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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの福音書 21章

2024年10月26日 | ヨハネ福音書
ヨハネ21・17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。

ペテロにとって、「イエスを知らない」と否んだことは、大きく深い傷になっていました。復活の主にお会いしたにもかかわらず、心は晴れません。裏切り者の自分は教会指導者として、否、クリスチャンとして相応しくない……と。

そんな後悔と自責の念で苦しんでいたペテロたちに、復活のイエス様は出会ってくださり、再出発を後(あと)押ししてくださいました。

(1)原点に立ち返れ。

主はガリラヤで出会ってくださいました。ガリラヤは弟子たちがイエス様と出会った場所です。しかもその時も一晩中働いても獲物がなかった……この状況は、かつてペテロが召された時と同じです。

約3年前のあの時もそうでした。「沖へこぎ出して網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみたところ大漁でした。その時、「あなたは人間をとる漁師になるのだ」と召され、ペテロはイエスに従ったのでした(ルカ5・1~11)

同じ場所で、同じ状況で、イエス様は弟子たちの立ち返るべき原点を思い起こさせてくださいました。

どんな挫折や失敗があったとしても、原点さえしっかりと押さえていれば、多少のゆがみや横道も、修正可能です。イエス様と出会った原点を再確認しよう。迷ったときは原点に立ち返ろう。

(2)原点……それは「主を愛する」こと。

傷心しきったペテロの心に、仲間のだれもふれることができなっかったことでしょう。傷ついた心をいやすために、人間的な励ましも慰めも、返って逆効果な時があります。

この時のイエス様は「わたしを愛するか」とたずねられました。「あの時、どうして、わたしを知らないと偽ったのですか」とは問われませんでした。「今後わたしを知らないなどと言わないだろうね」と念を押すこともなさいませんでした。

ただイエスの質問は「わたしを愛するか」。このひとつだけです。

過去の失敗を乗り越えるために、ああすれば良かったとか、あの人があんなことをしなければ……と考えても、堂々巡りが続くだけです。必要なことはイエスを愛することです。

「主イエスよ、私はあなたを愛します」という告白からすべての再出発が可能です。

ペテロが今まで愛していたのは、イエス様ではなく自分自身でした。リーダーとして目立つ自分、脚光を浴びる格好いい自分を愛していたのです。

かつて、イエス様から、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責を受けたペテロでしたが、主が指摘なさったとおり、ペテロはイエスを愛していたのではなく、人(自分)のことを思っていたのです。

告白しましょう。「主よ、私はあなたを愛します」。ここから、すべてが始まります。「主を愛する」ことが原点です。

(3)イエスは弱さも丸ごと受け止めてくださる。

イエスが愛するかと問われた時の愛は、〝アガペ〟というギリシャ語です。アガペとは、「無条件の愛」「完全な愛」のことです。つまり、「わたしをアガペするか」とたずねられたわけです。 ※ギリシャ語で、「愛」は、①アガペ……無条件の愛、神の愛。②フィレオ……友情の愛。③エロス……男女の愛。この三つがある。

かつてのペテロであれば、「はい、もちろんアガペします!!」と 自信満々に 応えたことでしょう。しかし、おのれの弱さを知った今では、自信なげに「フィレオします」と応えました。トーンダウンした感じです。フィレオとは「友情の愛」のことです。

同じ質問と応答のやり取りがもう一度あって、三度目にイエスが質問なさった時は「アガペするか」ではなく「フィレオするか」とたずねられました。つまり、ペテロの自信なげな「フィオレの愛」を認め、受け止めてくださったわけです。

ペテロも私たちも、イエス様を愛する愛は不完全です。フィレオの愛にさえ及ばないかも知れません。私たちの愛は、破れの多い継ぎはぎだらけの愛です。でも、イエス様はそんな私たちの愛を丸ごと受け止めてくださって、「わたしをフィレオするんだね」と、最後は問い直してくださいました。

イエス様は私たちをアガペの愛で愛してくださいます。たとえ、私たちからアガペの愛が返ってこなくても……です。だからこそ、イエス様の愛は「アガペ」なのです。無条件の愛、完全な愛なのです。

私たちは、フィレオだろうが、不完全な愛であろうが、ただひたすら主を愛することに努めるしかありません。そんな拙(つたな)い私たちの応答を、主イエスは丸ごと受け止めてくださるお方なのです。

◆◆◆◆◆

さて、神の私たちへのご計画は各々異なります。主はペテロに対して次のように預言されました。

あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。(21・18)

若い時は思いのまま生きてきたが、晩年は自分ではどうにもならない境遇で苦労するという意味ですが、結果的には、ペテロは迫害者の手によって殉教することになります。

イエスを信じるとは、順調な将来が約束される事ではありません。順境の時も逆境の時もあります。どんな境遇の中でも、与えられた使命を主と共に果たすことです。他者(ひと)は平穏に暮らしているのに、自分には試練があるかも知れません。それでも、神の愛を信頼して従うのが信仰です。

その道は各自みな違います。他の人と比べてもしかたがありません。とはいえ、自分が苦労していると、なぜ私だけが……と他者(ひと)が気になるものです。

だから、ペテロは「イエスの愛された弟子」のことが気になりました。それは十二弟子の中のヨハネのことだと思われます。同じガリラヤ出身で漁師仲間です。イエスの弟子になったのもほぼ同じ時期でした。

ヨハネ福音書では、ペテロとヨハネが互いに気になる相手であることが随所に表れています。復活の日にどちらが先に墓に着いたとか、どちらが先に墓の中に入ったとか……。

ペテロは自分の最期(さいご)を思いつつ、では、ヨハネはどうなのかと気になって質問したわけです(21)。イエスの答えは明快です。

たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。(22)

弟子によって働きも最期も違いました。聖霊降臨して、これからという矢先にヨハネの兄ヤコブは殉教しました。しかし、ペテロは牢獄から救出されました。

また、ヨハネは流刑ではありましたが生きのびて、世の終わりについて預言する使命を得ました。トマスは遥かインドにまで宣教に遣わされたと伝えられています。

神の大きなご計画の中で、弟子たちの働きは様々です。殉教する者、聖書を書き残す者、バルナバのように弟子教育に尽力する者、先の19章で取り上げたアリマタヤのヨセフやニコデモのような働きに召された者もいます。また、名も記されていない多くの弟子たちの働きがあります。比較しても意味がありません。神のみわざのためにそれぞれが召されています。それはみな異なります。

まるでジグソーパズルの各ピースのように、みな形も絵柄も違います。でも、それらが組み合わさって、イエス・キリストの栄光の御業(みわざ)が描かれるのです。

ある人があなたより活躍しても、あなたと何の係わりがありますか。ある人が怠けていても、あなたと何の係わりがありますか。あなたはあなたです。あの人はあの人です。各々が主イエスを愛して従います。これが私たちの生き方です。

イエスを愛する生き方からぶれてはいけません。

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ヨハネの福音書 20章

2024年10月25日 | ヨハネ福音書
ヨハネ20・29 イエスは彼(トマス)に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、幸いである」。

弟子たちは、イエスこそキリストであり、イスラエルの王、そして神の御国の王として支配なさるお方だと信じていました。

ところが、ローマ総督ピラトは、ローマに対する反逆罪でイエスを処刑しました。当然、イエスと行動を共にしていた弟子たちも、同罪で捕らえられる可能性がありました。ですから、弟子たちは恐れていました。その様子を聖書はこう記しています。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると……(20・19)。「その日」とは、日曜日のことです。イエスが十字架で死なれた金曜日から3日目のことです。

イエスの弟子たちは日曜日に集まっていました。この時の集まりは、恐れる者たちの弱くてみじめな集会でした。でも感謝なことは、そんな集いに復活の主は出席してくださったのです。

イエスが入って来て、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。(20・19~20)

このことは何を意味していますか。私たちが集まるところに、主イエスも共におられるのです。わたしの名によってふたりまたは三人が集まるところに、わたしも共にいると約束なさった通りです。

ところが、弟子のトマスはその集まりにいませんでした(20・24)

なぜトマスは一緒にいなかったのか。イエスが十字架であっけなく死なれたことに失望したのでしょうか。それとも、威勢のいいことを言っていたペテロの不甲斐(ふがい)ない姿に失望したのでしょうか。

仲間と一緒にいるのが楽しいので教会に集っているのなら、その交わりにヒビが入ると集うのが嫌になります。牧師に魅力を感じて集っているなら、その牧師に失望したら教会に集わなくなります。

そうではなく、私たちが日曜の礼拝に集うのは、復活の主にお会いするためです。もちろん、この肉眼で見ることはできませんが、聖霊なる神は、礼拝の中で主イエスとの出会いを導いてくださいます。

何はともあれ、最初の復活日の礼拝は、喜びも希望もない集会でした。惨めで哀れな集会でした。しかし、そんな弟子たちが〝集まっていたところに〟復活のイエスが現れてくださったのです。その礼拝には力強い賛美はありませんでした。霊感あふれる祈りも説教もありませんでした。

でも、大切なことはイエスの名によって集まることです。

さて、第2週目の日曜日には、トマスも共に集っていました(26)。この時のトマスは不信仰でした。主イエスの復活を信じられないでいました。でも、そんなトマスにも、主は現れてくださいました。

なぜですか。それは集まっていたからです。

トマスは、「イエスが復活なさった」という弟子たちの証言を信じられずに、こう言ったのです。「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をその脇にさし入れてみなければ、決して信じない」(25)。でも、そんな不信仰なトマスにも、イエス様は現れてくださいました。

なぜですか。くどいのは承知の上で申し上げます。集まっていたからです。

私たちはいつも信仰深いわけではありません。不信仰な時もあります。しかし、どんな状態であれ、イエスの御名によって集まるので、そこに復活の主が共におられて、私たちを励ましてくださいます。だから、時が良くても悪くても集まるのです。

さて、復活のイエスは、見ないで信ずる者は幸いだと言われました(29)

どうして、見ないで信じることが幸いなのですか。私たちには、トマスが希望したように、この目でイエスを見て、この手でイエスの釘あとを確認した方が確実に信じられると思うのですが……。

しかし、目で見たり手でふれたりという肉の感覚は一時的で、すぐに消えてしまいます。その肉の感覚に頼ろうとすると、その感覚をたえず満たし続けなければならなくなります。それは際限なく続きます。

肉体は永遠ではないので、肉の感覚も永遠ではありません。永遠でない感覚で永遠を見ようとしても無理です。朽ちる感覚で朽ちないものをつかもうとしても無理なのです(Ⅰコリ15・50)

しかし、私の内なる霊の感覚は永遠です。霊で体験したことは永遠に残ります。御言も肉の感覚で「見る」のではなく、霊の感覚で「信じる」とき、私たちの霊魂にとどまります。しかも、永遠に消えることにない聖霊の刻印としてとどまります。

「信じる」とは肉体の機能ではなく霊の機能です。肉体の各器官は、見たり、さわったり、味わったり、嗅ぐ機能がありますが、霊は「信じる」という、肉体にはない特別な機能をつかさどっています。

御言を記憶することは、肉体の脳に保存することです。ですから、脳の機能が低下すると御言は消えてしまいます。しかし、御言を信じるとき、それは霊に記録されます。聖霊によって刻まれます。だから、その御言は永遠にとどまります。

信じる者になりましょう。信仰は見ることによるのではなく、聞くことによります。それは、神の御言を聞いて信じることによります。「イエスは復活した」という証言を聞いて信じる者に幸いがあります。

◆◆◆◆◆

さて、復活のイエスが弟子たちに御姿を現して開口一番、平安あれと言われました(20・19)

