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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ホセア書 14章

2023年06月10日 | ホセア書
ホセア書 14章
彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
(14・4)


ホセア書の最後は、悔い改めて主に立ち帰れとの御言です。キリスト信仰の真髄はここにあります。修行をして立派になって出直して来いと言っているのではありません。 

冒頭の1節でイスラエルよ、あなたの神、主に帰れと呼びかけておられます。その際に、私たちは「言葉を携えて」帰ることになります。主もそのことをあなた方は言葉を携えて、主に帰って言えと指摘しています(14・2)。 

立ち返って開口一番なにを言って謝ろうか。あのルカ福音書の放蕩息子も、父のもとに帰って「こう言おうか、ああ言おうか」と、詫びの言葉を思案する姿が描かれています。 

昨今の謝罪会見では、謝罪であるはずが返って火に油を注ぐような言葉で失敗する様子が見られます。結局は他者のせいにしていたり、自己保身が見え隠れしたりしているからです。 

神に立ち返るとき、心からの悔い改めが言葉となってささげられます。悔いし砕けし魂からの言葉をささげよう。神がその言葉を用意してくださる様子が記されています(2~3)

悔い改めて立ち帰る者を、神は喜んで迎えてくださいます。わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからであると言われるのです(4)。 ※そむき(背信)を「いやす」と言われる。罪を「ゆるす」のが一般的な表現だが、ゆるす段階を越えていやさなければならない。それが罪の真の解決といえよう。

ホセアが淫行の妻をゆるして迎えたように、神は、罪人の私たちを愛し、迎え入れ、いやしてくださいます。何という恵みでしょうか。姦淫の妻を迎えるなど、常識ではあり得ないことです。それは愚か者です。

でも、神はそうなさったのです。愚か者になってくださったのです。ご自分のひとり子を私たちの罪の支払いのために十字架につけて、私たちをゆるし愛してくださったのです。

十字架は愚かになってまで愛し通された神の姿です。しかし、賢い者 ――皮肉ですが―― には馬鹿げた話にしか思えません。 

知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。(9)

ですから、今日の御言も問うています。智恵のある者は誰か、悟りのある者は誰か……と。

主が用意なさった道は、悔い改める者には直く平らです。しかし、神のなさった愛はあまりにも愚かなので、かえって信じない者には躓きとなります。神が用意なさった道は「平ら」であるのに、それを謙遜に受け入れない者には、そんな平らな道でつまずくのです。十字架の言葉は滅び行く者には愚かであっても、救いに与る私たちには神の智恵たるキリストなのです。


ホセア書 13章

2023年06月09日 | ホセア書
ホセア書 13章
わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。
(13・4)


人の側からすれば、神を知るようになったのは人生の途中からでした。私たちは神を知らずに生まれ、神を知らずに生きてきました。しかし、今日の御言は、わたしは、エジプトの時代からあなたの神であったと言われます。

「エジプトの時代」とはイスラエルがエジプトで奴隷であった時代のことです。エジプトの王が民の主人であった時代です。今日の私たちにとっては、私たちが罪の奴隷として、この世の神々に仕えていた時代のことです。主イエスを知らず、真の神に背を向けていた時代のことです。

そんな時代から、神は、私の神であり、主であったのだと言われます。

さらに、わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知ったとも言われます(13・5)。エジプトを出て荒野を旅する時も、神は、私たちを知っておられたのです。荒野で、ひたすら食べて生きることだけを考えていた、そんな肉的な時代においても、神は、私に目をそそぎ、私をご存知だったと言われます。 

しかし、約束の地に導き入れられ、そこで食べ飽きるほどの恵みを得るようになると、イスラエルの民の心は高ぶり、神を忘れるようになったと指摘されています(13・6)

人間が神を知っているなど、たかが知れています。私は神をよく知っているので、神から離れないし、神を裏切らないと思っているでしょうか。そんな私の「知っている」は、嵐の中で枯葉のようにふるい落とされます。

しかし、感謝すべきは〝神が〟私をご存知なことなのです。

私が神を知るよりもっと昔から、私を見出し、私に目をそそぎ、私を知っておられる。このお方に知られているからこそ、私の救いは確かです。

つまり、私が、荒野で神を知らないと言って裏切ることも、世の惑わしに翻弄されて、神に背を向けることも、神はご存知で私を愛し、ご覧になって来られたのです。だからこそ今の私があります。

このお方の大きな御手を信頼しましょう。このような神だからこそ、死の滅びから私たちを救い出すことができるのだと信頼して立ち帰るのです。そのことを主は次のように約束されています。

