ヨハネの第三の手紙
真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。(1・4)
私たちには様々な喜びがありますが、主にある兄弟姉妹が真理のうちに歩んでいることを聞くことは、何にもまさる喜びであり、また励ましです。
兄弟姉妹が困難な状況にありながらも、イエス様を信頼して歩んでいることは、私たちの喜びであり励ましです。当人としては目の前のことで精一杯で、だれかを喜ばせているとは思ってもいないでしょうが、信仰をもって生きる姿はだれかに喜びを与えることになるのです。
私も、ある兄弟が遠くの某教会で信仰を持ち続けていると聞くと、とても深い喜びを受けます。良かったなぁ~。イエス様につながっていてくれているんだ。ハレルヤ……と。
私たちは主にある仲間のために何ができるでしょうか。自分自身がイエス・キリストを信じてしっかりと歩みつづけること……、これは兄弟姉妹に対して私たちができる大切な愛の働きです。
ヨハネ第二の手紙でもそうでしたが、真理のうちを歩くことは愛する生き方を貫くことだと教えています。第三の手紙もその点で同じです。
手紙の著者であるヨハネは、真理のうちを歩む信徒のガイオから喜びを受けていました。そして励ましを受けていました。
といっても、ガイオは特別に目立って活躍する人のようではりません。むしろ、伝道者や働き人を助ける裏方の働きに徹していました。そのガイオについてこう記されています。
「あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。彼らは、諸教会で、あなたの愛について証しをした。」(5~6)
ガイオは地道に働く人であり、他者に仕える人でした。そのことを見せびらかすような人ではなかったようです。しかし、その愛を受けた兄弟たちが証しをしてくれて、手紙の筆者である使徒ヨハネの知るところとなったわけです。
ガイオは特別に大きな働きをしているわけではありませんでした。「それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。彼らは、御名のために旅立った者であって」とあるように、巡回伝道者をもてなし、次の任地へと送り出していたようです(6~7)。 ※新改訳では「彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派なことです。彼らは御名のために出て行きました」と翻訳。
自分は巡回伝道者の器ではない。でも、自分にできることをして仕えよう。ガイオはそんな心で彼らを愛し仕えたのだと思います。
そして、こう勧めています。「それだから、私たちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない」(8)。この聖句は新改訳で「私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです」と翻訳しています。
つまり、ガイオのような「愛する者たち」のことを、聖書は「真理のための同労者」と表現しています。何という光栄でしょう。逆に、愛さない者は同労者ではないということです。
愛すること。それが「真理のうちを歩くこと」なのです。真理のうちを歩くとは、聖書をよく知っているとか、難しい神学理論を知っていることとは別次元のことです。また、教会で目立った活躍をすることでもありません。愛することが、すなわち真理のうちを歩むことなのです。
勿論、聖書はよく学んでほしいです。教会の任務にも熱心であってほしいと願います。しかし、この「愛すること」を見失うなら、それは真理のうちを歩んでいることにはならないという視点は決して見逃してはなりません。
先の手紙で述べたようなグノーシス主義の人々は、神学的な知恵を求め、それが真理だと自負していました。しかしそれに対して、手紙の著者ヨハネは、愛することが真理なのだと教えています。
単純なことのようですが、神の愛を受け、神の愛を現し、神の愛のうちを歩むことが真理なのです。異端者が陥るような、論理をひねくり回した神学や哲学ではありません。
◆◆◆◆◆
さて、このガイオとは対照的な人物で、デオテレペスについて述べておきましょう。聖書は彼のことをこう記しています。
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちを受けいれてくれない。だから、私がそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなく私たちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。」(9~10)
彼は仕える人ではありませんでした。自分が主導権を握りたい人のようです。たとえば、世の権力者たちも〝かしらになりたがる〟人々です。だから政敵をののしり、やがて追い出して行きます。
とはいえ、デオテレペスはあからさまに悪口を言ったり、追い出すようなことをする人ではないと思います。そんな人は教会にはいません。でも、結果的にそうしていたのです。
回りくどい言い方で、うわさ話のようにして他者をののしったり、悪評を立てたりします。教会を良くしようという熱心さが、結果的に気にくわない信者や牧師を追い出すのです。
しかし、教会の真のリーダーは違います。愛して仕える人です。つまり真理のうちを歩む人です。そのような人を、周囲はおのずとリーダーとして認めて行きます。リーダーになろうとする人ではなく、他者からリーダーだと認められる人です。
両者の典型としてデオテレペスとガイオの名が聖書に記されています。あなたは〝デオテレペス型のクリスチャン〟ですか。〝ガイオ型クリスチャン〟ですか。
さあ、今日も真理のうちを歩むことができるように祈りましょう。あのガイオのように地道な愛をあらわすことができますように。そして、真理の同労者となることができますように。
真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。(1・4)
