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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

レビ記 27章

2024年04月24日 | レビ記
レビ記 27章
地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。
(27・30)


天地万物は神が創造なさいました。しかも、御子のために創造なさったのであり(コロサイ1・16)、御子が相続者であると聖書は宣言しています(ヘブル1・2)

ただ、私たちは預かっているに過ぎません。預かっているという謙虚さを失う時、私たちは自分の持ち物によって誇ってみたり、他者を見くだすのです。愚かなことです。

預かっているのですから、やがて、それは神にお返しする時が来ます。

主人からタラントを預かったしもべたちの話をご存知でしょう。主人はしもべたちにタラントを預けて旅に出かけ、「だいぶ時を経てから、精算するために戻って来られた」とあります。

残念ながら、随分と時を経るうちに、預かったものを、さも自分のものであるかのように思い込み、高ぶるのです。精算する時が来るのを忘れてしまうのです。だから、すべては神のものであることを忘れてはなりません。

レビ記で神は、すべての十分の一はわたしものだと宣言なさっています。すべてが神のものだと主張なさってもよいのですが、十分の一は神のものであって、それを献げるようにと言われるのです。神の所有権を忘れないために献げるのです。

キリスト教会でも十分の一献金をお勧めする根拠です。それは、万物の主権は神にあり、神のものを預かっているのに過ぎないことを告白し、感謝し、謙遜に生きる道だと言えるでしょう。


レビ記 26章

2024年04月23日 | レビ記
レビ記 26章
彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。
(26・44)


数々の規定が述べられて後、26章にいたって「わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば」(26・14)とあるように、違反した場合の罰則について語られています。

「七倍重く」「七倍の災い」等々、「七倍」という語彙が神の怒りの厳しさをあらわしています。

それはイスラエルの民を懲らしめるためであると言われます。18節の七倍も重く懲らしめる(新改訳)のは、民を訓練し、彼らの中に根深く残る高慢を打ち砕くためです。わたしはさらに、あなた方の力を頼む高慢を打ち砕き(19)と言われるように、神の懲らしめは、私たちの高慢を打ち砕くためです。

とはいえ、訓練は楽しくはありません。逃げ出したくなります。ずるをして避けたいものです。しかし、神は、イスラエルの民を厳しく取り扱われました。彼らの歴史がそれを物語っています。

では、神は、イスラエルを見捨てられるのでしょうか。いいえ、どんなに神の厳しい御怒りが臨もうとも、神はご自分の民をお見捨てになりません。それは、神の御名によって契約を結ばれたからだと、主は言われます。イスラエルの民が他国に追いやられようとも、敵が彼らを忌み嫌おうとも、神は、ご自分の民を断ち滅ぼさず、ご自身の契約を忘れることはないと、冒頭の聖句でも宣言なさっています。アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約を思い起こすのだと、何度も語られています。

聖書の神は「契約の神」です。契約は破られるためにあるなどとうそぶく人もいます。それは罪人の不誠実な言葉です。確かに、私たち人間は誠実をつらぬことのできない弱さを持っています。

しかし、神は真実なお方です。何をもって真実というのでしょうか。それは、神の御名によってなされた契約(約束)を、決して、ご自分の方から破られることがないという誠実です。

イエスの名によってバプテスマを受け、神との契約の中にある者は何と幸いないことでしょう。しかし、それは、恐ろしいことでもあります。神は、契約ゆえに私たちを子としての訓練もなさるからです。

でも、大丈夫です。神は真実で、誠実なお方だからです。信頼すべきお方だからです。


レビ記 25章

2024年04月22日 | レビ記
レビ記 25章
七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。(25・4)

神は6日間で天地を創造し7日目を安息日と定められました。6日間働いて、7日目はまったき休みの日として命じられました。人間には必ず休息の日がなければなりません。

それと同じように、土地に関して安息年が命じられています。7年目は土地を休ませよと言われるのです。

一般的にも連作は土地を痩せさせます。私の子どもの頃、実家でスイカを栽培していましたが、スイカ畑は毎年別な畑でした。父に理由を聞くと、スイカは稲作以上に土地の養分を吸収するので、同じ畑では駄目なのだと教えてくれました。休ませた田はレンゲが植えられ、レンゲの養分でその畑を肥やすようにしていました。

人には、そしてこの世界にも、「安息」が必要です。しかし、安息など必要がないと言わんばかりに、人間も世界も神の命令を無視して、富を獲得するために働きます。

安息なんかしていたら、追い抜かれてしまう。安息なんかしていたら、収入が減ってしまう。そんな恐れに急き立てられて、神が定められた安息の法則を無視しています。

果たしてそうでしょうか。出エジプト後の荒野の旅において、神は天からマナを降らせて民を養われましたが、6日間はマナが降ったのですが、7日目の安息日には降りませんでした。だから、安息日はマナを収穫する作業を休みました。

