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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ペテロの第二の手紙 3章

2023年03月29日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 3章
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
(3・9)


聖書は、今の世界が永遠に続くのではないと告げています。始まりがあったものは必ず終わりがあります。今の世界は……極端に聞こえるかも知れませんが誤解を恐れずに申し上げます。サタンとその悪を滅ぼしてしまうまで保たれているに過ぎません。

聖書は、その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼きつくされると告げています(3・10)

この世界は神の御言によって創造され、神の御言によって保たれているに過ぎません(3・5~7)。「光あれ」と神が言われると光が存在するようになったように、終わりの時も「消え失せよ」と言われれば、万物は焼けて崩れ去るのです。

神の最終目的は義の住む新しい天と新しい地の完成です(3・12)。この実現を私たちも待ち望んでいルのですが、その用意ができたなら、今の世は焼き崩れ去るのだというのです。しかし、これを認めない人々がいます。彼らは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」と主張し(3・4)、放縦な生活を正当化します。

イエス様が「再び来る」と予告されて、もう2千年も経つので、人の目には、神の約束は反故になったように見えます。神のご計画は変更されたのでしょうか。

それに対して聖書は応えています。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。(3・8)

幼い息子を車に乗せて実家に戻ったときのことです。30分にも経たないうちに「まだつかないのか」とたずねてきます。いま高速道路に入ったばかりです。大人はあと8時間くらいかなと答えますが、幼児にはそれがとても長く感じられるわけです。

また、昆虫の蜻蛉ですが、朝に生を受け夕に死んでしまうカゲロウにとって一日が彼の一生です。※正確には幼虫の時代を入れると1日ではないが、成虫としては1日である。「はかない命」の象徴として蜻蛉はいわれる。

そこで、人間の男女が婚約して1年後に結婚するのを知ったカゲロウは、自分の生涯の365回分も待っている人間の感覚は理解できません。でも、婚約中の男女には1年はアッという間です。

このように、霊的な感覚と人間的な感覚は次元が違います。神の時間概念と人間のそれとは違います。ですから、わたしはすぐに来ると言われた主の約束を侮ってはなりません。

今日の御言にあるように、神は、約束の実行を遅らせておられるのではありません。ただ、ひとりとして滅びず救いを得るようにと待っておられるのです。

この世界を終わらせるにあたり、福音がすべての人々に伝わるように待っておられます。それから終わりが来ます。この場合、「忍耐しておられる」のは、福音を伝えるクリスチャンたちに対してです。

私たちは神の約束の完成を待ち望みつつ、かつ、福音を伝えることによって「早める」ことになります。そのことを次の聖句は言っているのです。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。(3・12 新改訳)

口語訳では、「神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」と訳されていて、右記のようなニュアンスが伝わってきません。新改訳、文語訳、新共同訳を参照してください。

神もまた、待っておられるし、同時に急いでいらっしゃいます。

あなたがイエスを信じて救いを得るのを待っておられます。そこまで待ってくださった神は、今度は、あなたがイエスを急いで伝えるようにと召しておられます。クリスチャンの生き方とは、世の終わりにフォーカスを合わせながら〝待ち望みつつ急ぎつつ〟です。

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ペテロの第二の手紙 2章

2023年03月28日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 2章
主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
(2・9 新改訳)


もう一度申し上げますが、ペテロ第二の手紙は〝思い起こしなさい〟の手紙です。著者のペテロは「この幕屋を脱ぎ去る時が間近である」(1・14)と自覚する中で、信者たちに重要なことを思い起こさせようとしているのです。

今日の聖句は、神は敬虔な者たちを試練から救い出してくださることを思い起こしなさいと勧めています。

話は変わるようですが、神がいるのなら、どうしてこんなことが……と、一度や二度は神に申し上げたくなったことがあるでしょう。いったい、神はこの世の悪をいつまで放っておかれるのでしょうか。しかし、神は必ず決着をおつけになります。

聖書は、神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた(2・4)と記しています。「罪を犯した御使」とは悪魔(サタン)とその仲間の天使たちのことです。

新改訳聖書では、罪を犯した御使たちを「地獄に引き渡し」と訳されていますが、地獄と訳された語句(ギリシャ語で「タルタローサス」)は、口語訳の下界との訳が良いでしょう。神は、悪魔を地獄に引き渡すことに定められましたが、悪魔はまだ地獄に投げ入れられていません。それはイエスが再臨なさった後のことだからです(黙示録20・10)。とはいえ、最終的には地獄に入れることは決まっているので「地獄に引き渡し」と訳しても問題はありませんが……。

悪魔は地獄(ゲヘナ)の火に投げ込まれることになっています。しかし、その刑が執行されるまでの間、留置されるようにして、下界、つまりタルタローサスにおとしいれ、暗闇の穴に閉じ込めておかれた……というわけです。

その閉じ込めた場所(下界)はこの世です。私たちの住んでいる地上世界のことです。ヨハネ第一の手紙でも、「全世界は悪しき者(悪魔)の支配下にある」と言っています(Ⅰヨハネ5・19)

ある神学では、悪魔はすでに地獄に入っているので、現世では悪魔の働きはないと解釈します。それをもとに、イエスが支配なさる千年の期間は、悪魔は底知れぬ穴に入れられて活動できないことになっているので、黙示録が預言する千年王国は今の時代だとする解釈です(黙示録20・1~3)

でも、現実はどうですか。悪魔の働きは増長するばかりです。悪魔は自らの終わりの近いのを知って、大暴れしようと企んでいます。そんな闇の力が最高潮に達したとき、イエスは再臨なさって、その後、千年の至福の期間を地上に実現なさるはずです。

