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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エゼキエル書 48章

2023年02月10日 | エゼキエル書
エゼキエル書 48章
この町の名は「主、そこにいます」と呼ばれる。
(48・35)


キリストの権威の下に統治される新しい王国は、神の聖なる秩序によって成り立っています。第48章はその王国 ――福音書では「天の御国」「神の御国」と呼ばれたり、黙示録では「千年王国」。メシヤ(キリスト)が統治される地上の王国のことである―― における、各部族の割り当て地が記されています。

かつて、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルが、カナンの地に入り、そこで割り当て地が定められたものの、民の不信仰によってその秩序は破壊されて行きました。しかし、終わりの時に至って、もう一度割り当て地が定められます。

神が示される割り当てに従って、整然と治められる様子が預言されています。自分はこっちの方が良いとか、この割り当て地は嫌だとか……そんな不平はありません。

先の出エジプト後の割り当てでは、ある部族は自分の好みを主張したという記録が残されていますが、結局、そのような自分好みで選んだ土地は、彼らの手から離れて行きました。割り当てに不平を持ったままでは長続きしないのです。

口語訳聖書ではその分割地のことを嗣業(しぎょう)と訳していますが、「神から受け嗣(つ)いだ業(わざ)(使命)」というニュアンスがこめられています。つまり、神が与えられた分に応じて、その持ち場に忠実である信仰がなければなりません。

今日的に言えば、自分の生まれや育ち、能力や性質等々……自分ではどうしようもできない〝分割地〟がありますが、神からの嗣業として受け止め、その〝地〟で主に仕えて行くのです。

その基本が、主の聖所が中央にあるという生き方です(48・10)

出エジプトしたイスラエルの民が荒野で宿営した時も、その中央に幕屋(聖所)があったように、来るべき王国でも、その中央には主の聖所があります。

物理的にも、霊的にも、すべての中心は聖所です。つまり、神への礼拝です。私の人生の中央には聖所がある……といえる歩みが基本です。あなたの人生の中央には「礼拝」がありますか。時に問い正しながら軌道修正すべきでしょう。

そんな、主への礼拝を中心とする町の名が記されています。主そこにいますアドナイ・シャマ)」と呼ばれます。すてきな町の名です。それは、礼拝を中心とする私たちも「主そこにいます」と呼ばれます。礼拝を中心とする教会もまたアドナイ・シャマと呼ばれるのです。
 
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エゼキエル書 47章

2023年02月09日 | エゼキエル書
エゼキエル書 47章
この川の流れる所では、すべてのものが生きる。(47・9)


エルサレムに完成した神殿の敷居から水が湧き、それが川となって東に向かって流れ出しました。徐々に深くなり、下流になると泳げるほどの川になり、その川は海に注がれました(47・1~8)

エルサレム神殿の東側にある海とは死海のことだと考えられます。塩分濃度が高くて、生きものが住むことのできない湖です。まさに名の如くです。しかし、神殿からの川が流れ入ると、死海の水が清くなり、多くの魚で満ちるようになるというのです。文字通りのことが実現するのでしょうか。

先の37章で、干からびた骨が生き返るようにして、イスラエルの民が集められ、国をなしたわけですから、神殿から流れる川の幻も、神は、何らかの方法で実現なさるのです。

エゼキエル書にかぎらず多くの預言書は、再臨のイエス・キリストが支配なさる御国の様子を予告しています。それは、エルサレム神殿から祝福が世界中に広がって行く様子です。地上における至福の時代を迎えるのです。

このような幻は、バビロンで奴隷であった人々をいかに勇気づけたことでしょう。奴隷の地にありながらイスラエルが滅びなかったのは、彼らがこの幻というかビジョンを心にいだいていたからです。

神の幻(ビジョン)をいだいている民は滅びないのです。しかし、幻のない民は衰退します。それは民だけでなく個人でも同じです。

兄弟たちから裏切られたヨセフが、過酷な境遇の中でも〝腐らなかった〟のは、彼に神からの夢(幻)があったからです。現実はその幻とはかけ離れていても、神は必ず実現なさることへの希望が、ヨセフを活かしたのです。

さて、エゼキエルが預言した通りの神殿はまだ完成していません。イスラエルの民がバビロンから帰還後に神殿(第二神殿)を再建したのですが、それは、やがてローマ帝国によって破壊されてしまい、今日に至っています。

しかし、霊的な意味において、イエス・キリストを信じる者たちの中に、この神殿は建設されています。なぜなら、新約の時代においては、私たちが「神の宮」だからです。

あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのかと指摘されている通りです(Ⅰコリ3・16)

