列王紀上21・25 アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。
※新改訳聖書では「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった」。口語訳・新共同訳は「悪を行うことに身をゆだねた」。
北イスラエルのアハブ王の記録が続きます。彼のなす悪はイスラエル史上かつてなかったと記録されています。それにはふたつの要因が挙げられます。
(1)悪を行うことに「身をゆだねた」。
もはや自分自身には罪に対する抵抗力がなくなっている状態です。
私たちの体には、外部から侵入する菌やウィルスに対して免疫機能が働いて、それと戦う力が備わっています。だから抵抗力があります。これが衰えると病気にもかかりやすくなります。
それと同じように、人の霊魂にも、罪に対する抵抗力を神は備えてくださっています。人によってこの力は様々です。
花粉症は、花粉を外部からの侵入者だと体が反応し過ぎてしまう病気ですが、罪に対しても反応し過ぎて、あれも罪かな、これも罪かな……とびくびくすするような生き方をする人がいます。
過剰な罪責感は問題です。これが行き過ぎると、イエス様の十字架の血では不充分だと言っていることになるからです。イエスの血によって過剰な罪責感はきよめられなければなりません。
逆に、罪に対してまったく抵抗力をなくして、アハブのように「悪を行うことに身をゆだねる」人もいます。このような人も、イエスの十字架の血によってきよめられなければなりません。
「悪を行うことに身をゆだねる」のは、罪に対する抵抗力がないだけではありません。自ら悪を好んでいる場合、拍車がかかるようにして、罪の世界に引きずり込まれます。聖書はこう記しています。
「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。」(ローマ1・26)
「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いに渡し、なすべからざる事をなすに任せられた。」(ローマ1・28)
悪を働こうとする者に対して、ある限界点を越えてしまうと ――この限界点がどのレベルかは分からない―― 神は、そのような人々を悪に引き渡してしまうのだと語っています。
ここまで来ると、おそらく引き返せなくなるでしょう。神は、愛なるお方ですが、同時に義なるお方です。神の慈愛と峻厳を忘れてはなりません(ローマ11・22)。
ですから、コリント教会のある男性は姦淫の罪から離れることができなくて、もはや引き返せなくなっていました。そこで……、
「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリ5・4~5)
これ以上、肉体によって悪をなすよりは、肉体が朽ちることによって悪を積み重ねないようにさせ、その霊は救いを受けるようにしたというのです。
本来なら、神の栄光のために肉体を用いるべきですが、罪のために肉体を用いてしまうことは残念なことです。でも、その人の霊は主イエスにあって救われます。ただし、救われているものの〝恥ずかしい救い〟です。
このように、悪に身をまかせてはなりません。
(2)妻イゼベルの存在
イゼベルはシドンの王エテバアルの娘で、熱心なバアル信者でした。ですから、アハブはバアル宗教の女宣教師と結婚したようなものです。アハブは、妻の影響を受けて、彼もバアルの神を拝み、主なる神に敵対するようになったのです。
妻の影響力は大きいです。夫が妻に及ぼす影響力の比になりません。だからこそ、妻のために祈らなければなりません。私たちが霊的生活に成功するためには、妻の助けが必要です。妻は神が用意なさった「助け手」だからです。
そのような助け手は妻だけではありません。信仰の友もまた大切な助け手です。このような助け手のために祈らなければなりません。
神が、アダムに「助け手」としてイブを与えたように、私たちには、霊的生活のための助け手が必要です。また、私が助け手となる必要があります。どのような助け手と出会うのか、あるいは助け手となるのかが、人生を決定づけます。
アナニヤとサッピラのような罪をおかすための助け手ではなく、霊的成長のための助け手となれますように……。
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