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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記下 12章

2025年04月30日 | 列王紀
列王紀下12・2 ヨアシは一生の間、主の目にかなう事をおこなった。祭司エホヤダが彼を教えたからである。

南ユダ王国はアタリヤの圧政から解放され、ヨアシ王によって治安を回復しました。ヨアシ王は「主の目にかなう事を行った王」として記録されています。そのような王であり得た要因は何だったのでしょうか。

祖母であるアタリヤのクーデターの中、主の力強い御手によって間一髪の差で助け出されたヨアシ王は、幼い頃に神殿の中で匿(かくま)われたことは、すでに見たとおりです。

神殿の中で生きるとは何と幸いなことでしょうか。神殿の中では、神のきよさや恵みが満ちています。そのような神殿 ――新約においてはキリストの体の中―― に身をおいていきる人生は幸いです。

酸素カプセルなる物があることをご存知でしょうか。スッポリ体全体をこのカプセルの中でおおわれて、普通の空気より濃い酸素を受けることによって、疲労回復やリラクゼーションをもたらすのだそうです。酸素カプセルを活用するプロアスリートや病院もあると聞きます。

私たちは、時にはキリストから遠のいてしまうような環境におかれることがあります。世俗の発想や価値観にドップリ漬かってしまい、神の御言の濃度が限りなく薄い環境におかれることがあります。いいえ、むしろそれが日常です。

だからこそ、神殿の中で匿(かくま)われる必要があります。酸素カプセルの中に入るようにして、キリストの中で、高濃度の御言に浸る時間をもつことが大切です。そんな時間をぜひ確保してください。

ヨアシはそのような幼少期を過ごしたのです。だから、彼のそばにはいつも御言がありました。そして、御言を教えてくれる祭司エホヤダがいつも付き添っていました。

ヨアシが良い王として立つことのできた理由を、祭司エホヤダが彼を教えたからであると聖書は記しています。聖書に精進するエホヤダをとおして、ヨアシは薫陶を受け、神の御言を人生の土台として据えることができたのです。

御言に養われるとき、私たちは主の道をしっかりと歩むことができます。「すべての道で主を認めよ。そうすれば主はその道をまっすぐにされる」と約束されている通りです。


列王記下 11章

2025年04月30日 | 列王紀
列王紀下11・3 ヨアシは乳母と共に六年の間、主の宮に隠れていたが、その間アタリヤが国を治めた。

北イスラエルではエヒウ(エフー)が王となり政権をとるや、アハブ王家は滅亡したことを先の章では見ましたが、その時、南ユダのアハジヤ王は北イスラエルを訪問中であったため、戦渦に巻き込まれて戦死しました。

南ユダの王アハジヤの死去という緊急事態に乗じて、王母アタリヤが実権を掌握し南を支配したのです。

彼女は、北イスラエルを腐敗させたあのイゼベルの娘です。北ではエヒウによってアハブ王家共々イゼベルも殺害されましたが、その娘アタリヤは南ユダで生きのびていました。北イスラエルを堕落させたイゼベルの働きは、次に南ユダ王国へと触手を伸ばしていたのです。

このアタリヤがまず着手したことは、アハジヤの子たち、すなわち王子たちの粛正(しゅくせい)です(11・1)

アハジヤの子はアタリヤからすれば孫にあたりますが、容赦なく殺害した意図は何だったのでしょうか。ひとつは、エヒウによるイゼベルおよびバアル礼拝者殺害への報復だと思われます。しかし、もっと大きな理由は、彼女の背後にあって働くサタンの存在です。

ここで整理しておきましょう。

神は、ダビデ契約によって、ダビデの子孫からひとりの王を生まれさせ、彼が支配する王国は永遠につづくのだと約束されました(サムエル下7・12)。その約束は、単に、ユダ王国が子々孫々繁栄するといった程度の意味ではありません。

神が、ダビデ王家の子孫からキリスト(油を注がれた者)を生まれさせ、そのお方によって神の御国が完成すること。その御国が実現するとき、悪魔は滅ぼされることを意味しています。

このダビデの子孫とはイエス・キリストのことです。

イエス様はダビデ王家の子孫としてこの世に来られました。イエス様の宣教の第一声は、「神の御国は近づいた」でした。そして、悪霊(あくれい)を追い出し、悪魔とその働きを追放なさいました。悪霊を追い出している事実は、神の御国がここに来ている証拠だとも言われました(ルカ11・20)

そして、ついに十字架の死と復活によって、悪魔の最大の武器である罪と死を滅ぼしてしまわれました。

そのようなキリストが、ダビデ王家から誕生するというのが神の約束ですから、悪魔にとって、ダビデ王家の滅亡は最優先課題となるわけです。

このキリスト誕生預言は、創世記の時から語られてきました。エデンの園でアダムとイブが罪を犯したとき、主なる神はヘビ(悪魔)に向って、女の子孫がお前を頭を砕くと預言されました(創3・15)。この「女の子孫」とはイエス・キリストのことです。事実、イエスは処女マリヤからお生まれになりました。

また、神はアブラハムに対しても、あなたの子孫は敵(悪魔)の門を打ち破り、地のすべての国民は、あなたの子孫によって祝福を得ると約束されました(創22・17~18)。この「アブラハムの子孫」もイエス・キリストのことです。

キリストは「女の子孫」から生まれる。それは、アブラハムの子孫であり、さらに絞り込んで、ダビデ王家の子孫である……と預言されてきたわけです。

ユダヤ民族の歴史は、迫害の中を生き抜いてきた歴史です。なぜ、彼らはかくも迫害を受けるのでしょうか。その背後には、ユダヤ民族を絶やすことによってキリスト誕生を阻止しようとする悪魔の働きが潜んでいるからです。

エジプトに寄留していたとき、エジプトの王パロはイスラエル人に生まれる男児を殺害しました。また、イエスが誕生された時も、ヘロデ王はベツレヘム一帯の幼子を殺害しました。前後しますが、今回のアタリヤの迫害もその流れで読み解くべき事件です。

悪魔(サタン)にとって最も都合の悪いことは何でしょうか。それはキリストの来臨です。それを阻止するための事件が旧約の歴史には数多く記録されているわけです。

しかし、それにもかかわらず、第1回目のキリスト来臨を、悪魔は阻止できず、遂にイエス・キリストは来られました。そして、今や第2回目の来臨(再臨)を阻止しようとして悪魔は働いています。

第1回目の来臨の時、ユダヤ人はイエスを受け入れませんでしたが、第2回目の来臨の場合は、ユダヤ人が再び約束の地に集結し、イエスを信じて迎える準備ができた時に来られるというのが神の約束です。

だから、悪魔にとって、キリストの第2回目の来臨を阻止するための決定打は、ユダヤ人を滅ぼしてしまうことです。その働きは、新約の時代の2千年間途切れることなく続いています。反ユダヤ主義思想は、このような歴史的背景にあります。

この視点でユダヤ人の歴史を見る時、ユダヤ人迫害の背後に悪魔の支配があることがお分かりいただけると思います。残念なことに、キリスト教会もこの悪魔の策略に惑わされて、ユダヤ人迫害に加担しました。キリスト教会の汚点であり罪です。

さて、話題を戻しましょう。王母アタリヤは、王家を滅ぼすために王子たちを次々に殺害して行きました。しかし、ダビデ王家存亡の危機に際して、神の御手は力強く働いています。

