第二コリント書 1章
神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。(1・4)
使徒パウロはコリント教会の混乱を収拾するために、先の第一の手紙を書き送り、その後、直接出向いて大鉈(おおなた)をふるいました。パウロの手厳しい処置によって混乱はおさまったものの、コリント教会に悲しみと痛みをもたらしたのも事実でした。
その後、彼らが立ち直ることができたのか、パウロは気がかりでなりませんでした。そこで、弟子のテトスに様子を見に行かせたのですが、その報告を待ちきれずに、パウロ自身も出かけました(2・11~12)。その道中のマケドニアでテトスと会うことができ、コリント教会が回復に向かっているとの吉報を受け、パウロはこの第二の手紙を書いたのです。
先の手厳しい取扱いを受けることは、コリント教会にとって負うべき十字架でした。
イエスは「十字架を負って従いなさい」と命じられましたが、十字架は、負う者に痛みや苦しみををもたらします。しかし、それは私たちの肉を葬って、霊的ないのちへと再生して行くための恵みです。
聖書は、イエスを信じれば苦しみがなくなって、楽な生活を送ることができるとは教えていません。パウロが「イエスの死をこの身に負っている」(4・10)と告白したように、十字架を負うことによる苦しみや悲しみがあります。
そうは言うものの、イエスを信じなくても、人生には苦しみがあります。ただし、イエスを信じたことによって、苦しみに意味を見出すようになります。悲しみに恵みを見出すようになります。
そして、どんな苦しみや悲しみの中にあっても、神は必ず私たちを慰めてくださることを体験します。これが、信仰のある人とない人との違いです。この違いは大きいです。
さて、苦しみに遭ったとき、私たちは〝人から〟慰めを得ようとして失望します。今日の御言は、慰めは〝神から〟来ると教えています。
人からの慰めが無意味だというのではありません。また、神が慰めてくださるのだから、苦しんでいる人を私が慰める必要はないというのでもありません。
申し上げたいことは、「慰めは神から来る」ということです。
苦難のただ中にいる人を前に、私は慰める言葉を失います。何か言って差し上げたいのですが、あまりにも薄っぺらい言葉に感じます。言葉が上滑りしているような虚しさを感じます。
肉なる私には、人を慰める何かを持ち合わせていません。情けないことですが、それが現実の私です。だから、自分が苦難にあった時も、人に慰めを要求することはお門(かど)違いだと思っています。
しかし、ある人は私を慰めてくれることがあります。ある人のちょっとした一言で、大きな慰めと励ましを受けることがあります。私も何度も経験しました。それは、神が、その人を用いて慰めてくださったのであり、やはり慰めは神から来るのです。
また、時には、人のどんな励ましの言葉も、慰めにならない場合があります。そんな時は、神が直接ふれてくださるしかありません。神が直接語ってくださるしかありません。
神からの一言(ひとこと)があれば、私は勇気を得ます。神のご臨在が少しでも感じられば、私は回復します。ですから、私たちはいつも神に目を向けます。詩篇の作者もそう告白して歌いました。
「私は山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121・1~2)。
あなたは経験なさったでしょうか。聖書の御言を通して、聖霊があなたに語りかけてくださったことを……。祈りを通して、聖霊があなたの中に語りかけてくださることを……。
そんな神からの慰めを経験した人は勇気を得ます。本当の強さを持っている人です。
ですから、パウロは祈っていたのです。痛みを受けたコリントの兄姉が、神からの慰めを受けるように……と。祈りは応えられて、コリントの兄姉は、神が慰めてくださるという経験をしました。
私たちにもそのような経験が伴いますようにと祈ります。神が慰めてくださった。神が励ましてくださったという経験を求めます。
なぜなら、神からの慰めを体験した者だけが、神からの慰めを周囲に流し出すことができるからです。どうか、私たちが神の慰めを流し出す「通りやすき管(くだ)」として用いられますように祈ります。
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第一コリント書 16章
目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。(16・13~14)
コリント教会への手紙を終わるにあたって、パウロは今までのことをまとめるようにして、4つの命令を記録しました。
(1)目を覚ましていなさい。
人は霊的な存在です。だから霊の目を覚ましていなければなりません。霊が眠っていたら、信仰生活を肉の力でやるわけですから苦労します。肉の力は、霊的生活とは正反対の考えをするからです。
だから、霊の目を覚ましていなさい。霊の目を覚ましていることができるように、聖霊の助けを日々祈り求めます。
主人が思いがけない時に帰ってきても、目を覚まして主人の帰りを迎えることのできるしもべは幸いです(マタイ24・46)。この「主人の帰り」とは、イエス様の再臨のことです。その時に復活があります。
ですから、目を覚ましているとは、主イエスの再臨に焦点を合わせて生きることです。地上にばかり焦点を合わせている人は、近くのものばかりを見ている近視眼の人のようです。
近視眼の人は遠くのことが見えないように、霊的近視眼の人は、未来に起こるイエスの再臨に焦点を合わせることができず、その考えは地上のことばかりです。そのような人は、永遠を見ることができません。天を見ることができません。
ですから、目を覚ましていましょう。主は必ず来られます。
(2)信仰に立ちなさい。
私たちの判断の基準はいつも信仰です。以前は、地上的な価値観や発想で判断してきました。それが肉の価値観や発想です。肉に従って歩みますか。それは、終わりの火の中で燃えてしまう人生です。
肉のものはやがて朽ちてしまいます。永遠に残るのは霊のものです。御霊に属する事柄です。
肉のものは肉眼で見たり、手でつかむことができるので、確実なもののように思えるだけです。しかし、実際は肉のものはやがて朽ちてしまいます。永遠ではありません。
かたや、霊のものは肉眼で見えないので軽んじてしまいます。でも、今は目に見えないだけで、やがて終わりの時に、はっきりと現れてきます。その目に見えない世界を見て行くことが信仰です。
ですから、信仰を基準に判断します。
信仰に立つとは、「御言に立つ」ということです。神の御言に従うことが信仰です。日々聖書を読むのは、御言が私の基準になるためです。
御言が私の考えになりますように。御言が私の感覚になりますように。御言が私の発想になりますように。御言が私の人格になりますように。そのように祈りつつ、聖霊の助けを得て聖書を読みます。
(3)男らしく強くあれ。
「男らしく」とは女性らしさを卑しめるものではありません。女性にも「男らしく強くあれ」と命じています。モーセから任務を引き継いだヨシュアにも、「強く、また雄々しくあれ」と神は命じられました(ヨシュア1・9)。
男らしいとは潔(いさぎよ)いことです。信仰に立つためには潔くなければなりません。
肉とは、地上に対する未練です。肉はこの地上につながろうとする力です。だから、肉に属していると、この世に未練がましくなって、天国の国民として潔く進むことができなくなります。
この地……すなわち物質の世界はやがて朽ちてしまうのに、しがみつこうとします。これが肉の感覚です。これを潔く切り換えて、天の価値観、御霊に属する感覚で生きて行こうと決断します。
私たちは神の小羊の死によってエジプトを出て来た者たちです。エジプトに未練を残す者は神の国に相応しくありません。潔くエジプトを後にします。
天からの火で滅ぼされるソドムとゴモラの町から、神はロトとその家族を救い出されたように、神は私たちをこの地上の国から導き出してくださいました。しかし、ロトの妻は振り向いて塩の柱になってしまいました。この世に未練をもって振り向く生き方は、霊的ないのちを失います。
私たちは、エジプトの感覚を潔く断ち切って、約束の国をめざす者たちです。この潔さが、男女の区別なく「男らしく強くある」ことです。
(4)すべてのことを愛をもって行いなさい。
エジプトを出たイスラエルの人々は、老人も若者も子供もいました。元気な人もいれば、病人もいました。約束の国を目指して旅立ったわけですが、先を急ごうとする者もいれば、急ぎたくても急げない弱者もいました。
出エジプトした人々は千差万別です。そんな集団をひとつにするのは「愛」です。違いを理解して受け入れること。その違いを活かし合うこと。神の御国を目指す道中では、そのような愛が不可欠です。
先を行く人は、ひと足先に進んで、「神の国はこんなにすばらしいところだよ」と報告して、後から来る人に励ましと希望を与えてください。
また、祈って支える人も必要です。先に進もうとする人に、お弁当をつくって持たせてあげるような人も必要です。そんな互いを活かし合う愛によって、教会はこの荒野の旅を進みます。
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第一コリント書 15章
肉の体でまかれ、霊の体によみがえるのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。(15・44)
コリント人への第一の手紙は、教会内の種々の問題が、「肉」に起因することを指摘しつつ、肉に属する者から、霊(御霊)に属する者へと導く手紙だと言えるでしょう。
「霊に属する者」とは、「自分が肉体的な存在だけではない。自分は霊的存在である」ことに目覚めていることが基本です。鏡に映る自分は、自分の肉体を映しているだけです。それは氷山の海面に現れている部分です。海面下に、はるかに大きな霊的存在がひかえています。別な言い方をすれば、私・霊魂は、肉体という服を着て働く存在です。