しかし、安息日は何も食べなかったのではありませんでした。前日の第6日目に2日分のマナを降らせてくださったのです。

では、安息年の場合はどうでしょうか。土地を休ませるのであれば、その1年間の収穫はありません。でも、神はこう言われます。わたしは命じて6年目に、あなた方に祝福をくだし、3年分の産物を実らせるであろう(25・21)

3年分の収穫の内の1年分は安息年の分です。そして、もう1年分は翌年に蒔くための種としての収穫です。神の深い配慮が記されています。

安息日も安息年も共に言えることは、神が養っておられるということです。安息を無視して働くことのできる健康はどこから来ますか。それは、いのちの源である神が与えてくださるのです。

私たちは安息することによって、すべての根源は創造主なる神だと体験し、そのお方を礼拝します。毎週、この基本を体にも霊魂にも染みこませます。これを忘れたら、自分は何でもできるという傲慢によって滅びます。

レビ記25章では、その安息年の7巡目の翌年(7×7+1)の50年目はヨベルの年として定め、すべての負債を帳消しして、他者に渡った土地も元の持ち主に戻します。また、奴隷となった民も解放しなければなりません。

これも、安息日や安息年と共通して言えることは、すべてが神の所有だということです。神が人に労働する健康を与え、神が植物を実らせ、神が大地にいのちの活力を与えたのです。

それを忘れて、私たちは自分が獲得したものは自分のものだと思い込んでいます。しかし、本当の所有者は神です。私たちは一時的に神からあずかっているだけです。このことを忘れるなら、人は傲慢ゆえに滅びます。

今の社会は少しでも多くの富を得ようと乱獲し、土地も人もやせ衰えています。地球全体が悲鳴を上げるかのように、自然災害が頻発しています。より大きなエネルギーを得ようと、核の分野にまで手を伸ばし、その圧倒的なエネルギーを制御しきれず、大変な事態を招いています。

こんな時こそ安息し、すべての源である神の御前にひれ伏し、謙遜になり、礼拝する……そんな、人間本来の姿を取り戻さなければなりません。
 


レビ記 24章

2024年04月20日 | レビ記
レビ記 24章
オリブを砕いて採った純粋の油を、灯火のためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えず灯火をととのえさせなさい。
(24・2)


幕屋(神殿)で消してはならない火がふたつありました。ひとつは、既に見てきたように6章に記された祭壇の火でした。そして、もうひとつは、この24章に記された聖所の火です。

イエス様があなた方は世の光であると言われたように、私たちは神の聖霊が住まわれる神殿として、私たちの内なる火を消してはなりません。世の人々が私たちを見る時、そこに希望の光を見ることになるのだ、と主は言われたのです。罪の暗やみを照らし出すきよい光を見ることになるのだと……。

順境の時も逆境の時も、その先の永遠のいのちの希望に輝いている時、それは世の光となります。罪を悔い改め、罪に勝利する姿……それは、世の暗やみを照らす光となります。

このような光を照らし出すために、神は、オリーブ油を用意するように命じられます。しかも、純粋なオリーブ油です。

冒頭の聖句にオリーブを砕いて採取した純粋の油とあるように、オリーブの実を砕いて笊に入れておくことによって、自然と流れてくる油のことです。それが純粋な油のことです。 ※新改訳聖書では「質の良い純粋な油」と翻訳。具体的には「砕いて流れ出た油」のこと。口語訳聖書・新共同訳聖書を参照。

純粋な油が流れ出た後、さらにその実を圧搾すると次の段階の油をとることができます。しかし、聖所で使う油は、圧搾して得た油ではなく、砕かれた状態で流れ出る最初の油です。

単に火を灯すのであれば、最初の純粋の油だろうが、圧搾して得た油だろうが問題ありません。でも、神は、それを区別なさいます。

時として私たちは「世の光」であろうとして、肉なる熱心さで灯そうとします。不純な動機で、表面的な明るさだけで、世の光であろうとします。しかし、それは、純粋の油による灯火ではありません。

オリーブの実が〝砕かれた状態で流れ出る油〟だと指摘されているように、私たちの悔いし砕かれし霊魂から流れ出る油です。それは、私たちの内なる霊、聖霊によってきよめられた霊が燃やされるのです。

大切なことは、私たちが神の御前に悔いし砕かれし霊魂であることです。肉の力、我力、虚栄心によって灯す光ではありません。


レビ記 23章

2024年04月19日 | レビ記
レビ記 23章
その時々に、あなた方が、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。
(23・4)


神は毎年祝うべき「祭」を定められました。この祭は「例祭」とか「聖なる集会」「聖会」とも呼ばれています。全部で7つの祭があります。結論から申し上げます。これらの祭は、キリストにある救いの預言となっています。 ※このような預言を〝予型〟という。

