詩篇81:10 あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
イスラエル民族がエジプトから連れ出された時のことをうたった詩篇です。奴隷の地であるエジプトから出てきたものの、道中は荒野の旅でした。道なき道を、ただ神の導きに従って進む苛酷な旅でした。
しかし、そのような試練の旅でしたが、神はその中で守ってくださいました。マナを与え、水を飲ませ、うずらの肉を飽き足りるほどにお与えになりました。荒野の旅は、神に従順するための訓練の期間でした。
その中で、神は恵み豊かな神であることをあらわされました。「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」と主は言われるのです。神はケチなお方ではありません。溢れんばかりに満たして下さるお方です。
ただ、私たちが、大きく口を開かないので、満たすことが出来ないだけです。
天から雨が降って来ますね。ある人はお茶碗を用意して水をためます。しかし、ある人はバケツを用意して水をためます。他の人はダムを用意して水をためます。同じ雨水でも、大きな器を用意した分だけ受け取ることが出来ます。
神が与えようとなさっている恵みも同じです。さあ、口を広く開けよう。主はそれを満たしてくださいます。それは、心を大きく開くことです。神を信頼して、神の御前に心を広げてください。けっして頑(かたく)なになって心を閉じてはいけません。
私たちが荒野を旅するとき……天国に行くまでの地上での生涯は、荒野の旅のようです……神に対して心を開く訓練です。心を広く開いて、神の恵みをしっかり受け取る訓練です。
神のこのような勧めに聞き従ってください。心を閉じてはいけません。
しかし、イスラエルのある人々は荒野で心を閉じてしまいました。そのような民に対して、神はこう警告されています。
「しかしわが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。それゆえ、わたしは彼らを、そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた」(81:11)。
神は無理矢理、私たちに恵みを詰め込もうとはなさいません。私たちが心を開くのを待っておられます。「いらない!」と言ってしまった手前、引っ込みがつかなくて、ますます「いらない」っと強情になてはなりません。
神は、「わたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する」(81:13)と言われます。神の命令に素直であって下さい。(Ω)
詩篇80:3 神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください。そうすれば我らは救をえるでしょう。
国は敵軍によって侵略され、破壊されました。それはイスラエルの不信仰と堕落に対する神の御怒りであることを、詩人は理解していました。悲しみと悔い改めの涙は食するパンをぬらしていました。
「あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました」(80:5)。
彼には、この滅びの原因が分かっていました。神に背いたからです。神の民として本来あるべきところから離れてしまったからです。だから、彼はこう祈っています。「神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください。そうすれば我らは救をえるでしょう」(80:3)。
神は、聖なる実を収穫しようと願い、ぶどうの木を移植するようにしてイスラエルをエジプトから引き抜き、約束の地カナンへ植えてくださいました。
「あなたはぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました」(80:8)とは、そういう意味です。しかし、イスラエルの結んだ実は「偶像礼拝」という神の忌み嫌う実でした。
神から離れてしまったぶどうの木が結ぶ実は、滅びの実でした。あの放蕩息子が父から離れて結んだ実も、また滅びの実でした。
イスラエルがそうであったように、新約の時代のクリスチャンも、この世から引き抜かれて神の畑に植えてくださったのに、私たちが神から離れているなら、その結ぶ実はむなしく外に投げ捨てられるでしょう。
そんな自分の姿に気がついた時、あの放蕩息子が本心に立ち帰り、父のもとに戻ってきたように、「神よ、我らをもとに返し、御顔の光を照してください」と祈るべきです。「そうすれば我らは救いを得る」のです。(Ω)
詩篇79:9 我らの救の神よ、御名の栄光のために我らを助け、御名のために我らを救い、我らの罪をおゆるしください。
エルサレムの街は異邦人の攻撃によって完膚無きまで、滅ぼしつくされました。これは、バビロン軍による攻撃のことだと思われます。エルサレムは荒れ塚となり、屍(しかばね)を葬る人もなく、空の鳥や野獣の餌食となっていました。
