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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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ホセア書 5章

2023年05月31日 | ホセア書
ホセア書 5章
彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。
(5・15 新改訳)


先の第4章では、祭司の問題が取り上げられましたが、第5章では祭司たちよ、これを聞け、イスラエルの家よ、心をとめよ、王の家よ、耳を傾けよ、さばきはあなたがたに臨むと語られ、指導者たちへの問いかけが続きます(5・1)

いったい何が彼らの目を塞いでいるのか。いったい何が神を知る正しい知識を妨げているのか。次の聖句に、その鍵が記されています。

彼らの行いは彼らを神に帰らせない。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ。」(5・4)

「彼らの行い」とは、偶像礼拝のことです。偶像を慕い求めることによって、真の神である主に立ち帰ることができないでいる。その原因は、淫行の霊が彼らの内にあるのだと指摘しています。淫行の霊とは、悪霊のことです。真の神から目を背け、真の神への貞操を失わせる悪霊のことです。

本来、人は霊的存在ですから、神を慕い求める霊的本能があります。しかし、罪をおかして神に背を向けるようになって以来、誤った神……すなわち偶像を求めるようになったのです。

また、悪魔や悪霊も、人の霊的本能を拠り所にして、神秘体験や御利益をもって偶像礼拝を盛り立ててくれます。こうして、偶像を拝むことは、その偶像の背後に働く悪霊と関わることになります。やがて、それは悪霊の支配へと展開して行きます。

このことを、新約聖書ではこの世の神々と呼び、その悪霊たちが、まことの神へ目を向けることを妨げているのだと指摘しています。

彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)

ホセアを通して語られた御言も、同様に述べています。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだと。この状態で主を求めても、主と出会うことができません。

そこで、次のように語られています。彼らは羊の群れ、牛の群れを携えて行って、主を求めても、主に会うことはない。主は彼らから離れ去られた(5・6)

「羊や牛の群れ」は、礼拝で主にささげる犠牲のことです。神に喜んでもらおうと、献げ物を山のように積み上げても、主と出会うことはできません。神が喜ばれるのは、そのような献げ物ではなく悔いし砕けし霊魂です。

ですから、冒頭の聖句が語っているように、彼らが自分の罪を認めて主を慕い求めるようになるまでは、主と出会うことができません。

あの放蕩息子も最後には、「父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と告白して戻ってきました。

自分は間違っていないと主張している間は、私たちの心はかたくなで、主と出会うことができません。しかし、自分は間違っていたなぁ~と、自分の罪を認めると、不思議とその心は柔らかくなって、主と出会うことができます。そんな「悔いし砕けし霊魂」こそが、主を知ることになるのです。詩篇51編17節で述べられている、神が喜ばれるのは悔いし砕けし霊魂であるとは、心に刻むべき教えです。


ホセア書 4章

2023年05月30日 | ホセア書
ホセア書 4章
祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。
(4・4)


ホセアとゴメルのその後は記録されていません。

第4章からは、ホセアに託された神からのメッセージです。テーマは、霊的姦淫である偶像礼拝におぼれるイスラエルに悔い改めをせまるものです。しかも、その対象の中心は「祭司」に向けられています。神は祭司たちに向かって、わたしと争うのは、あなたと争うのだと言われるのです。

祭司はイスラエルの宗教指導者たちです。主なる神とその御言を正しく教え導く立場の者に対して、主は問うておられます。

第1章でも述べたことですが、信仰の本流は南ユダとエルサレム神殿にあります。しかし、北イスラエルは独自の神殿を建て、しかも、そこに金の子牛の像を安置し、これが我らの主であると教えたのです。

そのような経緯で、北イスラエル王国では祭司職が大きく歪められてきました。御用学者ならず御用祭司たちは、国の方針にそった神学を展開し、民に宗教教育を施してきたのです。

神の御言を正しく伝える……。このことは、現代の祭司であるクリスチャン及び教職者たちにも問われることです。神はどのようなお方なのか。そして、神の御子キリストはいかなるお方なのか。このことを、右にも左にもそれず正しく伝えなければなりません。

なぜなら、わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」と言われるからです(4・6)

神を知る正しい知識がないので滅びると言われるのです。行いが悪いから滅びるのでしょうか。人格的に堕落しているから滅びるのでしょうか。

もちろんその通りなのですが、その行いとか人格を形づくるのは「知識」です。つまり考え方の領域です。何を考え、何を行うのかは知識に基づいて生み出されます。その「知識の領域」が歪んでいるので、人格も行いも歪みます。 

そして、知識の基本は神を知る知識です。神を畏れることが知識のはじまりだと言われているとおりです。だから、主を知るべきです。私たちの創造主であり、救い主である神を知ることこそ、本当の知識であり、考え方の基本です。


ホセア書 3章

2023年05月29日 | ホセア書
ホセア書 3章
そこでわたしは銀15シケルと大麦1ホメル半とをもって彼女を買い取った。
(3・2)


ホセアと姦淫の妻ゴメルとの関係は完全に破綻していました。もはやだれの目にも修復不可能な状態でした。しかし、神はとんでもない命令をホセアにお与えになったのです。

主は私に仰せられた。再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、他の神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように』。」(3・1)

今さら何を言われるのですか。もう遅いです。もう無理です。そう言いたくなります。しかし、神にとって「もう遅い」とか「もう無理」ということがありません。そして、「今さら」ということもありません。神の恵みは深く、その慈しみは大きいのです。

ホセアは行って命じられたとおりにしました。罪の奴隷となっていたゴメルを、代金を支払って買い取りました。この買い取ることがあがないです。

ホセアがゴメルにしたように、神は、御子イエス・キリストの命を支払って、罪の奴隷である私たちを買い取られたのです。つまり、あがなわれたのです。これほどの愛を受けたのですから、私たちは二度と罪の奴隷となってはなりません。

ホセアはゴメルにこう告げたのです。これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、他の男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう(3・3)

ホセアのなしたことは簡単なことではありません。しかし、神ご自身も〝姦淫の妻〟であるイスラエルを愛して、ご自分のものとしようとなさっているのです。その愛を知ってホセアは、神の愛を自らの行動をもって表現したのでしょう。 神が私たちを愛してくださったように、あなた方も互いに愛し合いなさい……というわけです。 