(1)過越しの祭(5)

すでに出エジプト記12章で詳しく見てきました。第1月の14日に過越しの出来事があり、それを機にイスラエルはエジプトの奴隷から解放され、荒野へ旅立ちました。そのことを記念して毎年、過越祭を祝います。

やがて、この過越祭の日にイエス・キリストは十字架で死なれ、罪のゆるしをなしとげ、人類を罪の奴隷から解放し、私たちを天国への旅人として導き出されました。

(2)除酵祭種なしパンの祭
(6~8)


過越祭から7日間を祝う祭です。出エジプトした民は急いで出立したので、パンにパン種(酵母菌)を入れることができず、種なしパンを食して旅をしました。そのことを覚える祭です。

このパン種はを象徴しており、やがて、イエス・キリストによって罪を取り除かれたことを祝うことの預言となっています。

(3)初穂の祭(9~14)

この祭の日付けは決まっていません。過越祭の後の最初の安息日(土曜日)の翌日となっています。つまり、必ず日曜日になるわけです。

過越祭は毎年1月14日で固定されていますが、曜日は異なります。ですから、初穂の祭は過越祭から数えて翌日から7日後にまで変動するわけです。

さて、この初穂の祭は大麦の刈り取り時期に当っており、大麦の初穂を神に献げる祭です。実は、イエス・キリストが復活された日は、この初穂の祭の日でした。ですから日曜日です。

しかも、その年の過越祭が金曜日でしたから、直近の安息日の翌日……つまり、3日目がその年の初穂の祭でした。キリストは死んで3日目に復活するという聖書の預言は、このような日程の年でなければ成就しなかったのです。このことは、イエスこそまことのキリストであり、神の預言通りに来られたお方であることに確信を与えます。

初穂の祭は「初穂」ですから、その後次々に穂が出てくることを意味しています。イエス・キリストが初穂としての復活を成し遂げられ、イエスを信じる人々が次々に復活を体験するようになるのです。

(4)五旬節の祭刈り入れの祭
(15~22)


先の初穂の祭は大麦の刈り入れ時期の祭でしたが、1ヶ月ほど後には小麦の刈り入れ時期にあたります。初穂の祭から50日目に祝います。10日を単位にしているので五旬節と呼びます。

この祭の日に聖霊がイエスの弟子たちに降りました。新約では聖霊降臨祭と呼ばれる日のことです。

過越しの日にイスラエルがエジプトを出立して、シナイ山に到達した頃が、日数でいえば五旬節の頃に相当します。このシナイ山でモーセを通して人々は律法を授かったわけです。

ですから、イスラエルの民はこの五旬節の祭で小麦の刈り入れを祝うと共に、律法を授かった感謝の祭としても祝いました。

そんな五旬節の祭に、新約の人々は聖霊を授かったのです。旧約の民は律法を基準にして荒野を旅しましたが、新約の私たちは、文字による律法ではなく、聖霊が私たちの心に書き記してくださる御言を基準に旅立ちます。

残りの祭は、夏をはさんで秋の祭になります。

(5)ラッパ祭、(6)贖罪の日、(7)仮庵の祭です。

イエス様が再臨なさる時、天の御使のラッパが鳴り響くと預言されていることからも(Ⅰテサ4・16)、後半の三つの祭は、再臨のイエス様によって成就して行く事と考えられます。それは別の機会に取り上げることにします。


レビ記 22章

2024年04月18日 | レビ記
レビ記 22章
あなた方の神となるために、あなた方をエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である。
(22・33)


祭司職に関する命令が語られてきたのですが、この聖句は、その結びの言葉です。

これから長きにわたり代々この祭司職は受けつがれて行きます。伝統として受けつがれることは大切なことですが、一方で形骸化、形式化して行く危険性も持ち合わせています。

3節に「あなた方の代々の子孫のうち、だれでも…」と述べられていることからしても、その危険を先取りして、神はこの命令を語っておられることが分かります。

祭司職は職業ではない。自分の生活を保つための手段ではない。主である神がどういうお方であるかを語り、教え、あらわして行く使命なのです。この使命を忘れてしまうと、祭司職は形骸化して行きます。

祭司はレビ族の者でした。このレビ族は、約束の地に入ってのち、土地としての嗣業、つまり物質的な割り当ては与えられませんでした。彼らの嗣業は神への奉仕でした。

もちろん、私たちはこの地上にあって食べて行かなければなりません。仕事もします。お金も必要です。人間としての営みがあります。

しかし、忘れてはならないことがあります。22章で祭司たちに命じらているように、私たちの主は「私たちを罪の奴隷であるエジプトの地から導き出されたキリスト」であることです。いわば神の民のルーツです。これをしっかりと押さえておかないと、祭司職は単なる職業になってしまいます。職業ではなく嗣業であるべきです。