そしてイエス様もわたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出ると言われたではありませんか(ヨハネ7・38)。主が指摘された〝聖書に書いてある通り〟とはこのエゼキエル書の預言のことです。

そうです。神の宮である私たちから、いのちの水が流れ出すのです。しかし、実際はどんな水が流れているでしょうか。下流に迷惑をかけるような毒気のある水であってはなりません。

悪口、うわさ話、不平や不満、愚痴や猥談……。そのようないのちのない言葉や行いという〝水〟が流れるなら、その川の水にふれる者は、いのちを得るどころか、いのちを吸い取られてしまいます。

流さないように出口に気をつけても、問題の解決にはなりません。問題は内にある泉です。泉の出口を塞いだり、流さないようにダムを造って溜めても、やがて決壊します。次から次へと毒気のある水が湧いてくるからです。

そのような泉は十字架で葬ります。十字架の血できよめられたところに聖なる神殿が建てられます。そうです。エゼキエルが預言したあの神殿です。

それは聖霊の宮です。聖霊が住まわれるわが心に、イエスが言われたように〝いのちの水〟が湧き上がるようになります。かくして、いのちの水の川が流れ出るようになるのです。

その水は〝いのちのある言葉〟です。〝いのちのある態度や生き方〟です。その水にふれる人々は、すべて生きるのです。いのちを得るのです。そんな神殿でありたいではありませんか。

旧約の民であるイスラエルが、偶像礼拝や不品行によって神殿を汚してしまったように、新約の私たちは、自分自身を汚してはなりません。私たちは神の神殿なのですから……。エゼキエルが預言した神殿は、そのような私の中に実現することを信じよう。

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エゼキエル書 46章

2023年02月08日 | エゼキエル書
エゼキエル書 46章
君たる者は、外から門の廊をとおって入り、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。
(46・2)


キリストの来臨。神殿の回復。平和と公平に満ちた新しい王国の完成……。エゼキエルの見た幻はそんな世界を描いています。

ここで「君」とか「君主」と表現されている人物は、王であるキリストのことかと思われるふしもあるのですが、君主も神殿にて礼拝をささげる様子からして、キリストではないと考えるべきでしょう。

キリストの御国で、キリストの権威の下で国をつかさどる王(人間)のことだろうと思われます。国の統治者でさえ、否、統治者であるからこそ、国民の先頭に立って主を礼拝する姿が預言されています。

人類の歴史上、登場した様々な王たちや支配者たちは、創造主である神を礼拝しただろうか。いいえ、それどころか、神の立場を奪い、自らを神とする愚行の連続でした。そのような統治が祝福されるはずがありません。

国の君たる者でさえも、いけにえをささげる時、彼は門の敷居の所で礼拝しなければなりません。いけにえをささげるのは祭司の役割であって、彼はそれより中に入ることがゆるされません。

君主であることにあぐらをかき、高慢な態度はゆるされません。完成した御国での正しい秩序が表現されています。

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エゼキエル書 45章

2023年02月07日 | エゼキエル書
エゼキエル書 45章
あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
(45・10)


新しい神殿が完成し、正しい君主による政治がなされる時代が来ることが預言されています。40章から、新しい神殿の姿が描かれ、この45章では、神殿を中心とした国のありかたが描かれています。

注目すべきは「神殿が中心である」ことです。つまり、神へのまことの礼拝が中心です。創造主なる神への礼拝がすべての中心に据えられた世界です。

さて、そのような中で、冒頭にあげた聖句のように正しい尺度(はかり)が使用されるようになると語られています。「エパ」は穀物を量る升のこと。「バテ」は液体を量る単位のことです。 ※現代では、1㎏の基準となる〝原器〟がフランスの国際度量衡局に保管されていて、それが世界基準となる。しかし、それも2019年に130年ぶりに改定された。基準を定めることは大変な事である。

(1)不正な社会は、「はかり」にごまかしがある。

偽りのはかりで量ると、不正な利益や損失がまかり通ります。単なる物の分量を量るはかりだけでなく、人を評価する「はかり」もそうです。そんな異なるはかり、つまり、不正なはかりではかられて、いかに多くの人々が虐げられていることでしょう。

(2)私の中に「不正なはかり」はないだろうか。

偏見や決めつけは、「不正なはかり」です。そのあやまった「はかり」で人をはかり、正しく評価していないことはないだろうか。「あなたはその量ったはかりで、量り返される」と主は言われました。だから、主エスのご覧になる目で、人を見ることができるようにと祈ります。

