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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 32章

2024年05月31日 | 民数記
民数記 32章
それでもし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。
(32・5)


イスラエルの部族の内のルベン族とガド族は、現在寄留しているヤゼルとギレアデの地を自分たちの嗣業の地として確定してほしいと申し出ました。

この時点でイスラエルは、南北に流れるヨルダン川の東側に陣を敷いていました。神が与えると言われたカナンの地はヨルダン川の西側です。約束の地を得るには、ヨルダン川を渡らなければなりません。

しかし、ルベン族とガド族―後日、マナセ族の半分の人々もこの2部族の提案に追随した―は、ヨルダン川の東側の土地を要求したという訳です。その理由は、この地域が豊かで家畜を飼うのにとても適していたからです(32・1)

彼らが共に行かないとなると、イスラエル全体の志気が下がることは必至です。そうなれば、40年前にカナンの地に入ろうとした際に、カナン人を恐れて引き返したあの失敗の二の舞を演じることになりかねない状況です。

当然、モーセは反対しました。しかし、彼らは、妻子や家畜をこの地に残し、兵士たちをカナンの地に派兵することを提案し、この提案が受け入れられることになりました。

こうして3部族の兵士たちは、イスラエルと労苦を共にしてカナンの地で戦うことになり、約束通り最後まで参戦します。やがて戦争終結後は、申し出通りヨルダン川の東側に定住します。この内容はヨシュア記に記録されています。

しかし、その後、ヨルダン川東側のイスラエルは異教の国々の影響を受け、イスラエルとしてのアイデンティティーを失い滅びて行きました。長い目で見れば残念な結果です。

牧畜には適していましたが、信仰には適していませんでした。あのアブラハムの甥ロトは、裕福な低地であるソドムとゴモラの地域を選び、アブラハムはその逆の痩せた高台を選んだ歴史に学ぶべきです。

彼らは神を信じましたが、ヨルダン川を渡らなかった人々です。

イスラエルの民は「ヘブル人」と呼ばれます。それは「川を渡ってきた者」という意味の名です。その名のごとく、アブラハムはチグリス・ユーフラテス川を渡って来ました。また、アブラハムの子孫であるイスラエル民族はエジプトから出て紅海を渡りました。まさに、〝川を渡ってきた者〟、すなわちヘブル人です。

さらに、荒野で生まれた新しい民は、ヨルダン川を渡ってカナンの地に来ました。皆、川を渡って来た者たちです。川の此岸(此方側)である古い生き方を葬って、川の向こう側(彼岸)である新しい生活へと渡って来た者たちです。

それがヘブル人です。新約の私たちも霊的にはヘブル人です。古い自分をバプテスマの水で葬って、その水という名の〝川〟を渡ってキリストにある新しい生き方にやって来た者です。

この川を渡らないで、古い生き方を温存しているなら、やがて、クリスチャンとしてのアイデンティティーを失うことになります。ヨルダン川東岸に残った3部族と同じです。

キリスト教に好感を抱き、教会の働きにも参加するのですが、バプテスマとなると遠慮する人々がいます。此岸の生き方に執着するからです。そのような人々が、ヨルダン川の東側の民と同じ轍を踏むことにならないようにと願います。


民数記 31章

2024年05月30日 | 民数記
民数記 31章
ベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。
(31・8)


かつてミデアン人の娘たちがイスラエルの男子たちと姦淫し、彼女たちの信奉しているペオル・バアルの偶像礼拝をイスラエルに持ち込んだ事件は記憶に新しいところです。このため、神の御怒りはイスラエルの人々にくだり、姦淫と偶像礼拝に関わった民2万4千人が疫病によって死んでしまいました(民数25章)

神は時至って、この事件をもたらしたミデアン人を滅ぼすようにと、イスラエルに命じられました。この戦争で、かの預言者バラムも剣にかけて殺されました。このバラムは、イスラエルを呪ってくれとのバラク王の要請にも屈せず、私は神の祝福したものを呪うことはできないと主張し、イスラエルに対する祝福を預言した人物でした。

しかし、先の25章でも取り上げたように、ペオル・バアル事件を画策したのは、このバラムでした。表向きは神に忠実なふりをしながら、時の権力者と癒着し、利益を得た邪悪な人物でした。以後、イスラエルでは「不義の報酬を愛したバラム」と呼ばれるようになりました。そして、彼のような生き方を「バラムの教え」と呼びます。

新約の教会にも、バラムの教えが忍び込むことを警戒せよと注意をうながしています。ペルガモの教会に対して、御霊なる神は次のように言われます。

あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなた方の中には、現にバラムの教えを奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。」(黙示録2・14)

「バラムの教え」とはどんな教えなのでしょうか。

バラムのように、神にも王にも、いい顔をしようとする生き方のことです。神に仕え、富にも仕えようとする生き方です。両方を手に入れることができたら、こんな良いことはないと考えるのです。

でも、イエス様は「神と富との両方を主人にすることはできない」と警告しておられます。

バラムは神の御言を取り次ぐという天的な栄誉にあずかったにもかかわらず、世俗の権威にも魅力を感じました。王と手を組んで世俗の権威を手にしようと画策したのです。このような「バラムの教え」はペルガモ教会に入ってきており、それを警戒せよと御霊は言われています(黙示録2・12~14)

