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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヘブル人への手紙 13章

2023年03月14日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 13章
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。(13・8)


この手紙の受け手であるヘブル人クリスチャンは、ローマの迫害下で信仰の確信を失いかけていました。そこでこの手紙では、旧約と新約の違いを説明し、イエス・キリストこそ旧約聖書の成就であることを説き明かしてきました。

そして手紙の最後に、いつまでも変わることのないイエス・キリストを指し示しています。

なぜ彼らの心は揺れ動いていたのでしょうか。迫害という現実に目が奪われたからです。目に見える現実だけを見ていたら私たちは揺れ動きます。そして確信を失います。

「確信」とは、建物でいえば鉄筋のようなものです。鉄筋がなければ、建物は嵐や地震で揺り動かされ、遂には倒壊します。そのように、信仰の確信を失えば、人生の嵐に翻弄され倒れてしまいます。

では、信仰の確信はどこから来ますか。神の御言から来ます。神の御言は目に見えませんが、信仰の鉄筋のようなものです。

かつて、建築物の耐震強度を偽装する事件があって世間を騒がせました。建物の鉄筋の数を減らしたのです。見た目には頑丈な建物ですが、地震が来たときに果たして耐えられるでしょうか。

私たちの人生という建物はどうですか。〝人生の耐震偽装〟はないですか。御言を減らして、その代わりに人の言葉や理屈で人生を建てあげるとするなら、それは脆弱な人生設計です。人生の嵐が来た時に、もろくも崩れ去るでしょう。

きのうも、きょうも、いつまでも変わらないものが人生の鉄筋でなければなりません。きのうも、きょうも、いつまでも変わらないもの……それはイエス・キリストであり、神の御言です。

現実はいつも変化します。ですから、いつも現実に焦点を合わせていると、右に左にと振り回されます。テレビ画面で揺れる映像が流れるときがありますが、カメラマンが歩きながら、時には走りながら撮影しているからなのでしょう。そんな微妙に揺れ続ける映像を見ていて、私の目はくらくらしてきます。軽い車酔いのような感覚にもなります。

このように、私たちが揺れ動く現実に焦点を合わるなら、気持ち悪くなって倒れてしまいます。

話しは変わりますが、私たちの教会堂には2階の礼拝堂への階段に階段昇降機が設置されています。これはとても優れものでジャイロ機能があって、どの状況でも並行を保つ機能です。急な角度でも安心できる角度を保ってくれるので怖くないのです。このジャイロ機能とは地球の重心に向かって設定されていて、どんな傾きの中でも安定を保つわけです。

それと同じように、ちょうどイエス・キリストという変化しない重心に向かって行くとき、周囲がどんなに揺れ動いていても安定を保ちます。

揺れ動くものではなく、動かないものを見てください。変化するものではなく、変化しないものを見てください。それは、きょうのも、きょうも、いつまでも変わらないイエス・キリストです。神の御言です。それが、目に見える現実に振り回されない秘訣です。

ガリラヤ湖の嵐の中で、弟子たちの乗った舟は揺れ動いていました。舟に同乗なさっているイエスの存在を忘れて、弟子たちは嵐に目を奪われていました。弟子たちがイエスに目を向けたとき、イエスは嵐に向かって「しずまれ」と命じて、風と海を従わせられました。私たちは、目の前の嵐に目が奪われますが、その嵐を支配なさるイエスにこそ目を注ぐべきです。

イエスの御許に行こうとして、ペテロは水の上を歩きました。しかし、周囲の波風を見て恐ろしくなり、溺れてしまいました。「来なさい」と言われたイエスの御言だけを見て、御言の上を歩けば良かったのですが、周囲に目を奪われました。

いつまでも変わることのないイエスを、そして、いつまでも変わることのないイエスの御言を、どうか見失わないでください。

群馬の人は「赤城山と榛名山と妙義山が見えれば、大体の位置関係が分かる」と言います。群馬でもひときわ目立つ上毛三山は動かないです。どっしりと構えています。だからいつも基準になります。基準が変化していたら混乱します。

イエス・キリストは不動の基準です。不動の価値観であり目標です。このお方に目を注ぐ限り、私たちは目に見える現実に振り回されません。

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ヘブル人への手紙 12章

2023年03月13日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 12章
あなた方は訓練として耐え忍びなさい。神はあなた方を、子として取り扱っておられるのである。
(12・7)


先の11章では、信仰とは見えないものを見続けることであると学びました。それは御言が指し示す世界を見続けることです。そして、そのような信仰によって生きた先輩たちが紹介されていたわけです。

そして12章です。その信仰の先輩たちは、あとに続く信仰者たちの走りを励ますように取り囲んで応援をしているのです(12・1)。競技場の大観衆が競技者たちに声援をおくり、スタジアム内がウォー!!ととどろく光景を想像してみてください。そんなふうに、私たちクリスチャンは、天の声援を受けて信仰の走りをしているのです。

だから、忍耐をもって走り抜きなさいと励ましています(12・1)

陸上競技で良い走りをするためにシェイプアップしたり、空気抵抗を減らすウェアを工夫をして余計なものを取り除きます。同じように、信仰の走りのためにいっさいの重荷からみつく罪を捨てて…、と勧めています(12・1)

生活の諸問題が「重荷」となって、私たちの走りを鈍くします。聖書は、それを「捨てよ」と命じています。生真面目な人ほど、重荷は負うべきだと考えています。投げ捨てるなんてできません。

しかし、その重荷は天にまで持って行く価値のある戦いでしょうか。もしそうでなければ、この際、重荷は投げ捨ててみてはどうでしょうか。

それは、問題が無くなることではありません。問題の責任を自分で負わないことです。主イエスが負ってくださいます。主イエスにゆだねることです。私が負うべきはキリストの十字架です。

次にからみつく罪があります。新改訳ではまとわりつく罪と訳しています。先ほどの「重荷」は捨て難い思いにかられましたが、この「からみつく罪」は、投げ捨ててしまいたいのですが、罪の方から〝からみつく〟のです。

農家育ちの私は、子どもの頃は田植えの手伝いをしました。すると水田に潜んでいる蛭が足に吸い付いてきます。一度吸い付いたらなかなか離れません。はやく引き離さないと血を吸い取られます。罪も、この蛭のように吸い付き、からみついてきます。だから、からみつく罪を早く投げ捨てなければ、私から霊的ないのちが吸い取られます。

神は、私たちがこの罪に勝利できるように訓練なさいます。また、重荷を投げ捨てるように訓練なさいます。時には悲しくつらい試練に追いやられることもあります。それを「懲らしめ」と感じるかもしれません。でもそれは、天の神が、私たちを神の子どもとして「訓練」なさっているのです(12・7)。 ※新改訳は「こらしめ」と翻訳。口語訳は「訓練」、新共同訳は「鍛錬」。

旧約では、神は主人であり、かたや人間はしもべでした。ところが新約では、神は父であり、私たちは子です。主人としもべの関係であれば、先ほどの試練を懲罰だと受け取るでしょうが、新約では父が子に与える〝訓練〟として受けとめるのです。

旧約では、神を「父」と呼ぶことがありませんでした。ユダヤ人らがイエス様を非難した理由のひとつに、神を父と呼んだことがあげられますが、当時の人々には、それは神への冒涜だと感じたのです。 ※申命記32・6、歴上29・10、イザヤ63・16では神を父と呼んでいる。しかし、この場合、イスラエル民族の生み出した根源というニュアンスで「父」と呼んでいる。肉親の親子の情で「父」と呼ぶ内容ではない。伝統的に神を「主」と呼ぶことからも、自分はしもべであると位置づけることになる。

旧約の人々にとって、神は主人であり、自分はしもべです。彼らは主人の怒りにふれないように、恐れつつ神に仕えていました。ですから、つらく悲しい出来事があると、自分は神の怒りにふれたのだ、自分は呪われているのだと考えました。

この手紙の受け手であるヘブル人クリスチャンも例外ではありません。旧約の律法から出てイエスを信じたのですが、迫害や困難が続くので、神の怒りを受けているのだと考えたのも無理ありませんでした。

しかし、御言は神はあなた方を子として扱っておられるのだと教えています。

しもべなのかなのか。これは、旧約と新約の大きな違いです。神のしもべにとっては、「試練=さばき・怒り」でしたが、神の子どもにとっては、「試練=愛による訓練・こらしめ」なのです。

