ホセア書 5章
彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。(5・15 新改訳)
先の第4章では、祭司の問題が取り上げられましたが、第5章では「祭司たちよ、これを聞け、イスラエルの家よ、心をとめよ、王の家よ、耳を傾けよ、さばきはあなたがたに臨む」と語られ、指導者たちへの問いかけが続きます(5・1)。
いったい何が彼らの目を塞いでいるのか。いったい何が神を知る正しい知識を妨げているのか。次の聖句に、その鍵が記されています。
「彼らの行いは彼らを神に帰らせない。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ。」(5・4)
「彼らの行い」とは、偶像礼拝のことです。偶像を慕い求めることによって、真の神である主に立ち帰ることができないでいる。その原因は、「淫行の霊が彼らの内にある」のだと指摘しています。淫行の霊とは、悪霊のことです。真の神から目を背け、真の神への貞操を失わせる悪霊のことです。
本来、人は霊的存在ですから、神を慕い求める霊的本能があります。しかし、罪をおかして神に背を向けるようになって以来、誤った神……すなわち偶像を求めるようになったのです。
また、悪魔や悪霊も、人の霊的本能を拠り所にして、神秘体験や御利益をもって偶像礼拝を盛り立ててくれます。こうして、偶像を拝むことは、その偶像の背後に働く悪霊と関わることになります。やがて、それは悪霊の支配へと展開して行きます。
このことを、新約聖書では「この世の神々」と呼び、その悪霊たちが、まことの神へ目を向けることを妨げているのだと指摘しています。
「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)
ホセアを通して語られた御言も、同様に述べています。「それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ」と。この状態で主を求めても、主と出会うことができません。
そこで、次のように語られています。「彼らは羊の群れ、牛の群れを携えて行って、主を求めても、主に会うことはない。主は彼らから離れ去られた」(5・6)。
「羊や牛の群れ」は、礼拝で主にささげる犠牲のことです。神に喜んでもらおうと、献げ物を山のように積み上げても、主と出会うことはできません。神が喜ばれるのは、そのような献げ物ではなく「悔いし砕けし霊魂」です。
ですから、冒頭の聖句が語っているように、彼らが自分の罪を認めて主を慕い求めるようになるまでは、主と出会うことができません。
あの放蕩息子も最後には、「父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と告白して戻ってきました。
自分は間違っていないと主張している間は、私たちの心はかたくなで、主と出会うことができません。しかし、自分は間違っていたなぁ~と、自分の罪を認めると、不思議とその心は柔らかくなって、主と出会うことができます。そんな「悔いし砕けし霊魂」こそが、主を知ることになるのです。詩篇51編17節で述べられている、「神が喜ばれるのは悔いし砕けし霊魂である」とは、心に刻むべき教えです。
彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。(5・15 新改訳)
先の第4章では、祭司の問題が取り上げられましたが、第5章では「祭司たちよ、これを聞け、イスラエルの家よ、心をとめよ、王の家よ、耳を傾けよ、さばきはあなたがたに臨む」と語られ、指導者たちへの問いかけが続きます(5・1)。
いったい何が彼らの目を塞いでいるのか。いったい何が神を知る正しい知識を妨げているのか。次の聖句に、その鍵が記されています。
「彼らの行いは彼らを神に帰らせない。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ。」(5・4)
「彼らの行い」とは、偶像礼拝のことです。偶像を慕い求めることによって、真の神である主に立ち帰ることができないでいる。その原因は、「淫行の霊が彼らの内にある」のだと指摘しています。淫行の霊とは、悪霊のことです。真の神から目を背け、真の神への貞操を失わせる悪霊のことです。
本来、人は霊的存在ですから、神を慕い求める霊的本能があります。しかし、罪をおかして神に背を向けるようになって以来、誤った神……すなわち偶像を求めるようになったのです。
また、悪魔や悪霊も、人の霊的本能を拠り所にして、神秘体験や御利益をもって偶像礼拝を盛り立ててくれます。こうして、偶像を拝むことは、その偶像の背後に働く悪霊と関わることになります。やがて、それは悪霊の支配へと展開して行きます。
このことを、新約聖書では「この世の神々」と呼び、その悪霊たちが、まことの神へ目を向けることを妨げているのだと指摘しています。
「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)
ホセアを通して語られた御言も、同様に述べています。「それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ」と。この状態で主を求めても、主と出会うことができません。
そこで、次のように語られています。「彼らは羊の群れ、牛の群れを携えて行って、主を求めても、主に会うことはない。主は彼らから離れ去られた」(5・6)。
「羊や牛の群れ」は、礼拝で主にささげる犠牲のことです。神に喜んでもらおうと、献げ物を山のように積み上げても、主と出会うことはできません。神が喜ばれるのは、そのような献げ物ではなく「悔いし砕けし霊魂」です。
ですから、冒頭の聖句が語っているように、彼らが自分の罪を認めて主を慕い求めるようになるまでは、主と出会うことができません。
あの放蕩息子も最後には、「父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と告白して戻ってきました。
自分は間違っていないと主張している間は、私たちの心はかたくなで、主と出会うことができません。しかし、自分は間違っていたなぁ~と、自分の罪を認めると、不思議とその心は柔らかくなって、主と出会うことができます。そんな「悔いし砕けし霊魂」こそが、主を知ることになるのです。詩篇51編17節で述べられている、「神が喜ばれるのは悔いし砕けし霊魂である」とは、心に刻むべき教えです。
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