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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ピリピ人への手紙 4章

2022年07月02日 | ピリピ書
ピリピ書 4章
あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。くり返して言うが、喜びなさい。
(4・4)


ピリピ人への手紙は最後まで喜びなさいと勧めています。パウロは、あえて意図的に「喜びなさい」とくり返しています。なぜなら、喜ぶことは、私たちにとって安全なことだからです。 ※「悲しみ」「涙」「憎しみ」などの感情を否定しているのではない。思いの丈を神に申し上げよう。ありのままを申し上げよう。それらを慈しんで受け止めてくださるので「喜ぶ」のである。

先の3章でこう記しています。主にあって喜びなさい。先に書いたのと同じことをここでくり返すが、それは、私には煩わしいことではなく、あなた方には安全なことになる。(3・1)

危険なとき、安全な場所に避難する必要があります。航海中の船は嵐に遭ったら港に避難します。それと同じように、主にあって喜ぶことは、人生の危機から脱する避難所です。

急で長い下り道には、所々に「緊急避難帯」が用意されています。道から枝分かれするようにして、緩やかな10メーターほどの上り坂が設けられています。柔らかい盛り土で凸凹(デコボコ)がつくられていて、終点にはクッションで止まるようになっています。

ブレーキの利かなくなった自動車が緊急避難するための場所です。カーブを曲がりきれずに谷に転落するよりは、多少のダメージを覚悟でそこに飛び込めば助かります。

「喜びなさい」という命令は、この緊急避難帯に逃げ込むようにして、とにかく喜ぶことです。

えっ~!!、こんな状況でも喜べって言うんですか。そうです。泣きっ面に蜂のような状況でも、イエス・キリストにあって喜ぶことは、私たちにとって安全なことなのです。

過剰な思いわずらい、激しい怒り、根深い憎しみやうらみ等は、私の中に暗闇を増殖させます。それを続けていると、段々とブレーキが利かなくなって暴走し始めます。そして、ついにカーブを曲がりきれずに転落です。

そんなことにならない前に、主にあって喜びなさい。それは勇気を出して飛び込むべき避難所です。

喜び。それは主にあってと記されているように、この世が与える喜びではありません。それは、すでに1~3章で申し上げてきました。

感情的な喜びだけが喜びだという思い込みから解放されましょう。また、「喜びなさい」と命じているので、無理矢理に作り笑いをしようとしても、顔が引きつるだけです。 ※「喜び」と「楽しみ」は違う。楽しみは外側からの刺激。喜びは内側からくるもの。

問題は私のです。心で ――理性と感情の領域で―― 悲しんでいたとしても、救われた私の霊は、神の圧倒的な勝利を知っています。神の恵みの深さ、神の愛の強さを知っているのは私の霊です。 ※人の心の深みは「霊」の他だれが知り得ようか(Ⅰコリ2・11)。人の霊は神の御霊との交わりの中で、人の感情や理性では知ることのできない領域を悟る。

感情の領域では落ち込んでいるけれど、私の霊の領域では主にあって喜んでいるという状態はあり得るのです。もちろん、両方が喜べれば最高ですが……。

私が牧師として召される前のことです。人生で最悪の状況でした。周囲からの誤解と偏見。針のむしろに座らされているような環境で、私は苦しんでいました。ため息ばかりの日々でした。

そんな夜、私は眠っていましたが寝言を言っていたようです。妻が起きてそれを聞いていました。寝言は明瞭な言葉で「私は勝利した」と叫んでいたというのです。朝起きてこのことを妻から聞いて私は分かりました。私の深いところでは、勝利を先取りして喜んでいるのだ……と。

つまり、外なる人の感覚と内なる人である霊の感覚は違うことを申し上げたいのです。私は外なる人の感覚に支配されすぎていました。内なる霊が感じ取っている勝利に目を向けるべきでした。

同様に、本当の喜びは私の霊が知っています。私の霊は、主にあって喜んでいるのです。でも、それを私の肉なる感情がひがんだり、だだをこねていて、すでに霊が知っている喜びに目を向けさせないことがあります。

これが誰にも当てはまることなのか、私には分かりません。でも、私はそのような経験をします。だから霊によって祈って、私の霊の思いや感覚が、感情の領域を満たすように祈ります。主にあって喜ぼう。

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ピリピ人への手紙 3章

2022年07月01日 | ピリピ書

ピリピ書 3章
私たちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストの来られるのを、私たちは待ち望んでいる。
(3・20)