私たちに、しもべのような発想や感覚が残っていませんか。困難に出くわすと、神から呪われている、ばちがあたったのだと感じたり、神の愛を信頼できないで疑ってしまうことはありませんか。

それは旧約の感覚です。それは「奴隷の霊」を受けた信仰です。

私たちは神の子どもです。私たちは、神を「アバ父」と呼ぶことのできる霊を受けた者です。子は父を畏れますが、恐怖心で恐れるのではありません。父への尊敬と愛と信頼が基本です。

私は息子を叱ります。だからといって、息子は私を恐れたり、敬遠したはりしません。叱られた当初の険悪な雰囲気はいつの間にか消え、親しい交わりが回復します。それが「子」です。「しもべ」はそうは行きません。

新約の信仰は、神を父として尊敬し、愛し、信頼し、畏れる生き方です。どんなにつらい状況も、天の父の愛する子への訓練であると信頼します。

天の父は、神の子どもたちを溺愛するのではなく、神の御国にふさわしい者にしようと訓練してくださるのです。私たちを神のきよさにあずからせるために、そうなさるのです(12・10)。神の訓練を受けている最中はつらい現実です。私の肉の感覚からすればそう感じるのです。でも、信仰というメガネを通して見てみましょう。神の子としての信仰で見るとき、つらい現実の向こうに……つまり、目に見えないその向こうに、〝平安な義の実〟を見るはずです(12・11)


ヘブル人への手紙 11章

2023年03月11日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 11章
信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
(11・3)


この手紙は、信仰の確信がゆらいでいるヘブル人クリスチャンにあてて書かれたことは、すでに見てきたとおりです。旧約に戻ろうとする彼らに、イエスの血を信頼して新約へと進めと励ます手紙です。

キリストに従う道は長丁場です。山あり谷ありです。だから、確信を投げ捨ててはなりません(10・35)。そして、必要なのは忍耐です(10・36)。忍耐とは信じて待つことです。

こうして第11章に入ります。ここからは、信仰の確信を投げ捨てることなく、忍耐し続けた旧約の聖徒たちについて述べられています。アベルから始まりアブラハムからモーセへと続く信仰列伝です。彼らはまだ見ていない事実を確認した人々です。

信仰とはどういうことでしょうか。もちろん、イエスをキリストと信じることですが、ヘブル書は角度を変えてこう表現しています。

信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである(11・1)。新改訳では、信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

つまり、見えないものを見続けることが信仰だというのです。神は見えないです。御子イエスは見える姿で来られましたが、公生涯の3年半だけ見せてくださった後、今は天に座しておられます。

だから御子イエスも見えません。さらに、神の約束である永遠のいのちも、神の御国も、今はまだこの目で見ることができません。でも、見えないだけであって、確かに存在します。

肉眼が見ている範囲は〝赤から紫の範囲〟です。光の波長はそれ以上の広がりがあって、赤より外の「赤外線」や、紫より外の「紫外線」もあれば、さらに波長の長短によって範囲はさらに広がります。ですから、肉眼が見ている範囲はほんのわずかです。まるで小さな穴から覗いて見ているようなものです。なのに、見えることだけで判断したり、見えないことは偽りであるとするのは人間の思い上がりです。

肉眼ではほんのわずかしか見ていないのです。ですから、目で見える世界で狼狽えてはなりません。神の世界、霊的世界を〝信仰というメガネ〟をかけて見るべきです。※〝めがね〟とは眼鏡が発明される以前からの言葉である。「物事の本質を見抜く目とか尺度」が本来の意味。優秀な人物を見極めるに「めがねにかなった人」と言ったり、逆に見誤ると「めがねが狂った」という。人は眼鏡のみならず本来の意味の〝めがね〟が必要である。それは「信仰」という〝めがね〟であり、そのレンズの材質は「御言」である。これぞ物事の本質を見抜くめがねである。

肉眼で見える世界は一時的な世界です。見えない霊的世界こそが本質です。肉眼で見える世界は影の世界であって、その本質は霊的世界です。それを知らずに、人は影をつかもうとして振り回されるのです。

霊的世界は神の御言の世界です。神の御言によってこの物質界は成り立っています。信仰とは、この見える世界が、目に見えないもの……すなわち神の御言によって成り立っていることを見抜くことです(11・3)。ですから、物質界の何かをつかむ以上に、その本質である〝神の御言をつかむ〟ことが大切です。

そのような信仰を神は喜ばれます(11・6)。肉眼で見える世界だけを見ていると、現実に押しつぶされそうです。でも大丈夫です。現実は真理ではありません。神の御言が真理です。 ※「信仰によらなければ神を喜ばせることはできない」。神は私たちの悪いところをご覧になるのではなく、信仰をご覧になるのだ。

現実は悲しくつらい出来事であっても、それはほんの少ししか見ていないのです。その背後には、神の御言によって裏付けられた祝福が隠れています。でも、肉眼だけで見ようとするのでそれが見えません。信仰のメガネをかけて見るとき、見えない神の祝福、神の恵みの世界が見えてきます。このように、現実は真理ではありません。信仰で見る世界が真理です。

また、罪の誘惑は快楽に満ちているように見えますが、それも、ほんのわずかしか見ていないのです。その背後には、見えない神の怒り、神のさばきが隠れています。これらは、信仰のメガネをかけなければ、見えてこない世界です。「な~んだ、罪を放っておいても大したことないじゃないか」と思える現実は真理ではありません。神の御言が真理です。

真理とは変化しないものです。現実は必ず変化しますが、神の御言は変わりません。神の御言が約束している世界を信仰によって見続けることが、現実に振り回されない生き方です。

ヘブル書11章は、そんな信仰に生きた先達の生き様を列記し、後に続く者たちにエールを送っています。

①見えない神を目の前に認める信仰。 カインは、神は見えないからと、侮って不誠実なささげものをしましたが、アベルは最高の羊をささげました(11・4)。神は見えませんが、神は私を見ておられます。

②見えない神の御言を事実と信じる信仰。 ノアは、「洪水で罪の世界を滅ぼす」という神の御言を信じました。本当のことだと信じたので、世の人々から馬鹿にされても、箱舟を建造しました(11・7)

③見えない天の故郷を目指して旅する信仰。 アブラハムは生まれ故郷を出て、神が用意された都を信じて旅をしました。まだ見てはいない都である天の故郷にフォーカスをあわせて、地上では旅人という身分を貫きました(11・9~10、11・16)

④地上の滅び行く富ではなく、天にある永遠の栄光を求める信仰。 モーセは、エジプトの王子として地上の繁栄を手にするより、神の民として苦しみを受け、永遠の栄光に入る道を選びました(11・24~26)。なぜなら、地上の繁栄は一時的であり、神の栄光こそ永遠に続くことを信じたからです。

このような先達の信仰に学ぶところ大です。私たちもそんな信仰をもって進もうではありませんか。

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ヘブル人への手紙 10章

2023年03月10日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 10章
こういうわけで、私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ……
(10・19)


イエス様はエルサレム神殿を指して、「この神殿をこわしたら、私はそれを三日で建てる」と言われました(ヨハネ2・19~22)。この宣言は、ご自分の体が十字架で死んで三日後に復活することを言われたのです。換言するなら、神殿はイエス・キリストの予表だという意味です。ですから、神殿の祭儀はみなキリストの中で完成しました。神殿に秘められた意図もキリストの中で完成したのです。※神殿は天のひな型であるが、ここでは、視点を変えてキリストを表すひな型として見る。

律法はきたるべき良いことの〝影〟をやどすにすぎず(ヘブル10・1)とあるように、律法とか神殿といった旧約の記録は〝影〟です。ということは本体があるという意味です。本体はイエス・キリストです。神殿もそう理解すべきです。

さて、神殿の構図はすでに確認したように、手前の「聖所」とその奥にある「至聖所」とからなっています。一般の祭司たちは、聖所までしか入ることが許されていませんでした。その祭司であっても、聖所に入るには厳格な決まりがあり当番制でした。

福音書によると、ザカリヤはアビヤの組の祭司であり、その組の当番になったので、くじを引き、ザカリヤに当たったので、彼が聖所に入って香をたくことになったと記されています(ルカ1・8~10)

ましてや、その奥にある至聖所には、だれも入ることができませんでした。まるで罪人が入るのを拒絶するかのように、至聖所の前には垂れ幕がかかっていました(ヘブル9・8)