アハジヤの姉妹であるエホシバは、アハジヤの子ヨアシを、殺されようとしている王の子たちのうちから盗み取り、彼とその乳母とを寝室に入れて、アタリヤに隠したので、彼はついに殺されなかったのです(列王下11・2)

何と、幼児ヨアシだけは叔母の勇気ある行動によって助け出され、神殿の中にかくまわれ、6年後に、ヨアシは王として立ち上がったのです。

クーデターの時に助かる方法は、一般的には国外亡命が定石(じょうせき)です。しかし、エルサレムの神殿の中です。いのちをねらっているアタリヤに最も近い場所で、6年間もかくまわれたのは意義深いことです。

アタリヤはバアル礼拝者ですから、主の神殿に参拝しません。偶像礼拝者は、真の神殿には近づきたくもありませんから、どんな危機のただ中にあっても、神殿の中は安全だったのです。

私たちも悪魔の激しい攻撃を受けるかも知れません。しかし、神はヨアシを神殿の中で匿(かくま)われたように、私たちをイエスの中で匿ってくださいます。イエスの中にまで、悪魔は入ってくることができません。

イエスも言われました。「わたしの中にとどまっていなさい」と。そうです。イエスを信じるとは、イエスの中にとどまることです。イエスの御言の中にとどまることです。イエスの愛の中にとどまることです。

列王記下 10章

2025年04月29日 | 列王紀
列王紀下10・28~29 エヒウはイスラエルのうちからバアルを一掃した。しかしエヒウはイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪、すなわちベテルとダンにある金の子牛に仕えることをやめなかった。

アハブ王家の罪に対する神の激しい御怒りは、エヒウ(エフー)によって下されました。アハブ王家とイゼベルの影響を排除すべく、アハブ一族と関係者、そしてバアル礼拝者すべてを滅ぼしました。

何と激しい改革でしょうか。エヒウがいかに主なる神に忠実であったかを物語っています。

しかし、そんなエヒウですが、イスラエルに罪を犯させたネバテの子〝ヤラベアムの罪〟、すなわちベテルとダンにある金の子牛に仕えることをやめなかったのです。

ヤラベアムの罪……何度も出てきます。

ヤラベアムは北イスラエルの初代の王です。彼は、南ユダにあるエルサレム神殿に対抗して、ベテルとダンに神殿を建築し、人々の宗教心を北イスラエルに引き留めようとしました。

主なる神への礼拝という点では由とされることなのでしょうが、神殿に金の子牛を安置した点で禍根を残したのです。禍根……まさに禍(わざわい)の根です。雑草を抜いても根が残っていると、また出てくるように、「ヤラベアムの罪」はイスラエルを苦しめました。

この根っ子が残っている限り、イスラエルはいつも偶像礼拝の誘惑を残していました。エヒウほどの改革者でも、この禍根を抜かないでは真の礼拝者になり得なかったのです。

人は弱いもので、神は見えないお方であると分かっていても、シンボル的な存在があれば、それを拝みたくなるのです。ですから、金の子牛は神ではない、神を象徴するものだ……と説明しても、やがてそれが偶像になってしまい、他の偶像を導入する足掛かりになります。 ※カトリック教会のマリヤ像も、神として拝んでいるのではないと説明するが、やがてそれも偶像礼拝の対象になってしまう。

金の子牛。それは、純粋な信仰に混ぜ物をすることです。新約の時代の私たちにも、この〝金の子牛〟という名の混ぜ物を入れて、純粋な福音を濁らせていないだろうか。

ガラテヤ教会は福音に混ぜものをしました。イエスを信じることで救われるという純粋な福音に、律法を守って割礼を受けることとで、目に見える救いのしるしになるのだと教えました。

信じることによって救われるというだけでは何となく物足りなくて、割礼という目に見えるしるしが魅力的だったのです。でも、これは新約における〝金の子牛〟です。

私たちの内にそのような金の子牛が混ざっていないだろうか。祈りましょう。主よ、私の内にある金の子牛を打ち壊すことができるようにしてください。


列王記下 9章

2025年04月28日 | 列王紀
列王紀下9・22 ヨラムはエヒウを見ていった、エヒフよ、平安ですか」。エヒフは答えた、「あなたの母イゼベルの姦淫と魔術が、こんなに多いのに、どうして平安であり得ましょうか

ここに登場するヨラム王は、北イスラエルのヨラムです。北王国ではアハブの死後、息子のアハジヤとヨラムが王となるのですが、イゼベルは王母の立場を利用してイスラエルを実質的に支配していました。

そのため、偶像礼拝は激しさを増すばかりで、霊的堕落と悪政が続いていました。そこでついに神は、新しい王を任命し、積もり積もった悪を一掃しようとなさいました。

新しい王として任命されたのがエヒウで、彼はイスラエルの将軍でした。 ※エヒウは新改訳では「エフー」、新共同訳では「イエフ」。

当時の王の任命は「油を注ぐ」という方法で成されましたが、この時は、預言者エリシャの弟子が、エヒウの所に出かけて行き、油を注ぎ、こう預言しました。

わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。あなたは主君アハブの家を撃ち滅ぼさなければならない。それによってわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血と、主のすべてのしもべたちの血をイゼベルに報いる。(9・6~7)

こうして、ついに神は、エヒウを用いて、アハブ王家とイゼベルに鉄槌(てっつい)を下されたのです。

神は、罪と悪を放置なさっているかのように思える時があります。決してそのようなことはありません。神は、人々が悔い改めにいたるようにと忍耐しておられるのです。しかし、永遠に待っておられるのではありません。時が来れば必ず報われます。

神は必ずお報いになるお方です。悪に対しては刑罰をもって報い、善に対しては祝福をもって報われます。このことを忘れてはなりません。

悪に対して〝神が〟報われるのに、それを待ち切れなくて、〝自分が〟報いようとして失敗します。他者をさばいたり、復讐して神の領域を侵してしまいます。

善に対しても〝神が〟報いて、そのほうびをくださるのに、それを待ち切れなくて、〝人から〟ほめてもらおうとして自己誇示をして失敗します。こうして、地上で報いを受けてしまうため、天で受けるはずの本物の報いを失います。

神の報いを待ち望む人は幸いです。

イスラエルの王として任命されたエヒウは、かねてから王ヨラムとイゼベルの悪政に対して心を痛めていた人物だったのでしょう。しかし、自分の思いで報復することを由とせず、神の御心を求めていたのだと思います。

だから、エヒウが蜂起(ほうき)してヨラムの前に立ったとき、彼は、あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうかと訴えるようにして叫びました。

彼の訴えは、アハブ王家とイゼベルの成してきた悪に心を痛めていたすべての民の声です。

今の時代も、北イスラエルのように、罪と悪がはげしさを増す時代です。次々と報道される事件で、心を痛めない日はありません。だからこそ祈りましょう。この悪の世に、神の正義が行われますように……。主よ、神の国と神の義を、この地上にもたらしてください……と。

主イエスは、正しいさばきが成されるように祈り求めよと教えられました。そして、こう言われました。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか(ルカ18・7)


列王記下 8章

2025年04月26日 | 列王紀
列王紀下8・19 主は、しもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

南のユダ王国に話題を移すことにしましょう。南ではアサの子ヨシャパテが王として治めていました。神殿改革をしたアサ王に引き続き、ヨシャパテも主の目の前に正しい王でした。