かつてわたしが与える平安は、世が与えるようなものとは異なる(14・27)と約束されましたが、世の平安とどのように異なるのでしょうか。

それは死に打ち勝った平安です。復活されたイエスこそが与えることのできる平安です。また、罪に打ち勝った平安です。罪の支払いである血をあの十字架で流して「完了した」と宣言されたイエスだからこそ与えることのできる平安です。そして、主が与える平安とはゆるしです。赦(ゆる)しこそが真の平安をもたらします。このように、世が与える平安とイエスが与えてくださる平安とは大きく異なるのです。 ※「完了した」というギリシャ語「テテレスタイ」は商業用語にも使われており、「完済した」という意味。罪の代価は完済したという意味だ。だから、罪の借金はゼロである。

次に、イエスは弟子たちを派遣なさいます。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす(20・21)。ここにイエスを信じた者の使命があります。

人は何のために生きているのか。人類永遠のテーマです。もちろん個人的な各自のテーマがあります。就職や結婚や趣味等々。それらを否定するものではありません。大いに人生を謳歌しましょう。ただ、最終的には、イエスが与えた使命に集約されることを忘れないことです。

父がイエスをお遣わしになったようにが鍵です。天の父が御子イエスを派遣した目的は何か。幾つか項目を挙げることができますが、ここではひとつに絞りましょう。

父なる神は、ご自身の愛を世に現すために御子イエスをお遣わしになりました。

それと同じように、主イエスは私を世に遣わされました。人それぞれ生き方は違います。それでいいのです。各自の生き方で神は愛であることを現わすのです。各々の得意なことで「神は愛である」ことを表現するのです。そのことのために、イエスは私たちを派遣なさっています。

そして、イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろうと(22~23)。

先の「神の愛を現す人生」は聖霊を受けなければ不可能だからです。しかも息を吹きかけてとは興味深い記述です。神は人にいのちの息を吹き入れて、生きる者(生霊(いけるもの)・文語訳)になさったという創世記の記録に似ています(創2・7)。人は聖霊を受けて、本当の意味で生きる者になるのです。文語訳では「生霊」と書いて〝いけるもの〟と読ませています。人は霊が生きてこそ人なのです。

だから、この聖霊を受けて、私たちは神は愛であるを伝えます。愛の本質である「ゆるし」を伝えます。そのために、私たちは派遣されています。父なる神が御子をお遣わしなった目的と同じです。

単に「ゆるし」を宣言するのではありません。ゆるすために遣わされています。同様に、「神は愛である」と宣伝するのではありません。宣伝ではなく神の愛を実行するためです。

「ゆるされない罪」が残らないように、私たちはゆるします。これをパウロは和解のためのキリストの使者だと表現しました(Ⅱコリ5・20~21)

この任務を全うするために、主は「聖霊を受けよ」と息を吹きかけて、私たちに聖霊を注いでくださいました。これこそ、人が真に生きる姿です。

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ヨハネの福音書 19章

2024年10月24日 | ヨハネ福音書
ヨハネ19・36 これらのことが起ったのは、その骨はくだかれないであろうとの聖書の言葉が成就するためである。

イエス様の十字架の死は、偶発的な事件ではありません。また、神の国を世にもたらそうとしたが失敗して十字架で死なれたのでもありません。御子なる神が十字架で死なれることは、天地の造られる前から定められていたことです(Ⅰペテロ1・20)

また、主ご自身も、だれも、わたしから命を取った者はいません。わたしが自分から命を捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのですと言われました(ヨハネ10・18)

つまり、イエスの死はすでに預言されていたことなのです。たとえば、過越(すぎこし)の祭で生贄(いけにえ)の小羊が屠(ほふ)られるのがならわしでしたが、その小羊は、イエスが十字架で死なれることの預言です。ですから、バプテスマのヨハネも、イエスについて、世の罪を取り除く神の小羊と証言しています(ヨハネ1・29)

過越の祭では、人々の罪のゆるしのために、吟味された最良の小羊がいけにえとしてささげられました。イエスが十字架で死なれたのは、実に、この過越の祭の日でした。

動物である小羊の血は、人間の罪を完全にきよめることはできません。あくまでも代用品です。ですから、毎年、過越の祭のたびに、小羊は殺されなければなりませんでした。

しかし、いよいよ本物のいけにえである小羊が、神によって与えられました。それは、神のひとり子イエス・キリストです。イエスの十字架の死こそが、人類の罪を完全にきよめる犠牲の死です。

イエスの十字架の死が本当の救いであることの証拠は、イエスが十字架で死なれた日が過越の祭であったことにあります。

実は、過越の祭で殺される小羊は、傷のない1歳の雄の羊でなければなりませんでした(出エジ12・5)。「傷がない」とは、「罪がない」ことを意味します。 ※律法の「生贄は傷があってはならない」という記録は障がい者差別だとする指摘はこの意味で該当しない。

イエス様は罪のないお方です。ポンテオピラトも裁判の席で、イエスに罪を認めることができないと3回も証言しています(ヨハネ18・38、19・4~6)。まさにイエスこそ「傷のない小羊」です。罪のないお方だからこそ、全人類の罪を負うことができたのです。 ※動物の羊では人間の身代わりにはならない。人間ではないからだ。では、人間である私ではどうか。それも不可能だ。なぜなら私は罪人だからだ。罪のない人間だけが、罪人の身代わりとなって、死ぬことができる。その条件を満たす方は、罪のない神が人となられたイエス・キリストだけである。

また、過越の小羊の肉はその日の内に食べるか、焼きつくして、朝まで残しておいてはなりませんでした(出エジ12・10)。イエスは過越の祭で死なれ、その日の内に十字架からおろされました(ヨハネ19・31)

十字架刑は即死の刑ではありません。見せしめのために、張り付け状態でじわじわと殺して行く刑ですから、数日間、張り付けたままにします。ですから、十字架刑の執行日の夕暮に受刑者を取りおろすことは異例なことでした。

さらに重要な証拠として、イエスの骨が折られなかったことを、ヨハネは指摘しています。実は、過越の小羊の骨は折ってはならないと、律法で規定されていました(出エジ12・46)

この日、イエスの他に両脇にふたりの受刑者があったのですが、十字架から取りおろすことになりました。その理由は、過越の祭という祝いの日に、死人がさらされているのを忌み嫌ったからです。

ところが、先ほど申し上げたように、十字架刑は即死の刑ではありません。数日をかけて殺す刑ですから、受刑者はまだ生きているのが一般的です。ですから、受刑者たちを取りおろすにあたり、イエスの両脇のふたりにはまだ息があったので、ローマ兵はふたりの足を折りました(ヨハネ19・32)

十字架刑は足を支えに、わずかに息ができる仕組みになっていました。そこで、足の骨を折って、呼吸のために踏ん張れずに窒息死に至らせたわけです。しかし、イエスはすでに死んでおられたので、足の骨は折られずにすみました。

どうでしょうか。過越の祭にあらわされた種々のキリスト預言の一致は、単なる偶然といえるでしょうか。イエス・キリストの十字架の死は、神が預言なさっていた罪を取り除くための小羊の死であったという他ありません。

過越の祭は、イスラエル民族が奴隷の地エジプトを脱出する時の「過越の事件」に端を発しています。この事件を機にイスラエル民族はエジプトの奴隷から解放され、約束の地カナンへ向けて旅立ったわけです。

その過越の事件とは何でしょうか。

その日、神はエジプト中を死のさばきで行き巡られたので、エジプト全家の長男※はみな死にました。ところが、イスラエルの民は小羊を殺してその肉を食べ、その血を家の玄関に塗ったので、死のさばきはその家を過ぎ越して行ったのです。

つまり、血が塗られている家では、身代わりの小羊が殺されたので、その家の長男は死ななかったのです。 ※後継ぎである長男の死は、全家の死を意味している。つまりエジプト中の滅びを象徴的に表している。

こうして、小羊の血は、死のさばきが過ぎ越すためのしるしとなりました。血は、罪の代価の死がすでに支払われた〝しるし〟なのです。

イエスの十字架の死は、罪人である私の身代わりの死であったと信じる人には、イエスの十字架の血が塗られています。終わりの日に、全人類にくだる死のさばきは、イエスの血がしるしとなって、過ぎ越して行きます。

この血は、永遠の滅びにいたる刑罰がすでに終わったことのしるしです。聖餐式でパンと杯……イエスの血を象徴する赤いぶどう酒……を受けるとき、この偉大な恵みをかみしめながら受けることにしましょう。

◆◆◆◆◆

さて、イエスの遺体の引き取りと埋葬をアリマタヤのヨセフとニコデモが引き受けました(19・38~39)。彼らはユダヤ議会の議員です。イエスを信じながらも、ユダヤ人を恐れて信仰を表明しませんでした。

彼らのことを卑怯者と指摘する人もいます。でも、このタイミングだからこそ、彼らの働きが必要であったことは見逃せません。

国会議員という身分でなければ、イエスの遺体を引き受ける申し出など承諾されなかったことでしょう。しかも、その立場だからこそ、だれも葬られたことのない新しい墓を用意できたのです(41)

引き取り手のない遺体は共同墓地に埋葬されるのが一般的です。他の遺体や遺骨が葬られている墓です。そこからイエスが復活なさっても、復活の真偽が検証できません。別人の遺体をもって、これがイエスの亡骸ではないかと疑われても、DNA鑑定のない時代ですから検証のしようがありません。

だから、だれも葬られたことのない新しい墓が必要でした。イエスが復活なさったことによって、空(から)になる墓でなければなりませんでした。

かつてはイエスを訪問しながら煮え切らないニコデモでした。ヨセフは信じているのに表明できない隠れ吉利支丹(キリシタン)ならぬ隠れ弟子でした。でも、議員という身分のある彼らでなければできない任務があったのです。万事を益とされる神の御手の中でしか成し得ない使命があるのです。

現代の隠れニコデモが用いられますように。今は姿を見せていない現代のヨセフが神の御声を聞いて立ち上がりますように……と祈ります。

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ヨハネの福音書 18章

2024年10月23日 | ヨハネ福音書
ヨハネ18・36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

イエス様はこの世のものではありません。イエスを信じる私たちも、この世のものではなりません。そして、イエスが王である御国……「神の御国」とか「天の御国」……もこの世のものではありません。

「神の国」と「世の国」とは違います。

「世の国」とは、日本とか韓国といった人間によって統治される国のことをですが、霊的な視点では、悪魔が王として支配してる闇の王国を意味します。

神がご覧になるに、霊的にはふたつの国に区別されます。第一は、キリストが王として支配する神の国と、第二は、悪魔とかサタンと呼ばれる闇の世の主権者が支配する世の国です。

神のご計画は、そのような世に天の御国をもたらすことです。ですから、「主の祈り」の中で「御国を来たらせたまえ」と祈るのはそのことです。

御国(神の国・天の御国)を世に来たらせるために、イエス様は御国の王として世に来られました。そして、イエスを信じる者を、御国の国籍を持つ者……天国々籍の民となさいました。

かたや世の国は、悪魔とかサタンと呼ばれる霊的支配者が統治しています。彼はかつて天では神に仕えるべく天使でしたが、自分が王になろうとして堕落した者です。

大雑把な表現をすれば、悪魔とは、天でクーデターを起こしたが、天から追放されて、世に閉じ込められ、この世の支配者となった者です。

神は、クーデターの首謀者であるサタンとその仲間の天使(御使)たちを、世に閉じ込めたまま放っておかれるのではありません。聖書はこう記しています。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」(Ⅱペテロ2・4) ※新改訳・新共同訳は「地獄に閉じ込めた」。口語訳の「下界」が適訳。サタン(悪魔)はまだ地獄に入っていない。千年王国の後に地獄に入れられて最期を迎えることになっている(黙示録20・7~10)。

さて、聖書は、悪魔(サタン)がこの世の王であると記しています。

たとえば、悪魔がイエス様を誘惑した時のことを思い起こしてください。悪魔は「私を拝むならこの世の栄華を与えよう」と提案しました。悪魔はこの世を支配する権威を持つ者だからこそ、そのように提案できたわけです。イエス様および聖書は悪魔のことを、