ただ唯一、祭司の中の祭司、大祭司だけが年に一度の「贖罪の日」に――ユダヤ7大祭の6番目の祭――いけにえの血をたずさえて至聖所に入り、民の罪のゆるしときよめのために祈りました。
この場合のいけにえの血は動物の血でしたから、人の罪を完璧に除き去ることはできません(ヘブル10・4)。また、執り成しをする大祭司自身も罪人なのですから、その任務も完璧ではありません。

このように、いけにえの血も大祭司自身も両方とも不完全なものです。本物が来るまでの代役であり、ひな型にすぎなかったのです。

神殿でなされた贖罪の日の儀式は、やがて本当の大祭司が来て完成することの予表でした。来るべき大祭司なるキリストが、完全な贖罪を成し遂げることになっていました。

そしてついに、神の御子イエスがキリストとして世に来られ、十字架でご自身をいけにえとしてささげ、ご自分の血をもって贖罪をなさいました。動物の血ではなく、神の御子の血が流されました。※「贖罪」とは、罪を贖うこと。つまり、罪の代価を支払うことだ。罪の代価は「死」であるが、これをイエス・キリストが人類に代わって払ってくださったのである。

罪のない神の御子の血は、全人類の罪の代価を支払うことができます。人類だけでなく、全被造物もあがなって、それでもお釣りが残るほどです。否、お釣りの方が大きいのです。それほど御子の血の値打ちは偉大で尊いのです。

さて、至聖所に入る道は垂れ幕によって仕切られていて、罪人は絶対に入ることができませんでした。ところが、イエスが十字架で血を流された時、神殿では不思議なことがおきました。

神殿の幕が上から下に向かって真二つに裂けたのです(マタイ27・51)。この幕とは、至聖所を仕切る垂れ幕のことです。罪人が至聖所へ入ることを拒絶していたあの垂れ幕が引き裂かれたのです。しかも〝上から下に向かって〟裂けたのです。これは人為的に裂いたのではないことを意味します。人が引き裂くなら〝下から上に〟引き裂くしかありません。

このような記録が残っているのは、神殿で奉仕していた祭司が目撃し、その後イエスを信じて、この出来事を証言したからです。それほど、衝撃的で神秘的なことだったのです。

十字架でイエスの肉体が引き裂かれるようにして死なれた時、神殿の垂れ幕も引き裂かれました。そのことを、イエスはご自分の〝肉体という垂れ幕〟を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったと説明しています(ヘブル10・20)

至聖所への道をふさいでいた垂れ幕は、イエスの肉体を意味していたのです。その肉体が十字架で引き裂かれない限り、至聖所への道は開かれていないことを意味していましたが、今や〝イエスの肉体〟という垂れ幕が引き裂かれて、その道が開かれました。

このイエスの十字架の意味を信じる者はだれでも、イエスの血をたずさえて至聖所である天に入ることができるようになったことを表しています。我らの大祭司なるイエス・キリストが、先駆けとなって天に入られました。私たちも後に続くのです。イエスの血をたずさえて至聖所に入ります。

自分の品行方正をたずさえて神に近づこうとする人がいます。でも、そのような人は、自分の良心の呵責に耐えられなくなると、神から遠ざかります。イエスの血を信頼すべきです。イエスの血だけが、私たちの良心をきよめます(10・22)。イエスの血だけが、執拗な罪の呵責から自由にしてくれます。

人は罪の呵責にとらわれると……、
①自分の良い行いで、呵責から自由になろうとする。
②他の人もこの程度の罪は犯しているのだからと、呵責を相対化させる。
③忘れようとする。……といった道をたどります。

でも、そのような道は至聖所に入る道ではありません。このような考え方は邪悪な良心です(10・22 新改訳)。人間的にはまっとうな良心のようでも、神の目には邪悪です。イエスの血よりも、自分の行いの方が値打ちがあるとしているわけですから、神からすれば「邪悪な良心」になるのです。

旧約の生贄ではこの邪悪な良心をきよめることができませんでした。動物の血は仮の犠牲、不完全な生贄だからです。だから、何度も罪を意識し、罪責感に悩み、再び犠牲をささげることの連続でした(10・2~3)

しかし、イエス・キリストが完全な生贄となるために肉体をとって世に来られ、ご自身の血を流して「罪のための完璧なささげもの」となってくださいました。だから、このイエスの血だけが私たちの邪悪な良心をきよめることができるのです。

自分の善行によるのではありません。他者との比較で呵責を薄めようというのでもありません。忘却によってでもありません。それらは天に通じる道ではありません。イエスだけが道です。イエスの血だけが、私の罪をきよめ、罪の呵責で苦しむ良心をきよめ、天に至らしめるのです。

主イエス様の血を信頼し、その血をたずさえて、ますます、主に近づこうではありませんか。

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ヘブル人への手紙 9章

2023年03月09日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 9章
キリストは、本当のものの模型にすぎない、手で造った聖所に入らないで、上なる天に入り、今や私たちのために神の御前に出て下さったのである。
(9・24)


引き続き、旧約での神殿祭儀の真意は、キリストにあって完成したのだと語っています。旧約聖書に慣れ親しんできたヘブル人には良く解るのですが、旧約に不慣れな異邦人クリスチャンには、この手紙が難しく感じられます。でも、大切な〝根〟の部分ですから根気強くお読みください。

旧約の礼拝は神殿でなされました。この神殿の前身は荒野を旅した時の「幕屋」です。この神殿で、祭司たちおよび大祭司は、いけにえをたずさえて神に近づき、神を礼拝しました。

神殿(幕屋)について整理しておきましょう。ここでは大まかに「神殿」イコール「幕屋」と考えてください。幕屋には「庭」があり、ここでいけにえを殺して血を注ぎ出します。

庭を進むと奥に建物があり、それが聖所至聖所です。両者はひとつの建物なのですが、「幕」で仕切られていて、手前の部屋が聖所で、奥の部屋が至聖所です。このふたつの部屋をまとめて「聖所」と呼んだり、「幕屋」と呼ぶ場合もあります。

この神殿は何を意味するのでしょうか。

神殿は天のひな型だと言っています。新改訳では天をかたどったもの、新共同訳は天の写しだと訳しています(9・23)。つまり、天がどのような所なのか、天に入って行くためにはどうすればよいのかを模型を使って教えているのが神殿(幕屋)です。霊的な世界を教えるための視聴覚教材です。

旧約聖書に固執する人は、本物を無視して模型にこだわる人です。模型を大切にするあまり本物を見失っています。

旧約では、神殿という模型を使って人が神に近づく方法を教えたのです。人が天に入って行くために何が必要なのかを教えたり訓練するために、神は神殿を視聴覚教材として用いられたのです。

神殿は、私たちに何を教えているのでしょうか。最も重要なことのひとつはいけにえの血です。

神は聖なる方ですから、神の住まいもきよめられねばなりません。また、神に近づく者もきよめられねばなりません。ですから、神殿も天も聖なる場所にふさわしく、きよめられねばなりません。

どのようにして、きよめられるのでしょうか。それは血によってです。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ないからです(9・22)。血によらなければ真のきよめはないのだという意味です。

旧約において、大祭司はいけにえの血をたずさえて聖所に入りました。しかし、それは、動物の血に過ぎません。ところが、真の大祭司であるイエス・キリストは、十字架で流したご自分の血をたずさえて、天に入って行かれました。

こうして、天の模型である神殿で長年くり返されてきたいけにえは、イエス・キリストによって完成しました。新約のクリスチャンたちも、このイエスの血を受けて天に入って行きます。

イエスの血こそが、私たちの罪をきよめ、私たちが神に近づき、天に入って行くことを可能にしてくれます。そして、この血によって、私たちは新しい契約を受けます。

旧い契約が結ばれたときも、シナイ山のふもとで、子牛とやぎの血が民全体にふりかけられました(9・19~20)

同じように、イエス様も最後の晩餐の時に、血をあらわす真っ赤なぶどう酒の杯をとって、これはわたしの血で立てられる新しい契約であると言われ、これを飲みなさいと言われました。

私たちは、聖餐式であの杯を受けるとき、イエスの血による新しい契約を再確認しているのです。イエスの血を頼ってください。イエスの血をたずさえて神に近づいてください。イエスの血をたずさえて天に入るのです。