さて、神がご自分の御子イエスの血でイスラエルをあがない出されるのは、ホセアが預言した時点ではまだ成就していませんでした。時と場合については、次のように語られています。

それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。(3・4~5)

長い間、王もなくとは、国を失った状態が長く続くことを意味しています。また、いけにえも石の柱もなくとは、神殿儀式が途絶えることを意味しており、神殿そのものが破壊されてしまった状態であろうと思われます。しかし、その期間が終わると、彼らは帰ってくるのです。 

そうです。イスラエルは長い間、国を失い、ついに約束の地に戻ってきました。そして、終わりの日に、彼らの心も主の恵みのもとに戻ってくるはずです。神の御言は必ず実現するのです。


ホセア書 2章

2023年05月27日 | ホセア書
ホセア書 2章
わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。
(2・20)


ホセアの妻ゴメルは、その後どのようになったのでしょうか。第2章の内容は、彼女の奔放な生き方を描いていますが、同時に彼女の姿は当時のイスラエルの霊的堕落をあらわしています。

他の男と関係を持つゴメルは、妻と呼ぶにはあまりにも相応しくない生活でした。彼女はわたしの妻ではない、わたしは彼女の夫ではないと言わざるを得ません(2・2)

そして、彼女はホセアのもとを出て、他の男のもとに行ってしまったようです。

「彼女は言った、『私はわが恋人たちについて行こう。彼らはパンと水と羊の毛と麻と油と飲み物とを、私に与える者である』と。」(2・5)

しかし、そのような生き方が安息をもたらすはずがありません。神は、彼女の姦淫の罪を放置なさいません。やがて白日の下にさらし、彼女の罪を罰せられます(2・10~13)

ですから、「わたしは今、彼女のみだらなことを、その恋人たちの目の前にあらわす。だれも彼女をわたしの手から救う者はない。わたしは彼女のすべての楽しみ、すなわち祝、新月、安息日、すべての祭をやめさせる。

わたしはまた彼女が先に『これは私の恋人らが、私に与えた報酬だ』と言った彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒し、これを林とし、野の獣にこれを食わせる」と主は言われます(2・10~12)。

罪は必ずさばきを受け、そして、その結果を支払うことになります。

でも、それは、私たちの罪をきよめるためです。私たちが悔い改めて、神のもとへ立ち帰るためです。神のさばきは、私たちをきよめ、聖なる夫に相応しい民を得るためであることを忘れてはなりません。

しかし、そんな厳しいさばきの中でも、悔い改めない人々がいるのも事実です。世の終わりを預言した黙示録では次のように記されています。

「これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金・銀・銅・石・木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。」(黙示録9・20)

悔い改めて神に立ち帰るものは幸いです。神は、そのような人と永遠のちぎりを結ぶと言われるからです。〝ちぎり〟とは、結婚の契約のことです。今やこの〝ちぎり〟は、花婿なるキリストとその花嫁……つまり、イエスを信じる教会との間に結ばれています。

ホセアはゴメルの悔い改めを願ったであろうし、また、神もイスラエルの民が、偶像礼拝から離れ、真の主人である神だけを愛し、礼拝し、仕える民となるようにと回復の時を目指しておられます。


ホセア書 1章

2023年05月26日 | ホセア書
ホセア書 1章 
さきに彼らが
あなた方は、わたしの民ではないと言われたその所で、あなた方は生ける神の子であると言われるようになる(1・10)


ホセアは北イスラエルで活動した預言者です。

その活動の始まりは、「イスラエルの王ヤラベアムの世」とありますので、紀元前750年代のことです。 ※北イスラエル初代の王ヤラベアムではない。区別のためヤラベアム二世とも呼ばれる。

ソロモン王の死後イスラエル王国は、南はエルサレムを首都とする「南ユダ王国」、北はサマリヤを首都とする「北イスラエル王国」のふたつの王国に分裂しました。

北イスラエルは人口など国力の面では南ユダにまさっていましたが、信仰においては堕落の一途をたどりました。それは、エルサレム神殿に対抗してサマリヤに疑似神殿と金の子牛像を建立したことに端を発していました。

正しい道へ引き戻そうと、神がエリヤやエリシャ等の預言者を遣わされたことは、列王紀に記されているとおりです。

時代はヤラベアム二世の死後、北王国は王の暗殺がくり返され、まさに下克上の時代へと突き進みます。そして、アッシリヤ帝国によって紀元前722年に北イスラエル王国は滅亡します。そんな激動期に預言したのがホセアです。

ホセアは神から特別な命令を受けました。

それは、行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ。この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからであるというものでした(1・2)

これを聞いて、はい分かりました……とは、言えない内容です。ホセア書のすごいところは、預言者ホセアはそれに従ったところです。

そこで、ゴメルという名の女性と結婚し、彼女が生んだ3人の子に、
①エズレル(神は散らすの意)、
②ロルハマ(あわれまない、愛されないの意)、
③ロアンミ(我が民ではないの意)
と命名するように神は命じられました。

ゴメルは淫行の妻と呼ばれているように、男女関係にふしだらな女性であったようです。あるいは売春婦であったのかも知れません。だから、彼女が生んだ子の中には、ホセアとの間に授かったのではない子もいたようです。第2子のロルハマと、第3子のロアンミは姦淫によって身ごもった子だと思われます。出生時に、「ゴメルは産んだ」とだけ記録されているからです。また、「淫行によって生まれた子を受け入れよ」との神の命令からしてそうなのでしょう。

まさに我が民ではないロアンミ)」と呼ぶべき子を、ホセアは受け入れなければなりませんでした。この受け入れがたい結婚と人生を通して、ホセアは神の御心を体験的に学ぶことになりました。

ゴメルが淫行の妻であるように、イスラエルの民は真の神である主以外の偶像を神として拝み、偶像礼拝によって堕落していました。神ならぬ神々を礼拝することは、夫がある身でありながら、他の男と交わる淫行の妻と同じであると言われるのです。

つまり偶像礼拝とは霊的姦淫なのです


ところで、ひとつ疑問に思います。言葉で、「偶像礼拝を離れよ。それは霊的な姦淫と同じだ」と語ればすむことなのに、何もホセアにそこまでさせなくてもよいのではと思うのです。