「この世の君」(ヨハネ12・31、14・30、16・11)
「この世の神」(Ⅱコリ4・4)
「空中の権をもつ君」(エペソ2・2)
「闇の世の主権者」(エペソ6・12)

と記しており、その悪魔が支配する世の国に神の国がやって来るわけですから戦いが生じます。

こうして、神の国の民として生きようとする者と、世の国の民として生きようとする者との間に、霊的な戦いが生じます。

そのことを、わたしは、火を地上に投じるために来たのだと言われたのです。さらに、「あなた方は、わたしが平和をこの地上にもたらすために来たと思っているのか。あなた方に言っておく。そうではない。むしろ分裂である」とイエスが言われたのは、このことです(ルカ12・49~53)

そして、ついに悪魔の必死の妨害と抵抗が、イエスに対する十字架刑となって現れました。ポンテオ・ピラトとユダヤ人たちは、この闇の世の支配者に動かされてイエスを十字架で殺したわけです。彼らは、イエスを十字架につけるにあたって、「私たちにはカイザル(ローマ皇帝)以外に王はありません」と宣言しました(ヨハネ19・15)。人々は、神の国の王ではなく、世の国の王を選び取ったのです。

あなたは、どちらの国の国民ですか。天国に国籍のあるクリスチャンですか。それとも、世の国に国籍のある人ですか。

私たちの属する国……すなわち神の国天の御国は、この世のものではありません。ですから、私たちが神の国の国民として生きようとしたら、この世では少なからず戦いがあります。

その戦いを避けようとして、この世と調子を合わせるなら、神の国の特徴を失ってしまいます。つまり、塩味を失った存在になってしまいます。

祈りましょう。この世のものではない私たちが、この世にありながら、神の国の特徴を失うことがありませんように。 むしろ、積極的に、神の国を世に現すことができますように助けてください。そのために、私たちは世に遣わされているのですから。

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ヨハネの福音書 17章

2024年10月22日 | ヨハネ福音書
ヨハネ17・16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。

イエス様は、弟子たちのことを「この世の者ではありません」と言われました。この世の者でなく、天に属する者です。これは、イエスを信じるすべての者たちも同じです。

本来、私たちはこの世で生まれたので、この世の者でした。日本で生まれたので、日本の国籍を持っています。しかし、イエスを信じた私たちの国籍は天にあります。だから、この世の者ではないと主は言われるのです。

聖書はこう証言しています。イエスをキリストと信じる者は、神から生まれた者である(Ⅰヨハネ5・1)。イエスを信じる人の霊魂は新しく生まれます。神から生まれます。つまり、天で生まれます。

私の肉体は日本で生まれたので、日本国籍を持つに至ったように、私の霊は天で生まれたので、天の国籍を持つようになりました。肉体は地上で生まれ地上で朽ちて行きますが、肉体が朽ちても霊魂は天に国籍があるので天に戻ります。

このように、私たちはこの世の者ではありません。私の肉体の感覚からすれば、肉親の父を「父」と呼びますが、霊の感覚では天の神を「父」と呼びます。肉の感覚では、地上の栄誉を受けようとしますが、霊の感覚では、天の神の栄光を慕い求めます。このように、イエス様を信じる者の心には「肉の感覚(肉の思い)」と「霊の感覚(霊の思い)」が共存するようになります。前者の感覚はこの世の者としての感覚であり、後者は天に属する者のそれです。

イエスを信じる者は、肉の感覚で生きようとしないで、霊の感覚で生きようとします。地上の国民としてではなく、天の国民として生きようとします。だから、世の人々からすれば、クリスチャンは変わり者です。でも、変わり者であることを恥じてはなりません。

日本で住んでいる外国人は、日本人からすれば習慣や価値観が違います。だから少し変わっています。ましてや、クリスチャンは天国人ですから、なおさらです。変わっていて当たり前です。

そこで、変わった奴(やつ)だと思われたくないばかりに、天国人としての味を失って、この世に属する者として生きようとする誘惑があります。

とはいえ、隠遁(いんとん)生活の勧めではありません。この世と関わりを断つことは御心ではありません。社会から隔離した場所で、クリスチャンだけで生活するのは神のご計画ではありません。

そのことについてイエス様は、わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります(17・15)と言われました。あえてこの世に私たちを残しておかれています。

つまり、天に属する私たちが、天からこの地に派遣されているのです。これがクリスチャンの立ち位置です。イエスが、天の父がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしましたと言われたとおりです(17・18)

(1)何のために遣わされているのか

父なる神が子なる神(イエス・キリスト)を遣わされたように、今度は、イエス・キリストが私たちを遣わすのだと言われています。

では、天の父が御子イエスを世に遣わされた目的は何ですか。それは、悪魔の業(わざ)を滅ぼし、悪魔のもとで一生涯奴隷となっている人類を解放するためです(ヘブル2・14~15)。それと同じ目的のために、クリスチャンは世に派遣されています。

もちろん、悪魔のわざを滅ぼすのはイエスのなさることです。しかし、私たちは怯(おび)えてイエスの陰に隠れるのではなく、イエスと共に戦う者たちです。

戦うといっても、銃や刀で戦うわけではありません。霊的な戦いです。祈りによる戦いです。私たちの聖なる生き方が「光」となって、悪魔の闇のわざを照らし出すことによる戦いです。

また、悪魔のもとで一生涯奴隷になっている人類を救い出すのはイエスです。しかし、その救いを人々に知らせるのは私たちの役割です。イエスを信じるなら罪がきよめられ、死の滅びから救われるのに、それを知らせる人がいなければなりません。

(2)この世と区別するものは何か

このように、私たちは世にいながら、世の者ではありません。でも、クリスチャンが何のために世に遣わされているのかを曖昧(あいまい)にするなら、世に属するのか天に属するのか、分からなくなってしまいます。

だから、イエス様は、私たちをこの世と区別なさいます。天国の味付けを失わないために、イエスは真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理でありますと祈られました(17・17)

真理……つまり神の御言が、私たちを世と区別させます。神の御言をもっていない人は、この世の人と区別がつかなくなります。天国人なのに、この世の人のように生きてしまいます。

だから、私たちは神の御言を受けます。神の御言は、天国人としての規範だからです。天国人としての規範を見失ったら、この世と同じ価値観や発想法で生きるようになります。

こうして御言によって、世に属する人と、天に属す人とは区別されます。

日本人特有の「他者(ひと)と同じでないと不安だ」という感覚で……同調圧力に弱い……、クリスチャンが世の人と同じように生きようとしたら、それはクリスチャンの堕落です。世の人々と同じであろうとする思いから自由になろう。なぜなら、私たちは「この世のものではない」のですから。どうして世の人と同じように振る舞おうとしますか。

次に、クリスチャンをこの世と区別するもの……それは真理(御言)ともうひとつあります。それはイエスの御名です。

御子イエスは信じる者たちにイエスという御名を与えてくださいました。この名によって罪を赦し、この名によって癒され、この名によって私たちがひとつとなり、の名によって世と区別されるのです。

まず、御子イエスは、信じる者たちに神の御名をあきらかにされました(17・6)。その名は「あなたの御名」です(新改訳)。あなた……つまり天の父の名です。この名こそ栄光を受けるべき名です。

そして、信じる者たちを御名の中で守るようになさいました。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためでありますと祈られました(17・11)。新改訳では「聖なる父。あなたがわたしに下さっている〝あなたの御名の中に、彼らを保ってください」です。

御父がご自分の名を御子に与え、御子もその名を私たちに与えて下さいました。その名は「イエス」です。この名を讃美しよう。この名を呼ぼう。この名によって天国の民とし区別されよう。

※「イエス」という名は、ヨセフとマリヤの考えた名ではない。「イエスとつけよ」との神の命令だ(マタ1・21)。ヨハネ福音書は、イエスご自身が父に向かって「あなたの名」と告白し(17・6、11)、父の名を子が受け継いだことを示している。また、聖霊についても「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われた(ヨハネ14・26)。つまり、「イエス」という名は、父の名であり、子の名であり、聖霊の名である。

イエスは弟子たちに「父と子と聖霊の名によってバプテスマをほどこせ」と命令された(マタイ28・19)。この〝名〟は単数形で表記されている。つまりひとつの名だ。父と子と聖霊にそれぞれ別の名があるのではない。

この命令に従って、ペンテコステの日にペテロは、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けよ」と説教した(使2・28)。また、弟子たちは、サマリヤ人にも(使8・16)、ローマ人のコルネリオにも(使10・48)、イエスの名によってバプテスマした。つまり、父と子と聖霊の名は「イエス」だと解釈される。

イエスの御名は新約に至って啓示された神の名だ。使徒行伝では、ありとあらゆる事が「イエスの名によって」である。祈りも、罪のゆるしも、癒しもみなイエスの名によってである。この偉大な神の御名を我々にも与えられた。だから、すべてのことをイエスの名によって為すのである(コロ3・17)

旧約においてはイエスの名は啓示されていなかった。旧約では御使たちが「主」という名で働いた。しかし、新約になって、神の御子が父から受け継いだ「イエス」の名で働かれた。イエスの名は権威も権能も御使のそれよりはるかに偉大ですぐれている。「御子は、その受け継がれた名が、御使たちの名にまさっているので、彼らよりすぐれた者となられた」(ヘブル1・4)と記されているとおりである。


◆◆◆◆◆

神の小羊であるキリストが屠(ほふ)られるべき「時」が遂に来ました。

キリストとしての活動初期は、カナの婚礼において「わたしの時はまだ来ていない」と言われ(ヨハネ2・4)、仮庵の祭がキリストを現す絶好のタイミングだと提案する兄弟たちにも、「時はまだ来ていない」と言われました(7・6)。また、イエスを捕らえようとしても、だれも手出しができませんでした。時ではなかったからです(8・20)

しかし、いよいよその時が来ました。だから、イエスは祈られました。父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください(17・1 新改訳)

その「時」とは、イエスが捕らえられ、罪の生贄(いけにえ)である小羊として、過越しの祭に殺される時のことです。そんな凄惨(せいさん)な場が栄光をあらわす時だというのです。さらに、父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせてくださいとも祈っておられます(17・5)

もちろん、今までも御子イエスを通して栄光は現れました。病の癒しや悪霊追放をはじめ種々の奇跡は神の栄光でした(12・28)。しかし、その「時」である十字架と復活は、今まで以上の栄光なのです。御子が御父の中でお持ちになっていた栄光……つまり、最高の栄光で輝こうというのです。

人の目には愚かに見える十字架の死が、視点を変えれば最高の栄光で輝く姿なのです。人の目には惨(みじ)めな姿ですが、霊的には最高に輝いているのです。

いったいどのように輝いていたのでしょうか。それは死に至るまでの従順という栄光です。この栄光は悪魔を滅ぼす光です。闇は光によって滅ぼされるように、神への反逆者である悪魔は、御子イエスの従順という栄光によって滅ぼされたのです。

話しは変わるようですが、崇高な人格者と出会うと、腹黒い自分の姿に恥じ入るという経験はありませんか。その清さの前で、己の不純な姿が照らし出されるような思いをするわけです。

まさに、キリストの御前で人々は自分の罪を示されて悔い改めました。悪霊は居たたまれずに出て行きました。大漁を目の当たりにしたペテロは恥じ入って、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と告白しました。このように、イエスの栄光の光で照らされると罪人は滅びるしかありません。

御子イエスは十字架の死に至るまで、天の御父に信頼し従順なさいました。この御子の姿は誠実で、真実で、一切の恨(うら)みごともなく、本当に純粋で美しく輝かしい姿でした。この姿を前に悪魔はいたたまれず「お前が神の子なら十字架からおりてみよ」と叫ばざるを得ませんでした。もちろん、これは十字架の傍(かたわ)らにいた男の野次ですが、私は悪魔が彼をして言わせたのだと思っています。