だから聖書は、肉体のためだけの人生ではなく、私・霊魂が神の御言に従って生きるために、肉体を用いる生き方を教えています。
それを「霊的生活」といいます。
これこそが信仰による生活であって、宗教生活とは区別されるものです。この霊的生活は肉体の感覚からすれば面倒なことであり、負担や窮屈を感じます。ですから、愚かなことに見えます。でも、本当の知者になるために愚か者になるがよい、と聖書は勧めています(3・18)。霊的生活は、肉の感覚にしてみれば愚かなことです。
何をすることも許されています。しかし、すべてが益になるのではありません。つまり聖霊によって自由が制御される生活を勧めているのです。これも、肉の感覚では愚かなことです。しかし、内なる霊魂にとっては有益なことです。
人は地上の栄光のために節制します。やがて朽ちる栄光のためにでさえも節制します。しかし、自分が霊的存在であることを知っている「霊の人」は、天上の栄光のために節制します(9・24)。
霊的生活は決して無駄に終わることがありません。なぜなら、私たちの地上で成してきた霊的生活の成果は、復活の体となって現れるからです。
復活とは、肉の体をもう一度得ることではありません。肉体を何度得たとしても、再び朽ちてしまいます。肉から生まれるものは肉です。そのような朽ちる体で、朽ちない世界(天国)に入ることはできません。
そうではなく、朽ちない体に復活します(15・52)。それは「霊の体」です。新改訳では「御霊の体」と訳しているので、御霊(聖霊)が体になると誤解されますが、正確には、私の霊(新生した霊)が体になるという意味で、「霊の体」です。 ※「霊」と訳されているギリシャ語は「プニューマ」。それを文脈上、聖霊と解釈する場合は「御霊」と翻訳。「霊」と「御霊」の区別は翻訳者によって異なる。
今の私たちは、土の塵が成分となった「肉の体」を受けていますが、来たるべき復活の時は、神の御言が成分となった「霊の体」を受けるのです。ちょうど、種がまかれて、種自体は朽ちるのですが、そこから新しい体が生え出るように、「肉の体」でまかれて、「霊の体」に復活するのです。 ※天使は霊の体だ。
今、私たちの霊は、肉の体という「種」の中に宿っているので、それを見ることができません。
肉体のためにバランスの良い食事をしたり、運動をすると、その結果は目に見えます。しかし、霊がどれだけ養われたのか、やせ細っているのか健康なのか、目に見えません。今は隠されています。でも、隠されていることが明かになる時が来ます(4・5)。
それは復活のとき、私の霊が体になることによって現れてきます。私の霊が体になるのです(15・44)。それで、この体のことを「霊の体」と呼びます。霊から成り立つ体なので朽ちません。
肉の体は、土地の塵によって造られたので、有限的な体であり、やがて朽ちてしまいます。この地上(物質界)で生きている期間だけ用いる体です。
しかし、天で生きるためには朽ちない体が必要です。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことができないからです。つまり、肉の体で天国に入ることはできないという意味です(15・50)。
ですから、朽ちない体……つまり霊の体を受けるために、地上で霊を養うのです。肉体にある期間に、私たちが霊的生活をするのはそのためです。
わが霊を養うために、肉体を使うのです。わが霊を活かすために肉体を用いるのです。それは結果的に、罪のために肉体を用いるのではなく、神の義のために肉体を捧げる生き方です(ローマ6・13)。
私たちの霊はパンで養うことができません。神の御言が食物です。神の御言で栄養を豊かに蓄えた霊が、復活のとき、霊の体となって現れてきます。神の御言で養われた霊が体になります。 ※イエスも、「御心を行うことがわたしの食物だ」と言われた(ヨハネ4・34)。つまり、神の御言を行うために、ご自身の体を用いることが、生きるための食物だという意味である。
肉の体は土の塵が成分となって構成されましたが、霊の体の成分は神の御言です。御子イエスも御言が肉体となって来られたお方であったことを思い出してください。
だから、私たちは肉体にある間に、霊を御言で生かす生活をします。御言を聞いて行う生活が、私の霊を養う霊的生活です。それこそが、洪水が押し寄せても流されない岩を土台にしたいのちです。
ところが、私の霊は見えないので、霊を養うことよりも肉体を養うことに、つい時間も財も費やしてしまいます。霊的生活より肉の生活を優先してしまいます。でも、肉の生活を優先していると、私の霊は飢え渇きます。逆に、霊的生活を優先していると、私の肉体は反抗します。肉は霊に敵対します。肉の感覚は神の御心に従うことができないからです(ローマ8・7)。
クリスチャンは、この肉の思いと霊の思いの両方が自分の中に混在することを知っています。そして、その両者の板ばさみを経験します。
でも、そのたびに、霊の思いを選びます。霊の感覚を優先します。それが霊的生活です。それが「目を覚ましている生活」です。肉の体を大切にするのは当然です。それ以上に自分の内なる人、即ち霊を大切にするのです。こうして養った霊が体になります。これが栄光の復活です。私たちはこの復活を目指しています。この栄光の復活がなければ、私たちは全人類の中で最も惨めな者たちです(15・19)。
でも感謝です。復活は確かに実現するのです。たとえ愚か者と呼ばれても、復活を信じます。この復活によって、私たちの霊的生活の労苦は報われます。しかし、この地上の何かによって報われようとしたら、天での報いを失います。だから、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励むのです。主にあっては、私たちの労苦が無駄になることはないと知っているからです(Ⅰコリ15・58)
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私は霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。(14・15)
聖霊によって各自に分け与えられたカリスマ(賜物)の中でも、異言(いげん)と預言について14章は記しています。
両者に共通していることは、「言葉」に関するカリスマです。ただし、異言は何を言っているのか分かりませんが、預言は普段使う言葉で語ります。しかし、両方とも聖霊によって語ることです。
両方とも「言葉」に関する賜物であることは興味深いことです。なぜなら、人が最も制御しにくいのが言葉、つまり「舌」であるからです。
ピアニストは指を巧みに制御しています。サッカー選手は足を巧みに制御しています。しかし、「舌」を制御できる人はいません。舌を制御できる人は「完全な人だ」と聖書は記しています(ヤコブ3・2)。
この「舌」は船の舵(かじ)のように、小さくても大きな船体の行き先を決めてしまいます。つまり、私の舌が何を語るかによって、人生の行き先を決めます。他者の人生を左右さえします。
だから、この「舌・言葉」を聖霊によって支配していただく人は幸いです。
聖霊による賜物の顕著な現れとして、異言と預言があげられているのは、それほど聖霊が舌(言葉)を支配なさることが重要であることの証拠です。 ※9つあげられた聖霊の賜物の中で、「異言」と「預言」の他に、「知恵の言葉」「知識の言葉」「異言の説き明かし」と、言葉に関する賜物が半数以上である。
異言は何を言っているのか分からないので、異言を説き明かす人がいないなら、公の場では慎むように勧めています(Ⅰコリ14・26~27)。
かたや預言とは、神の御言を預かって語ることです。旧約の時代は、預言者が神の御言を預かって語りました。新約の時代になって、神の御言はイエス・キリストとなって世に現されました。そういう意味で、イエス・キリストを伝えることは預言といえます。もう少し平易に表現するなら、キリストが語られるように語ることです。
コリント教会への手紙は、異言も大切だが、それ以上に皆が預言をしなさいと勧めています(14・1、5、39)。それは、キリストを伝え、キリストのように語ることが、だれにも必要な賜物だからです。
たとえば、人から相談を受けたとき、どう語って良いだろうかと悩みませんか。イエス様を伝えたいのに適切な言葉が出てこないのです。ところが、不思議と聖霊によって言葉が与えられ、その言葉によって人が活かされ、励まされます。
これは預言の賜物です。だから、教会の人間関係が建て上げられるためには、クリスチャンであればだれでも預言のカリスマが必要です。
なのに、肉の力で語り、肉で対応して人を傷つけたり、人生の方向性まで歪めることもあります。まさに、舌は制しにくい悪であり、人生航路の行き先を決めてしまう舵です。
ですから、聖霊が自分の舌を支配なさるように求めます。預言の言葉で語ることができるように求めます。私たちのチョットした普段の対応に、預言の賜物は必要なのです。
聖霊によって語るとき人間関係は建て上げられます。しかし、肉なる言葉の応酬は教会の交わりを壊すことが多いのです。
預言は「教会の徳を高める」とありますが、それは教会を建て上げることを意味しています。聖霊によって与えられた言葉……すなわち預言は、教会の交わりを整えてキリストの体なる教会として建て上げるのです。それが、教会の徳を高めることです(14・4)。
そうは言うものの、異言も大切です。今日の聖句は、「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」と記されていますが、「霊で祈る」とは異言で祈ることです。「知性で祈る」とは普段使っている言葉で祈ることです(14・15)。もちろんこの場合も、異言のことを知らない人が同席する場合は慎むようにと勧めています。
コリント教会では、パウロが注意しなければならないほど異言が一般的であり、多くの人があちらでも、こちらでも異言で語るなど、異言で賑やかな教会だったようです。だから、知性の祈りも大切であることを戒めたわけです。