わたしは陰府の力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。(13・14新改訳)

使徒パウロはホセア書のこの聖句を引用して、キリストにある復活の希望を語りました(Ⅰコリ15・55)。神は、神を信頼する者を陰府に捨ておかれません。必ずそこから救い出されるのです。

※口語訳・新共同訳では、このホセア13章14節の翻訳が、「わたしは彼らを陰府の力から贖うことがあろうか。彼らを死から贖うことがあろうか」と、逆の意味に翻訳されている。コリント書における引用からすれば、新改訳の翻訳が理解しやすい。文語訳聖書も新改訳と同様の立場で「我かれらを陰府の手より贖はん。我かれらを死より贖はん。死よ汝の疫は何処にあるか。陰府よ汝の災は何処にあるか。悔い改めはかくれて我が目にみえず」と翻訳している。

この場合、14節最後の「あわれみはわたしの目から隠されている」「悔い改めは隠れて我が目に見えず」とは、神は救いを用意しているのに、それを信頼して悔い改めようとする民の姿が、神がご覧になるに見えない。だから神のあわれみはまだ現されていないと解釈される。

ホセア書 12章

2023年06月08日 | ホセア書
ホセア書 12章
あなたはあなたの神に帰り、いつくしみと正しきとを守り、つねにあなたの神を待ち望め。
(12・6)


イスラエル民族の始まりはヤコブです。先祖ヤコブは兄エサウと双子の兄弟なのですが、出産の時、兄のかかとをつかんで、まるで兄を押しのけるかのようでした。そこで、押しのける者という意味で「ヤコブ」と命名されました。

その名のごとく、神さえも押しのけるようにして、波瀾万丈に生きたヤコブになぞらえて、イスラエルの民の強情でかたくなな生き方が語られています(12・1~5)

そんなヤコブでしたが、彼はベテルで神と出会ったのです。またその後、そんなヤコブでしたが、ヤボク川のほとりで泣きながら神に祈り、格闘して、神からの祝福を受けたのでした。

その子孫であるイスラエルよ。どうしてお前は、先祖ヤコブのようにして主のもとに立ち帰ろうとしないのか……と神は呼びかけておられます。

あなたはあなたの神に帰り、いつくしみと正しきとを守り、つねにあなたの神を待ち望めと。この箇所を新改訳では、あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。 新共同訳では、神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望めと訳しています。

奈落の底にまで落ちたイスラエルにも、神は、ご自分のもとに立ち帰れと命じておられます。つまり、神は、突き放し見捨てたようですが、その先には、立ち帰る姿を見ておられるのです。

ここに希望があります。今は、神は、私を見離されたかのような状況かも知れません。しかし、神が愛と正義の方であることを信頼して、神を待ち望むべきです。また、私たちも、そのような神への愛と正義を保とうと思うのです。


ホセア書 11章

2023年06月07日 | ホセア書
ホセア書 11章
エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。
(11・8)


罪に対する激しい御怒りを表されると共に、神は、あわれみと慈しみを見せてくださっています。「私はお前を捨ててしまう」と宣言なさる神は、一方で、「どうしてあなたを捨てることができようか」と、悲しみに満ちた胸の内を吐露されるのです。

罪の故に怒りは燃えさかるのに、でもゆるしてやりたい……。神のこのような悲痛に満ちた心を私たちは知っているでしょうか。それを知ろうともせずに、神は罪人をさばかれる恐ろしく非情なお方だと勘違いするのです。

神の義を成そうとすれば、たとえ愛するイスラエルであっても、神は彼らの罪を見逃すことはできません。神は、必ず罪をさばくお方です。だからこそ、神は義なるお方なのです。

しかし、神の愛を成そうとすれば、民をゆるし、罪から彼らを救い出さないわけには行きません。でも、神の民だからと依怙贔屓(えこひいき)でゆるすのであれば、神の義が成り立ちません。

このように、義と愛は相反するのです。その両方の属性を合わせ持たれるのが神です。この相反する属性ゆえに、神はご自身の中で葛藤をもたらします。そんな心の内を、わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとく燃え起っていると言われました(11・8)

新改訳の方が伝わりやすいでしょう。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっているのです(11・8)

しかし「親の心、子知らず」とはイスラエルの民のことです。神が、イスラエルをエジプトから導き出し、神の聖なる民となるべく、手取り足取り導かれ、育まれた様子が11章1~4節に語られています。