ホセアにとってはゴメルとの結婚生活は負担であり、重荷であったに違いありません。でも、そんな彼だからこそ、実感をこめて語ることができたことでしょう。

神がホセアを通して語られるのは、「我が民ではない」と言うべきイスラエル民族の堕落した姿です。また、あまりにも不誠実な民ゆえに「もう、あわれまない」と見捨てられたイスラエル民族です。しかし、それでも神は、「これはわたしの民だ。生ける神の子たちだ」と宣言なさるのです(1・10)

もちろん、まだこの時点では、神のその宣言は実現していません。しかし、神はその宣言どおりにやがてなさるのだと、主は言われるのです。神が、裏切りの民を我が子だとおっしゃるに至るまで、いかに苦しまれたことでしょう。そして、ホセアも同様に苦しみました。神と同じ苦しみを味わった預言者……それがホセアなのです。

この宣言が実現するのは、キリストが来臨されてからのことです。

ですから、こう告げられています。私たちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。私たちは、すでに神の子なのである(Ⅰヨハネ3・1)。神の深い忍耐と愛を感謝しよう。


ダニエル書 12章

2023年05月25日 | ダニエル書
ダニエル書 12章
ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
(12・9)


ダニエルに与えられた「終わりに時代」についての預言はこの12章で終わりです。

さすがのダニエルをしても、この預言のすべてを理解し尽くすことができませんでした。その真相を知ろうと、彼は求め祈ったのですが、主からの答えは冒頭の聖句のように終わりの時まで、秘められ、封じられているのです。

しかし、何もかも闇の中というわけではありません。

敵対する反キリストの働きはいつ終わるのか……という質問に対しては、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就すると応えられています(12・7)

でも、その真相は終わりの時代に明らかになるはずです。

すでに、イエス・キリストが一回目の来臨をなさいました。新約聖書に啓示された神の御言によって、多くの部分が明らかにされてきました。特に、ヨハネの黙示録によって封印は解かれ始めます。

ダニエルの時代には、終わりの預言解説は一部分であり、残りは〝封印されましたが、その封印が解かれる時代が来ます。

ヨハネの黙示録には、終わりの出来事を記した巻物が登場し、それには〝7つの封印〟がされており、その封印を解くお方は神の小羊なるイエス・キリストであると描かれています。

この預言を理解することは思慮深い者たちに許されています。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟るのです(12・10)。「思慮深い」とは、あの10人の乙女たちの内5人が予備の油を用意していたように、聖霊の油そそぎを受けて目覚めている人のことです。

終わりの時代に、私たちは聖霊の油を受けて目覚めていましょう。そして、世の終わりにむけて警鐘をならす者でありましょう。
 

ダニエル書 11章

2023年05月24日 | ダニエル書
ダニエル書 11章
しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。
 (11・45)


ダニエル書の預言は、世の終わりに患難が待ち受けていることを告げるのですが、しかし、その患難さえも神の大きな御手の中にあります。だから、神の御言は、大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさいと励ましています(10・19)

そう告げた御使は、先にペルシャの君 ――ペルシャを支配する堕天使たちのこと―― との闘いをミカエルに託してきたのだが、その闘いに加勢するために戻らなければならないこと。その闘いを終えると次にはギリシャの君との闘いになるのだと告げています。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。(10・20)と。地上ではペルシャやギリシャという獣の国が登場するが、霊的な世界では天使たちと悪魔や悪霊たちとの戦いが展開しているのです。ここまでが先の10章でした。

続いて11章では、そのギリシャとの闘いがどのような変遷をたどるのかを預言しています。

ペルシャの第四の者(11・2)とはクセルクセエス王、ギリシャからおこる一人の勇敢な王(11・3)とはアレキサンダー大王のことです。

先の8章で、1本の角をもった「雄やぎ」から4本の角が出るが、それはアレキサンダー死後にギリシャが四分割されることの預言であると見ましたが、今日の11章では四分割されたなかでも、北の王南の王について述べられています。

「北の王」とはシリヤを中心に支配したセレウコス王朝。「南の王」とはエジプトを中心に支配したプトレマイオス王朝のことです。両者の激しい攻防がみごとに預言されているのは驚きです。

北が南と和睦すると見せかけて娘のひとりを与えて(11・17)とは、クレオパトラ1世のこと。さらにひとりの卑劣な者とは、北の王であるアンティオコス・エピファネスのことです(11・21)

彼は歴代の王の中でも邪悪な王として有名です。彼は、ユダヤ人に対して憎悪をあらわにし、ユダヤ人迫害の勢いを増しました。

契約の君主が打ち砕かれた(11・22)とは、ユダヤ人の大祭司オニアス三世の殺害のことです。そして、エルサレム神殿の礼拝を禁じ、自らを神と宣言し、豚を生け贄としてささげさせるなどの冒涜をかさねた王です。そして、彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据えると預言された通りでした(11・31)

このアンティオコス・エピファネスは、やがて終わりの時に登場する反キリストを予表しています反キリストの活動は、テサロニケ人への手紙、ヨハネの黙示録でも預言されています。しかし、聖書が告げるのは、彼は滅ぼされるということです。

ところで、終わりの時代に、なぜ反キリストが登場するのでしょうか。

第一に、悪魔とその仕業が滅ぼされる時が近づくにつれて、その闇の姿があらわにされてくるからです。悪魔の力が神より強いわけではありません。それとは逆で、きよめる力が強まるので、闇の様相が明るみに出されるのです。

ばい菌におかされた患部から膿が出てきれいになるように、神は、悪魔とその仕業をあらわにして、滅ぼしてしまわれます。

第二に、信仰を本物にするためです。私たちにとってはつらいことですが、反キリストの働きの中で、私たちの信仰がためされ、鍛えられ、磨かれます。

特に、終わりの時代は、イスラエル(ユダヤ人)の救いの時です。彼らが悔いあらためて、キリストの来臨を待望するためです。イエス様は、ご自分が再臨なさる時の条件を次のように語られました。

「わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ23・39)

終わりの時代になって、反キリストがイスラエルを迫害する大患難の時期を経て、ようやく彼らは悔い改め、キリストの来臨を求める時代が来るのです。

今や最終段階に向かって歴史は進んでいます。どうか、イエス・キリストにある信仰がますます強められますように……。


ダニエル書 10章

2023年05月23日 | ダニエル書
ダニエル書 10章
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたの言葉は聞かれているからだ。私が来たのは、あなたの言葉のためだ」。
(10・12)