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ヘブル人への手紙 8章

2023年03月08日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 8章
新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。
(8・8~9)


先の第7章では、イエス・キリストは本当の大祭司であることを見ました。それまでの大祭司はレビ族の中のアロンの家系から選ばれた人が担当しており、彼は地上の聖所(神殿)でいけにえをささげ、民のために執り成しの祈りをささげました。

このアロンの家系の大祭司は、完全なる大祭司キリストの「ひな型」つまりモデルです。そこで、まことの大祭司は、地上の聖所ではなく、天に入って――本物の聖所に入って――、私たちのために執り成してくださっています(8・1~2)。だから、このキリストによってどんな罪人も救われるのです。

さて、第8章では、この大祭司なるキリストによって新しい契約が結ばれたのだと告げています。

今日の聖句は旧約の預言者エレミヤによって語られた御言です。神は新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それが、イエス・キリストによって成立した契約のことです。これを「新約」と呼び、この新しい契約が成立した時点で、それ以前の契約を「旧約」と呼ぶことになります(8・13)

では、イエス様による新しい契約とは、どのようなものでしょうか。

エレミヤの預言によると、「それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない」のです。この彼らと結んだ契約とは、神がエジプトから救い出したイスラエル民族と結ばれた契約のことです。民は過越の羊を殺した日に出エジプトし、紅海を渡り――これは旧約版バプテスマを意味する――、荒野に入りました。そしてシナイ山に到着し、そこで律法を授かり、民は神と契約を結びました。この時の契約のことです。

しかし、新しい契約は、この時の契約のようなものではありません。キリストにある新約は、旧約より優れた契約であり、永遠の契約であると述べています。どのように違うのでしょうか。

(1)神の御言が心に刻まれる契約である。(8・10)

旧約では、文字による律法が与えられました。この律法のお陰で、イスラエル民族は当時のどの民族よりも道徳的かつ霊的水準の高い民でした。

しかし、そんなイスラエル民族でさえも、偶像礼拝に陥り不信仰へと堕落して行きました。それほど、罪の力は大きいのです。罪人のいかなる努力も、神の聖なる水準に達することができません。

しかし、新約では、その律法を私たちの心に書き記します。心に律法を刻むことによって、神の御国に相応しい民としてくださいます。そのことについて、次のように語られています。

わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。(8・10~11)

いかにして神は人の心に律法を刻むのですか。それは、聖霊を注ぐことによってです。旧約の民がシナイ山で律法を受けた日と、新約で聖霊が注がれた日が同じであることは意義深いことです。こうして内住の聖霊が「どう生きるか」を教え導かれます。これが、御言が心の板に刻まれた者の生き方です。

(2)罪が完全に解決される契約である。(8・12)

神はもはや彼らの罪を思い出すことはしないと言われます。それは、神が罪に対して寛容になられたのではありません。旧約の時代は罪に対して厳しく対処なさったが、新約では大目に見てくださるというのではありません。

むしろ逆です。神は罪に対して、もはや容赦なさらないのです。容赦しないがゆえに徹底的にさばかれました。それが、イエス様の十字架の死です。イエスのむごたらしい死は、いかに神が罪を憎んでおられるかの表れです。神の罪に対する完璧なさばきと怒りが、あの十字架の上に徹底的に注がれたのです。

だから、神は、もはや人類の罪を思い出さないと言ってくださるのです。

ところで、赤色で記した語句に赤色のプレートを重ねると見えません。試験前の暗記に使った方法です。これと同じように、キリストの真っ赤な血潮で、私たちの罪は覆われてしまいます。だから、神がご覧になるに、イエスの血による契約を結んだ者の罪は、神の目には消えてしまっています。

このように神は、私たちの罪を思い出さないと言われるのです。

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ヘブル人への手紙 7章

2023年03月07日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 7章
キリストは、いつも生きていて彼らのために執り成しておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。(7・25)


ヘブル人クリスチャンはユダヤ教が土台であり、旧約聖書の思想や預言がしっかりと根付いています。ですから、このヘブル人への手紙は旧約聖書からの引用が多いわけです。

新約の信仰は、旧約聖書を根にして咲いた花であり実です。だから、旧約を無視した新約の信仰は、根のない切り花のようで、短命に終わってしまいます。旧約という根を軽んじる新約の信仰は、イエスを信じて華やかな救いを受けるも、その栄光はやがて霞んでしまいます。

旧約聖書の学びは根気のいる作業ですが、これがやがて私たちの信仰を不動のものにします。旧約の学びはそういう意味で重要です。

もちろん旧約だけでは完結しません。旧約は新約を通してどのように完成されたのかという視点を持ちつつ旧約を読むことによって、私たちの信仰に背骨のような〝1本の筋〟を通すことになります。

さて、第4章から、キリストは「大祭司」であることが述べられ、5章~7章にかけて、キリストはメルキゼデクに等しい大祭司であることが述べられています。

祭司とは、神に礼拝をささげる役職です。民は直接、神の御前に出ることはできないので、祭司が執り成し役として民に代わって神に祈り、犠牲をささげ礼拝しました。祭司の原語の意味は「橋渡し役」です。旧約聖書の出エジプト記やレビ記には、この祭司による祭儀規定が記録されています。

その祭司たちの代表が「大祭司」です。律法では、この大祭司はレビ族の中のアロンの家系から選出されることになっていました。しかし、神の預言によれば、時が満ちると、本当の大祭司が、しかもレビ族ではない大祭司が登場すると預言されていました。

詩篇110篇は、メシヤ(キリスト)預言として有名ですが、そこではキリストについてこう語られています。主は誓いを立てて、御心を変えられることはない、『あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である』」。

この御言は、やがて神が遣わされる本当の大祭司キリストは、メルキゼデクのような祭司であると予告しています。

このメルキゼデクとは何者なのか。旧約の創世記に一度しか登場しない不思議な人物です。名の意味は、「義の王」「平和の王」であり、あの信仰の父祖アブラハムも大変尊敬した人物です(ヘブル7・1~2)

アブラハムは戦争に勝利して戻ってきた際、その戦いのために執り成しの祈りを捧げてくれたメルキゼデクに十分の一の献げ物をしています十分の一の献げ物は神に対するものであることからして、アブラハムがメルキゼデクをどのように認識していたのかが分かります。それほど、メルキゼデクが気高い王であったわけです。しかも、メルキゼデクには父や母がなく、系図もない。いつ生まれ、どのように生涯を閉じたのかもわかりません。実に謎めいた、神の子のような王でした(7・3)。

まさにキリストを予表するかのような人物に、アブラハムは出会ったのです。そして、詩篇を記した預言者は、神は後の時代に、このメルキゼデクのような大祭司をお立てになるのだと告げたわけです。

ですから、イエス・キリストは、レビ族の出身ではなくユダ族(ダビデの家系)から来られたし、マリヤから生まれたようでも、天の父から来られた方であり、永遠から永遠におられる方なので、まさにメルキゼデクのような大祭司である……とヘブル書は説明しているのです。

イエス・キリストこそ、預言されていた大祭司です。冒頭の聖句が示すように、この大祭司のもとに来るならば、どんな罪人でも執り成してもらえるので救われるのです(7・25)

この大祭司はいつも生きておられるお方です。レビ族のアロンの家系の者であれば、何度も世代交代をしなければなりませんが、イエス・キリストは永遠に生きておられて、私たちの救いのために執り成してくださるお方です。

だからいつでも救うことができるのです。今日は都合が悪いから、明日にしてくれ等とおっしゃいません。今日あなたは救われるのです。しかも完全に救うことがおできになります。

いかにして完全に救うのか。この救いの完全性について次の8章~10章で述べて行きます。

私たちは、最高の執り成し手を得ました。この大祭司のお陰で、大胆に神の御前に出ることができます。神の恵みにあずかることができます。

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ヘブル人への手紙 6章

2023年03月06日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 6章
この望みは、私たちにとって、いわば、魂を安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」に入り行かせるものである。
(6・19)


ヘブル人への手紙は、キリスト教会への迫害が激しさを増す中で、旧約に逆戻りしようとするヘブル人クリスチャンに宛てた励ましの手紙であることは、すでに第1章で確認しました。