しかも、異邦人たちは、イスラエルの神はどこに行ったのか……と、神をあなどり、信じる者たちをあざけるのです。この詩篇からは、詩人の悲しみや悔しさがにじみ出ています。
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか」(79:5)。
詩人は、単に神に向かって嘆いているのではありません。この悲惨な滅びが、イスラエル民族の罪に対する神の御怒りであることがわかっていました。だから、悔い改めつつ、神による回復を切に願っているのです。
俗にいう、「神も仏もあるものか!」という捨てぜりふとは違います。
詩人の叫びには、必ずや神は私たちをあがなってくださり、回復への道へ導いて下さる時が来ることを信じて祈っています。そして、それは単に、「自分たちのために」そうして下さいという願いではありません。
今日の冒頭の聖句は、「御名のために」……と願っています。
神がお選びになった民が、このような無惨な最後をもって途絶えてしまうなら、神の御名に傷が付きます。どうぞ、神の御名があがめられるようになさってください、という祈りです。
そうです。全ては神の御名のためです。私たち人間も、神の御名を汚さないように生きるのが、人としての道です。
また逆に、神が私たちをお救い下さるのも、私が立派だからとか、私がふさわしい人間だからではなりません。神の御名の栄光のために、神は、慈愛を表されるのです。「主の祈り」のごとく、御名があがめられますように……と祈ろう。(Ω)
詩篇78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
この詩篇はイスラエルの歴史を歌にして、子々孫々に語り伝える内容になっていて、「わが民よ、わが教えを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ」という歌い出しから始まっています(78:1)。
さらに、「我らはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを、来るべき代に告げるであろう」と述べています(78:4)。
新約教会における礼拝も、神が私たちになしてくださった十字架と復活の出来事を子々孫々に語り伝えています。神がいかに愛して下さったか、神がいかに畏(おそ)れるべきお方か……神の慈愛と峻厳とを語り継ぎます。
その目的は、「これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである」(78:6-7)。
そして……
「その先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからとならないためである」(78:8)。
詩篇が語り継げているイスラエルの歴史は、①神がイスラエルをエジプトから呼びだしてくださったこと、②荒野における民対する扱い、③カナンの地に入り王国を建てられたことに至っています。
その歴史に共通していることは、民がいかに不従順であったかということです。
「ところが、彼らはなお神に向かって罪をかさね、荒野でいと高き方にそむき、おのが欲のために食物を求めて、その心の内に神を試みた」(78:17-18)。「すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしき御業を信じなかった」(78:32)。
イスラエルの歴史はこんなことの繰り返しだったのです。
しかし、そんなイスラエルが神の民として歩み続けることが出来たのは、今日の冒頭の聖句のように、「神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた」からです。
民は神の怒りによってそのいのちを奪われる事態になって、悔い改めて神を熱心に求めたことが特筆すべき事です。イスラエルの偉大さは、彼らが罪を犯さなかったということではなく、悔い改めて神に立ち帰ったことです。
旧約の時代、他の民族もイスラエル同様に神の御怒りによって打たれ、滅ぼされ、痛みを負いました。しかし、イスラエルが他民族と違った点は、そのさばきの中から、再び「神をたずね、悔いて神を熱心に求めた」とうことなのです。
いつでも、何度でも、慈愛に富まれる神に立ち帰る柔らかい心をもつべきです。そうするのは、「先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからとならないため」なのです(78:8)。(Ω)
詩篇77:11 私は主のみわざを思い起す。私はいにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。
信仰とは、神を中心にして現実を見て行くことです。しかし、時に逆転して、現実を中心にして神を見ようとするとき、神を見失い、私たちの心は揺れ動きます。