ダニエルに与えられた幻とその預言は、これから後の時代の流れを予見するものでした。神の御国が完成なることを願うものの、そこに至るまでには大きな試練を通過しなければなりません。

特に同胞であるユダヤ民族が受ける戦いの大きさを思う時、ダニエルは祈りを深めて行きました。彼のささげる断食祈祷は3週間に及んでいました。 ※この断食は「ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった」というもの(10・3)。完全に絶食する場合もあれば、粗食にして祈るとか、1食だけにして祈るなど工夫がある。大切なことは祈りに専念すること。

さて、ダニエルが祈った言葉は、天使によって神に届けられ、神からの応答もまた天使によって帰って来ました。12節の「彼」とは祈りに対する神からの応答をもたらす天使のことです。

ダニエルの祈りの場合は、このようにして可視的な形で天使の働きを見たわけですが、ほとんどの場合は見えません。でも、私たちの祈りは、御使が神のもとへ確実に届けてくれているのです。

※イエスを信じる者には、信仰を助けるために神からの御使が仕えてくれている。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」存在である(ヘブル1・14)

※獄から脱出したペテロが仲間を訪ねた時、そのことをにわかに信じられない人々は「ペテロの御使だろう」と言ったとある(使徒12・15)。神からの天使が各自に仕えているのだ。

※ゲッセマネで祈ったイエスを「御使たちが励ました」という記録もある(ルカ22・43)

ですから、私たちが祈る時、御使たち天使たちも活発に働いてくれるのです。私たちが神に奉仕しようとする時、私たちがよい働きができるように、天使たちも仕えてくれるのです。

ダニエルの祈りに対する神の応答もすでになされていたのですが、ダニエルのもとに届くのに時間を要したようです。祈りの応答が遅れたのは「ペルシャの国の君」による妨害があったのだと説明しています。

ペルシヤの国の君が21日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ(10・13~14)

この「ペルシャの国の君」とは、新共同訳がペルシャ王国の天使長と翻訳しているように、人間の王のことではなく天使のことです。しかもこの場合、天で堕落した天使、神に敵対するサタンとその仲間たちのことです。神に敵対する王国の背後には、このような堕天使たちの働きがあると考えるべきでしょう。

この場合も、神からダニエルへの応答をたずさえた天使は、彼らの妨害にあって足止めをくわされたというわけです。しかし、天使長のミカエルが助けに来てくれたので、その戦いを彼に任せて、自分はダニエルのもとに到着したのだというのです。

こうして、ダニエル書10章には、祈りの霊的な舞台裏の様子が記録されています。

このことからも分かるように、私たちが祈る時、霊の世界でも戦いがあるのです。私たちが祈れば祈るほど、御使たちの働きは盛んになりますが、同時に祈りを妨害しようとする悪魔や悪霊の働きも活発になります。まさに祈祷祈闘でもあるのです

確実に言えることは、神の御名で祈った祈りの応答は必ずあるということです。ただ、ダニエルの祈りがそうであったように、妨害があって彼の場合は21日間の遅れが生じたのです。

冒頭の聖句で、私が来たのは、あなたの言葉のためだとあるように、祈りの言葉の応答として、神は必ず応えてくださることを意味しています。ですから、信頼して祈りましょう。応答を期待して祈りましょう。


ダニエル書 9章

2023年05月22日 | ダニエル書
ダニエル書 9章
その62週の後、油そそがれた者(メシヤ)は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
(9・26)


ダニエルに示された預言は、更に核心部分へと迫ります。それは、油注がれた者すなわちメシヤキリストの来臨に関する預言です。

この第9章の前半部分はダニエルの祈りです。

ユダヤの国が滅び、民はバビロンの捕囚となり、神殿が破壊されたのは、自分たちの不信仰ゆえであるとの告白と悔い改めの祈りです(9・3~19)。言い訳がましくない潔い祈りです。

その祈りに応えて、神は、御使ガブリエルをつかわして御言をダニエルに告げられたのです(9・21~23)

数多くいる御使(天使)のなかでも、ガブリエルは御告げのための天使長と考えられています。一般的な祈りの応答であれば、位の低い天使が御告げをもって来るのでしょうが、この場合はキリスト来臨に関する重要な預言であったため、天使長のガブリエルがもたらしたのでしょう。キリスト誕生をマリヤに告げたのもこのガブリエルでありました。余談ですが、ミカエルは天の軍勢の天使長といわれています。

さて、預言の内容を見てみましょう。

まず、あなたの民とあなたの聖なる都については、70週が定められているのです(9・24)。この70週のことをダニエルの70週と呼びます。

つまり、イスラエルの救いと御国の完成までに70週が定められているのです。この場合、1週は7日のことではなく、7年のことです。そして、油注がれた者であるメシヤ……つまりキリストが登場するまでに、7週と62週が経過するというのです。次のように記されています。

それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよとの命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが7週。また62週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(9・25)

これは新改訳聖書の翻訳なのですが、口語訳の翻訳の方が分かりやすいでしょう。

それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。(9・25)

預言によれば、メシヤが登場するまでに、7週と62週で〝69週〟が経過することになっています。69週とは、69×7年で483年です。いつ起点にして計算するのでしょうか。エルサレムを建て直せという命令が出てからです。

では、この命令はいつのことでしょうか。

BC538年に、ペルシャのクロス王が出した命令でしょうか。クロス王は、ユダヤ人の奴隷解放と祖国帰還を許可した勅令を出したのですが、この時ではありません。

BC457年に、ペルシャのアルタシャスタ王が、エズラに対して「神殿再建」を命令するのですが、この時でもありません(エズラ記7章)

その後、アルタシャスタ王は、ネヘミヤに〝エルサレムの町の再建〟を命じます。これはBC445年のことです。この時をもとに計算すると、それはイエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城なさった日に相当するのだと算出する学者もいます。この計算の場合、1年を360日で計算しています。まさに、イエスがご自分をキリストだとを表明なさった日にあたります。 ※キリストはロバの子に乗ってエルサレムに入ると、ゼカリヤは預言した。だから、イエスがそのようにして町に入られたのは、ご自分がキリストであることの表明と考える。

さあ、そのキリストが登場するとどうなるのでしょうか。その62週の後、油そそがれた者は断たれると預言されています(9・26)。 ※「油注がれた者とは「メシヤ」「キリスト」のこと。

