られるイエス様を見ました。そこで、ペテロは、「主よ、私に来なさいと言ってください」と求めました。神の御言が「来なさい」と言うなら、水の上さえも行くことが出来ると、ペテロは信じたのです。そして歩きました。

神が語ってくださるなら、そうなるのです。神が語ってくださるなら、神が直接そこにおられてなさるのと同じです。

神は、私たちから遠く離れておいでになるのではありません。私たちのすぐそばに、共におられます。それは御言が共にあるとき、神が共におられるのと同じだからです。

神はあなたに語ってくださっているでしょうか。聖書を読む中で、聖霊が私の魂に響かせてくださる聖句があるはずです。それは、イエス様が語ってくださった“ことば”です。日々聖書を読み、日々御言を受け取るのは、主が共におられる神であることを体験する秘訣です。(Ω)


 


詩篇 34篇

2014年06月05日 | 詩篇 第1巻

詩篇34:19 正しい者には災いが多い。しかし、主はすべての中から彼を助け出される。

一般的には良いことをすれば良いことが帰ってくる。悪いことをすれば悪いことが帰ってくると考えられています。因果応報という考え方です。

これによれば、良い結果を得るためには良いことをしましょう。悪い結果を得たのは、何かあなたに悪い行いや考えがあるからです……となるわけです。

しかし、多くの人が、この考えに呪縛されて苦しんでいます。何か災難があると、あの時のあの悪が今になって報いたのだろうか……とか。過去のあの罪過が、今になって呪いとなっているのだとうか……と。

そこで、何やら怪しげな呪術めいた祈祷師にお祓いをしてもらったり、滝に打たれて身をきよめようとしたりと、過去の清算に躍起になるのです。

良いことをすれば良い結果を得て、悪いことをすれば悪い結果を得る……。こう考えた方が計算が成り立つし、スッキリと筋が通るので受け入れやすいわけです。しかし実際はそんなにスッキリとは計算が合わないのです。

良いことをしても災いがあるし、悪いことをしていながら結構上手くいっている人もいます。世の中は計算の合わないことだらけです。

今日の御言も、「正しい者には災いが多い」と教えています。計算が合わないことの方が多いのだと教えています。だから、無理して計算を合わせようとすると返って無理が出てくるものです。

計算を合わせることの出来るお方は主なる神だけです。だから御言は、「正しい者には災が多い」と述べた後で、「しかし、主はすべてその中から彼を助け出される」と語っています。

計算が合わないのも無理がありません。なぜなら、私たちの住む世界は不完全な世界だからです。悪魔が支配し、神の秩序が壊された世界だからです。正しい者を妨害しようとする悪魔が働いている世界だからです。

※明らかに自分が悪くて起こしたトラブルまで悪魔のせいにしないように。悪魔の働きを認めることは、自らの責任を放棄することではない。

ですから忍耐強く信じ続けてください。必ず主が助け出されます。その究極が、主イエスの再臨です。イエスがもう一度来られるのは清算するためです。主が計算を合わせにやって来られます。(Ω)


 


詩篇 33篇

2014年06月04日 | 詩篇 第1巻

詩篇33:10-11 主は諸々の国のはかりごとをむなしくし、諸々の民の企てをくじかれる。主のはかりごとはとこしえに立ち、その御心の思いは世々に立つ。

偶像礼拝とは、自分の思惑通りに行くことを願う宗教のことです。ですから、自分の思惑を支持してくれたり、達成してくる神々を求めます。そのために都合の良い神を人間が作り出します。これが偶像礼拝の特徴です。

しかし、聖書の信仰はそうではありません。神のご計画が中心です。ですから「主の祈り」で、神の御心が天でなされているように、地上でもなされますように……と祈ります。

クリスチャンでも、これ無視して自分の思惑通りになりますように……とだけ祈るなら、それは、イエス様を偶像のように礼拝しているのです。イエス以外の神を礼拝しないから偶像礼拝をしていないのではなく、イエスを信じながら偶像礼拝者になり得るわけです。