このルーツは、自分たちが約束の地である天国を目指して旅する者であるとを表明しています。私たちはこの地上にあっては旅人であり、寄留者であることを忘れてはなりません。

私たちの信仰の先達もそのように生き、あらわしてくれたのです。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」のです(ヘブル11・13)


レビ記 21章

2024年04月17日 | レビ記
レビ記 21章
垂幕に近づいてはならない。また祭壇に近寄ってはならない。身にきずがあるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしはそれを聖別する主である。
(21・23)


21章の前半は祭司についての規定です。神に仕えるべく祭司はきよく身を正していなければならないと命じられています(1~9)

そして後半は、大祭司についての規定です。その求められるきよさ、完全さは、祭司たちより厳しく求められています(10~24)※複数ある祭司たちの代表が大祭司であり、より重要な任務を負った。

大祭司は身に傷のない者でなければならないと規定されています。その「きず」とは、欠陥とか障害とも訳されており、骨折や病気などもない健康体の者でなければならない……と(21・18~21)。そういう者は聖なる場所に近づいてはならないと命じられているわけです。これは障害者差別だ、人権侵害だとクレームがつきそうな記録です。

そうではありません。律法で規定されている大祭司の条件は、やがて本当の大祭司としてこられるキリストの〝予型〟として描かれています。 ※〝予型〟とは形や出来事によって預言すること。

罪のゆるしを得るための「いけにえ」は、最高で完全ないけにえでなければなりません。何しろ、すべての民の罪を負うわけですから……。

まさに、イエスは、罪のない汚れのないいけにえとなってご自身をささげ、ご自身の血を携えて神の前に執り成しの祈りをする大祭司となられました。

イエス様は十字架にかかる前、律法学者らの質問攻めに遭いましたが、完璧に応えられました。また、裁判の席で数々の取り調べを受けるも、罪を見出すことができませんでした。つまり、全人類の罪を引き受けるに足る、〝傷のない〟いけにえであり、それをささげる大祭司であることを証明したわけです。このようなお方だからこそ、私たちは救われたのです。


レビ記 20章

2024年04月16日 | レビ記
レビ記 20章
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
(20・10)


再び姦淫等の罪について語られています。先の18章でも取り上げられましたが、この20章では罪に対する刑罰の規定です。

嬰児をモレクへのいけにえとする罪から始まり、占いなどの偶像礼拝の罪、種々の姦淫の罪などの結果はその者たちは必ず殺されなければならないという恐ろしい刑罰です。

それほどに神は、霊的姦淫である偶像礼拝と、肉体的姦淫を憎まれるのです。

イスラエルが入ろうとしているカナンの人々は、そのような罪に満ち溢れた人々でした。ですから、神は、彼らを憎むと言われ、彼らをそこから追い出し、彼らの悪しき風習に見習うなと言われるのです。

あなた方の前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなた方は歩んではならない。彼らは、この諸々のことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。(20・23)

さて、姦淫の現場で捕らえられ、イエス様の御前に引き出された婦人も同様でした。彼女を訴えた人々は、このレビ記の規定に従って、この女を石打ちの刑にて殺そうとしました(ヨハネ8・1~11)

かくして悪魔は、私たちの罪を律法に照らし合わせて「殺されなければならない」と訴え出るのです。

このレビ記を学ぶことで私たちは自分の罪をあらわにされ、胸がいたむことでしょう。恐ろしく感じるでしょう。平安な心でレビ記を読むことのできる人はひとりもいません。大なり小なり殺されなければならないという訴えが心の片隅に響くのです

しかし、イエス様は何といわれましたか。

「罪のない者がこの女に石を投げつけるがよい」と。すると、だれも投げつけることはできませんでした。そうです。あなたを責める人はいないのです。私たちを訴える者は、もういないのです。

イエス様は私もあなたを罰しない。もう罪をおかさないようにと宣言なさって、彼女の罪をおゆるしになりました。なぜなら、その罪の結果である死を、イエスは十字架で負われたからです。

たとえ悪魔が訴え出ようとも、神は私たちを義とされるのです。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのであるとある通りです(ローマ8・33)

神は「殺されなければならない」私をゆるし、義としてくださいました。これが新約の恵みです。だから、イエスが彼女に言われたように「今後はもう罪をおかさないように」と語りかけられています。


レビ記 19章

2024年04月15日 | レビ記
レビ記 19章
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である
(19・18)


主イエス様は律法を「ふたつの命令」に要約なさいました。ひとつは、心を尽くして神を愛することです。レビ記では神へのささげ物を通して、神を愛する道を示しています。

そして、もうひとつは、今日の19章にあるように、自分を愛するように隣人を愛することです。律法は窮屈な教えではありません。目指す所はです。神を愛し、隣人を愛する愛です。