さあ、話しをもどしましょう。悪魔が活動する世界に私たちは置かれています。だから、偽預言者が暗躍しています(2・1~3)。また、神に従おうとせず、本能のままに動物的に生きる者がいます(12~14)。さらに、信仰深げにしながら不義の報酬を愛する者もいます(15~16)。それが現実です。

そのような中に私たちは置かれていますが、巻き込まれてはいけません。騙されてはいけません。神は必ずさばきを実行されます。そして、信仰のある者たちをそこから救い出してくださるのです。そのことを思い起こしてください。

過去、旧約の出来事を振り返ってみてもそうでした。

悪に満ちた世界が洪水によって滅ぼされた時も、さばきの中から敬虔なノアとその家族は箱船に乗って救い出されました。淫乱の罪にに満ちたソドムとゴモラが硫黄の火で滅ぼされた時も、信仰深いロトとその家族は救い出されました(2・5~8)

神は、この世の悪をサタン諸共に滅ぼしてしまわれますが、その中から敬虔な者たちを救い出すことを心得ておられるのだと冒頭の聖句は語っています。

神がサタン(悪魔)を地獄で滅ぼしてしまう時が近づいています。悪魔はそのことを知って悪に悪を重ねるようにして、人々を暗闇の支配に引きずり込もうと暗躍しています。

終わりの時代は格差の時代です。それは経済格差のことではありません。霊的な格差です。聖なる者と悪しき者との格差が明確になる時代です。聖なる者は益々聖なる者へ、悪しき者は益々悪しき者へと差が出てきます。

今までは、漠然と信じていられた時代でしたが、信じているのか信じていないのかが、明確に区別される時代になってきます。悪魔によって罪に引きずられる人と、イエスにあって清く生きようとする人との両極端に別れる時代になるでしょう。

世の潮流に流されないでください。世の中は罪に対してますます鈍感になって行きます。「今の時代、だれだってやっているじゃないか」……という感覚はそれです。

クリスチャンは、この世にあって暗闇を照らす星のように輝く光です。イエスにあって、その光を輝かし続けてください。

神はいつまでも、この世の悪を放っておかれるのではありません。必ず精算なさいます。その時まで、世の光としての任務を全うできますように祈ります。

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ペテロの第二の手紙 1章

2023年03月27日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 1章
あなた方の受けた召しと選びとを確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
(1・10)


ペテロの第二の手紙は〝思い起こしなさい〟の手紙です。

例えば、第1章でも「これらのことを思い起こさせたいのだ」(12)、「思い起こさせるよう努めよう」(15)と記されています。何を「思い起こせ」と言っているのでしょうか。

それは、あなたが受けた召しと選びです。神があなたをクリスチャンとして召して選ばれたのは、何のためだったのか…。それを思い起こして確かなものとしなさいと命じています。

分かりやすくいえば、何のためにクリスチャンとなったのか、その目的を確かなものにしなさいというのです。そうすれば、決してあやまちに陥ることはないと冒頭の聖句は教えています。新改訳では、決してつまずくことはないのです。

目標を見失うと、いつの間にか脇道にそれてしまうものです。そしてあやまちに陥ったり、つまずいたりするのです。私は何のためにイエスを信じたのか。さあ、思い起こしましょう。いつの間にか焦点がずれてきてはいませんか。

イエス様は、「種まき」の譬え話の中で、御言という種がまかれて芽を出し伸びてきたのですが、いばらや雑草が生えてきて実を結ばなかった場合のことを話されました(マタイ13・18~22)。

種の成長を妨げるいばらや雑草……それは、信仰の目的を見失わせて、脇道に逸らさせるものです。それは「世の心づかい」と「富の惑わし」です。

ペテロもこの手紙で、あなた方が救われたのは、世にある欲のために滅びることからまぬかれて、神のご性質にあずかる者になるためですと、目指すべきところを記しました(Ⅱペテロ1・4)

私たちが召され選ばれたのは、滅びを免れて、神のご性質にあずかるためなのだ。このことを思い起こしなさいと命じています。世にある欲のために、人生の焦点がぼやけてしまいます。

人生の目的は、神のご性質にあずかるためです。そのために、力の限りをつくして、信仰に徳を加えなさいと勧めています(1・5)。徳とは、聖なる品性とか人格です。徳の次には、知識、節制、忍耐、敬虔(信心)、兄弟愛、そして愛です。

これを求めましょう。身に着けられるように努めましょう。これらが備わっていないクリスチャンは近視眼か目の見えない人です(1・9)。信じてはいるのですが、どこに向かって生きるべきか見えていないのです。人生の目的に焦点が合っていない人です。

漠然と信じているだけだと、脇道に逸れるようになります。「力の限りをつくして」とあるように、また、新改訳では「あらゆる努力をして」とあるように、このためには熱意が必要です。

そのための力はすでに与えられています。神の子どもとして生まれた時から、私たちの中に備わっていますから、やれるはずです。主はその力を聖霊によってすでにくださっていますから、そうすることにしましょう。

さて、神のご性質って何でしょうか。それはイエスご自身のことです。

イエスは神のご性質を地上の生涯で、みんな見せてくださいました。惜しみなく現してくださいました。謙そん、愛、義(正しさ)、きよさ等々。それらは神の栄光の輝きです。その顕現の象徴的な出来事がありました。

それをペテロは見ました。私はその威光の目撃者だと記しています(1・16)。これは、イエスが、変貌の山でまばゆいばかりに光り輝いた時のこと(マタイ17・1~9)を思い出して述べています。