しかし、逆に知性で祈ることばかりに偏っていて、霊の祈りが沈滞している場合もあります。聖霊のカリスマは初代教会の時代で終わったとする神学もそれを後押ししてます。
知性での祈りは、知性の領域に実を結びます。しかし、この知性の領域は、見えない霊の範囲からすれば、わずかな領域です。実は、私たちの知性では把握できないほどの広さや深さを持っているのが霊です。
海面に浮かぶ氷山は、海面に出ている部分はわずかで、その数十倍が海面下に隠されています。そのように、海面に現れているのは知性の領域ですが、海面下には大きな霊の領域が隠されています。
私の知性では、あのことが必要だと感じて祈ります。持っている知性を総動員して、私の思いを神に祈ります。しかし、私の霊はもっと深い必要を知っています。もっと先の必要、天における永遠を見据えた上での必要を求めています。目に見えない霊的な世界の戦いの必要を感じています。
しかし、私の知性では、それを祈り切ることができません。把握し切れないのです。言葉にできずに、もどかしさを覚えています。
「人の思いは、その内なる霊以外にいったいだれが知っているだろうか」(Ⅰコリ2・11)と記されているように、私の真の必要は、私の霊が知っています。かたや知性が知りうる範囲はほんのわずかです。
だから、私の霊は祈りたいのです。言葉にして祈れるのであれば、今にでも祈り出したいのです。それを祈れるようにしてくださったのが霊による祈り。つまり異言で祈ることです。
ですから、異言で祈っても知性は実を結びません(14・14)。しかし、私の霊は満たされます。私の霊はいやされ、きよめられ、実を結んで行きます。霊の深い部分から満たされるためにも、異言で祈ります。こうして、異言は自分自身を建て上げるのです。
異言で祈ることは「自分自身の徳を高める」とありますが(14・4)、徳を高めるとは「建て上げる」という意味の「オイユドメオー」というギリシャ語です。預言は「教会を建て上げる」のに対して、異言は「自分自身を建て上げる」ことになるのです。
霊で祈ることと、知性で祈ることがバランス良く成されますように……。
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愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。(13・4~6)
先の12章では、神は聖霊によって各自に異なったカリスマ(賜物)をくださっていること。そして、それはキリストの体として〝ひとつ〟になって機能して行くことを見ました。
カリスマ(賜物)は神からのプレゼントですから、神がどんなプレゼントをくださるのか、それは神のお考え次第です。聖霊なる神は、風が思いのままに吹くようにして、各自にカリスマを与えられます。
各自の違いは、神からのプレゼントなのですから、こんなプレゼントが欲しいです……とは要求できません。そして、神がくださったプレゼントに文句をつけてはいけません。
ある人には「異言」というカリスマをくださいます。傍目(はため)から見れば、変な言葉でしゃべる賜物なんて格好悪いと思います。でも、神がくださったプレゼントですから、感謝してそれを用います。
先の12章には霊的なカリスマが記されていましたが、ローマ人への手紙12章3~8節には一般的なカリスマも記されています。
「私たちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである」。
いずれの場合も、それぞれの違いを認め、各自に与えられた賜物を用いて、キリストの体として互いに成長して行く。それがキリスト教会の姿です。
そこで、各自の違いが、キリストの体として結び合わされ調和を保つために「愛」が重要な役割をはたします。愛は潤滑油のように働いて、各自の違いを結び合わせ、機能させます。
いろんな賜物がありますが、さらにすぐれた賜物を求めなさい(Ⅰコリ12・31)と勧められて、13章に入って「愛」について語られています。そういう意味で「愛」も賜物です。 ※ガラテヤ書にある御霊の実も「愛」であることは見逃してはならない。
つまり、元々の自分の中に備わっているものではなく、神からいただかなければならないのです。ですから、生まれつき「愛の人」はいません。
あると思っている「私の愛」は、実は肉の愛です。愛情豊かなようでも、どこかに自分中心の罪の性質が紛れ込んでいます。肉なる愛は砕かれて、聖霊の賜物としての愛を受けます。
他の賜物は各自に異なったものですから、あれが欲しいとかこれが欲しいとは言えません。しかし、愛だけは全員が求めるべき賜物です。だから「愛を求めなさい」と14章に入っても勧められています(14・1)。
さて、今日の聖句(13・4~6)の〝愛〟と記されている箇所に自分の名前を入れ替えて読んでみます。「藤原幸生は寛容であり、藤原幸生は情け深い。またねたむことをしない。…云々…」。
あまりにも現実とのギャップを感じて、恥ずかしくて読めなくなります。それほど私は愛のない者です。だからこそ、神の賜物として愛を受け取らなければなりません。
でも、その〝愛〟の箇所にイエス様の名を入れて読むならピッタリです。イエスは寛容であり、イエスは情け深い。イエスはねたむことをしない……。うん、そのとおりです。
そのイエスのご性質を私の中に再現するために、聖霊が私の中におられます。聖霊の最大の賜物である愛を、私の中に再現しようとご計画なさっています。
最期にもうひと言そえておきます。愛を情緒的に考えすぎてしまうと、愛の本筋からずれてしまいます。情緒的な愛だけが愛だと勘違いして、「教会には愛がない」などと非難するのは行き過ぎです。
互いの違いを認め合い活かし合うために……、寛容で、親切で、ねたまず、自慢せず、高慢にならないのです。これが愛することです。
互いの違いを認め合い活かし合うために……、礼儀正しくし、利己的ではなく、怒らず、人の悪を思わないのです。これが愛することです。
互いの違いを認め合い活かし合うために……、真理を追究し、我慢し、期待し、耐えるのです。これが愛することです。
個性的な人々によって構成されていたコリント教会が、キリストの体としてひとつになるためには、このような愛が必要でした。そして、今日の教会にも必要です。最高の賜物である愛を求めよう。
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第一コリント書 12章
あなた方はキリストの体であり、ひとりびとりはその肢体(器官)である。(12・27)
種々の課題を取り上げてきた手紙は、第12章からは、教会をひとつの体としてとらえるべきことを語っています。キーワードは〝ひとつ〟です。たくさんあっても〝ひとつ〟です。多くいても〝ひとつ〟です。
それは聖霊が各自に与えてくださる賜物においても同じことが言えます。各自の賜物はそれぞれ異なっていても、それはひとつです。ひとつの身体となって、ひとつの目的に向かっています。
イエスを信じる者は複数ですが、同じ聖霊を受けたので、霊的にはひとつです。ところが、各自は同じ聖霊を受けていますが、聖霊が各自に与えた賜物(たまもの)はそれぞれ違います。
「賜物」とはギリシャ語でカリスマです。一般的には△△のカリスマ等と称して、秀でた能力をもつ人のことを言いますが、原語の意味はカリス(恵み)から来た言葉で「恵みのプレゼント」という意味です。
クリスチャンは各自みな同じ御霊(聖霊)を受けていますが、御霊が各自に分け与えたカリスマ(恵みのプレゼント)は異なります。12章には、様々なカリスマが列記されています。
①知恵の言葉、②知識の言葉、③信仰、④いやしの賜物、⑤力あるわざ、⑥預言、⑦霊を見わける力、⑧種々の異言(いげん)、⑨異言を解く力です。
※御霊が各自に賜物を与えたのは、キリストのように働くためである。キリストのように知恵の言葉を語り、キリストのように癒しをなし、キリストのように預言をし祈る等々。こうして、各自の賜物としての働きが組み合わさって、キリストの体の教会が建て上げられる。
※「御霊の賜物」とは別に、「御霊の実」もある。愛、喜び、平安、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラ5・22~23)。両方とも9つであることは興味深い。前者がキリストの働きであるのに対して、御霊の実はキリストの品性だ。このように、キリストの体の教会が、活動と品性においてキリストに似た者へと変えられるために聖霊が与えられた。
このようなカリスマは、初代教会の時代で終わったとする解釈もありますが、永遠に変わらない神の御言が告げていることなので、このカリスマは今日も同じように、御霊が各自に分け与えてくださるはずだと信じます。御霊の賜物は初代教会で終わって、御霊の実は今も必要だというのでは矛盾します。
さて、私たちは違いを認めるのが苦手です。特に、農耕民族である日本人は、つねに周りの人と同じようにすることを学習してきました。田植えの時期、水田から水を抜く時期、施肥する時期、収穫の時期……と、みんなと同じタイミングでやらないと失敗します。
また、江戸時代の隣組(となりぐみ)制度は、その中からキリシタンが出たら隣組の全戸が処罰の対象でしたから、皆が同じ仏教を信心するように監視し合いました。そんな長い歴史の中で培われたものは、「みんなと同じだと安心だ」という感覚です。
しかし、聖書は言います。みんな違うのです。
イエスを信じたことで、同じ御霊を受けたという点では同じですが、カリスマ……つまり能力や働きはみな違うのです。それは、身体が種々の肢体(器官)によって構成されるのと同じです。違いを認めながら調和としての〝ひとつ〟です。これが、キリスト教会の姿です。
「みんなが同じになることによる一致」ではありません。それは、日本社会で培われてきた「和の精神」です。違いを認めず、所属する組織が期待する型に人をはめ込もうとする精神風土であって、それが日本のキリスト教会を混乱させています。