まさにダニエル書の預言どおりです。イエス様はロバに乗ってエルサレムに入られた日の週の金曜日に十字架で殺されました。 

さらに、油注がれた者であるメシヤが断たれた後のエルサレムはどうなると預言されていますか。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められているのです(9・26)

この来るべき君主とは、第4の獣の国の王のことです。「大きな像」の預言でいえば、鉄と粘土でできた足の部分……つまり、ローマ帝国の君主のことです。まさに預言どおりにローマ帝国は、紀元70年にエルサレムの町と神殿を破壊し、その崩壊と混乱が始まりました。そして今に至っています。

ここまでが、「ダニエルの70週」のうちの69週までの内容です。

では、残りの1週である7年はどうなったのでしょうか。69週とは区切ってこう記しています。

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。(9・27)

69週目と残りの1週との間には、時間的な空きがあると理解すべきでしょう。というのは、ローマ帝国の君がエルサレムの町と神殿を破壊し、荒廃においやった所まで実現していますが、その後の1週7年の出来事はまだ実現していないからです。

27節の「彼」とは第4の獣の君主のことです。彼は、終わりの時代にイスラエルと契約を結びます。この契約は、世界の火薬庫と言われる中東に平和をもたらすかと思われる内容でしょう。

すると、最後の1週が動き出します。ここで、黙示録に記された終わりの時代の「患難期」が7年…、すなわち1週であることと一致します。

しかし、週の半ばに……つまり3年半が経過すると、彼は契約を破棄して、神殿に座して、自らを神と宣言します。そして、残りの3年半(ひと時とふた時と半時)にイスラエルを大迫害します(ダニ7・25、9・27)。イスラエル史上最大の患難です。

このようにして、終わりの時代に、第4の獣とその帝国が登場するわけです。69週目の時もそうであったように、最後の1週もローマ帝国のような巨大な帝国です。現在の欧州連合がそれだとするのは早計です。しかし、世界がグローバル化しようとする潮流は、第4の獣が登場する舞台と言えるでしょう。

このように、ダニエル書は歴史を支配される神の預言として注目すべき書物です。終わりの時代に生きる私たちは、この書物を通して、目を覚まして祈り、福音を伝える任務をいただいています。


ダニエル書 8章

2023年05月20日 | ダニエル書
ダニエル書 8章
しかし、人手によらずに、彼は砕かれる。
(8・25)


先の「四つの獣」について預言したその3年後、ダニエルは雄羊と雄やぎの幻について預言しました。時はバビロン帝国の時代です。

雄羊には2本の角がありました。その後に登場する雄やぎには1本の角があったが、やがてそれは折れて4本の角を生やします。この幻については、ダニエルは御使ガブリエルによって解説を受けています。

2本の角を生やした雄羊とは、メディア・ペルシャ帝国のことです(8・20)。この国はメディアとペルシャの二つの王国が連合した帝国であって、2本の角はふたりの王を意味しています。

バビロンはこの2本の角を生やした雄羊によって倒されます。つまり、メディア・ペルシャ帝国によってバビロンは滅ぼされると預言したわけです。これは史実の通りです。

次に、その雄羊(メディア・ペルシャ帝国)は、1本の角を生やした雄やぎによって倒されます。この雄やぎとはギリシャ帝国であって、その角はギリシャの王を意味します(8・21)

この王とは、アレキサンダー大王のことと思われます。彼は破竹の勢いで世界を支配下に治めました。先の7章では「豹のような獣」だと預言されていましたが、まさに、アレキサンダーは豹のようにすばやく世界を征服した王でした。

しかし、雄やぎの1本の角が折れるようにして、アレキサンダーは遠征中にマラリアで急逝しました。そしてその後、4本の角が出てくるようにして、ギリシャ帝国は4人の王によって分割統治されました。4本の角について次のように預言されています。

その角が折れて、代わりに四本の角が生えたが、それは、その国から四つの国が起こることである。しかし、第一の王のような勢力はない。(8・22)

この預言の通りに、アレキサンダー大王の死去の後、①マケドニヤ ②小アジア ③シリヤ(セレウコス朝) ④エジプト(プトレマイオス朝)の4つに分割されました。更に預言はつづきます。

彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行ない、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。(8・23~24)

この王とは、③のセレウコス朝シリアの王、悪名高きアンテオコス・エピファネスのことを預言していました。

アンテオコス・エピファネスは狡猾かつ冷酷な王として人々を震撼させた王でした。彼は、ユダヤ人に対して高圧的な支配をなし、神殿における礼拝の禁止、聖書所持の禁止、挙げ句の果てに彼自身は自らを神と宣言し、エルサレム神殿で豚をささげたのです。

律法において豚は汚れた動物とされていましたら、まさに、神への冒涜、神への反逆でした。ただ、この獣の暴虐ぶりも2千300日の期間であると預言されていました(8・14)

実はこの後、ユダヤ人の祭司の家系である「マカベヤ家」の人々を中心に抵抗運動がおこり、アンテオコスの軍勢を打ち破り、ユダヤの独立を勝ち取った時代がもたらされます。

大祭司オニアスが殺害されて神殿が汚されるようになって2千300日後。BC165年12月25日に独立を勝ち取り神殿を奪還しました。この日は宮きよめの祭として今日まで覚えられています。 ※ヨハネ福音書10・22の「祭」はこの「宮きよめの祭」のことである。

アンテオコスのような人物は、やがて終わりの日にも登場するのだと新約聖書は預言しています。聖書はその人物を反キリストと呼んでいます。黙示録では、彼は獣と呼ばれ、すでに説明してきたように、霊的には歴代の獣の系譜をくむ者です。最後に登場する第4の獣です。

この悪魔的な流れは、ユダヤ人を滅ぼそうとする政策で同じです。エステル記に登場するユダヤ人殺害を合法化したハマンや、生まれた男児の殺害を命じたエジプトの王パロもそうです。近代では、ナチスのヒットラーもそうです。みな、反キリストの霊を受けた人物といえるでしょう。

神はユダヤ人(イスラエル)を通してご自身のご計画を成そうとしておられます。それは、結論から言えば「天で堕落した御使たちを終わりの時代にさばき、滅ぼすこと」です。それを阻止しようと反キリストの力は終わりの時代に至るまで働いています。特に反ユダヤ主義として現れています ※神は異邦人である我々を軽んじているわけではない。私たちもイエスを信じて神の民、神の子どもたちとして、神のご計画に用いられるように定められている。