イエスの従順なお姿と真逆なのが悪魔です。自分も神のようになろうと傲(おご)り高ぶり、自分のおるべき所を捨てて神に不従順したのが悪魔です。この悪魔にとって御子イエスの従順な姿は余りにも輝いていて、その栄光の輝き故に滅びるしかなかったのです。

この御子イエスの輝きがひとり子としての栄光です。17章の祈りは、このような栄光で輝かせてくださいという意味なのです。

さあ、栄光についての概念を変えよう。地上の栄光とは水準が違います。たとえ、人の目には惨めな姿であったとしても、なおも父なる神を愛し、信頼する生き方は栄光なのです。それは神の子どもとしての栄光です。この輝きこそが、悪魔に打ち勝つ栄光なのです。イエスの祈りに続こう。


ヨハネの福音書 16章

2024年10月21日 | ヨハネ福音書
ヨハネ16・7 わたしが去って行くことはあなた方の益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなた方の所に助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう。

イエス様が弟子たちのもとを去って行かれます。これは弟子たちには益とは思えませんでした。現代の私たちとしても、見える姿で居てくださる方が良いと思います。しかし、イエスは「去って行くことは、あなた方の益になる」と言われました。

なぜなら、イエスが去って行かれるなら、助け主が来ることになるからです。この「助け主」とは「聖霊なる神」のことです。

聖書で啓示されている神は、三位一体の神と表現されます。「父なる神」と「子なる神」と「聖霊なる神」です。子なる神は、御言が人となって来られたイエス・キリストのことです。

この子なる神……つまり、イエス・キリストが去って行かれると、聖霊なる神が来られることになっています。では、なぜ聖霊なる神が来られることが益なのでしょうか。

(1)神の神殿の完成のために益である。

まず、次の原則を理解してください。それは、聖霊なる神は、罪がきよめられたところに来られるという原則です。

旧約時代の神殿はそれを啓示しています。ソロモン王が神殿建築に着手しました。その神殿が完成したときに、神殿に「栄光の雲」が満ちました(歴代下7・1)。この栄光の雲とは、神の臨在のしるしであり、新約における聖霊を象徴しています。

栄光の雲は、神殿の建築中には現れませんでした。神殿建築が完成し、神殿において、いけにえである小羊の血が流され、血によるきよめがなされたあとで、栄光の雲が神殿に満ちました。

新約でも同じ経過をたどります。神は、私たち人間を、神の住まう神殿にしようとご計画なさっています。そのために神は、御子イエスをいけにえとして十字架につけ、その血で私たちの罪をきよめてくださいました。イエスを受け入れた者……つまり、イエスの血で罪がきよめられた人の中に聖霊が住まわれ、その人を神の神殿となさいます。

子なる神(イエス・キリスト)は罪のただ中に来られました。取税人や遊女といった罪人と共に食事をし、共に生活なさいました。それは、子なる神の目的が、人の罪をきよめるためであったからです。

しかし、聖霊なる神は違います。罪のあるところには来られません。いけにえの血できよめられたところに来られ、そこを神の住まいである神殿とするために来られるのです。

逆をいえば、聖霊が住まわれるとは、罪のきよめがなされた証拠です。

神のご計画は、私たちの罪をきよめることで終わりません。きよめた私たちを聖霊の宮、すなわち神の住まわれる神殿になさいます。この神殿で「まことの礼拝がなされるため」です。この神殿を通して「神の栄光をあらわすため」です。

だから聖霊が来なければなりません。このようなわけで、子なる神が去って行き、聖霊なる神がこられることは「益」なのです。

(2)私たちの救いの完成のために益である。

父なる神は御心をお立てになる神です。御子なる神イエス・キリストは父の御心を行われる神です。そして、聖霊なる神は、信者の中に、御子なる神がなさったことを〝再現〟なさる神です。

もし聖霊が来られなければ、イエスの死と復活と昇天は、大昔の出来事として、記憶のかなたに追いやられてしまい、私と関わりのない事件で終わってしまったことでしょう。直(じか)に見てさわった弟子たちも、時間の経過と共にイエスの記憶は薄れて行ったことでしょう。それが肉の力の限界です。

しかし、それが2千年後の私に伝えられ、私の体験となり、私の救いとなったのは聖霊によります。聖霊によらなければ、イエスの十字架の死と復活は昔話ですが、21世紀になっても、聖霊によって「イエスは主である」と告白します。

(3)イエスの証人となるために益である。

聖書には、イエスのなさったすばらしい御業(みわざ)がたくさん記されています。でも、それが聖書の中だけのことに終わってしまうところに、私たちの葛藤があります。しかし、聖霊なる神はそれを私の体験として再現してくださいます。

聖霊はイエスの御言を私に思い起こさせ(14・26)、私の中にイエスを証しなさいます(15・26)。イエスの言われたこと、なさったことが、2千年の時を経て私の中で現れるようにしてくださいます。

聖霊が……「あらゆる真理に導く」(16・13)とか、「イエスに栄光を得させる」(16・14)、「イエスのものをあなた方に知らせる」(16・15)ということは、要するに、聖霊が御子イエスを丸ごと私の中に再現なさるということです。罪のゆるしも、救いも、病のいやしも、死と復活も、十字架の苦難や迫害にいたるまで……イエスのなさったことを私の中で再現なさいます。だから、イエスの証人になることができます。

人間の考えでイエスのことを証ししようとするなら、やがてその証言はゆがんで変質します。だから、聖霊を受けるまでは、「証ししてはいけない」とイエスは念を押されたのです。

人間の力でイエスを証ししようとするなら、その証しは途絶えてしまいます。だから、聖霊を受ける前のペテロは、イエスを知らないと証言を拒否しましたが、聖霊を受けてからはイエスの証言ために殉教さえもしました。このように、聖霊によらなければ、イエス様の証しは完成しません。こうして、子なる神が去って行き、聖霊なる神がこられることは「益」なのです。

(4)罪と義とさばきについて明らかにするために益である。

主は、聖霊が来られたなら「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」と言われました(16・8)。つまり、それまでは世の人々は勘違いしています。

とは世でいう犯罪の類(たぐい)だと勘違いしています。もちろん犯罪は許容されるものではありませんが、それは地上かつ人間同士の問題です。それは、地上でさばかれるべきことです。

本当の罪とは何か。聖霊はそれを明らかにされます。それは神に対しての罪です。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからであると指摘されているように(9)、イエスを信じないことが罪です。御子を受け入れないことは、御子をお遣わしになった御父を拒絶することです。御子を賜るほどに世を愛された神の愛を拒絶すること……これが罪です。

また、義についても人々は勘違いしています。自分が立派な人間になることで義とされようと修行します。しかし、どんなに努力しても人間ごときに義はないのです。ただ、天にあげられたイエス・キリストのみが義なるお方です。

だから、聖霊はこう証しされます。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなた方は、もはやわたしを見なくなるからである(10)。イエス様は地上では罪人として十字架で殺されましたが、罪のない義なるお方なので、神は彼をよみがえらせ、天に引きあげ、ご自分の右の座にお就けになりました。このお方こそが義です。

このイエスの義を私たち人間は頂戴したのです。だから、私ごときが義とされるのです。否、むしろイエスの義にあずかることこそ確かな義です。これを知る時、私ごときの品行方正や修行で義とされようなどという蒙昧(もうまい)から解き放たれるのです。

最後に、さばきについても人々は考え違いをしています。神は私たち人間をさばいて地獄に落とそうと計画する非情なお方だと誤解しています。そうではありません。神のさばきは、罪の始めである悪魔に対して向けられてます。

だから、聖霊はこう言われます。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである(11)。この世の君とはサタン(悪魔)のことです。神のご計画は、天で罪を犯したサタンをさばき、処罰することにあります。人間に対しては、イエス・キリストによる救いが用意されています。どうぞ、さばきについての誤解から解き放たれてください。

このように、聖霊が来られて、罪と義とさばきについて人々の目を開くのです。だから、聖霊なる神が来られることは「益」なのです。

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【一日一章】朝マナ ヨハネ福音書 16章【聖書通読】
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ヨハネの福音書 15章

2024年10月19日 | ヨハネ福音書
ヨハネ15・5 わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなた方は何一つできないからである。

携帯電話のアンテナ表示の良し悪しで不安になる神経症があると聞きました。電波の届かない所にいると電話やメールがつながらないので、それが不安を引き起こすわけです。

また、電子メールのやり取りでも、すぐに返事がないと不安になったり苛立つ人もいます。某SNSで既読スルーとなると、自分は無視されたのかと不安になるとか。昔なら、手紙を出してても2~3日はかかったところです。その返事ともなればもっとかかったわけですが……。

携帯電話やインターネットの普及によって、人々はコミュニケーションのスピードと利便性を手に入れたわけですが、それでもなお、「だれかと」「いつも」「どこでも」つながっていたい……そんな心の叫びが聞こえてきそうです。

イエス様は私たちにつながっていなさい(口語訳)とどまっていなさい」(新改訳)と命じられました。目に見える人間関係でさえ、つながりが希薄な時代です。つながっていたいと願いながら空回りする時代です。そんな時代に、目に見えないイエス様とどうやってつながるのでしょうか。

「つながる」という感覚を、肉の感覚で得ようとするなら、その満足はとどまるところを知りません。弟子たちも同じでした。肉眼で見たり、手で触れることでイエスを知ろうとすれば、いつも目の前に主を見ていなければ気が済みません。

弟子たちはイエスとつながっていると思っていました。でも、肉の感覚なので、イエスがどこか知らないところへ行かれるとなると、心が騒ぎ出したのです。そこで、イエスは、つながるとはどういうことなのかを教えられたのです。

先の14章でも見たように、イエス様は世を去って行くと言われ、十字架の死と復活の後、天に昇り、弟子たちのもとを去って行かれます。もし、弟子たちが肉の感覚でイエスにつながろうとしているのであれば、彼らの信仰は、イエスが昇天された後、徐々に消えてしまったことでしょう。でも、彼らはつながり続けました。彼らは如何(いか)にしてイエスとつながり続けることができたのでしょうか。その秘訣が、冒頭の聖句に込められています。

(1)ぶどうの木と枝のようにつながる。

ぶどうの木は蔓(つる)性の植物ですから、どこまでが幹で、どこからが枝なのか区別できません。幹も枝も一体です。つまり、イエスが私の内におられ、イエスの中に私がいる……そのような状態です。

イエスも、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(14・10)と言われましたが、それと同じ感覚を聖霊によって体験します。あなたはイエスの中にとどまっていますか。また、あなたの中にイエスがとどまっておられますか。

(2)御言にとどまる。

イエス様はさらに「わたしの御言にとどまりなさい」と言われました。「あなた方がわたしにつながっており、わたしの言葉があなた方にとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(15・7)

イエス様とつながるとは、具体的には、イエスのことば……つまり、御言につながることです。

だから、聖書を読んで、御言をいっぱい蓄えてください。あのカナの婚礼の時、しもべたちが瓶(かめ)に水を満たしたように、御言を霊魂に満たすとき、豊かな実りがあるに違いありません。

何か事があれば、御言が思い出されるほどに、御言を蓄えます。こういう場合、イエス様なら何と言われるだろうかと、御言を基準に考え行動することが、「御言がとどまる」ということです。 ※「御言がとどまる」と「御言にとどまる」。両方同じ。「イエスが父の中にとどまっており、父がイエスの中にとどまっている」との表現も同様。

(3)イエスの愛の内にとどまる。

さらにイエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛したのである。わたしの愛の内にとどまりなさい」と言われました(15・9)。イエスにつながるとは、その愛の内にとどまることです。それは、イエス様の愛を疑わないことです。

イエスとのつながりが断ちきられたように感じる状況もあります。でも、それはあくまで私の感覚であって、事実ではありません。そんな状況の中でも、イエスの愛を疑わないことです。イエスの私たちへの愛は、何者も引き離すことができないのですから。