キリスト教会に集う信徒が同じようになろうとする同調圧力があるとするなら、それは聖書がいう〝ひとつ〟とは違います。
教会は「キリストの体」です。私たち各自は、その体の肢体(器官)として違いがあるのですが、体としては〝ひとつ〟です。同じ目的に向かって動き、働くのです。こうして私たちは、キリストに似た「ひとりの人」として完成するように、神は教会を召されたのです。その、「ひとりの人」である体の一部分が自分なのですから、他の部分と違っていて当然です。
違いが調和をもって組み合わさるのが体です。体は違いのある器官を相互に必要とします。換言すれば、体の一部として組み合わさるとき、自分の本来の立場が活きます。ですから、キリストの体を離れるなら、それは目的を失った部品のようです。
コリント教会は御霊のカリスマがたくさん与えられた教会です。癒しをする者、知恵のある者、力ある働きをする者、異言や預言を語る者等々……。霊的にはパワフルな教会です。
でも、調和がとれていませんでした。
この手紙に流れるテーマ。それは「神の奥義の管理者」であり、その管理者に要求されるのは忠実であるというテーマを思い出してください。
神がくださった能力、つまりカリスマを正しく管理しなければなりません。神からあずかったカリスマですから、だれも誇ることはできません。そのカリスマを管理するために、大切な考え方は、「各自の違いはあっても、キリストの体としてひとつである」ということです。
もはや自分のためだけに自分があるのではなく、他の肢体(器官)のために自分があります。そして、キリストの体のための自分です。このように、キリストの体としての関係は〝相互依存〟です。これは、共依存ではありません。
共依存は、自分をささえてもらいたくて関係につながろうとしたり、自分を受け入れてもらいたくて一方的にもたれ掛かる関係です。共依存はキリストの体の関係を破壊します。教会形成が共依存にならないように注意しなければなりません。
祈りましょう。私たちが互いに組み合わさって、キリストに似たすばらしい体を建て上げることができますように。そして、キリストの御姿を現代の世にも現すことができますように……。
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あなた方は、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(11・26)
11章の前半は、男女の秩序についての教えです。女性が頭にかぶり物(ベール)をつけるのは、女が男の権威のもとにあることを表現しているのだと教えています(11・10)。
この風習は近年のフェミニズム運動の影響もあって少なくなってきました。しかし、この「かぶり物」は決して男尊女卑を奨励しているのではありません。天地創造の時から神が定められた霊的な秩序を表しています。
男子は権威をかさに女子を虐(しいた)げてはならないし、むしろキリストが教会を愛し慈しむように、女子を守る責務があります。そんな男子も、キリストの前ではその権威のもとにひざまずく謙遜がなければなりません(11・3)。
これは霊的な秩序です。その秩序を破壊しようとしたのが、天使でありながら、その分を忘れて堕落したサタンとその仲間たちです。私たちがこの霊的秩序を重んじるのは、天使たちに対しても襟(えり)を正す行為になるでしょう(11・10)。
今日、文字通りかぶり物をつける人もいますが、つけない人もいます。肝心なのはこの霊的秩序を保つことです。 ※聖書には当時の文化的習慣に基づいている記事もあり、ベールをかぶることもその内のひとつである。例えば、他にも、「聖なる口づけをもって挨拶しなさい」とあるが(ローマ16・16)、日本はお辞儀の文化であって口づけははばかれるので文字通り実行しない。ベールをかぶることもその文脈で読み解くべきではないかと考える。
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さて、11章17節からは聖餐式(せいさんしき)について記録されています。といっても今日の聖餐式と趣(おもむ)きが違うのにお気づきだと思います。ごく普通の食事の席で聖餐式は行われていました。
当時はまだ「聖餐式」と呼ばれておらず、「主の晩餐」と呼ばれていました(11・20)。ようするに教会の食事会、今日的には愛餐会(あいさんかい)です。そもそも、イエス様が聖餐式を制定なさった席も食事の席でした。
イエス様が十字架に渡される直前に、弟子たちと過越(すぎこし)の食事を共になさったわけですが、そのパンと杯が聖餐式の原点となりました。
過越の食事は、イスラエル民族が出エジプトの出来事を子々孫々語り継ぐための食事です。かつてエジプトで奴隷でしたが、「主の過越し」によって奴隷から解放されて、自由人となり、神の民となったことを記念する食事です。
「主の過越し」とは、主なる神がエジプト中を初子(ういご)の死をもってさばかれた時、イスラエルの民は小羊をほふって血を流し、その血を玄関に塗り、その肉を食べました。死のさばきは、小羊の血が流された家を〝過ぎ越し〟て行きました。それを記念する食事が「過越の食事」です。
このユダヤの伝統的な食事に、イエスは新しい意味 ――と言っても本来の意味であるが――をお与えになりました。
出エジプトしたときは小羊が殺されました。しかし、今や神の小羊であるイエス・キリストが十字架で殺されました。そのイエスの血を飲み、その肉を食べる者には、死のさばきは〝過ぎ越し〟て行くのです。
これが、イエス・キリストが過越の祭で死なれた意味です。そして、過越しの食事の席で、イエスはパンと杯を、ご自分の肉体と血になぞらえて、食べて飲みなさいと命じられました。ですから単なる食事会ではないのです。
しかし、コリント教会のある人々は、その意味をわきまえないで、飲み食いに興じてしまい、主の杯であるぶどう酒で酩酊する始末です。これでは聖餐式の意味が台無しです。だから聖書は、それを大切に扱うようにと戒めているのです。
相応(ふさわ)しくないままで主の晩餐にあずかってはならない、と記されていますが(11・27)、それは、以上のような意味を理解しないで、受けてはいけないという意味です。 ※過去を振り返って罪多き自分は相応しくないという解釈は間違い。そんな自分のためにキリストは死んでくださったのだと信じる者こそが相応しいと教えている。
コリント教会の中には、その意味を理解しないで、つまり信仰のないままに主の晩餐を食べたがために、「さばきを受けた」と言われています。病気になったり、早死にさえしました(11・29~30)。
裏をかえせば、イエスの十字架の意味を信じて聖餐式を受けるなら、その人は霊的にも肉体的にも祝福を受けるというわけです。
このことをわきまえて、パンと杯を受けましょう。そうすれば、内なる霊的な救いだけでなく、肉体の健康や癒しも受け取ることになります。
主イエスが十字架で死なれたことによって、私は悪魔の支配(奴隷)から出エジプトしたことを確信します。悪魔がもたらす呪い、病い、悪から自由になったことを宣言します。
永遠の死に至る神のさばきは、私を過越したことを感謝します。杯を飲みながら、イエスの血が私に塗られていることを確信します。この血はしるしです。罪ゆるされた者のしるしです。そのことをよくわかって、祝福ある聖餐式を受けてください。
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あなた方の会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(10・13)
第10章では、出エジプトしたイスラエルの荒野(あらの)における行程を例にあげて、肉によって歩むことに対する警告を与えています。
イスラエルが出エジプトした行程は、新約における教会の地上生涯のモデルです※。過越しの事件でエジプトからでてきたように、新約教会も過越しの祭におけるイエスの死によって、悪魔の支配から出てきました。 ※出エジプトした民の集まりのことを、ギリシャ語聖書では〝エクレシア〟と翻訳。新約でも教会を〝エクレシア〟と表記。旧約の民は新約の教会の予表と見ることができる。
エジプトを出たイスラエルは紅海を渡りました。これはバプテスマを意味します(10・2)。エジプトにおける奴隷の身分を葬って、モーセにつくバプテスマを受けました。「雲の中、海の中で」とは、新約における御霊と水のバプテスマの予表です。
これと同じように、イエス様によって救われた者は水と聖霊によるバプテスマを受けてイエスにつながりました。過去の〝エジプトの生活〟を葬って神の子どもとしての新しい生活が始まりました。
その後のイスラエルは荒野に入り、天からのマナを食べ、岩から水を飲んで、約束の地を目指して旅をしたように、新約の教会はイエスの御言を日々食べ、イエスの聖霊を受けて、天の御国を受け継ぐことを目指して旅をしています。
教会である私たちがおかれている立場は、荒野(あらの)の旅をしている段階です。私たちはこの地上にとどまるべき者ではなく、出エジプトして、天の御国を目指す者たちです。この地上においては寄留者です。
ところが旧約の場合、人々は出エジプトしたものの、多くの人が途中で滅びてしまいました(10・5)。これは何を意味しているのでしょうか。
エジプトから出てきても、救われる者は少ないという意味ではありません。このことは、第9章の「賞を得るように走りなさい」という文脈で語られています。「救い」と「賞」を区別して解釈すべきです。
出エジプトしたこと自体が救いです。しかし、荒野で滅びた人々とは、賞を得ることができなかった人々のことです。
では、なぜ賞を得ることができなかったのですか。それは「悪をむさぼったから」です(10・6)。
イスラエルの人々は出エジプトしても、エジプト時代の価値観や習慣から抜け出ることができませんでした。これが「肉」です。
彼らは偶像礼拝から抜け出ることができませんでした(10・7)。ある人々は性的不品行から(10・8)、またある人々は神への不信と不平から(10・9~10)、それぞれ抜け出ることができませんでした。
