ヨハネ21・17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
ペテロにとって、「イエスを知らない」と否んだことは、大きく深い傷になっていました。復活の主にお会いしたにもかかわらず、心は晴れません。裏切り者の自分は教会指導者として、否、クリスチャンとして相応しくない……と。
そんな後悔と自責の念で苦しんでいたペテロたちに、復活のイエス様は出会ってくださり、再出発を後(あと)押ししてくださいました。
(1)原点に立ち返れ。
主はガリラヤで出会ってくださいました。ガリラヤは弟子たちがイエス様と出会った場所です。しかもその時も一晩中働いても獲物がなかった……この状況は、かつてペテロが召された時と同じです。
約3年前のあの時もそうでした。「沖へこぎ出して網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみたところ大漁でした。その時、「あなたは人間をとる漁師になるのだ」と召され、ペテロはイエスに従ったのでした(ルカ5・1~11)。
同じ場所で、同じ状況で、イエス様は弟子たちの立ち返るべき原点を思い起こさせてくださいました。
どんな挫折や失敗があったとしても、原点さえしっかりと押さえていれば、多少のゆがみや横道も、修正可能です。イエス様と出会った原点を再確認しよう。迷ったときは原点に立ち返ろう。
(2)原点……それは「主を愛する」こと。
傷心しきったペテロの心に、仲間のだれもふれることができなっかったことでしょう。傷ついた心をいやすために、人間的な励ましも慰めも、返って逆効果な時があります。
この時のイエス様は「わたしを愛するか」とたずねられました。「あの時、どうして、わたしを知らないと偽ったのですか」とは問われませんでした。「今後わたしを知らないなどと言わないだろうね」と念を押すこともなさいませんでした。
ただイエスの質問は「わたしを愛するか」。このひとつだけです。
過去の失敗を乗り越えるために、ああすれば良かったとか、あの人があんなことをしなければ……と考えても、堂々巡りが続くだけです。必要なことはイエスを愛することです。
「主イエスよ、私はあなたを愛します」という告白からすべての再出発が可能です。
ペテロが今まで愛していたのは、イエス様ではなく自分自身でした。リーダーとして目立つ自分、脚光を浴びる格好いい自分を愛していたのです。
かつて、イエス様から、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責を受けたペテロでしたが、主が指摘なさったとおり、ペテロはイエスを愛していたのではなく、人(自分)のことを思っていたのです。
告白しましょう。「主よ、私はあなたを愛します」。ここから、すべてが始まります。「主を愛する」ことが原点です。
(3)イエスは弱さも丸ごと受け止めてくださる。
イエスが愛するかと問われた時の愛は、〝アガペ〟というギリシャ語です。アガペとは、「無条件の愛」「完全な愛」のことです。つまり、「わたしをアガペするか」とたずねられたわけです。 ※ギリシャ語で、「愛」は、①アガペ……無条件の愛、神の愛。②フィレオ……友情の愛。③エロス……男女の愛。この三つがある。
かつてのペテロであれば、「はい、もちろんアガペします!!」と 自信満々に 応えたことでしょう。しかし、おのれの弱さを知った今では、自信なげに「フィレオします」と応えました。トーンダウンした感じです。フィレオとは「友情の愛」のことです。
同じ質問と応答のやり取りがもう一度あって、三度目にイエスが質問なさった時は「アガペするか」ではなく「フィレオするか」とたずねられました。つまり、ペテロの自信なげな「フィオレの愛」を認め、受け止めてくださったわけです。
ペテロも私たちも、イエス様を愛する愛は不完全です。フィレオの愛にさえ及ばないかも知れません。私たちの愛は、破れの多い継ぎはぎだらけの愛です。でも、イエス様はそんな私たちの愛を丸ごと受け止めてくださって、「わたしをフィレオするんだね」と、最後は問い直してくださいました。
イエス様は私たちをアガペの愛で愛してくださいます。たとえ、私たちからアガペの愛が返ってこなくても……です。だからこそ、イエス様の愛は「アガペ」なのです。無条件の愛、完全な愛なのです。
私たちは、フィレオだろうが、不完全な愛であろうが、ただひたすら主を愛することに努めるしかありません。そんな拙(つたな)い私たちの応答を、主イエスは丸ごと受け止めてくださるお方なのです。
◆◆◆◆◆
さて、神の私たちへのご計画は各々異なります。主はペテロに対して次のように預言されました。
「あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。」(21・18)
若い時は思いのまま生きてきたが、晩年は自分ではどうにもならない境遇で苦労するという意味ですが、結果的には、ペテロは迫害者の手によって殉教することになります。
