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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

哀歌 5章

2019年03月09日 | 哀歌
哀歌5:16~17 私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。

エルサレムの陥落。バビロンによる捕囚。このような悲しみと苦しみの原因は何なのか。

哀歌は、それは「罪をおかしたからだ」と告白いています。さらに、今日の聖句では、罪をおかしたので、「心が病み」「目が暗くなった」のだと告白しています。

すべての問題は「」から始まっています。その罪とは「神を認めない」「神に従わない」という根っ子の罪のことです。

罪のゆえに心が病みます。目が暗くなります。目が暗いとは、霊的世界のことが分からない状態のことです。物事の本質を見抜くことが出来ないことです。

人は霊的存在であり、神と共に生きる者として創造されています。神との交わりの中で生きるのが人間の本来の姿です。つまり、神の御言によって生きるように創造されています

なのに、その神を否定したら、人の心は暗くなります。心が病むのは当然です。

社会が悪い、環境が悪い、教育が悪い、景況が悪い……様々なことが原因のようですが、さらに深いところには、この罪が大きく根深く横たわっています。「哀歌」はその罪を告白し悔い改めています。

問題の根は罪であると気がつかされることは何と幸いなことでしょうか。神を主とせず、自分を主としてる罪に気づき、悔い改め、本当の主であるイエス・キリストを迎えることができるからです。

神は、人が霊的に生きることができるように「罪を意識する心」つまり「罪責感」を与えてくださっています。これがいかに幸いなことでしょうか。

つまり、罪の痛みを感じる能力が与えられているのです。

たとえば肉体の傷を痛いと感じる能力があります。痛いので、その痛みをもたらしている傷に対処して肉体のいのちを保とうとします。それと同じように、罪の痛みを感じることによって、神との関係を修復し、神と共に霊的に生きようとするのです。

このような機能が働かなくなったら、人は罪をおかすことが平気になってしまいます。だれだってやっているじゃないか。人に迷惑かけなければいいじゃないか……といった理屈もそうです。

罪の痛みを感じることの出来る人は幸いです。その人はイエス・キリストを信じるからです。神が人の心に受け付けてくださった霊的な感覚に目覚めている人は幸いです。その人は神に立ち帰ろうというするからです。

バビロンを通して神に撃たれた人々は、罪の意識、霊的な感覚に目覚めることが出来ました。だからこそ、彼らは叫んだのです。「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです(5:21)

試練や困難を通して「神も仏もあるものか」と反応してしまう人もいれば、逆に、悔い改めて神に立ち帰ろうとする人もいます。

人の深いところには「私は神のもとに帰りたいのだ」という霊的な本能があるはずです。それに気づくことの出来る人は幸いです。父の財産を使い果たしたあの放蕩息子の場合も、彼は最後に「本心に立ち帰って」とあります(ルカ15:17)

神は、様々な困難を通して、「私は帰りたいのです」という本心に目覚めることを願っておられます。もちろん、そこまで撃たれなくても目覚めていれば良いのですが……。(Ω)

哀歌 4章

2019年03月08日 | 哀歌
哀歌4:2 ああ、精金にも比すべきシオンのいとし子らは、陶器師の手のわざである土の器のようにみなされる。

さらに嘆きの祈りは続きます。バビロンの攻撃によって見るも無惨な姿に落ちぶれたエルサレムがえがかれています。

金銀をはじめ最高級の調度品で飾られた神殿は、異邦人の手によって無残にも踏みにじられ、かつての輝かしい姿は見る影もありません。

ああ、黄金は光を失い、純金は色を変じ、聖所の石はすべてのちまたのかどに投げ捨てられた。(4:1)

その様相は、誇り高きはずのイスラエルの姿でもありました。純金のように高価であったはずのシオンの子ら(神の民)は、何の値打ちなくなった土塊のように投げ捨てられたのです。

しかし、そもそも元をただせば、彼らとて異邦人同様の石ころであり、土の器であったはずです。それが、神に選ばれ、神の民として仕えて行く中で、彼らは「純金のような民」「宝石のような民」とされたはずでした。

その原点を忘れて、その立場にあぐらをかいて堕落していったのがイスラエルの歴史でした。神の民としての塩味を失うなら、外に投げ捨てられる〝塩の石〟のようになってしまいます。

私たち新約のクリスチャンはどうだろうか。その召された時のことを忘れていないだろうか。無きに等しい者を神は選び召してくださった原点を忘れてはならない。そんな私を「あなたは高価で尊い」と言ってくださる主の恵みを忘れてはなりません。(Ω)

哀歌 3章

2019年03月07日 | 哀歌
哀歌3:31~32 主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。(新改訳)

神は真実な方です。厳しく叱られますが、また、哀れみ深いお方です。厳しく突き放される時がありますが、また、大きく手を広げ「戻ってこい」と言われるお方です。

神のそのようなお取り扱いの中で、私たちは被造者としての謙遜と従順を学びます。哀歌の著者も、そのことを学び、神を賛美し始めます。こんなに厳しい中にありながらも……。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私の魂は言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(3:22・新改訳)

もう限界だ。もう終わりだと思えるような時でも、なおも「私は主を待ち望む」と告白します。バビロンの攻撃によって何もかも失いましたが、なおも「主こそ私の受ける分です」と告白します。