「私は確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8・38~39)

このようにして、イエス・キリストとつながります。そうすれば豊かな実を結ぶのだと約束されました。なのに、〝自分が〟実を結ばなければと焦っていませんか。そうではありません。私のすべきことは、イエスにつながることです

〝枝〟が実を結ぼうとか、栄光を現そうと頑張らないことです。枝の任務は〝つながること〟です。実を結ばせるのはぶどうの木です。ぶどうの木に実らせる能力があります。枝ではありません。

イエスがぶどうの木で、私は枝であることを自覚すべきです。だから祈るのです。今日も一日、御言と聖霊と祈りによって、ぶどうの木であるイエス様とつながることができますように……。

◆◆◆◆◆

このようにしてイエス・キリストというぶどうの木につながっている者たちに、いのちを与える御言が常に供給されます。その御言はわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさいです(15・12)。 ※ヨハネ13章を参照

この命令がぶどうの木全体に流れています。まるでキリストの身体なる教会の血液のようにして、隅々まで流れています。この流れが詰まっている先は壊死(えし)してしまいます。その枝は枯れてしまいます。

この命令(御言)によって生きる者たちを、イエスは「友」と呼んでくださいます。あなた方にわたしが命じることを行うならば、あなた方はわたしの友である(15・14)。もはや、しもべではありません。

旧約時代の信者は「しもべ」でした。それを「しもべの霊を受けた者」と言います。しかし、イエスにつながる者は、神をアバ父よと呼ぶ「子の霊を受けた者」です。身分が違います。

でも、その身分は、偉ぶるためではありません。真理を知った者としての働きの違いです。しもべは少ししか知らされていませんが、私たちには多くが知らされています。神が愛であることを知っています。神の唯一の命令は「愛しなさい」であることを知っています。愛することによって、神の栄光が現れることを知っています。

だから、イエスは言われました。わたしはもう、あなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなた方を友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなた方に知らせたからである(15・15)

そいうわけですから、新約のクリスチャンたちは、旧約と新約の教えを区別できる人たちです。律法と福音の違いを知っている者たちです。「天国のことを学んだ者は、新しい物と古い物をその蔵から取り出す一家の主人のような者」です(マタイ13・52)

相変わらず律法的になって自分を責め、他者を束縛しようとするなら、その人は「イエスの友」ではなく、「旧約のしもべ」です。イエスは天の父から聞いたことをすべて私たちに教えてくださいました。真理を見せてくださいました。ですから、しもべのように恐れながら窮屈に生きているのではりません。

私たちはイエスの友であり弟子です。わたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなた方は、本当にわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろうと言われたではありませんか(ヨハネ8・31~32)

友も弟子も共通しています。イエスの御言にとどまる者です。イエスの命令……互いに愛し合いなさいという命令……によって生きる者たちです。ここに本当の自由があります。律法からの解放があります。


ヨハネの福音書 14章

2024年10月18日 | ヨハネ福音書
ヨハネに14・6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

人生とは荒野(あらの)を旅するようなものです。あのエジプトを脱出したイスラエルの民が、すぐに約束の地カナンに入らないで、荒野を通過しなければならなかったように、私たちの人生も〝荒野〟を通過して、天国に入って行きます。

ペテロをはじめとする弟子たちは、そんな人生の荒野でイエス・キリストと出会い、この方と人生を共にしようと決心して従って来ました。ところが、どうも雲行きが怪しいのです。イエス様はどこか遠いところへ行かれる気配なのです。聖書はその時のやり取りをこう記しています。

「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう』。」(13・36)

そのために、弟子たちの心は騒いでいました(14・1)。弟子たちは、イエス様の十字架と復活、そして昇天と聖霊降臨……この一連のスケジュールを、この時点ではまだ理解していなかったからです。

イエスがおられなくなったら、どうやって人生の荒野を旅し、神の国にたどり着くことができるのか。心配で弟子たちの心は騒いでいました。

(1)イエスは道です。

さて、荒野(あらの)とはどんな場所でしょうか。それは道がないところす。どこをどう通って行けばよいのか分からないのが荒野です。

私たちの人生も同じです。特に現代は、多様な価値観が混在する時代ですから、色んな道があります。そのことが返って人を迷わせます。どの道が天国につながる道なのか分からずに困惑しています。

迷惑をかけなければ何をしても良いと考える人がいます。つまり、迷惑をかけなればどんな道を通ったって良いじゃないかという理屈です。

かつての社会主義国では、国が定めた道しかありませんでしたから、人々はその道を通るしかありませんでした。道はひとつしかなかったので、選びようがなかったわけです。ところが自由化の波が押し寄せてきて、あれもこれもと選択肢が急激に増えて、人々は選ぶのに疲れてしまったそうです。

人の歩む道が増えれば増えるほど、皮肉なことに、どこを通って良いのか混迷をもたらすがゆえに、現代版〝荒野〟になってしまっています。

中世のキリスト教的な価値観は古いものとされ、近代になって、合理的な価値観を追及しました。そんな合理的価値観もやがて行き詰まり、ポストモダンが叫ばれましたが、結局はまとめようのない価値観が氾濫する時代になっています。つまり、「何でもありの価値観」が蔓延(はびこ)るのが今の時代です。まさに道があるようで、道がない荒野です。

荒野には確かな道が必要です。ですから、イエス様は「わたしが道だ」と言われました。イエスは荒野に道を切り開いてくださいました。人とはどのように生きるべきなのか。その道をご自分の生き様によって見せてくださいました。

イエスが歩まれた道こそ、〝人が歩むべき道〟です。それは、父なる神の御心に従順する道です。神を礼拝し、神の愛を人々に分かち合う道です。

それは狭い門であり狭い道です。謙遜にならなければ通れない道です。決して広くはないですが、確実に天につながる道です。この道を通って行けば確実に天国につながっています。

東京から高崎への道は、国道17号線をひたすら進めば到着できます。とはいえ、その途中では、「この道で良いのだろうか」と不安になる場面があります。そういう場合は、道路地図を見ると、左手に病院があって、もう少し進むと右手に郵便局がある……などと確認しながら道を進みます。

そんなふうに、天国への旅路に具体的な地図があれば良いのですが、イエス様は、「わたしが道だ」と言われただけで、その道中の詳細については説明がありません。だから迷います。この道で良かったのだろうか。この道で天国に行けるのだろうかと。

でも、どんなに迷っても、道路標識に「国道17号」とあれば、その道を行けば高崎に着きます。途中、曲がりくねっていても、標識を見て行けば間違いなく高崎に到着します。

だから、どんな人生の中でもイエスを信じることです。道に迷った時は、とにかく「イエス・キリスト」と書いてある道を見つけることです。必ず聖霊が「イエスという道」を見せてくださいます。看板には「天国まで50㎞」などと書いてなくても、とにかくその道を行けば、天国に到着します。

(2)イエスは真理です。

天につながる道は真理です。荒野には、迷わせる仕掛けがいっぱいです。どれが真理なのか目を奪われます。でも、天国に行くことのできない道は、どんなに快適な道であっても真理ではありません。どんなに崇高な論理であっても、神を見出すことができないのであれば、それは真理ではありません。

これは、科学的な真理のことを言っているのではありません。神学的には、神を見いだすことのできる道を真理と言います。

世紀の大発見とされる種々の科学理論も、それによって天国に行けないのであれば、それは聖書でいう真理ではありません。神を見いだすことができなければ、それは真理ではありません。

ですから、「神などいない」と豪語する近代科学は真理とは言えません。どんなに緻密な論理立てがあっても、限られた世界……物質の世界……に通用するだけであり、真理ではありません。

しかし、イエス様は真理です。イエスによって父のみもとに行くことができるからです。イエスを発見することは、神を見出すことになるからです。

イエスは、「わたしを見た者は、わたしを遣わされた方(天の父)を見たのだ」と言われたとおりです。だからイエスは真理です。

(3)イエスはいのちです。

天国につながる道こそ「いのち」です。どんなに快適な道でも、その道が地獄につながっていたら、それはいのちにはなりません。ですから、イエス様はいのちです。

地上で快適に過ごす方法は沢山あります。でも、永遠のいのちを与えるものでなければ、それは道ではないし、真理でもないし、いのちでもありません。

目に見える肉体的ないのちにこだわり過ぎると、本当のいのちを見失います。自分の肉体的ないのちを救おうとすると、それを失います。かえって、十字架を負ってそれを捨てる者はいのちを得る……とイエスは言われました。

つまり、霊的ないのちを得るために、肉体のいのちを用いなさいという意味です。

肉体のいのちを保つためにだけ、肉体のいのちを使うのは、正しいいのちの使い方ではありません。 イエスも、永遠のいのちに至る食物のために働けと言われました(ヨハネ6・27)。つまり、永遠のいのちを得るために、肉体のいのちを使うのです。

この世の価値観は、肉体的ないのちを過大評価しすぎています。その結果、霊魂のいのち(永遠のいのち)を見失うことになっています。肉体のいのちはやがて朽ちます。大切なのは、その朽ちるいのちをどう使うかです(命を使う=使命観)。

イエス様は十字架を負って命を捨てられ、そして復活されました。私たちにも十字架を負って従うようにと主は言われましたが、神の御心のために死ぬこと…これがいのちです。

イエスに従って十字架を負う道……これが、いのちにいたる道です。そして真理です。


ヨハネの福音書 13章

2024年10月17日 | ヨハネ福音書
ヨハネ13・34 わたしは新しい戒めをあなた方に与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。

イエス様は、ご自身の十字架の死が近いことを知って、最も大切なことを伝えるために、弟子たちの足を洗われました(13・1~11)

当時は舗装のない道を歩くのですから、足は最もよごれる部分です。ですから、家に入ってまずすべきことは足を洗うことでした。そして、その洗足は身分の低い者(奴隷)の役目でした。

ところが、弟子たちは、だれも足を洗おうとしませんでした。それどころか、自分たちの内でだれが偉いだろうかと席順を争う始末でした。

そんな弟子たちを教えるために、イエス様は自ら弟子たちの足をお洗いになりました。つまり、イエスがしもべになって仕えてくださったのです。この御姿こそがキリストとしての生き方の本質であり、キリストに属する者たちの姿です。

そして、洗足のあとに、イエスは新しい戒めを与えられました。それが冒頭の聖句です。

旧約の律法を総括なさったおりには、「〝自分を愛するように〟あなたの隣り人を愛しなさい」と言われていました。ところが、このヨハネ13章では、「〝わたしがあなた方を愛したように〟互いに愛し合いなさい」と言われました。違う点があります。「自分を愛するように」というところが、「わたしがあなた方を愛したように」に変更されています。

もちろん、自分を愛することができなくては、人を愛することができません。自分はどうでもよくて、他人を第一にするような愛は、自虐的で長続きしません。そんな愛を受け取った側も負担に感じます。

そこで考えてみましょう。「自分を愛するように」と言われて、はたして自分は自分を正しく愛しているのだろうか。

そこで、イエス様が私を愛してくださった愛……そのような愛で、自分を「愛し直す」作業が必要なのです。イエスは私たちをどのように愛してくださったでしょうか。

(1)イエス様は私をゆるしてくださった。

主は、病をいやしたり、空腹を満たしたりしてくださいましたが、それ以上に十字架の死をもって本当の愛をくださいました。イエスは十字架の死によって、私たちの罪をゆるし、きよめてくださいました。

空腹を満たしても、半日もすればお腹はすきます。病気をいやして少しばかりの寿命をのばしても、人の肉体はやがて朽ちます。しかし、罪のゆるしによって救われた霊魂は永遠のいのちを得ます。

イエスが私たちを愛してくださった愛は、肉体を助ける愛にとどまることなく、霊魂を愛する愛です。主は、私の外なる人ではなく、内なる人に目を注ぎ、内なる人を生かしてくださいました。それは「ゆるす愛」によってです。

