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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの第三の手紙

2023年04月13日 | ヨハネ書
ヨハネの第三の手紙
真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。
(1・4)


私たちには様々な喜びがありますが、主にある兄弟姉妹が真理のうちに歩んでいることを聞くことは、何にもまさる喜びであり、また励ましです。

兄弟姉妹が困難な状況にありながらも、イエス様を信頼して歩んでいることは、私たちの喜びであり励ましです。当人としては目の前のことで精一杯で、だれかを喜ばせているとは思ってもいないでしょうが、信仰をもって生きる姿はだれかに喜びを与えることになるのです。

私も、ある兄弟が遠くの某教会で信仰を持ち続けていると聞くと、とても深い喜びを受けます。良かったなぁ~。イエス様につながっていてくれているんだ。ハレルヤ……と。

私たちは主にある仲間のために何ができるでしょうか。自分自身がイエス・キリストを信じてしっかりと歩みつづけること……、これは兄弟姉妹に対して私たちができる大切な愛の働きです。

ヨハネ第二の手紙でもそうでしたが、真理のうちを歩くことは愛する生き方を貫くことだと教えています。第三の手紙もその点で同じです。

手紙の著者であるヨハネは、真理のうちを歩む信徒のガイオから喜びを受けていました。そして励ましを受けていました。

といっても、ガイオは特別に目立って活躍する人のようではりません。むしろ、伝道者や働き人を助ける裏方の働きに徹していました。そのガイオについてこう記されています。

あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。彼らは、諸教会で、あなたの愛について証しをした。」(5~6)

ガイオは地道に働く人であり、他者に仕える人でした。そのことを見せびらかすような人ではなかったようです。しかし、その愛を受けた兄弟たちが証しをしてくれて、手紙の筆者である使徒ヨハネの知るところとなったわけです。

ガイオは特別に大きな働きをしているわけではありませんでした。それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。彼らは、御名のために旅立った者であってとあるように、巡回伝道者をもてなし、次の任地へと送り出していたようです(6~7)。 ※新改訳では「彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派なことです。彼らは御名のために出て行きました」と翻訳。

自分は巡回伝道者の器ではない。でも、自分にできることをして仕えよう。ガイオはそんな心で彼らを愛し仕えたのだと思います。

そして、こう勧めています。それだから、私たちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない(8)。この聖句は新改訳で私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのですと翻訳しています。

つまり、ガイオのような愛する者たちのことを、聖書は真理のための同労者と表現しています。何という光栄でしょう。逆に、愛さない者は同労者ではないということです。

愛すること。それが「真理のうちを歩くこと」なのです。真理のうちを歩くとは、聖書をよく知っているとか、難しい神学理論を知っていることとは別次元のことです。また、教会で目立った活躍をすることでもありません。愛することが、すなわち真理のうちを歩むことなのです。

勿論、聖書はよく学んでほしいです。教会の任務にも熱心であってほしいと願います。しかし、この「愛すること」を見失うなら、それは真理のうちを歩んでいることにはならないという視点は決して見逃してはなりません。

先の手紙で述べたようなグノーシス主義の人々は、神学的な知恵を求め、それが真理だと自負していました。しかしそれに対して、手紙の著者ヨハネは、愛することが真理なのだと教えています。

単純なことのようですが、神の愛を受け、神の愛を現し、神の愛のうちを歩むことが真理なのです。異端者が陥るような、論理をひねくり回した神学や哲学ではありません。

◆◆◆◆◆

さて、このガイオとは対照的な人物で、デオテレペスについて述べておきましょう。聖書は彼のことをこう記しています。

「みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちを受けいれてくれない。だから、私がそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなく私たちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。」(9~10)

彼は仕える人ではありませんでした。自分が主導権を握りたい人のようです。たとえば、世の権力者たちも〝かしらになりたがる〟人々です。だから政敵をののしり、やがて追い出して行きます。

とはいえ、デオテレペスはあからさまに悪口を言ったり、追い出すようなことをする人ではないと思います。そんな人は教会にはいません。でも、結果的にそうしていたのです。

回りくどい言い方で、うわさ話のようにして他者をののしったり、悪評を立てたりします。教会を良くしようという熱心さが、結果的に気にくわない信者や牧師を追い出すのです。

しかし、教会の真のリーダーは違います。愛して仕える人です。つまり真理のうちを歩む人です。そのような人を、周囲はおのずとリーダーとして認めて行きます。リーダーになろうとする人ではなく、他者からリーダーだと認められる人です。