かねてからヨシャパテは、北イスラエルと親しい関係にありました。険悪な南北関係を和らげるために協調路線をとりました。ですから、アハブとヨラムと二世代にわたって連合軍を派兵するなど、その親密ぶりが記されています。 ※南北に分断された朝鮮半島で、韓国は敵対的な「北風政策」と隔和的な「太陽政策」の2つの政策の間でゆれているのに似ている。

私見ですが、ヨシャパテは南北統一を目論(もくろ)んでいたのではないかと思います。

実は、ヨシャパテは自分の息子にヨラムと名付けましたが、北イスラエルの王ヨラムと同じ名です。同じ名を付けるには、それなりの親しみがあってのことです。単なる偶然とは思えません。

また、ヨシャパテは、息子ヨラムの妻に北王国のヨラムの妹を迎えました。彼女の名は「アタリヤ」ですが、彼女はあのアハブとバアル礼拝をイスラエルに持ち込んだイゼベルとの間に生まれた娘です。

そのアタリヤとの間に生まれた王子はアハジヤと命名され、その名はアハブ王の第一王子の名と同名です(この時点でアハジヤは逝去している)。なぜ、ここまでアハブ王家の名を継ぐ必要があるでしょうか。

この一連の融和政策は安全保障上の最善策と判断したのでしょう。しかし、政治的な一致だけではなく、霊的な一致によらなければなりません。形だけの一致ではなく、信仰の一致によらなけばなりません。

実はアハブの娘アタリヤを王妃に迎えたことは、南ユダ王国にとって大きな罠となりました。やがて、このアタリヤが南ユダ王国を大変な窮地 ――王家の抹殺計画―― へと追いやるのですが、第11章にその事件は記されています。

さて、アタリヤを妻とした南のヨラム王は、主の目の前に悪を行いました。名はアタリヤですが、妻としては〝ハズレ〟でした。

聖書はこう記しています。「彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである」(8・18)

でも、話はここで終わりません。神の恵みはこんなことでは終わらないのです。

恵みとは「それにも関わらずの世界」です。主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである(8・19)

人間は、まことにお恥ずかしいことに、不誠実の限りをつくしてしまいますが、神は真実なお方です。神は誠実をつくされるお方です。神は、契約の故にユダを滅ぼすことを好まれません。

今やイエス・キリストによる新しい契約を受けている私たちにも、神のこの真実は施されています。

たとい、私たちは不真実であっても、イエス・キリストは常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである。(Ⅱテモテ2・13)

このようなイエス・キリストの真実をいいことに、私たちが不真実をむさぼるわけには行きません。祈りましょう。主イエスよ。私もあなたへ真実をもって応えることができるように導いてください。


列王記下 7章

2025年04月25日 | 列王紀
列王紀下7・9 我々のしている事はよくない。今日は良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、我々は罰をこうむるであろう。さあ、我々は行って王の家族に告げよう。

スリヤ(アラム)軍の攻撃は激しさを増してきました。ついに、スリヤの王ベネハダデは全軍を率いて首都サマリヤを完全包囲。持久戦に持ち込み、兵糧攻めにする作戦です。

この攻撃によってサマリヤ市民は食糧難におちいり物価は高騰しました。ロバの頭 ――食べられる部位がほとんどない―― が銀80シケル。鳩の糞 ――燃料に使う―― が銀5シケル。とうとう人肉まで喰らう困窮ぶりが記されています(6章)

この時のイスラエルの王はアハブの子のヨラムです。

困難な状況は悔い改めるチャンスです。神に立ち返るチャンスです。苦しい中にも神が用意した「のがれの道」です。しかし、心の頑(かたく)なな人は悔い改めるどころか、逆に神にますます敵対します。

神が憎ければその預言者も憎しで、ヨラム王はエリシャを捕縛しようとやって来たのですが、エリシャは次のように預言します。明日の今ごろサマリヤの門で、麦粉1セアを1シケルで売り、大麦2セアを1シケルで売るようになるであろう(7・1)と。

物価高騰のとき、そんな安価で食糧が売られるなど、全く不可能な話です。

しかし、神はご自分の言を実現すべく、まずスリヤ軍を追い払われました。主は彼らに軍馬や戦車などの大軍が攻めくだる大音響を聞かせられました。大軍の奇襲攻撃と勘違いしたスリヤ軍は命からがら逃げ去ったのです。

そのため、スリヤ軍が陣営に残した食糧や家畜、武器などがイスラエルの手に入り、物価は落ち着き、主の御言の通りになりました。

神は何と忍耐深いお方なのでしょう。不信仰なイスラエルに対して、このような恵みをもって応えられるとは。主の忍耐といつくしみ深さを前に脱帽です。

偶像礼拝に溺れるイスラエルの王たちの歴史。悔い改めよと、何度も差し伸べられる神の御手を振るい払う反抗的な王たち。神様いっそのこと滅ぼしてしまわれたら良いのにと思うでしょう。でも、神は、なおも恵みをほどこし、悔い改めよと救いの手を差し伸べておられます。

この神の忍耐を思う時、黙示録に預言されている、最後に下される滅びについて、「神は愛なのにひどいではないですか」と批判するのが愚かに思われます。「神が愛であればどうして」と抗議する私の義など、神の圧倒的な義の前には貧相で小さなものです。神が、恵みをお与えになっている今日という日に、悔い改めて救いを得るべきです。

さて、そのようにしてスリア軍が逃げ去った後を最初に物色したのは、4人のツァラアト患者たちでした。サマリヤ市民でさえも飢えていたのですから、彼らはそれ以上です。ですから、戦利品を前に彼らは無我夢中で食べました。

でも、ふと我に返って語った言葉が冒頭の聖句です。動物のようにむさぼる中で、人はふと我に返ります。自分は何をしているのだろうか。自分はイスラエル人ではないか。神の民ではないか。

あの放蕩息子が豚の餌で空腹を満たしたいと願うほどに落ちぶれた時、ふとわれに返って「自分は何をしているのだ」「自分はあのお父さんの息子ではないか」と自分の姿を取り戻したのと同じです。

もし、4人のツァラアト患者たちが、自分が何者であるかを忘れたままであれば、これ幸いにと、ぶんどり物を独占したことでしょう。あるいは、これを機会に、高値で販売して、大儲けを画策することだってできました。

しかし、彼らは自分が神の民であるという原点に立ち返ったのです。だから、彼らはこの良き知らせをサマリヤの人々に知らせ、その戦利品によって、預言通り「麦粉1セアを1シケルで売り、大麦2セアを1シケルで売る」ことになりました。

新約のクリスチャンはいかがでしょうか。自分だけが救いに入って、罪によって滅び行く人々を放っておいて良いでしょうか。今は恵みの時、今は救いの日ではありませんか。

だから、祈って行動に移しよう。「主よ、あなたのこの良きおとずれを、お伝えする勇気を与えてください」。祈りつつ、主の導きがありますように……。

列王記下 6章

2025年04月24日 | 列王紀
列王紀下6・17 エリシャが祈って主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてくださいと言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。

スリヤ(アラム)軍はたびたびイスラエルと戦いを交えていましたが、スリヤ軍の作戦情報はイスラエルに筒抜けでした。それは、神の啓示によって預言者エリシャの知るところであったからです。 ※先のナアマン将軍より後の時代のことであろう。