イエスがあなたを赦(ゆる)してくださったのですから、自分自身をゆるすことから始めます。自分をゆるすことは自堕落なことのように思われて、憚(はばか)れる人もいます。でも、愛するとはゆるすことです。

自分をゆるした分だけ、他者をゆるすことができるようになります。それが、互いに愛し合うことの実際です。キリストから始まった愛を隣人に広げよう。主から始まったゆるしを自分から隣人へとつなげよう。

(2)イエス様は私に仕えてくださった。

イエス様が私を愛してくださったように……とは、どんな愛なのか。それは「仕える愛」です。冒頭でも取り上げたように、主イエスは弟子たちの足を洗ってくださいました。本来なら、しもべがすることですが、わざわざ師であるイエス様がしもべとなって仕えてくださいました。

ここに、しもべとなって仕える愛が描かれています。この場面で、「互いに足を洗い合いなさい」と命じられました(13・14)。さらに、「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と続くわけです。つまり、その愛とは〝仕えること〟です。しもべとなることです。

これは、「だれが一番偉いのか」と言い争っている弟子たちにどうしても必要なことでした。この弟子たちの姿は、今の時代も同じです。だれが偉いのか。それがどれほどのものですか。人生で無くてならないものは、愛すること。仕える愛です。イエスは公生涯の中で何度も、仕えなさい」「しもべになりなさいと繰り返し教えておられます。

ある高名な牧師の話です。牧師は特別講師を招いてキリスト教の大集会を主催し、講演会終了後その講師をタクシーにお乗せして見送ったそうです。丁度そのタイミングで、事情を知らない婦人が、その牧師を配車担当者だと勘違いして、「私にもタクシーを呼んでちょうだい」と依頼してきたのです。

この牧師さん。内心カチンときて、「私はタクシーの配車係ではありません」と語気を荒げて立ち去ったのです。でも、そのあとで後悔しました。「あんな言い方しなければよかった。〝はい分かりました。今お呼びしましょう〟と仕えれば良かった」と。

とても印象深い逸話だったので、今も私の魂に刻まれています。イエスが仕えてくださったように仕えよう。イエスがしもべとなってくださったように、しもべとなって生きよう。


ヨハネの福音書 12章

2024年10月16日 | ヨハネ福音書
ヨハネ12・3 マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤(きん)を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。

マリヤは大胆な行動に出ました。300デナリもする(1デナリは1日分の労働賃金)高価な香油を全部イエスに注ぎ出し、さらに、自分の髪を雑巾(ぞうきん)のようにしてイエスの足を拭いたのです。何と大胆な愛でしょうか。

(1)大胆な愛……それは主の御心を知って愛する。

マリヤはイエス様が死を覚悟なさっているのを感じ取っていたのだと思います。他の弟子たちは、それどころか、だれが一番偉いかなどと争っていました。

なぜマリヤは、イエスの死を悟ることができたのだろうか。マリヤはイエスの足元で御言を聞くことを常としていたからだと思います。

ルカ福音書は、マリヤとその姉のマルタのエピソードを書き残しています。ある日、イエスが宿泊なさった時、姉のマルタはイエスをもてなそうと接待のことで思いわずらっていました。

しかし、妹のマリヤはイエスの足元に座って、イエスの話しを聞いていました。そこで、姉のマルタは妹のマリヤの様子に腹を立てて、「妹にも手伝うように言ってやってください」とイエスに申し上げました。

その時イエス様はマルタに言われました。「わたしを愛してくれるのは嬉しいことなのだが、本当に大切なことは多くはない。いやひとつだ。マリヤはその良い方を選んだのだ」と。つまり、神の御言を聞くことこそ神を愛することだというのです。

マリヤはそのように御言を聞き続ける中で、イエス様が死を覚悟なさっていることを知って、葬りの用意としてイエスに香油を注いだのです。(ユダヤでは死者に香油をぬって葬るのが慣例。)

御言を聞いて、主がなさろうとしている事を知らなければ、自分のすべきことがわかりません。主の御心を知ってこそ、主を大胆に愛せます。

(2)大胆に主を愛すると麗しい香りが満ちた。

マリヤが香油を注ぐと、香りが満ちたと聖書は記しています。香油を注いだのですから当たり前です。しかし、著者ヨハネはそれ以上の麗しい香りを嗅いだのです。大胆に主を愛したときの麗しい香りです。

一方で、それとは真逆の悪臭も漂ってきました。それは、マリヤの行動を批判する声です。弟子たちは、何て無駄なことをするのだといって、彼女をたしなめたのです(12・5)

主イエスへのささげもので「無駄なこと」があるでしょうか。それを無駄だと言ってのける弟子たちの発想たるや肉的な感覚です。そんな肉的な匂いを発する弟子たちとは対照的に、マリヤの行為は霊的な麗しい香りを放ちました。

香油を注ぐ際に、マリヤは香油の入った石膏の壺を壊したと、聖書は記録しています(マルコ14・3)。つまり、石膏の壺を壊すように、自分の〝何かを壊す〟ことによって、うるわしい霊的な香りは放たれるのです。

この時、マリヤはふたつのものを壊しました。第一に、富を惜しむ心という石膏の壺を壊しました。マリヤは300デナリを惜しみませんでした。そのことによって麗しい香りが満ちました。

第二に、人間的なプライドという石膏の壺を壊しました。女性にとって髪は大切です。それなのに、マリヤは自分の髪を雑巾のようにしてイエスの足を拭きました。人間的なプライドがあったらできないことです。

私たちは主のために用いられたいと願いますが、どうせなら格好良く用いられたいというプライドが邪魔をします。しかし、マリヤはそれを壊しました。こうして麗しい香りが満ちたのです。

このマリヤの行為について、イエスは言われました。「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、この女のした事も記念として語られるであろう」(マルコ14・9)

福音とは、イエス様がご自分のいのちを私たちに与えてくださったことです。かたや、マリヤの行為は、福音に対する大胆な愛の応答です。これはセットで伝えられるべきことです。

私たちも、5つのパンと2匹の魚のように自分を献げよう。自分を生きた聖なる供え物として惜しみなく献げよう。それが霊的な礼拝です。そのような大胆な愛の応答があるところに、麗しい香りが満ちるのです。

(3)大胆に愛する……それは神に対して富むこと。

弟子たちは香油が無駄になったと考えました。地上に目が向いているからです。でも、使わずに置いておいても、いずれ無くなってしまいます。地上では虫が喰い、錆がつき、盗人が盗んで行くのです。

しかし、無くならない方法がひとつだけあります。天に蓄えることです。富も時間も労力も、主のために大胆に愛してささげたものは、天に蓄えられています。それは無くなったのではありません。むしろ、神に対しては富むことになります。

私たちのいのちを主のために捨てたら、それは無くなるのではなく、天で永遠のいのちとして保たれます。これこそ、本当に富む方法です。神に対して富むとはこういうことです。

しかし、地上にばかり焦点を合わせている人は、このことが信じられません。天を見ることができないからです。だから、天に焦点が合う「めがね」が必要です。それは、信仰という「めがね」です。

信仰のめがねがないので地上しか見えません。だから、地上で富もうとして、神に対して富むことができません。

マリヤは、信仰によって大胆に愛してささげました。だから、彼女のしたことは、2千年後の今日にも語り伝えられています。彼女は本当に富むことができたのです。

主イエスのためにささげた富も、時間も、労力も、主のために流した涙さえも、天に蓄えられています。ですから、大胆に主を愛して、大胆に主にささげようではありませんか。

※香油注ぎの記事はマタイ福音書とマルコ福音書にも記されている。マタイとマルコの記述はほぼ同じ。マタイとマルコは香油を注いだ女の名を記していないが、ヨハネはマリヤだと明記した。三つの福音書の情景や文言がほぼ同じなので、マリヤだと特定して良いだろう。

※ところが、香油注ぎの日が異なる。マタイとマルコは過越祭の2日前(水曜日)と記録。しかし、ヨハネは過越祭の6日前(土曜日)となっていて、その翌日の日曜日にイエスがロバに乗ってエルサレムに入城なさった(ヨハネ12・12)。

※この違いは何を意味しているのか。マタイとマルコは十字架直前の香油注ぎを、「大祭司としての任務前の油注ぎ」として描いたのではないか。そして、ヨハネは王なるキリストがロバに乗って入場なさる前に、香油注ぎを描くことで、「御国の王としての油注ぎ」を表現したのではないかと思われる。


ヨハネの福音書 11章

2024年10月15日 | ヨハネ福音書
ヨハネ11・39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。

愛するラザロが危篤であるとの報を受けて、イエス様は直ちに彼を訪問なさるのかと思いきや、なお2日滞在されました。その時の様子を聖書は次のように記しています。

イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお2日とどまられた。(11・5~6・新改訳)

すぐに出立しなかった理由が愛しておられたからだと記されています。どういうことですか。愛しているなら、すぐにでもラザロのもとに行かれるのではないのですか。

このようなことが神の愛だとは、にわかには信じがたいです。どういう意味ですかと問いたくなります。しかし、「わたしのしていることは、あとになって分かるだろう」(ヨハネ13・7)と言われた主イエスの御言にとどまるべきです。

福音書の記録には、弟子たちがイエスの御言を理解できなかったとか、御言の意味が隠されていたといった箇所がいくつもあります。つまり、イエス様のなさることは、私たちの理解を超えていることが多々あるのです。それは、子どもが考えていることと、親が考えることとの違いに似ています。

私が中学に進学する頃でした。父が贈りものをしてくれました。何だろうとワクワクしながら開けてみたのですが、それは国語辞書でした。「なんだ、こんなものか~」と不満でした。でも、そこには将来を見据えた親の愛が込められていたのですが、それを理解するには歳月が必要でした。

神は愛なるお方です。しかし、神の子どもたちにはその愛が余りに大きくて分かりません。出立を送らせたのは、ラザロが死ぬのを待っていたようにも思えて……、ますます分かりません。

でも、あえて、躓(つまづ)きを承知の上で述べます。イエスはラザロの死を待って、なお2日滞在されたのです。それは、復活の栄光をもって応えるためでした。死という悲しみの向こうに復活の祝宴があることを啓示するためでであり、死に打ち勝つ唯一の希望を啓示するためでした。

今日一日分のパンを与えるのも愛ですが、死に打ち勝つ復活のいのちを与えることは更に大きな愛です。天の父である神にしかできない愛です。ご自身の死と引き換えに、永遠のいのちを与えるのが神の愛です。それを示すためにラザロの死を用いられました。

愛である神は、私たちにもラザロの場合と同様に扱われる時があります。でも、神の愛を信頼してください。なぜ急いで助けてくださらないのですかと、肉なる力で藻掻(もが)いている私の窮状を知って、〝なお2日滞在される〟ことがあります。そうです。私の自我という肉が死ぬのを待って、意図的に〝なお2日遅らされる〟ことがあるのです。

そこで必要なことは、主の御言と愛を疑わないで信じ続けることです。疑わないで信じ続けるなら、必ず最後は復活という栄光を見ることになるのです。

ですから、もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないですかと、主は私たちに信仰を要求なさいます(11・40)

そして〝石を取りのけよ〟と命じられます(11・39)

ラザロが死んで4日目になって、イエスは到着されました。ラザロの遺体はすでに葬られており、墓の入り口は大きな石で塞がれていました。しかし、イエスは石を取りのけなさいと命じられたのです。

それを聞いたマルタは、「主よ。もう臭くなっています。死んで4日目になるのですから」と応えました(11・39)。そんな死人をどうなさるのですか。さすがのイエス様にもどうしようもないではないですか。そんな思いだったのです。

まわりにいた人々も同じでした。「盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」とため息をつきました(11・37)

石を取りのける前に、人々の心から〝石〟を取りのけなければなりませんでした。さすがのイエスにも不可能だという〝石〟が、復活の栄光を見させないように塞いでいます。

また、イエスが遅れて到着なさったことに対して、マルタもマリヤも、「もしあなたがここにいてくださったら、ラザロは死なずにすんだのですが」と申し上げました。その心には、遅すぎたと考える〝石〟がありました。