中世のキリスト教会はバラムの教えに毒された時代でした。キリスト教は「国教」となり、教会は国と手を組みました。天の権威だけでなく、国の持つ世俗の権力をも手中に収めました。

このことによって、どれほど多くの神の子たちが、地上の王国が持つ世俗の富や権力に酔いしれ、霊的姦淫を犯したことでしょう。御霊が諸教会に言われるように、バラムの教えに警戒すべきです。


民数記 30章

2024年05月29日 | 民数記
民数記 30章
もし人が主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言ったとおりにすべて行わなければならない。
(30・2)


冒頭の聖句は、神に誓ったことは成し遂げよと命じています。しかし、そうは言うものの不用意な誓いは慎むべきです。

信仰によって何かを神に誓う。何かを願って物断ちをする。そのような場合、時には勢いあまってとんでもない誓いをしてしまうこともあれば、見栄を張って不用意な誓いをしてしまうこともあります。

特に30章では、女性が誓願をする場合、父親かあるいは夫の承諾も必要であるという主旨が記されています。要するに、一時的な感情の盛り上がりや、見栄によって、不要な誓願をすることへの注意をうながしているわけです。

自分では信仰の決断だと思っても、客観的な視点も必要です。自分なりの熱意から出たものであっても、周囲への配慮が欠けているかも知れません。

ですからイエスは、「あなた方は誓ってはならない」と言われました。それは、当時のユダヤ社会で、あまりにも行き過ぎた誓いや軽々しい誓いが横行しており、返って主の御名をけがしていたからです。

不用意な誓いは慎まなければなりません。しかし、よく吟味して誓ったのであれば、それを行う必要があると、今日の御言は教えています。

イエスを信じてバプテスマを受ける時、私たちは神に約束したのです。生涯、イエスを信じ続けるますと。イエスと共に死に、イエスと共に復活のいのちを生きると誓ったのです。

でも、あのペテロがそうであったように、私たちは「イエスを知らない」と否定してしまう弱さがあります。主はそんな私たちにゆるしを与え、すべてを恵みの中に入れてくださっています。

ですから、私たちはその恵みの中で、口で告白したことを最後まで全うすることができます。主の御助けなくして不可能なことです。

注目すべきは、私たち人間に自分の誓ったことをなしとげよと命じられる神は、それ以上に、ご自分が誓われたことを最後まで成し遂げられるのです。神はご自分が誓われたことをくつがえしません。私たちを救うと言われたのですから、必ずそうなさいます。

ならば、私たちにもそうであれと、今日の御言は命じています。聖霊の助けを受けて、そうありなさいと。


民数記 29章

2024年05月28日 | 民数記
民数記 29章
7月の15日に聖会を開かなければならない。何の労役もしてはならない。7日のあいだ主のために祭をしなければならない。
(29・12)


イスラエルの例祭は大きく二分されます。春の祭と秋の祭です。先の28章には春の祭についての記録。この29章では後半の秋の祭です。ただし祭の名前が記されていません。

7月1日の祭は「ラッパの祭」。7月10日の祭は大贖罪の日。そして7月15日は仮庵の祭です。仮庵の祭は7日間続く大きな祭で、イスラエルの例祭のクライマックスともいえる祭です。

文字通り、仮りの庵を作ってそこで7日間寝泊まりする祭です。イスラエルの人々は荒野を旅する間、テント暮らしをしました。まさに「仮庵」で生活したわけです。ですから、この仮庵は約束の地カナンに住む前の苦労を思い起こさせました。

この祭は、やがて神の御国に入ったあかつきに祝うことで完成する祭です。私たちは天国を目指して、荒野である現世を旅しています。地上にあって私たちは旅人であり寄留者です(ヘブル11・13)

ですから、地上にあっては「仮の住まい」に暮らしているようなものです。仮の住まいとは木やコンクリートでできた家屋のことも意味しますが、この場合は、私たちの肉体を意味しています。

聖書は、この肉体のことを「幕屋」と呼んでいます。つまり、イスラエルが荒野では幕屋住まいであったように、人は、地上においては、肉体という仮の宿で暮らしていることを表しています。

しかし、この肉体という幕屋、即ち仮庵は丈夫な住まいではありません。破れたり壊れたりします。永遠に住むことのできる住まいではないので、この肉体にあって私たちは苦しみ悶えています。

しかし、私たちが地上生涯を終えて天国に入ると、永遠の住まい、朽ちない住まいを受けることになります。私たちの住んでいる地上の幕屋が壊れると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、私たちは知っているのです(Ⅱコリ5・1)

天の御国に行くと本当の住まいをいただくことになります。それは「復活の体」とか「朽ちない体」と呼ばれる住まいです。こうして、天の御国で私たちは荒野の生活を振り返ります。仮庵である肉体の中で暮らした地上生涯の日々を感謝しつつ振り返ります。

あの荒野にあって、神は真実なお方であったことを覚え感謝します。あの苦労に満ちた荒野において、神は愛なるお方であり、一切の必要を満たしてくださったことを振り返り、神を讃美します。