これらはみなエジプトにいた時の価値観や習慣です。これが「肉」です。この肉を対処しなければ、私たちも旧約の民のように苦戦をしいられます。
自分にはこのような戦いは無理だと思わないでください。無理だと思うのは、イスラエルの民が陥ったような悪を〝ひとつもおかさない〟ことだと考えるからです。
ポイントは、悪を〝むさぼってはならない〟ということです(10・6)。聖書はこう述べています。「これらの出来事は、私たちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、私たちも悪をむさぼることのないためなのである」(10・6)。
むさぼるとは、ブレーキが利(き)かない状態のことです。罪と知りつつ、ブレーキが利かずに進んでしまうことです。この「貪(むさぼ)ってはならない」という神の御言は、肉に対するつぼを心得た命令です。肉の完全否定ではなく、ブレーキのように働いています。
荒野で滅んでしまったイスラエルの人々は、あやまちを犯したからではなく、ブレーキが利かずに、あやまちを犯し〝つづけた〟たからです。つまり、むさぼったために滅びました。
先の第5章では、父の妻と姦淫をおかしていた男について記されていました。彼は、悪魔の手に渡して滅ぼされました。しかし、そうするのは肉体は滅ぼされても、霊が救われるためでした(5・5)。肉体を生かしておいたら益々罪を重ねてしまうので……、つまりブレーキが利かないので、神はその人の肉体を滅ぼされます。これが「むさぼり」の結果です。
神が私たちに「悔い改めて戻ってきなさい」と言われるのは、逃れの道が用意されていることを意味しています(10・13)。なのに、ブレーキが利かないとは、悔い改めて戻ることのできない状態のことです。ですから、試練の中に主が用意なさっている逃れの道とは、「悔い改め」です。
荒野である地上生涯には試練があります。平坦な道ではありません。しかし、その試練は私たち自身を滅ぼそうというものではありません。肉に死んで霊に生きる者へと変えられるための試練です。そして、必ず「逃れの道」が用意されています。
繰り返しになりますが、それは「悔い改め」です。肉の欲しいままの自由ではなく、聖霊の制御ある自由へと考えを変えます。それが悔い改めです。
聖霊は私の自由に対して〝安息のともなう制限〟を加えられます。聖霊は、私たちが罪をむさぼろうとすると制限をかけられます。節制を導かれます。自制の実をもたらしてくださいます。肉なる人は、霊が眠っているので、この霊の働きが効きません。つまりブレーキが利かないのです。
しかし、聖霊の支配を受ける人はブレーキが利きます。しかもそれは負担感のない制限です。無理矢理とか、嫌々ながらではありません。そういう意味で〝安息のともなう制限〟です。
聖霊の働きは制限ばかりではありません。アクセルもあります。神からいただいた自由というエンジンはもの凄いパワーを発揮します。だからこそブレーキが必要です。でも、ブレーキばかりを踏んでいるのではありません。
福音を全世界の宣べ伝えるために、ここぞというときにはアクセル全開で爆走します。使徒パウロはそんな聖霊の支配を受けて働いた人です。アクセルとブレーキを踏み分けながら、自由の大爆走と緊急ブレーキの減り張りのある働き人です。
さあ、どんな試練の中にあっても聖霊の助けを受けよう。聖霊が私を制御なさることに従おう。聖霊が導く悔い改めに従順しよう。時には大胆にブレーキを踏み、時には大胆にアクセルを踏んで、この荒野を通過して安息の国に入ろう。
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すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。(9・25)
先の8章では、自由(権利)を制限することの大切さを見ました。でも、それは決して外側からの圧力によって制限されるのではありません。
パウロは、自分には自由(権利)があると主張します。「私は自由な者ではないか」(9・1)。また、こうも述べています。
「私たちには、飲み食いをする権利がないのか。私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、私とバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。」(9・4~6)
飲み食いする自由(9・4)、結婚する自由(9・5)、献金によって生活する自由など(9・6)、すべてのことが許されていると主張します。
その自由は人からの評判を気にして制限を受けるわけではありません。また、文字による律法によって制限を受けるのでもありません。私たちはどんな人からの圧力や制限によっても、その自由を奪われてはなりません。
パウロも、すべての人に対して自由であると告白しました(9・19)。しかし、できる限り多くの人を救いに導くために、その自由を節制しました。神の働き、福音宣教のために節制しました(9・23)。
これは外側からの圧力による制限ではなく、内側からの聖霊による節制です。聖霊は、私の自由を〝安息のともなう節制〟へと導かれます。それは〝不自由や負担を感じさせない節制〟です。
信仰生活に不自由や負担を感じるなら、それは「肉の人」だからです。もし、あなたが、無理をして節制をしているなら、それは肉によって成そうとしているからであり、聖霊によるのではありません。
キリストが十字架で死なれたのは、私たちに自由を与えるためです。しかし、その自由を肉の働く機会としてはなりません(ガラテヤ5・13)。
肉による自由は、一時は開放的で心地良いのですが、やがて安息がなくなります。肉の働きは死をもたらすからです。しかし、内なる聖霊によって制御された自由は、安息のある制限です。これが9章25節の「節制」のことです。
「すべて競技をする者は、何ごとにも節制(自制)をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」(9・25)
ここで言われている「賞を得るように走りなさい」の〝賞〟とは救いのことではありません。救いは信仰によります。信じる者には、誰でも、確実に与えられる恵みです。
ただし、救われた私が、肉に属する人として歩むのか、それとも御霊に属する人として歩むのか。それが、このコリント書の重要なテーマです。
聖書は、御霊に属する人(霊の人)として、忠実な管理者として歩みなさいと勧めています。何をするのも自由ですが、御霊に属する人は、御霊によって自由を制限できる人です。
つまり、節制する人です。自制する人です。9つの御霊の実で最後の実が「自制」であることを思い出してください(ガラテヤ5・23)。そうするのは救いのためではなく賞を得るためです。
〝賞〟とは、救われた私たちの働きに対するボーナスつまり賞与のことです。救いが基本給であれば、賞とはボーナスです。基本給は保証されていますが、賞与は各自の働きに応じて与えられます。
そのように、救いを受けただけで終わらず、賞を得るために走りなさいと勧められているのです。
そのために私たちは節制(自制)するのです。救いを得る……つまり天国に入ることに関しては、信じる者みなに平等に与えられます。救いを得るためには節制は必須条件ではありません。しかし、賞に関しては違います。救いはイエスを信じた者に平等に与えられますが、賞は平等ではありません。救いは恵みですが、賞は報酬です。
たとえば、タラントのたとえ話しを考えてみましょう。2タラントもうけた者にも、5タラントもうけた者にも同じほめ言葉でした。しかし、1タラントを地に埋めてしまった者は罰を受けました。
この1タラントの者は救いを失ったのではありません。地獄に入れられたのでもありません。〝賞〟を受け損(そこ)ねた人のことです。
また、タラントのたとえ話と似た話しで、ミナのたとえ話しがあります。ここでは、それぞれの働きに応じて報酬はみな違います(ルカ19・12~27)。つまり、同じ救いを受けて天国に入るが、そこで受ける報い……つまり賞が違うことを示しています。
さあ、賞を得るように信仰生活をしようではありませんか。御霊に属する人は、御霊によって自制する人です。これは肉の力ではできません。内なる霊が聖霊によって目覚めていなければできないことです。
「御霊に属する人」とは霊が目覚めている人です。かたや「肉の人」とは、信じて救いを受けたが、霊が眠っている人です。だから霊的生活が不得意です。肉の力でやろうとして、聖霊に頼らないからです。
霊が目覚めていない人には、節制とか自制は負担であり苦痛です。肉だけで信仰生活をしようとするので、信仰生活は修行のように感じます。
もし、信仰生活に負担を感じているなら、肉によって歩んでいないかを吟味するとよいでしょう。救いを得て、内なる霊は新生したにもかかわらず、霊が眠っていないでしょうか。
祈りましょう。わが霊魂が目覚めるよう、聖霊さま助けてください。
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あなた方のこの自由(権利)が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。(8・9)
コリント教会の人々の質問に応えるかたちで、この手紙は記されています。第8章からは、偶像に供えた食物(肉)を食べても良いのかどうかという問題です。
当時の偶像礼拝で供えられた犠牲の肉は、儀式が終わった後に市場に出回るのが一般的でした。そのため、異教社会における食肉は、ほぼ確実に偶像への供え物だったわけです。 ※日本でもいただき物をしたらまず仏壇にお供えして、それからいただくのが習慣であった。
元来、ユダヤ人たちは、偶像への供え物を食べることによって、異教の慣習に染まったり、また、その背後にある悪魔的な影響力に対して忌み嫌いました。