私たちの神は万物を創造なさった神、すべてをご支配なさる全知全能の大きなお方であるにもかかわらず、現実を中心に見ると、神より現実の方が大きくなって見えてくるものです。
今日の詩篇でも、詩人は神を見失いかけていました。神を慕い求めつつも、神は自分から遠く離れておいでになるように感じられます。こう述べています。「私は神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える」(77:3)。
「主はとこしえに我らを捨てられるであろうか。再び恵みを施されないであろうか。そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々長くすたれるであろうか。神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって、そのあわれみを閉じられたであろうか」(77:7-9)。 ※詩篇は、力強い信仰の確信だけでなく、今日の詩篇のように不信仰な告白、時には怒りや呪いの言葉まで登場する。人の弱さも恵みも表現されたのが詩篇である。
ここで終わってはなりません。現実にばかり焦点を合わせていた目を、何度でも神に合わせるのです。神に焦点を合わせ、神の世界から現実を見る訓練をしなければなりません。
詩人は告白します。「私は主のみわざを思い起す。私はいにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす」と(77:11)。
詩人は、かつて神がエジプトを打たれ、神の力強い御手によって先祖の民イスラエルが出エジプトした出来事を思い起こしました。あの海が分かれて脱出の道が備えられた出来事を思い起こしたのです。
「あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった」(77:19)とは、逃げ道のない海の中に、神が道を開いてくださったことをあらわしています。
イスラエルの人々にとって、出エジプトの事件は「原点」ともいえる出来事でした。詩人も、この原点に帰って再び立ち上がろうとしたのです。
新約のクリスチャンにとって原点とは、イエス様の十字架と復活です。自分の愚かさという現実だけを見ていると、今日の詩篇の前半のように、神は私をお見捨てになったのでは……という悲観的な思いが堂々巡りしてしまいます。
しかし、だからこそ、そんな私のために、イエス様は十字架で死んでくださったのです。そんな私の古き人は、十字架で葬られたのです。古い私は死んで、いま生きているのは、イエス様と共に復活した新しい私です。
このように、原点である十字架と復活に、何度でも立ち帰ってください。
私たちは礼拝ごとに主イエスの十字架と復活を記念します。聖餐式のパンと杯にあずかるたびに、イエスの十字架の死と復活を思い起こします。そこに焦点を合わせて出発するのが礼拝です。
1週間のうちにずれてしまった焦点を合わし、それてしまった軌道を修正し、十字架と復活からスタートしよう。そんな毎週の礼拝を大切にしよう。(Ω)
詩篇76:8-9 あなたは天からさばきを仰せられた。神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙した。
先の75篇から続きます。北の超大国アッスリヤに包囲されながらも、神の介入があり、一夜にしてアッスリヤの陣営は滅ぼされました。列王紀には、天の御使(天使)たちによる働きであったと記されています。
まことに驚くべき事です。神のなされることに対して、地は恐れ、沈黙せざるを得ません。
攻め囲んでいたアッスリヤの将軍セナケリブは神をあなどって、「諸国民の神々のうち、どの神がわがアッスリヤの王の手から救ったか。……中略……主がどうしてエルサレムを私の手から救い出すことが出来ようか」と豪語したのです。
しかし、そのような高ぶりの声も、神のさばきの前には沈黙するばかりです。
今、信仰を軽んじる声が聞こえますか。信仰に対するあざけりが聞こえますか。しかし、知ってください。「神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙するしかない」ことを。
忍耐しつつ、主のご介入を祈ろう。(Ω)
詩篇75:6-7 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。
ヒゼキヤ王の時代、北の超大国アッスリヤの大軍に完全に包囲されたことがありました。こんな状況の中で、いったいだれがイスラエル……正確にはユダ王国……を救うことが出来るでしょうか。
この時の出来事は列王紀下(Ⅱ列王紀)の18~19章に詳しく記されているとおりです。まさに風前のともしびのごとく危機的な事態に陥っていました。
「高く上げる」とは、戦いに勝利し敵を支配すること意味しています。では、その「高くする」のは東に位置するモアブ人やアモン人の援軍によるのでしょうか。いいえ。では、西に位置するペリシテ人ですか?。それもあり得ません。