そのような「仮庵の祭」を祝う時が来るのです。それを目指して、なおも私たちは荒野である地上を希望をもって進みます。


民数記 28章

2024年05月27日 | 民数記
民数記 28章
すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない。
(28・2)


神へのささげ物の規定や例祭などの規定は、既にレビ記でも詳しく記されていますが、約束の地に入る前に再確認するかのように、民数記でも取り上げられています。

大切なことは何度も確認します。教会で語られる内容は、おしなべて言うならいつも同じです。イエス・キリストが救い主であることです。でも、それが最も大切なことです。そして、くり返し語られるべきことです。

さて、冒頭の聖句は興味深い記録です。神への供え物のことを、神はわたしの食物とおっしゃっています神はお腹がすかれる方なのですか。人間のささげる供物で空腹を満たすのですか。これは擬人的表現として受け止めることです。

レビ記で学んだのですが、火で焼いてささげるその香りを嗅いで神は満足なさると言われました。まるで、食事の前に「うん、良い香りだ!」と満足なさり、それを召し上がって満腹される。そんなイメージです。もちろん実際に食されるわけではありません。

神へのささげ物は神を喜ばせ、その喜びをもって私たちも喜びにあずかります。これが礼拝の祝福です。実は、私たちの献身としての礼拝は芳しい香りを放ちます。その献身の香りを神は喜ばれるのです。

イエス様が十字架に死なれる前、マリヤは300デナリもする高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。マリヤのできる限りの精一杯の献げ物です。もちろん香油ですから良い香りがしたのは当たり前です。しかし、それ以上に霊的な麗しい香りが放たれたに違いありません。

周囲の人々は「なんという無駄なことをするのか」と彼女を叱責しましたが、このような大胆な献げ物と献身は、神への芳しい香りとなって周囲を潤し、天にまでとどく香りであったことでしょう。

旧約の「全焼のいけにえ」は、火によって完全に焼きつくしてしまう献げ物です。だからこそ芳しい香りが献げられました。それと同じように、私たちの肉なる思いも聖霊の火によって焼き尽くすことで、芳しい香りを主に献げるのです。

マリヤを揶揄した弟子たちの「無駄だ」とか「惜しい」といった肉なる思いも焼いてしまいます。自己中心とか自己正義といった肉なる生き方も焼き尽くします。聖霊の火によって焼きつくすのです。それは、何と麗しい香りでしょうか。このような捧げものを神は食して満足なさるのです。

霊と真理をもってささげる礼拝とは、そんなすばらしい香りを天に届ける礼拝です。それは、神がおっしゃるにはわたしの食物なのです。
 

民数記 27章

2024年05月25日 | 民数記
民数記 27章
神の霊のやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。
(27・18~19)


40年の荒野の旅を終え、いよいよこれから約束の地カナンに入ろうとしています。しかし、モーセの任務はここまでです。先のメリバ事件におけるモーセの失敗を機に、神は、モーセが率いて約束の地に入ることを禁じられたのでした(民20章)。そして、ヨシュアにその任を引き継ぐことになりました。

モーセからヨシュアに。律法の象徴であるモーセから、福音の象徴であるヨシュアイエスに引き継がれるわけですが、新約聖書ではそれを律法と福音というテーマで取り扱っています。※ヘブル語名「ヨシュア」は、ギリシャ語では「イエス」。〝主は救い〟の意。

律法は私たちをキリストに連れて行く養育係なのです(ガラ3・24)。そして、養育係である律法を巣立って、今やイエス・キリストによって、私たちはまことの相続人となって天国を受け継ぐ者になったのだと説明しています(ガラ4・1~7)

さて、視点を変えて、このことから「指導者の交替」について考えてみましょう。ヨシュアはモーセのもとで長く仕えてきました。指導者としての苦悩を間近で見て学んだことでしょう。

これは教会が次なる牧師へと交替するときの大切な原則を示しています。緊急措置として、別の教会から牧師を招聘することもありますが、基本的には牧師のもとで見習い、仕えてきた指導者が相応しいと私は考えています。牧師は次の牧師を生み育てる。教会を託せる牧師を育てる。これが牧師の大切な仕事のひとつです。また、信徒は次なる信徒を生み育てる。教会は次なる教会を生み育てる。そんないのちの受け継ぎというか、流れがある教会と牧師と信徒。それが健康な信仰のあり方だろうと思います。

また、次期リーダーは神からの任命であることも大切なことです。世間一般ではリーダーを選挙で選びます。しかし、それを教会に持ち込んではなりません。信徒が気に入った牧師を選ぶのでしょうか。では、気に入らなければ選挙をして牧師を追い出します。牧師も、選挙人である信徒に気に入られるように振る舞います。

このような感覚は、教会の中に人本主義の信仰観や教会観を生み出して行きます。そうではなく、まず神からの任命があります。だから、神の任命を祈って受けなければなりません。牧師も信徒も神に向かって、神を中心とした生き方をするのです。それが教会の軸です。


民数記 26章

2024年05月24日 | 民数記
民数記 26章
ただしその内には、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。
(26・64)