両者の典型としてデオテレペスとガイオの名が聖書に記されています。あなたは〝デオテレペス型のクリスチャン〟ですか。ガイオ型クリスチャンですか。

さあ、今日も真理のうちを歩むことができるように祈りましょう。あのガイオのように地道な愛をあらわすことができますように。そして、真理の同労者となることができますように。


ヨハネの第二の手紙

2023年04月12日 | ヨハネ書
ヨハネの第二の手紙
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
(1・6)


ヨハネの手紙は、愛し合うことの大切さを強調しています。その理由は、神が私たちを愛してくださったからです。このことは、第一の手紙の中で次のように記されていました。

神がこのように私たちを愛してくださったのであるから、私たちも互いに愛し合うべきである。(Ⅰヨハネ4・11)

イエス様はたとえ話の中で、王から借りていた1万タラントの借金を免除してもらったのに、自分が100デナリ貸していた仲間をゆるしてやらなかった男の話をなさいました。

その時、王は、「私が哀れんでやったように、あの仲間を哀れんでやるべきではなかったのか」と言って怒りました。自分が神からどれほど哀れんでもらったかを忘れる者は、愛し合うことができません。

主イエスは「多くゆるされた者は多く愛します。しかし、少しゆるされた者は、少しだけ愛します」と言われました。これは、神が人をゆるすにあたり、多くゆるす人と少しだけゆるす人とがあるという意味ではありません。

神の愛は無制限の愛です。時間の制限も、人数制限も、罪の種類の制限もありません。すべての人に制限のない愛が注がれています。問題は、自分がどれほど多くゆるしてもらったのかを自覚しないことです。それを知れば知るほど、私たちはさらに多く愛し合うことができます。

さて、ヨハネの第二の手紙では、互いに愛し合うことが大切な理由として、次のように記しています。不思議な理由です。

なぜなら、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世に入って来たからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。(Ⅱヨハネ7)

この箇所は新改訳では、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が……」と訳しています。イエスが「人として来られた」とは「肉体をとって来られた」ことです。

もう一度整理しますよ。互いに愛し合わなければならない理由は、「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定する者たちが出てきたからだ」というのです。どうですか。答になっていますか。なんだかしっくりと来ませんね。

これには説明が必要です。イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定するとは、グノーシス主義者たちの主張です。これはプラトンらのギリシャ哲学から来ている思想で、物事の本質は目に見えない霊であると主張します。かたや、不完全で弱さのある肉体は悪であると主張しました。だから、肉体を卑しめて、霊的な知恵に目覚めるようにと教えました。 ※グノーシスとは「霊的知恵」の意味。

この思想は古今東西を問わず存在してきました。難行苦行で肉体を弱めることによって、霊的な感覚を研ぎすまそうとするのもその類です。肉体を卑しめることが霊的なことだと勘違いしているのです。

霊と肉体という理論からすれば、聖書の主張と似ています。使徒パウロも肉と霊について論じました。イエスご自身も「わたしのことばは霊であって、肉は役に立たない」と言われました。だから、グノーシス主義と似たところがあります。しかし、似ているから混乱させるのです。

そういうわけで、グノーシス主義に影響された人々は、霊なる神が、悪である肉体をとって来られるはずがないと主張しました。つまり、キリストが肉体をとって来られたことを否定し、人となって来られたことを認めないのです。霊こそ本質であり、肉体は卑しいとする思想がそうさせたのです。

しかし、肉体は卑しくありません。イエスは肉体をとって来られたからこそ、神の愛をあらわすことができました。その肉体の死によって悪魔のわざは滅ぼされ、私たちは救われました。

このように、神は、ご自身の聖なるご性質である愛をあらわすために、肉体を用いられました。その肉体を、人間である私たちも受けています。

何のために、霊的存在である人間に肉体が与えられたのでしょうか。天使は霊的存在ですが、肉体がありません。だから、眠らずに働きます。ご飯もお金も必要ありません。天と地を自由に往来します。

しかし、私たちは肉体を宿としているので、弱さを身にまとっています。肉体はその弱さゆえに誘惑を受けます。そして、罪のために肉体が用いられることもあります。

しかし、この肉体は、神の愛をあらわすための尊い器です。ローマ人への手紙6章12~13章で「あなた方の死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなた方の肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」とは、そのことです。