ピリピ人への手紙では、いかなる境遇の中でも喜んでいるパウロの姿が記されていますが、同様にピリピ教会の兄姉にも喜ぶようにと命じています(3・1)。そのように命じるのは、律法主義者たちが影響力を及ぼしているからです(2)

律法主義者たちの喜びの根拠は肉なる誇りです。割礼という肉体のしるしであり、律法による肉の行いです(3)。その点ではパウロも劣ってはいません(4~6)。でも、イエス・キリストを知り、そのお方によって義とされる恵みを知った今は、肉なる誇りなど糞土のごとくに思うようになりました(7~9)

それほど、キリストにある救いの恵みは大きいからです。

でも一見すると、律法主義者たちの方が外見上は立派だし、救いに近いように見えます。何しろ行いが最優先ですから……。反面、恵みによって救われた者は「ありのままで救われるのだ」と主張し、何もしないように見えます。恵みに甘んじているだけなのか。

それに対するパウロの説明です。もちろん、救われたと言えども完成したのではありません。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」
(12) ※「完全な者」とは「救いが完成した状態」のこと。キリストの救いは〝完全〟であるが、いまは栄光の復活という〝完成〟に向けて走っているのだ。


見た目だけの行いで「救いが完成したか否か」を判断するのは早計です。救いの完成を早々に確信したいがために、律法主義に走ってはなりません。復活による救いの完成に向かって、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」のです(13~14)

キリストの救いはすでに決まっています。なのに、律法の行いで補強したり交換しようとして、十字架に敵対して歩む人々が何と多いことか(18)

さあ、明確になったでしょうか。パウロが命令する喜びの根拠は、私たちが目指すところの復活にあるからです。だから喜ぶのです。

この信仰を受けた者の国籍は天にあります。イエスを信じた人は新しく生まれた人です。昔は死んでいた者でしたが、イエスにあって、内なる人が新しく生まれた人です。

私が日本人であるのは、日本で生まれたからです。それと同じように、私の内なる人は、イエスによって天で生まれたので、天に国籍があります。これが私たちのアイデンティティーです。

日本国籍の人は日本語を話し、日本の習慣にならい、日本人としての水準で生きます。それと同じように、天に国籍のある人は神の国の国民ですから、神の御言を学び語ります。聖書の御言を愛します。

海外を旅行すると、当たり前ですが周りはみな外国語です。そんな環境で日本語が聞こえてくると嬉しくなります。何かホッとします。自分が日本人であることを実感するひとときです。そのように、私たちが地上にいる間も神の御言を聞くとホッとします。神の御言を慕います。

また、私たちは天国籍の民ですから、神の国の習慣を守ります。主日の礼拝を愛して守ります。神の国の水準で生きます。このような生き方が、天に国籍のある者としての誇りであり、喜びなのです。

各国によって価値観が違うように、地上の国の価値観と神の国の価値観が違います。以前のパウロは地上の価値観で喜んでいました。誇り高きヘブル民族、ベニヤミン族の出身。また、タルソの大学の出身です。最高の知識人です。それが地上に国籍があるパウロの価値観でした。

でも、イエスに出会ってその価値観が完全に変わりました。地上的には価値あるとされるものも、今では糞土のように思っていると告白しました(3・7~8)

私たちが地上のものに価値をおいて生きるなら、その価値の変動によって一喜一憂します。株の値段が上がったら喜び、下がったら落胆します。一事が万事、そのような価値観だから喜びも上下します。

変動する価値を根拠に喜ぼうとするので、その喜びは不安定です。しかし、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わりません。この変動しないキリストの愛が、私たちが喜ぶ根拠です。

こうして、天に国籍のある者の喜びが最高潮に達します。それは天国に帰る時です。

私の肉体の生まれ故郷は京都の丹後です。何もない田舎ですが帰郷すると感動があります。そこには今も変わらない山や川、今も変わらずに愛してくれる父母が待っているからです。

ましてや、私の内なる人の生まれ故郷である天に帰る日の喜びは、いかに大きいことでしょうか。そこでは主イエスが、今も変わらない愛で、私たちの帰還を待っておられます。

ただし、天に帰還する時に通過しなければならない道があります。それが「死」です。死は天国へ入るための門です。この門をくぐれば復活があります。

かたや地獄への門もあります。その門は広くて、入りやすいです。主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われました。その狭い門とは、イエスを信じるという信仰の門です。イエスを信じて古い自分を葬るという死の門です。

人は古い自分に固執します。それを葬りたくないのです。ですから、時には困難に直面することも益です。何故なら、困難を通して古い価値観が死んで、新しい価値観に目覚めることになるからです。こうして、古い自分をイエスと共に十字架で葬って、そしてついに地上人生の最期で、肉体も死の門を通って天国に入ります。つまり、キリストの死と同じ状態になるのです(3・10)。だから、復活もキリストと同じ状態になります。その復活を目指して走るのです(14)