イエスを信じるとは、順調な将来が約束される事ではありません。順境の時も逆境の時もあります。どんな境遇の中でも、与えられた使命を主と共に果たすことです。他者(ひと)は平穏に暮らしているのに、自分には試練があるかも知れません。それでも、神の愛を信頼して従うのが信仰です。
その道は各自みな違います。他の人と比べてもしかたがありません。とはいえ、自分が苦労していると、なぜ私だけが……と他者(ひと)が気になるものです。
だから、ペテロは「イエスの愛された弟子」のことが気になりました。それは十二弟子の中のヨハネのことだと思われます。同じガリラヤ出身で漁師仲間です。イエスの弟子になったのもほぼ同じ時期でした。
ヨハネ福音書では、ペテロとヨハネが互いに気になる相手であることが随所に表れています。復活の日にどちらが先に墓に着いたとか、どちらが先に墓の中に入ったとか……。
ペテロは自分の最期(さいご)を思いつつ、では、ヨハネはどうなのかと気になって質問したわけです(21)。イエスの答えは明快です。
「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。」(22)
弟子によって働きも最期も違いました。聖霊降臨して、これからという矢先にヨハネの兄ヤコブは殉教しました。しかし、ペテロは牢獄から救出されました。
また、ヨハネは流刑ではありましたが生きのびて、世の終わりについて預言する使命を得ました。トマスは遥かインドにまで宣教に遣わされたと伝えられています。
神の大きなご計画の中で、弟子たちの働きは様々です。殉教する者、聖書を書き残す者、バルナバのように弟子教育に尽力する者、先の19章で取り上げたアリマタヤのヨセフやニコデモのような働きに召された者もいます。また、名も記されていない多くの弟子たちの働きがあります。比較しても意味がありません。神のみわざのためにそれぞれが召されています。それはみな異なります。
まるでジグソーパズルの各ピースのように、みな形も絵柄も違います。でも、それらが組み合わさって、イエス・キリストの栄光の御業(みわざ)が描かれるのです。
ある人があなたより活躍しても、あなたと何の係わりがありますか。ある人が怠けていても、あなたと何の係わりがありますか。あなたはあなたです。あの人はあの人です。各々が主イエスを愛して従います。これが私たちの生き方です。
イエスを愛する生き方からぶれてはいけません。
ペテロにとって、「イエスを知らない」と否んだことは、大きく深い傷になっていました。復活の主にお会いしたにもかかわらず、心は晴れません。裏切り者の自分は教会指導者として、否、クリスチャンとして相応しくない……と。
そんな後悔と自責の念で苦しんでいたペテロたちに、復活のイエス様は出会ってくださり、再出発を後(あと)押ししてくださいました。
(1)原点に立ち返れ。
主はガリラヤで出会ってくださいました。ガリラヤは弟子たちがイエス様と出会った場所です。しかもその時も一晩中働いても獲物がなかった……この状況は、かつてペテロが召された時と同じです。
約3年前のあの時もそうでした。「沖へこぎ出して網をおろしなさい」と言われ、その通りにしてみたところ大漁でした。その時、「あなたは人間をとる漁師になるのだ」と召され、ペテロはイエスに従ったのでした(ルカ5・1~11)。
同じ場所で、同じ状況で、イエス様は弟子たちの立ち返るべき原点を思い起こさせてくださいました。
どんな挫折や失敗があったとしても、原点さえしっかりと押さえていれば、多少のゆがみや横道も、修正可能です。イエス様と出会った原点を再確認しよう。迷ったときは原点に立ち返ろう。
(2)原点……それは「主を愛する」こと。
傷心しきったペテロの心に、仲間のだれもふれることができなっかったことでしょう。傷ついた心をいやすために、人間的な励ましも慰めも、返って逆効果な時があります。
この時のイエス様は「わたしを愛するか」とたずねられました。「あの時、どうして、わたしを知らないと偽ったのですか」とは問われませんでした。「今後わたしを知らないなどと言わないだろうね」と念を押すこともなさいませんでした。
ただイエスの質問は「わたしを愛するか」。このひとつだけです。
過去の失敗を乗り越えるために、ああすれば良かったとか、あの人があんなことをしなければ……と考えても、堂々巡りが続くだけです。必要なことはイエスを愛することです。
「主イエスよ、私はあなたを愛します」という告白からすべての再出発が可能です。
ペテロが今まで愛していたのは、イエス様ではなく自分自身でした。リーダーとして目立つ自分、脚光を浴びる格好いい自分を愛していたのです。
かつて、イエス様から、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責を受けたペテロでしたが、主が指摘なさったとおり、ペテロはイエスを愛していたのではなく、人(自分)のことを思っていたのです。