神はなぜ、私たちを「肉体をもつ霊的存在」として創造なさったのでしょうか。

(1)それは神の愛を受けとめるです。

水を入れるのに器が必要です。そのように、器がなかったら、神の愛を受け止められません。神の愛を注ぐ器のようにして、神は私たち人間に肉体をお与えになりました。

すべての人に雨が降り注ぎます。雨を受け止める器を用意すれば水を蓄えることができます。用意がなければ水は流れ出てしまいます。

神の愛も万人に注がれていますが、この肉体が神の愛を蓄える器です。

私たちは神の愛を受けるために存在しています。神の愛を蓄える器として存在しているのです。それなのに、その肉体を、悪の働きのために用いて良いはずがありません。

(2)それは神の愛をあらわすです。

私たちの心は目に見えませんが、肉体を通して表現されます。喜びも悲しみも、顔の表情や体のしぐさを通して表されます。肉体は、見えない心の中身を表現する器です。

同じように、神の愛は、この肉体という器を通して表現されます。神の愛を表すために、この肉体が与えられています。神の愛を実行するために、この肉体があるのです。

ですから、決して肉体は卑しいものではありません。グノーシス主義者の主張は間違っています。

肉体は弱さをもっていますが、だからこそ愛が必要です。私も隣人も同じ弱さをもっています。弱さを指摘したり責め合うのではなく、互いに愛し合うために私たちは弱さを持っています。

互いに愛し合うことは、肉体を与えられた人間にとっていかに重要な使命でしょうか。

祈りましょう。この弱さのある肉体を、悪のために用いる器としてでなく、神の愛を受け止め、現す器としてください。


ヨハネの第一の手紙 5章

2023年04月11日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 5章
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
(5・5)


聖書では「世」を、悪魔によって支配された世界、罪と死の世界として表現しています。闇の世と表現されることもあります。5章19節では全世界は悪しき者の配下にあると記されているとおりです。

では、その世に打ち勝つとはどういう意味なのでしょうか。世を敵対関係と見なして、世と隔離して自らをきよく保とうとすることではありません。そのように教える宗教がありますが、それは世に対する間違った態度です。

神はクリスチャンを聖別なさいます。聖別とは神に属する者として区別することです。神はクリスチャンを世と区別(聖別)なさるのであって、隔離するのではありません。

神は、私たちを、神のものとして聖別したうえで、世に遣わされました。私たちは世と隔離されてはいませんが、世の者ではありません。天に属する者です。天に属する者が、地に遣わされています。

大胆に申し上げます。私たちは天国から派遣された宣教師です。あるいは、天国から派遣された大使とも言えます。とすれば、さながら教会は天国の大使館です。これが私たちのアイデンティティー(ID)です。この「私は何者なのか」というIDが確立できていないクリスチャンは、世に負けてしまいます。

「世に負ける」とは、出世できないとか、裕福になれないとか、世的に成功できないとか、いま流行りの勝ち組と負け組の話ではありません。

クリスチャンとしての塩味を失い、クリスチャンとしての光を失うことが、すなわち世に負けることです。それは、世の習慣や世の価値観に染まってしまうことです。私たちの役目は天国の塩味を世にもたらすことです。神の光を闇の世に輝かせることです。

悪しき者の支配下にあるこの世は、終末に向かって罪と悪を加速させるでしょう。偽りは大手をふって闊歩し、互いに裏切り、憎しみ合うようになり、愛は冷えるでしょう。

このような世に勝つ者はだれですか。イエスを神の子と信じるクリスチャンです。

これからの時代は、ますます世を照らすまことの光が求められ、地の塩としての役目が求められる時代です。そのために、神は、クリスチャンを聖別し、この世に派遣なさったのです。

悪しき者の支配下にあるこの世に勝つのは、この世で生まれた者ではなく、神から生まれた者です。クリスチャンとは、イエスを神の子と信じて神から生まれた者です。この世で生まれた者ではありません。だから、ヨハネは私たちが〝神から生まれた〟ことを強調しています。

すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者であるのです(5・1)。同じ著者ヨハネが記した福音書でも、水と霊によって〝新しく生まれた者〟が神の御国に入ると記しています。

つまり、世から生まれた者には、世に勝つ力がないのです。この世で生まれた知識も、この世で生まれた科学も文明も、この世で生まれた政治も理念も、そしてこの世で生まれた人間も、この世に勝つことができません。遅かれ早かれ、世と共に堕落し滅びます。肉から生まれたものは肉なのです。肉のいのちでは世に打ち勝つことができません。