この愛は、聖なる神のご性質です。19章に示された愛のすがたを、7つのポイントにまとめてみました。

(1)弱者への配慮(19・9~10)

全部を収穫してはならない。落ち穂はそのままにしておけ。それは、貧しい人や寄留者のために残しておくべき恵みです。神はあわれみ深いお方で、弱い者や小さい者にも目をかけてくださいます。その心を私たちも隣人に対して持ちます。

(2)正しいさばき(15~16)

「さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を偏ってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない」。情によって正義を曲げてはならず、また、媚びて正義を曲げてもなりません。これも隣人を愛することです。

(3)正しく戒める(16~17)

他者の嫌な面や気にくわないこと、また失敗話などを人々に吹聴して回る人がいます。聖書は「民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない」と禁じています。

それは行商人が商品を売り歩くようにして、他者の悪口を売って歩く行為です。むしろ「心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない」と勧めています。「ねんごろにいさめる」。このさじ加減が難しいのです。でも、これが、自分を愛するように隣人を愛することです。

(4)結実をあせらない(23~25)

「あなた方が、かの地に入って、諸々の果物の木を植える時は、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは3年の間あなた方には、割礼のないものであって、食べてはならない」。

植物に「割礼」がないとは、まだ未成熟であることを意味しています。急いで収穫しようとしないで、4年目の収穫は神に献げ、5年目以降は自分の収穫とすると記されている。

私たちも神の者とされましたが、奉仕の実とか、御霊の実など、クリスチャンとしての収穫を焦ってはなりません。「桃栗3年、柿8年」というではありませんか。愛するとは、あせらないことです。

(5)占いをしてはならない(26)

雑誌でもTVでも、占いコーナーが盛況です。人々は未来を知りたいのです。しかし、未来を知ることは、果たして有益なのでしょうか。自分を愛することになるのでしょうか。

神は何といわれますか。「わたしがあなた方に対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29・11)

そうです。神は希望の計画をお持ちです。神の御言を信頼すべきです。目先の現実は失望のように見えても、神は「希望を与える計画だ」と言われるのですから、このお方に信頼することこそ有益な生き方です。

(6)体を大切にする(27~31)

「死人のために身を傷つけてはならない」「入れ墨をしてはならない」「娘に売春させてはならない」「占い師と関わりを持ってはならない」等々。これらを総じて「わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である」と言われます。

新約の聖所とは、私たちの体です。聖霊の宮である私の体に入れ墨をしたり、汚れたことに肉体を使ってはならないのです。それが、正しく愛することです。

(7)不正な富を得ない(35~36)

「物差し」「はかり」「升」「てんびん」は、物事を計量する尺度です。正しい計量で取引をするようにと命じられています。つまり、不正のはかりで、不正の富を得てはならないのです。

不正の富はやがて失う富です。不正の富は魅力的ですが、私を裏切る主人です。神と富と両方を主人とすることはできないと言われたイエス様の御言に従うべきです。

不正の富を受け取らず、まことの主人である神に仕える生き方は、正しく愛する姿です。

以上のように自分を正しく愛し、隣人を愛することが、法律の目指すところです。


レビ記 18章

2024年04月13日 | レビ記
レビ記 18章
あなた方の住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。また、わたしがあなた方を導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。
(18・3)


かつてはイスラエルの民はエジプトの奴隷でしたが、今では神の聖なる民とされました。過越しの小羊のいのちをもって、神が買い戻されたのです。  ※この「買い戻すこと」を「贖う」という。

ですから、もはやイスラエルの民はエジプトに属する者ではありません。

だからエジプトの習慣に見習ってはならないと主は言われます。神の民としての新しい習慣、新しい価値観、新しい生き方があるのです。それは、新約の私たちにとっても同じです。

かつての奴隷の地エジプト。これから後に入ろうとするカナンの地。そこは先住民によって、神の忌み嫌われる習慣が満ちていました。その習慣とは性的悪習慣です。

神は「性」を「聖」なるものと定められました。性の乱れは、聖の乱れと表裏一体です。

人はまことの神である主だけを礼拝すべきであって、主以外のものを礼拝することは霊的な姦淫です。それを教えるために、神は、人が妻以外(夫以外)の者と関係を結ぶことを禁じられました。

それは姦淫であって夫婦の関係を破壊するように、霊的姦淫である偶像礼拝は、まことの神との交わりを汚し、破壊するものです。つまり、偶像礼拝の禁止と姦淫の禁止とは表裏一体です。

18章で述べられている近親相姦とか獣姦は、エジプトでも、これから入るカナンの地でも日常茶飯事でした。神は、このような悪習慣を見習ってはならないと厳しく戒めておられます。

その中でモレクへ子をささげてはならないとあるのは、唐突なようですが、実は深い関連があるのです。こう記されています。

あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である(18・21 新改訳)