長い道中、神は民を腕に抱くようにして育みいやしてこられたのに、しかし、彼らは、わたしがいやしたのを知らなかったのです(11・3)。私たちは知らずの内に神の愛を受け、いやされているのに……。神の愛を知ろう。そして、神の義を知ろう。それが神を正しく知るということです。


ホセア書 10章

2023年06月06日 | ホセア書
ホセア書 10章
あなた方は自分のために正義を蒔き、いつくしみの実を刈り取り、あなた方の新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなた方に降り注がれる。
(10・12)


北イスラエル王国は宗教的に堕落している反面、政治や軍事面では繁栄していました。だからこそ、偶像礼拝のおかげだと思い込んだのでしょう。そういうわけで、世的な繁栄に乗じて偶像礼拝へと傾斜する姿が次のように描かれています。

イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である。その実を多く結ぶにしたがって、祭壇を増し、その地の豊かなるにしたがって、柱の像を麗しくしたのです(10・1)

「祭壇を増し」とは、偶像礼拝のための施設の増築であり、「柱の像を麗しくした」とは、絢爛豪華な偶像が数多く建立されたという意味です。

人は表面的な繁栄を評価しますが、神はその心をご覧になります。だから「彼らの心は偽りだ」と指摘なさっています。新改訳では、彼らの心は二心だと語っています。

神も求めるが、富も欲しい……。しかし、ふたりの主人に兼ね仕えることはできません。一方を尊べば他方を疎んじるからです。これでは「二心」です。心とは本来ひとつであるべきです。

イスラエルの姿に今日の日本の姿を見るようです。そんな私たちに、神は呼びかけておられます。冒頭の聖句です。あなた方は自分のために正義を蒔き、いつくしみの実を刈り取り、あなた方の新田を耕せと。

二心の者は正義の種を蒔くことができません。神からの祝福も欲しいけれど、地上的繁栄も欲しい。そんな欲張る心に正義の種を蒔くことはできません。

正義の種を蒔くには、時に悲しみや涙をもって蒔くことになります。しかし、御言が示しているように、喜びの声を上げて慈しみの実を刈り取るのです。新改訳では「誠実の実」です。

さあ、今日の御言が示すように、善なる豊かな収穫を得るために新田を耕せと命じています。新改訳では耕地を開拓せよです。

二心の畑は、種を蒔いても根を張ることのできない石地のような所です。二心の畑は、種を蒔いてようやく芽が出てきても、世の思いわずらいや誘惑という雑草に覆われて、実を結ぶことのできない荒れ地です。だから、耕地を開拓しなければなりません。二心という心の畑を開拓しなければなりません。

さて、その後の北イスラエルはアッシリヤ帝国の侵略によって大きな試練を受けることになります。先の9章で預言されたように「さすらいの民」となって辛酸をなめることになります。しかし、そのような試練を通して、神は彼らの心を耕されます。神の御言という種を蒔き、豊かな永遠のいのちという実りを収穫するために開拓されます。


ホセア書 9章

2023年06月05日 | ホセア書
ホセア書 9章
彼らは聞き従わないので、わが神はこれを捨てられる。彼らはもろもろの国民のうちに、さすらい人となる。
(9・17)


神の民への呼びかけは続きます。人々の罪を指摘し、悔い改めよと呼びかけておられます。厳しく糾弾しておられますが、慈愛の目で滅び行く民を見つめておられることも忘れてはなりません。

まず、1節のすべての穀物の打ち場で受ける淫行の価を愛したと指摘されていることから見て行きましょう。

穀物を脱穀する場所は姦淫の場となったと指摘されています。脱穀して実と籾をふるい分けるのに風を利用します。そのために、脱穀所は風通しの良い高い所にもうけられました。また、収穫を感謝する意味でも、高い所で神への感謝の儀式が成されました。

そのような要因があいまって、脱穀所は偶像への礼拝所へと展開しました。こうして霊的な姦淫の場となったのですが、同時にそこは、文字通り男女の姦淫の場にもなりました。

性的交わりがいのちを生み出すことから、農作物の豊穣を祈願して姦淫が正当化され、それが宗教儀式にもなりました。それが、偶像礼拝の実態でした。霊的姦淫は肉体的姦淫と結びついて、イスラエルは堕落して行きました。

このようなことが、高い所にある脱穀所(穀物の打ち場)で成されていました。列王紀や歴代誌に度々登場する高き所とは、そのような場所であったと考えられます。この「高き所」を人々は取り除くことができなかったと、何度も記録されています。