その復活はいつ実現するのでしょうか。冒頭の聖句は天から救い主イエス・キリストが迎えに来られると言っています(20)。そして、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じかたちに変えて下さるのです(21)。この日の約束があるので、私たちの喜びは消えません。

外なる人は悲しみをおぼえたり、ふさぎ込んだとしても、神の御言をかたく握っている私の霊は喜んでいます。感謝です。

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ピリピ人への手紙 2章

2022年06月30日 | ピリピ書

ピリピ書 2章
それは、あなた方が、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
(2・15~16)


先の1章では、私たちに与えられた救いは神の御業であって、だからこそ救いの完成に向かって確実に進められていることを見ました。だから、私たちは喜びます。たとえキリストのために苦しむことがあっても喜びます。

救いの御業を始められたキリストご自身も、この御業が完成するためにしもべの姿になられ、十字架の死に至るまで従順になられました。謙遜と従順の道です。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(2・6~8)

まず始めに、イエス・キリストご自身が「謙遜と従順の道」を歩まれました。それは、キリストに従う者も歩む道です。父が子供に見本を見せてくれるように、また、兄が弟たちのお手本になってくれるように、神は人となって、人の歩むべき姿を見せてくださいました。人間としての本来の姿とは何かを見せてくださいました。それは謙遜と従順の道です。

謙遜とはどんな生き方でしょうか。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさいという生き方です(2・3)。また、おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいです(4)。このような生き方は、イエス・キリストの内にも見られることです(5)※新改訳・新共同訳を参照。

つまり、謙遜とはキリストの生き方そのものなのです。だから、私たちもそうするのです。でも、肉なる自分は主張します。「ずっと謙(へりくだ)りっぱなしですか?」。肉なる自分は、これくらい謙ったから、そろそろ頭をもたげても良いのではと思うのです。

でもキリストはしもべの姿をとられた。そして、十字架の死に至るまでしもべとなられました。ご自分では高くあろうとはなさいませんでした。だから〝神が〟キリストを高く上げられました。

それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜(たま)わったのです(9)。ここに本当の謙遜を見ます。

こうして、私たちもキリストのように謙遜と従順の道を歩みます。その従順はキリストがそうであられたように、死に至るまでの従順です。

では、従順とはどういう生き方でしょうか。聖書は「従順であるように」と勧めています(2・12)。その第一は、内なる聖霊に対する従順です。聖霊なる神は、私の内に思いを起こさせ、かつ実現に至らせます(2・13)。「思い浮かぶことは何でも神からの思いだ」というのは極端ですが、でもあまり臆病にならないで、私の内に聖霊の思いが満たされますようにと祈って、その思いに従順することです。

日々の生活は大小の決断の連続です。事細かに、これは神の御心だろうかと祈る余裕もなく判断しています。それで良いのだと思います。だからこそ、私の思いが聖霊によって満たされるように祈るのです。「直感をきよめてください」と祈るのです。

神の圧倒的な御手の中にあることを信頼しよう。私があれこれと思案する以上に、神のご計画は、はるかに大きくて、緻密で、絶妙であることを信頼しよう。

神の御心は何か……と神経質になりすぎて、スケールの小さいクリスチャンになってしまわないようにしたいものです。先取りの喜びをもって、大胆に進もうではありませんか。

従順の二番目は、つぶやかず、疑わないこと(14)。新共同訳では、「不平や理屈を言わずに」と訳しています。つぶやきや疑いは、喜びと反比例します。

神は、私たちにすばらしい計画をお持ちです。私たちの神への従順がもたらす実は、曲がった邪悪な時代の中で、私たちが光となることです(15~16)

この地は曲がった邪悪な世界だと御言は告げます。つまり、霊的には闇の世界です。本当の光が必要です。だから、神はご自分の栄光を、地上に輝かせようとなさいます。闇の中で光を見つけたら、それはどんなにか勇気や希望を得ることでしょう。

はじめに神は、イエス・キリストを通してその輝きを照らしてくださいました。今度は、イエスを信じた私たちに栄光をあらわして、この世を照らす光となさるのです。

神が、私たちを通してあらわそうとなさる栄光の輝きは、世の栄光とは質が違って、見た目には華々しくありません。従順と謙遜によって導き出される神の輝きは地味な輝き※」です。でも、それは暖かな輝きです。小さくても決して消えない確かな輝きです。私たちはそのような存在です。自分の力で輝いても限界があります。ただ、主に対する謙遜と従順によって輝かせていただくだけです。 ※人の目に「地味」と見えるだけだ。神の視点を忘れてはならない。