あの日の出来事は、イエス様におこった栄光の姿変わりですが、それはイエスのあとに続く私たちにも与えられるのです。神学用語で言えば、新生して義とされた者が聖化され、最後に栄化される栄光に満ちた姿のことです。

さらに、姿変わりをなさったイエス様に、天からあった御声は、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」でした(Ⅱペテロ1・17)。イエスにとどいた神の御声は、私たちにも注がれています。

このイエスのようになるために、私たちは召され選ばれました。イエスが神の子として父を信頼し従順して歩まれたように、私たちも天の父に従って生きるために召され選ばれたのです。

この〝召しと選び〟から目を離してはなりません。そうすれば、あやまちに陥ることはない。つまづくことはないと、今日の御言は教えています。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/42P0yVTx0yi8LCU1zUalqO?si=cXEuzyuvR7mgOC9WmXZimg
You Tubehttps://youtu.be/xNEGVTVrnNA

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ペテロの第一の手紙 5章

2023年03月25日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 5章
身を慎み、目をさましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
(5・8)


イエスを信じて救いを受けます。その救いには、「罪のゆるし」「永遠のいのち」「義とされる」「神の子どもとなる」など、幾つもの面をもっています。どれも救いの内容を表しています。

そして悪魔サタンの支配からの解放とういう救いの一面も大切な内容です。

私たちは悪魔の支配から救い出されて、神のものとなりました。神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださったとあるとおりです(コロサイ1・13)

ところが冒頭の聖句は、獅子(ライオン)が獲物を求めているかのように、悪魔は我々を狙っていると記しています。どういうことですか。悪魔はなおも私を支配し得るというのでしょうか。

もちろん、神が私たちの味方なのですから、だれも敵対できるものはありせん(ローマ8・31)

初臨のイエスは十字架の死と復活によって悪魔をさばかれました。分かりやすくいえば、有罪判決が下されたということです。その判決で、悪魔とその仲間たちには、永遠のゲヘナの火(地獄)に投げ込むという刑罰が定められました。

しかし、悪魔に対する刑罰はまだ執行されていません。それがなされるのは、イエスが再臨なさった時です。この詳しいタイムスケジュールは「ヨハネの黙示録」で見ることにします。

なぜ初臨の時に、悪魔に刑罰を執行なさらなかったのでしょうか。それは、人類を悪魔の道連れにして滅ぼさないためです。

だから、悪魔に刑罰が執行される前に、悪魔の支配の下で罪と死の奴隷になっている人々に、イエスの救いを伝えなければなりません。悪魔と一緒になって滅びないように、イエスの血を信頼して出てきなさいと呼びかける期間が必要です。

それが今の時代です。今は人類に対する救いの期間です。こうして、福音が全世界に伝え終えたらイエスは再臨なさいます。「福音が全世界に伝えられた」との判断は神の専権事項です。私たちには分かりません。私たちはただ、福音を伝えるのです。

だから、イエスの再臨を妨害したい悪魔は、クリスチャンの伝道を妨害します。伝道できないように彼らを堕落させます。この世のわずらいを用いて、信仰を形骸化させます。

このような悪魔との霊的な戦いに勝利する秘訣は何でしょうか。

(1)身を低くする。(5・6)

どんな事にでも基本姿勢があります。霊的な戦いの基本は、身を低くすること……つまり「謙遜」です。書道の基本、野球の基本などがあるように、悪魔と対抗するときの基本姿勢……それは、身を低くすることです。謙遜です。

あなた方は、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。(5・6)

悪魔は神に仕えるべく立場を捨てた者です。その居るべき所を捨てて、自ら神の立場に登ろうとした者です。高慢を擬人化するなら、それは悪魔です。悪魔の反対語は「謙遜」です。

神の力強い御手の下にとあるように、時に神は、力強い御手をもって私たちの首根っこを押さえてでも、謙遜を教えてくださいます。それは私たちに対する神の愛です。

かつてのペテロは高慢でした。自分こそイエスの一番弟子であると自負し、自分にかぎって裏切ることはないと高を括っていました。

しかし、謙遜を失ったペテロは、まんまと悪魔にしてやられて、イエスを知らないと3回も否定してしまいました。そんな、苦い経験を思い出しながら、ペテロはこの手紙を書いています。

あの失敗は、謙遜を学ばせるために、神の力強い御手のもとでの取扱いでした。私たちにも、そのような取扱いがあります。

(2)思いわずらいを神にゆだねる。(5・7)

思いわずらいとは、心が分裂することです。多くの場合、この地上でのことで思いわずらいます。すると、この地上に対する心と、天に向かう心とが分裂します。

たとえば、富のことで思いわずらうと、心が分裂します。イエスは、富と神との両方を主人とすることはできないと言われましたが、両方を主人にしようとして、心が分裂するのです。人の主人は神だけです。それ以外のものを神とすると、私たちの心は分裂します。つまり、思いわずらうようになるのです。

主なる神だけを主人とするとき、人の心は安定するようになっています。

思いわずらいは、地上につなぎ止めようとする引力のように働きます。私たちはこの地上にあっては旅人であり、寄留者です。私たちは永遠の住まいである天の故郷に向かって旅立とうとするのに、思いわずらいに引っ張られています。

また、思いわずらいは、自分で背負ってはならない荷物です。聖書は、神にゆだねよと命じています。言いかえれば、自分で責任を負いすぎてはいけないという意味です。

真面目な人ほど思いわずらいます。でも、旅人は荷物を減らします。思いわずらいは、この世の旅に支障をきたします。そして、旅の目標を見失わせ、地上に鎖でつなぎとめてしまいます。