霊的混乱は日常生活の混乱と密接に連動します。霊的な姦淫は、肉体の性的な堕落へとつながって行きます。それは日本の現状でもあります。

度々の警告にも人々は聴き従いませんでした。そのような民を神は一旦お捨てになると言われました。冒頭の聖句がその内容です。

彼らは聞き従わないので、わが神はこれを捨てられる。彼らはもろもろの国民のうちに、さすらい人となるのです(9・17)。果たして、その後のイスラエルは流浪の民として長い年月を過ごしました。しかし、神はお見捨てになったようでも、再び集められる方です。神の御怒りによるさばきと回復をホセア書は預言しています。


ホセア書 8章

2023年06月03日 | ホセア書
ホセア書 8章
わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。(8・12 新改訳)

先の7章では、生焼けのパン菓子であり、知恵のない鳩、たるんだ弓とまで指摘されながら、まるで「糠に釘」のような民です。でも、あきらめずに神の御言は続きます。

そもそも問題は、神を知る知識がないことでした。ところが民は、いえいえ、「わが神よ、われわれイスラエルはあなたを知る」と反論しています(8・2)。しかし、知っていると言いながら実際はどうなっていたのでしょうか。

彼らは王を立てた。しかし、わたしによって立てたのではない。彼らは君を立てた。しかし、わたしはこれを知らないと言われます(8・4)。北イスラエル王国が、神に背いて自分たちの都合の良い王を擁立して独立したことをさしています。神が油を注いだ王こそが本来の王であるのに、それを、無視して自分たちに都合の良い王を擁立しました。これで「私は神を知っている」と言えるでしょうか。

経済的にも軍事的にも南ユダに比べて北イスラエルは繁栄しましたが、神は、そのような王も王国も知らないといわれるのです。「主よ、主よ」と言う者がみな天国に入るのではない。私はその者を知らない……と言われた主イエスの御言が思い出されます(マタイ7・21~23)

また、こうも指摘されています。

サマリヤよ、わたしはあなたの子牛を忌みきらう。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。(8・5)

北イスラエルがサマリヤに独自の神殿を建て、そこに金の子牛像を安置したことをさしています。神は、このような偽りの礼拝を嫌われます。

旧約においては、エルサレム神殿が真正な神殿です。神は、ご自分の名を置くための神殿建立をエルサレムの町に定められたからです。この経緯は歴代志をはじめとする歴史書に何度も記録されています。

その経緯を無視したサマリヤの神殿および金の子牛象は、意図的な神への反抗です。これで、「われわれは神を知っている」とは到底言えません。

彼らはひとりさまよう野のろばのように、アッスリヤにのぼって行った。エフライムは物を贈って恋人を得た(8・9)とありますが、これはアッシリヤに同盟を求めて使者を送ったことを指しています。

本当に頼るべきは主なる神ではありませんか。なのに、主を見限って他の恋人を得るようにしてアッスリヤと同盟を結んだのです。これは、神を知っている態度ではありません。

自分は神を知っていると主張しながら、なぜこのようなちぐはぐな生き方をしているのでしょうか。

神は、ご自分を知らせるために、おしえとしての律法をお与えになったのですが、冒頭の聖句にあるように、わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなすのです。聖書に記された神のおしえはイスラエルの民にとっては他人事のように思われました。口語訳ではかえって怪しい物のように思われたとありますが、なんという厚顔無恥な態度でしょうか。

聖書を自分のこととして受け取らないなら、もはや神を正しく知ることなどできません。

イスラエルの人々が、聖書を「他国人のために書かれた書物」と受け止めたように、私たちは、聖書を他人事のように受け止めていませんか。聖書は、あなたに、そして私に向けて書かれた書物です。私のこととして読むことで、神を正しく知るのです。


ホセア書 6章

2023年06月01日 | ホセア書
ホセア書 6章
さあ、私たちは主に帰ろう。主は私たちをかき裂かれたが、またいやし、私たちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
(6・1)


神は私たちの罪をさばかれますが、それは民を滅ぼすためではなく、民が悔い改めて神に立ち帰るためです。ですから、御言は「さあ、私たちは主に帰ろう」と呼びかけています。そしてさらに続きます。

主は、二日の後、私たちを生かし、三日目に私たちを立たせられる。私たちは御前で生きる。(6・2)

「二日の後」とは「三日目」のことです。イエス様が十字架で引き裂かれましたが、神は三日目にイエスをよみがえらせなさいました。神が、御子イエスになさった死と復活の御業は、イエスを信じる私たちにも現されます。