また、経済の世界でも、富んだ国や富んだ者に有利になる「はかり」があります。富んだ国が、貧しい国から搾取する構図は一向に無くなりません。不正なトレードによって、貧しい国から食糧を買いあさり、貧しい国は貧困から抜け出せないでいます。

近年「フェアトレード」と呼ばれる売買関係が提唱されていますが、このような考え方は、今日の預言の言葉を想起させます。再臨のキリストが支配なさる世界で、それは完成することでしょう。

今、私たちは、預言を先取りして、商売においても、人を評価することににおいても「正しいはかり」を用いるよう注意しなければなりません。

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エゼキエル書 44章

2023年02月06日 | エゼキエル書
エゼキエル書 44章
この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれも入ってはならない。イスラエルの神、主が、ここから入ったのだから、これは閉じたままにしておけ。
(44・2)


エゼキエルは、完成された神殿の東側に導かれました。先の「主の栄光」が戻ってきたのは東側の門からでした。そこで不思議な命令が聞こえました。

この東向きの門は閉じたままにしておけ……と。

それは、だれも神殿に入らせないという意味ではありません。神殿の出入りには、他の門もあるのですから別な理由です。それは、イスラエルの神である主が、この東門から入られたからだと……その理由を述べています。

実は、イエス・キリストがロバに乗ってエルサレムに入られたのは、この東門です。別名黄金門と呼ばれる門です。エルサレム旧市街の東端が神殿域なので、黄金門は、エルサレムの城壁の門であり、かつ神殿の門となっています。

まさに、イスラエルの神、主がここから入られたのです。栄光が東の門から入ってきたように、イエス・キリストは神の栄光をおびて、東門黄金門から入って来られました。

主が入られた門を閉じたままにしておけ、と言われた御言を実現するかのように、やがて、この東の門(黄金門)は、イスラム教徒の手によって完全に塞がれたまま今日に至っています。

東門……不思議な門です。

イエス・キリストが再臨される時、主はエルサレムの東側にあるオリブ山にお立ちになると預言されていますが(ゼカリヤ14・4)、主はこの山から再び東門を通ってエルサレムにお入りになるのだろうか。興味深い預言です。


エゼキエル書 43章

2023年02月04日 | エゼキエル書
エゼキエル書 43章
主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、霊が私を引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
(43・4~5)


かつて、宮から主の栄光が去ってしまうという衝撃的な記録がありました(10章)。それは、バビロンに滅ぼされる5年ほど前の出来事でした。エゼキエルは当時のエルサレム神殿の様子を、幻で見たのですが、その時の宮は偶像礼拝によって汚され、とうとう、主の栄光は「神殿の敷居から東の門の方向へ」去って行ったのです(10・18~19)

しかし、神が完成なさる新しい神殿の幻では、主の栄光が「東の方に面した門の道から」入って来たのです。そして、主の栄光が神殿に満ちたのです。

この「栄光」とは、神の特別な光です。物理的な光を超越した光です。まさに、神が共におられることを表す光です。

かつての神殿は何が問題だったのでしたか。それは、神が共に居ることのできないほど、罪によって汚れてしまったことです。新しい神殿は、この罪と汚れが完全にきよめられた場所です。

建物として外見が立派だとか、装飾や儀式が豪華だから神の栄光が輝くわけではありません。見栄(みば)えがどんなに整っていても、神が共に居られないなら、そこに神の栄光はありません。

イスラエルが荒野を旅した時、彼らは「幕屋」を建造して、そこで神を礼拝しました。その幕屋は、荒野にありながらも神の栄光の雲が満ちていました。

何もない殺伐(さつばつ)とした荒野でしたが、神は彼らと共に居られました。荒野における幕屋は立派な建造物ではありませんでした。要するに天幕です。仮住まいの住居です。でも、そこに神は共に居られて、夜も昼も神の臨在がありました。

しかし、やがてイスラエルは堕落して行きました。立派な石造りの神殿を建立したものの、そこを偶像の家としてしまいました。悪霊の住みかとしてしまったのです。神は、そのような神殿を破壊し、聖なる神殿を完成なさいます。

まず第一に、神は、イエス・キリストを信じた者たちを神の宮神殿)」となさいます。キリストの十字架の血で罪をきよめて、そこに聖霊が内住するようになさいました。私たちは聖霊の宮、神の神殿です。ここは神が共に居られる場所です。神はクリスチャンを通して神の栄光を表されます。エゼキエルの見た「神殿の幻」は、霊的な意味で、クリスチャンの中で完成します。