イエスを神の子と信じて神から生まれた者だけが世に勝つのです。神からのいのちだけが、世にいのちをもたらします。神からの光だけが、世を照らすことができます。

私たちには神からのいのちが〝すでに〟あります。ですから、私たちの中には〝すでに〟世に勝つ力がそなわっています。罪の中を歩みません。神を愛し兄弟を愛する性質がそなわっています。何故なら、イエスをキリストと信じる者は、「神から生まれた者」なので、神の性質(愛とか聖さ)を受け継いでいるからです。

さて、ヨハネの手紙の最後は、偶像を避けなさいという命令で終わっています(5・21)

世に打ち勝つ力は、いつも神から来ます。だからこそ、いつも神との真実な交わりが命綱です。この真実な交わりを破壊するものが偶像礼拝です。だから偶像を警戒しなければなりません。

神ならぬものを神とすることが偶像礼拝です。世の何者をも神としてはなりません。どんなに信頼できそうであっても、それは偽りの神です。そのようなものを神とするなら、神との真実な交わりは力を失います。だから、最後に「偶像を警戒しなさい」と結んでいるのです。神との真実な交わりの中で、今日も、世に勝つ力を供給していただけるように祈ります。


ヨハネの第一の手紙 4章

2023年04月10日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 4章
神を見た者はまだひとりもいない。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にいまし、神の愛が私たちの内に全うされるのである。
(4・12)


著者ヨハネは、神との親しい交わりを日々体験していました。そのヨハネがこの手紙で伝えたいテーマは「神との親しい交わりへの招待」であることは既に述べてきました。その交わりとは、神の御言を通して、神を見て、神にふれる体験です(1・1)

2千年前のヨハネは、イエス様を直接見てふれたからそう言えるのであって、21世紀の私には縁遠いことだと考える人もいます。そうではありません。神との親しい交わりは、現代でも、〝神の御言に従うなら〟体験できるのです。

その御言とは神が私たちを愛して下さったのであるから、私たちも互に愛し合うべきであるという命令です(4・11)

その他にも、「愛さない者は、神を知らないのだ」「神から生まれた者は愛するのだ」「神を愛するなら、兄弟も愛するのだ」と、第4章では、愛することについて何度も言及しています。

今日の冒頭の聖句も、「互いに愛し合うなら……」と述べています。互いに愛し合うなら、どうなるのでしょうか。

(1) 神が共におられることを体験する。

「互いに愛し合うなら、神は私たちの内におられる」と御言は告げています。神は霊的な存在ですから、見たり触れたりできません。でも、私たちが互いに愛し合うなら、神もそこに居られて、私たちの交わりの中でふれ合ってくださるのです。

私たちが兄弟を愛して語るとき、その交わりの中で神が語ってくださっています。愛の配慮ある会話や交わりがあるとき、その関わりを通して、神は私たちにふれてくださり、心をいやしてくださいます。

逆に、私たちの交わりに、憎しみや悪口やうわさ話が飛び交うなら、神が共に居ることができません。だから神との交わりを体験できません。

神を体験したいですか。ならば、互いに愛し合うことです。神の語りかけを聞きたいですか。ならば、愛をもって互いに語らうことです。愛をもって接するとき、神は私たちの手を通して触れてくださいます。このように、私たちの愛による聖なる交わりの中に、神が共におられることを心得るべきです。

(2) 神の愛がまっとうされる。

私たちが互いに愛し合うなら、神の愛が全うされます。つまり、神の愛が完成するのだというのです。

何と神は、ご自分の聖なるご性質であるの完成を、欠点の多い私たちにお任せになりました。私のような者に任せておくなら、愛が全うされるのはずっと先のようにさえ思います。

それなのに神は、「神の愛を完成し、神の愛を世に現す」という大役を、私たち人間に任せてくださいました。そして、そのために互いに愛し合いなさいと言われるのです。

私は自分の愛が不完全であることをよく知っています。自己中心で、卑怯で、愛することから遠い存在であることを知っています。その不完全さは、肉体という弱さを身にまとっているからです。

でも、考えようによっては、この弱さがあるからこそ愛が必要なのです。また同じように、この弱さが相手にもあるからこそ愛が必要なのです。

私たちを通して愛が完成するために、神はあえて、人間に肉体という弱さをお与えになったのではないかと私は思っています。この弱さは、神の愛をあらわす最適な場所なのです。

イエスご自身も、愛をあらわすために肉体という弱さをまとって世に来られました。肉体がなかったら、愛をあらわすことはできませんでした。肉体がなかったら、十字架で死ぬほどの愛をあらわすことができなかったのですから……。