最後に、命の言葉をしっかりにぎって(16)と記してあることに注目しましょう。どうぞ、今日の御言をしっかり握って、今日を歩むことができますように祈ります。

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ピリピ人への手紙 1章

2022年06月29日 | ピリピ書
ピリピ書 1章
あな方たのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している。
(1・6)


本書はパウロが牢獄につながれている時、ピリピ教会へ当てた手紙です。ピリピの町はギリシャの北方に位置しており、パウロがヨーロッパに足を踏み入れて最初に誕生した教会でした。

ピリピ教会は、パウロのヨーロッパ伝道を終始援助した教会でした。パウロが投獄されたとの知らせを聞き、ピリピ教会はエパフロデトを派遣して、パウロに援助の手を差し伸べたのです。

ところが、そのエパフロデトが重い病にかかってしまい、パウロの投獄に加え、エパフロデトの病も不安をつのらせる要因になりました(2・25~30)

そんな状況の中にあったのですが、パウロの手紙は喜びにあふれています。支援への感謝と共に、どんな事態にあっても喜んでいることを手紙にしたためたのです。本書は別名喜びの手紙と呼ばれるのですが、私はそれに加えてポジティブの手紙とも呼びたいと思います。

パウロは投獄されながらも喜びました。なぜなら、投獄の最中でも、兵営の人々に福音を語ることができたからです(1・12)。実にポジティブです。

投獄を機会に、パウロを窮地に追いやろうと画策するクリスチャンもいましたが、それも喜びました。肉的な動機からでも、結局は福音が伝えられているので喜びました(1・18)。これもまたポジティブです。

また、パウロは生きるのも死ぬのも益だと告白しました(1・20~26)。死ねばキリストの御許(みもと)に召されるのだから感謝。生きていれば、福音のためにさらに働くことができるので感謝。どちらにしても喜びました。これもまたポジティブです。

さらに、イエスを信じるとは、救いの恵みを受けるのですが、キリストのための苦労も受けるのだと告白しました(1・27~30)。キリストのための苦労なので喜ぶのだと言うのです。更にこれもまたポジティブです。

いかなる環境でも喜ぶことのできる「ポジティブな生き方」はどこから来るのでしょうか。

今日の聖句は、救いは神によって始められたと述べています。そして、その救いは神によって完成されるのです。神は私たちの救いに取りかかったものの、途中で放り投げてしまわれる神ではありません。

私たちの神は「始めであり終わりである」お方です。「α(アルファ)でありΩ(オメガ)である」お方です。始めから終わりまで責任をお持ちなのです。

終始一貫して、私たちの救いを扱ってくださっています。このことを知らないと、環境が悪くなると確信が揺らいで行きます。環境のアップダウンによって救われているような、いないような不安定な心になってしまいます。

私たちの行いが良くても悪くても、私の心はそのことで揺れるかも知れませんが、イエスの十字架の血の値打ちは微動だにしません。

イエス様が私たちに与えた契約は、王の契約とよばれるものです。王の契約とは、王の責任で成し遂げられる契約のことです。このことは、旧約聖書の出来事からひもとく必要があります。

創世記15章には、神がアブラハムと結ばれた契約が記録されています。神がアブラハムとその子孫を祝福されるという契約です。神はアブラハムに、牛や羊などの生贄(いけにえ)を用意するように命じられました。そして、彼は生贄をふたつに引き裂きました(創15・7~10)。これは当時の契約の方式でした。

生贄をふたつに裂くのは、それが命がけの契約であることを意味しています。契約の当事者である双方が、引き裂かれた生贄の間を通過して、契約を誓い合うのがならわしでした。

ところが、神がアブラハムと契約を結ばれた時は状況が違っていました。〝神だけが〟引き裂いた生贄の間を通り過ぎられたのです(創15・17)

これは何を意味するのでしょうか。契約の責任は神が一方的に負われるという意味です。このように、上位の立場の者が一方的な責任で結ぶ契約を王の契約と呼びます。イエス様が私たちと結ばれた契約もまたこの王の契約です。

一方的かつ圧倒的な神の恵みの中で結ばれた契約を、私たちは受けています。これを信頼するのです。

現実ばかりを見ていると、現実の方が大きく見えてしまいます。そして、神の救いの約束が小さく見えてしまいます。しかし、現実はどんなに大きく見えても、イエスが結んでくださった契約は、小さくなるわけではありません。