そして第二に、地上にも神殿を完成なさるはずです。キリストが王として支配なさる「メシヤの王国」にて実現なさると考えられます。 ※「幻」を文字通りの事とするのかは見解が分かれる。

そのような聖なる神殿、神が人と共に住まわれる世界の完成に向かって、歴史は進んで行きます。

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エゼキエル書 42章

2023年02月03日 | エゼキエル書
エゼキエル書 42章
聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。
(42・13)


「聖域」とは神殿の庭のことです。その庭に面して北と南に部屋が設けられ、そこは祭司たちが聖なるささげ物を食べる所です。つまり食堂です。神殿でのささげ物は、羊などの動物や各種の穀物です。当然それらは神へのささげ物ですが、祭司はその一部ではありますが、それを食べてよいのです。

旧約における祭司は、レビ族のアロンの家系の者たちから選ばれました。しかし、新約では、イエス・キリストを信じる聖徒たちが祭司です。「あなた方もそれぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」と述べられている通りです(Ⅰペテロ2・5)

エゼキエルの見た幻によるなら、私たちは、聖なる祭司として特別な場所で」「特別なものを食べ」「特別な服を着る者たちです。キリストの教会という場所で、キリストの肉と血を食し、キリストの衣を着る者たちです。それが新約時代の祭司です。

祭司とは「橋渡し役」という意味があります。まだイエス様をご存知でない人々をイエスにつなぎ合わせる「橋渡し役」です。こんな重要な任務を果たすには、おのれを養う「特別な場所」、おのれを活かす「特別な食べ物」「特別な着物」が必要です。

イエス様は神へのささげ物となってくださいましたが、同時に、私たちの「いのちのパン」「いのちの飲物」となってくださいました。ささげ物を食する新約版祭司は〝イエスを食する者〟です。

さて、聖なる神殿に「食堂」が用意されている幻は興味深いことです。それほどに、神が、食事を大切になさっていることの現れです。食事は単に空腹を満たすだけではありません。神と人との親しい交わりの場所と考えられているのです。

そういえば、イエス様が弟子たちに大切な教えを語られたのも、多くの場合が食事の席であったのは偶然ではありません。イエスと弟子たちの間には、「個食」とか「孤食」という文字は縁遠いものでした。

神殿に食堂が併設されている幻から、もう一度食事の大切さとか、キリスト教会での愛餐会食事会の大切さを再発見してみてはどうだろうか。

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エゼキエル書 41章

2023年02月02日 | エゼキエル書
エゼキエル書 41章
彼はまた拝殿の奥の室の長さを測ると20キュビト、幅も20キュビトあった。そして彼は私に、これは至聖所
(しせいじょ)であると言った。(41・4)


「彼」とは、神殿を案内する御使です。エゼキエルは御使に導かれて神殿の庭の玄関から拝殿(聖所)の戸口、そして至聖所にまでやって来ました。エゼキエルは祭司の家系ですから、神殿の構造を熟知していました。そして、ついに至聖所にまで来て、「これが至聖所だ」と言われて驚いたことでしょう。

神殿はとても大きな建造物であって、外庭があって門をくぐり内庭に入ります。その中に聖所があり、さらにその聖所の奥に至聖所がありました。

一般民衆は中に入れず、選ばれた祭司だけが聖所に入って祭儀をつとめました。至聖所にいたっては大祭司だけが、年に一度だけ入って生贄の血を捧げました。それほどに至聖所は聖なる場所だったのです。神に最も近い場所、神の臨在が最も濃厚な場所……。それが至聖所であったわけです。

そんな究極の場所に、エゼキエルは導かれたわけですから、その畏れと驚きは大きかったのです。

さて、40章から寸法が記録されています。ここでは1キュビトを約50㎝で計算すると、大まかな寸法が分かります。

玄関の門の広さが14キュビト(7m)だと記しています(40・48)。次に、聖所の入り口が10キュビト(5m)です(41・2)。そして、聖所から至聖所への入り口は6キュビト(3m)です(41・3)。 ※「拝殿」とか「本堂」と訳されているのは「聖所」のこと。

お気づきですか。少しずつ「入り口」が狭くなっています。神に近づくごとに、より狭い門になっています。イエス様が、いのちに至る門は狭いと言われたことが思い出されます。