どんな悪も隠れていることができません。暗闇でささやかれたことは明るみに出されます。人には隠されていることでも、神の目には裸です(ルカ8・17)

だから、自分の心に隠している醜い思いも、邪悪な企ても、神はご存知だと知るなら、私たちは神の御前に正直に歩むことができます。ところが、隠すことができると思うので、罪が拡大します。

隠せないと分かったら、罪は小さな芽の内に摘むことができます。これは、神の視線を感じて歩くことです。暗やみを照らす光のようにして、神の視線を感じるので、私たちは光の中を歩みます。

さて、スリヤ軍は、それならば情報源である預言者エリシャを撃とうとして、エリシャの住むドタンの町を完全包囲しました。愚かですよね。自分たちの行動は神に見抜かれているというのに、なおも対抗しようとするのですから……。

これが罪人の姿です。神に見抜かれていると知って、恥じいって悔い改めればよいのに、ますます心を頑(かたく)なにして神に敵対するのです。

どうか、神が私たちの罪を明らかになさった時、心を頑固にしないで、素直に悔い改める柔らかな心でいることができますように……。

スリヤ軍に完全包囲されたエリシャは、人の目には絶体絶命です。エリシャの従者の目にもそうでした。だから彼はこう叫びました。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(6・15)

人の目には絶体絶命としか見えない状況があります。そう見えるのは、私の肉眼がほんの少ししか見ていないからです。人の肉眼は、光の範囲の内のほんのわずかな領域を見ているだけです。

人の肉眼は赤色と紫色の間の光だけを捕らえています。その光を「可視光線」といいます。紫よりも外側の光が「紫外線」、赤よりも外側の光が「赤外線」です。この外側の範囲は、可視光線の領域よりもズーッと広い領域です。

その外側の光には、たとえば「X線」がありますが、それは肉眼では見えない領域の光です。でも、X線カメラのレンズでその光をキャッチすると、肉眼では見えない領域を映し出します。

今ではもっと広い範囲の光をキャッチできる装置が開発されて、肉眼で見ることのできなかった領域が広がっています。それでも、私たちの見ている範囲はほんのわずかです。ましてや、普段、肉眼で見ている範囲はいかに狭い領域でしょうか。

困難な現実を目の前にして、私たちは狼狽(うろた)えます。でも、主に祈って目を開いていただきましょう。

主よ、見えるようにしてください

エリシャは従者の目が開くように祈りました。すると、彼の目には開かれて、スリヤ軍を囲むようにして満ちている天の軍勢が見えました。天使たちの軍勢です。これが実際です。

私たちの肉眼が見ているのが実際ではありません。それはほんの一部分です。絶体絶命の困難を、神の大きな御手が取り囲んでいる世界が、実際の世界です。残念なことですが、私たちに肉眼は、この実際を見ることができません。

だから、「信仰」というメガネをかけます。肉眼を補正するためにガラス製のメガネをかけるように、私たちの心の目には「信仰」というメガネをかけなければなりません。

私たちの心の目は曇っています。悪魔の偽りの情報によって歪んでいます。だから、正しく見ることができていません。補正しなければなりません。何が偽りで、何が真実なのかを見ぬくために、信仰のメガネが必要です。

肉眼用のメガネの材質はガラスですが、信仰というメガネの材質は神の御言です。

私たちの肉眼が「死」を見る時、それは絶望に見えます。しかし、御言は何と言っていますか。「わたしは終わりの日に彼をよみがえらせる」です。その御言のメガネをかけて見れば、肉体の死は、一時的な眠りに見えます。彼は時が来れば起きあがるのです。

さあ、信仰のメガネをかけよう。私たちには、見えない世界を見通すメガネが必要です。信仰とは、まだ見ない現実を見抜くことです(ヘブル11・1)。信仰とは、目に見える世界が神の御言によって成り立っていることを見抜くことです(ヘブル11・3)

肉眼にどう見えるかは決定的な問題ではありません。世の人々の評価もあまり問題ではありません。神の御言が何と言っているかが、真実の世界です。神の御言を通して、本当の世界を見抜くべきです。

祈りましょう。「主よ、見えるようにしてください」。
 
You Tube 【一日一章】 朝マナ 列王記下 6章 【聖書通読】
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列王記下 5章

2025年04月23日 | 列王紀
列王紀下5・13 わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。

エリシャが活躍した時代に、スリヤ(アラム)の国にナアマンという将軍がいました。スリヤという国名は新改訳では「アラム」で、同じ国です。このナアマンはツァラト(らい病)を患っていました。 ※聖書で「らい病」と翻訳された病は、現代の「らい病」とは異なる病気である。新しい翻訳では「重い皮膚病」とか、原語のまま「ツァラアト」と表記。ここでは「ツァラト」と記す。

病に悩むナアマンのもとには、戦争の結果イスラエルから拉致(らち)されてきたひとりの少女が奴隷として仕えていました。彼女は、「故郷のサマリヤにいる預言者であれば、主人ナアマンをいやすことができるのに」と提案しました。

彼女にしてみれば、自分を拉致した憎むべき主人です。家族から引き離され、遠くダマスコにまでつれてこられ、異邦人に仕えなければならなくなったのですから、病気のナアマンを見て、「神さまの罰(ばち)があったのだ」と言いたくもなります。

しかし、彼女の反応は違いました。可哀想にと思ったのです。憎むべき相手に対してゆるしと愛で応えたところから、この恵みに満ちた物語は始まったのです。癒(いや)しのわざは、ゆるし、愛することから始まるのです。

さて、彼女の提案を受け、ナアマンはイスラエルに出かけて行き、預言者エリシャに面会を申し出たのですが……。
①直接に会うことなく使いの者をよこした。
②使者による伝言は「ヨルダン川に行って7回身を洗いなさい」。
応えはそれだけでした。

ナアマンは一国の将軍です。しかも、王の親書と贈り物を携えてきたのです。それなのに、直接会いもせず、使いの者をよこすとは何という無礼。そう思いますよね。ナアマンもそう思ったのです。彼は怒ってこう語っています。

何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラトを直してくれると思っていたのに。(5・11・新改訳)

私たちは往々にして、神の恵みを受けるには、たいそうなことをしなければならないと勘違いしています。癒しの奇跡が現れるためには、何か神秘的で謎めいた儀式があると思い込んでいます。

ナアマン将軍もそう思っていたようです。だから、預言者エリシャのやり方に肩すかしをくらったわけです。仰々(ぎょうぎょう)しく按手して祈るわけでもなく、ただ、ヨルダン川に行って7回身を洗いなさいと、神の御言を伝えただけでした。

あのローマの百卒長(百人隊長)が部下の癒しをイエスに願った時もそうでした。イエス様は直接会ったのではなく、「良くなりなさい」という御言を下さっただけでした。仰々しい儀式めいたことがあったわけではありません。

御言を信じて実行する信仰が必要なだけです。

しかし、ナアマンはそれを悟ることができず、怒ってダマスコに帰ろうとしました。何で、わざわざイスラエルまで来て、ヨルダン川のような貧相な川で身を洗うんだ。ばかにするのもいい加減しろよ、というわけです。