この圧倒的な恩寵(おんちょう)ゆえに、私たちはいかなる状況の中でも喜ぶことができます。勝利を先取りしているようなものです。完成を先取りしているようなものです。

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ピリピ人への手紙4章

2020年09月04日 | ピリピ書
ピリピ4:4 あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。くり返して言うが、喜びなさい。

ピリピ人への手紙は最後まで「喜びなさい」と勧めています。パウロは、あえて意図的に「喜びなさい」とくり返しています。なぜなら、喜ぶことは、私たちにとって安全なことだからです。 ※「悲しみ」「涙」「憎しみ」などの感情を否定しているのではない。思いの丈を神に申し上げよう。ありのままを申し上げよう。それらを慈しみをもって受け止めてくださるので「喜ぶ」のである。

先の3章でこう記しています。主にあって喜びなさい。先に書いたのと同じことをここでくり返すが、それは、私には煩わしいことではなく、あなた方には安全なことになる。3:1)

危険なとき、安全な場所に避難する必要があります。航海中の船は嵐に遭ったら港に避難します。それと同じように、主にあって喜ぶことは、人生の危機から脱する避難所です。

急で長い下り道には、所々に緊急避難帯が用意されています。道から枝分かれするようにして、緩やかな10メーターほどの上り坂が設けられています。柔らかい盛り土で凹凸がつくられていて、終点にはクッションで止まるようになっています。

ブレーキの利かなくなった自動車が緊急避難するための場所です。カーブを曲がりきれずに谷に転落するよりは、多少のダメージを覚悟でそこに飛び込めば助かります。

「喜びなさい」という命令は、この緊急避難帯に逃げ込むようにして、とにかく喜ぶことです。

えっ~!、こんな状況でも喜べって言うんですか?。そうです。泣きっ面に蜂のような状況でも、イエス・キリストにあって喜ぶことは、私たちにとって安全なことです。

過剰な思いわずらい、激しい怒り、根深い憎しみやうらみ等は、私の中に暗闇を増殖させます。それを続けていると、段々とブレーキが利かなくなって暴走し始めます。そして、ついにカーブを曲がりきれずに転落です。

そんなことにならない前に、主にあって喜びなさい。それは、私が勇気を出して飛び込むべき避難所です。

喜び。それは「主にあって」と記されているように、この世が与える喜びではありません。それはすでに1~3章で申し上げてきました。

感情的な喜びだけが喜びだという思いこみから解放されましょう。また、「喜びなさい」と命じているので、無理矢理に作り笑いをしようとしても、顔が引きつっているだけです。 ※喜びと楽しみは違う。楽しみは外側からの刺激。喜びは内側からくるもの。
 
問題は私のです。心で……理性と感情の領域で……悲しんでいたとしても、救われた私の霊は、神の圧倒的な勝利を知っています。神の恵みの深さ、神の愛の強さを知っているのは、私の「霊」です。

感情の領域では落ち込んでいるけれど、私の霊の領域では主にあって喜んでいるという状態はあり得るのです。もちろん、両方が喜べれば最高ですが……。
 
私が牧師として召される前のことです。人生で最悪の状況でした。周囲からの誤解と偏見。針のむしろに座らされているような環境で、私は苦しんでいました。ため息ばかりの日々でした。
 
そんな夜、私は眠っていましたが寝言を言っていたようです。妻が起きてそれを聞いていました。寝言は明瞭な言葉で「私は勝利した」と叫んでいたというのです。朝起きてこのことを妻から聞いて私は分かりました。私の深いところでは、勝利を先取りして喜んでいるのだ……と。
 
つまり、外なる人の感覚と内なる人である例の感覚は違うことを申し上げたいのです。私は外なる人の感覚に支配されすぎていました。内なる霊が感じ取っている勝利に目を向けるべきでした。

同様に、本当の喜びは私の霊が知っています。私の霊は、主にあって喜んでいるのです。でも、それを私の肉なる感情がひがんだり、だだをこねていて、すでに霊が知っている喜びに目を向けさせないということがあります。

これが誰にも当てはまることなのか、私には分かりません。でも、私はそのような経験をします。だから霊によって祈って、私の霊の思いが、感情の領域を満たすように祈ります。主にあって喜びましょう。(Ω)

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ピリピ人への手紙3章

2020年09月03日 | ピリピ書
ピリピ3:20 私たちの国籍は天にある。そこから、救い主、主イエス・キリストの来られるのを、私たちは待ち望んでいる。

ピリピ人への手紙では、いかなる境遇の中でも喜んでいるパウロの姿が記されていますが、同様にピリピ教会の兄姉にも喜ぶようにと命じています(3:1)。そのように命じるのは、律法主義者たちが影響力を及ぼしているからです(2)。
 