当時のヘブル人クリスチャンが直面していた誘惑は、イスラエルの民がエジプトを脱出したものの、荒野での生活を苦にしてエジプトに戻ろうとした状況と似ていました。あの時、イスラエルの人々は心を頑なにしたため、神のご計画の一部分しか味わうことができませんでした。

だから、先達の轍を踏んではならない、途中で引き返してはならない、忍耐をもって約束のものを受け継ぎなさいと勧めています。私たちは、あなた方がひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるようにと願ってやまない。(6・11~12)

そのためには忍耐が必要だと諭しています。

現代社会の特徴は忍耐できなくなったことです。我慢気を失った時代です。コンビニがない頃は、欲しいものがあっても翌日に店が開くまで待ちました。電話がない頃は、手紙の返事を何日も待ちました。昔はみな待ちました。忍耐しました。

しかし、今では、早くて・便利で・安く……と追及するあまり、忍耐できない人間を大量育成する時代になってしまいました。

忍耐できなくて、すぐに切れてしまう人間が増えています。昔は、「切れる人」とは、頭の回転が早くてシャープな人のことでしたが、今では我慢できない危ない人のことになってしまいました。

神の約束を信頼して忍耐せよと聖書は繰り返し勧めています。我慢させる教育、忍耐を身に着ける教育……それは各家庭の中から見直さなければならない大切な教育だと思います。

さて、忍耐と我慢は微妙に違います。我慢できない人は忍耐もできません。我慢は「我力でひたすら耐える」といったイメージですが、聖書でいう忍耐は希望をもって耐えることです。

神の約束は必ず成就します。なぜなら、神は、ご自身の約束を誓われたからです(6・17)。人間の誓いはたびたび破られます。しかし、神はご自分を偽ることのできないお方ですから、約束したことを必ず成し遂げられます(18)

今日の聖句は、この確実な希望は「錨」の役目をするのだと教えています(19)。船が港に停泊するときや、波の荒いとき、錨をおろすことによって安定させるような役目です。

ヘブル人クリスチャンは嵐の時代を迎えていました。旧約に戻ろうか、それとも新約にとどまって信じ続けようか…。彼らの魂は揺れていました。だから、神の約束という希望の錨をおろしなさい。それは私たちの魂を安定させるのだと教えているのです。

さらに、この確実な希望は幕の内に入り行かせると教えています。「幕の内」とは、神殿の内部を仕切った幕の奥の間のことで、「至聖所」です。

神殿には手前の「聖所」と奥の「至聖所」があり、その間は幕で仕切られていました。

律法の規定によれば、一般の祭司は聖所までしか入ることは許されていませんでした。至聖所は神に最も近い神聖な場所を意味していました。ですから、数ある祭司たちの代表である〝大祭司〟以外は、だれも入ることはできない最も聖なる場所でした。

ところが、私たちに与えられた希望とは、この幕の内側である至聖所に入ることのできるようになったことを示しています。神の聖なる場所で、まことの安息に与るのです。その先駆けとなって、まず、イエス・キリストは真の大祭司となって幕の内側に入って行かれました。

といっても、人間の手で作った神殿の至聖所に入ることではありません。それは比喩であって、至聖所は天国を意味しています。くわしくは第7~9章に記されています。

大祭司なるキリストは、この聖なる恵みの御座に入られたばかりか、「あなた方も入ってきなさい」と私たちを招いてくださっています。このキリスト・イエスのゆえに、私たちも大胆に主の恵みの御座に近づくことができます。

このような、神の御言に基づく〝望み〟こそ、私たちの魂を安定させる錨となります。この望みがない人は、荒れ狂う海に揺さぶられる船のように、人生の嵐に翻弄される人です。人生の嵐の時こそ、望みという名の錨をおろして、波風に流されないようにしてください。

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ヘブル人への手紙 5章

2023年03月04日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 5章
彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に……
(5・2)


先の第4章では、私たちが安息に入ることができるようにイエス・キリストが執り成してくださっていると語られていました。そんな執り成し手であるイエスは本当の大祭司である……と。

第5章からは、イエス様が本物かつ究極の大祭司であることの論証が述べられており、これが10章まで続きます。かなりの長文です。

まず、我らの大祭司キリストは、冒頭の聖句にあるように弱さを身に負うて来られたお方です。弱さが分からない人は、どんなに優秀で完璧でも、何か信頼できないなと感じてしまうものです。

その弱さとは肉体です。御子なる神は「御使たちよりも低い者」となられたのは、肉体の弱さを身にまとって来られたという意味であることはすでに学んだ通りです(2・7)

イエス様は私たち人間と同じ弱さをお持ちの方なので、私たちを思いやってくださいます。このような救い主だからこそ信頼できます。

さて、なぜ神であるお方が弱さを負われたのか。それは、大祭司としての務めを全うするためでした。大祭司の最も重要な務めは、民の罪のための執り成しです。罪のゆるしを願うために、犠牲の血を携えて神に祈るのです。

ところが、本物の大祭司であるイエス・キリストは、動物による犠牲の血ではなく、ご自分が犠牲となって血を流し、その血を携えて神に祈られたのです。この犠牲の血を十字架で流すために、キリストは肉体という弱さをお持ちになったというわけです。

このような大祭司が他にあるでしょうか。この務めをなすためにイエスは如何に苦しまれたでしょうか。その苦悩について次のように記されています。

キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のある方に、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。(5・7)

イエス様は痛みも苦しみも感じないスーパーマンのようなお方ではありません。神なるお方なのだから、十字架の死は、それほどの苦しみではなかったなどと思わないでください。

イエス様は神の御子であると同時に人の子でした。だから「激しい叫びと涙をもって」祈らざるを得ませんでした。特に十字架前夜、ゲッセマネの園における祈りは、激しい叫びと涙による祈りでした。ルカ福音はこう記しています。

「父よ。御心ならば、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のとおりにしてください。」(ルカ22・42)

イエスはこの祈りを、弟子たちと離れた所で祈られました。それは、石を投げてとどくほどの距離の所でした(ルカ22・41)。小さな声だと聞き取れない距離です。しかし、イエスの祈りは、大きな声と叫びだったので、弟子たちはそれを聞き記録したのです。

イエス様は神の御子だから、十字架の試練を難なく受けたのではありませんでした。人の子として、イエスは本当に苦しまれたのです。その苦悩ゆえに、大声で叫ぶように祈らざるを得ませんでした。

ご自分が人類の罪の生贄となること……つまり罪の代価を支払って死ぬことは、天の父の御心であると理解なさっていました。そのために、ご自分は来たのだと、かねてから宣言なさっていました。

しかし、〝御心を理解すること〟〝御心がわが身に実現することとの間には隔たりがあります。その差を乗り越えるには、祈りしかありませんでした。聖霊の助けを受けるしかありませんでした。主がそのように祈られたので、「御使が……イエスを力づけた」わけです(ルカ22・43)

神の御心は、私にとって都合の良いこともあれば、都合の悪いこともあります。私に都合の良いことがありますようにと祈るのは、初歩的な祈りです。

クリスチャンは、神の御心がなりますようにと祈ります。主の祈りで、「御心が天でなされたように、地にもなされますように」と祈るではありませんか。

神の御心ならば、心に平安があるはずだとは一概には言えません。イエス様は、十字架で死ぬことは御心だと分かっていても、心には平安がなく、「わたしの心は騒ぐ」と言われました。また、神の御心と私の願いとは必ずしも一致するとは限りません。神の御心と私の感情とは必ずしも一致しません。

ですから、神の御心が我が身に実現するためには、戦いや葛藤が生じるのです。だから祈ります。祈らなければ従えないのです。

神の御心がわが身に実現することは、多くの場合は、自分の身に負荷がかかることです。負担を負うことになります。

私たちは、愛することが神の御心だと分かっています。でも、愛することのできない感情に押しつぶされます。愛することに負担を負います。だから、御心が自分の身になるために祈るのです。

マリヤに神の御子が受胎するという御心も、マリヤの苦悩の中で実現しました。マリヤは神の御心を受け入れるためにどんなにか祈ったことでしょう。御心がこの身になりますように……という献身の祈りがありました。

同じように私たちも祈るのです。御心がなりますように。そして、御心がわが身に実現することへの勇気と献身と従順が与えられますように祈るのです。

イエス様もそのように祈られました。そして、そのことを通して、御父に対する従順を学ばれました(ヘブル5・8)。それは、私たちが人として歩むべき道を、イエスが身をもって見せてくださったのです。