しかし、この時のナアマン将軍の部下がナイスフォロー。彼は主君に進言したのです。預言者が命じたことは簡単なことではありませんか。ヨルダン川で7回身を洗うだけじゃないですか……と。簡単なことですから、まずはやってみましょうよ。

そこで、ナアマンは思い直しました。思い直すって大事なことです。ムッとしないでハッとする」。れは恵みの扉を開く鍵です。

私たちはつい感情的になって、思い直すことができません。心を頑なにしてしまって、思い直すことができません。ある人は、自分のプライドにこだわっていて思い直すことができません。

思い直しましょう。主がそう言われるんだから、やってみようじゃないか……と。もう一度申し上げます。ムッとしないでハッとしよう」。

まさに、悔い改めるとは、このように思い直すことです。こんな幼稚なことをやってられるかというプライドを捨てて、思い直すことが悔い改めです。意固地になっている頑固な心を砕いて思い直すことが悔い改めです

ナアマンは悔い改めてヨルダン川に身を浸し、7回それをやりました。端から見れば滑稽な姿です。大の大人がヨルダン川で水浴びをしているのですから。でも、幼な子のように素直な心で御言に従うことを、神は喜ばれます。

私たちが毎週礼拝に集うなんて、端から見れば滑稽な姿です。見えない神に祈っている姿など、信じない人には愚かな姿です。でも、かまいません。神が祈れと言われるので、私たちは祈るのです。

ナアマン将軍は、将軍としてのプライドを捨てました。癒してもらうためにこんなにお土産を持ってきたのに……という思いも捨てました。必要なことはプライドでもなければ、お土産でもありません。

御言に従う謙遜が必要なだけです。

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。必要なことは神の御言を信じる信仰です。御言を聞いて素直に行う幼な子のような応答です。

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列王記下 4章

2025年04月22日 | 列王紀
列王紀下4・6 油が満ちたとき、彼女は子供にもっと器を持ってきなさいと言ったが、子供が器はもうありませんと言ったので、油はとまった。

預言者エリシャの活躍が続きます。当時、預言者はエリシャだけではなく、幾人も存在したようです。すでに見たように、王宮御用達(ごようたし)の預言者もいれば、権力になびかず単独で活動する預言者もいました。また、数人のグループで共に祈り合い、学び合っていた預言者集団もいました。エリシャはそのようなグループを導く預言者であったと思われます

さて、その仲間の預言者のひとりが負債を抱えたまま亡くなったため、残された妻子は借金の取り立てに苦しんでいました。そこで、彼女はエリシャに相談にやって来たのです。

エリシャは彼女に言った。何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい』。彼女は答えた。はしための家には何もありません。ただ、油のつぼひとつしかありません』。(4・2新改訳)

主は「あなたにあるものは何か」と問うておられます。他の人のものではなく、私の手元にあるもので良いのです。他の人の持ち物をうらやむ必要はありません。あなたの持っているものを、主は用い、増やそうとなさいます。

イエスの弟子たちも、「5つのパンと2匹の魚しかありませんが……」と差し出しました。それでよいのです。主にとっては、それで充分なのです。

預言者の妻は、「油のつぼひとつ〝しか〟ありません」と答えましたが、彼女にはひとつ〝しか〟であっても、主にあっては何の差しつかえもありません。主は、私たちの〝しか〟を用いられるのです。

さて、エリシャは、彼女の家に残っている油を器に注ぐようにと命じました。その際、できる限りたくさんの器を用意しなさいというのです。隣の人から借りてきてでも器を用意しなさいと……。

そして、器に油を注ぎ始めると、器いっぱいに油が満ちました。溢れそうになるので次の器に注ぎます。また次の器へと……。油はいくらでも注ぐことができました。器があればある分だけ注がれました。

彼女は子供に、もっと器を持ってきなさいと言うのですが、最後の器になると油は止まりました。しかし、用意した器の全部に油は満ちました。そして、その油を売って負債を返済し、残ったお金でその妻子は暮らすことができました。

なんだ、こういう事ならもっと器を用意しておけば良かったのに……。百円ショップにでも行って百個でも千個でも用意したのにと、欲張りな私は思ってしまいますが、そんなことを教えるための教訓ではありません。

彼女は器を精一杯用意したと思います。何個の器を用意したかは分かりませんが、それが彼女にとって最善の数の器であったはずです。それでいいのです。欲張って自分に釣り合わないほどの器を用意せよという意味ではありません。

私たちは〝器〟です。神は、その器に恵みを溢れんばかりに注ごうと用意なさっています。それは聖霊の油そそぎという恵みも含んでいます。

私の器が小さければ、神が注ぐことのできる恵みはその分だけです。つまり、私が用意した器の分だけを満たしてくださるのです。この困難は神でさえ解決できないと考えるなら……、つまりその程度の器を用意したなら、その程度の結果しか得られません。

小さな問題なら神にはできると信じて祈るのですが、大きな問題は、さすがの神にも無理だろうと考える人がいます。それは、その人の信仰の器がその程度の大きさなのです。小さな器には、小さな恵みしか入れることができません。

しかし、主は彼女に何と言われましたか。できる限りたくさんの器を用意しなさい、隣の人から借りてでも用意しなさいと言われたではありませんか。器を大きくしなさい。信仰の友の応援を受けてでも、信仰の器を大きくしなさい。

大きな器には、大きな恵みが注がれるのです。

風邪をいやしてくださった主は、癌もいやしてくださる……と信じる程の器を用意しようではありませんか。神にはできないことはない……と信じる器を用意しようではありませんか。

天から降る雨は誰にも同じ量だけ降っています。信仰のない人にも、信仰のある人にも同じ量の雨が注がれます。ある人は、茶碗を用意します。茶碗の分量の水を受け取ります。

しかし、ある人はバケツを用意します。ある人は風呂釜を用意します。さらに、ある人はプールを用意します。私たちが用意した器の分だけ水はたまります。神の恵みもそれと同じです。

イエス様は、あなたの信仰の通りになると言われました。小さく信じている人は小さい恵みを受けます。大きく信じている人は大きな恵みを受けます。あなたの信仰の器の大きさに合わせて恵みの雨を受け取ることができます。

大きな器を用意している人の話は、一見、大法螺(おおぼら)吹きに思われます。まだ後継ぎの子もいなかったアブラハムもそう見えたことでしょう。自分の子孫は天の星のようになるのだと宣言し、自分の名前をアブラハム(万国民の父)と改名したのですから。でも、そんな大きな器を用意したので、神はアブラハムから多くの子孫と国民を生み出されました。

ですから、私たちは栄光から栄光へとキリストに似た者へと変えられるのだと、〝大法螺〟を吹こうではありませんか。終わりの時に再臨される主は、私を復活の身体へと変えてくださるのだと、〝大法螺〟を吹こうではありませんか。
さあ、このように、大きな器を用意しよう。

と言っても、恵みを受けた後で、もっと大きい器を用意しておけば良かったと欲張らないことも大切です。預言者の妻は自分のできる限りの器を用意しました。その数がその時の彼女には最適な数でした。そして、返済の残りで充分に暮らせたのですから。

神はいつも〝丁度よくしてくださる〟のです。他の人の器の大きさをうらやんではいけません。また、器の小さい人のことを軽んじたり、さばいてはいけません。それぞれは、信仰に応じて、達し得たところに従って進むべきです。