試練とか苦難をどう受け止めるのでしょうか。

自分の人生を呪い、神に向かって心をかたくなにする人もいれば、逆に、そのことを通して、謙遜を学び、苦しみの先に用意されている霊的な豊かさに目が開かれる人もいます。

神を誤解し、神に対して心をかたくなにしないでください。あの1タラントをあずかったしもべは「あなたは酷なお方で、まかないところから刈り取り、散らさないところから集めるひどいお方だ」と告白しましたが、彼は神を誤解していたのです。

私たちの神はどんなお方ですか。哀歌は告白しています。「主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる」かたです。(Ω)

哀歌 2章

2019年03月06日 | 哀歌
哀歌2:19 主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。

エルサレムが破壊される様子がえがかれていますが、あまりにもの激しさゆえに、読むのがつらくなります。それほど、罪に対する神の御怒りは激しいのです。

神がいかに罪を憎まれるお方であるか、私たちは知らなければなりません。たとえご自分の神殿であっても、罪によって汚されるなら、神は容赦なく投げ捨てられるのです。

しかし、誤解してはならないことは、その激しい御怒りの背後には、それ以上の大きな悲しみと愛が隠されていることです。

主は〝敵のようになって〟民に怒っておられるのであって(2:4-5)、敵になってしまわれたのではありません。どんなに怒られても、神は私たちの味方です。最大の理解者です。

さて、この時の神殿には「もはや律法はなく、またその預言者は主から幻を得ない」と指摘されています(2:9)

新約の時代の神殿は、イエスを信じて聖霊が内住されるようになった私たち自身です。「あなた方は知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって……」と言われているとおりです(Ⅰコリント6:19)

その神殿である私たちの内に律法(神の御言)はあるでしょうか。神からの幻(ビジョン)はあるでしょうか。もちろん、あるはずです。聖霊が心の板に御言を書き記してくださり、聖霊が復活のビジョンを見せてくださっているはずです。

旧約の民のように、それを見失ってはなりません。捨ててしまってはなりません。それは危機的な状況です。昔も今も危機に瀕する者たちに叫び祈れと命じています。


シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、 夜も昼も川のように涙を流せ。 みずから安んじることをせず、 あなたのひとみを休ませるな。夜、初更に起きて叫べ。 主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ」と。
 
「初更」とは昔の時間で言うところの戌の刻で、夜の7~9時頃のことです。夜番が立つ頃という意味です。つまり夜になり油断しそうな時間です。文字通りのその時間というよりも、まさに油断しそうな時こそ祈れという命令でしょう。どうか祈りの油が途切れませんように、聖霊さま助けてください。(Ω)

哀歌 1章

2019年03月05日 | 哀歌
哀歌1:9 その汚れはその衣のすそにあり、これはその終りを思わなかった。それゆえ、これは驚くばかりに落ちぶれ、これを慰める者はひとりもない。

バビロンによって滅ぼされるエルサレムの惨劇を目の当たりにして、哀歌の著者は、神の力強い御手の前にへりくだるほか道がありませんでした。悲しみの涙と共に悔い改める祈り……それが「哀歌」です。

※著者はエレミヤとも言われるが正確なところは不明。しかし、エルサレムの滅亡を預言しつつ、その悲しみのゆえに涙し執り成し続けたエレミヤの視点で読み解くことは理にかなっている。

ここでは、エルサレムその民のことを「彼女」と呼んでいます。神の御国の女王となるために選ばれたエルサレムの町でしたが、女王としての尊厳は打ち砕かれ、見る影もない惨めな女としてえがかれています。

それほど罪の汚れははなはだしかったのです。

聖書は、罪の支払う報酬が死であることを述べています。イスラエルの歴史の中で、その事実が具体的に証しされています。罪の奴隷となった民の悲惨な最期です。

「その汚れはその衣のすそにあり」(1:9)とありますが、「彼女の汚れはすそにまでついている(新改訳)という翻訳が分かりやすいでしょう。汚れが頭の先から裾までしみついているというわけです。そんな罪の結果がどんなに惨めな結果をもたらすのか、彼女は考えなかったのでしょうか。

かつて、預言者エレミヤは、罪をおかし続ける民に向かって、「あなた方は、その終りにはどうするつもりか」と問い続けました(エレミヤ5:31)今は良くてもその結果を考えよ……と。

この時に考えるべきでした。この時に悔い改めるべきでした。しかし、彼女は「その終りを思わなかった」と述懐しています。その終わりを思わなかったゆえに、「驚くばかりに落ちぶれ、これを慰める者はひとりもない」のです(1:9)

彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった」と述べられています(1:2)。「彼女の愛する者」とは同盟関係にあった諸国のことです。

神を頼らず地上の王たちを頼り、彼らを愛した結果は無残な裏切りでした。バビロン攻撃に際しては、だれも彼女を助ける国がありませんでした。この世のものを偶像とする末路です。

そんな悲しみは、やがて心からの悔い改めへと導かれます。哀歌は、悔いし砕けし魂をもって神にささげる祈りです。悲しみの中にも、わずかながらも、でも確実に主につながる祈りのように思われます。(Ω)