なぜなら、私たちはイエス・キリストと共に十字架で死に、イエス・キリストと共に復活したのですから。

神は、復活の恵みに至る前に十字架の死を用意なさいました。それは、罪のさばきです。罪の滅びです。でも、この罪を後生大事にとっておきたい人は、なかなか十字架につきたがりません。ですから復活がありません。

でも、恐れることはありません。罪を十字架で葬るなら、三日目に復活があるのですから。罪を認め悔い改めることは辛いことで、死を経験することになります。しかし、主は彼を三日目に立たせ、神の御前で生きるようになさいます。

こうして、私たちは主である神を正しく知る必要があります。ホセアの語った預言には、主を知ることの重要性が強調されています。

わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶと語られているとおりです(6・6)。また、次のようにも語られています。私たちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、私たちに臨み、春の雨のように地を潤される。(6・3)

そして、私たちが主を知ることは、冬の雨のように、また春の雨のようにおとずれるのだと語られています。 新改訳では、冬の雨を「大雨」、春の雨を「後の雨」と翻訳しています。

この「雨」とは聖霊を表していると思われます。ならば、聖霊は雨のように降り注ぎ、私たちに主を知ることを実現なさるのです。聖霊は私たちを真理に導きます(ヨハネ16・13)。聖霊はイエス・キリストを知るようにされます(ヨハネ15・26)

この預言にごとく、聖霊の雨は、初代教会の時代に降りました。それを「冬の雨」と解釈するなら、「春の雨(後の雨)」が世の終わりの大収穫の時期に降ることになるでしょう。

ある神学では、冬の雨と春の雨との間に、「聖霊の雨が降らない期間」があり、それが中世の時代であった。しかし、今や春の雨(後の雨)の時代が来て聖霊の著しい働きが現れていると解釈します。

ただ、その場合注意すべき事があります。聖霊の雨はどの時代にあっても少なからず降っていました。決して旱魃ではありませんでした。今も、求める者に聖霊の雨は降り注ぎ、主を知ることを導いてくださいます。あのペンテコステ以来、今に至るまで聖霊の時代なのです

しかし預言どおり、終わりの時代に聖霊の雨は再びイスラエルに激しく降るでしょう。救いという大収穫のためです。そして、獣による大迫害をもくぐり抜け信仰を全うするためです。そもそも、この預言はイスラエルに向けて語られたのですから……。


ホセア書 7章

2023年06月01日 | ホセア書
ホセア書 7章
彼らはたるんだ弓のようだ。
(7・16 新改訳)


神のせっかくの呼びかけにも、イスラエルの人々は真摯に応答していません。神を知ることも大切だけど、毎日の仕事のこともありますから……と。

「土地を買ったので行って見なければなりません」とか、「牛を買ったので、それを調べに行くところです」「妻をめとったので行く事が出来ません」などと言い訳をして、王の招きに応えなかった人々のようです(ルカ14・15~20)

それをホセアは、火にかけてかえさない菓子だと指摘しました(7・8)。片面を焼いただけで、中途半端な菓子です。神への献げ物が〝全焼の〟いけにえであったことに反して、生焼けのパン菓子(新改訳)では、如何にも中途半端です。

また、智恵のない愚かな鳩だとも指摘されています(7・11)。空に放っても戻って来ない鳩など意味を成しません。主人の元に戻ってくるべき鳩が行ったきりでは何とも中途半端です。

私たちは世に遣わされますが、必ず主イエスのもとに戻ってくる者です。世の荒波の中で翻弄されても、立ち帰るべきところは神です。

鳩が戻ってくるのは、神が与えた帰巣本能があるからですが、私たちにも聖霊が注がれて、神に立ち帰る霊的本能があります。そうでなければ「智恵のない愚かな鳩」と呼ばれてしまいます。

さらに冒頭の聖句のように、たるんだ弓のようだとも指摘されています。口語訳ではあざむく弓と訳していますが、たるんだ弓で矢を放っても、目指すところに矢は当たらないので欺かれるわけです。

神を知る、神を愛する、神のみを礼拝する……ここに、しっかりと焦点を合わせて弓を引かなければなりません。なのに、たるんだ弓では的を射はずしてしまいます。

聖書がいうのギリシャ語はハマルティアです。それは的を射はずすという本来の意味です。何か目に見えて悪行を成すことではありません。私たちの人生の目指すべきところの的をはずしている状態が罪なのです。

さあ、私たちの〝心の弓〟をしっかりと張ろうではありませんか。たるんだ弓を張って、イエス・キリストに的を合わせて生きようではありませんか。


ホセア書 5章

2023年05月31日 | ホセア書
ホセア書 5章
彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。
(5・15 新改訳)