思いわずらいは私たちを神の群れから迷い出させ、地上を彷徨わせます。こうして迷い出た獲物を悪魔がねらうのです。

だから、思いわずらいは〝すべて〟神にゆだねるべきです。それは霊的には安全なことです。

そもそも、私が心配したからといって解決できません。人は解決できないことで心配しています。解決できるお方はだれですか。神おひとりです。神が解決なさる方です。解決できる神が心配なさいます。

とはいえ、神は、解決できなくて心配なさっているのではありません。どのようなタイミングと方法で解決しようかと〝心を配っておられる〟のです。神だからできることです。このお方にゆだねるべきです。

(3) 身を慎み目をさます。(5・8)

ペテロは、あのゲッセマネの園で「目をさまして祈りなさい」とイエスから言われたのに眠ってしまい、その直後に、三度「イエスを知らない」と言って主を裏切った苦い経験がありました。

そんなペテロが、「目をさましていなさい」と勧めるのは、祈り続けることの大切さを痛感したからです。目を覚ましているとは祈ることです祈っている時、私たちの目は覚めています。

さあ悪魔に立ち向かおう。主はすでに勝利をとられたのですから。

目をさましているとは、主の再臨に焦点をあ合わせて祈る生活のことです。世界中の主にある兄姉も数々の試練の中で目を覚まして祈っています(9)。その先には、「いやし、強め、力づけ、不動の者としてくださる」希望があるからです(10)。今日も、忍耐をもって祈ることにしましょう。

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ペテロの第一の手紙 4章

2023年03月24日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 4章
万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
(4・7)


聖書は万物の終わりが近づいていると告げています。この目に見える世界は永遠に続くのではありません。やがて終わる時が来るのだと言うのです。そうはいうものの、この書が記されて約2千年が経過していますが、この世界はまだ存続しています。だから聖書の預言を軽んじたり嘲る人々がいます。

彼らは主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいないと言っています(Ⅱペテロ3・4)。この書が記録された当時でも、そう批判する人がいるのですから、2千年を経た現代では尚更です。

しかし、人間の感覚では長い年月が経過したようですが、神の感覚では近づいているのです。近いと感じられない人間の感覚が鈍いだけです。主イエスも「わたしはすぐに来る」と言われました。神にとっては〝すぐ〟なのです。

現在、私たちが肉眼で見ている世界は永遠に続く世界ではありません。物質という次元の世界が滅びると、朽ちることのない永遠の世界※が現れてきます。それは物質とは別の次元の世界……つまり、霊的な世界のことですが、今は肉眼で見たり手で触れることができないだけです。 ※異なる次元である「霊的な世界」は存在するが、人の肉の感覚では認識できないだけである。救いも同じで、「終わりの時に現されるように用意されている」とも言っている(Ⅰペテ1・5)

ただ、私たちが復活の体を得たとき……つまり、朽ちない体を受けたとき、その朽ちない目で新しい世界をはっきりと見るはずです。その朽ちない手でしっかりと触れてつかむことができるはずです。それが霊的な世界です。

霊的な世界は空想や象徴的な世界に過ぎないと考える人もいますが、架空ではなく実在の世界です。次元が変われば、はっきりと見てさわることのできる世界です。ただ、今の肉体は物質の次元に属する体なので、次元の違う世界を確認できないだけです。だから今は、信仰によって確認するのです(ヘブル11・1)

神は、今の時代を終わらせ、新しい世界をもたらそうとなさっています。罪と悪で満ちた今の世界を精算して、神の義と神の愛で満ちた世界を完成しようとなさっています。

その完成の予兆があります。それは、今の世界をきよめるために、患難の時代がやって来るというのです。患難の時代は、クリスチャンにとっては迫害を意味しますが、イエスを信じない人々にとっては刑罰を意味します。

この手紙が記された時代は、激しい迫害の時代が間近に迫っていました。否、徐々にその兆候は現れてきていました。だから、ペテロはこの手紙を通して、その迫害に備えるよう警告と励ましを与えたのです(Ⅰペテロ、4・1)。さらに、次のように注意喚起がなされています。

愛する者たちよ。あなた方を試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、喜びにあふれるためである。(4・12~13)

迫害をともなった患難の時代は滅亡を意味するのではありません。この万物が終わり、新しい世界がもたらされる前兆です。キリストの栄光が完全に現れる時が近いのです。だから「喜ぶがよい」とか「喜びに溢れるのだ」と勧め励ましているわけです。

また、冒頭の聖句のように万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさいと命じています(4・7)

患難の時代は、きよめにあずかるために必ず通過しなければなりません。これは、初代教会のクリスチャンだけの課題ではありません。歴史的な時代として患難期を通過する人もいれば、各自の人生の中で〝患難の時代に相当する試練〟を通過する人もいます。今日の場合、後者の意味で患難を通過します。

この患難のことをさばきとも表現しています。「さばきが神の家から始められる時がきた」とは、終わりの時代の患難のことをいっているのですが、これは、私たちクリスチャンの滅びを意味しているのではありません。きよめるためです。

すでに救いを受けたクリスチャンでさえ、終わりの日に〝さばき〟という患難を受けるとすれば、未信者にとって終わりの患難は如何に厳しい取り扱いでしょうか。「それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか」とはそういう意味です(4・17)

もう一度くり返しますが、患難はきよめるためです「あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」と言われているからです(Ⅰペテロ1・7)

患難の時代は、純金を得るために金鉱石が火で精錬されるようなものです。私たちの信仰も、患難の時代を通過することによって精錬されて、純金よりもはるかに尊くなって行くのです。