私たちも肉体を宿としているかぎり、弱さの中にありますが、それは神の愛があらわされるための最適な環境です。

自分の愛を見ても、他者の愛を見てもみな不完全です。その不完全さゆえに、「あの人は愛がない」とか「教会には愛がない」と責めるのは愛の律法主義です。

不完全さは、互いの愛を分かち合うチャンスです。私たちが互いに愛し合うために、私たちはあえて不完全なのです。互いに愛し合うことによって、つまり、不完全なそれぞれの愛を出し合うことによって、神の愛は完成するようになっています。

足りない愛でしょうが、互いに足りない愛を出し合いましょう。そのような交わりの中に神が共におられて、神との親しい交わりが実現します。

◆◆◆◆◆◆

さて、先ほどイエス・キリストが肉体をとって世に来られたのは、愛を現すためであったと述べました。霊的存在である天使からすれば、肉体を担った人間は弱い存在です。劣った存在です。でも、その弱い肉体であるからこそ、愛を表現できるという最高の特権を受けています。

実は、4章1節から6節はこのことと深く関連しているのです。ここでは反キリストの働きについて取り上げています。前後関係からすれば唐突な文脈展開です。でもつながっています。

ヨハネが指摘している反キリストの働きは、グノーシス主義に基づく異端です。霊的な知恵こそが究極の真理であって、肉体は邪悪な存在であると教えました。霊にこそ価値があり、肉体を不浄とします。

肉体を否定的に受けとめるので禁欲的であり、霊的な知性や知恵を追及する方向に向かいます。難しげな哲学的な霊知が云々と展開するわけです。 ※このような教えは昔も今も、手を変え品を変え登場している。スピリチュアル・セミナーとか瞑想の世界とか、難行苦行とか。いかにも賢く深いようだが危険な思想である。

ですから、グノーシス主義の異端者は、そんな卑しい肉体をになってキリストが来るはずがないと説きました。でも、違います。イエスは肉体をとって来られました。卑しい肉体ですが、その肉体の弱さがあるからこそ、神の崇高な愛を現すことができました。すると、次の聖句の意味が理解できます。

あなた方は、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。(4・2~3)

私たちはイエスが人となって来られたことを告白します。神の聖霊によってそれを確信できます。異端者は肉体を蔑視します。卑しいものとして軽んじますが、私たちはそうは考えません。この肉体は神の愛を表現するための〝恵みの器〟です。

異端者は肉体は卑しいと言うけれど、私たちはこの肉体を使って愛を現し、互いに愛し合うのです。その交わりの中に神も共に居られ、神の愛がまっとうされるのです。

霊的といいながら愛を否定するなら、それはちっとも霊的ではありません。愛することこそ霊的なことです。霊的といいながら肉体を卑しめるだけで、愛を現すために肉体を用いないなら、それは聖霊の働きではありません。反キリストの霊の働きです。

肉体を神の愛を現す器として用いることこそ、聖霊による生き方です。悪霊に騙されてはいけません。霊的で知的な事だからといって、愛を否定する異端に騙されてはいけません。

聖霊によって肉体を活かすのです。肉体を姦淫のために用いてはいけません。神の愛を現すためにこの肉体を用いるのです。肉体を罪の道具として差し出してはいけません。神の栄光を現すために捧げるのです。それこそ神の喜ばれる霊的な礼拝です。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/2mbgEz16SS3RwjWTpQLWfc?si=z4PQyqd9R6S3qxqaEDQZNw
You Tubehttps://youtu.be/OEBWJAI2dUU

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ヨハネの第一の手紙 3章

2023年04月01日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 3章
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
(3・2)


神との親しい交わりは、光の中を歩む→罪を言いあらわす→神の命令を守る→兄弟を愛する→神との親しい交わり……と、つながることを見ました。

この愛に溢れた交わりは、私たち神の子どもの特長です。3章1節でも、私たちが神の子どもとなるために、いかにすばらしい愛を天の父から受けたことだろうと賛美しています。

イエスを信じた私たちが、神の子どもであることはとても重要なテーマです。神の子であるから、神のいのちが備わっています。神のいのちがあるので、神の子どもたちは罪を犯しません。

聖書は大胆に宣言します。すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない(3・9)

この御言を聞いてどう思いますか。自分は今でも罪を犯すから、神の子どもではないのだ……とがっかりする人がいます。

でも、今日の冒頭の聖句は、私たちは今や神の子であると宣言しています(3・2)。さらに読み進めると、イエスをキリストと信じる者は、神から生まれたのだとも告げています(5・1)