そのようなユダヤ的な伝統がキリスト教会にもありましたから、偶像への供え物については賛否両論が飛び交いました。理論上は、食肉は物質であり霊的なものではないのですから、食べても関係ないと言えます。ただ、問題は、その肉が異教の神々にささげたわけで、その背後にある霊的影響力から無害なのかどうかという点です。 ※その詳しい議論は10章14節から記されている。
この論理上の「知識」が、弱い人をつまずけるのであれば、知らなければならない知識すら知っていないのです。そのことを、次のように述べています。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」(8・1~2)
供え物の肉を食べる行為は、「知識」においては ――理論上は―― 問題ないことでも、「愛」がそれを上まわるのです。弱い人をつまづけない愛です。愛による配慮と自制が必要だと語られています。
何をするのも自由ですが、それがすべて益になるわけではありません。私の自由が、弱い人のつまづきになっているかも知れません。
信仰の規範や社会的通念に反しない限りは、何をするのも自由であり、それは各自に与えられた権利です。しかし、その自由(権利)をどのように用いるのか……そこには愛が必要です。愛は聖霊によって注がれます。 ※口語訳では「自由」と訳されているが、新改訳では「権利」と訳されている(8・9)。
コリント教会では偶像への供え物を食べて良いか否かが問題になったように、例えば、クリスチャンは酒やタバコはよいのかという課題もあります。聖書は何と言っているでしょうか。
少量の酒なら健康のために飲むが良いと記されています。イエスは、人々から「大酒のみの大飯食い」と揶揄されたという記録もあります。そもそも、聖餐式の「杯」とはぶどう酒です。タバコに関しては、当時タバコがなかったので何も記録されていません。
このような聖書の記録を引き合いにして、飲みたい自分を正当化するのはおかしな話しです。
ある人は、少しぐらいは嗜(たしな)んでも大丈夫だと考えるでしょう。別な人はすべきではないと主張します。「すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが益となるわけではありません」。その基準は、新約時代の律法である聖霊が啓示なさる「愛」であるはずです。
私の場合を申し上げます。聖霊が私にくださる霊の感覚は、お酒を飲みたくないという感覚です。タバコを吸いたくないという感覚です。これは文字によるのではなく、私の霊に刻まれた律法です。
「自分を愛する」とはどういうことなのか……聖霊がその霊的感覚を示してくださいます。
私個人としては、酒やタバコの類はやめた方が良いと考えますし、そのようにお勧めします。酒やタバコのある環境は、そこから何かしらの罪の世界への扉になるからです。
聖霊が、「自分を愛する」という霊的な感覚をくださるなら、やめることができます。しかし、文字による律法によってそうするなら負担感が伴います。束縛されるようで苦しいことです。
また、コリント教会で問題になっていたように、弱い人々をつまずけないために肉を食べないというのも(8・13)、「自分を愛するように隣り人を愛する」という愛の基準を、聖霊が示してくださるからです。自分を愛し、隣人を愛する愛によって、私は酒やタバコを嗜みません。
これは文字による律法で制御されているのではありません。もしそうなら、旧約のユダヤ人のように、律法主義におちいる危険性をはらんでいます。新約教会でさえ容易に律法主義におちいるのです。
文字による律法は私に負担や束縛感を与えますが、聖霊による律法は負担を与えません。これが聖霊による自由です。
私たちは、聖霊が住まわれる神の神殿です。それを任された管理者です。その場合、管理者に要求されることは忠実です。この聖なる器を汚(けが)したくないというのが、内なる霊の感覚です。
祈りましょう。与えられた自由を、肉が支配するのではなく、御霊が支配するように導いてください。
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あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。(7・23)
神の奥義の管理者としての「忠実」を学んでいるわけですが、人間関係の管理……とりわけ男女のこと、特に結婚について第7章から取り上げられています。
神は結婚を聖なるものとなさいました。結婚は奥義です(エペソ5・32)。それは、結婚をとおして「神と人間の関係」を教えるためです。
夫(妻)以外の者との姦淫が夫婦関係を破壊するように、まことの神以外のものを神とすることは ――これが偶像礼拝――、霊的姦淫であり、神と人間との聖なる関係を破壊します。
だから、神は結婚を聖なるものとなさいました。
今日の日本社会の性的混乱は、神の定められた夫婦の聖なることを汚しています。不倫、姦淫、性風俗の氾濫。こんなことが当たり前のようになっていること自体が異常です。
神が天からの火で滅ぼされたソドムとゴモラの町……それは淫乱の町でした。町の人々は、ロトのところに来た御使さえも、性的対象として引き渡すように要求しました(創19・1~11)。このような町に神の御怒りはくだりました。
今日の世界はこのソドムとゴモラのようです。人々の結婚観は堕落し、男女の感覚は神が定められた聖なる関係から大きく逸脱しています。そんな危惧を抱いています。
世俗の価値観や感覚で、クリスチャンまでが麻痺してしまわないよう、聖霊の満たしを祈ります。「いのちをもたらす律法としての聖霊」の助けなしに、クリスチャンでさえもこの世の流れに押し流されてしまいます。
世俗という大河の流れに、切り出された大木は流されてしまいます。どんなに大きくても切り出されたがゆえに、いのちがないからです。しかし、川面のアメンボは、たとえ小さくてもいのちがあるので流されずに進んで行きます。
必要なことは、いのちがあることです。聖霊によるいのちの法則が私を生かすことです。霊的ないのちがあるなら、私たちは、この世にあって神の聖なることをあらわすことができます。だから、私たちは、聖霊の満たしを祈り求めるのです。
第7章の主旨をまとめておきます。結婚は神が定めた聖なる関係であって、「自制力のないのに乗じて、サタンがあなた方を誘惑」しないためにも結婚しなさいと勧めています(Ⅰコリ7・1~9)。
しかし、結婚した以上は別れてはいけません。たとい相手が未信者であっても、イエスを信じるあなたからキリストの恵みが伴侶に注がれています。大事にしてください。ただし、未信者の相手が信仰に反対するが故の離婚はこの限りではありません(10~16)。
パウロが述べる結婚観には、主イエスの再臨が近いという切迫感が影響していました(29)。そのため、独身でいる方が良いとまで言っています。終末の時代における混乱を妻子と共に生きることは非常な困難を伴(ともな)うことになるからです(28)。
パウロが目指すところは、結婚していようが独身でいようが、主イエスに仕えることを優先することです。結婚することで疎(おろそ)かにならないようにせよ。また、独身者として主に仕えることに専念することは尚すばらしいことだと教えています(32~40)。 ※パウロは「これは主の命令だ」という内容と、「これは私の意見だ」と区別している。絶対ではないこともある。
さて、神の奥義の管理者としての忠実には、聖霊の満たしが必要であると共に、もうひとつの大切な考え方があります。それは、「私は代価を払って買い取られた者だ」という理解です。
今日の聖句も「あなた方は代価を払って買い取られたのだ。人の奴隷となってはいけない」(7・23)と述べています。先の第6章でも同じことが語られています。「あなた方は代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(6・20)。
管理者に要求される忠実……この土台となるのは、「自分は自分のものではない。神が代価を払って買い取られて、今や私は神のものだ」という理解です。
聖書に〝贖い〟という言葉が度々登場しますが、これは「代価を支払って買い取る」という意味です。奴隷は自分で自由の身分になることができません。これは罪の奴隷である人間の姿をあらわしています。
奴隷が自由の身になるには、誰か他の者が代価を支払って買い取ってくれなければなりません。それを神がなしてくださいました。神は、十字架で御子の血を流して、罪の支配から神の支配へと私たちを買い取ってくださったのです。
だから、イエスを信じる私たちは神のものとされた存在です。
忠実な管理者とは、管理しているものが自分のものではない ――神のものである―― ことを知っている人のことです。これを忘れてしまい、自分のもののように使ってしまうので、管理者として失敗してしまいます。
自分のもののようにして公金を横領したり、無駄づかいをします。自分の組織のようにして、会社の人間関係を支配します。家族を自分のものにして、家族をしいたげます。これらはみな、預かったものだという管理者の自覚の欠如が原因です。
祈りましょう。聖霊の助けを得て、自分が神のものであることを心に刻むことができるように。また、神の聖なる働きのために、自分と家族をはじめとする人間関係を正しく管理することができるように……。
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第一コリント書 6章
すべてのことは、私に許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。(6・12)
第3章以降、「神の奥義の管理者としての忠実」について学んで来ました。とりわけ人間関係の管理は注意が必要でした。そこで、第6章の前半は、人間関係の中でも「争い事の管理」について記されています。
人間関係がこじれて裁判所に訴える場合があります。しかし、キリストにある者たちは、互いを認め、ゆるし、受け入合うように命じられています。互いに訴え合うことは教会の敗北です。むしろ不義を受け入れなさいと教えられています。