私たちの信仰は、自分の思惑中心ではなく、神中心の信仰です。言い換えれば、人本主義ヒューマニズム)ではなく、神本主義です。

でも、世の中を見ていると、世の人々の思惑通りに進んでいるようにさえ見えます。国々が世界を動かし、歴史を作っているようにも見えます。神の御心など、どこ吹く風……そんな状況にも見えます。

しかし、そうではないと今日の御言は告げています。国々のはかりごとや企ては、むなしくなり、くじかれるのだと。人間が自分の思惑通り進めているようだけれど、神の大きな御手の中で、神のご計画は進んでいます。

自分の思惑通りにやろうとする人生は空(むな)しいです。空しいとは“からっぽ”という意味です。それは実のない籾殻(もみがら)のようです。風が吹けば飛ばされます。篩(ふるい)にかけられて籾殻は焼かれるだけです。

最後の審判の結果、罪に属するものはすべて地獄の火に投げ込まれて焼かれてしまうと預言されていますが、まさに、国々の思惑も、人間のくわだても、実のない籾殻のように焼き滅ぼされて、永遠に残るべき実だけが神に帰するのです。

天地は滅びても、神の御言は永遠に滅びないと言われたのは、このことです。

最終的には神の御心だけが残ります。神の御心だけが完成します。神の御心を信頼して、それがなされるようにと祈る人生にしますか?。それとも、自分の思惑通りを願うだけの人生にしますか?。

神の御心は、天の御国が完成することです。神の御心は、イエスを信じる者が永遠のいのちを得て、この御国に入ることです。この「御心」という筋をずらしてはいけません。建物の鉄筋のように、しかり通すことです。(Ω)


 


詩篇 32篇

2014年06月03日 | 詩篇 第1巻

詩篇32:3 私が自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、私の骨はふるび衰えた。

かつてダビデは、部下ウリヤの妻バテシバとの姦淫の罪が発覚することを恐れて、ウリヤを戦場の最前線に派遣し、戦死に追いやることで隠蔽しました。しかし、人には隠せても神の目には明らかでした。預言者ナタンの指摘によって、ダビデは悔い改めました。

今日の詩篇は、その時のダビデによる悔い改めの祈りだと言われています。

罪は言いあらわすことによってきよめられます。

聖書はこう語っています。私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さる(Ⅰヨハネ1:9)。

神は全知全能のお方ですから、私たちのおかす罪もご存知です。隠せるものではありません。なのに、神は、罪を言いあらわしなさいと勧めています。なぜでしょうか。

①罪は毒のようにして私を苦しめる。

今日の詩篇でも告白されているように、自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす(終日)苦しみます。それは、罪が毒のようにして全身を苦しめるからです。

腐った物や、毒物が混入した物を食べたら苦しみます。微量の毒であれば、はじめのうちは変かなと感じる程度ですが、それが日々積み重なって重大な疾病になることもあれば、即死に追いやる毒もあります。

罪も同じように、微量であれ劇物であれ、やがて私たちを死に追いやる毒のようなものです。

ダビデは罪を隠し通そうとしました。だから苦しみました。「骨はふるび衰えた」と記されていますが、新共同訳では「骨まで朽ち果てました」と翻訳しています。全身が朽ち果てるほどに、罪の毒は私たちをむしばみます。

②罪を言いあらわすことによって、ゆるされきよめられる。

神は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わしました。それは、ダビデが罪を認めて、それを言い表すためです。罪を隠し通すことが幸いでしょうか。ばれずに済んだことは幸運なことでしょうか。

神は私たちを愛しておられるので、隠れたことを明らかになさいます。

ニュースでは様々な不祥事が報道されています。渦中の当人は苦しいことでしょう。でも、見方を変えれば、それは幸いなことです。悔い改めるチャンスだからです。神の御前に明らかにして、きよめていただけるチャンスだからです。