このように祈られたイエス様だからこそ、私たちの苦悩を理解してくださる大祭司です。人が神の御心に従順することの苦労を良く分かって、あわれみつつ執り成してくださいます。

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ヘブル人への手紙 4章

2023年03月03日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 4章
その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
(4・2)


旧約時代のイスラエルは、せっかく神の御言を聞いたのですが、心を頑なにしたために、約束の地に入ることができませんでした。

この約束の地とは「カナン」と呼ばれる地で、現在のパレスチナのことです。神はイスラエル民族をエジプトから救い出し、荒野を通過して、約束の地に導こうとなさいました。

約束の地カナンは「安息の地」とも呼ばれました。戦いや争いがなく、病や罪によって苦しむことのない、まさに神の御国です。そこには「永遠の安息」が用意されているはずでした。

しかし、イスラエルの人々は御言に聞き従わなかったため、40年間も荒野をさまようことになり、出エジプト当時の世代はヨシュアとカレブ以外はみな荒野で死に絶えてしまいました。40年後、ヨシュアに率いられて約束の地に入ったイスラエルは、次の世代の人々でした。

では、その新しい世代のイスラエルは安息に入ったのでしょうか。いいえ、それはまだ実現していないとヘブル書は説明しています(4・8~10)。地理的には約束の地に入りましたが、霊的な意味では安息に入っていません。

しかし、安息に入る約束は、イスラエルの不信仰によって反故になったのではありません。約束はまだ存続しています(4・1)

ですから、旧約の預言者たちは「安息の完成」を予告し、その安息はキリストによって実現するのだと語りました。

キリストはどのようにしてこの安息を完成なさるのでしょうか。最終的にはキリストが再臨なさって、神の国が興されるときに安息は完成するはずです。

神の安息には3段階があります。

①キリストを信じて内側に受ける安息。
  外側には諸問題が渦巻いていますが、内には安息があります。

②再臨のキリストが統治する王国における安息。
  ヨハネの黙示録では「千年王国」と呼ばれる地上における至福の期間です。

③新しい天と地における永遠の安息。

このように、イエスにある救いは、広範囲な領域を網羅しています。①のように、各自の内面における安息から始まって、主イエスの再臨を忍耐強く待って完成する安息もあります。そして、やがて古い天も地も滅びて、新しい次元の安息もあります。

ところが、救いを実感できなくて、救いとか安息は遠い向こう側にあるかのように思っている人も多いのです。そこに到達するまでは、「欲しがりません勝つまでは……」みたいな我慢や苦難の連続をイメージしているのです。

しかし、ヘブル人への手紙では〝いま〟〝きょう〟、神の安息に入るのだと教えています。もちろん、②や③の安息は時を経なければなりませんが、①の安息は〝きょう〟です。

だから、〝きょう〟神の御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはならないと勧めているのです。

そんな〝きょう〟の積み重ねが、②の千年王国における安息や、③の永遠の安息につながります。大事なことは、〝きょう〟という日に主が導き入れられる安息をコツコツと体験する積み重ねです。

イスラエルの民はせっかく出エジプトして、エジプトの王パロの支配から救われたのに、救いの一部を体験しただけでした。神は、私たちに全部を与えたいのです。神は安息を小出しになさっているのではありません。ご自分のすべてである御子をさえくださるほどに、愛してくださったのですから……。

ですから〝きょう〟の安息を日毎に積み重ねましょう。その秘訣は冒頭の聖句にあるように、御言を信仰によって結びつけることです。

「御言」と「安息に入ること」との間には深い関わりがあるのです。いかにして、御言は信仰によって結びつくのか考えてみます。そして、それが〝きょう〟の安息になるのです。

(1)御言を自分のこととして聞く。

御言を他人事として聞くのではなく、私のこととして聞くとき、御言は信仰によって結びつきます。御言を、神が〝私に〟語ってくださった言葉として受け取るとき、それは文字ではなく、霊として私の霊魂にとどまるのです。

すると、「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」ので、私の内側をきよめ、神の安息をいただくことになるのです(4・12)

(2)御言を主人として迎える。

御言を聞いても参考にする程度ですか。それでは信仰によって結びつきません。御言を私の心に〝主人〟として迎えます。

イエス様は言われました。「人の子は安息日の主である」と。つまり、イエスが主人として臨在なさるところが安息なのです。イエスの周りにはいつも罪人たちが集っていました。でも、そんな〝わけあり者の集まり〟は、いつも安息でした。イエスを主として迎えていたからです。

そのように、神の御言を聞いたら主人として迎えるのです。旧約の民は自分たちの考えを主人としたので、安息に入りそびれたのです。

(3)御言を聞いて実行する。

ヘブル書は「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と繰り返し勧めています。そうです。御言を聞いたら心を頑なにしないで実行してみることです。

御言を実行することで、御言は信仰によって結びつきます。つまり、身につくということです。聞くだけで実行しなければ結びつきません。身につきません。それは砂の上に家を建てるようなものです。

イエス様が言われたように、御言を聞いて実行するのです。すると、御言は信仰によって結びつき、身につき、それは岩の上に家を建てることになるのです。それこそ揺るがない「安息」です。

旧約の民は、御言を聞いても実行しなかったので安息に入りそびれたのです。だから、私たちは聞いたら実行してみます。

御言の通りに〝実現〟しなくても問題ありません。大切なことは〝実行〟することです。失敗しても大丈夫です。心配には及びません。

私たちの救い主であり大祭司であるイエスは、私たちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、全てのことについて、私たちと同じように試錬に会われたのですから、主は私たちの弱さを配慮しながら、安息に入れるように導いてくださいます(4・15)

旧約の時代にはこのような大祭司が存在しませんでした。でも今は主イエスが本物の大祭司となって、私たちと共におられるのです。

次の第5章では、そのことを論証しています。大祭司なるイエスが、今日も私たちを執り成してくださっています。この大祭司を信頼して安息に入るのです。


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ヘブル人への手紙 3章

2023年03月02日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 3章
聖霊が言っているように、「今日あなた方が御声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなた方の心をかたくなにしてはいけない」。
(3・7~8)


御子イエスが来られる以前(旧約の時代)、神は預言者を通して語られました。その預言者の代表的な人物がモーセであり、彼を通して語られた神の御言は律法です。

しかし、終わりの時(新約の時代)、神は御子イエスを通して語られました。御子によって語られた御言は神の完全なる啓示です。それを総じて福音と呼びます。律法は仲介者を通して語られた神のことばであり、福音は神の御子が直接に語った神のことばです。

どちらに重きがあるかといえば、当然、御子を通して語られた福音です。ですから、モーセではなく御子イエスに聞き従います。

イエスの御姿が栄光で輝いた、あの変貌山の出来事を思い出してください。その場にはモーセとエリヤの姿も現れて、その時の天からの御声は、わたしの愛する御子に従えと語られました。モーセとエリヤは旧約の代表的な預言者ですが、もはや彼らではなく御子イエスに従う時代が来たというのが、このの出来事が意味するところです(マタイ17・1~5)

さて、ヘブル書の第3章では、旧約のイスラエルの民は、モーセを通して語られた神の御言を聞いたにもかかわらず、御声に従わなかったことを取り上げています。

イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。荒野を旅し、ついに約束の地カナン(安息の地)を目の前にした時、「この地に入れ」という神の御声を受けました。しかし、イスラエルの人々は、カナンの住民が大きくて強い民であるのを知って恐れ、御声に従いませんでした。その結果、イスラエルの人々は約束の地に入ることができませんでした。

その失敗を例にあげて、新約の時代、御子を通して語られた御言に躊躇せずに従いなさいと、教えているのです。旧約のイスラエルと同じ轍を踏んではならないと……。

えっ!?イスラエルの民はその後、約束の地に入ったではありませんかと質問も出てくるでしょう。整理しておきます。地理的には約束の地に入りましたが、霊的な意味では約束の地……つまり安息の地に入ったのではなかったのです。

旧約の民は約束の地に足を踏み入れたが、そこは安息ではなかった。誘惑、不信仰、堕落等々の戦いの連続でした。だから、彼らは「安息を得なかった」という意味です。それで、その安息に入る約束は新約の民が入るために残されているのだ、とヘブル書は語っています。それが次の第4章の内容です。