人には遅すぎても、神には遅すぎることはありません。すべてが神の時です。すべてが時にかなって美しいのです。だから、「遅すぎた」という心の〝石〟も取りのけなければなりませんでした。

こうして、人々は墓の石を取りのけました。そして、イエスは大声で、「ラザロよ、出てきなさい」と命じられると、ラザロは生き返って墓から出てきました(11・43~44)

ラザロの生き返りは、やがてきたるべき終末の時、クリスチャンが復活することの預言的な出来事です。終わりの時に、主イエスは私たちの名を呼んで「出てきなさい」と命じられる時が来ます。そして、復活して朽ちない体を受けて出てきます。これは、神の御心にかなったことです。

イエス様はこう約束されました。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠のいのちを得ることである。わたしは終わりの日に、彼らをよみがえらせるのだと言われました。

皆さんは信じますか。信じるなら栄光を見ると言われました(11・40)

信じることを妨げる〝石〟を取りのけよう。信仰生活とは「復活」を目指して歩むことです。栄光の復活に至るまでの旅路は、そんな〝石〟を取りのける作業の連続です。

それから、もうひとつ申し上げておきます。復活は、終わりの日のことだけではありません。日毎の生活の中で、沈んだ心が復活します。罪にまみれた生活からも復活します。日々の霊的復活があります。その時も、主イエスは私たちの名を呼んで、この世から……罪の世界から……私たちを呼びだしてくださり、礼拝へと導いてくださいます。そのようにして呼び出された礼拝は、やがて終わりの日に実現する「身体の復活」の前味のようです。

祈りましょう。栄光の復活を妨げる不信仰の〝石〟を取りのけることができるように助けてください。


ヨハネの福音書 10章

2024年10月14日 | ヨハネ福音書
ヨハネ10・4 羊はその声を知っているので、彼について行くのである。

イエス様は、わたしは良い羊飼いであると言われました。つまり、イエスこそ、人間を正しく養うことのできる羊飼いのようなお方です。逆をいえば、私たち人間には羊飼いが必要だという意味です。

イエスは、人間を「羊」にたとえ、ご自分が「羊飼い」であると言われたのですが、それは人間が羊に似ているからです。どのように似ているでしょうか。

(1)羊はとても弱い存在である。

弱肉強食・適者生存からすれば、羊ほどの弱い動物が、なぜ今日まで生きのびているのか不思議です。

たとえ、強い動物の餌食(えじき)になるような弱い動物でも、足が速いとか、体が甲羅や針でおおわれているとか、保護色を持つとか、繁殖力旺盛だとか……いろんな防御手段を神から与えられています。

それなのに、羊は、足は遅いし、鋭い牙もないし、角(つの)も巻き角で攻撃力はありません※。おまけに目も悪い。何の防御手段も持たない動物です。誰かに守られなければ生きられない存在です。※角のない種類も有。

神はあえて羊のような弱い動物(家畜)を創造なさいました。

人間もそうです。守ってくださる神がいなくては生きられない存在です。人間は強そうに見えて、実はとても弱い存在です。動物の赤ん坊であれば、生まれてすぐに立って歩いて、自分で食べ始めます。1年もすれば大人です。しかし、人間は1年以上かかってようやく歩き、十数年をかけてやっと大人になります。その間、親や周りの人々に守られなければ生きて行けないのが人間です。

それ以上に、私たちは神の保護のもとにいなければ、肉体的にも霊的にも生きられない存在です。弱い存在であることを率直に認め、神の恵みのもとにとどまり続けなければならない者です。

羊は羊飼いのもとでなければ生きられないのと同じように、人間も牧者なるイエス様に導かれなければなりません。自分で生きられると思って、羊飼いを無視したら、必ず迷える羊となります。

(2)羊は羊飼いの声を聞き分ける。

羊は目が悪く、とても近視だそうです。仲間の羊の後ろを見て、ただくっついて行きます。前を行く羊がジャンプすれば自分もジャンプし、右へ行けば自分も右へ行きます。愚かしい姿ですが、人間も同じようなことをしています。 周囲の人のもの真似をして生きています。

先の見えない近視の羊のように、人間も霊的には近視です。未来が見えなくて、今を生きるのに精一杯です。目の前の現実にとらわれます。

そんな羊でも耳は良いと主は言われました。羊は羊飼いの声を知っています(10・4)。羊飼い以外の声にはついて行きません。なぜなら、その人の声を知らないからです(10・5)。羊にとって耳は命綱です。

人間も同じです。人間だけが言葉を聞き分ける耳を持っていて、イエスの声を聞き分けます。肉眼で見ている範囲はほんのわずかです。肉眼で見えなくても、神の御言を「聞くことによって見る」のです。

人は、見ることで得る情報も大切ですが、それ以上に、耳から得る情報が重要です。信仰は聞くことからです。だから、日頃から聖書を読み、イエスの御言を聞き続け、聞き分ける耳を養うのです。

(3)羊は従順な家畜である。

神は家畜と獣を区別して創造されました(創1・24)。獣は飼い主を必要としません。獣である狼(おおかみ)と家畜である犬とは似ています。しかし、狼は飼い慣らすことができませんが、犬は飼い主に従順します。これが獣と家畜の違いです。
 
※野生の狼の中から比較的人間になつく狼を飼い慣らすことで犬が誕生したとする学説がある。しかし、飼い慣らすことで遺伝子構造まで変化することはあり得ない。遺伝学からすれば、狼と犬とでは決定的に異なる「種」である。超えることのできない「種」の壁がある。

そのように、家畜とは飼い主に従って生きるように創造されています。そんな家畜の中で、羊は特に従順な存在です。

人間は羊のように、飼い主であるイエスに従順して生きる存在です。獣のように、飼い主を無視して自分を神として生きる者ではありません。

実は、世の終わりに登場する反キリストが、「獣」と呼ばれているのは意味深長です。彼は、神に敵対する者です。自らを神とする者です。

祈りましょう。羊飼いであるイエスの声を聞き分けることができますように。羊飼いであるイエスに従うことができますように。

◆◆◆◆◆

さらにイエス様は、よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門であると言われました(10・7)羊の門とはどういう意味でしょう。

放牧地の羊たちは囲いの中に入れます。出入り口はひとつです。その出入り口を塞ぐようにして、羊飼いは横たわります。だから、囲いから羊が出入りする場合、必ず羊飼いが安全を確認することになります。これが「羊の門」です。イエス様はこの羊の門となって、私たちを守ってくださっています。

私たちはいつもイエスを通して出入りします。仕事に出かける時も、帰宅する時も、何か決断して実行する時も、喜びや悲しみの時も、いつもイエスという門を通って出入りすべきです。

イエスを無視して何事もすまいと決心しよう。必ずイエスに相談するのです。必ずイエスに報告するのです。このようにイエスの門を通って出入りするなら安全です(9)。悪しき者は入ってきません。

キリストの教会とは、羊の門から出入りする囲いのようなものです。ここを出入りする者は、みなイエスを通過します。イエスを告白する者たちです。羊飼いであるイエスの声を聞く者たちです。


ヨハネの福音書 9章

2024年10月12日 | ヨハネ福音書
ヨハネ9・3 本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

生まれつきの盲人について、弟子たちは、「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と質問しました。

本人を目の前にして原因を論じるなんて、何ともデリカシーのない会話です。しかし、口に出さずとも、私たちの心にもそんな類(たぐい)の思考回路が働くのをお気づきでしょう。

ですから、不幸な出来事や悲惨な現実を前にして、自分のどこが悪かったのだろうか……。こんな自分に育てた親が悪い、社会が悪い……と原因を追及しはじめます。

多分、この盲人も彼らに言われるまでもなく、来る日も来る日も、自分を責め、両親を責め、社会を責めていたことでしょう。しかし、原因を追及するも、何の解決も見出せないことだってあります。

弟子たちは原因」に注目しましたが、イエス様は目的を示されました。

もちろん原因はあります。それは罪の結果です。聖書は指摘しています。ひとりの人(アダム)によって罪が全人類に入り、罪によって死が支配するようになったのです(ローマ5・12)

律法も、原因は罪であると指摘しています。律法は、罪の支払う報酬が死であると定めています。罪が原因で、呪いがあり、病があり、死があるのです。これが律法の結論です。

しかし、イエス様は原因ではなく、目的を示されました。

「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と主が言われたのは、「原因など無いのだ」というのではありません。

失敗や過ちをおかしたとき、何らかの原因を追及することは必要なことです。しかし、原因追及にとらわれ過ぎて後ろ向きになってはいけません。くよくよしたり、落ち込んだり、自己卑下したり、責任転嫁をしたり……みんな、後ろ向きの人生です。

原因は後を向きますが、目的は前を向きます。

エデンの園でアダムが罪をおかして以来、人類に死が入り、人が悪魔の支配下にあること。それが原因であることをイエスは重々ご承知です。しかし、その原因は、イエスがご自分の十字架の死によって引き受けて下さいました。

原因は私が負うから、あなた方は「前を向きなさい」と、主は言われます。そして、目的を示してくださったのです。その目的とは「神のみわざがあらわれるため」です。

原因ばかりを考えて後ろ向きの日々を生きてきた盲人にとって、目的に目を向けるという発想は、まさにコペルニクス的転回でした。主は彼に前向きの目を与えてくださいました。目的を知るとき、私たちの目は前を向きます。

手をすきにかけてから後ろを振り向く者は神の国にふさわしくありません(ルカ9・62)後ろのものを忘れて前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走れ(ピリピ3・13~14)。これが私たちの歩き方です。

目的を告げることのできるのは神だけです。万物を創造しその根源であるお方だからこそ、目的を示すことができます。そして、それは「神のみわざがあらわれるためだ」と言われます。

「神だけが目的を告げる」ことに異論もあるでしょう。人も目的をもって計画を立てて進む存在ですから、それを否定するわけではありません。ただ、神の視点を失った目的は地上のことであったり、人間中心の目的で終わってしまいます。その程度で、9章に登場する盲人や、様々な理不尽な境遇にある人々が納得できる応えとなるでしょうか。そもそも、目的が設定できて、そこに向かって進むことのできる健康とか境遇があるのは、むしろ幸せな方です。世界に目を向ければ、また歴史を振り返れば、それさえもかなわないケースが沢山あるのです。

だから、なぜ自分は悲惨な目にあうのか。なぜ生まれてきたのか。出生を呪いたくなるような人生があります。旧約の哲人ヨブもそれを問うたのです。主よ、私の何が悪かったのですか……と。ヨブ記をもってしても、明快な応答は述べられていません。 ※ヨブ記では、被造者としての謙遜をもって創造者なる神を信頼せよと述べるに終わっている。

そして遂に、神の御子が真理を現すために世の来られました。御子イエスが世に来られたのは、天で堕落した天使……すなわち悪魔をさばいて、そのわざを滅ぼすためだと明らかにされました(Ⅰヨハネ3・8)。悪魔の持っている罪の力、病の力、死の力を滅ぼすことによって、主は悪魔をさばかれました。同じ目的の延長線上に私たちも召されています。

私たちが罪で苦しむのは、罪をゆるされ、神の子とされた輝きで悪魔を滅ぼすためです。病にあるのは、いやされたその栄光で悪魔を滅ぼすためです。私たちが死の谷の陰を歩んでいても、なおも主を讃美し、平安でいるその輝きで悪魔を滅ぼすためです。そのような目的にそって今を再解釈するのです。

失敗や過ちの原因を探すことに終始するあまり、落ち込んだり後ろ向きになるのは、主の御心ではありません。悔い改めて前を向こう。主は、失敗や過ちさえも用いて、神のみわざで輝かせてくださるのです。

