ヘブル人への手紙 13章
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。(13・8)
この手紙の受け手であるヘブル人クリスチャンは、ローマの迫害下で信仰の確信を失いかけていました。そこでこの手紙では、旧約と新約の違いを説明し、イエス・キリストこそ旧約聖書の成就であることを説き明かしてきました。
そして手紙の最後に、「いつまでも変わることのないイエス・キリスト」を指し示しています。
なぜ彼らの心は揺れ動いていたのでしょうか。迫害という現実に目が奪われたからです。目に見える現実だけを見ていたら私たちは揺れ動きます。そして確信を失います。
「確信」とは、建物でいえば鉄筋のようなものです。鉄筋がなければ、建物は嵐や地震で揺り動かされ、遂には倒壊します。そのように、信仰の確信を失えば、人生の嵐に翻弄され倒れてしまいます。
では、信仰の確信はどこから来ますか。神の御言から来ます。神の御言は目に見えませんが、信仰の鉄筋のようなものです。
かつて、建築物の耐震強度を偽装する事件があって世間を騒がせました。建物の鉄筋の数を減らしたのです。見た目には頑丈な建物ですが、地震が来たときに果たして耐えられるでしょうか。
私たちの人生という建物はどうですか。〝人生の耐震偽装〟はないですか。御言を減らして、その代わりに人の言葉や理屈で人生を建てあげるとするなら、それは脆弱な人生設計です。人生の嵐が来た時に、もろくも崩れ去るでしょう。
「きのうも、きょうも、いつまでも変わらないもの」が人生の鉄筋でなければなりません。きのうも、きょうも、いつまでも変わらないもの……それはイエス・キリストであり、神の御言です。
現実はいつも変化します。ですから、いつも現実に焦点を合わせていると、右に左にと振り回されます。テレビ画面で揺れる映像が流れるときがありますが、カメラマンが歩きながら、時には走りながら撮影しているからなのでしょう。そんな微妙に揺れ続ける映像を見ていて、私の目はくらくらしてきます。軽い車酔いのような感覚にもなります。
このように、私たちが揺れ動く現実に焦点を合わるなら、気持ち悪くなって倒れてしまいます。
話しは変わりますが、私たちの教会堂には2階の礼拝堂への階段に階段昇降機が設置されています。これはとても優れもので「ジャイロ機能」があって、どの状況でも並行を保つ機能です。急な角度でも安心できる角度を保ってくれるので怖くないのです。このジャイロ機能とは地球の重心に向かって設定されていて、どんな傾きの中でも安定を保つわけです。
それと同じように、ちょうどイエス・キリストという変化しない重心に向かって行くとき、周囲がどんなに揺れ動いていても安定を保ちます。
揺れ動くものではなく、動かないものを見てください。変化するものではなく、変化しないものを見てください。それは、きょうのも、きょうも、いつまでも変わらないイエス・キリストです。神の御言です。それが、目に見える現実に振り回されない秘訣です。
ガリラヤ湖の嵐の中で、弟子たちの乗った舟は揺れ動いていました。舟に同乗なさっているイエスの存在を忘れて、弟子たちは嵐に目を奪われていました。弟子たちがイエスに目を向けたとき、イエスは嵐に向かって「しずまれ」と命じて、風と海を従わせられました。私たちは、目の前の嵐に目が奪われますが、その嵐を支配なさるイエスにこそ目を注ぐべきです。
イエスの御許に行こうとして、ペテロは水の上を歩きました。しかし、周囲の波風を見て恐ろしくなり、溺れてしまいました。「来なさい」と言われたイエスの御言だけを見て、御言の上を歩けば良かったのですが、周囲に目を奪われました。
いつまでも変わることのないイエスを、そして、いつまでも変わることのないイエスの御言を、どうか見失わないでください。
群馬の人は「赤城山と榛名山と妙義山が見えれば、大体の位置関係が分かる」と言います。群馬でもひときわ目立つ上毛三山は動かないです。どっしりと構えています。だからいつも基準になります。基準が変化していたら混乱します。
イエス・キリストは不動の基準です。不動の価値観であり目標です。このお方に目を注ぐ限り、私たちは目に見える現実に振り回されません。