近親相姦によって沢山の望まれない嬰児が生まれることになります。そこで、その嬰児を、モレク神へのいけにえとして火に焼いたのです。性欲の実を、「モレク神への献げ物だと神秘化してごまかしているだけです何とおぞましいことでしょう。

これは昔の話でしょうか。いいえ、今も性の堕落によって身ごもった胎児を、まるでモレクへのいけにえのようにして中絶している現実があります。日本だけでも年間、約16万人以上のいのちが奪われています。1日あたり450人です。

昔も今も、神の聖なることを汚す者は、性を汚し、生を侮るのです。

そのような人々はこれらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すと神は言われるのです(18・24~25)

私たちは神に属する者です。天国々籍の者たちです。この世の悪習慣に見習ってはなりません。性においても、生においても、聖なる者であるようにと地に遣わされている者です。


レビ記 17章

2024年04月12日 | レビ記
レビ記 17章
すべて肉のいのちは、その血とひとつだからである。
(17・14)


17章の前半では、一般の食用としての動物を屠殺する場合、勝手にやってはならないことが規定されています。その動物を幕屋に持ってきて、酬恩祭(和解のいけにえ)として一部分を神にささげ、残りを自分たちの食用にせよと言われるのです。

食用で屠殺するのですから、各家庭でやればよいのに、面倒にも思われます。しかし、ここには神の民に対する配慮があるのです。それは彼らが慕って姦淫をおこなった淫らな神に、再び犠牲をささげてはならないからです(17・7)

この「みだらな神」とはヤギの偶像」「ヤギの魔神とも訳されているように、この時代に流行っていた偶像であり、イスラエルがエジプトで奴隷であった時代に彼らも行っていたのです。動物を殺すことは、動物の祟りがないように祈るなど宗教的な儀式と深い関わりがありました。だから、「ヤギの魔神」崇拝へと展開する可能性がありました。ですから、そんな誘惑にあわないように、面倒ではあるが、主である神の前に持って来て屠殺するのです。

新約の私たちにも、イエス様を信じる以前から身に付いた悪しき習慣はないでしょうか。それは、自分で何とかしようとするのではなく、イエス様の前に持ち出すとよいのです。健全な方法で対処することで過ちから逃れることができます。

次に、17章の後半ではについて述べられています。血は食べてはならないという御言は、以前にも語られていました。ここでは、その理由が述べられています。

血はいのちそのものだからです。

私たちの体のいのちは、血によって保たれています。数分でも血流が止まったり、流血して血が不足するなら、私たちの肉体は死んでしまいます。まさに、血はいのちそのものです。

この血が流されるとは、いのちが献げられたことを意味します。〝生きているいのち〟を献げるとき血が流れます。しかし、死後に血流は止るので、体からは出血しません。まさに血はいのちです。

〝生きているいのち〟なので、他者にそのいのちを与えることができます。臓器移植は生きた臓器を移植しなければなりません。生体移植をするのはそのためです。ぎりぎりの選択肢として脳死状態で移植します。微妙な言い方ですが、その段階では臓器は生きているからです。

そのように、イエス・キリストは生きたいのちを十字架で献げ、私たちに与えてくださったので、私たちは生きることができるようになりました。イエス様が自然死した結果、そのいのちを受け取ったのではありません。

このように、血を流すとは、生きたいのちを与えることなのです。だから、そのいのちを尊ぶべきことを学ぶために、神は、血を食べてはならないと言われました。

そして遂に、永遠のいのちを与える神の血が流されました。この血に関しては、わたしの血はまことの飲物。この血を飲む者には永遠のいのちがあると主は言われました。

イエス・キリストの血だけは、飲んでも良いただひとつの血です。この方の血だけは、神が最後の最後まで取っておかれた神の恵みです。


レビ記 16章

2024年04月11日 | レビ記
レビ記 16章
アロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々の諸々の悪と、諸々のとが、すなわち、彼らの諸々の罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。
(16・21)


先にアロンのふたりの息子が、神の命じていない火を焚いたため、神に打たれていのちを落とした記事がありました(10章)。その後のことについて16章は述べています(16・1)

それは「垂れ幕の内なる聖所に勝手に入ることによって死ぬことがないようにするためだ」と言われています(16・2)。「垂れ幕の内なる聖所」とは至聖所のことです。

幕屋の中はふたつの部屋になっていました。手前が「聖所」で垂れ幕の奥が「至聖所」です。この至聖所には「契約の箱」が安置されており、契約の箱は「贖いのふた」で閉じられていました。 ※「贖いのふた」のことを、口語訳では「贖罪所」、新共同訳では「贖いの座」と翻訳。天使のケルビムがかたどられた「ふた」である。ここに民全体のための贖罪の血を注いだ。