私たちには様々な喜びがありますが、主にある兄弟姉妹が真理のうちに歩んでいることを聞くことは、何にもまさる喜びであり、また励ましです。
兄弟姉妹が困難な状況にありながらも、イエス様を信頼して歩んでいることは、私たちの喜びであり励ましです。当人としては目の前のことで精一杯で、だれかを喜ばせているとは思ってもいないでしょうが、信仰をもって生きる姿はだれかに喜びを与えることになるのです。
私も、ある兄弟が遠くの某教会で信仰を持ち続けていると聞くと、とても深い喜びを受けます。良かったなぁ~。イエス様につながっていてくれているんだ。ハレルヤ……と。
私たちは主にある仲間のために何ができるでしょうか。自分自身がイエス・キリストを信じてしっかりと歩みつづけること……、これは兄弟姉妹に対して私たちができる大切な愛の働きです。
ヨハネ第二の手紙でもそうでしたが、真理のうちを歩くことは愛する生き方を貫くことだと教えています。第三の手紙もその点で同じです。
手紙の著者であるヨハネは、真理のうちを歩む信徒のガイオから喜びを受けていました。そして励ましを受けていました。
といっても、ガイオは特別に目立って活躍する人のようではりません。むしろ、伝道者や働き人を助ける裏方の働きに徹していました。そのガイオについてこう記されています。
「あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。彼らは、諸教会で、あなたの愛について証しをした。」(5~6)
ガイオは地道に働く人であり、他者に仕える人でした。そのことを見せびらかすような人ではなかったようです。しかし、その愛を受けた兄弟たちが証しをしてくれて、手紙の筆者である使徒ヨハネの知るところとなったわけです。
ガイオは特別に大きな働きをしているわけではありませんでした。「それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。彼らは、御名のために旅立った者であって」とあるように、巡回伝道者をもてなし、次の任地へと送り出していたようです(6~7)。 ※新改訳では「彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派なことです。彼らは御名のために出て行きました」と翻訳。
自分は巡回伝道者の器ではない。でも、自分にできることをして仕えよう。ガイオはそんな心で彼らを愛し仕えたのだと思います。
そして、こう勧めています。「それだから、私たちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない」(8)。この聖句は新改訳で「私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです」と翻訳しています。
つまり、ガイオのような「愛する者たち」のことを、聖書は「真理のための同労者」と表現しています。何という光栄でしょう。逆に、愛さない者は同労者ではないということです。
愛すること。それが「真理のうちを歩くこと」なのです。真理のうちを歩くとは、聖書をよく知っているとか、難しい神学理論を知っていることとは別次元のことです。また、教会で目立った活躍をすることでもありません。愛することが、すなわち真理のうちを歩むことなのです。
勿論、聖書はよく学んでほしいです。教会の任務にも熱心であってほしいと願います。しかし、この「愛すること」を見失うなら、それは真理のうちを歩んでいることにはならないという視点は決して見逃してはなりません。
先の手紙で述べたようなグノーシス主義の人々は、神学的な知恵を求め、それが真理だと自負していました。しかしそれに対して、手紙の著者ヨハネは、愛することが真理なのだと教えています。
単純なことのようですが、神の愛を受け、神の愛を現し、神の愛のうちを歩むことが真理なのです。異端者が陥るような、論理をひねくり回した神学や哲学ではありません。
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さて、このガイオとは対照的な人物で、デオテレペスについて述べておきましょう。聖書は彼のことをこう記しています。
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちを受けいれてくれない。だから、私がそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなく私たちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。」(9~10)
彼は仕える人ではありませんでした。自分が主導権を握りたい人のようです。たとえば、世の権力者たちも〝かしらになりたがる〟人々です。だから政敵をののしり、やがて追い出して行きます。
とはいえ、デオテレペスはあからさまに悪口を言ったり、追い出すようなことをする人ではないと思います。そんな人は教会にはいません。でも、結果的にそうしていたのです。
回りくどい言い方で、うわさ話のようにして他者をののしったり、悪評を立てたりします。教会を良くしようという熱心さが、結果的に気にくわない信者や牧師を追い出すのです。
しかし、教会の真のリーダーは違います。愛して仕える人です。つまり真理のうちを歩む人です。そのような人を、周囲はおのずとリーダーとして認めて行きます。リーダーになろうとする人ではなく、他者からリーダーだと認められる人です。
両者の典型としてデオテレペスとガイオの名が聖書に記されています。あなたは〝デオテレペス型のクリスチャン〟ですか。〝ガイオ型クリスチャン〟ですか。
さあ、今日も真理のうちを歩むことができるように祈りましょう。あのガイオのように地道な愛をあらわすことができますように。そして、真理の同労者となることができますように。
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