民数記の第1章では、20歳以上の男子の数が各部族ごとに数えられました。それは、荒野の旅が始まった当初は合計60万3千550人でした。

そして40年後、荒野の旅路の終わりにあたって、神はもう一度、民の数を数えるようにと命じられました。その記録が26章です。20歳以上の男子の数は60万1千730人でした。

ただしその中には、エフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、当初に数えられた時の者はひとりもいませんでした(26・65)

荒野の40年を通じて、出エジプトした世代は死んで新しい世代に生まれ変わっていました。これは何を意味するのでしょうか。そして、エジプトを出て直接カナンに入らずに荒野を通過しなければならなかったのは何を意味するのでしょうか。

それは、エジプト時代に培われた偶像礼拝の習慣・価値観・発想・感受性を荒野で滅ぼし、神の御言によって養われた新しい民となって約束の地を受け継ぐためです。

荒野における神の意図は、新約の民であるキリスト教会も同じです。出エジプトした民がエジプト時代に身につけた生き方があったように、新約のクリスチャンも罪の奴隷であった時代に染みついた習慣や価値観、発想や感受性を引きずっています。それを聖書は、肉の思いとかと表現しています。

例えば、イエス様の弟子たちが度々争ったのは、「だれが偉いのか」ということでした。これは肉の問題です。しかしイエス様は、「しもべになりなさい」「仕える者になりなさい」と天国の価値観をお示しになりました。

コリント教会の人々が争ったのは「だれを誇るか」「何を誇るか」という問題でした。自分は誰それから受洗したとか、有名な誰それ先生に師事したとか、肉なる発想から生じる問題でした。

しかし、聖書は「誇る者は主を誇れ」「人々には愚かとされる十字架を誇るのだ」と新しい価値観、新しい発想を示しています。

私たちは地上生涯という「荒野」を旅する中で、この肉なる人が完全に死んで――最後には肉体も死んでしまいます――新しい人となって、つまり御霊に属する人となって、復活のからだを受けて天国に入って行きます。

肉は神の国を受け継ぐことができないのです。だから、肉は滅んで、新しい人となって御国を受け嗣ぎます。憎しみを持ったまま天国に入っても楽しくありません。不平不満の心を持ったままで天国に行っても、その恵みは台無しです。

だから、神は、この地上という「荒野」を通して、私たちの古き人を滅ぼし、新しい人となって天国に入るように取り扱われるのです。それを表現するかのように、出エジプトした世代は荒野で死んで、新しい世代のイスラエルが約束の地に入ったわけです。

こうして、イエス・キリストを信じた当初に数えられた「肉なる人」は、荒野の旅を終える時になって数えてみるとひとりもいなかった……と言える時が来るのです。荒野に込められた意味を知って従おう。


民数記 25章

2024年05月23日 | 民数記
民数記 25章
彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなた方を襲ってペオルの事件を引き起こし……
(25・18 新改訳)


イスラエルに忌まわしい事件が起きました。

イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めたというのです(25・1)。この「みだらなこと」とは男女の肉体関係のことです。その時のことをコリント人への第一の手紙では「彼らは姦淫のゆえに1日に2万3千人が死にました」と記録しています(10・8)。 ※民数記では疫病で2万4千人とあるが(25・9)、1日以外の日にさらに1千人の死者も含めてのことであろう。

神はこのことを激しく怒られました。それは単なる姦淫以上の問題だったからです。

モアブの娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだからです(25・2)。娘たちの神々とはバアル神のことで、こうしてイスラエルの中にペオルのバアル礼拝が持ち込まれました。

以後、イスラエルはカナン地方一帯に深く根を張ってるバアル礼拝の誘惑に悩まされるようになります。

バアル礼拝は豊穣の神々をまつるもので、そこでは神殿男娼や神殿娼婦との性的交わりが宗教儀式として行われていました。男女の交わりがいのちを生み出すのにあやかって、大地の豊かな産物に恵まれるようにと祈願したわけです。

しかも、神殿儀式の名目でなされる姦淫によって生まれた幼児は生贄として捧げるというおぞましい儀式もありました。このような悪をイスラエルにもたらすための巧妙なたくらみ(25・18)でした。

モアブの娘たちをイスラエルに送り込んで、男たちを色気仕掛けでおとし、偶像礼拝によって内部から滅ぼそうという巧妙なたくらみです。旧約版ハニートラップです。

この「たくらみ」は、あの預言者バラムによるものです。この事件のことを民数記31章ではバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至ったと記しています(31・16)

イスラエルを呪うことはできなかったが、彼らを堕落させて神罰によって滅びるようにという計画です。このたくらみはバラムによるものです。バラムはこのたくらみをモアブの王バラクに授けたことで報酬を得たのです。

以後、イスラエルではバラムのことを「不義の報酬を愛したバラム」と称されるようになりました。表向きは立派なことを語っても、その心は貪欲で、正しい道から外れた者の象徴となりました。

悪魔は「見渡す場所」を変えてイスラエルを呪おとしましたが、死角がないと見るや、次は性的な誘惑をもって内部から滅ぼそうとしました。この巧妙なたくらみに打ち勝つことができるのは「御霊による歩み」しかありません。