「私のような者が通れるのだろうか」と不安ですね。エゼキエルの場合は御使に導かれてやって来たのですが、今や、イエスを信じる者たちは、イエス様に導かれて、この狭い門を通って、主が共に居られる至聖所の恵みにいたります。

エゼキエルはこの時点では「ここが至聖所だ」と示されただけで、中に入れませんでしたが、やがて完成するはずの神殿を見て喜びました。

主イエスは私たちを至聖所にまで導かれます。この恵みは新約ならではのことです。ですから、苦労をしてでも、「狭い門」をくぐろうとする謙遜と大胆さが求められています。

さて、神殿の彫刻について触れておきます。17~18節には「戸の上の空所、内室、外室ともに、羽目板(はめいた)であった。内室および拝殿の周囲のすべての壁には、同じように彫刻してあった。すなわちケルビムと棕櫚(しゅろ)とが彫刻してあった」と記録されています。

ケルビムとは特別な天使で神を象徴する存在で、大きな翼を広げる天使です。そのケルビムと棕櫚(しゅろ)が描かれています。新改訳では「なつめやしの木」と翻訳されており、それが正しいようです。

なつめやしの木は「イスラエル」を象徴しています。なつめやしが荒野でも力強く生きて実を結ぶように、イスラエルの民が過酷の環境の中で生きのび、豊かな実を結ぶことを表しています。ですから、この彫刻は、神の民であるなつめやしの木を、神を象徴するケルビムの翼が覆(おお)うように守っている姿です。それが神殿のあらゆる箇所に描かれていました。

神は、私たちがこの地上という荒野で生き、豊かに実ることを願っておられます。それを見守るようにして、神の御翼によって覆ってくださっているのです。


エゼキエル書 40章

2023年02月01日 | エゼキエル書
エゼキエル書 40章
我々が捕え移されてから25年、都が打ち破られて後14年、その年の初めの月の10日、その日に主の手が私に臨み、私をかの所に携えて行った。
(40・1)


この40章から最後まで、新しく建て直される神殿の幻が克明に記録されています。その幻を見せられた期日が冒頭の聖句です。

つまり、第1回目のバビロン捕囚から数えて25年目、バビロンによって町も神殿の滅ぼされてから14年目が経過したその日でした。

エルサレム陥落という悲しみの記念日に、エゼキエルはいつも以上に神に祈ったことでしょう。ちっとも回復の兆(きざ)しの見えない時であっても、彼は神を信頼し祈り続けた預言者でした。

そんな彼に、神は回復した新しい神殿の幻を見せてくださいました。いかに慰めを受けたことでしょう。廃墟であるはずのエルサレムに建てられた神殿の栄光の姿は、捕囚の人々にどれほどの希望を与えたことでしょう。心が踊り出すようなすばらしいビジョンです。

幻(ビジョン)のない民は滅びます。希望のないひしがれた心に耐えられる人はいません。いまだ、奴隷の地にいる民を、神はこのような幻によって励ましてくださったのです。

兄たちから裏切られ、エジプトの奴隷となったヨセフでしたが、彼は夢を通して、神の幻(ビジョン)を見続けた人です。悲惨な境遇の中でも、彼は常に、幻によって勇気を得ていました。

黒人差別の中で傷つけられ虐げられていたキング牧師にも「夢」がありました。「I have a dream(私には夢がある)」という説教は有名です。心が歪んでしまいような過酷な環境の中でも、夢(神のビジョン)があるので、キング牧師の心はまっすぐにゆるしへとつながっていました。

神がお与えになる幻(夢)は、現実とは乖離(かいり)しているかも知れません。しかし、神が見せてくださる幻であれば、それは必ず実現します。

荒廃したエルサレムに神殿が再建されるなど、当時の状況からすれば、だれも信じられないことでした。まさに、現実と乖離しています。40章以降その完成するであろう神殿を見て行くわけですが、そこに込められた神のメッセージを受け取ってください。


エゼキエル書 39章

2023年01月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書 39章
わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる。
(39・29)


先の38章とこの39章では、マゴグの王ゴグの来襲が預言されていますが、神のご支配のもとになされている事であって、最終的にはマゴグは徹底的に滅ぼされるのだと預言されています。

神は、イスラエルをむち打つために、時にはアッシリアを用いられ、後にバビロンを用いられました。さらに最終の時代にマゴグを用いられます。

黙示録によれば、マゴグは神に敵対する獣の軍勢として描かれています。神は、敵対する者たちを用いてでも、ご自身の御業を成し遂げられます。勿論(もちろん)、敵対する者たちは、自分が〝神のご用をしている〟自覚などありません。憎悪に燃えて敵対しています。各自の意志に従ってそうしています。