ばれなければラッキーですか?。そのまま隠したとしても、どっちみち、世の終わりの大審判の時に、神の御前に露わにされる時が来ます。でも、その時では遅いのです。死の刑罰がくだってからでは取り返しがつきません。

いま明かになることは幸いです。最後の審判を待たずに、いま、自ら罪を言いあらわすことは幸いです。なぜなら、神はそれを赦してくださるからです。

赦すだけでなく、きよめてくださいます。

暗やみにあったものを光のもとにさらけ出すことで、日光消毒するようなものです。罪を言いあらわすとは、私たちが口を開いて、心の闇にまで神の光が入るようにすることです。

罪をおかさない人が義人なのではありません。罪を言いあらわして、神の赦しときよめを受けている人が義人であることを忘れないでください。(Ω)



 


詩篇 31篇

2014年06月02日 | 詩篇 第1巻

詩篇31:20 あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して、人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて、舌の争いを避けさせられます。

ここでいう「あなた」は、主なる神のこと。「彼ら」とは、19節の「神を畏れる者」「神に信頼する者」のことです。神を畏れ信頼する者に、神は、神のご支配の下に匿(かくま)ってくださるというのです。

クリスチャンといえでも、隠遁生活をしているわけではありません。社会に出て行きます。商売もします。神を信じない人々と関わりながら生きて行きます。

ですから、時として世のはかりごとに巻き込まれます。会社員の方であれば、権力争いの渦中に巻き込まれるかも知れません。おもに男性の方にありそうなケースです。 ※新改訳は「そしり」と翻訳」。

はかりごととは謀略とか陰謀の「謀」のことです。信仰の良心に反するような関わりに引き込まれそうなとき、神は「ひそかな所に隠して」くださり、「免れさせて」くださいます。

また、舌の争いに巻き込まれます。これは、女性に多いケースではないでしょうか。うわさ話、批判や中傷話……。舌の争いは蜜のように甘い罠であり、人の心をくすぐります。

そのような時、この詩篇を思い出してください。主は、仮屋のうちに潜ませて、舌の争いを避けるようにしてくださいます。

「はかりごと」とか「舌の争い」を、クリスチャンは出て行ってそれを打ち壊すこともあるでしょう。「地の塩」「世の光」としての積極的な面です。

しかし、主が用意してくださった「ひそかな所」「仮屋」に隠してもらうことも必要です。主は私の避けどころです。主イエスの恵みによって囲んでいただこう。主イエスの十字架の下に身を寄せよう。(Ω)



 


詩篇 30篇

2014年05月31日 | 詩篇 第1巻

詩篇30:1 主よ、私はあなたをあがめます。あなたは私を引きあげ、敵が私の事によって喜ぶのを、ゆるされなかったからです。

この詩篇は「You Raise Me Up」の詩篇です。 ※日本ではケルティック・ウーマンという女声ボーカルグループが歌って一躍有名になった。荒川静香さんもスケートのフリースタイルでこの曲を採用し注目を浴びた。

私たちの神は、引き上げてくださるお方です。敵の罠にはまって、罪の中でもがき苦しんでいるところから、主は引き上げてくださいます。困難故に悶々としている暗闇から、主は引き上げてくださいます。

もし、私が落ち込んだままでいるなら、敵は拍手喝采。祝宴を上げることになります。私たちの敵とは悪魔とかサタンと呼ばれる存在です。

ああ、主よ。私をこのどん底から引き上げてください。敵があざ笑うのをおゆるしにならないでください。そして、事実、主は私たちを引き上げてくださるのです。詩篇はさらにこう続きます。

主よ、あなたは私の魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、私を生き返らせてくださいました(30:3)。

あの水の上を歩いたにもかかわらず、嵐を見ておぼれかけたペテロを、主イエスは引き上げてくださいました。再びおいでになる主イエス・キリストは、最後のさばきから救い出すようにして、私たちを天に引き上げて下さるお方です。