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列王記下 3章

2025年04月21日 | 列王紀
列王紀下3・11 ヨシャパテは言った、「われわれが主に問うことのできる主の預言者はここにいませんか」。

北イスラエルの属国であったモアブが反旗を翻(ひるがえ)したため、イスラエルの王ヨラムはモアブ討伐のために兵を挙げました。

その際、南ユダの王ヨシャパテとエドムの王にも呼びかけ、連合軍を編成したのですが、思うように進軍できず、水のない荒野で立ち往生です。この時、イスラエルの王ヨラムは嘆(なげ)きました。

ああ、主は、この三人の王をモアブの手に渡そうとして召し集められたのだ。(3・10)

事がうまく行かなくなると、「あぁ最悪!」「これは神の呪いだ」と嘆いていませんか。悪いことがあるといつも否定的、悲観的に受け止めてしまう癖はありませんか。

それは心の癖(くせ)です。本来、神が私たちにお与えくださった心ではなく、悪魔によって歪(ゆが)められた心の癖なのです。

北イスラエルの王ヨラムは偶像礼拝に影響を受けている人です。偶像礼拝の影響を受けている人は、ヨラム王のように、何か悪いことがあると否定的・悲観的に受け止める癖があります。

なぜなら、偶像の神とは、自分に都合の良いことをしてくれる神だからです。偶像礼拝者は、いつも都合の良いことをしてもらうために神を拝んでいる人たちです。だから、悪いことが起きると、神に見離されたとか呪いだ等とネガティブに考えます。そこで、神のご機嫌をとろうと生贄(いけにえ)をささげるとか、神の怒りを和らげようと善行を積むなど、熱心になります。これが偶像礼拝者の特徴です。

クリスチャンでありながら、これとよく似た発想や反応があるなら、その人は真の神を信じながら、イエス様を偶像のように拝んでいる人です。偶像礼拝の感覚が染みついた人です。

私たちクリスチャンは、都合の良いことが起きるように願って、イエス様を礼拝しているわけではありません。良いことも悪いことも、すべては神の御手の中にあることを信頼する者です。

だから、良いことがあっても有頂天にならず、悪いことがあっても落ち込みません。イエス様との信頼関係を深めるために祈ります。そのような祈りは、辛い出来事の中にも、イエス様の深い恵みを見出すことになるのです。

このようなわけで、偶像礼拝に影響されたヨラムは悲惨な状況を嘆くしかありませんでした。

しかし、南ユダの王ヨシャパテはヨラムとは違いました。彼は主の目にかなう王であり(列王上22・43)悲惨な状況下でも、われわれが主に問うことのできる主の預言者はここにいませんかと主の御言を求めたのです。こうして与えられたのは「これは主の目には小さい事である」との御言でした(3・18)

視野の狭い人間には、状況は悪く見えます。目の前しか見えない人間には絶体絶命です。

神の御心を問うとは、その狭い視野を大きく広げることです。大きく広げて、神の愛の広さ、深さ、高さ、長さを知ることです。

また、神の御心を問うとは、近くしか見えなかった目を永遠の視点で見ることです。神の大きなご計画の中で、今の現実を受け止めるようになることです。こうして、私たちはやがて告白するのです。

「苦しみにあったことは私には良いことでした。それによって私は主のおきてを学ぶことができたからです」と。悲惨な現実が良いことだったと言えるほどに変えられます。

さあ、聖書はあなたに呼びかけています。ここに主の御心を問うことのできる者はいないのですかと。あなたこそ、問うことのできるクリスチャンではありませんか。

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受難週⑦ 土曜日

2025年04月19日 | 降誕節・復活節
ヨハネ19:42 その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。

受難週の土曜日……その日は安息日でした。

イエス様は金曜日に十字架で死なれ、その日の内に十字架から取りおろされました。その日は準備の日であったのでと記されていますが、安息日のための準備の日という意味です。

安息日は律法によって「何のわざもしてはらない」と定められているので、人々は安息日を迎えるために、金曜日中にやるべきことをして準備をしたわけです。だから、金曜日は「準備の日」です。

そんな慌ただしい金曜日にイエスは死なれたので、金曜日中に葬らなければなりませんでした。そのため、刑場の近くにある園の墓にイエスの遺体を葬ることにしましたヨハネ19:41)

そして、すぐに日没になって安息日を迎えました。当時の規定により、安息日には何もすることができません。イエスの弟子たちは、重苦しい時間が過ぎるのをひたすら待つしかありませんでした。

イエス様を守ることも弁護することもできなかった弟子たちは、悔いと恥じとで完全に落胆していました。十字架の後の土曜日は、何とつらく、暗く、長い一日だったでしょう。また、弟子たちは、次は自分たちが捕らえられ、殺されるのではないかという恐れで満たされていました。弟子たちの心のを表すかのように、自分たちの居る部屋の戸はかたく閉ざされていました。

実は、聖書には、十字架の翌日である土曜日の記述がありません。それは、まさに弟子たちの重苦しい状況を表しているかのようです。何もできない、何もする気がしない、無力で落胆しきった弟子たちを表すかのようです。

何もすることのできない一日があります。でも、それは復活の前日であることを忘れないでください。固く心を閉ざすような一日があります。しかし、それは復活の前日だったのです。

私は何もできなくても、神は着々と復活に向けて御業を進めておられます。それが、受難週の土曜日です。十字架と復活の出来事の間には、何もできない落胆の一日があるです。

さあ、明日は復活日です。復活の主にお会いしようではありませんか。主イエスは、復活のいのちを与えようと、準備して待っておられます。(Ω)

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受難週⑥ 金曜日

2025年04月18日 | 降誕節・復活節
マルコ15:34 そして三時に、イエスは大声で、エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニと叫ばれた。

受難週の金曜日は受難日と呼ばれています。この日に、主イエスは十字架で死なれました。

この日は、おりしも過越の祭の日でした。イスラエルでは、かつて出エジプトした時に小羊を屠(ほふ)ったことを記念して、過越の祭のたびに小羊を屠ることが定められていました。

しかし、今や〝本物の小羊〟が屠られる日となりました。神の御子イエス・キリストこそまことの小羊です。ユダヤ人たちは、罪のいけにえである本物の小羊であるキリストが死なれるまでの年月、動物の小羊を先祖伝来屠ってきたのです。

バプテスマのヨハネは、イエスについてこう証ししました。見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)イエスこそが、私たちの罪の身代わりである過越しの小羊だと証言したのです。

かつて、イスラエル民族は過越の事件によってエジプトから解放されました。同じように、イエスが過越の祭の日に神の小羊として殺されたことによって、人類は、罪の奴隷、悪魔の支配から解放されたのです。

イエス様が十字架で死なれたのが過越の祭の日であったのは偶然ではありません。過越の祭に込められた救いの計画が、この日に実現したのです。過越しの祭そのものがイエスの死を預言していたのです。 ※言葉による預言ではなく、儀式とか出来事といった型によって預言されているので、これを「予型」という。

さて、イエス様は金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時に叫ばれました。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかという意味です

十字架のイエスの姿はむごたらしく、屈辱的で、神の御子としての輝かしい姿は見る影もありません。御子イエスは本当に神から見捨てられる経験をなさったのです。

普段なら、イエス様は神に向かって「わが父」とお呼びになっていたのに、この時ばかりは「わが神」と呼ぶしかないほど、神を遠くに感じておられました。そして、まったく神から見捨てられる経験をなさいました。