2~3節では「聖徒たちは世をさばく」「御使さえさばく」とありますが、それは、やがてクリスチャンは神の御国とか千年王国を統治する立場になることを示しています。それなのに教会という小さな世界を治められないのかと、戒めているわけです。
「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなた方の敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」(6・7)
これは、他者(ひと)の悪を知りながら、泣き寝入りせよとか、罪を放置するお人好しになれという意味なのでしょうか。そうではありません。
第6章の前半には、教会の中で正しくさばくことのできる知者はいないのかと問うているように、何らかの仲裁や対処による「さばき」の必要を教えています。それができずに、世の裁判に訴え出て、互いの関係が修復できないほどに訴え合うようなことは、教会として敗北だというのです。
先の第5章では、罪をパン種ほどの小さいうちに対処せよと勧められているわけですから、罪を放置するわけではありません。処罰しなければならない事件はそれなりに対処します。しかし、だからといって、罪をおかした人を憎みつづけるような状態であってはならないのです。
もちろん、処罰するほどのことではない事件もあります。そのような場合は、「なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか」と言われています。忍耐と祈りの中で見守るのです。
主イエスは私たちの罪を贖うために、罪人として死なれました。つまり、不義を受け入れてくださったわけです。イエスは十字架の死に至るまで愚かになってくださり、弱くなってくださいました。主イエスがそうしてくださったので、私たちは救われました。だから、私たちもゆるすのです。
この「ゆるす」というのは、罪や悪を放っておくことではありません。私がゆるしたからといって、罪に対するさばきと報いが消滅したわけではありません。すべてを正しく知っておられる神が、正しくさばき、正しく報われます。
ですからこの場合の「ゆるす」とは、罪の刑罰を〝自分の手で下すのを放棄する〟ことです。そして、もはや、罪に対する怒りに支配されないのです。正しくさばき、刑罰を下す神にお任せします。
では、罪をおかしてもゆるされるなら、罪の中にとどまるべきでしょうか。そんなことはありません。「すべてのことは、私に許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです(6・12)。
たしかに罪をおかし続けることもできます。神は沈黙を守っておられるかのようで、神をだまし続けることができると勘違いする人もいます。
しかし、それは益になるはずがありません。現世の限りでは、上手くやれそうだし、益と思えることも、天においては益とはならないことがあります。
十字架の死にいたるまで弱くなってくださった神は、すべてをゆるしてくださっています。しかし、神のゆるしを良いことに、罪に留まり続けることは益とはなりません。
イエスを信じ、罪をゆるされ、救いを受けたクリスチャンとされたのに、なおも罪に留まり続けるなら、神の御国を相続できないと警告されています(6・9~11)。 ※「神の国を相続できない」とは、すでに受けた救いが撤回されて地獄に行くのではない。イエスの再臨後に実現する千年王国の祝福にあずかることができないと私は解釈している。千年王国では、クリスチャンはキリストと共に治めることになっているが(黙示録20・6)、それはキリストと苦難を共にした者に与えられる「キリストとの共同相続人」としての賞与である(ローマ8・17)。その賞与を受けることができない。
ですから、すべてのことは許されていますが……つまり、自由ですが、すべてが益となるわけではありません。
何でもやれるという自由と共に、益にならないことはやらないという自由もなければ、本当の自由ではありません。益にならないと知りながら罪をおかしてしまうなら、それは罪に支配されているのであって、自由ではありません。
ですから、本当の自由とは、「すべてのことは許されているが、すべてが益となるわけではない」ということを知って、〝許されている自由を制御できる力〟のことです。
では、その力はどこから来ますか。肉の力ではありません。律法の力でもありません。律法にはその力があるようでも、それは外側からの力であって、限界があります。かえって自分を責め、他者を責める結果になってしまいます。
制御をともなった本当の自由は、律法によってではなく、福音によってもたらされます。福音は信じる者たちに聖霊を与え、聖霊によって私たちの内側に力を与えてくれます。
この聖霊が支配なさるところに本当の自由があります。聖霊に従うとき、本当の自由があることを体験できます。だから、聖霊に充満されるように祈るのです。聖霊の正しい支配と制御の中で、本当の自由を享受できるからです。これが「御霊にある自由」です。
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第一コリント書 5章
私たちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種の入っていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。(5・8)
クリスチャンは「聖霊の宮」です。聖霊が住まわれる神殿です。その神殿を管理すべく、自分自身を管理します。そのときに大切なことは、忠実であることを見ました。ここまでが3~4章の内容です。
そこで、自分自身を忠実に管理するにあたって、特に扱いの難しい課題が、「お金・富」と「人間関係」です。
その人間関係の中でも男女関係はさらに注意深く扱わなければなりません。そこで第5~7章は、男女間の問題が取り上げられ、第5章は、「男女の不品行」について取り上げられています。
ある人は「自分の父の妻との姦淫」という罪を犯していました(5・1)。
神は、神と人間との聖なる関係を教えるために、結婚を定め、男女の正しい関係を定められました。ですから、性的不品行は、男女の関係を破壊するだけでなく、神との関係をも破壊する結果になります。
前述の罪をおかしている人に対して、パウロとコリント教会は、「彼をサタンに引き渡す」という決断をしました(5・5)。「彼をサタンに引き渡す」とは、教会からの除名処分のことかも知れません。
あるいは、再三の指導に対しても悔い改めないため、罪のなすがままにまかせた結果、彼の肉体は罪のゆえに滅びを刈り取ったことを意味しているのかも知れません。具体的な内容はわかりません。
さて、パウロのこのような処罰は、99匹の羊を残してでも失われた1匹の羊を探し出す「愛」と矛盾しないのだろうか。確かにイエスはそういわれました(マタイ18・12)。それは教会の「愛」の部分です。
しかし、その「迷い出た1匹の羊のを探す」という話の後で、兄弟が罪を犯した場合、それをいさめるように言われました。何段階かを経ても悔い改めないなら、その人を処分するようにと言われたのです(マタイ18・15~17)。これは教会の「義」の部分です。
教会には、愛と義が両立していなければなりません。イエス様の十字架も、神の愛と義が両立したところです。罪人をゆるす愛と、罪人をさばく義とが、あの十字架に現れています。
そういうわけですから、罪をゆるすことは、「罪を放置しておくこと」ではありません。
コリント教会は、罪に対してきびしく対処しました。その結果、先ほどの兄弟は、地上においてはサタンの餌食(えじき)のようにして肉体は滅びましたが、彼の霊は救われるためだと言うのです。
「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである」とは、そういう意味です(5・5)。
次に、パン種を除きなさいと教えています(5・8)。
イエス様が過越(すぎこし)の祭の時に、神の小羊として死なれたことはご承知の通りです。それによって、私たちは悪魔の支配から〝出エジプト〟しました。それが過越の祭に込められた意味でした。
過越祭は1日だけの祭ですが、その日から7日間、「種なしパンの祭」があります。この祭は「除酵祭」とも訳されますが、その名の通り、パン種(酵母)を除いたパンを食べる祭です。
この「パン種」とは罪を象徴しています。パン種は小さくてもパン全体をふくらませるように、小さな罪も放っておくと、その悪はその人の中で、そして教会の中でふくらんで全体に影響を及ぼします(5・6)。
だから、そのパン種を除くことは重要なことです。あのイエスの十字架によって、過越の祭に込められた意味が成就したように、種なしパンの祭に込められた意味も成就したのです。
だから、「古いパン種」に象徴される悪意と邪悪というパン種を取り除いて、パン種の入っていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないかと勧めています(5・8)。
罪のない、きよいパンとして、自分自身をささげて行くことが、神への真実な礼拝です。どうか、このことが聖霊によって〝愛と義のバランスの中で〟完成するように祈ります。
第一コリント書 4章
このようなわけだから、人は私たちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。(4・1~2)
クリスチャンは神の奥義の管理者です。この奥義とは、「私たちは神の宮であり、霊的生活をする者だ」ということです。 ※新改訳では「神の神殿」。宮とは神殿のことである。
神の神殿として自分自身を管理する。神の神殿としての教会を管理するのが私たちクリスチャンの生き方です。その場合に大切なことは「忠実」です。
第4章では、忠実な管理者とはどのような生き方なのかが述べられています。
(1)先走ってさばかない(4・4~5)