民数記 24章

2024年05月22日 | 民数記
民数記 24章
いかに良いことか。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住む所は。
(24・5)


バラク王は場所を変えてイスラエルを見れば呪うべき弱点が発見できるのではと考え、預言者バラムを第三番目の高台に案内するのですが、そこでも神がお与えになった預言は祝福の言葉でした。

ここに至ってバラムはいつものように魔術(まじない)を用いないで(24・1)……とあるように、裏をかえせば、普段は魔術を用いて預言をしていた邪悪な人物であった訳です。そんな邪悪な預言者でも、神の御言を取り次ぐことができたのは、神の霊(聖霊)がバラムの上に臨んだからです(24・2)。ですから、一連の預言はバラムの口を通して語られてはいますが、神が邪悪な預言者に授けたご自身の御言です。

イエス・キリストに敵対する大祭司カヤパであっても、「イエスが民の身代わりになって死ぬことはよいことだ」と語ったのは、いみじくも預言として語られたのだと聖書は記しています(ヨハネ11・50~52)

ですから、バラムような人物の口を通して、神の預言が語られることもあるのです。

さて、神はイスラエルを眺めて何と言われるのか。

いかに良いことか。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住む所は……と、荒野に宿営するイスラエルの群れを「美しい」「麗しい」と言われるのです。

荒野に住む人々を麗しいとはお世辞にも言いにくいことです。砂埃にまみれ、貧相な荒野の生活を美しいとはなかなか言えません。人の目にはそうであっても、神の目には「高価で尊い」のです。

荒野の旅路を経て失敗もありました。沢山の挫折も味わいました。恥ずべき逸脱もありました。そんな失態の数々を民数記は記録しています。しかし、そんな荒野の試練を通過して今日に至ったイスラエルの姿は、神の目には麗しいと言われるのです。

私たちキリストの教会も天国を目指して、荒野を旅をしている民です。荒野とは試練を通過するところです。荒野では失敗や挫折を味わいます。

しかし、そんな荒野を通過するからこそ育まれる美しさがあります。それは、内面的な美しさです。霊的な美しさです。荒野の旅を終え、いよいよ天国に入ろうとするその時、私たちは神の目にはどのように映るでしょうか。

何と麗しいことよ、キリストの花嫁なる教会はと言っていただけると信じるのです。

だから、荒野を何の問題もなく快適に過ごすためにイエス・キリストを信じるのではありません。困難を避けて、世をうまく泳いで渡るような姑息な生き方を主イエスに求めるのでもありません。

むしろ神は、荒野を通過することによって、エジプト時代に養った罪の生活を滅ぼし、邪悪な習慣をきよめ、天国に相応しい者へと聖化しようとなさっているのです。

荒野を通過することによって、神の取り扱いを受けた者に祝福あれ。


民数記 23章

2024年05月21日 | 民数記
民数記 23章
すでに神が祝福されたものを、私は変えることができない。
(23・20)


バラムはバラク王の要請に応じてモアブにやって来ました。そこで王バラクは、イスラエルの宿営の一端を眺めることのできる丘にバラムを連れて行き、そこでイスラエルを呪うようにと要請しました。

しかし、神がバラムに授けられた言葉はイスラエルへの祝福でした。神ののろわない者を、私がどうしてのろえよう(23・8)

バラク王からすれば「話しが違うじゃないか」ということで、場所を変えて、そこでイスラエルを呪ってくれと言うのです。

「他の所へ行って、そこから彼らをご覧ください。あなたはただ彼らの一端を見るだけで、全体を見ることはできないでしょうが、そこから私のために彼らをのろってください」(23・13)

そこでも、神からの御言はイスラエルへの祝福でした。神が祝福された者を、どうして私が変えられようか(23・20)

先の22章でも取り上げたことですが、人の目にはイスラエルは失敗の多い問題だらけの民です。お世辞にも立派な民とはいえません。しかし、神はそんな彼らを祝福してやまないのです。

キリストの教会もそうです。教会はいつも大なり小なり問題を抱えています。立派な完成した教会とはいいがたいです。でも、神は、そんなキリストの教会を祝福なさっているのです。神が祝福なさったことを誰も変更できないのです。

神が「救う」と宣言なさったことを、いったい誰が変更できますか。神が「愛する」と宣言なさったことを、いったい誰がくつがえせますか。神は人間のように偽ることなく、悔いることもなく、語ったことを必ず成し遂げるお方です。

神が私たちの味方であれば、誰が私たちに敵対することができようか。誰が、イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことができようか。誰もいないのです。天にあるものも、地にあるものも、どんな被造物も神の愛から私たちを引き離すことは絶対に不可能なのです(ローマ8・31~39)。一時的な困難や暗やみを経験したからといって、神の圧倒的な愛と祝福を疑ってはなりません。

さて、自分の願うようにバラムが預言しないので、バラク王は苛立っています。ならば、もう一度場所を変えて祈ってみろとバラムに提案します。

どうぞ、おいでください。私はあなたを他の所へお連れしましょう。神はあなたがそこから私のために彼らをのろうことを許されるかもしれません(23・27)