先の第4章では、祭司の問題が取り上げられましたが、第5章では祭司たちよ、これを聞け、イスラエルの家よ、心をとめよ、王の家よ、耳を傾けよ、さばきはあなたがたに臨むと語られ、指導者たちへの問いかけが続きます(5・1)

いったい何が彼らの目を塞いでいるのか。いったい何が神を知る正しい知識を妨げているのか。次の聖句に、その鍵が記されています。

彼らの行いは彼らを神に帰らせない。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ。」(5・4)

「彼らの行い」とは、偶像礼拝のことです。偶像を慕い求めることによって、真の神である主に立ち帰ることができないでいる。その原因は、淫行の霊が彼らの内にあるのだと指摘しています。淫行の霊とは、悪霊のことです。真の神から目を背け、真の神への貞操を失わせる悪霊のことです。

本来、人は霊的存在ですから、神を慕い求める霊的本能があります。しかし、罪をおかして神に背を向けるようになって以来、誤った神……すなわち偶像を求めるようになったのです。

また、悪魔や悪霊も、人の霊的本能を拠り所にして、神秘体験や御利益をもって偶像礼拝を盛り立ててくれます。こうして、偶像を拝むことは、その偶像の背後に働く悪霊と関わることになります。やがて、それは悪霊の支配へと展開して行きます。

このことを、新約聖書ではこの世の神々と呼び、その悪霊たちが、まことの神へ目を向けることを妨げているのだと指摘しています。

彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)

ホセアを通して語られた御言も、同様に述べています。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだと。この状態で主を求めても、主と出会うことができません。

そこで、次のように語られています。彼らは羊の群れ、牛の群れを携えて行って、主を求めても、主に会うことはない。主は彼らから離れ去られた(5・6)

「羊や牛の群れ」は、礼拝で主にささげる犠牲のことです。神に喜んでもらおうと、献げ物を山のように積み上げても、主と出会うことはできません。神が喜ばれるのは、そのような献げ物ではなく悔いし砕けし霊魂です。

ですから、冒頭の聖句が語っているように、彼らが自分の罪を認めて主を慕い求めるようになるまでは、主と出会うことができません。

あの放蕩息子も最後には、「父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と告白して戻ってきました。

自分は間違っていないと主張している間は、私たちの心はかたくなで、主と出会うことができません。しかし、自分は間違っていたなぁ~と、自分の罪を認めると、不思議とその心は柔らかくなって、主と出会うことができます。そんな「悔いし砕けし霊魂」こそが、主を知ることになるのです。詩篇51編17節で述べられている、神が喜ばれるのは悔いし砕けし霊魂であるとは、心に刻むべき教えです。


ホセア書 4章

2023年05月30日 | ホセア書
ホセア書 4章
祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。
(4・4)


ホセアとゴメルのその後は記録されていません。

第4章からは、ホセアに託された神からのメッセージです。テーマは、霊的姦淫である偶像礼拝におぼれるイスラエルに悔い改めをせまるものです。しかも、その対象の中心は「祭司」に向けられています。神は祭司たちに向かって、わたしと争うのは、あなたと争うのだと言われるのです。

祭司はイスラエルの宗教指導者たちです。主なる神とその御言を正しく教え導く立場の者に対して、主は問うておられます。

第1章でも述べたことですが、信仰の本流は南ユダとエルサレム神殿にあります。しかし、北イスラエルは独自の神殿を建て、しかも、そこに金の子牛の像を安置し、これが我らの主であると教えたのです。

そのような経緯で、北イスラエル王国では祭司職が大きく歪められてきました。御用学者ならず御用祭司たちは、国の方針にそった神学を展開し、民に宗教教育を施してきたのです。

神の御言を正しく伝える……。このことは、現代の祭司であるクリスチャン及び教職者たちにも問われることです。神はどのようなお方なのか。そして、神の御子キリストはいかなるお方なのか。このことを、右にも左にもそれず正しく伝えなければなりません。

なぜなら、わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」と言われるからです(4・6)

神を知る正しい知識がないので滅びると言われるのです。行いが悪いから滅びるのでしょうか。人格的に堕落しているから滅びるのでしょうか。

もちろんその通りなのですが、その行いとか人格を形づくるのは「知識」です。つまり考え方の領域です。何を考え、何を行うのかは知識に基づいて生み出されます。その「知識の領域」が歪んでいるので、人格も行いも歪みます。 