律法主義者たちの喜びの根拠は肉なる誇りです。割礼という肉体のしるしであり、律法による肉の行いです(3)。その点ではパウロも劣ってはいません(4-6)。でも、イエス・キリストを知り、そのお方によって義とされる恵みを知った今は、肉なる誇りなど糞土の如くに思うようになりました(7-9)。
 
それほど、キリストにある救いの恵みは大きいからです。
 
でも一見すると、律法主義者たちの方が外見上は立派だし救いに近いように見えます。何しろ行いが最優先ですから……。反面、恵みによって救われた者は「ありのままで救われるのだ」と主張し、何もしないように見える。恵みに甘んじているだけなのか。
 
それに対するパウロの説明です。もちろん、救われたと言えども完成したのではない。
 
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(12) ※「完全な者」とは「救いが完成した状態」のこと。キリストの救いは完全だ。いまは栄光の復活という完成に向けて走っているのだ。
 
見た目だけの肉なる行いで「救いが完成したか否か」を判断するのは早計です。救いの完成を早々に得たいがために、律法主義に走ってはならない。復活による救いの完成に向かって、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのです(13-14)。
 
キリストの救いはすでに決まっています。なのに、律法の行いで補強したり交換しようとして、十字架に敵対して歩む人々が何と多いことか(18)。
 
さあ、明確になったでしょうか。パウロが命令する喜びの根拠は、私たちが目指すところの復活にあるからです。だから喜ぶのです。
 
この信仰を受けた者の国籍は天にあります。イエスを信じた人は新しく生まれた人です。昔は死んでいた者でしたが、イエスにあって、内なる人が新しく生まれた人です。

私が日本人であるのは、日本で生まれたからです。それと同じように、私の内なる人は、イエスによって天で生まれたので、天に国籍があります。これが私たちのアイデンティティーです。

日本国籍の人は日本語を話し、日本の習慣にならい、日本人としての水準で生きます。それと同じように、天に国籍のある人は神の国の国民ですから、神の御言を学び語ります。聖書の御言を愛します。

海外を旅行すると、当たり前ですが周りはみな外国語です。そんな中で日本語が聞こえてくると嬉しくなります。何かホッとします。自分が日本人であることを実感するひとときです。

そのように、私たちが地上にいる間も神の御言を聞くとホッとします。神の御言を慕います。

また、私たちは天に国籍の民すから、神の国の習慣を守ります。主日の礼拝を愛して守ります。神の国の水準で生きます。このような生き方が、天に国籍のある者として誇りであり、喜びなのです。

各国によって価値観が違うように、地上の国の価値観と神の国の価値観とが違います。
 
以前のパウロは地上の価値観で喜んでいました。誇り高きヘブル民族、ベニヤミン族の出身。また、タルソの大学の出身です。最高の知識人です。それが地上に国籍がある人の価値観です。

でも、イエス様に出会ってその価値観がまったく変わりました。地上的には価値あるとされるものも、今では糞土のように思っていると告白しました(3:7-8)。

私たちが地上の何かに価値をおいて生きるなら、その価値の変動によって一喜一憂します。株の値段が上がったら喜び、下がったら落胆します。一事が万事、そのような価値観だから喜びもアップダウンします。

変動する価値を根拠に喜ぼうとするので、その喜びは不安定です。しかし、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。イエスの私に対する愛も変わりません。

天に国籍のある者の喜びの最高潮は天国に帰ることです。

私の肉体の生まれ故郷は京都の丹後です。何もない田舎ですが帰郷すると感動があります。そこには今も変わらない山や川、今も変わらずに愛してくれる父母が待っているからです。

ましてや、私の内なる人の生まれ故郷である天に帰る日の喜びは、いかに大きいことでしょうか。そこでは主イエスが、今も変わらない愛で、私たちの帰還を待っておられます。

ただし、天に帰還する時に通過しなければならない道があります。それが「死」です。死は天国へ入るための門です。この門をくぐれば復活があります。

地獄への門もあります。その門は広くて、入りやすいです。主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われました。その狭い門とは、イエスを信じるという信仰の門です。イエスを信じて古い自分を葬るという死の門です。

人は古い自分に固執します。それを葬りたくないのです。ですから、時には困難に直面することも益です。困難を通して、古い価値観が死んで行きます。そして、新しい価値観に目覚めます。