実際に、初代教会のクリスチャンたちは、ローマ市民の余興としてライオンの餌食にされたり、ローマの都を灯すたいまつ代わりに火あぶりの刑で殺されたりしました。本当にひどい時代でした。初代教会の人々は、迫害という火の中をくぐって精錬され、不純物が焼きつくされ、純粋な信仰へと精錬されました。

このような迫害は歴史の中でくり返されました。そして、そのつど、不純物が取り除かれ、純粋な信仰へと精錬されてきました。

こうして、患難を経た純粋な信仰が今日まで伝えられ、私たちはその恩恵にあずかっています。そして、私たちもまた、終わりの時代にさしかかっています。万物の終わりが近いのです。今の時代にも激しい迫害があるかも知れません。

そのために、今日の聖句は心を確かにしてとあります。新改訳では心を整えて。共同訳では思慮深くふるまいです。幅の広い語彙ですが、元来の意味は正気になってです。

万物の終わりを意識すること……、その終わりには、神は私たちを試練や迫害をとおして精錬して純粋なものになさることを意識すること……、これが「正気になって」いる状態です。

世の人々からすれば、万物の終わりを信じているクリスチャンこそ正気の沙汰ではないでしょう。神による最後の大審判を信じているなんて、「お前、気は確かか?」と問われるでしょう。世の基準からすれば、クリスチャンの生き方は狂気です。でも、聖書を基準にするなら、万物の終わりを意識していることこそ〝正気なこと〟です。

正気になって祈りましょう。そして、身を慎んで祈りましょう。患難の中で信仰の純粋を保てるように。そして、患難を通して精錬された純粋な信仰を後輩たちに残すことができるようにしてください。

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ペテロの第一の手紙 3章

2023年03月23日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 3章
悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって祝福をもって報いなさい。あなた方が召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
(3・9)


先の第2章では、迫害下にありながらクリスチャンが世におかれている意図は、私たちが祭司となって人々をイエス・キリストに橋渡しするためだと学びました。

ところが、その橋を渡ろうにも欄干が壊れているとか、建て付けが悪くて途中で壊れそうな橋では〝橋渡し役〟ができません。そこで、2章の後半からは、橋渡し役として整えられる道を教えています。

異邦人の中にあって、立派な行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなた方を悪人呼ばわりしていても、あなた方の立派なわざを見て、返っておとずれの日に神をあがめるようになろう。(2・12)

「立派な行い」と言われると尻込みをしてしまいます。でも心配しないでください。クリスチャンの生き方は未信者(異邦人)からすれば意外と立派なものです。大切なことは神への謙遜と従順です。人を意識して立派にやろうとするのではなく、神を意識して誠実に生きようとすることです。

どのような立派な行いなのか、整理します。2~3章にわたって記されていることなので、少し長くなります。

(1)社会の秩序に従う。(2・13~17)

私たちは自由人です。天の御国に属する者ですから、私たちの行動規範は御言であり聖霊です。しかし、地上においては仕える者です。だから世の法律に従います。自由だからといって、世の規範を乱して神の御名を汚す者であってはなりません。

神から与えられた自由をどのように使うのか。悪のために使う自由ではなく、神のしもべとなる自由として使います。だから、自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさいと言われているのです(2・16)

(2)神のしもべとして社会に仕える。(2・18~25)

当時の社会には奴隷制がありました。人類は長い時間をかけてそれを廃止しました。ここで奴隷制を議論するのは主旨ではありません。

聖書は、いかなる環境にあってもキリストにある救いを述べています。たとえ奴隷であっても神の子とされ霊的には自由人です。逆に、身分上は自由人であっても、霊的には神のしもべとして仕えよと聖書は教えます。

そもそも、我らの主であるキリストがしもべとなられたのです。それは、私たちがどのように生きるべきか模範を残されたのです。ですから、私たちもキリストに倣ってしもべとして生きるのです(2・21)

しもべというのは、理不尽なことがあっても従順します。キリストもそうなさいました。「罵られても罵り返さず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しいさばきをするかたに、一切をゆだねておられた」のです(2・23)

唯々諾々と泣き寝入りするのではありません。正しくさばく神にお任せします。一見、弱そうですが、正しくさばく神の存在を知っている者こそ、本当に強い者です。本当に強い者だからこそ、仕える力を持っているのです。

(3)仕え合う夫婦関係。(3・1~7)

ようやくここで第3章です。「仕える生き方」は夫婦の中にも活かされます。夫も妻も仕え合う姿にこそ、キリストと私たちの関係が凝縮されています。

そのような姿こそ男女を問わず最高の飾りです。表面的な装飾品ではなく、「隠れた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」と教えています(4)

(4)祝福を祈れ。(3・8~15)

迫害が激しくなってきた頃に、この手紙は記されました。周りからは不当な嫌がらせや侮辱があびせられる時代でした。悔しさのあまり、仕返ししてやりたい思いに駆らたことでしょう。

しかし御言は悪をもって報いてはならない。むしろ、祝福をもって報いなさいと命じています。

私たちの生活は常に外側からの刺激に対する反応の連続です。悪口を言われたら悪口で返そうと反応します。殴られたら殴り返そうと反応します。これが罪人の反応であり、肉なる反応です。

ところが御言は、悪に対して悪で反応してはならない。むしろ、祝福で反応しなさいと命じています。これは、言い返えさない、仕返しをしないといった我慢強さのことではありません。