しかし、それさえも、神はご自身の御業のために用いるようにご計画なさっているのです。神の智恵とご計画はあまりにも深淵で、われわれ人間には全てを理解することはできないでしょう。

こうして神は、聖なる民を得ようとなさっているのです。真実な礼拝者なる民によって構成される御国の完成を目指しておられます。ここに向かって全ての出来事は進んでいます。

マゴグが用いられるのも、イスラエルを聖なる民とするためであり、彼らがイエスこそ主であると告白して従順するための試練です。それを、最後まで、徹底なさるのが神の方法です。

すべては神のご支配の下にあることを忘れてはなりません。最後の恐るべき敵さえも、神のご支配の中で動かされている小さな駒のようです。敵さえ用いられる神の御手の前に謙遜になりつつも、目の前の敵を恐れてはなりません。神の目指される所は、聖なる民としての完成にあることに焦点を合わせます。

最後まで耐え忍ぶものは幸いです。神は二度と彼らから御顔を隠さないと言われるのですから……。

人生にはなおも理不尽なことがつづくでしょう。計算の合わない不合理なことがあるでしょう。神がいるなら何故ですか?と問いたくなる試練があるでしょう。でも、つまずかないでください。その先には、神と顔を合わせるほどの親しい交わりが用意されていることを忘れてはなりません。


エゼキエル書 38章

2023年01月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書 38章
あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。
(38・16)


イスラエルの回復の預言がなされてきましたが、この38章に至っては様相が変わります。イスラエルは回復して平和な時代が訪れた時代のことです。

多くの日の後、あなたは集められ、終りの年にあなたは戦いから回復された地、すなわち多くの民の中から、人々が集められた地に向かい、久しく荒れすたれたイスラエルの山々に向かって進む。その人々は国々から導き出されて、みな安らかに住んでいる。(38・8)

あなたは集められとは、約束の地に住んでいることを意味します。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちがそうでしたが、みな安らかに住んでいるという点では実現していません。帰還後も、ペルシャ、ギリシャ、ローマの圧制に苦しみました。そして、ローマによって再び滅ぼされ離散したのです。

ですから、多くの日の後とは、帰還後よりもさらに多くの年月を経ています。黙示録で預言されている、終末の最後の段階ではないかと考えられます。

そんな時代にゴグの襲撃があると預言されているのですが、そのゴグの言葉として、次のように記録されています。

わたしは無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、すべて石がきもなく、貫の木も門もない地に住む者どもを攻めよう(38・11)。このゴグとはマゴグの王のことです。しかし、マゴグがどの地域の国であるかは特定できません。北の果ての国と表記されているだけです(38・15)

終末の時代にイスラエルを攻撃する北からの軍隊として、ヨハネの黙示録でもマゴグの王ゴグについて預言されています(黙示録20・8)

そのような敵の来襲があるのですが、冒頭の聖句によれば、ゴグの進撃は神がそのように仕向けておられるのであり、なおかつ、神は、ゴグを滅ぼされると預言されています。 ※バビロンによるエルサレム攻撃も同様の構図であった。最終的には神はバビロンを滅ぼされた。

神があえてそうなさるのは、主である神が聖なるお方であることを啓示するためだと言われます。

それはイスラエルにとってもそうですし、反イスラエルの立場にある人々にもそうなのです。やがてすべての民が、主であるキリストこそ神であり、彼にひざまずくときが来るのです。それを導くために、神はイスラエル(ユダヤ人)を攻撃の的に用いるのです。

実に、イスラエルは神の栄光のために、苦難をも共にするように召された民なのです。

預言が教えるように、神の御国の完成なる時までは、まだ幾多の試練を乗り越えなければならないようです。安心しきっている時に敵の来襲もあるというのです。しかし、勝利はすでに予定されています。主を信頼しつつ目を覚ましていよう。


エゼキエル書 37章

2023年01月28日 | エゼキエル書
エゼキエル書 37章
息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ。
(37・9)


エゼキエルは干からびた骨の谷の幻を見ました。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていたのです(37・2)

これは、バビロンによって滅ぼされたかに見えたイスラエル民族(ユダヤ人)のことです(37・11)。その後、ローマ帝国によって滅ぼさることになるユダヤ人のことも念頭におかれているでしょう。

人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのかと主は問いかけられました(37・3)。人には不可能です。あり得ないことです。