この規定は、至聖所にむやみに入って死なないためだと記されているので、先に死んだアロンの息子たちは、異なる火をたずさえ、なおかつ、至聖所にまで入ったのかも知れません。

至聖所に入ることのできるのはアロンだけ、つまり大祭司だけです。しかも1年に1回、第7月10日に行われる「贖罪の日」だけです。 ※ユダヤ歴の第7月は現代の9~10月頃にあたる。

贖罪のためのいけにえは、先の4~5章でも見てきましたが、それは各自の自覚的な罪のためのいけにえでした。しかし、贖罪の日の場合は、民全体の罪のためです。自覚していない罪も含めて、すべての罪のための贖罪です。

この祭儀は、本物の大祭司であるイエス様によって完成しました。聖書はこう記しています。

キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠のあがないを全うされたのである(ヘブル9・11~12)※至聖所のこと。

アロンをはじめ歴代の大祭司は、地上に建造された幕屋(神殿)の至聖所に、いけにえの血を携えて入りました。

しかし、真の大祭司であるイエス様は本当のものの模型にすぎない、手で造った聖所に入らないで、上なる天に入り、今や私たちのために神の御前に出てくださったのである(ヘブル9・24)

さて、贖罪の日には従来のいけにえとは異なるものがあります。それはアザゼルのためのヤギです。2頭のヤギが定められており、1頭は民の罪のためのいけにえとして殺し、その血をたずさえて至聖所に入りました。

もう1頭のヤギはアザゼルためのヤギと呼ばれ、大祭司はこのヤギの頭に手をおき、民のすべての罪を告白し、その罪をこのヤギに背負わせるようにして荒野の遠くに解き放つのです。このヤギは戻ることなく、荒野で野獣の餌食となりました。 ※「アザゼル」がその野獣の名であるとか、荒野の地名であるとか諸説ある。

このようにして人々の罪は、遠くに追いやられたのだという神の宣言を表しました。神は、二度とその罪を思い出されないのです。東が西から遠いように、主は我らのとがを我らから遠ざけられるのです(詩103・12)

このことが私たちの主イエス・キリストによって成就しました。何という恵み。何という感謝。

私たちはすべての罪を、どんな罪であってもことごとくイエス様に告白し、悔い改めます。主は、その罪を二度と戻って来ないように遠くに追いやり、滅ぼしてしまわれます。


レビ記 15章

2024年04月10日 | レビ記
レビ記 15章
このようにしてあなた方は、イスラエルの人々を汚れから離さなければならない。
(15・31)


15章は男性であれ女性であれ、尿道とか性器等からの漏出とか出血についての規定です。何度もくり返されているのは、衣服と体を水で洗えとの命令です。

幕屋(神殿)で仕える祭司たちも、祭儀にあたっては水で身をきよめることが定められていたように、一般民衆にも水によるきよめは様々な場面で命じられていました。

この律法のおかげで、イスラエル民族はとても衛生的な生活を身に付けることになりました。病気の発症率も他民族から見れば少なかったはずです。 ※中世の欧州で大流行した黒死病ペスト)で多くの死者が出る中、ユダヤ人の罹患者が少なかったことは有名である。逆に、多民族からは、無事でいるユダヤ人が毒を流したと疑われ、ホロコースト(大虐殺)へと展開した。

この15章では生殖器を清潔に保つことで、性に対するきよさを保つことにつながりました。

レビ記のテーマは神が聖なるお方であるから、あなた方も聖なる民でなければならないということでした。「聖なる民」とは、罪のきよめというを意味しますが、肉体の清潔という」、性におけるという意味まで含まれています。

物理的な水は肉体をきよめます。肉体の清潔は健康のために重要です。しかし、内なる霊魂のきよめのための水も必要です。それは、神の御言です。

イエス様が来られた時代は、水によるきよめは形骸化し、その本質が見失われていました。それに対してイエスは、口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのであると言われました(マタイ15・11)

汚れの本質は人の内側にあることを指摘なさったのです。口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである(マタイ15・18)

旧約の人々は物理的な水による外面のきよめを学びました。しかし、新約の私たちは、体のきよめで終わらず、霊的な水である神の御言によって、内なる霊魂のきよめを学ばなければなりません。

御言による〝きよめ〟について、こんな話を教えてもらいました。ある祖父と孫の会話です。

「おじいちゃん、どうして毎日聖書を読んでいるの。おじいちゃんは物忘れも激しいし、何度読んだって忘れちゃうだろ。それじゃ、何の役にも立たないじゃないか?」。そう尋ねる孫におじいちゃんは、かたわらにあった木桶で近くの川から水を汲んでくるように言います。

でも、その木桶には穴が開いていて、孫がおじいちゃんのところに戻って来るまでに、せっかく汲んだ水がすべてこぼれてしまいました。それでも、おじいちゃんは孫にもう一度水を汲みにいくように言いましたが、結果は同じです。