それとも荒野(南に位置する)のエジプトが援軍を出してくれることで、イスラエルが高く上げられるのでしょうか。それも不可能です。周囲の国々はみなイスラエルに敵対する民族だからです。
だから、「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない」のです(75:6)。そうです。それがおできになるのは神だけです。高く上げるのも地獄の底まで低くするのも、それは神のなさることです。
だから、神は、誇る者には「誇るな」と言い、悪しき者には「角(つの)をあげるな、角を高くあげるな、高慢な態度をもって語るな」と言われるのです(75:4-5)。
神の御前にまことの謙遜をもって低くする者を、神は高く上げられます。神の御前で高慢な者は、永遠に低くされます。
イエス様の弟子たちの中で自分が一番偉いんだと高ぶっていたペテロは、大きな失敗を通して、身を低くせざるを得ませんでした。その時の経験を、ペテロは次のように告白しています。
「だから、あなた方は、神の力強い御手のもとに、自らを低くしなさい。時が来れば、神はあなた方を高くしてくださるであろう」(Ⅰペテロ5:6)。
祈りましょう。主よ、順境ゆえに高ぶることなく、また、逆境のゆえに落ち込むことなく、ただ、神の御前にひたすら身を低くすることを学ばせてください。(Ω)
詩篇74:16 昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。
詩人は苦しみの中にありました。「神よ、なぜ私をとこしえに捨てられるのですか」という神への訴えから、この詩篇は始まっています。
エルサレムの街は他国軍の侵略によって蹂躙(じゅうりん)されたようです。人々のよりどころであった神殿も破壊されてしまいました。
「彼らは手おのと鎚とをもって聖所の彫り物をことごとく打ち落しました。彼らはあなたの聖所に火をかけ、御名のすみかをけがして、地に倒しました。彼らは心のうちに言いました、『われらはことごとくこれを滅ぼそう』と。彼らは国のうちの神の会堂をことごとく焼きました」(74:6-8)。
こんなひどい状態がいつまで続くのでしょうか。
「神よ、あだはいつまであざけるでしょうか。敵はとこしえにあなたの名をののしるでしょうか」(74:10)。
こんな悲惨な中にあっても、詩人は「神はおられるのだ」という確信を捨てていません。神の存在を信じてるからこそ、彼は神に祈っているのです。これはとても重要なことです。
どんな困難な中にあっても、神がいなくなったのではありません。神が、今は何もなさらないという「夜」の期間があるだけで、神がおられなくなったのではありません。そんな体験を通して、詩人は、「昼はあなたのもの、夜もあなたのもの」と告白しました。
物事が順調に行っている時だけ……つまり「昼」の時だけ神がおられるのではありません。大きなつまずきのある「夜」の時間にも神はおられ、神のご支配の中にあるのです。
昼であろうと夜であろうと、神のご支配はゆるぐことがありません。「夜」の期間にも神のご支配があることを信頼することこそ信仰です。
天地創造の神は、昼だけを創造なさったのではありません。夜も創造なさいました。神は1日を創造なさり、「夕となり、また朝となった。第一日である」と記されています。夜も神が創造なさり、昼も神が創造なさいました。
「夕」が先で「朝」で終わっているのは意味深いと思いませんか。1日は夜で終わるのではなく、光のある昼で終わるのです。朝にならない夕はなく、希望につながらない闇はないのです。
神はこういられます。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」(伝道7:14・新改訳)。人生をかけてじっくりと味わいたい御言です。(Ω)
詩篇73:2-3 しかし、私は、私の足がつまずくばかり、私の歩みがすべるばかりであった。これは私が、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい」(1)お方であるのに、どういうことですか。悪しき者が栄えているではありませんか。「彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、他の人々のように悩むことがなく、他の人々のように打たれることはない」のです(4-5)。
彼らは世間をうまく渡り歩いて不当な利益をむさぼる人です。「彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る」のです(73:7-8)。
詩篇の作者は、そのような理不尽さにつまずいたのです。しかし、そのつまずきの原因は、「私が、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」と述べています(73:3)。