◆◆◆◆◆

さて、盲人が癒されたこと自体も「神のみわざ」ですが、そこで終わってしまっては、本当の御業(みわざ)が見えてきません。それを示すために、ヨハネ9章は単なる癒しの記録で終わっていません。

癒された男はイエスがキリストであると告白します。しかし、ユダヤ教指導者らからは、それは異端だと指摘され棄教を迫られます。さもなくばユダヤ教の会堂から追放すると脅されます(9・22)

「会堂からの追放」はユダヤ教のコミュニティからの追放です。日本でいう村八分です。

彼はそれでもイエスへの信仰を捨てずに、遂に追い出されてしまいました。彼の両親も、そんな異端に走る息子と縁を切って無関心を装います(21)。驚くべきことは、そこまでされながらも、彼のイエスへの信仰は揺らがなかったことです。肉の目が開かれただけでなく、心の目も開かれたからです。これこそが福音書が主張する神のみわざです。

まさに、「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」のです(39)。否、私は見えていると主張する人もいます。しかし、イエスを目の前にしながらその方がキリストであると認められないのであれば、それは霊的な盲目です。その人は「見える」と言い張るところに罪があるのだと主が言われたとおりです(41)

当に見えるとはどういうことでしょうか。如何なる迫害があっても、イエスを主と告白する信仰の目が開いていることです。それこそ「神のみわざ」です。このことは、すでに6章でも神がつかわされた者を信じることが、神のわざであるとイエスご自身が述べられているとおりです(6・29)

この告白に至る目的のために、すべてが集約されています。あなたは、その目的に添って、イエスがキリストだと告白していますか。迫害の中でも「主よ、愛します」と告白していますか。


ヨハネの福音書 8章

2024年10月11日 | ヨハネ福音書
ヨハネ8・12 わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。

光の特徴は闇を照らすことです。人が造りだした光は闇を少しだけ照らします。電気の光で夜も明るくなります。科学文明の光も、今まで謎であった部分を照らしてきました。

また、神が創造なさった光もあります。太陽の光がそうです。電気の光も明るいのですが、太陽の光にはかないません。でも、そんな太陽の光でも、地球の裏側まで照らすことはできません。

いずれの光も造られた光(被造の光)であって、ある程度まで照らすことができますが、罪の世界を照らすことができません。

この世で最も暗いところ。それは罪の世界です。どんな被造の光も表面的に明るくするだけで、罪と死の世界まで照らすことができません。罪と死の暗闇を照らし出す光を持たない人類は、霊的には闇のうちを歩んでいます。

地球は明るい惑星のようでも、実はその明るさはわずかです。宇宙空間全体は大きな闇の世界です。闇につつまれた惑星……それが地球です。そんな宇宙に住む私たちの世界を、神がご覧になるには「闇の世」です。

その闇の世を照らすためにイエス様は来られました。イエスこそ本当の光をもたらすお方です。被造の光ではなく、光そのものであるお方です。その光は、神がお持ちになっている本当の光です。

これを栄光」と呼びます。

イエス様はこの栄光の光で輝くお方です。この光は霊的な暗闇さえも完全に照らし出します。だから、イエスが来られると、罪の暗闇は照らし出されます。その暗闇に隠れていた悪霊もあわてて出て行きます。犯罪人が物陰に身を隠すように、悪霊も人の心の暗闇に潜んでいますが、栄光の光で照らされると、いたたまれなくて出て行きます。

ですから、このイエスを信じて受け入れる人は、栄光という本当の光を持つようになります。栄光の光で照らされるとき、罪と死から解放されます。罪の陰に潜んでいた悪霊も出て行きます。

罪をおかすまいと肩に力を入れるのではなく、世の光であるイエス様にいつも照らしていただくことが、聖なる歩みを続ける秘訣です。

具体的には、神の御言で照らしていただくことです。神の御言は光であることを、ヨハネ福音書の冒頭でも確認しました(1・4)。その御言が人となってこられた方がイエス様です(1・14)。このように、御言は光なので、私の内なる闇を完全に照らします。

罪を犯したら闇が生じます。憎んだり、偽ったりしたら闇が生じます。そのままにしておくと闇が定着して、悪霊の棲み家になります。心が重かったり、ふさぎ込むのは、罪によって心に闇が生じているからです。だから御言の光で照らします。そうすれば闇の中を歩くことがありません。

聖書を読む時、御言によって自分の罪が示されます。闇の部分があきらかになるわけです。そこで、そのことを悔い改める時、御言の光が罪をきよめ、悪霊の束縛からも解放します。

神の御言は光であると同時に真理です。光が闇を照らすように、真理は謎を解明します。謎は暗闇に似ています。謎は恐れや不安をかき立てますが、真理はそこから自由にします(8・31~32)

たとえば、昔の人は海の端を恐れました。海の端は滝のように落ちていると考えていたからです。しかし、科学という光(真理)で地球の構造が解明されて、人類はその恐れから自由になりました。

しかし、科学の光(真理)でも解明できないことがあります。人間はなぜ罪に悩むのか。死の向こう側はどうなっているのか。何のために人は存在してるのか。神は存在するのか。死後の裁きはあるのか……。

これは、人類にとって謎です。謎のままなので不安で、恐ろしくなります。でも、分からないので、なるべく考えないようにして、目先のことで紛らわしています。

その謎を解明するのはイエスの御言だけです。御言は真理です。真理が分かれば、「ああ、そうだったのか」と自由になります。真理がないので、悪魔にだまされて、闇の中を歩きます。

祈りましょう。御言の光と真理で全てが照らされますように……。

◆◆◆◆◆

さて、前後しますが、この説教の直前には、姦淫の現場で捕らえられた婦人の物語※が記されており、イエスこそ世の光であることを述べるための出来事として描かれています。 ※この記事は〔 〕で囲まれている(7・53~8・11)。古い写本ではこの箇所が欠損しているが、元々なかったのであれば、パリサイ派の人々がニコデモを叱責した記事と(7・52)、イエスの〝わたしは世の光だ〟という宣言(8・12)とのつながりは文脈的に不自然である。やはり〔 〕内は本来あった文書だが、何らかの原因で欠損したと思われる。

姦淫の現場で捕らえられた婦人に対して、人々は律法によるなら死罪にあたると訴えます。

律法は旧約時代の〝光〟です。その光は世の罪をあきらかにする光です。その光によって彼女の姦淫の罪があきらかにされました。しかし、それは律法という光が照らす限界です。罪を露わにする光ではあるのですが、救うことができません。旧約に輝いた律法という光の限界です。 ※「法律」という光さえもなければ、何が罪なのかも分からない、もっと深い暗闇の世界だ。

さあ、イエス様!あなたは彼女をどうなさいますか。人々の問いかけは続きます。石打の刑にせよというなら律法と大差ありません。赦(ゆる)せというなら、律法の義をないがしろにする律法以下の者です。

世の光であるイエスは罪人をどのように照らすのでしょうか。

まず、罪のない者が彼女を石で打てとイエスは言われました(8・7)。つまり、イエスの見解も律法と同じで、罪の結果は死です。イエスの教えは決して律法を逸脱しません。律法の一点一画も廃れることがないと自身が宣言なさったとおりです。

しかし、いったいだれが彼女を正しくさばくことができるのでしょうか。だれもいません。彼女を取りまく人々は、だれも石を投げることがでず、立ち去って行きました(9~11)

正しくさばく方は、天の父からさばきの権を受けた御子イエスだけです(ヨハネ5・22)。そのお方が彼女に宣言されたのです。わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように(8・11)。この判決は、彼女の罪をご自分が十字架で引き受けることが前提になっています。

かくして、イエスの光のもとで本当の救いがあります。律法の光は罪の世界をわずかに照らしていました。しかし、今や本当の光が罪を照らします。イエス・キリストという栄光の光で、罪を露わにしつつも完全な赦しへと照らすのです。


ヨハネの福音書 7章

2024年10月10日 | ヨハネ福音書
ヨハネ7・38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。

ユダヤには7つの大祭があるのですが、その7番目にあたるのが、仮庵(かりいお)の祭で、8日間つづく祭です。その祭の最終日がクライマックスの聖会となります(レビ23・33~36)

そんな大切な日に、イエス様は〝大声で叫んで〟言われました。つまり、イエス様が強調なさりたいことです。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう(ヨハネ7・38)

ユダヤの7つの祭は、人類の救いがどのように成し遂げられるかを預言している祭です。1番目の過越の祭で、小羊であるキリストが屠(ほふ)られることで罪からの出エジプトが成就します。そこからスタートして、7番目の仮庵の祭で、救いの完成のクライマックスへと進みます。

まず、仮庵祭の起源を述べておきましょう。イスラエル民族は奴隷の地エジプトを脱出したのち、荒野における40年間の旅を経て、約束の地カナンに入り定住生活に移りました。

そこで、かつての荒野における困難な生活を思い起こし、今ある安息を感謝する祭です。祭の期間は、木ぎれで造ったほっ建て小屋……つまり仮の庵(いおり)ですごすことで、荒野の旅をふりかえるわけです。

やがて神の御国が完成したとき、人々は荒野での生活(現世での生活)をふりかえり、大いなる感謝をもって仮庵の祭を祝うことになります。このように、救いの完成を預言する祭です(ゼカリヤ14・16)

さて、この祭にはもうひとつの側面があります。

仮庵の祭は水の祭でもあるのです。秋の収穫感謝をささげると共に、次期の豊作のために雨を求める祭です。ですから、この祭の最終日は、水を求める祈りで最高潮に達します。

そんな日に、わたしを信じる者は、その腹からいのちの水が川となって流れるとイエスは叫ばれました。人々の腹から霊的な水が流れ出るようになることこそ、この仮庵の祭が預言している救いの結果なのです。

では、「いのちの水の川」とは何でしょうか。ヨハネ福音書は、イエスを信じる者に聖霊が内住なさることによって実現するのだと説明しています(7・39)。それは、イエスが叫ばれた時点ではまだ実現していませんが、聖書に書いてあるとおりに」あるように、旧約聖書で預言されていることです。それは、エゼキエル書の預言です(エゼキエル47・1~12)

エゼキエルはやがて完成する「まことの神殿」の幻を見ました。その神殿からは川が流れ出て、やがて大きな流れになるのです。そして……、

おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きていると預言されています。

周囲にいのちを与えるいのちの水の川が〝神殿から〟流れ出すのです。

では、そんな「いのちの水の川」が流れ出る神殿は、いつ完成するのでしょうか。イエスを信じた私たちが新約時代の神殿です。旧約の神殿には、主(ヤアウェ)という神の御名が置かれましたが、新約の神殿には、イエスの名が置かれています。

旧約の神殿では、いけにえがささげられ、その血が流され、栄光の雲が神殿に満ちました。しかし、新約の神殿では、イエスの血が流され、聖霊が永遠に内住なさいます。

あなたはイエスを信じて、イエスの名を受けましたか。イエスの血を受けて罪がきよめられましたか。そのようにして、罪のきよめがなされた神殿には聖霊が永遠に内住されます。

そのような神殿とされたクリスチャンたちから、いのちの水の川が流れ出します。その水は、人々をきよめ、人々にいのちを与えます。私たちが、そんな水を流し出す神殿になることが神の計画です。

自分からどんな川の流れが出ているでしょうか。憎しみの川、恨みの川、不平の川ですか。そんな流れのほとりの生物はみな死滅します。罪人であったときの私たちは、まさにそうでした。

だから神は聖霊をくださるのです。聖霊が内住するとき、私を聖なる神の神殿として、そこから、いのちの水の川が流れるようになさいます。古い私からは、いのちの水は流れ出ません。ですから、古い私は葬られて、聖霊が代わりに生きてくださるのです。

祈りましょう。私の内なる泉を聖霊がいつもきよめてくださり、私からは人をけがす言葉が流れ出ないようにしてください。人を活かすいのちの言葉の水が流れ出るようにしてください。