この反キリストの最後については、「第二テサロニケ」「ヨハネ黙示録」にくわしく記されています。

いずれにしても、冒頭の御言のように人手によらず彼は砕かれるのです。つまり、天からの超自然的な介入によって滅ぼされるという意味です。それは、イエス・キリストの再臨によってなされるのです。いかに、反キリストの働きが激しくても、彼らの滅びと、イエスを信じる者の勝利は定められています。目先の恐れに戸惑うことなく、イエスへの信仰を貫こう。


ダニエル書 7章

2023年05月19日 | ダニエル書
ダニエル書 7章
 人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
(7・13)


第7章からはダニエルが見た幻による預言が記されています。この幻は、バビロンの最後の王であるベルシャツァルの元年とありますから、先の6章より時代がさかのぼります。

彼が見た幻は四頭の大きな獣でした(7・3)

先の第4章で少しふれたのですが、聖書では、神に敵対する王とか国のことをと呼んでいます。本来あるべきは、主である神に従う人間であり、そのような人々の国です。しかし、悪魔によって人類に罪が入り込み神に背を向けるようになってから、人とそのなす王国には、悪魔からくる「獣性」が流れていることを指摘しました。

この「獣」は時代ごとに姿を変えて登場し、世界を支配し、われこそ神であると宣言する王たちです。そんな獣がどのような順序で登場し、また滅びて行くのかを、ダニエルの見た幻は預言しています。

この獣としての王国の歴史は、すでに2章で金と銀と銅と鉄と粘土でできた像の預言で少しふれていますが、さらにその詳細が、第7章で語られる獣の幻です。

そして、この獣の最終段階は、ヨハネの黙示録でその本性が明らかにされて行きます。黙示録で登場する獣は、ダニエル書の第4の獣と同じ様相をしていることは注目すべき点です。

さて、獣の登場順序を見て行きましょう。これは先の第2章で語られた各種の金属でできた「大きな像」と同じ順序です。

第1の獣は「獅子」です。

これは、バビロン帝国です。第2章でみた大きな像の「金でできた頭の部分」に相当します。この「バビロン」という名は、神に敵対する名として黙示録に至るまで登場します。

第2の獣は「熊」です。

これは、バビロンの次に登場したペルシャ帝国をあらわしています。正確には「メディア・ペルシャ帝国」という二つの王国の連合帝国です。先の大きな像の「銀でできた胸と腕」の部分に相当します。

第3の獣は「豹」です。

これは、ペルシャの後に興るギリシャ帝国をあらわしています。大きな像の「銅でできた腹と太もも」の部分に相当します。

第4の獣は「10本の角を持つ恐ろしい獣」です。

これまでにはない凶暴で残忍な帝国です。大きな像の「鉄でできた足と、鉄と粘土が混ざり合った足の指」の部分に相当します。強いようですが、粘土が示すように弱さも内包しています。この獣には10本の角がありますが、黙示録で登場する獣も10本の角があるのと似ています(黙13・1)

この第4の獣は、ギリシャ帝国の後に興るローマ帝国をあらわしていると考えられます。第4の獣は非常に恐ろしい帝国であって、聖徒たちを3年半の期間にわたって迫害すると預言されています。

彼は、いと高き方に逆らう言葉を吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
(ダニエル7・25)


この聖徒たちとはイスラエルの民のことです。しかし、この最後の大迫害は期間が限られていて3年半です。黙示録に登場する獣もまた、同じく、ひと時とふた時と半時の期間、聖徒たちを迫害すると記されているのも同じです(黙12・14)

「ひと時」とは1年、「ふた時」は2年、「半時」は半年を意味しており、合計の3年半は「42ヶ月」とか「1260日」とも言い換えられています(黙11・2~3)。7年の半分であることを覚えておいてください。

この第4の獣が支配する時代に、全世界にさばきが行われ、獣は滅ぼされ、神の聖なる御国の支配が完成するのだと預言されています(ダニ7・26~27)

このさばきは、キリストによってなされます。そのキリストが来られる様子が13~14節の聖句です。

見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(7・13~14)

イエス・キリストがご自分のことを人の子と自称されたのは、この預言の成就として語られたととらえるべきでしょう。だから、「あなたはキリストなのか」との問いに対して、人の子が雲に乗って来るのを見ることになるとお応えになったとおりです(マタイ26・64)

しかし、イエス・キリストが一度目に来られた時は、雲に乗ってこられたのではありませんでした。マリヤの胎をとおして来られました。しかし、二度目に来られる時は、雲に乗って来られます。

イエス様が復活後、天に昇られる際に、雲につつまれて天に引き上げられましたが、「あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなた方が見た時と〝同じ有様で〟、またおいでになります」(使徒1・11)

一度目に来られた時は、第4の獣であるローマ帝国が支配している時代であったように、二度目に来られる時再臨の時も、第4の獣が支配し、われこそ神であると宣言し、聖徒たちを滅ぼそうと、かつてない迫害がもたらされる時代です。

つまり、第4の獣は、一度は滅びたようですが、再び息を吹き返すようにして、終わりの時代に登場するわけです。現在の私たちは、その中間の時代を生きているのです。この期間のことを、「異邦人の期間」とか「教会の時代」と呼びます。しかし、その時代が終わると、いよいよ第4の獣の再来です。

この第4の獣の働きの間に生じる〝中間期〟の存在については、今後の「ダニエルの70週」という預言で説明します。第7章では獣の歴史の概要説明でとどめておきましょう。


ダニエル書 6章

2023年05月18日 | ダニエル書
ダニエル書 6章
彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
(6・10)


バビロン帝国は一夜のうちに、メディア・ペルシャ連合軍によって滅びました。

つづいて誕生したのはメディア・ペルシャ帝国です。歴代誌や列王紀などでは、その時の王はクロスと記録されていますが、ダニエル書ではダリヨス王の名が記されています。事情は諸説あって複雑です。

ただ、メディア・ペルシャ帝国が複合国家であって複数の王によって統治されていることからの違いであろうと考えられます。クロス王の別名とする説もありますが、広大な地域を支配したクロス王は、バビロニア地方をメディア人のダリヨスに統治させたという説もあります。朝マナでは後者の説に従って考察することにします。