バビロンの捕囚となった民が、約束の地に戻って国を再興することをだれが想像できたでしょう。また、ローマによって離散の民となったユダヤ人が、国を復興させるなどとだれが想像できたでしょう。

しかし、その干からびた骨に向かって預言せよ、と主は言われます。わたしはあなた方の上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなた方の内に息を与えて生かす。そこであなた方はわたしが主であることを悟る(37・6)

現在、イスラエル(ユダヤ人)は形の上では再興しています。しかし、霊的にはまだ暗やみの中です。注目すべきは〝息を与えて〟です。「息」とはヘブル語でルアッハで「霊」とか「風」とも訳す言葉です。

万物創造のことです。神は、人の肉体を土の塵で創造し、そこに、いのちの〝息〟を吹き入れられると、人は生きる者(原意は〝生きた霊〟)となったことを思い出してください(創2・7)

そうです。息(霊)が注がれることで、人は本当の意味で生きるのです。人はパンだけで生きる存在ではなく、神の御言……つまり「霊的な食物」によって生きるのです。

罪によって霊が死んでしまった人類に、神は、再び霊(息)を注がれる時代が来るのです。いいえ、来ています。今はその時代です。聖霊が注がれる時代です。イエス・キリストは「聖霊によってバプテスマを授けるお方」です。

ですから、エゼキエルはさらにこう預言しました。息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ(37・9)息はこれに入った。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となったのです(37・10)

これは、イスラエル(ユダヤ人)だけのことではありません。現代のすべての人々に必要なことは、息(霊)が吹き入れられることです。これこそ、罪の結果、霊的には「干からびた骨」のようになってしまった人々を生き返らせる道です。

祈りましょう。息よ、四方から吹いてこい!と。聖霊様、四方から人々に吹いてくださって、霊的に死んでしまった人々を生き返らせてください……と。

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エゼキエル書 36章

2023年01月27日 | エゼキエル書
エゼキエル書 36章
あなた方に新しい心を与え、あなた方の内に新しい霊を授ける。わたしはあなた方の体から石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える。
(36・26)


神は、ご自分の民を完全に捨ててしまわれたのでしょうか。そんなことはありません。神は、ご自分の名を尊ばれます。ご自分の名が汚されないためにも、イスラエルを再生し、聖なる神の名にふさわしい民として完成なさいます。

そのための四つのプロセスがあり、実際の歴史の中で実現して行きます。

(1)散らされたイスラエルを約束の地に連れ戻す

主はこう言われています。「わたしはあなた方を諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなた方の国に行かせる」(36・24)。捕囚の地バビロンから連れ戻すという段階です。このことは、紀元前538年に実現しました。

(2)罪からきよめる

「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める」(36・25)。偶像礼拝の罪によってすっかり汚れてしまった民をきよめるのです。

このことは、バビロンから帰還して約4百年後にイエス・キリストが来られ、十字架の死と復活をもって、人々の罪の代価を支払われることによって実現しました。そして、イエスを信じた人々は、水のバプテスマを受けて罪のきよめにあずかります。

(3)新しい霊(聖霊)を注ぐ

「わたしは新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなた方の内に授け、あなたがたの体から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなた方のうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」(36・26~27)

イエス様は復活後、天に昇り、イエスを信じる者たちに聖霊を注がれました。聖霊によって新しい心を与え、聖霊によって神の定めを守るように導かれます。

(4)聖なる国民としての完成と祝福

「あなた方は、わたしがあなた方の先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなた方の神となる」(36・28)。地上におけるイスラエルの繁栄がえがかれています。

しかし、この四つのプロセスは完全に成就したとはいえません。バビロンから帰還して集まっていましたが、イエスがキリストであることをイスラエルは拒絶したからです。この時点で、イエスを信じ、聖霊を受けたユダヤ人はわずかでした。

それどころか、ローマ帝国によってエルサレムは再び滅ぼされ、ユダヤ人は以後2000年近く離散の民となってしまいました。せっかくバビロン捕囚を終えて約束の地に集められていたのに、振り出しに戻ったようなものです。エゼキエルが預言した神のスケジュールは頓挫したのでしょうか。

一方、この救いの計画は異邦人に伝えられました。異邦人クリスチャンは上記の〝(2)〟と〝(3)〟を体験しています。神のスケジュールは、イスラエルから取り上げられ、異邦人(キリスト教会)が受け継ぐように変更されたのでしょうか。

そうではありません。今は異邦人の時代です。異邦人の完成なる時まで、一定の期間ですがイスラエルの救いは棚上げ状態となっています。神は、ご自分の御言を必ず実現なさいます。異邦人の時代が終われば、イスラエル(ユダヤ人)の救いが再び始まります。