3章9節の聖句は、新改訳(第2版)で読むと分かりやすいと思います。原語を意訳しているのですが適確な訳です。だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

口語訳や新共同訳では、「罪を犯さない」と訳されていますが、新改訳では「罪のうちを歩まない」と訳しています。「罪のうちを歩まない」とは、〝点〟として罪を犯すことはあっても〝線〟として罪を犯すことはできないという意味です。 ※新改訳でも第3版では「罪を犯さない」と翻訳。

神の子どもは、罪を犯したならそれを放置することができません。内なる霊が苦しむからです。つまり、永遠のいのちを持っているので、そのいのちが反応するのです※。そこで、罪を告白してきよめられたいと願います。罪を告白して、神との親しい交わりに戻ろうとします。これが神の子の性質です。 ※肉体のいのちは傷つけられると「痛い」と反応するように、永遠のいのちも、罪を犯すと「苦しい」と反応する。

もし、罪を犯しても平気でいられるなら……つまり、罪のうちを歩むことができるのであれば、それは神から生まれた者ではありません。永遠のいのちを受けた者ではありません。

どうか、これを律法的に受け取らないでください。「罪を犯してはいけない」と命令しているのではありません。神の子として生まれたので、罪を犯すことができない」「罪を放置することができないと宣言しているのです。

私たちは、イエスを信じて神の子として生まれました。「新しく生まれた」とは、新しいいのちを受けたわけです。それは、神の子としてのいのちであり、永遠のいのちです。そのいのちは、〝罪を犯すことのできない性質のいのち〟です。

猫は猫のいのちを受けています。だから、猫のような姿をして、猫のように生きるのです。桜の木も桜のいのちを受けています。だから、桜のような枝振りとなり、桜の花を咲かせます。

それと同じように、私たちは神の子のいのちを受けているのです。それは〝罪のうちを歩まない〟という性質を持ついのちです。また、それは〝愛する〟という性質を持ついのちです。あなたは神の子として生まれたのですから、そのようなすばらしい永遠のいのちを宿しているのです。

神の種が、その人のうちにとどまっているからであるとはそういう意味です(3・9)

聖書はそう言うけど現実はね……という声も聞こえてきそうです。でも、すでに神の種が私たちの内にとどまっています。

よく手品で「種もしかけもありません」なんて言いますが、私たちが神の子として生きるためには、ちゃんと〝種〟があるのです。魔法やまぐれではないのです。もちろん、現状は神の子と呼ぶにはお恥ずかしいところですが、私たちがキリストに似た者になるように〝種〟がすでに入っています。それが、神の子としてのいのちです。

さらに、冒頭の聖句は次のように説明しています。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。

罪人がキリストに似た者になるように、神は神の子のいのちという種を植え付けてくださいました。神はすでに与えてくださっています。

つまり、罪のうちを歩まない性質を、すでに私は受け取っているのです。兄弟を愛する性質を、すでに私は受け取っています。神の種がすでにとどまっています。だから、やってみましょう。

自信のない子に、「あなたのパパが学生の時、すごく良く勉強できたんだよ。そんなパパの子だもの。大丈夫。きっとできるよ」なんて励ましますよね。それ以上に、私たちの〝パパ〟は天の神です。そんなお父さんの子どもだもの、きっとできますとも。お父さんのいのちを受けているんですから。

そういうわけですから、罪を犯さない生き方をやってみましょう。兄弟を愛してみましょう。「そうしなさい」という律法でやるのではありません。「そうできる」といういのちを宿しているのですから、 表してみましょうよというわけです。

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ヨハネの第一の手紙 2章

2023年03月31日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 2章
キリストの内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに、確信を持ち、その来臨に際して、御前に恥じ入ることがないためである。
(2・28)


ヨハネ第一の手紙は、神との親しい交わりへの招待状だということを確認しました。そして、神との交わりのためには、自分の罪を言いあらわすことが大切でした。

告白することは、私の心のとびらを神に向かって開くことです。すると、開いたとびらから神の光が差し込んできます。そのことを、旧約の預言者マラキは次のように告げています。「わが名を恐れるあなた方には、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなた方は牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」(マラキ4・2)

神の光は、義の太陽のように私たちを照らします。その光にはいやす力があり、いやされた者たちは元気をいただくのです。この「義の太陽」で照らしていただくために、私の罪を告白して明るみに出します。義の太陽で癒され清められるわけです。罪の告白を後ろめたいことだと思わないでください。神との交わりへのとびらなのです。