私たちの住むこの世界は、まさに黄泉(よみ)のような世界です。罪と死が支配する世界です。でも、私たちはそこから引き上げられるのです。復活の日、私たちは墓に捨ておられることなく、復活して出てくるのです。その希望を常に忘れないでいよう。

夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る(30:5)。涙の夜があっても、主は私を引き上げてくださるので、喜びの朝を迎えることがででます。

「夜」とは泣き明かすしかできない時間です。何も出来ない領域です。何も出来ないというよりは、何もしないで、神におまかせして休むという領域だとも言えるでしょう。

昼間は働いて活動しますが、何も出来ない夜、何もしないで神にゆだねるしかない夜が、人間には必要です。ですから、何も出来ないで、悲しむことしかできない夜は、神の癒しの御手にお任せする時間です。

ゆだねて休もう。朝と共に喜びが来るのです。涙のある夜も、神が癒される時間帯です。主が引き上げてくださるのを信頼して、何もできない「夜」を通過します。

そんな夜の次には、朝と共に喜びが来ることを信じて。(Ω)



 


詩篇 29篇

2014年05月31日 | 詩篇 第1巻

詩篇29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。

神の子ら」とは人間のことです。新改訳では「力ある者の子ら」と訳されています。人は神に似せて創造されましたから、神のように力ある存在であります。時に、王になって最高の権力を手にすることもあります。

でも、「主に帰せよ」と御言は命じています。

主に帰せよ」とは、主に帰りなさいという意味です。人は、本来、神のものです。神の所有としてあるとき、人としての本来の生き方ができるものです。本来あるべき所にあるとき、そのものの本来の意味が生じます。

例えば、ボートが陸地に置かれたままであれば無用の長物。物入れにするにしても、風呂にするにも不釣り合いです。海に置かれてはじめて意味をなします。

それと同じように、人間も神の手にあってこそ意味があります。

神は、人間に神の働きをまかせようと、人間を神に似せて創造なさいました。なのに、人間が自分の楽しみや肉欲の満足のためにだけ生きようとするので、人生が空しく過ぎ行きます。

だから、神の子らよ、主に帰せよ……なのです。

栄光と力も、主に帰せよと述べています。栄光は神がお受けになるべきものです。人間が受けると、それは似合わないのです。人間が栄光を受けようとすると、人間が歪(ゆが)み始めます。人間は、栄光を受けるようには造られていないからです。

悪魔(サタン)は、自分が栄光を受けようとして堕落した元・天使です。自分も神のようになろうとして堕落しました。その悪魔によって、人間も同じ誘惑を受けています。

しかし、栄光は神がお受けになってこそ相応しいものです。

人は、分不相応(ぶんふそうおう)のものを受けると傲慢になったり、その重みでつぶされたりします。自分が受けるものでないなら、それは神に帰属するようにすべきです。

悪魔(サタン)がそうであったように、われわれ人間にも、栄光を自分主のものにしたいという欲求が所々に潜んでいます。

具体的にはどうしたらよいのでしょうか。「私はふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ17:10)と告白し、このようにさせてくださった主イエスこそがお受けになるべき栄光ですと告白することです。

「主の祈り」でも、最後にこう祈っていますね。「国と力と栄光は、限りなく主のものです」と。このように栄光は主がお受けになるのが丁度良いのです。

でも、最後に申し上げておきます。主は、決してその栄光を独り占めしようというちっぽけなお方ではありません。「良い忠実な者よ。わたしと一緒に喜んでくれ」といって栄光を分かち合われるお方です。この真実なお方に信頼しよう。
(Ω)



 


詩篇 28篇

2014年05月31日 | 詩篇 第1巻

詩篇28:1 主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私たちの神は聞いてくださるお方です。そして、語ってくださる神です。この事が、偶像と決定的に異なる点です。

人は木や石を削って偶像をつくり、神として拝みます。しかし、偶像は聞ける耳がなく、語るこ口のないものです。それについて聖書はこう述べています。

刻める像、鋳像および偽りを教える者は、その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか」(ハバクク書2:18)。

