あなた方は、主にあっていつも喜びなさい。くり返して言うが、喜びなさい。(4・4)
ピリピ人への手紙は最後まで「喜びなさい」と勧めています。パウロは、あえて意図的に「喜びなさい」とくり返しています。なぜなら、喜ぶことは、私たちにとって安全なことだからです。 ※「悲しみ」「涙」「憎しみ」などの感情を否定しているのではない。思いの丈を神に申し上げよう。ありのままを申し上げよう。それらを慈しんで受け止めてくださるので「喜ぶ」のである。
先の3章でこう記しています。「主にあって喜びなさい。先に書いたのと同じことをここでくり返すが、それは、私には煩わしいことではなく、あなた方には安全なことになる。」(3・1)
危険なとき、安全な場所に避難する必要があります。航海中の船は嵐に遭ったら港に避難します。それと同じように、主にあって喜ぶことは、人生の危機から脱する避難所です。
急で長い下り道には、所々に「緊急避難帯」が用意されています。道から枝分かれするようにして、緩やかな10メーターほどの上り坂が設けられています。柔らかい盛り土で凸凹(デコボコ)がつくられていて、終点にはクッションで止まるようになっています。
ブレーキの利かなくなった自動車が緊急避難するための場所です。カーブを曲がりきれずに谷に転落するよりは、多少のダメージを覚悟でそこに飛び込めば助かります。
「喜びなさい」という命令は、この緊急避難帯に逃げ込むようにして、とにかく喜ぶことです。
えっ~!!、こんな状況でも喜べって言うんですか。そうです。泣きっ面に蜂のような状況でも、イエス・キリストにあって喜ぶことは、私たちにとって安全なことなのです。
過剰な思いわずらい、激しい怒り、根深い憎しみやうらみ等は、私の中に暗闇を増殖させます。それを続けていると、段々とブレーキが利かなくなって暴走し始めます。そして、ついにカーブを曲がりきれずに転落です。
そんなことにならない前に、主にあって喜びなさい。それは勇気を出して飛び込むべき避難所です。
喜び。それは「主にあって」と記されているように、この世が与える喜びではありません。それは、すでに1~3章で申し上げてきました。
感情的な喜びだけが喜びだという思い込みから解放されましょう。また、「喜びなさい」と命じているので、無理矢理に作り笑いをしようとしても、顔が引きつるだけです。 ※「喜び」と「楽しみ」は違う。楽しみは外側からの刺激。喜びは内側からくるもの。
問題は私の「霊」です。心で ――理性と感情の領域で―― 悲しんでいたとしても、救われた私の霊は、神の圧倒的な勝利を知っています。神の恵みの深さ、神の愛の強さを知っているのは私の霊です。 ※人の心の深みは「霊」の他だれが知り得ようか(Ⅰコリ2・11)。人の霊は神の御霊との交わりの中で、人の感情や理性では知ることのできない領域を悟る。
感情の領域では落ち込んでいるけれど、私の霊の領域では主にあって喜んでいるという状態はあり得るのです。もちろん、両方が喜べれば最高ですが……。
私が牧師として召される前のことです。人生で最悪の状況でした。周囲からの誤解と偏見。針のむしろに座らされているような環境で、私は苦しんでいました。ため息ばかりの日々でした。
そんな夜、私は眠っていましたが寝言を言っていたようです。妻が起きてそれを聞いていました。寝言は明瞭な言葉で「私は勝利した」と叫んでいたというのです。朝起きてこのことを妻から聞いて私は分かりました。私の深いところでは、勝利を先取りして喜んでいるのだ……と。
つまり、外なる人の感覚と内なる人である霊の感覚は違うことを申し上げたいのです。私は外なる人の感覚に支配されすぎていました。内なる霊が感じ取っている勝利に目を向けるべきでした。
同様に、本当の喜びは私の霊が知っています。私の霊は、主にあって喜んでいるのです。でも、それを私の肉なる感情がひがんだり、だだをこねていて、すでに霊が知っている喜びに目を向けさせないことがあります。
これが誰にも当てはまることなのか、私には分かりません。でも、私はそのような経験をします。だから霊によって祈って、私の霊の思いや感覚が、感情の領域を満たすように祈ります。主にあって喜ぼう。
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