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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ピリピ人への手紙 2章

2022年06月30日 | ピリピ書

ピリピ書 2章
それは、あなた方が、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
(2・15~16)


先の1章では、私たちに与えられた救いは神の御業であって、だからこそ救いの完成に向かって確実に進められていることを見ました。だから、私たちは喜びます。たとえキリストのために苦しむことがあっても喜びます。

救いの御業を始められたキリストご自身も、この御業が完成するためにしもべの姿になられ、十字架の死に至るまで従順になられました。謙遜と従順の道です。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(2・6~8)

まず始めに、イエス・キリストご自身が「謙遜と従順の道」を歩まれました。それは、キリストに従う者も歩む道です。父が子供に見本を見せてくれるように、また、兄が弟たちのお手本になってくれるように、神は人となって、人の歩むべき姿を見せてくださいました。人間としての本来の姿とは何かを見せてくださいました。それは謙遜と従順の道です。

謙遜とはどんな生き方でしょうか。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさいという生き方です(2・3)。また、おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいです(4)。このような生き方は、イエス・キリストの内にも見られることです(5)※新改訳・新共同訳を参照。

つまり、謙遜とはキリストの生き方そのものなのです。だから、私たちもそうするのです。でも、肉なる自分は主張します。「ずっと謙(へりくだ)りっぱなしですか?」。肉なる自分は、これくらい謙ったから、そろそろ頭をもたげても良いのではと思うのです。

でもキリストはしもべの姿をとられた。そして、十字架の死に至るまでしもべとなられました。ご自分では高くあろうとはなさいませんでした。だから〝神が〟キリストを高く上げられました。

それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜(たま)わったのです(9)。ここに本当の謙遜を見ます。

こうして、私たちもキリストのように謙遜と従順の道を歩みます。その従順はキリストがそうであられたように、死に至るまでの従順です。

では、従順とはどういう生き方でしょうか。聖書は「従順であるように」と勧めています(2・12)。その第一は、内なる聖霊に対する従順です。聖霊なる神は、私の内に思いを起こさせ、かつ実現に至らせます(2・13)。「思い浮かぶことは何でも神からの思いだ」というのは極端ですが、でもあまり臆病にならないで、私の内に聖霊の思いが満たされますようにと祈って、その思いに従順することです。

日々の生活は大小の決断の連続です。事細かに、これは神の御心だろうかと祈る余裕もなく判断しています。それで良いのだと思います。だからこそ、私の思いが聖霊によって満たされるように祈るのです。「直感をきよめてください」と祈るのです。

神の圧倒的な御手の中にあることを信頼しよう。私があれこれと思案する以上に、神のご計画は、はるかに大きくて、緻密で、絶妙であることを信頼しよう。

神の御心は何か……と神経質になりすぎて、スケールの小さいクリスチャンになってしまわないようにしたいものです。先取りの喜びをもって、大胆に進もうではありませんか。

従順の二番目は、つぶやかず、疑わないこと(14)。新共同訳では、「不平や理屈を言わずに」と訳しています。つぶやきや疑いは、喜びと反比例します。

神は、私たちにすばらしい計画をお持ちです。私たちの神への従順がもたらす実は、曲がった邪悪な時代の中で、私たちが光となることです(15~16)

この地は曲がった邪悪な世界だと御言は告げます。つまり、霊的には闇の世界です。本当の光が必要です。だから、神はご自分の栄光を、地上に輝かせようとなさいます。闇の中で光を見つけたら、それはどんなにか勇気や希望を得ることでしょう。

はじめに神は、イエス・キリストを通してその輝きを照らしてくださいました。今度は、イエスを信じた私たちに栄光をあらわして、この世を照らす光となさるのです。

神が、私たちを通してあらわそうとなさる栄光の輝きは、世の栄光とは質が違って、見た目には華々しくありません。従順と謙遜によって導き出される神の輝きは地味な輝き※」です。でも、それは暖かな輝きです。小さくても決して消えない確かな輝きです。私たちはそのような存在です。自分の力で輝いても限界があります。ただ、主に対する謙遜と従順によって輝かせていただくだけです。 ※人の目に「地味」と見えるだけだ。神の視点を忘れてはならない。

最後に、命の言葉をしっかりにぎって(16)と記してあることに注目しましょう。どうぞ、今日の御言をしっかり握って、今日を歩むことができますように祈ります。

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ピリピ人への手紙 1章

2022年06月29日 | ピリピ書
ピリピ書 1章
あな方たのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと確信している。
(1・6)