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。(13・8)
この手紙の受け手であるヘブル人クリスチャンは、ローマの迫害下で信仰の確信を失いかけていました。そこでこの手紙では、旧約と新約の違いを説明し、イエス・キリストこそ旧約聖書の成就であることを説き明かしてきました。
そして手紙の最後に、「いつまでも変わることのないイエス・キリスト」を指し示しています。
なぜ彼らの心は揺れ動いていたのでしょうか。迫害という現実に目が奪われたからです。目に見える現実だけを見ていたら私たちは揺れ動きます。そして確信を失います。
「確信」とは、建物でいえば鉄筋のようなものです。鉄筋がなければ、建物は嵐や地震で揺り動かされ、遂には倒壊します。そのように、信仰の確信を失えば、人生の嵐に翻弄され倒れてしまいます。
では、信仰の確信はどこから来ますか。神の御言から来ます。神の御言は目に見えませんが、信仰の鉄筋のようなものです。
かつて、建築物の耐震強度を偽装する事件があって世間を騒がせました。建物の鉄筋の数を減らしたのです。見た目には頑丈な建物ですが、地震が来たときに果たして耐えられるでしょうか。
私たちの人生という建物はどうですか。〝人生の耐震偽装〟はないですか。御言を減らして、その代わりに人の言葉や理屈で人生を建てあげるとするなら、それは脆弱な人生設計です。人生の嵐が来た時に、もろくも崩れ去るでしょう。
「きのうも、きょうも、いつまでも変わらないもの」が人生の鉄筋でなければなりません。きのうも、きょうも、いつまでも変わらないもの……それはイエス・キリストであり、神の御言です。
現実はいつも変化します。ですから、いつも現実に焦点を合わせていると、右に左にと振り回されます。テレビ画面で揺れる映像が流れるときがありますが、カメラマンが歩きながら、時には走りながら撮影しているからなのでしょう。そんな微妙に揺れ続ける映像を見ていて、私の目はくらくらしてきます。軽い車酔いのような感覚にもなります。
このように、私たちが揺れ動く現実に焦点を合わるなら、気持ち悪くなって倒れてしまいます。
話しは変わりますが、私たちの教会堂には2階の礼拝堂への階段に階段昇降機が設置されています。これはとても優れもので「ジャイロ機能」があって、どの状況でも並行を保つ機能です。急な角度でも安心できる角度を保ってくれるので怖くないのです。このジャイロ機能とは地球の重心に向かって設定されていて、どんな傾きの中でも安定を保つわけです。
それと同じように、ちょうどイエス・キリストという変化しない重心に向かって行くとき、周囲がどんなに揺れ動いていても安定を保ちます。
揺れ動くものではなく、動かないものを見てください。変化するものではなく、変化しないものを見てください。それは、きょうのも、きょうも、いつまでも変わらないイエス・キリストです。神の御言です。それが、目に見える現実に振り回されない秘訣です。
ガリラヤ湖の嵐の中で、弟子たちの乗った舟は揺れ動いていました。舟に同乗なさっているイエスの存在を忘れて、弟子たちは嵐に目を奪われていました。弟子たちがイエスに目を向けたとき、イエスは嵐に向かって「しずまれ」と命じて、風と海を従わせられました。私たちは、目の前の嵐に目が奪われますが、その嵐を支配なさるイエスにこそ目を注ぐべきです。
イエスの御許に行こうとして、ペテロは水の上を歩きました。しかし、周囲の波風を見て恐ろしくなり、溺れてしまいました。「来なさい」と言われたイエスの御言だけを見て、御言の上を歩けば良かったのですが、周囲に目を奪われました。
いつまでも変わることのないイエスを、そして、いつまでも変わることのないイエスの御言を、どうか見失わないでください。
群馬の人は「赤城山と榛名山と妙義山が見えれば、大体の位置関係が分かる」と言います。群馬でもひときわ目立つ上毛三山は動かないです。どっしりと構えています。だからいつも基準になります。基準が変化していたら混乱します。
イエス・キリストは不動の基準です。不動の価値観であり目標です。このお方に目を注ぐ限り、私たちは目に見える現実に振り回されません。
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