大切なのは、私の内側の〝何が反応するか〟です。

悪に対して悪で反応してしまう部分がいやされていないと、どんなに我慢強い人でも「堪忍袋の緒が切れる」ことになります。

時には善に対して悪が反応する場合もあります。隣人の喜びを素直に喜べずに嫉妬で反応します。親切に対して猜疑心で反応し、真実に対して「しらけ」で反応します。

このように悪で反応してしまうことを、聖書は〝肉〟とか〝肉の思い〟と呼んでいます。外側からの刺激が、私の肉のスイッチを押してしまうのです。この肉の問題を解決しない限り、報復の連鎖が続きます。

この世は、悪の報復の連鎖に明けくれています。この連鎖を断ち切ることのできるのはクリスチャンだけです。これを断ち切るために、神は私たちを召してくださったのだと、今日の聖句は記しています。

この悪の連鎖から救い出すために、イエス様は十字架で死んでくださり、罪の連鎖を断ち切ってくださいました。今度は私たちが、十字架を背負って、家族や社会の中で悪の連鎖を断ち切る番です。十字架を負わなければできないことです。

悪や罪に対して反応してしまう私の肉は、私たちが日々負う十字架で葬ります。そうすると、私の内に住まわれる聖霊が反応なさいます。聖霊はイエスの心を私の心に映し出してくださいます。

イエス様は人類の罪に対して罪で反応なさいませんでした。人類の度重なる悪に対して悪で反応なさいませんでした。イエスの反応の結論は「十字架の死」でした。主は十字架の死をもって、私たち罪人に報いてくださいました。悪に対して悪で報いず、祝福をもって報いてくださったわけです。こうしてイエスは、人類が背負い続けた罪と死の連鎖を断ち切ってくださったのです。

今度は、私たちも、イエスと同じ心をもって反応できるように、私たちの内に聖霊を内住させてくださいました。ハレルヤ。

日々十字架を負うとは、私の肉なる反応を十字架につけて葬ってしまうことです。そうすると聖霊の反応が現れます。私が死ななければ、聖霊が反応なさるチャンスがありません。私の〝肉〟が葬られないことには、聖霊の出る幕がありません。だから十字架を負うわけです。

聖霊の反応は、悪の連鎖を断ち切ります。憎しみの報酬に終焉をもたらします。

だから、悪口や噂話、罪の誘惑などの連鎖は自分のところで切るのです。悪口がさらに次なる悪口を生んではなりません。噂話を〝横流し〟してはなりません。その悪の連鎖を断ちきるのは私たちクリスチャンの役目です。代わりに私たちからは「祝福」を流し出すのです。祝福することで、悪の応酬と連鎖を断ち切ることができます。

神がアブラハムに、「あなたとあなたの子孫は『祝福の基』となる」と約束されました。今や、イエスの中で私たちもアブラハムの子孫です。だから、私たちは祝福の発信基地です。周りの人々の祝福を祈ろう。それこそ聖なる祭司の務めです。

(5)福音を伝えよ。(3・13~22)

迫害や困難の中にあっても動揺せず、福音を語る準備をしていなさいと勧められています。毎日、少しずつでも聖書を読み、その意味を思い巡らす時間を持つことです。

私は大学生の時に信じたのですが、その頃から信仰の友と一緒に聖書を読んで共に祈る時間を持ってきました。現在、私が牧会している教会でも、早天祈祷会で共に聖書を読み祈る時間を持っています。地道な積み重ねですが、これが「あなた方の内にある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意」となっています(15)

ただし、福音を伝えるにあたって、相手を言い負かしたり口論してはなりません。「やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」と勧めています(16)。キリストも福音を現すために世に来られ、ご自身の死と復活によって福音を証しされました。 私たちも同じ目的のもとに召されているのです。 

※19~20節は「すでに死んだ者にもキリストが御言を語られた」とあり物議を醸す聖句である。前後の文脈から見ると、イエスが苦難の結果、肉体は死んだが霊においては生かされた(18)。そのように〝死〟というバプテスマを経て ――この場合のバプテスマはノアの洪水のこと―― 正しい良心を持つ霊への復活につながる(21)。だから肉体の苦難や死を無闇に恐れるのではなく、罪からの清めに目を向けよと教えている(4章)。なので、「イエスが霊において、ノアの洪水以前の人々に福音を語った」ことは中心点ではない。

ただ、この聖句を根拠に、福音を聞く機会のなかった人々にも霊の世界で何らかの方法で福音が語られるのではないかと予測する解釈があるが、あくまで予測である。前者の人々に対する裁きについて聖書は多くを語っていない。彼らの良心を基準に裁かれるとある(ロマ2・15~16)。裁きは、真実で公平な神がなさる分野であって人の考えを超えている。確実にいえることは、イエスを信じれば救われることだ。
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ペテロの第一の手紙 2章

2023年03月22日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 2章
あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(2・5)


先の第1章では、私たちの救いの根拠について記されていました。神の御言という種によって新しく生まれたこと、神の血による支払いによって贖われたことを確認しました。

第2章では、その救われた私たちが迫害下に置かれている意味は何かを述べています。結論から申し上げます。地上における祭司職をはたすためです。祭司とは「橋渡し役」です。地上の人々と天の神とをつなげる役割をします。

そのことを深掘りする前に、神殿について述べておきましょう。聖書は神殿建築の歴史書です。神殿とは神の家であり、神が人と共に住む場所です。

神が人と共に住むために、いかに産みの苦しみをなさったことでしょうか。そして、神が人と共に住む場所を用意するために、神がいかに苦労なさったことでしょうか。聖書は、そのような神と人類の労苦の歴史が記された書です。