しつこいですね。そうです。悪魔(サタン)は私たちを神の愛から引き離すためなら何でもします。諦めません。バラク王の姿は、我々の弱点や欠点の粗探しをする悪魔の姿です。

悪魔はバラク王のように、角度を変えて、私たちに死角はないかと探るのです。神の愛から引き離す欠点はないか。神の祝福に相応しくない弱点はないかと、あの丘から、この丘からと眺めるのです。

もちろん、私たちは欠点だらけです。悪魔に指摘されれば、そこを突破口にして攻め入られるような愚か者です。だからこそ、神は私を義とされたという事実にしっかりと立っていなければなりません。

自分の正しさを誇ろうとしてはなりません。自分の真面目さで悪魔に打ち勝とうとしてはなりません。今や私たちはキリストの血によって義とされているのですから(ローマ5・9)、悪魔が何処から眺めようとも、神の義で覆われていることを忘れてはなりません。


民数記 22章

2024年05月20日 | 民数記
民数記 22章
あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
(22・32 新改訳)


イスラエルの民は死海(塩の海)の東側を北上して、カナンの東側から約束の地に入って行く計画でした。

そこで、アモリ(エモリ)人の王シホンはその行く手を阻むために闘いを挑んできたのですが、主なる神の圧倒的な支援を受けて、イスラエルは勝利しました。ここまでが先の21章でした。

すると、イスラエルの快進撃に脅威を感じたモアブの王バラクは、使者を預言者バラムのもとに遣わし、イスラエルを呪うようにと要請しました。 ※王の名は「バラク」。預言者の名は「バラム」。混同しないように。

さて、アブラハムの時代にも「メルキゼデク」という崇高な大祭司が存在していたように、この時代にもイスラエルの系譜以外に預言者がいた。ただし、異教の影響も受けており、預言を金儲けの手段とするような世俗的な預言者であった。

そこでバラムが主にうかがいをたてると、あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからであると言われたのです(22・12)

今までのイスラエルの旅路を振り返ると、不平や不満、背信や失敗の連続でした。しかしどうでしょう。神は、そんな彼らのことを「祝福された者だ」と言われるのです。神が祝福された者を呪ってはならない。否、呪うことなどできないのだと……。

人が見るのと、神がご覧になるのとでは違うことを学ぶべきです。

さて、こうしてバラムはバラク王の依頼を断るのですが、「バラク(王)はまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした」のです(22・15)。しかも「私はあなたを大いに優遇します。そして、あなたが私に言われる事は何でもいたします」とまで言わせたのです(22・17)

ここまで言われると、やっぱり行こうかなと思うんですね。彼は下心をもってもう一度祈ったのです。ひょっとして「行っていいよ」と許可が出るかもしれないと思いつつ……。するとどうでしょう。今度は「行け」と言われます。バラムはこれ幸いと、いそいそと出て行きました。

神が「行け」と言われたのは、イスラエルを呪うためではなく、祝福を祈るためです。しかし、主は、バラムに邪悪な心があることを見抜いて、彼の行く手で不思議な出来事を体験させられたのです。

バラムが乗るロバの目には、剣を取って自分たちを殺そうと身構えている天使が見えたので、ロバは恐れて立ち止まりました。しかし、それが見えないバラムは、ロバを何度も打ちたたいてバラク王のもとへ進もうとします。ついに、ロバが口を開いて事の次第を説明するという出来事です。ロバがしゃべるなんて……不思議なことです。

でも、エルサレムに入城されるイエス様を讃美する人々を、パリサイ人が黙らせようとしたとき、この人たちが黙れば、石が叫ぶだろう(ルカ19・40)と言われたのですから、神は、ロバにも言葉をお授けになるでしょう。

ロバでさえ事の次第が分かっているというのに、バラムには分かっていませんでした。バラク王が提示した報酬に目がくらみ、物事を正しく見ることができなくなっていたのです。
富は人の目に覆いをかけてしまうのです。

ペテロは彼のこと不義の報酬を愛したベオルの子バラム(Ⅱペテ2・15 新改訳)と評しているように、一見バラムは神に従っているようですが、邪悪な心を持ち続けた人物です。

クリスチャンの中にも「バラム的生き方」が忍び込んできます。すると、主は言われます。あなたの道がわたしとは反対に向いている(22・32)

祈りましょう。どうか主よ。私の進む道が「あなたとは反対に向いている」ことがあれば、私の前に立ちはだかってください。そして、主が立ちはだかっておられることに気づく目を開いてください。


民数記 21章

2024年05月18日 | 民数記
民数記 21章
モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべて蛇にかまれた者はその青銅の蛇を仰いで見て生きた。
(21・9)


先の20章ではチン(ツィン)の荒野のカデシュにおける出来事が記されていました。カデシュを北上すればすぐにカナンの地です。しかし、エドムの王は軍を派兵してイスラエルの通過を拒絶しました。

そこで、イスラエルは進路を変更してホル山に到着したのですが、そこで大祭司アロンが死去し、その息子エレアザルが職を受け継ぎます。ここまでが20章の記録です。

そして21章。ホル山を出立した民は、エドムの地を迂回してカナンに向かうことになりました(21・4)