告白しましょう。「主よ、私はあなたを愛します」。ここから、すべてが始まります。「主を愛する」ことが原点です。
(3)イエスは弱さも丸ごと受け止めてくださる。
イエスが愛するかと問われた時の愛は、〝アガペ〟というギリシャ語です。アガペとは、「無条件の愛」「完全な愛」のことです。つまり、「わたしをアガペするか」とたずねられたわけです。 ※ギリシャ語で、「愛」は、①アガペ……無条件の愛、神の愛。②フィレオ……友情の愛。③エロス……男女の愛。この三つがある。
かつてのペテロであれば、「はい、もちろんアガペします!!」と 自信満々に 応えたことでしょう。しかし、おのれの弱さを知った今では、自信なげに「フィレオします」と応えました。トーンダウンした感じです。フィレオとは「友情の愛」のことです。
同じ質問と応答のやり取りがもう一度あって、三度目にイエスが質問なさった時は「アガペするか」ではなく「フィレオするか」とたずねられました。つまり、ペテロの自信なげな「フィオレの愛」を認め、受け止めてくださったわけです。
ペテロも私たちも、イエス様を愛する愛は不完全です。フィレオの愛にさえ及ばないかも知れません。私たちの愛は、破れの多い継ぎはぎだらけの愛です。でも、イエス様はそんな私たちの愛を丸ごと受け止めてくださって、「わたしをフィレオするんだね」と、最後は問い直してくださいました。
イエス様は私たちをアガペの愛で愛してくださいます。たとえ、私たちからアガペの愛が返ってこなくても……です。だからこそ、イエス様の愛は「アガペ」なのです。無条件の愛、完全な愛なのです。
私たちは、フィレオだろうが、不完全な愛であろうが、ただひたすら主を愛することに努めるしかありません。そんな拙(つたな)い私たちの応答を、主イエスは丸ごと受け止めてくださるお方なのです。
◆◆◆◆◆
さて、神の私たちへのご計画は各々異なります。主はペテロに対して次のように預言されました。
「あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。」(21・18)
若い時は思いのまま生きてきたが、晩年は自分ではどうにもならない境遇で苦労するという意味ですが、結果的には、ペテロは迫害者の手によって殉教することになります。
イエスを信じるとは、順調な将来が約束される事ではありません。順境の時も逆境の時もあります。どんな境遇の中でも、与えられた使命を主と共に果たすことです。他者(ひと)は平穏に暮らしているのに、自分には試練があるかも知れません。それでも、神の愛を信頼して従うのが信仰です。
その道は各自みな違います。他の人と比べてもしかたがありません。とはいえ、自分が苦労していると、なぜ私だけが……と他者(ひと)が気になるものです。
だから、ペテロは「イエスの愛された弟子」のことが気になりました。それは十二弟子の中のヨハネのことだと思われます。同じガリラヤ出身で漁師仲間です。イエスの弟子になったのもほぼ同じ時期でした。
ヨハネ福音書では、ペテロとヨハネが互いに気になる相手であることが随所に表れています。復活の日にどちらが先に墓に着いたとか、どちらが先に墓の中に入ったとか……。
ペテロは自分の最期(さいご)を思いつつ、では、ヨハネはどうなのかと気になって質問したわけです(21)。イエスの答えは明快です。
「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい。」(22)
弟子によって働きも最期も違いました。聖霊降臨して、これからという矢先にヨハネの兄ヤコブは殉教しました。しかし、ペテロは牢獄から救出されました。
また、ヨハネは流刑ではありましたが生きのびて、世の終わりについて預言する使命を得ました。トマスは遥かインドにまで宣教に遣わされたと伝えられています。
神の大きなご計画の中で、弟子たちの働きは様々です。殉教する者、聖書を書き残す者、バルナバのように弟子教育に尽力する者、先の19章で取り上げたアリマタヤのヨセフやニコデモのような働きに召された者もいます。また、名も記されていない多くの弟子たちの働きがあります。比較しても意味がありません。神のみわざのためにそれぞれが召されています。それはみな異なります。
まるでジグソーパズルの各ピースのように、みな形も絵柄も違います。でも、それらが組み合わさって、イエス・キリストの栄光の御業(みわざ)が描かれるのです。
ある人があなたより活躍しても、あなたと何の係わりがありますか。ある人が怠けていても、あなたと何の係わりがありますか。あなたはあなたです。あの人はあの人です。各々が主イエスを愛して従います。これが私たちの生き方です。
イエスを愛する生き方からぶれてはいけません。
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