他人の悪いところに目が行きやすいのは、罪人の性質です。
確かに彼らは「悪い人」で、非難されて然(しか)るべきでしょう。そのため、そのような人物への批判は容赦(ようしゃ)なくあびせられます。それに乗じて、直接かかわりのない人までも、正義感をふりかざして攻撃します。世の週刊誌やTVのワイドショーなどはそんなネタであふれています。
しかし、注意すべきは、過度な干渉から生じるゴシップ好きや、にわか批評家の心に生じる心の闇です。
今日の詩篇の作者も、悪しき者が栄える現実を批判し、ねたむほどになってくる中で、彼の心はつまずいてしまったのです。他者の悪を数えることを貪(むさぼ)るようになったのです。これは悪循環をくり返します。
このあり地獄のような闇から抜け出すにはどうしたらよいのでしょうか。
「私が神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」と告白されているように、“聖所に行って”……つまり、神の御心を知ることによって、解放されるのです。
神は、放置なさっているのではありません。必ず精算なさる神です。今は、ひとりとして滅びることがないように、人々が悔い改めに至ることを願って忍耐なさっているのです。
過度な批判によって、つまずきをおぼえ、神から遠ざかるよりは、神と同じ心を持って、忍耐と執り成しの祈りをすることこそ、神と共にある歩みです。
「神に近くあることは私に良いことである。私は主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう」(73:28)。(Ω)
詩篇72:1 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。
王のために祈る詩篇です。国の支配者である王が、神の豊かな祝福を得て、この国を、そして全世界を正しく納めることが出来るようにと祈る詩篇です。
冒頭に「ソロモンの歌」とありますが、末文は、「こうして、ダビデの祈りは終わった」とあるので、父ダビデによる、息子ソロモン王の統治のための祈りと考えるとよいでしょう。
その祈りの冒頭は、「神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください」というものです。どうか、王が、神からの公平と義をもって国を治めることが出来るようにと祈っています。
私たちの国にも、このような神の公平と義をもって治める為政者が必要です。
神の公平ではなく、私利私欲が優先していないだろうか。自己保身や、自分の支持母体を守ることを優先していないだろうか。神の正義よりも、国家のエゴイズムという名の「義」が主張し、個人の自己正義という「義」が幅を利かしていないだろうか。
こんな偽りだらけの「公平」と「義」で、国が治まるわけがありません。
だから、この詩篇のように、国の為政者たちについて、「神よ、あなたの公平を彼らに与え、あなたの義を彼らに与えてください」と祈る必要があります。
と同時に……です。そのような真の王はイエス・キリストを他にしておられないことも事実です。キリストにこそ、神の公平がやどり、神の義が表されています。このお方のご支配の下には、公平と義が実現されます。
そうです。ダビデが、息子のソロモン王のために祈った祈りは、まさに神の国の王であるキリストの統治を祈る祈りであり、預言となっています。詩篇の「彼」の箇所を「キリスト」と読みかえればピッタリと当てはまります。
たとえば……
「キリストは民の貧しい者の訴えを弁護し……」(4)、「キリストは日と月のあらんかぎり、世々生きながらえるように……」(5)、「キリストは牧草地に降る雨のように、地をうるおす夕立のように下ってくる」(6)……等々。
こんなキリストの王としての支配を祈ろうではありませんか。主イエスよ、来て下さい……。詩篇の祈りは、そのような祈りです。(Ω)
詩篇71:9 私が年老いた時、私を見離さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください。
この詩篇のうたい手は年老いています。彼(彼女)は幼い時から主を信じて、信仰の道を歩んできました。「主なる神よ、あなたは私の若い時からの私の望み、私の頼みです」という告白にそれは現れています(71:5)。
さらに、自分が世に生まれる時も、神のご支配があったことを告白しています。偶然に生まれてきたのではない。神の意図のもとに、母の胎の中に宿ったときから、神は私に目をそそぎ、見守ってくださっていました。
「私は生れる時からあなたに寄り頼みました。あなたは私を母の胎から取り出されたかたです。私は常にあなたをほめたたえます」(71:6)。
そうです。私たち一人ひとりは、たまたま生まれてきたのではありません。それぞれが神の目的をもって世に誕生しました。ひとりとして無駄ないのちはありません。だから、私たちは、私を世に生みだしてくださった神を賛美します。