今日の第3章では、旧約の時のように、心をかたくなにしてはならない。新約のクリスチャンは、御子を通して語られた福音に従いなさいと教えています。おさえるべきことは「心を頑なにしてはならない」です。「頑な」は頑固の〝頑〟です。つまり、神の御言を聞いたら頑固になってはいけません。頑固な人は、一旦、頑固になると益々頑固になります。だから、注意しなければなりません。

イエス様は、御言を「種」に例えて話されました。石地にまかれた種は根付くこともできず、鳥が啄んでしまいます。だから、よく耕された土地に種がまかれると豊かに実ります。そのように、イスラエルの人々の心は石地の心でした。モーセを通して語られた御言を素直に受けることができませんでした。モーセの指導者としての身分を疑う人もいました。反抗する人もいました。かくして、心を頑なにした人々は荒野で滅びてしまいました。心の頑固な人は、せっかくの救いを台無しにしてしまいます。

なぜ、イスラエルの人々は心を頑なにしたのか。エジプトを出たものの、その後の生活が苦しかったからです。エジプトの方が良かったとなつかしんで、荒野の生活に不満をもったからです。

私たちも、イエスを信じたからといって楽なことばかりではありません。信じる以前の方が良かったと思えることもあるのです。

初代教会のクリスチャンたちも同様の状況にありました。迫害が激しくなるばかりで、特にヘブル人クリスチャンにとっては、ユダヤ教の時の方が良かったと思える状況でした。

だから、心を頑なにしないで信じ続けなさい。励ましあって前進してください。最初の確信を最後まで持ち続けるなら、私たちはキリストにあずかるのだと教えられています(3・13~14)

祈りましょう。聖書の御言を、よく耕された心で受け取ることができますように導いてください。その御言が芽を出し実を結ぶことによって、安息の地の恵みに導かれるようにしてください。

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ヘブル人への手紙 2章

2023年03月02日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 2章
子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
(2・14~15)


「子たち」とは人間のことです。その私たち人間が肉と血……つまり肉体をもつ存在なので、イエスも同様に肉と血をもつ者として世に来られました。

順序としては次の通りです。まず、神は人を御子イエスに似せ、かつ肉体(肉と血)をもつ存在として創造なさいました。そして終わりの時代に至って、御子イエスは、肉体をもつ人間を通して「人の子」として誕生なさいました。

それは、御子イエスが肉と血をもって世に来られるためでした。

肉体には弱さや限界があります。傷つけば血を流し死んでしまう、そんな限界と弱さを持つのが肉体でありまた人間です。なぜ、神は人間をかくも弱い存在に創造なさったのか。しかも、よりによって、御子イエスご自身もそのような弱さを持って世に来られたのでしょうか。この謎解きはとても深い意味が込められています。

同じ霊的存在である御使(天使)は肉体がないので、人間のような弱さがありません。パンを食べたり眠る必要がありません。肉体の制限がないので、天と地を行き来できます。※神のご用をするために強さや完璧さこそ必要であれ、弱さは返って不利だと思われる。しかし、あえて神の御業のために人間の弱さを必要とされたのだ。

現状だけを見れば、人間は御使より低い者のようです。そして、その人間を通して世に来られた御子イエス様も、肉体をとって来られたゆえに、御使よりも低い者となられました(2・9)

でも、だからこそ、神は人間をあわれんでくださっています。旧約の聖徒は、人間が何者だから、これを御心にとめられるのでしょうかと驚きつつ創造主なる神を讃美しています(2・6~8)

人間が弱くされたのは、神の御子イエスが弱い存在として世に来られるためでした。鞭を打たれ、十字架につけられれば、血を流して死んでしまう……そんな弱い存在として世に来るためだったのです。

そして、ついに御子イエスは肉体すなわち肉と血をもって世に来られました。そして、十字架で肉を引き裂かれ、血を流して死なれました。

このような「死」を成し遂げるために、イエスは肉と血をもって世に来られたのです。それは、イエスの死が悪魔を滅ぼすことになるからだと聖書は記しています。死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼすためです(2・14)

この場合の「滅ぼす」という言葉が示す範囲には幅があります。というのは、イエスが十字架で死んで復活されましたが、悪魔(サタン)はいまなお存在し、働いています。だから、「滅びていないじゃないか」と思います。悪魔の最終的な滅びは、悪魔が地獄に投げ込まれる時であり、イエス・キリストの再臨後のことになります。そのことも全部を含めて「滅ぼす」と表現されています。人間の時間感覚だと「まだ滅びていない」と思えるが、時間を超越した神の目には、悪魔は滅んでいるのです。

ですから、現時点では、悪魔の〝わざ〟が滅ぼされたと解釈するのがよいでしょう。実際に弟子のヨハネもイエスの初臨について、「神の子が現れたのは、悪魔の〝わざ〟を滅ぼしてしまうためである」と記しています(Ⅰヨハネ3・8)

それまで、悪魔による人間の支配は合法的でした。なぜなら人間は罪人だからです。罪を根拠に、悪魔は人が神に立ち返ることができないように支配してきたわけです。しかし、キリストが十字架で、罪の代価である死を支払われたので、私たちは悪魔に支配される根拠がなくなりました。

さらに、イエスは復活によって死の力を打ち破られました。それまで、死は悪魔の持つ最大の武器でした。この武器でおどされて、私たちは死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者」でした(ヘブル2・15)。しかし、イエスの十字架の死と復活によって、罪と死という悪魔の〝わざ〟は滅ぼされたのです。ですから罪と死はもはや無力です。

日本の法律では暴力団の働きは違法です。だから、法的には彼らを恐れる理由がありません。もし脅されても、法律に則って抵抗すれば勝利します。それと同じように、悪魔のわざは滅ぼされました。罪と死を根拠に悪魔のもとで恐れる必要はありません。闇の世界から抜け出そうと決意するなら、イエスの十字架を根拠に出てくることができます。イエスは十字架の死と復活によって勝利されたからです。

とはいえ、先ほどの話になりますが、暴力団が威圧的な態度で来たら萎縮しますよね。それと同じように、悪魔はいまだに私たちを支配しようと脅してくるのです。でも、知ってください。それは非合法です。勇気を出して立ち向かえば、勝利できます。毒牙をぬかれた毒蛇みたいなものです。見た目は恐ろしいですが、悪魔の毒牙である罪と死は根こそぎ抜かれてしまったのです。

だから、聖書は悪魔に負けてはいけない、悪魔に抵抗しなさいと命じています。十字架の勝利を信頼してください。私たちはすでに勝利しているのです。

◆◆◆◆◆◆

さあ、もう一度論旨を整理しておきます。

神はあえて肉体を持つ人間の弱さを必要となさったのです。神の御子イエスが弱さを担って世に来られたのは、その死をもって悪魔(サタン)をさばくためだったからです。

神は人間を弱く創造しておいて、罪を犯す弱い人間を地獄に入れようとなさったのではありません。そんな非情な神では決してありません。人間の弱さを用いて神は悪魔に勝利なさったのですから、神は弱さのある私たちに深いあわれみを注がれるのです。

ですからこう記されています。イエスは神の御前に哀れみ深い忠実な大祭司となって、民の罪を贖うためにあらゆる点において兄弟人間たちと同じようにならねばならなかったのです(2・17)
 
主イエスは私たちと同じ肉体の弱さをもって地上で働かれたのですから、私たちの弱さを充分に理解してくださるのです。そして、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるおかたなのです(2・18)

これを知るとき、自分の弱さは自己卑下するための根拠にはなりません。

肉体の弱さという点では、救い主イエスも私たち人間も同じ目的のもとに定められているからです。「実に、きよめる方も、きよめられる者たちも、皆ひとりの方から出ている」のです(2・11)。それゆえに、我らの主は私たちのことを「兄弟と呼ぶことを恥とされない」のです(2・11)

肉親の感覚では、兄弟たちの中に〝出来の悪い子〟がいると、同じ兄弟だというのを恥とする感覚があります。でも、イエス様は違います。罪人の私たちを恥とは思わず「わが弟よ」「わが妹よ」と呼んでくださるのです。

神は弱さのある人間にこう言われるでしょう。

「御子イエスが弱さを担って世に来るために、人間たちよ、お前たちを弱さの中に閉じ込めたのはこのわたしだ。御子が人としての弱さゆえに死んで悪魔を滅ぼすために、人間たちよ、お前たちもよくぞ罪の中で、悪魔と戦い苦しんでくれた。だから、お前たちの罪の弱さを恥としないのだ。」