ですから、恐れないで正直に神の御前に申し上げます。すると、有能な弁護士であるキリストは、私たちを執り成して弁護してくださいます。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」のです(Ⅰヨハネ2・1)

このように1章から2章へとつながります。そして、第2章からは、神との親しい交わりのためには神の命令を守ることが大切だと記しています。

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります(2・3 新改訳)。神との親しい交わりがある者は、神の命令(口語訳では「戒め」)を守るはずだというのです。

では、その神の命令とは何ですか。それは、兄弟を愛することだと告げています。その「兄弟」とは、イエスを信じたクリスチャンたちのことであり、広い意味では未信者も含めた隣人のことです。

聖書は続けて次のように記しています。

「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(2・9)

以上のことはみなつながっています。
 「神との親しい交わり」から始まって、
 「光の中を歩む」……そのために、
 「罪を言いあらわす」……そのような人は、
 「神の命令を守る」……それは、
 「兄弟を愛する」ことだ。……そのような人は、
 「神との親しい交わり」をもっている。
……とぐるりとつながります。

どこかでこのつながりを切ってしまうと、神との親しい交わりが弱くなります。たとえば、兄弟を憎み続けるとか、自分の罪を認めないで心をかたくなにしていると、神との交わりは薄れて、霊的ないのちが弱くなります。

さて、今日の聖句は「キリストの内にとどまっていなさい」と命じています。言い換えれば「つながっていなさい」です。先ほどの「神との親しい交わり」のつながりは、キリストにつながっていることです。キリストにとどまることで完成します。

第2章は〝とどまる〟という語句がくり返されています。はじめから聞いたことば救いの御言にとどまりなさい(24)。それは御子と御父のうちにとどまることだ(24)と教えています。

また、あなた方の内には、キリストからいただいた油がとどまっているのだと悟らせ(27)、聖霊である油が教えることはキリストにとどまることになるのだと続きます(27 新改訳)

最後に念を押すように子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさいと命じています(28)。今日の冒頭の聖句です。

手紙の著者であるヨハネは、福音書の中でもキリストがぶどうの木であり私たちは枝としてとどまっていなさいと記録しました。御言にとどまれ」「キリストの愛にとどまれ……と。

これは信仰の基本です。何でも基本が大事です。基本を忘れると、いつの間にか自分流になってしまいます。失敗するのは、基本を忘れて自分流の信仰になっているからです。基本はキリストの内にとどまることです。すると、主の来臨に際して、恥じ入ることがないと言うのです(2・28)

ところが、主が再臨なさったとき恥ずかしくないようにしたくて、つい、肉の力で頑張ってしまうのです。すると疲れてきます。

肉の力でやっていると、律法的とか宗教的なものになります。「キリスト教」という名の宗教が規定する儀式に参加したり、戒律を守ることが信仰だと思い込むのです。私たはキリスト教という宗教を信じているのではなく、キリストを信じています。それは、キリストの内にとどまることなのです。

キリストの中で、換言すれば、私の内におられる聖霊によって、私の内に湧いてくる愛で生きるのです。主が私を愛してくださったのですから、私も主を愛するのです。信仰とは神への愛です。

自分の頑張りを少し脇に置いてみてください。肩の力を抜いて、温泉にでもつかるように、キリストの愛の中にとどまることです。キリストの安息の中にドップリつかっているうちに湧き出る力があります。それを体験してみましょう。

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ヨハネの第一の手紙 1章

2023年03月30日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 1章
私たちが罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、全ての不義から私たちをきよめてくださる。
(1・9)


著者ヨハネは、イエス様をこの目で見て、手でさわりました。それは、単なる人との交わりではなく、神との交わりでした。そんなヨハネの体験をうらやましく思う人もいるでしょう。

でも、2千年前にタイムスリップしなくても、2千年後の今でも、見て、ふれることができる交わりなのです。この交わりに、あなたも加わって欲しいのだとヨハネは記しました。

私たちが見たもの、聞いたものを、あなた方にも告げ知らせる。それは、あなた方も、私たちの交わりにあずかるようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(1・3)

よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について(1・1)とあるように、神の御言をとおして、見えない神を見て、見えない神をさわることができるのだと述べているわけです。

神は遠い存在だと勘違いしていませんか。熱心な信者や牧師なら、神も交わりの手を差し伸べても、私なんかとは……と思っていませんか。

そうではありません。神は、ご自身との親しい交わりにの中に入ってくるようにと、イエスを信じるすべての人々を招いておられます。この交わりがあるところに喜びが満ち溢れます(1・4)