神はもう一度、預言どおりにことをなそうと働いておられます。世界の動きを見るなら、すでに準備が整いつつあることが分かります。

その手始めとして、もう一度〝(1)〟の項目が実現しているからです。 ※1948年イスラエルが建国され世界中からユダヤ人が戻ってきている。

神の御言は、遠い昔の不確かな記録ではありません。今も御言は生きていて、御言の通りになるようにと確実に進んでいます。今度こそイスラエルが、

(2)イエスによる罪のきよめ、
(3)聖霊の注ぎ、そして
(4)神の聖なる国民としての完成へとなるはずです。

さて、新しく注がれる聖霊は、私たちの石の心を取り除くとあります。困難や試練を用いて、聖霊なる神は、私たちの心を砕かれます。それは石地のような心を耕して、御言という「種」をまくためです。

悔いし砕けし魂は、御言を受け止めるに相応しい耕された地です。神は、そこから豊かな霊的な収穫を得ようとなさっています。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制……といった収穫です。

終わりの時代に向けて、そんな収穫を携えて、天の祝宴にあずかることのできる人は幸いです。涙をもって種をまく人は、収穫をたずさえ喜びの声を上げながら帰って来るのです。

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エゼキエル書 35章

2023年01月26日 | エゼキエル書
エゼキエル書 35章
しかし主はそこにおられる。
(35・10)


ここで一旦、預言の対象は「セイル」に向けられます。セイルとはエドム人のことで、もとをたどればイスラエル民族とは兄弟関係です。

イスラエルの元の名はヤコブ。そのヤコブには双子の兄エサウがいますが、エドム人とはそのエサウの子孫たちのことです。ですから、血縁においても信仰面でも、とても近い存在です。

そのような民でしたが、信仰面では次第に異なった道を歩むようになりました。この35章でも指摘されているように、イスラエルの滅びを喜んだのです。

おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡したと指摘されている通りです(35・5 新改訳)

いつまでも敵意をいだきとは、かつて弟のヤコブが、兄エサウから長子の権を奪ったことに発している確執のことだと考えられます。先祖代々いだき続ける敵意の根深さを知らされます。 ※ヤコブとエサウ自身は和解をなしたが、その子孫たちにはわだかまりが残っていたのだろう。憎しみの継承は簡単だが、和解の継承は難しい。

そのようなわけで、バビロンによって攻撃されている最中、漁夫の利を得るかのように、エドム(セイル)の支配を広げたというのです。そして、彼らは誇らしげに言ったのです。「これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう」と(35・10)。しかし……です。

そんな悪巧みをしているその最中に、主はそこにおられるのです(35・10)。どんな状況の中にも〝主がおられる〟ことを忘れてはなりません。わたしは生きている(35・11)と言われる主は、「隠れたところで」「隠れたことを」ご覧になっている神です。

こうも記されています。エドム人らが神に対して高ぶり、あざけりの言葉を吐いたときも ――誰も聞いていないと思っていたのだが――、わたしはそれを聞いたと言われるのです(35・13)

私たちは、このような神と共に生きています。何も立派ぶる必要などありません。すべては神の目には明らかなのですから……。

むしろ、正直にありのままを申し上げ、謙遜に歩むことこそ「そこに主がおられる」「主はそれを聞かれる」という場に相応しい生き方です。

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エゼキエル 34章

2023年01月25日 | エゼキエル書
エゼキエル 34章
主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
(34・11)


イスラエルの民(ユダヤ人)はバビロンによって連れ去られ、各町々に散らされて行きました。どこにだれが行ったのか。だれも知る由もありません。

しかし、神はご存知です。地の果てにまで散らされようとも、海の底にまで沈められようとも、神は、ご自分の羊を捜しだされるお方です。まことの羊飼いのようなお方です。

神の御言はさらにつづきます。牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。(34・12)

しかも、捜し出すだけではありません。彼らを養い育てるといわれます。

わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。(34・14~15)

このことは、いつ、だれによって実現したのでしょうか。それはイエス・キリストです。イエス様は言われました。

「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしは良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」と(ヨハネ10・10~11)

イエス様こそ、私たちの本当の羊飼いです。このお方に従います。

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネ10・27)。「羊はその声を知っているので、彼について行くのである」(同10・4)

あなたは羊飼いであるイエス様の声を知っていますか。心をしずめて、主の御声を聞き取ろう。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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