ここに人の弱さに込められた神の意図があります。これが分かったら、イエスはもはやあなた方をしもべとは呼ばない、〝友〟と呼ぶのだとも言われました。キリストと私たちは、こんな親しい関係のあるのです。こんな深い意図のもとに創造された存在なのです。

万物創造の始めに、なぜ神は人間を肉体のある者として造られたのか。なぜ、蛇(悪魔)の誘惑のある環境の中に置かれたのか。深遠なる神の意図がここにあるのです。そのことをヘブル書は次のように述べています。新改訳が分かりやすいので、その聖句をもってこの章を終わります。

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(2・10)

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ヘブル人への手紙 1章

2023年02月28日 | ヘブル書
ヘブル人への手紙 1章
終りの時には、御子によって、私たちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、諸々の世界を造られた。
(1・2)


ヘブル人への手紙は「ヘブル教会」呼ばれる教会があったわけではありません。ヘブル人とはユダヤ人のことで、イエスをキリストと信じたヘブル人クリスチャンに宛てて記された手紙です。

そもそも、初代教会の構成員の中心はヘブル人たちでした。旧約聖書にしっかりと根をおろしたヘブル人クリスチャンたちが、各地の教会の核となって教会を支えていました。

しかし、折しも迫害はきびしさを増す時代、クリスチャンの中には棄教する者たちも出てきました。当時の迫害は次のようなデマや誤解が理由でした。

①聖餐式でイエスの肉と血を受けるクリスチャンたちは、人肉を食う恐ろしい連中だ。
②家族の中に信者と未信者がいる場合、そこに考え方や習慣の違いが生じるため、クリスチャンは家庭を破壊する者だ。
③クリスチャンはローマ皇帝(カイザル)を主と告白しないので、国賊であり反逆者だ。
④クリスチャンは、聖書の預言をもとに、終わりの日にこの世界は火で焼かれて滅びると語ったことから、クリスチャンは放火魔だと揶揄された。

……などがあげられます。

そうすると、ヘブル人クリスチャンの中には、自分たちは怪しげな新興宗教に踊らされているのではないかと疑う者も現れて、昔の旧約に基づくユダヤ教に逆戻りする者たちが出てきました。 ※ユダヤ教は当時、既にローマ帝国で公認された宗教であったので、ユダヤ教徒であることの方が安全であった。

そういうわけで、この手紙は、旧約と新約を比較しながら、イエス・キリストによる新約の確かさを論証する構成になっています。対象は旧約聖書に深く根を下ろしたヘブル人クリスチャンです。そのため随所に旧約聖書からの引用があります。でも、その旧約の記録は、イエス・キリストにあって完成しているのだという論述形式になっています。

異邦人クリスチャンである私たちがヘブル人への手紙を学ぶことは、新約の根っ子を探究することになり、根の張った土台を据える作業になります。

◆◆◆◆◆

さて、神はご自分を隠しておられるのではありません。人間が懸命に神を捜し出そうとしているのに、意地悪をして隠れておられるのではありません。神は常に私たちに語りかけておられます。

旧約聖書の時代、神は預言者たちを通して語られました(1・1)。つまり、直接、神が語られたのではありませんでした。ですから、神のことをすべて言い表すことはできませんでした。旧約で語られたことは部分的で限定的です。

しかし、終わりの時には―新約時代のことを〝終わりの時〟という―御子イエスによって語られました。この「語られた」とは、単にイエス様の口から出た言葉だけではなく、イエスご自身、その生涯すべてが神の〝語りかけ〟だという意味です。

神は、御子イエスを通してご自分のすべてを明らかになさいました。このイエスを知ることが神を知るこです。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのであるとはそういう意味です(1・3)

「わたしを見た者は父を見たのだ」とイエスが言われたように、父なる神の輝かしい栄光も、罪に対するきびしいさばきも、罪に苦しむ人間への愛も、尊い神の名も……、すべて御子イエスによって神は見せてくださいました。イエスご自身も弟子たちに「わたしの父から聞いたことをみな、あなた方に知らせた」と言われたとおりです(ヨハネ15・15)

ですから、この御子イエスを無視して神を知ることができません。イエスは〝門〟です。イエスを無視して神を知ろうとする者は、門を通らず、塀を乗り越えて入ってくる盗人のようなものです。

冒頭の御言は神は御子を万物の相続者と定め…と記されているように、被造界はすべて御子イエスのために創造され、御子が相続者です。このようにして、神は、ご自身の栄光を、御子イエスとその御子が相続すべき被造物によって表現なさいました。

このように神の御子イエスは、立場においても、また働きにおいても御使たちのそれとは違います。その違いを4節から論述しています。

(1)イエスは受け継いだ名がすぐれている。(4)

新約になって御子が受け継いだ名はイエスです。父から受けた名です(ヨハネ17・11)。かたや、御使が受けた神の名は「主」とかヤァウェという名です。旧約ではこの名が表されました。

しかし、罪をゆるし救う権威ある名はイエスです。この名の他に、天下のだれにも与えられていない権威ある名です(使徒4・12)。このように、イエスの名は御使たちの受け継いだ名よりすぐれています。

(2)イエスは神の御子だ。(5)

詩篇2篇7節の「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」を引用してイエスこそ神の御子だと説明します。この「生んだ」とは創造したという意味ではなく、あらわれたといったニュアンスです。御使は神が創造したのですが、イエスは父のふところにおられた御子が、見える姿であらわれたのです(ヨハ1・18)。御使は神のしもべの立場ですが、イエスは神の御子という立場であって、決定的な違いです。※この聖句から、イエスは創造された天使たちのひとりだと解釈し、イエスの神性を否定する異端がある。

(3) エスは礼拝を受けるお方だ。(6~7)

イエス様は礼拝の対象となるべきお方です。でも、御使は違います。使徒ヨハネは御使を拝もうとしたことがありましたが、御使は「そのようなことをしてはいけない。私はあなたと同じ僕仲間である」と述べて礼拝を拒絶しています(黙19・10)

(4)イエスは御国の支配者だ。(8~13)

御子イエスの「御座」とか「杖」について述べていますが、それは御国の支配を意味します。また、天地はやがて古くなった外套のようにして、それを脱いで新しい世界を着るようにして、イエスは万物を支配なさると表現されています。このような立場は御使には与えられていません。

(5)御使は仕える霊だ。(14)

要するに御使(天使)は神の御子に仕える立場に過ぎません。神の子でもありませんし、礼拝の対象でもありませんし、支配者でもありません。旧約は御使たちが活躍した時代だったので、御使はすばらしく輝いて見えたでしょう。しかし、御子イエスの栄光の輝きとは比較になりません。太陽の光の前で輝きを失った蝋燭の光のようです。

さて、その御使は御子イエスに仕えるだけでなく、救いを受けた私たちにも仕える存在です。序列でいえば、御子イエス、次に御使たち、その次に人間というイメージでしたが、正しくは、御使は人間に仕えるしもべの立場です。

それは人間が、神の創造の意図の中でどのような意味をもつのかに関わっています。神は、私たち人間を特別な存在として創造なさったことを忘れてはなりません。それは、神が、私たちを神に似せて創造なさったことです。突きつめて言うなら、人間は御子イエスに似せて創造された存在です。

人間は、今は肉体を持つ存在であり、同じ被造者である御使(天使)からすれば低い立場のようです。しかし、御子イエスも人間と同じ肉体をとって来られ、御使たちよりも低い姿になられました(2・9)

肉体は弱い存在です。かたや御使には肉体がないので―彼らは〝霊の体〟を持っている―パンを食べなくても働けるし※睡眠をとる必要もありません。肉体の制限がないので、地と天を行き来することもできます。※御使の食物とは神の御言(命令)だ。神の御言に従うことが生きるための食物である。この点では人間も同じ。

しかし、肉体を着た私たち人間は―そして御子イエスは―御使より低い姿として世に遣わされました。そんな肉体という弱さを持つ「神の子」ではありますが、「御使」とは決定的に身分が違うのです。

さあ、何のために人間は御使よりも低い者として創造されたのか。それは、なぜ御子イエスが肉体をとって世に来られたのかという疑問と密接に関わっています。次の2章のテーマです。

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