しかし、私たちの神は、私たちの祈りを確かに聞いておられます。そして、確実に語ってくださっています。

ですから、たとえ、主が耳を閉ざしておられるように思えることがあっても、聞くことの出来る神だから、あえてそうなさるのです。たとえ、沈黙なさっているようでも、語ることの出来る神だからこそ、あえてそうなるのです。

だから、私たちは、聞くことも出来ず語ることも出来ない偶像にもの申すように祈るのではなく、しっかりと伝わるように、心をこめて祈ります。そして、耳を澄まして、聞き漏らすまいとして、主の語られるメッセージを受け取るまで待ちます。

それは、人格と人格の交わりです。偶像礼拝は「一方通行」の祈りですが、私たちの祈りは人格者同士の会話です。そんな会話のような祈りをささげよう。(Ω)


 


詩篇 27篇

2014年05月31日 | 詩篇 第1巻

詩篇27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。

今日の詩篇では、悩みの中から神に助けを求める祈りがささげられています。そのような状況で、神が言われたのは、「わが顔をたずね求めよ」でした。

私たちは、多くの場合、目先の困っている現実の解決を願うものです。経済的な問題の解決、人間関係の修復、攻撃してくる敵から守られるように等々……。

病気で言えば「対症療法」を求めているわけです。熱があれば熱を下げるとか、痛みがあれば痛みを和らげるとか、湿疹がれば炎症を抑えるとかです。実際はその原因になっている根本を治癒しなければなりません。

人生でも同じように、対症療法的に、神に願い求めることがあります。しかし、今日の詩篇では、まず「わが顔をたずね求めよ」と言われるのです。

簡単にいえば、ちゃんと神さまの顔を見てものを言いなさいということです。

人間関係がぎくしゃくしていると、相手の顔をきちんと見ることができません。喧嘩でもしていれば、目も合わせなくなります。そんな状態で、何が期待できるでしょうか。顔を見ることもできない関係で、祝福があるでしょうか。神との関係も同じです。

幼な子は正直ですから、何か悪いことをしていたりすると、まっすぐ顔を見せません。隠しごとがあると、見抜かれるかと思って目を合わせようとしません。神さまとの関係でも同じようなことを、私たちはしていないだろうか。

私たちがまずなすべき事は、神の顔を見ることです。これは象徴的な表現ですから、誰かの顔を思い浮かべて、それがイエス様の顔だなんて想像をふくらませないように願いますが……。

神と面と向かい合うことの出来る関係になることが、根本的な問題解決です。

さて、この「わが顔をたずね求めよ」という言葉は、主が私に向かって語られたことになっていますが、新改訳聖書ではニュアンスが違います。次のように訳しています。

あなたに代わって、私の心は申します。わたしの顔を、慕い求めよ(28:8)

自分が自分の心に向かって語っています。でも、それは自分が語っているのではなく、主が語っておられるわけです。他の詩篇でも「わが魂よなにゆえうなだれるのか」という表現がありますが、これも、自分が自分に向かって語っています。

でも、それは私の内に住まわれる聖霊さま(イエスさま)が、私に向かって語っておられるとも言えるのです。

そういえば、私は普段から「自問自答」しています。

「なんでイライラしてんの?」。「自分の思い通りにならないからやろ?」。「思い通りになるなんて、自分は神さまか?」。「いや、違う。自分は神ではないし、神になってはいけない」……。

「なんでブルーになってんの?」。「……?」。「あの人のあのひと言が気になってんのと違う?」。「そやな。意外と的を射たことを言われたな」。「素直になって受け止めたらいいやない」……。

私の内におられるイエス様は、関西弁で語ってくださいます。自問自答って大事です。私の内でイエス様が語りかけて下さっている場合があるからです。

こう考えると、神が私に語りかけて下さっていることは、遠くの話しでも、まれな話しでもありません。今日も、主の語りかけを聞きながら生きて行こう……そう願うのです。(Ω)