「だれが、生んでくれって、たのんだのだ!」と、親に対する捨てぜりふは痛々しい響きがあります。自分を生みだしてくださった神を知るまでは、この悲しい捨てぜりふは続きます。神は、神のご目的をもって、あなたの父母を通して、あなたを世に送られたのです。
それは、神の愛を学ぶためです。それは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する愛を学ぶためです。私たちが世に生まれたのは、愛されるためであり、愛するためです。そのような聖なる目的を知って、私たちは神を賛美します。
こうして愛を学んだものの、やがて年老いて行きます。だれもが迎えなければならない人生の終末です。年老いるということは、人生で得てきた様々なものを捨てて行く作業です。そして、なくてならぬものだけを持って天に帰る準備をします。
健康を得た。富を得た。地位や名誉を得た……といっても、年老いるにつれて、それらを否応(いやおう)なしに手放さなければなりません。最後に残るのは神への愛です。神の愛を信頼する信仰だけです。
だから、今日の聖句のように祈ります。「私が年老いた時、私を見離さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください」……と。
神は、この祈りにどのように応えてくださるでしょうか。主はこう言われます。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)。
いかがですか。神は、目的をもって私を世に生みだしてくださったがゆえに、最後まで責任を負ってくださるお方です。「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」のです。このような神である主を賛美します。(Ω)
詩篇70:5 神よ、急いで私に来てください。
「主よ、ためらわないでください」……新改訳では「主よ、遅れないでください」と、続けて訴えかけられています(70:5)。
自分としてはすぐに解決してほしい。急いで、この試練を取り除いてほしい。そんな願いで、私たちはイエス様に申し上げる場合があります。しかし、時には、遅すぎたか……と思える時もあります。
娘が死にかかっている状況で、ヤイロはイエス様をお連れして道を急いでいました。しかし、そんな道中で、長い間やんでいた婦人が、イエスの衣に触れさえすればいやされると信じて出てきたのです。
「イエス様、そんな婦人のことより、私の娘を……。主よ急いでください」。ヤイロはそんな焦る気持ちでいっぱいだったことでしょう。
そんなやり取りをしている間に、ヤイロの家から使いがやって来て、「お嬢さんは亡くなりました」という報告を受けました。だから、急いでくださいって言ったのに……。あぁ遅かったか!とヤイロの心はくずおれたことでしょう。
しかしイエスは、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われ、ヤイロの家に行って娘を死者の中から生き返らせなさいました。人には遅かった……と思えることも、神には遅いことはありません。神の「時」があるのです。
また、マルタとマリヤの弟であるラザロが重病との知らせが届いたときも、イエスは遅れて到着なさいました。この時すでに遅し。ラザロは死んで墓に葬られていました。姉妹たちは、「もっと早く来て下されば」と訴えました。しかし、イエスはラザロを墓から呼び出されました。
神には遅すぎることがありません。神には、神の時があるのです。
そのことを信頼して、今日の詩篇のように叫ぼう。「神よ、急いできてください」。「主よ、ためらわないでください」……と。(Ω)
詩篇69:5 神よ、あなたは私の愚かなことを知っておられます。私の諸々のとがは、あなたに隠れることはありません。
自分を取り囲む敵どもに、神が報復なさいますようにと祈っている詩篇です。しかし、もし、上記の5節がなかったら、詩篇69編は単なる自己中の歌にさえ聞こえます。
私はこれだけ正しい。だから、その私に敵対する者どもは滅びて当然だ……。私はこれだけ頑張っている。だから、頑張らないあの人が滅びて行くのは当然だ……。
はたしてそうなのでしょうか。
自己正義に立った「正しい人」が返って、他者を傷つけることだってあります。熱血漢の頑張り屋さんがさばき主になって、他者を切り捨て、世から「あわれみ」という豊かさを排除してしまうこともあります。
今日の詩篇は、そんな自己正義に立った訴えではありません。そんな熱血漢の怒りの歌でもありません。
彼は、自分の愚かさを知っているのです。いえ、神に知っていただいているのです。
自分の愚かさを神に知っていただく者は幸いです。神のあわれみ深さを知ることになるからです。こんな愚か者が神に愛されているのです。ここから、「あなたの敵をも愛せよ」といわれる新約の世界にとびらが開きます。(Ω)