父なる神も、イエスがご自分のひとり子だからという理由で身びいきなさることなく、完全にお捨てになりました。

ああ、何と罪に対する神の御怒りは大きいことでしょう。御子イエスが、これほどに十字架で苦しまなければならないほど、私たちの罪は大きく重いのです。

十字架のイエスは、あなたにとって他人事でしょうか。

いいえ、十字架のイエスの姿は私の姿です。あの十字架のはずかしめは、私の罪ゆえに受けるはずかしめです。神に見捨てられたあの叫びは、罪人の私が叫ぶべき絶叫です。

あのイエスの十字架の死は、私の死です。

そう認め信じる私は、あの十字架で自分が受けるべきはずかしめを〝イエスと共に〟受けてしまいました。自分が受けるべき呪いを〝イエスと共に〟受けてしまいました。私に対する神のさばきは、あの十字架で〝イエスと共に〟受けてしまったのです。

こうして私の罪に対する処罰は終わりました。だから、イエス様は十字架の最期に「完了した」と言って息を引き取られたのです(ヨハネ19:30)そうです。完了したのです。私に対するさばきは終わったのです。

イエスの十字架は、私の罪の処罰ではないという人は、仕方がありません。残念ですが、その人は、自分の罪の刑罰を〝自分で〟受けるしかありません。世の終わりのさばきの時、それを〝自分で〟受け、罪の結果を〝自分で〟受けることになります。

自分で引き受けますか。引き受けられないなら信じてください。あのイエス様の十字架で、私はすでに罪のさばきを受けてしまったのだと。

さて、冒頭のイエス様の叫びが、わざわざカタカナで記録されています。他の福音書も同様のあつかいです。ここに聖書記者の意図があります。ただ単に神から見捨てられた叫びで終わらないというメッセージが込められています。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、聖書に親しむ者であれば誰もが知る詩篇22篇の冒頭の句なのです詩篇の歌い手であるダビデは神から見捨てられたような経験をしました。その叫びです。しかし、そこから神にある勝利を高らかに歌い上げるのが詩篇22篇なのです。

イエス様の叫びは単なる絶望ではなく、見捨てられたかに思える苦難の向こう側に約束されてた勝利の宣言です。ダビデがそうであったように、主も、十字架上でこの詩篇22編が成就したのだと宣言なさったのです。しかし、十字架の苦しみの故に詩篇の最後まで歌い上げることができなかったのではないかと思います。

私たちは、どんな困難の中でも、神から見捨てられたと思える事態の中でも、その向こうにある勝利を先取りする詩篇22篇の叫びを忘れてはなりません。(Ω)

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受難週⑤ 木曜日

2025年04月17日 | 降誕節・復活節
マルコ14:24 イエスは言われた、「これは多くの人のために流すわたしの契約の血である」。

受難週の木曜日は、その夕刻に、主イエスが弟子たちと共に夕食の席を持たれた日にあたります。レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた最後の晩餐として有名な場面です。

実はこの晩餐の食事は「過越の祭の食事」のことです。この過越の祭は、かつてイスラエル民族が奴隷の地エジプトから脱出する前夜、小羊を殺して血を流し、その肉を食べたことに由来する祭です。

出エジプトの前夜、神は、エジプト中の長子(長男)のいのちを奪いました。死をもって下される神のさばきです。心を頑(かたく)なにするエジプト王パロとその民に神の御怒りが下ったのです。

しかし、イスラエルの人々は、小羊を殺し、その血を各自の家の玄関に塗ったのです。その血は、身代わりに小羊が殺されたという「しるし」となりました。それを目印にして、死は〝過ぎ越し〟て行きました。

こうして、エジプト中の長子は死んだのですが、イスラエルからは死者が出ませんでした。この災いにたまりかねたエジプトは、イスラエルを奴隷から解放し、出エジプトが実現したわけです。

このように、死のさばきが過ぎ越して行ったことを記念して「過越の祭」が代々祝われてきたのです。

この過越しの時に殺された小羊は、十字架で殺されるキリストの予表でした。しかし、人々の目にはそのことが閉ざされていたので、イエス様が小羊として殺されるべきキリストだとは分かりませんでした。

話はそれますが、少し説明をしておきます。過越の祭は金曜日なのに、過越の祭の夕食が木曜日の夜なのはどういう訳なのでしょうか。創世記の万物創造の記録で、一日のことを「夕があり朝となった。第一日である」とあるように、聖書的には一日は日没から始まります。ですから、木曜日の夕食はすでに金曜日です。つまり過越の祭の夕食です。夕食から一日が始まるわけです。

さて、キリスト教会では聖餐式でパンと杯をいただきますが、この起源となったのが、イエス様が弟子たちと共に食された「過越の食事」です。

昔ながらの過越の食事では、エジプトで殺された小羊を記念してパンを裂き、小羊の血を象徴するぶどう酒を飲みました。しかし、イエス様は食事の席で、ご自身の肉体と血を記念して食事をするように命じられました。

聖餐式で裂かれるパンはイエス様の肉体を象徴しています。パンを引き裂いて食べるようにして、主の御体は十字架で引き裂かれました。そして、真っ赤なぶどう酒は、イエスが十字架で流された血を象徴しています。

イエス様は、このぶどう酒の入った杯は、多くの人のために流すわたしの契約の血だと言われました。血は契約のしるしです。イエスが命をもって結んだ契約のしるしです。

普段、私たちは契約のしるしとして印鑑を捺しますが、印が赤いのは血の契約に由来しています。私たちの神は、私たちを救い出すために、朱肉ならずご自身の真っ赤な血で印を捺して、この救いの契約が確かなものであることを証しなさったのです。

ですから、この杯が表している血のしるしはいかに重要なことでしょうか。聖餐式を受けるたびに、これは契約なのだということを心に刻むのです。神が私たちと結んでくださった偉大な契約です。救いのための決定的な契約です。

この契約によって、神は私たちの罪を永遠にゆるしてくださいました。この契約によって、神は私たちを神の子どもにしてくださり、御国の相続人としてくださいました。

このような恵みの契約を与えてくださった主イエスの御名があがめられますように。(Ω)

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受難週④ 水曜日

2025年04月16日 | マタイ福音書
マルコ14:8 この女はわたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

受難週の水曜日、それはイエス様が十字架で死なれる2日前のことです。イエス様が弟子たちと共に居られるとき、ひとりの女性が、300デナリもするナルドの香油を惜しげもなくイエスに注ぎかけました。

1デナリが労働者1日分の賃金ですから、その香油は1年分の給料に相当する高価なものです。それを、一度に使い切ってしまうわけですから、周囲はあっけにとられました。

しかし、彼女のしたことは、福音が語られるところではいつでも記念として語られるとイエスは言われました(マルコ14:9)それほど彼女のしたことは重要なことだからです。

この意味が理解できない人は、「もったいない」とか「無駄づかいだ」と言うのです。そのような人は、神への礼拝の時間を惜しいと思う人です。礼拝の時間を売れば300デナリになるのに……と計算する人です。

300デナリの香油をイエスに注いだことが、福音と一緒に語られるべき理由は何だったのでしょうか。彼女のささげ物が高価であったからでしょうか。

いいえ、彼女はイエス様の葬りの用意をしたからです。

実は、この2日後の過越の祭でイエスが死なれることを、弟子たちは予想だにしていませんでした。死なれるのではなく、イエスは王としての権威をもってこのユダヤを統治し、ローマの圧制から独立を勝ち取ってくださるのだと信じていたようです。