そして、知識の基本は神を知る知識です。神を畏れることが知識のはじまりだと言われているとおりです。だから、主を知るべきです。私たちの創造主であり、救い主である神を知ることこそ、本当の知識であり、考え方の基本です。


ホセア書 3章

2023年05月29日 | ホセア書
ホセア書 3章
そこでわたしは銀15シケルと大麦1ホメル半とをもって彼女を買い取った。
(3・2)


ホセアと姦淫の妻ゴメルとの関係は完全に破綻していました。もはやだれの目にも修復不可能な状態でした。しかし、神はとんでもない命令をホセアにお与えになったのです。

主は私に仰せられた。再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、他の神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように』。」(3・1)

今さら何を言われるのですか。もう遅いです。もう無理です。そう言いたくなります。しかし、神にとって「もう遅い」とか「もう無理」ということがありません。そして、「今さら」ということもありません。神の恵みは深く、その慈しみは大きいのです。

ホセアは行って命じられたとおりにしました。罪の奴隷となっていたゴメルを、代金を支払って買い取りました。この買い取ることがあがないです。

ホセアがゴメルにしたように、神は、御子イエス・キリストの命を支払って、罪の奴隷である私たちを買い取られたのです。つまり、あがなわれたのです。これほどの愛を受けたのですから、私たちは二度と罪の奴隷となってはなりません。

ホセアはゴメルにこう告げたのです。これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、他の男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう(3・3)

ホセアのなしたことは簡単なことではありません。しかし、神ご自身も〝姦淫の妻〟であるイスラエルを愛して、ご自分のものとしようとなさっているのです。その愛を知ってホセアは、神の愛を自らの行動をもって表現したのでしょう。 神が私たちを愛してくださったように、あなた方も互いに愛し合いなさい……というわけです。 

さて、神がご自分の御子イエスの血でイスラエルをあがない出されるのは、ホセアが預言した時点ではまだ成就していませんでした。時と場合については、次のように語られています。

それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。(3・4~5)

長い間、王もなくとは、国を失った状態が長く続くことを意味しています。また、いけにえも石の柱もなくとは、神殿儀式が途絶えることを意味しており、神殿そのものが破壊されてしまった状態であろうと思われます。しかし、その期間が終わると、彼らは帰ってくるのです。 

そうです。イスラエルは長い間、国を失い、ついに約束の地に戻ってきました。そして、終わりの日に、彼らの心も主の恵みのもとに戻ってくるはずです。神の御言は必ず実現するのです。


ホセア書 2章

2023年05月27日 | ホセア書
ホセア書 2章
わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。
(2・20)


ホセアの妻ゴメルは、その後どのようになったのでしょうか。第2章の内容は、彼女の奔放な生き方を描いていますが、同時に彼女の姿は当時のイスラエルの霊的堕落をあらわしています。

他の男と関係を持つゴメルは、妻と呼ぶにはあまりにも相応しくない生活でした。彼女はわたしの妻ではない、わたしは彼女の夫ではないと言わざるを得ません(2・2)

そして、彼女はホセアのもとを出て、他の男のもとに行ってしまったようです。

「彼女は言った、『私はわが恋人たちについて行こう。彼らはパンと水と羊の毛と麻と油と飲み物とを、私に与える者である』と。」(2・5)

しかし、そのような生き方が安息をもたらすはずがありません。神は、彼女の姦淫の罪を放置なさいません。やがて白日の下にさらし、彼女の罪を罰せられます(2・10~13)

ですから、「わたしは今、彼女のみだらなことを、その恋人たちの目の前にあらわす。だれも彼女をわたしの手から救う者はない。わたしは彼女のすべての楽しみ、すなわち祝、新月、安息日、すべての祭をやめさせる。

わたしはまた彼女が先に『これは私の恋人らが、私に与えた報酬だ』と言った彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒し、これを林とし、野の獣にこれを食わせる」と主は言われます(2・10~12)。

罪は必ずさばきを受け、そして、その結果を支払うことになります。

でも、それは、私たちの罪をきよめるためです。私たちが悔い改めて、神のもとへ立ち帰るためです。神のさばきは、私たちをきよめ、聖なる夫に相応しい民を得るためであることを忘れてはなりません。

しかし、そんな厳しいさばきの中でも、悔い改めない人々がいるのも事実です。世の終わりを預言した黙示録では次のように記されています。

「これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。」(黙示録9・20)

悔い改めて神に立ち帰るものは幸いです。神は、そのような人と永遠のちぎりを結ぶと言われるからです。〝ちぎり〟とは、結婚の契約のことです。今やこの〝ちぎり〟は、花婿なるキリストとその花嫁……つまり、イエスを信じる教会との間に結ばれています。