迂回路はかなりの遠回りです。わたしが道ですといわれたイエス様のも、天国に行き着くには遠回りに見えます。この道で大丈夫だろうかと不安にもなります。しかし、たとえ細かろうと、またデコボコ道であろうと、「イエス」という標識のついた道を行きます。「いのちに至る道は細い」と言われた主の御言を信頼して従います。

さて、イスラエルの人々はこの旅路に堪えられなくなって、またもやモーセたちに対して不平不満が噴出します。何度もくり返される台詞です。

「あなた方はなぜ私たちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。私たちはこの粗悪な食物はいやになりました。」(21・5)

しかし、この時ばかりはいつもと違いました。モーセが民のために執り成す前に、神は御怒りをあらわにされました。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだのです(21・6)

「火の蛇」とは毒蛇の一種で、火が出るような激しい痛みや苦しみが伴ったのでしょう。これに耐えられなくなった民は、モーセに執り成しの祈りを要請しました。この祈りに対する主の答えが冒頭の聖句です。

そこで、青銅の蛇を鋳造しそれを竿にかけました。蛇にかまれて苦しみ横たえている人々は、その竿にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによっていやされ、生きることができました。

イエス様はこの民数記の出来事をとりあげ、ご自分も青銅の蛇のようにして木に掛けられることになるのだと言われました。次のように記されています。

ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。(ヨハネ3・14~15)

確かにイエス様は「十字架」という木(竿)に掛けられました。しかし、民数記の場合は蛇が掛けられたのです。聖書では一般的に蛇はサタン(悪魔)の象徴なので、この両者がどのように符合するのか理解に苦しみます。

イエス・キリストは私たちの罪を引き受けて十字架で死なれました。しかし、その死によってもうひとつの事が起きました。それはサタンに対するさばきです。これは表裏一体です。

人間の側から見れば、イエスは人の罪を引き受けて死んでくださったのですが、罪の張本人であるサタンからすれば、自分がさばかれ滅ぼされたことになります。それがイエス様の十字架の死の意味するところです。

イエス様はご自分の死によってこの世がさばかれると言われ、今こそこの世の君は追い出されると言われました(ヨハネ12・31)。そして、さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからであるとも言われました(同16・11)

私たちは、十字架に掛けられたイエス様を見あげて、自分の罪はイエスがすべて引き受けてくださったと信じるのですが、同時に、罪を根拠に私を支配し苦しめてきた悪魔(サタン)はあの十字架でさばかれたのだと信じるのです。

そのように信じて、あの十字架にかけられたイエスを見上げる者は、死から命へと移されるのです。


民数記 20章

2024年05月17日 | 民数記
民数記 20章
主はモーセとアロンに言われた、「あなた方はわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
(20・12)


荒野で水が枯渇しました。人々は水不足をモーセとアロンに訴えるとともに、こんな荒野に導いた彼らを責めました。

「先に我々の兄弟たちが主の前に死んだ時、我々も死んでいたらよかったものを。なぜ、あなた方は主の会衆をこの荒野に導いて、我々と我々の家畜とを、ここで死なせようとするのですか。」(20・3~4)

「先に我々の兄弟たちが云々……」とはコラによる反逆のことです。今もなお、あの事件を引きずっていて、恨みがましく皮肉る民に対してモーセとアロンはどのように対応したのでしょうか。

主の命令はあなたは杖をとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で〝岩に命じて〟水を出させなさいでした(20・8)。こうして岩の前に民を召集し、「モーセは手をあげ、〝杖で岩を二度打つと〟、水がたくさん湧き出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」のです(20・11)

神は岩に命じてといわれたのに、モーセは杖で岩を打ったのです。

天幕の建造では「神が言われたとおりに……」と何度もくり返されていたのに、さすがのモーセもこの時ばかりは御言通りに行いませんでした。モーセとしたことが、どうしたのでしょうか。

神は民をあわれんで水を出してくださったものの、御言通りにしなかったモーセとアロンに、冒頭の聖句のように「約束の地に入ることはできない」ことにされたのです。

くり返される民の不平や不満に耐えかねたモーセは、内心では怒りがこみあげていたのではないでしょうか。それが「岩を打つ」という行為になって現れたのかも知れません。というのも、モーセが民に向かって「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」といった口調の中に彼の怒りが感じられます。

聖書に「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ1・20)とあるように、人が怒るのは、自分を正しいとするからです。つまり、怒りによって自分の義を全うしようというわけです。しかし、それは逆に、神の義を全うすることにならない。つまり、神の義をないがしろにします。

また、こうも考えられます。エジプトを出立した直後に水不足に陥ったことがありました。その時は、ホレブ岩を前にして、「杖を取って岩を打て」と神は命じられたのです。そして、その岩から水が湧き出ました(出17・6)

モーセは前回の場合と同じだと勘違いしたのかも知れません。以前はこうだったから今回も同じに違いない……と勝手に思い込むのではなく、日々神の御言に聴き従うことの大切を教えられます。