ダリヨスが統治した地域も広大であったため、彼は120州にそれぞれの太守(知事)を任命し、その太守を統括するために3人の大臣を任命しました(6・1~2)。その3人の内のひとりがダニエルでした。この時すでに80歳前後となっていたことでしょう。

バビロン時代から名高いダニエルは、メディア・ペルシャ帝国においても重用され、ダリヨス王からの信任もあつかったことがうかがえます。

しかし、それをやっかむ人々もいました。彼らはダニエルをおとしめるために、ひとつの法案を提出し、王の署名を得て実施しました。それは「向こう30日間は、ダリヨス王以外のいかなるものをも礼拝する者は、獅子(ライオン)の穴に投げ込んで処刑する」というものでした。この法案は、王としても気分がよかったのでしょう。また、新帝国の土台を盤石なものにするためにも、新王をあがめる制度は良い方策だと考えられたのだと思います。

このような法案が実施されたことを知ってもなお、ダニエルは〝いつものように〟日に3度の祈りと感謝を神にささげました(6・10)

現実的に対処するなら、法律の期限は「30日間」なのだから、その間だけ上手くやりくりすれば切り抜けることができそうです。そのようにして、目先のいのちを長らえることを選ぶのか、それとも神への忠実を選ぶのか。問われるところです。

反対者たちは、待ち構えるようにしてダニエルを捕縛し、法律に反したダニエルを処刑するよう王に訴え出たのです。ダリヨス王は何とかしてダニエルを救おうとするのですが、王の名によって署名した法律は変更不可能です。王の権威を保つためにも例外はゆるされません(6・14~15)。かくしてダニエルは獅子の穴に投げ込まれました。王はこの結果を招いたことを悔いて、一晩中断食をして、まんじりともせずに夜を明かしました(6・18)。こんな王の対応からも、ダニエルの人となりを知ることができます。

ところが、神は御使をつかわし、獅子の口からダニエルを救い出されました。獅子たちはダニエルに何の危害も加えなかったのです。これを見た王は、ダニエルを高く上げ、ダニエルが信じる神をほめたたえました(6・23~27)

あわてることなく、恐れることなく、すべてをご支配なさっている神にゆだね従い続けたダニエルに学びたいと思います。それは、冒頭の聖句にあげたように、〝いつものように〟です。

ダニエルの祈りの生活は、〝たまに〟でもなく、〝苦しい時の神頼み〟でもありません。〝いつものようにです。いつものように祈り、いつものように礼拝し、いつものように賛美する。

そんな地道な積み重ねが私たちの人生の土台です。


ダニエル書 5章

2023年05月17日 | ダニエル書
ダニエル書 5章
あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
(5・22)

5章に登場するベルシャツァル王はネブガデネザルの息子と記録されていますが(5・2)、正確には王の娘婿ナボニドス王の息子であって、その間に3人の王が交替しています。

さて、ベルシャツァル王は大宴会を催しました。しかも、あのバビロン捕囚の戦争で、エルサレムの神殿から奪い取ってきた聖なる器を食器代わりに使っての宴会です。神のために用いる器を遊興のために使うという愚行です。このような冒涜を、神はいつまでも放っておかれるはずがありません。

すると、その宴席に突然人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いたのです(5・5)。その異様な光景と文字を目撃した王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えたのです(5・6)

この文字を解読できる者は、その場にはだれもいませんでしたが、ダニエルの存在を知る王母によって、ダニエルを呼び出すに至りました。

ネブガデネザルの時代には重用されていたダニエルでしたが、ベルシャツァル王には敬遠されていたようです。先のネブガデネザル王に「罪から遠ざかるように」と説き勧めるほどの人物は、自分を神とする人間には疎ましく感じるものです。

歴代の王からベルシャツァル王にいたるまで、彼らはダニエルを遠ざけ、ネブガデネザルの時代に神が何をなさり、何を語られたのかを知りながら心を低くしませんでした。

私たちはどうでしょうか。十字架の死に至るまで低くなられたイエス・キリストのことを知りながら、心を低くしているだろうか。神の御子さえ低くなられた事実を、私たちは忘れるわけには行きません。これを代々語り継がなければなりません。

しかし、語り継がれた神の御業を無視しつづけるベルシャツァルに告げられた神の啓示は何だったのでしょうか。

メネ、メネ、テケル、ウ・パルシンとは神が王の治世を数えて終わらせた。王は量られたが、その目方が足りない。そして、この王国はメディアとペルシャに分割されるという意味です。

自分の力で支配しているという高ぶりは、神の量るそのはかりでは、王たる身分には足りないと見られたのです。このように神は、世の権力者たちを〝はかっておられる〟のです。この者はその任にふさわしい者かをはかっておられます。

なのに、多くの権力者たちは、自分の力で王になったように錯覚しています。でも違います。メネ、メネ、テケル、ウ・パルシンはそれを言っています。

すべての権威は神からのものです。神がその座をお与えになり、しかも、〝治世を数えて〟おられます。

あのイエスをさばいたピラトに、「神から賜る権威でなければ、わたしに何もできない」と主は指摘されました。また、終わりの時代に暗躍する獣の活動期間は「ひと時とふた時と半時」「42ヶ月」だと預言されています。

つまり、すべては、神のご支配のもとにあって、神が数え、神が量っておられることを知って謙遜にならなければなりません。神は与え、神は取り去られる権威のあるお方なのですから。

この啓示が説き明かされたその夜の内に、メディアとペルシャの連合軍による奇襲攻撃を受け、王は殺され、バビロン帝国は滅びました。


ダニエル書 4章

2023年05月16日 | ダニエル書
ダニエル書 4章
それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行ないによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。
(4・27)
 ※新共同訳は24節


金の像を礼拝しなかった3人は、炉の火の中に投げ入れられたのですが、炉の中には神の助けがありました。周囲が見るには、炉の中には3人ではなく4人の姿がありました。それは天からの御使です。

※4人目の存在は天の御使と思われる。イエス・キリストだとする解釈もあるが、御子なる神の顕現は新約になってからからである。「神を見た者はだれもいない。ただ、父のふところにおられるひとり子の神だけが神を顕わしたのである」(ヨハネ1・18)が判断の基準。
※ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた時は、御使がつかわさて獅子の口をふさいでくれた(6・22)とあるので、火の炉に投げ込まれた時の「4人目」も御使だと解釈するのが妥当であろう。