神が人類と共に住む場所として、神は「神殿」を定められました。

その神殿の原型を見たのはヤコブでした。彼は石を枕に野宿したとき、夢で、天と地がつながっている情景を見ました。つまり、神は遠くにおられるのではなく、自分がいる地上とつながり、神が共におられることを示す夢でした。

そこで、ヤコブは、夢を見たその地をベテル神の家)」と名付けて記念としました(創28・17)

その後、神は、ヤコブの子孫であるイスラエル民族に幕屋テント式の神殿の建造を命じました。それは、神が民と共に住むためでした(出25・8~9)。これは、後のソロモン王の時代になって、石造りの神殿として建造されました。

ところが後世の人々は神殿に異教の神々をまつるようになり、神はこれを激しく怒られて、バビロン軍を用いて破壊してしまいました。これがバビロン捕囚の事件です(紀元前597年)。

そんな神の厳しい刑罰を受けたユダヤ人でしたが、やがて神は彼らを解放し、エルサレムに戻って神殿を再建せよと命じられました。そして、捕囚から帰還した民は、幾多の苦難を経て神殿を建立しました。

このように苦労して再建した神殿でしたが、イエス様が来られた時はどうなっていましたか。主イエスは、人の子には枕するところがないと嘆かれました。それは、神が人と共に住むべき神殿が汚されていることへの悲しみでした。

まさにその通りで、人々は、神殿を「強盗の巣」「商売人の家」にしてしまっていました。それをご覧になったイエスは、激しくお怒りになり、こう言われたのです。この神殿をこわしたら、私はそれを三日後に建てます(ヨハネ2・19)。つまり、本当の神殿……神が私たちと永遠に住まわれる場所をお建てになると宣言なさったのです。

どのような神殿でしょうか。それは「イエスご自身の体」のことなのだと聖書を記録したヨハネは説明しています(ヨハネ2・21)こうして今や、キリストの体である私たち教会が神殿です。

このように、旧約から新約に至るまで、聖書には、神が私たちと共に住むために、真の神殿を建てる計画とその歴史が記されているのです。

(1)私たちは新しい神殿の生ける石です。

旧約の時代は石で建造された神殿でしたが、新約の時代は、イエスを信じる私たちが神殿です(Ⅰコリント3・16)

旧約の神殿はいのちのない無機質な石で建造されましたが、新約の神殿は、イエスを信じる私たち一人ひとりが生ける石となって霊の家を築き上げるのだと、冒頭の聖句は告げています。

昔は物言わぬ石で造られましたが、今や、讃美を歌い、主イエスの証しを語る〝生ける石〟で建造されています。つまり、私たちがこの霊の家(真の神殿)の石なのです。

この神殿の隅のかしら石」(新改訳では「尊い礎石」)はイエス・キリストです。

旧約の預言者イザヤは、後に完成する新しい神殿について告げています。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」と(Ⅰペテロ2・6/イザヤ28・16)

石造り建築で「隅」とは神聖な場所を意味します。当時の人々は建築を始める際に、隅にかしら石を据えて工事の無事を祈願しました。全ての建築はこの隅のかしら石から始まります。イエスはユダヤ人からは捨てられましたが、新しい神殿の最も神聖な場所の石となってくださいました。

だから、ペテロはサンヘドリン議会にて聖霊によって証言したのです。「このイエスこそは、『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」と(使徒4・11)。そして、私たちもその後に続く「石」として築き上げられています。

この霊の家の建築はどこまで進んだでしょうか。「住む場所が完成したら私はもう一度来る」(ヨハネ14・3)とイエスが言われたように、その時、この時代は終わります。※この「住む場所」は、地上では私たちキリスト教会をさすが、同時に天でも並行して進められている。

完成までの間、新しい石が次々と積み重なって行きます。先に救われた私たちは、これから救われるであろう新しい石が積み重ねられるために下敷きとなる石です。私たちが下敷きとなることで、次の人々が救われて行きます。私たちがしっかりと神殿の石として組み込まれなければ、次の石が積み重ねられないことを覚えましょう。

イエス・キリストは神殿の最初の「隅のかしら石」となってご自分を献げられました。このお方の上に私たちが積み上げられました。さらに次の人々が積み上げられて、ついに神殿が完成します。

この手紙の著者はペテロです。ペテロとはの意味です本名はシモンですが、イエス様から「ペテロ(岩)」と名付けられました。主イエスから召されたときのシモンは、まさにゴツゴツとした岩でした。まるで原石みたいな人でした。しかし、主の御手の中で削られ、研がれて、ペテロは神殿の石となって今に至り、この手紙を書いたのです。

ペテロのように、私たちも失敗や試練を通して削られ、研かれて、神殿の生ける石となります。主の取り扱いを感謝しましょう。

(2)私たちは新しい神殿の聖なる祭司です。

さて、神殿とは何をするところですか。神の住まわれるところであると同時に、神への礼拝がささげられるところです。祈りの家です。

その神殿で、礼拝のご用にあたるのが「祭司」です。旧約聖書で祭司職といえばアロンの家系の人々でしたが、今日の冒頭の聖句によれば、イエスによって建てられた神殿における祭司は、クリスチャンである私たちだと告げています。

続いて9節でもあなた方は選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべき御光に招き入れて下さったかたの御業を、あなた方が語り伝えるためであると述べています。

牧師だけが祭司ではありません。クリスチャン皆が祭司です神に直接祈り、礼拝をささげる祭司です。礼拝を他者任せにしてはいけません。私たちは、恵みを一方的に受けるだけの民衆ではなく祭司です。