いずれにしても、出エジプトの立役者ともいえるモーセが約束の地に入れないなんて、神さま!それは厳しすぎませんか。我々には非情と思える神の定めですが、神の意図という大きな視点でこれを理解しなければなりません。

それはこうです。モーセは律法を象徴する人物です。その律法によるなら、一点一画でも間違いがあるなら、それは律法に違反したのです。そのような「律法」によって天国に入ろうとするなら、誰も入ることはできないことを、この出来事は予表しています。

また、モーセの死後ヨシュアが民を率いてカナンの地に入りました。このヨシュアという名はイエスと同じ語です。律法ではなくヨシュア(イエス)によって天国に入って行くことを予表しています。

モーセ個人としては悲しい出来事ですが、それを用いて神は、新約で実現する真理と恵みを預言なさっています。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1・17)と言われているとおりです。このために自分の失敗が用いられたとすれば、律法の象徴とされたモーセとしても本望ではないでしょうか。


民数記 19章

2024年05月16日 | 民数記
民数記 19章
その雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所にたくわえておかなければならない。これはイスラエルの人々の会衆のため、汚れを清める水をつくるために備えるものであって、罪を清めるものである。
(19・9)


死体に触れる者は汚れるとされ、そのきよめのためにはレビ記で詳しく述べられています。しかし、民数記で再度述べられているのは、先のコラたちの反乱によって多くの人々が死んだからでしょう。

約1万5千人もの死者があったのですから、その葬りのためにイスラエルのほとんどの民が関わることになり、そのためのきよめが必要とされたからだと思われます。

内容をまとめるなら、きよめのために雌牛を焼いて灰にして、その灰によってきよめよと命じられたのです。

その雌牛は「赤い」「完全で傷のない」「くびきを負ったことのない」雌牛であると指定されています。また、牛を焼いて灰にする際に、香柏の木(杉の木)とヒソプ(植物の一種)と緋色の糸と一緒にして燃すとされています(16・6)

このきよめには、イエス・キリストによる犠牲の血を想起させる事柄が表されています。

赤いとか緋色は犠牲の血を表しています。完全で傷のないとは罪のない神の義なるお方を表しています。くびきを負ったことのないとは、この雌牛がこの犠牲のためだけに用意されたことを意味しています。

なぜ雌牛なのでしょうか。雌牛はいのちを産み出すという意味で、イエス・キリストの犠牲によって永遠のいのちを生み出す結果になることを表しているのかもしれません。また、杉の木(香柏の木)はキリストがつけられた十字架の木を想起させます。

ヒソプはきよめを表す植物として用いられました。このようにして雌牛が焼かれ、灰を集めてきよめのために用いられました。その灰を水に溶かして振りかけたようです(9節後半)。

では、なぜにするのでしょうか。

押さえておくべきことは、「いけにえの血が罪をきよめる」のが基本です。

しかし、毎回、動物を屠って流すことは実際的ではありません。しかも、多くの遺体を葬らなければならない状況下にあります。

そこで私見ですが、赤毛の雌牛の灰をもって、その中にきよめの血が凝縮されていると見なされたのではないでしょうか。灰を常備しておき、きよめが必要になると水で溶いてきよめのために使用したのだと思われます。

低俗なたとえですが、コーヒー豆を焙煎してミルで引いてコーヒーを淹れますが、普段は顆粒状のインスタントコーヒーにお湯を注いでコーヒーにするみたいに……です。

もちろん、これはやがて来たらんとするイエス・キリストの十字架の血によるきよめを暗示していました。ですから、ヘブル人への手紙では、この灰について次のように述べられています。

もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(ヘブル9・13~14)

いまや本物の血によって、私たちはきよめられ、ゆるされるのです。


民数記 18章

2024年05月15日 | 民数記
民数記 18章
あなたはイスラエルの人々の地の内に嗣業を持ってはならない。また彼らの内に何の分をも持ってはならない。彼らの内にあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。
(18・20)


アロンの杖にしるしが現れたことにより、アロンとその子らこそ祭司職であり、レビ部族が幕屋での奉仕にたずさわることが明確に示されました。そこで、改めてアロンやその子らとレビ人の立場と奉仕、並びに報酬が再確認されました。

イスラエルの各部族は約束の地カナンに入って、各部族ごとの割り当て地が定められることになるのですが、それを聖書は嗣業と呼んでいます。 ※新改訳では「相続地」。単なる相続とか報酬の意味を越えた神からの使命という意味をこめて「嗣業」と翻訳するのがよい。

しかし、レビ人は土地を嗣業とすることが禁じられました。土地はないが、神ご自身が嗣業だと言われるのです。

神に仕える働きは、地上的な価値観では割の合わないことです。見えるものにではなく、見えないものに目をそそぐという価値観が必要です。嗣業が目に見える土地ではないと不安でしょうか。でも、土地よりもすばらしいものを所有するのです。しかも、永遠に受け継ぐのです。

聖書はこう言っています。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである(Ⅰヨハネ2・23)。御子イエスを信じる者は、〝父なる神を持っている〟のだと。こうも言われています。

すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。(Ⅱヨハネ1・9)
旧約のレビ人たち以上に、いま私たちは最高の嗣業を得ているのです。