「さばく」とは、結論を出すとか、決めつけることです。自分は ―あの人は― 所詮この程度なのだとか、もう駄目だとか、先走って自分や他者に結論を出してはいけません。
神が私(他者)に用意なさっているご計画の深さを誰が知ることができましょうか。神は私たちを神の宮としてきよめ、建て上げるために様々な人生を通らせられます。
だから、先走ってさばいてはいけません。それは他者に対しても、自分に対しても同じです。正しくさばく方は、主なる神を他にしておられません。人間は正しくさばくことができません。なぜなら人間は「全知全能」ではないからです。
全てをご存知なのは神だけです。だから、神だけが全てをあきらかにして、私たちのやって来たことに報いられます。だから、こう記されています。
「主が来られるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(4・5)
ですから、先走ってさばかないで、神の宮としての任務を忠実に果たすことです。
(2)肉によって誇らない(4・7)
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていない者のように誇るのか。」(4・7)
管理とは「まかされた」ということです。つまり、自分のものではないのです。人生も、能力も、富も、自分が持っているいるようでも、それは神からまかされたものであって、自分は管理者です。
「自分のものだ」と思うので誇ったり、自慢するのです。同様に、持っている人を羨(うらや)んだり妬(ねた)むのは、それが「その人のもの」と思うからです。そのような持ち物の誇りは根拠のないものです。
なぜなら、人は何も持っていないからです。人は裸で生まれ、裸で帰って行くだけです。世にある間、人は神からあずかったものを管理しているのです。
世の終わりには、あずかったタラントを精算するときが来ることを知るとき、忠実であろうと思います。だから、忠実な者は肉によって誇りません。
(3)キリストに倣(なら)って愚か者になる(4・16)
パウロはコリント教会の兄姉に、「私に倣(なら)う者になりなさい」と勧めました(16)。倣うべきパウロの姿とは「愚か者の姿」のことです。
十字架の言葉は世の人には愚かです。また、十字架を負って主に従う生き方も、世の人には愚か者に見えます。パウロはその愚か者の道を選択しました。
いっそのこと、あなた方も王になっていてくれたら、自分も王のように振る舞うことができたのに……とパウロは語っています(8)。これは皮肉です。
もちろん、キリストを信じた者の身分は「神の子ども」です。子である以上「相続人」です。神の御国を受け嗣(つ)ぐ者です。しもべではありません。
しかし、神のひとり子であったイエス様でさえ、その立場を主張なさらずに、この地上ではしもべとなって歩まれました。私たちも主キリストに倣ってしもべとして生きるのです。
こうして、キリストの道は愚か者になる道です。
「私は愚か者になって、あなた方は賢い者になっている。私は弱いが、あなた方は強い。私は卑しめられ、あなた方は尊ばれている」(10)とは、世渡り上手に生きている者への愛のこもった皮肉です(14)。そうは言うものの、パウロは愚か者になる道を選んできました。良いことにも悪いことにも「見せ物」のようになること。恥を受けても祝福する。ののしられても優しい言葉をかける。そのお陰で、この世では、塵芥(ちりあくた)のように自分の身を低くしてきた……と(12~13)。
キリストもそうなさったし、十字架を負う私もそうするのです。それが霊的生活における忠実ということです。
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あなた方は神の宮(神殿)であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか。(3・16)
聖書は3種類の人について記しています。
第一は、〝生まれながらの人〟です。イエスを信じていない人です。肉体は世に生まれましたが、霊は新しく生まれていない人です。「だたの人」とか「普通の人」とも表現されています(3・3)。
第二は、〝肉に属する人〟です。イエスを信じて霊が新生したのですが、救われる以前の価値観や感覚で生きる人です。世に属する価値観や発想がその人の中心であって、天国人としての価値観が育っていません。ですから一見、生まれながらの人に見えます。クリスチャンなのに、未信者のような感覚や生き方をする人です。
第三は、〝霊に属する人〟(新改訳・御霊に属する人)です。新生した内なる霊を基準に生きる人です。神が私たちの内に住まわせられた聖霊に従って生きる人です。私たちが目指すべき生き方です。
コリント教会の問題は、イエスを信じて救われたクリスチャンでありながら、あいかわらず肉の人の集まりであったことでした。それが、教会内に分派や争いをもたらす原因となっていました(3・3)。
肉に属するクリスチャンは、まだ堅い食物を食べることができない人です(3・1~2)。でも、御霊に属する人へと成長するためには、堅い食物を食べなければなりません。このコリント教会への手紙を、「堅い食物」としてパウロは記しました。
肉に属する人と霊に属する人の明確な線引きはできません。また、霊に属する人とは完成された人のことではありません。栄光の復活に至るまで、クリスチャンはみな不完全です。霊の人であっても、肉によって失敗することもあります。肉と霊との間を行ったり来たりします。
大切なことは、自分が霊的な存在であるという自覚です。つまり、聖霊が内住される神の宮だという自覚です(3・16)。肉体だけの存在ではなく、聖霊が住まわれる霊的存在……それがクリスチャンです。だから、肉体の感覚だけで生きようとしたら、内なる聖霊がいかに苦しまれることでしょう。聖霊を悲しませてはいけません。それは、私の内に住まわれるイエス・キリストが悲しまれることと同じです。
次に大切なことは、「聖霊に従って生きよう」と日毎に決断し、祈り求めることです。だから聖霊の助けが不可欠です。
実は、肉の力によって〝霊的に振る舞う〟こともできます。つまり、霊に属する人を演じることができます。しかし、あくまでもそれは肉の人です。霊に属する人は、私の内に住まわれる聖霊と語り合いながら生きて行きます。
自分の中に聖霊が住まわれているか分からない人がいますか。ならば、語りかけてみてください。おられるので返事があるはずです。何らかの応答があります。耳を澄まし、心をしずめて聞いてみてください。あなたの内には聖霊が内住なさっているので、返事を〝感じる〟はずです。
また、自分を省みて「自分は肉に属する人だ」と感じるなら、それは聖霊が住まわれているからです。聖霊が住まわれているからこそ、肉なる自分を自覚し、霊の人として生きたいと願うのです。
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さて、肉に従って生きたのか、御霊に従って生きたのか、やがて結果が明らかになる日が来ます。つまり、終わりの日には、神の火によって各自がやってきたことの真価が試されます(3・13)。
私たちは人生という家を建て上げているようなものです。そこで注意すべきことは、どのような〝材料〟で建て上げるのかです。肉に属する材料ですか。それとも御霊に属する材料ですか。
人生という建物の「土台はイエス・キリスト」です。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる」のです(3・11~13)。
聖書は、その材料のことを、「金、銀、宝石、木、草、わら」にたとえています。「木、草、わら」は手軽で手近な材料です。しかし、終わりの日の火によって、結果が異なります。
「それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。」(3・13)
木や草やわらによる家は火によって燃えてしまいます。これが肉を材料にして建て上げた人生の結果です。しかし、家が燃えてしまったからといって、救いを逃したのではありません。こう記されています。
「その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」(3・15)
残念な結果ではありますが、救いを逃すわけではありません。新改訳は「助かります」と翻訳していますが、新共同訳、文語訳などは「救われます」です。人生で積み上げてきたものが燃えてしまうような結果でも、救いだけは確実です。なぜならイエス・キリストが土台だからです。
かたや、御霊に属する材料によって建てた家は残ります。それは金や銀や宝石にたとえられる材料で建てた人生です。天のエルサレムの材質も同じであることは興味深いことです(黙示録21章)。
だから、コリント教会への手紙は問いかけています。あなた方は聖霊を宿す神の神殿であることを知らないのか。あなたは、聖霊が宿っておられる霊的存在なのに、肉の材料で仕上げようとするのか。それは、神殿を汚す結果になるのだ……と。
イエス様が、宮(神殿)で売り買いをしている人々をご覧になって、お怒りになったことを忘れてはなりません。聖霊が宿る神殿でありながら、肉が支配している様子を目にしてイエスは悲しまれます。
御霊に属する人(霊の人)とは、霊が目覚めている人です。肉が私の霊的生活を妨害することは、私の理性でも理解できます。でも、その肉を肉の力で対処しようとするなら、私たちは疲れてしまいます。霊が目覚めて、霊で対処しなければなりません。
肉体を宿としている以上、この肉の感覚を零(ゼロ)にすることはできません。肉をなくそうとするのではなく、我が内なる霊が目覚めるように祈ります。霊の感覚が肉の感覚を上まわるようにと祈ります。これが、目を覚ましている状態です。
祈りましょう。主よ。聖霊の圧倒的な支援を得て霊的生活に勝利できるようしてください。肉の感覚ではなく、霊の感覚(御霊の思い)によって生きることができますように導いてください。