さて、神との交わりは、光の中を歩むようなものです。だから、もし神との交わりがあるといいながら、闇の中を歩いているならそれは偽りです(1・6)

光はものごとを明らかにします。たとえば、きれいに磨いたつもりのガラス窓も、太陽の強い日差しに照らされると、落としきれていない汚れが見えてくるように、神の光で照らされると、私の罪を隠すことができません。

つまり、神との交わりにおいて隠しごとはできません。同様に、夫婦や友人関係でも同じです。隠しごとがあると、真実な交わりができなくて、ぎこちなくなりますよね。

神との交わりにおいて、隠しごとが減った分、その交わりは深まります。だから、神は、私たちを光の中へと導かれます。そして、神の光で照らしてくださって、私の罪を知らせてくださいます。

罪は霊的な闇を生み出します。隠しごとという闇です。だから、罪を犯して気分の良い人はいません。そして、それは痛みや苦しみを伴います。

しかし、罪によって心が痛むのは、人間にだけ与えられた〝霊的本能〟です。それは、神が私たちに与えた恵みです。肉体的本能の場合、体が傷つけば痛みを感じます。痛いから治療をしていのちを保ちます。それと同じで、罪を犯したら人の霊魂は痛みます。痛みを感じるので、その心の傷をいやして、神との霊的な交わりを回復しようとします。これは、人にそなわった霊的な能力であり恵みなのです。

ですから、罪に苦しむ人は幸いです。その人は神との豊かな交わりを求めるからです。ところが、イエスを知らない人は、罪の結果、暗闇の中を歩みます。すると、神との交わりが途絶えて、霊的ないのちを失います。これが霊的な死です。肉体の死よりも恐ろしい死です。

しかし、神は、イエスの血によって罪をきよめてくださいます。私たちのすることは何でしょうか。冒頭の聖句が語っているとおりです。イエスの血を信頼して、自分の罪を神に申し上げることです(1・9)

では、なぜ告白することが必要なのでしょうか。全知全能の神は、私の心の中もご存知なのだから、わざわざ罪を言いあらわさなくても、心の中で謝ればいいじゃないですか。

告白の法則を知ってください。心にあることを口に出して告白することは、人生の方向性を決定する舵のようです。告白する「舌」は、船でいえば舵、車でいえばハンドルです。

愛しているのに告白しなかったら、その愛は実現しません。欲しいのに、「ください」と言わなければ手に入りません。悲しいのに、悲しみを表現しないでいると病気になります。怒っているのに、それを表現しないで押し殺していると人格がゆがみます。

心にあることを言いあらわすことで、私たちの心が明るみに照らされます。つまり、心にある罪の痛みを神に申し上げるのです。その痛みの原因は私のこの罪ですと具体的に告白します。こうして、罪を告白する舌は車のハンドルのように、神との親しい交わりの方向へと向きを変えることになります。それは神の光で照らされた道です。

今日も、神との親しい交わりの中へ、光の中へとハンドルを切ることにしましょう。

また、こうも表現できます。

罪を告白することは、暗い部屋のとびらを開けて光を取り込むようなものです。「これが私の罪です。これが私の闇の部分です」と言い表すことによって、神の光は私たちの内側を照らし始めます。

告白することが大切なのは、告白によって、心のとびらを開くことになるからです。とびらを開かなければ光が入りません。神の光が入りさえすれば、闇は消えてしまいます。罪はきよめられます。罪の痛みはいやされます。

このように〝神に向かって〟告白することは恵みです。なぜなら神は真実で正しい方であるからです。〝人に向かって〟ではありません。人は真実ではない場合があるからです。

はからずも、私は牧師という立場ゆえに人の罪の告白を聞くことがあります。そのとき私は襟を正すのです。人間である私が聞いているのではない。私を任命なさったイエス・キリストが聞いてくださっているのだと。だから、主がそうであるように真実をもって受けとめよう……と。ですから他言しません。キリストの光のもとでゆるしを宣言します。

そうするのは、神は真実で正しいお方だからです。逆に不真実な人であれば、それを言いふらしたり、弱みを握ったことで私を苦しめることでしょう。ましてや、その相手が悪魔なら……と、想像するとゾッとします。

神は決してそのようなことをなさいません。真実で正しい方ですから、私たちの罪をゆるし、おおい、癒してくださるのです。そんなイエス・キリストとの交わりに、私たちは招かれています。ヨハネの手紙はそんな交わりへの招待状です。

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