こうして、古い自分をイエスと共に十字架で葬って、そしてついに人生の最期で、肉体も死の門を通って天国に入ります。

このようにして、神が用意された死の門をくぐると、栄光の復活があります。聖書は、この復活を目指して今を歩んでいると言っています(3:10-14)。

その復活はいつ実現するのでしょうか。今日の御言は天から救い主イエス・キリストが迎えに来られると言っています(3:20)。この日の約束があるので、私たちの喜びは消えません。

心は悲しみをおぼえたり、ふさぎ込んだとしても、神の御言をかたく握っている私の霊は喜んでいます。感謝です。(Ω)

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ピリピ人への手紙2章

2020年09月02日 | ピリピ書
ピリピ2:15-16 それは、あなた方が、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

先の1章では、私たちに与えられた救いは神の御業であって、だからこそ救いの完成に向かって確実に進められていることを見ました。だから私たちは喜びます。たとえキリストのために苦しむことがあっても喜びます。
 
救いの御業を始められたキリストご自身も、この御業が完成するために「しもべの姿」になられ、十字架の死に至るまで「従順」になられました。謙遜と従順の道です。
 
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(2:6-8)
 
まず始めに、イエス・キリストご自身が謙遜と従順の道を歩まれました。それは、キリストに従う私たちの道です。

父が子供に見本を見せてくれるように、また、兄が弟たちのお手本になってくれるように、神は人となって、人の歩むべき姿を見せてくださいました。人間としての本来の姿とは何かを見せてくださいました。

それは謙遜と従順の道です。
 
謙遜とはどんな生き方でしょうか。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさいという生き方です(2:3)。また、「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいです(4)。
 
このような生き方は、イエス・キリストの内にも見られることです(5)。※新改訳・新共同訳を参照。
 
つまり、謙遜とはキリストの生き方そのものなのです。だから、私たちもそうするのです。でも、肉なる自分は主張します。「ずっと謙りっぱなしですか」。肉なる自分は、これくらい謙ったから、そろそろ頭をもたげても良いのではと思うのです。
 
でもキリストは「しもべの姿」をとられた。そして、十字架の死に至るまでしもべとなられました。ご自分では高くあろうとはなさいませんでした。だから〝神が〟キリストを高く上げられました。
 
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わったのです(9)。ここに本当の謙遜を見ます。
 
こうして、私たちもキリストのように謙遜と従順の道を歩みます。その従順はキリストがそうであられたように、死に至るまでの従順です。
 
では、従順とはどういう生き方でしょうか。聖書は従順であるようにと勧めています(2:12)。その第一は、内なる聖霊に対する従順です。聖霊なる神は、私の内に思いを起こさせ、かつ実現に至らせます(2:13)。

「思い浮かぶことは何でも神からの思いだ」というのは言い過ぎですが、でもあまり臆病にならないで、私の内に聖霊の思いが満たされますようにと祈って、その思いに従順することです。
 
日々の生活は大小の決断の連続です。事細かに、これは神の御心だろうかと祈る余裕もなく判断しています。それで良いのだと思います。だからこそ、私の思いが聖霊によって満たされるように祈るのです。「直感をきよめてください」と祈るのです。

神の圧倒的な御手の中にあることを信頼しよう。私があれこれと思案する以上に、神のご計画は、はるかに大きくて、緻密で、絶妙であることを信頼しよう。

神の御心は何か……と神経質になりすぎて、スケールの小さいクリスチャンになってしまわないようにしたいものです。先取りの喜びをもって、大胆に進もうではありませんか。

従順の二番目は、「つぶやかず、疑わないこと」です(14)。新共同訳では、「不平や理屈を言わずに」と訳しています。つぶやきや疑いは、喜びと反比例します。

神は、私たちにすばらしい計画をお持ちです。私たちの神への従順がもたらす実は、曲がった邪悪な時代の中で、私たちが光となることです(15-16)。

この地は曲がった邪悪な世界だと御言はいいます。つまり、霊的には闇の世界です。本当の光が必要です。だから、神はご自分の栄光を、地上に輝かせようとなさいます。闇の中で光を見つけたら、それはどんなにか勇気や希望を得ることでしょう。

はじめに神は、イエス・キリストを通してその輝きを照らしてくださいました。今度は、イエスを信じた私たちに栄光をあらわして、この世を照らす光となさるのです。

神が、私たちを通してあらわそうとなさる栄光の輝きは、世の栄光とは質が違って、見た目には華々しくありません。従順と謙遜によって導き出される神の輝きは地味な輝きです。 ※人の目には「地味」と見えるだけだが……。

でも、それは暖かな輝きです。小さくても決して消えないかな輝きです。私たちはそのような存在です。自分の力で輝いても限界があります。ただ、主に対する謙遜と従順によって輝かせていただくだけです。