私たちは、まだ主を知らない家族や友人と神との間の橋渡し役です。まだ救いを受けていない日本の99%以上の人々と神との橋渡し役に、私たちは任じられています。手紙が記された当時も今も困難な時代ですが、あえてそこに私たちが置かれている意味は、私たちが祭司の役目を果たすためなのです。

生ける石となり、聖なる祭司として召され、選ばれた皆さんに、主からの特別な支えと守りがありますように祈ります。

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ペテロの第一の手紙 1章

2023年03月21日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 1章
あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、傷も、染みもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
(1・18~19)


使徒ペテロは迫害下の中で苦しむクリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。キリストによる救いとは何なのか。それを明確にしなければ、苦難によって信仰を捨ててしまいかねないからです。

(1)救いとは新しく生まれることです。(1・3)

肉体が新しく生まれるのではありません。私たちの内なる人である霊魂の新生です。肉体の自分がすべてだと思っていた時の希望は地上のことばかりでした。ところが、内なる人が新しく生まれると、天にこそ本当の希望があることに目覚めます。

私たちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなた方のために天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。(1・3~4)天にある「しぼむことのない資産」を相続する者となったのは、私たちが新しく生まれ、しかも神の子どもとして生まれたからです。子であるので相続人でもあります(ローマ8・17)

目に見えることに希望の根拠を求めません。そうであれば、迫害や試練の中で初代教会の信仰は消滅していました。むしろ、その試練をとおして、あなた方の信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変るという約束に根拠があります(Ⅰペテロ1・7)

そして、まだ見てはいませんが、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからです(1・8~9)

時を経て2千年後の私たちにも、この喜びがあることに気づいてください。新しく生まれた我が霊魂に目を注ぐなら気づくはずです。当時の外側の環境は迫害でした。今の私たちの環境も試練や困難です。そのことに目がうばわれて、内にいただいた救いの素晴らしさに気づかないでいるのです。

さて、私たちが新しく生まれたのは、「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのです(1・23)私の努力によるのではありません。地上での生まれ育ちが根拠でもありません。神の御言という〝種〟によって新しく生まれました。人間の種(精子)であれば、やがて朽ちる肉体のいのちが生まれるだけですが、神の霊的な種(御言)が私の心に蒔かれ、神の子としての生命が生まれたのです。

(2)救いとは贖われることです。(1・18~19)

聖書の重要なメッセージは、神が私たちを贖ってくださったことです。「贖い」は重要な語句ですから、整理しておきましょう。

贖うとは、他の誰かが代金を支払って買い取ることです代金を支払うのが自分ではなく、他の誰かであることがポイントです。

よく似た語句で「償う」があります。これは〝自分で〟代金を支払うことです。ある程度の失敗は自分で償うことができます。でも、私たちの罪は、自分で支払うことのできない膨大な借金です。

イエス様は譬え話の中で、その罪の借金たるや1万タラントだと教えてくださいました(マタイ18・24)。当時の1万タラントは、労働者の20万年分の賃金に相当します。20万年も働いて返済できますか。到底返済不能の金額です。

ところがこの話の中の借金男は、「何とか返すからもう少し待ってくれ」と懇願しました。つまり、償おうとしたわけです。でも、とうてい無理です。この借金まみれの男の姿こそ、私たち人間の姿です。

いったい誰がこの罪の代価を支払うことができますか。だから、神が代わりに支払ってくださいました。これが贖いです。

では、神はどのようにして罪の代価を支払われたのでしょうか。罪の代価として、神は何を支払われたのでしょうか。それは神の血です。傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血です。

いったい、どのようにして神が血を流すことができるというのでしょうか。永遠であるお方が、如何にして死ぬことができるというのでしょうか。

だからこそ、神は肉体をとって世に来られたのです。御子なる神は、肉体という弱さを身にまとって世に来られました。それは、神が血を流し、いのちを支払って人類を罪の支配から贖い出すためです。人類を贖って、神のものとするためです。

神の血……これ以上に高価な支払いはありません。聖書は、金や銀よりもはるかに高価なものだと言っています。

歴史上こんな高価な買い物があったでしょうか。神は最高の買い物をなさいました。ご自分の血で私たちを買い戻してくださったのです。何という光栄でしょう。ハレルヤ。

人も、高価な買い物をしたら大事にします。一生分のローンを組んで家を買います。何千万という支払いをします。だからこそ大事にします。手放すことができません。

私たちの神は、それと比較にならないほどの高価な買い物をなさいました。そんなにすごい出費をして私たちを買い取ったのですから、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と主は言われるのです。

こんなに高価な支払いをして自分の所有としたクリスチャンを、神が途中で捨ててしまうと思いますか。いいえ、絶対に捨てるわけには行きません。だから、私たちの救いは確実なのです。

神は正式な支払いをして、私たちを買い取り、神の所有となさいました。悪魔の支配下にいた私たちを、無理矢理に引っ張り出したのではありません。盗んだのでもありません。盗んだのであれば、悪魔が取り戻す権利があります。悪魔が私たちを奪い返す可能性があります。

しかし、神は正式な支払いをなさいました。しかも、お釣りがくるほどの……否、お釣りの方が大きいほどの支払いをなさいました。だから、私たちは神のものです。だから、私たちの救いは確実なのです。

私たちの罪がゆるされるために、神の血という最高の代価が支払われたことを感謝します。確実な支払いの故に、その救いが確実であることに感謝します。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/36H1thWwPiAMBj0Iagjp2W?si=25EU_iudS5ewggaW-_jWbA
You Tubehttps://youtu.be/iW4rmDVoZe4

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