「おじいちゃん、無駄だよ。だって穴があいているんだもん」。

でもおじいちゃんは言いました。「その木桶の中を見てごらん。一見無駄なように見えるけれど、何度も何度も水入れを繰り返すうちに木桶の中は綺麗になっていくんだよ。

聖書を読むことも同じなのだよ。おじいちゃんはもう年寄りで読む先から読んだことを忘れてしまうけれど、神様のお言葉を読むことによって少しずつ心が洗われているんだよ」。

こんなふうに、水によるきよめが、「朝マナ」に取りくむ皆さんのうちに実現しますように祈ります。


レビ記 14章

2024年04月09日 | レビ記
レビ記 14章
らい病人
ツァラトが清い者とされる時のおきては次のとおりである。(14・2)


引き続き、らい病(ツァラト)に関する規定です。ツァラトという重い皮膚病が改善した場合、彼を「きよい者だ」と診断する根拠と、いやされた感謝のささげ物について記されています。

ツァラトはイスラエルの人々から最も恐れられた病気だったことでしょう。民から隔離され、汚れた者として扱われるわけですから、こんな呪われた病気は他にありませんでした。

それほど罪人という病気は恐ろしいことを知らなければなりません。だれも癒すことができません。ただ、イエス・キリストだけが癒し、きよめることのできるお方です。

そういう意味で、新約の時代になって、イエス・キリストがらい病人ツァラトに手をおき、癒されたことは、新しい時代の到来を意味する象徴的な出来事と言えるでしょう。他の病気を癒される時は、病気の霊が出て行くようにと命じたり、黙って手をおいてお癒しになりましたが、ツァラトの場合は違いました。主イエス様はわたしの心だ、きよくなれとおっしゃって、お癒しになりました(マタイ8・3 新改訳)

そうです。この最も呪われた病気を癒すことは、神の御心なのです。人類を永遠の滅びへと追いやる罪人という病気を癒すことは、イエス様のお心なのです。私たちは、このお方を信頼して、罪をゆるされ、きよめていただけるのです。

ある時、イエス様は10人のツァラト患者に出会い、彼らに「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と命じられました。半信半疑で行く途中、10人の者たちは癒されたことを知りました。しかし、その癒しに感謝して戻ってきたのはひとりだけでした。しかも、ユダヤ人から不信仰者だと軽んじられていたサマリヤ人でした。感謝を忘れてはなりません。

私たちがいかに大きな罪を癒され、きよめられたかを知れば知るほど、私たちのイエス様に対する感謝はあふれてきます。


レビ記 13章

2024年04月08日 | レビ記
レビ記 13章
患部のあるらい病人
ツァラトは、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。(13・45)


第13~14章にかけて、らい病に関する規定が記されています。「らい病」と訳されているのは「ツァラト」という語句ですが、最新の研究では、らい病ではなく、何らかの皮膚病であったとされています。何の病気なのかは不明です。そんなわけで、新共同訳では「重い皮膚病」と翻訳し、新改訳では原語のまま「ツァラト」と音訳しています。

このツァラトが発病した者は「汚れた者」とされ、大いに嘆くことになりました。ツァラトは人々に感染し、大きな被害をもたらすことになったのだろうと思われます。そのため、イスラエル居住区の外に住まなければなりませんでした。

神は、イスラエルの民をひとつのモデルとして用いられました。救いや祝福のモデルとして用いられることもあれば、逆に、さばきや滅びのモデルとしても用いられました。

神は、このツァラトという重い皮膚病を通して、私たちの罪の問題の象徴として現されたのではないかと考えます。

ツァラトと診断されるには、慎重に厳密に検査するようにと命じられています。ですから、兆候があれば、服を焼くとか、水浴びをするとか、様々な手立てをなしたことでしょう。

罪についていえば、注意深くあるようにという意味です。小さな罪の段階で対処すべきです。

ある教育者が、少年の万引きについて語っていました。万引きは罪です。でも、金額が百円程度のものなので、注意をするだけで済ませたり、親が代金を払って済ませたりすると問題の根は残ります。小さな罪だからといって軽く見ないで、少年を捕らえ、警察にも引き渡し、親にも知らせ、ことの重大さを分からせる必要があると教えていました。自分は大変なことをしたんだという認識が、さらに大きな犯罪を抑止することになるからです。

しかし、それを軽く扱うと、その罪はエスカレートしてしまいます。

ツァラトも最初は些細な斑点であったり、腫れなのですが、それを放置して遂にツァラトと診断され、彼は人々から引き離されなければなりませんでした。

小さな罪であっても、それはパン種のようにパン全体に影響を及ぼし、大きくふくらんでしまいます。パン種のうちに取り除くことは、私たちが聖なる者として生きるために重要なことです。