列王紀上16・30~31 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし……
第16章は再び北イスラエル王国の物語です。北王国の最初の王ヤラベアム(ヤロブアム)のなした罪と悪がどれほどひどいものであったかは、すでに見てきたとおりです。
南王国では、ダビデの功績ゆえに哀れみを受け、時にはアサ王のように闇の中に輝く光のような恵みを得ました。しかし、北王国のヤラベアム王のその後はどうなったのでしょうか。
ヤラベアムの子ナダブが王になりましたが、「主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪を行った」のです(15・26)。その後、バアシャ(バシャ)によるクーデターによってヤラベアムの全家は絶やされてしまいまいた。
そのバアシャが王となって24年間イスラエルを治めるのですが、彼も「主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道を歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させた罪を行った」のです(15・34)。
その後もクーデターの連続です。詳細は省きます。後にオリムが王座を奪うのですが、彼に対する評価はさらに悪くなります。「彼より先にいたすべての者にまさって悪いことをした」のです(16・25)。
そして、オリムの子アハブが王となるや、彼に対する評価は最悪です。彼の父よりももっと悪くなったのです。彼にとってヤラベアムの罪など軽い事だったのです(16・30~31)。
ヤラベアムから始まってアハブ王に至る一連の罪とは何だったのでしょうか。それは「偶像礼拝」の罪です。真の神への礼拝を軽んじ、神ならぬものを神とする罪です。
そもそも「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的(まと)を外(はず)す」という意味です。語源からすれば、それほど悪いことのようには思えません。むしろ、盗み・殺人・姦淫などの方が重いことのように思われます。しかし、聖書が罪だと指摘していることは「的を外す」ことなのです。
神に似せて創造された人間は、創造主なる神を礼拝することが本来の姿です。しかし、真の神へ向かわないで的を外すので、それが罪です。
的外れとは、創造主なる神から外れることです。偶像礼拝とは、まさに的外れの典型です。真の神へ向かうべき的を外して、偶像に的を定めるのですから、決定的なボタンの掛け違いです。第一ボタンを掛け違ったら残りのボタンは皆ずれます。途中で戻そうとしても直りません。最初に戻って、第一ボタンから正しく掛け直さなければなりません。
偶像礼拝の罪もこれと同じです。最初が間違っているのですから、その後はひたすら外れます。罪の加速度は増すばかりです。的が外れると、その先はさらに大きく外れるように、北イスラエルの王たちの悪も、ヤラベアムの悪から始まって時代を追うごとに増大して行ったのです。
悔い改めて、第一ボタンである「真の神への礼拝」に立ち返る他に道がありません。
キリスト教会の礼拝が一週のはじめの日曜日に持たれるのは意義深いことです。一週間のはじめの日を、礼拝をもってスタートするのです。第一ボタンをしっかりと掛けてから始めるわけです。礼拝を通して、的から外れてしまった軌道を修正するのです。的から外れてしまった心の目を、もう一度、イエス・キリストにフォーカスを合わせるのです。
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