この出来事の後、ネブガデネザル王はあらためて彼らの礼拝する神である主を賛美します。ですが、王の心は、主をあがめたかと思えば、自らを神とするという愚行をくり返します。

そんな揺れ動く王を正すかのようにして、神は、王にひとつの夢を見させられました。それはたわわに実った大きな木の夢でした。しかし、その木もやがて根本から切り倒され、その根株は鎖につながれ、天の露にぬれ、草をはみ、獣の心が宿るようになるという夢でした(4・9~17)

ダニエル(バビロン名はベルテシャツァル)はこの夢の真意を知って驚き恐れました。その木は王自身のことを指していたからです。王の繁栄と堕落を意味していました。これを王に告げたら怒りをかうのではと恐れますが、ダニエルは勇気をもって説き明かし、罪から離れるようにと大胆に勧めました。預言者とはいつも勇気と大胆さが求められるものです。

その後、何事もなかったかのように12ヶ月が経過しました(4・29)。この12ヶ月は、ダニエルの勧めを受けた王も神妙になっていたのではと思われます。しかし、王の本性である罪が現れてきました。

この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないかと王は高ぶり、自らを神とするあやまちをおかしたのです(4・30)

この時から、王は、獣のような生活をするようになり、野の草を食べ、夜露にぬれ、すがたかたちも獣のようになってしまいました。これは一種の精神病をわずらったのではないかと考えられます。

彼の中には、このような〝獣の性質〟が潜んでいました。それは王だけではなく、神に敵対する人間の中にも潜んでいます。獣とは、家畜とは違って、主人をもたないで自らを主とする存在です。

聖書は、神に敵対し、自らを神とする「王」とか「国」のことを獣〟と呼んでいます。やがて、世の終わりに暗躍する反キリストは〝獣〟として描かれていることの意味は深いことです。

罪人である人類の底流には、この獣性が脈々と流れています。この獣性が、ある時には、大きなうねりのようになって現れ、ある時には、次の機会をねらうかのように身を潜めています。

さて、ネブガデネザル王は獣性を露わにして、文字通り獣のような生活をしました。そして、一定の期間をおえて、彼は正気になってイスラエルの神こそがまことの神であり、ほむべきお方であることを告白するに至りました(4・37)

自分の中に流れる獣性を知り、その罪を悔い改め、罪から離れる者は幸いです。


ダニエル書 3章

2023年05月15日 | ダニエル書
ダニエル書 3章
もしそうでなくても……
(3・18)


先の第2章は、ダニエルが主と仰ぐイスラエルの神をほめたたえたネブガデネザル王の記録でしたが、その信仰告白をひるがえして、彼は「金の像」を建立し、これを礼拝するように命じました。

権力の味をしめた者は、いつの時代もその地位にしがみつきます。まことの神を認めても、最終的には自分を神の座につけておきたいという根っ子の罪が大きく横たわっているのを見ます。

この金の像はバビロンの偶像をかたどったものか、あるいはネブガデネザル自身の像であったか不明です。しかし、歴代の王たちはみな、このようにして民衆の崇拝を集め、国を統治しようとしてきました。

王の絶対権力のもと、国民はこの金の像を礼拝しましたが、ユダヤから連れてこられたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、この忌まわしい偶像礼拝を拒絶しました。 ※ここにダニエルの名がない。彼は立場上この3人とは別格であり、偶像礼拝に反対して軟禁状態にあったのではとする解釈がある。

ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれるとの王の命令に従って、彼ら3人は燃える火の炉に投げ込まれることになりました(3・6)

しかし大胆にも3人は語りました。

私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(3・17~18)

ここに信仰の本質があります。

まず第一に、神は全能の神であるという信仰です。天地万物を創造なさった神であるゆえに、目の前にある困難さえも解決し、そこから私たちを救い出すことのできるお方です。
第二に、たといそうではなくてもという信仰です。神が全能であることを疑う余地もないのですが、だからといって、神は私の利益のために全能なのではないという理解です。

たとい、目の前の危機から私を救い出すために、神がその全能の力を行使なさらなくても、私は神を信じるのです。信頼するのです。助けてくれないんだったら信じるのをやめますか。自分の都合良く行かなければ信仰を捨てますか。

そもそも信仰とは何なのでしょうか。

危機を回避するためでしょうか。物事が都合良く行くためでしょうか。もちろん神は、私たちの父であるお方ですから、そのようになさいますし、おできになります。しかし、そのことだけが信仰の目的であれば、それは一般宗教です。 神への信頼としての信仰と、利益を得る手段としての宗教とを、私たちは区別すべきです。

私たちは、自分の都合良く物事がなりますようにと祈っているのではなく、天の父の御心がなされますようにと祈っているのです。天の父の御心がなされるために、仕え、従い、用いられるのが私たちに人間の本分です。

この本分を忘れて、自分の都合に仕えてくれるように神を信じ礼拝するなら、それは信仰とは名ばかりの御利益宗教です。人間中心の世俗の宗教と何ら変わりません。

私たちは、神の御心がなされるために、神によって創造され、活かされています。ですから、時には、神の御心がなされる過程で、彼ら3人のように火によって焼かれることもあるかも知れません。

それでも私たちは、そうなさる神を信頼し、愛するのです。御子イエス様も、十字架でわが子を殺そうとなさる父の御心に、最後まで従順し、御父のなさることに信頼なさいました。

私たちも厳しい状況の中で、なぜそうなさるのですか」、「なぜお見捨てになるのですかと叫び求めます。そう求めるのは、苦難の理由を知って納得したいからです。知って、この苦難を少しでも和らげたいと願うからです。

しかし、叫んでも叫んでも、その理由が説き明かされない場合があります。でも、神は、その理由をご存知です。私には分からなくても、神がご存知であることに、おのが身をお任せするしかないことがあるのです。それでもなお、神を信頼し従います。きっと天国に行って、あの時の苦しみの理由を主ご自身から知らされ、「ああ、そうだったのですか」と神の御業の奥深さを知らされる時が必ず来ます。

その時に思うはずです。ああ、あの時、信仰を捨てなくて良かった。天の父を信頼し続けて良かった…と。ですから「たとえそうでなくても」私は、神である主を礼拝しますと告白し続けようではありませんか。