そんな中で、彼女(マリヤ)はイエスが死を覚悟なさっていることを感じ取っていました。 ※ヨハネ福音書は香油を注いだ女性がマリヤだと記録。マリヤが、イエスの死の真意をどこまで理解していたかは定かでないが、香油の注ぎは実に的を射ていた。

実はこの時、イエス様は大祭司としての務めを果たさんとしておられました。イエスはそのために来られたのです。

イエス様は〝本物の大祭司〟として、全人類の罪のゆるしのための血をたずさえて、神の前に執り成すために来られたお方です。そうすることによって、全人類の罪をきよめるためです。

では、その罪のゆるしのための血はどうなさるのでしょうか。

旧約の大祭司は、いけにえの動物を屠って、その血をたずさえて神の御前に出て祈りました。しかし、羊や牛などの血は、人間の罪の代価を完全には支払うことができません。代用品です。

だから、イエス様はご自分の血をささげられました。イエス様はその血を流すために十字架で死なれたのです。罪のないイエスの血でなければ、全人類の罪の代価を完全に支払うことができません。

イエス様は、このような大祭司として、過越の祭の日にご自分をおささげになる覚悟でいらっしゃったのです。

さて、律法によるなら、大祭司はその務めの前に聖なる油を注いで聖別しなければなりませんでした(出エジプト40:13-15)

主イエスこそ、まことの大祭司として、香油を注がれ、全人類の罪のために犠牲の血をたずさえて天の聖所に入って行かれた聖なるお方です。マリヤはそのようなイエス様のために、大祭司の務めの準備として油を注いだことになります。

イエスはいよいよ大祭司としての大役をなさんとしておられました。こうして、救いの道を開いてくださった大祭司なるイエス様に感謝します。

さて、香油を注いだことで、麗しい香りが部屋に満ちました。マリヤの〝聖なる無駄づかい〟は麗しい香りとなったのです。人々には無駄づかいのようでも、神に対しては芳しい香りです。ですから、その後、イエスが十字架を担いで歩かれる道端にも、この芳しい香りは放たれたことでしょう。十字架上でのむごたらしい最期でも、この香りは人々に届けられたはずです。

私たちもイエス様と同じように十字架を担いで従う時、そんな麗しい香りを周囲にもたらすことになるのです。

私たちがキリストの十字架の故にゆるすこと」「愛すること」「ほどこしをすること」「礼拝すること」「伝道すること」「犠牲すること等々。これら信仰による行いは、未信者の人々には〝無駄づかい〟に見えるかも知れません。なぜそんなことをするのか、愚かなことだと指摘されるかも知れません。

しかし、そんな〝聖なる無駄づかい〟は主イエスにふさわしいことです。麗しい香りが広がる出来事です私たちもマリヤに続いて、この〝聖なる無駄づかい〟をささげようではありませんか。福音が語られるとき、そのような香りも共に伝わるようにと祈ります。(Ω)

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受難週③ 火曜日

2025年04月15日 | 降誕節・復活節
マルコ11:28 何の権威によってこれらのことをするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。

受難週の火曜日は、論争の火曜日と呼ばれています。律法学者たちが、イエスを殺す口実を得ようと論争をけしかけてきたことに由来します。マルコ11章20節から13章までが火曜日の出来事です。

さて、先に、神殿で売り買いをしていた商売人たちをイエス様が追い出されたわけですが、このことで、神殿のおもだった人々は文句をつけにやって来ました。

何の権威でこんなことをするのか」。

彼らはイエス様の権威を認めていませんでした。ナザレ出身の大工の息子のくせに……という苦々しい思いに満ちていました。人間的な権威を拠り頼んでいる人は、神の霊的な権威を認めたがりません。

文句をつけてきた祭司たちは、レビ族のしかもアロンの家系の人々です。彼らにとって、先祖代々守ってきた伝統こそが権威の拠り所でした。

また、律法学者たちにとっては、どの学派に属しているのか、どのラビ(先生)に師事したのかが権威の拠り所でした。しかし、そのような人間的な拠り所が、かえって神からの真の権威を見失わせます。

イエス様は、人としてはアロンの家系の出ではありませんでした。そのため、祭司たちから見れば「どこの馬の骨か分からない者」です。

しかし、イエス様こそ、天の父のふところから来られた神のひとり子です(ヨハネ1:18)

イエス様は有名なラビに師事したわけではありませんでした。そのため、律法学者から見れば無学で権威のない人物でした。しかし、イエスは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えられました(マタイ7:29)。イエスの語られる言葉は、いつも聖霊によって導かれた言葉でした。聖霊による言葉には権威があるのです。このことは、聞く側も聖霊によって聞かなければわかりません。

イエスを信じるとは、イエス様に神の権威を認めることです。イエスの言葉は単なる人の言葉ではなく、神の御言だと認めます。そう認めた人は、イエス様の御言を通して恵みを受けることができます。

「沖に出て網をおろしなさい」とイエス様に言われて、ペテロはすぐさまその言葉を素直に聞くことが出来ませんでした。なぜなら、大工の語る言葉として聞いたからです。ペテロにとって、漁の専門家だという自分の経験が権威だったからです。

しかし思い直して、イエスの御言に権威を認めて従いました。すると網が破れるほどの大漁でした。この出来事はペテロにとって、イエスの語る言葉が神の御言であると理解する転機となったことでしょう。

ですから、ガリラヤ湖上を歩かれるイエスに向かって、「主よ、私に来るように命じてください」と求めました。「湖の上を歩いて来なさい」というイエスの言葉があれば歩けるのだと信じたからです。

こうして、ペテロはイエス様の言葉が自然界をも従わせる権威ある神の御言だと信じたのです。事実、イエスが嵐に向かって「しずまれ」と命じられると、大波はおさまりました。悪霊に向かって「この人から出て行け」と命じられると、悪霊は出て行きました。

何故ですか。イエス様の御言には自然界も霊界をも従わせ得る権威があるからです。イエス様の御言には、このような真の権威があると認め従う人に、神の御言は力を表します。

その真の権威をお持ちであるイエス様が言われるのです。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされた」。何とすばらしい宣言でしょうか。イエス様には罪をゆるす権威があることを認める人に、罪のゆるしは現実となるのです。

このようにして始まった論争の火曜日ですが、火曜日だけに終わらず受難日に至るまで、訴えるべき欠点はないかと調査が続きます。それは丁度、過越しに屠られる小羊に欠陥はないか、入念に観察するかのようです。

律法によれば、小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。そしてこの月の十四日まで、これを守って置き……とあります(出エジ12:5-6)

これは犠牲となる小羊に問題があってはならないからです。民の身代わりになるのですから、完璧な小羊でなければなりません。そのために、取り分けてから5日間は病気や怪我はないかを観察したのです。

神の小羊であるイエス様に何の欠陥もないことを確認するかのように、ユダヤ当局の調査は続きます。最後にはユダヤの裁判でも、ローマの法廷でも、イエスの罪を発見できなかったのです。

結果的にはイエスは傷のない完璧な小羊であることが明らかにされたのです。このお方こそ、私たちのの身代わりとなるに相応しい完璧なお方です
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