ホセアはゴメルの悔い改めを願ったであろうし、また、神もイスラエルの民が、偶像礼拝から離れ、真の主人である神だけを愛し、礼拝し、仕える民となるようにと回復の時を目指しておられます。


ホセア書 1章

2023年05月26日 | ホセア書
ホセア書 1章 
さきに彼らが
あなた方は、わたしの民ではないと言われたその所で、あなた方は生ける神の子であると言われるようになる(1・10)


ホセアは北イスラエルで活動した預言者です。

その活動の始まりは、「イスラエルの王ヤラベアムの世」とありますので、紀元前750年代のことです。 ※北イスラエル初代の王ヤラベアムではない。区別のためヤラベアム二世とも呼ばれる。

ソロモン王の死後イスラエル王国は、南はエルサレムを首都とする「南ユダ王国」、北はサマリヤを首都とする「北イスラエル王国」のふたつの王国に分裂しました。

北イスラエルは人口など国力の面では南ユダにまさっていましたが、信仰においては堕落の一途をたどりました。それは、エルサレム神殿に対抗してサマリヤに疑似神殿と金の子牛像を建立したことに端を発していました。

正しい道へ引き戻そうと、神がエリヤやエリシャ等の預言者を遣わされたことは、列王紀に記されているとおりです。

時代はヤラベアム二世の死後、北王国は王の暗殺がくり返され、まさに下克上の時代へと突き進みます。そして、アッシリヤ帝国によって紀元前722年に北イスラエル王国は滅亡します。そんな激動期に預言したのがホセアです。

ホセアは神から特別な命令を受けました。

それは、行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ。この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからであるというものでした(1・2)

これを聞いて、はい分かりました……とは、言えない内容です。ホセア書のすごいところは、預言者ホセアはそれに従ったところです。

そこで、ゴメルという名の女性と結婚し、彼女が生んだ3人の子に、
①エズレル(神は散らすの意)、
②ロルハマ(あわれまない、愛されないの意)、
③ロアンミ(我が民ではないの意)
と命名するように神は命じられました。

ゴメルは淫行の妻と呼ばれているように、男女関係にふしだらな女性であったようです。あるいは売春婦であったのかも知れません。だから、彼女が生んだ子の中には、ホセアとの間に授かったのではない子もいたようです。第2子のロルハマと、第3子のロアンミは姦淫によって身ごもった子だと思われます。出生時に、「ゴメルは産んだ」とだけ記録されているからです。また、「淫行によって生まれた子を受け入れよ」との神の命令からしてそうなのでしょう。

まさに我が民ではないロアンミ)」と呼ぶべき子を、ホセアは受け入れなければなりませんでした。この受け入れがたい結婚と人生を通して、ホセアは神の御心を体験的に学ぶことになりました。

ゴメルが淫行の妻であるように、イスラエルの民は真の神である主以外の偶像を神として拝み、偶像礼拝によって堕落していました。神ならぬ神々を礼拝することは、夫がある身でありながら、他の男と交わる淫行の妻と同じであると言われるのです。

つまり偶像礼拝とは霊的姦淫なのです


ところで、ひとつ疑問に思います。言葉で、「偶像礼拝を離れよ。それは霊的な姦淫と同じだ」と語ればすむことなのに、何もホセアにそこまでさせなくてもよいのではと思うのです。

ホセアにとってはゴメルとの結婚生活は負担であり、重荷であったに違いありません。でも、そんな彼だからこそ、実感をこめて語ることができたことでしょう。

神がホセアを通して語られるのは、「我が民ではない」と言うべきイスラエル民族の堕落した姿です。また、あまりにも不誠実な民ゆえに「もう、あわれまない」と見捨てられたイスラエル民族です。しかし、それでも神は、「これはわたしの民だ。生ける神の子たちだ」と宣言なさるのです(1・10)

もちろん、まだこの時点では、神のその宣言は実現していません。しかし、神はその宣言どおりにやがてなさるのだと、主は言われるのです。神が、裏切りの民を我が子だとおっしゃるに至るまで、いかに苦しまれたことでしょう。そして、ホセアも同様に苦しみました。神と同じ苦しみを味わった預言者……それがホセアなのです。

この宣言が実現するのは、キリストが来臨されてからのことです。

ですから、こう告げられています。私たちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。私たちは、すでに神の子なのである(Ⅰヨハネ3・1)。神の深い忍耐と愛を感謝しよう。