最後に、いのちの言葉をしっかりにぎって……(16)と記してあることに注目しましょう。どうぞ、今日の御言をしっかり握って、今日を歩むことができますように祈ります。(Ω)

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ピリピ人への手紙1章

2020年09月01日 | ピリピ書
ピリピ1:6 あな方たのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している。


本書はパウロが牢獄につながれている時、ピリピ教会へ当てた手紙です。ピリピの町はギリシャの北方にあって、パウロがヨーロッパに足を踏み入れて最初に生まれた教会でした。

ピリピ教会の人々は、パウロのヨーロッパ伝道を終始援助した教会でした。パウロが投獄されたとの知らせを聞き、ピリピ教会はエパフロデトを派遣して、パウロに援助の手を差し伸べたのです。

ところが、そのエパフロデトは重い病にかかってしまい、パウロの投獄に加え、エパフロデトの病も不安をつのらせる要因になりました。

そんな状況の中にあったのですが、パウロの手紙は喜びにあふれています。支援への感謝と共に、どんな事態にあっても喜んでいることを手紙にしたためたのです。ピリピ書は別名喜びの手紙と呼ばれるのですが、私はさらにポジティブの手紙とも呼びたいと思います。

パウロは投獄されながらも喜びました。なぜなら、投獄の最中でも、兵営の人々に福音を語ることができたからです(1:12)。実にポジティブです。

投獄を機会に、パウロを不利に陥れようと画策するクリスチャンもいましたが、それも喜びました。肉的な動機からでも、結局は福音が伝えられているので喜びました(1:18)。これもまたポジティブです。

パウロは生きるのも死ぬのも益だと告白しました(1:20-26)。死ねばキリストの御許に召されるのだから感謝。生きていれば、福音のためにさらに働くことができるので感謝。どちらにしても喜びました。これもまたポジティブです。

さらに、イエスを信じるとは、救いの恵みを受けるのですが、キリストのための苦労も受けるのだと告白しました(1:27-30)。キリストのための苦労なので喜ぶのだと言うのです。更にこれもまたポジティブです。

いかなる環境の中でも喜ぶことのできる「ポジティブな生き方」はどこから来るのでしょうか。

今日の聖句は、救いは神によって始められたと言っています。そして、その救いは神によって完成されるのです。神は私たちの救いに手をつけたものの、途中で放り投げてしまわれる神ではありません。

私たちの神は「始めであり終わりである」お方です。「アルファでありオメガである」お方です。始めから終わりまで責任をお持ちなのです。終始一貫して、私たちの救いを扱ってくださっています。

このことを知らないと、環境が悪くなると確信が揺らいで行きます。環境のアップダウンによって救われているような、いないような不安定な心になってしまいます。

私たちの行いが良くても悪くても、私の心はそのことで揺れるかも知れませんが、イエスの十字架の血の値打ちは微動だにしません。

イエス様が私たちに与えてくださった契約は、王の契約とよばれるものです。王の契約とは、王の責任で成し遂げられる契約のことです。このことは、旧約聖書の出来事からひもとく必要があります。

創世記15章には、神がアブラハムと結ばれた契約が記録されています。神がアブラハムとその子孫を祝福されるという契約です。

神はアブラハムに、牛や羊などの生贄(いけにえ)を用意させました。そして、生贄をふたつに引き裂きました(創15:7-10)。これは当時の契約の方式でした。

生贄をふたつに裂くのは、それが命がけの契約であることを意味しています。契約の当事者である双方が、引き裂かれた生贄の間を通過して、契約を誓い合うのがならわしでした。

ところが、神がアブラハムと契約を結ばれた時は状況が違っていました。だけが引き裂いた生贄の間を通り過ぎられたのです(創15:17)。

これは何を意味するのでしょうか。契約の責任は神が一方的に負われるという意味です。このように、立場が上の存在が一方的な責任で結ぶ契約を「王の契約」と呼びます。イエス様が私たちと結ばれた契約は、まさにこの王の契約です。

一方的かつ圧倒的な神の恵みの中で結ばれた契約を、私たちは受けています。これを信頼してください。

現実ばかりを見ていると、現実の方が大きく見えてしまいます。そして、神の救いの約束が小さく見えてしまいます。しかし、現実はどんなに大きく見えても、イエスが結んでくださった契約は、小さくなるわけではありません。

この圧倒的な恩寵(おんちょう)ゆえに、私たちはいかなる状況の中でも喜ぶことができます。勝利を先取りしているようなものです。完成を先取りしているようなものです。(Ω)

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