本書はパウロが牢獄につながれている時、ピリピ教会へ当てた手紙です。ピリピの町はギリシャの北方に位置しており、パウロがヨーロッパに足を踏み入れて最初に誕生した教会でした。

ピリピ教会は、パウロのヨーロッパ伝道を終始援助した教会でした。パウロが投獄されたとの知らせを聞き、ピリピ教会はエパフロデトを派遣して、パウロに援助の手を差し伸べたのです。

ところが、そのエパフロデトが重い病にかかってしまい、パウロの投獄に加え、エパフロデトの病も不安をつのらせる要因になりました(2・25~30)

そんな状況の中にあったのですが、パウロの手紙は喜びにあふれています。支援への感謝と共に、どんな事態にあっても喜んでいることを手紙にしたためたのです。本書は別名喜びの手紙と呼ばれるのですが、私はそれに加えてポジティブの手紙とも呼びたいと思います。

パウロは投獄されながらも喜びました。なぜなら、投獄の最中でも、兵営の人々に福音を語ることができたからです(1・12)。実にポジティブです。

投獄を機会に、パウロを窮地に追いやろうと画策するクリスチャンもいましたが、それも喜びました。肉的な動機からでも、結局は福音が伝えられているので喜びました(1・18)。これもまたポジティブです。

また、パウロは生きるのも死ぬのも益だと告白しました(1・20~26)。死ねばキリストの御許(みもと)に召されるのだから感謝。生きていれば、福音のためにさらに働くことができるので感謝。どちらにしても喜びました。これもまたポジティブです。

さらに、イエスを信じるとは、救いの恵みを受けるのですが、キリストのための苦労も受けるのだと告白しました(1・27~30)。キリストのための苦労なので喜ぶのだと言うのです。更にこれもまたポジティブです。

いかなる環境でも喜ぶことのできる「ポジティブな生き方」はどこから来るのでしょうか。

今日の聖句は、救いは神によって始められたと述べています。そして、その救いは神によって完成されるのです。神は私たちの救いに取りかかったものの、途中で放り投げてしまわれる神ではありません。

私たちの神は「始めであり終わりである」お方です。「α(アルファ)でありΩ(オメガ)である」お方です。始めから終わりまで責任をお持ちなのです。

終始一貫して、私たちの救いを扱ってくださっています。このことを知らないと、環境が悪くなると確信が揺らいで行きます。環境のアップダウンによって救われているような、いないような不安定な心になってしまいます。

私たちの行いが良くても悪くても、私の心はそのことで揺れるかも知れませんが、イエスの十字架の血の値打ちは微動だにしません。

イエス様が私たちに与えた契約は、王の契約とよばれるものです。王の契約とは、王の責任で成し遂げられる契約のことです。このことは、旧約聖書の出来事からひもとく必要があります。

創世記15章には、神がアブラハムと結ばれた契約が記録されています。神がアブラハムとその子孫を祝福されるという契約です。神はアブラハムに、牛や羊などの生贄(いけにえ)を用意するように命じられました。そして、彼は生贄をふたつに引き裂きました(創15・7~10)。これは当時の契約の方式でした。

生贄をふたつに裂くのは、それが命がけの契約であることを意味しています。契約の当事者である双方が、引き裂かれた生贄の間を通過して、契約を誓い合うのがならわしでした。

ところが、神がアブラハムと契約を結ばれた時は状況が違っていました。〝神だけが〟引き裂いた生贄の間を通り過ぎられたのです(創15・17)

これは何を意味するのでしょうか。契約の責任は神が一方的に負われるという意味です。このように、上位の立場の者が一方的な責任で結ぶ契約を王の契約と呼びます。イエス様が私たちと結ばれた契約もまたこの王の契約です。

一方的かつ圧倒的な神の恵みの中で結ばれた契約を、私たちは受けています。これを信頼するのです。

現実ばかりを見ていると、現実の方が大きく見えてしまいます。そして、神の救いの約束が小さく見えてしまいます。しかし、現実はどんなに大きく見えても、イエスが結んでくださった契約は、小さくなるわけではありません。

この圧倒的な恩寵(おんちょう)ゆえに、私たちはいかなる状況の中でも喜ぶことができます。勝利を先取りしているようなものです。完成を先取りしているようなものです。

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エペソ人への手紙 6章

2022年06月28日 | エペソ書
エペソ書 6章
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
(6・7)


先の5章22節からは第6章に含める内容です。というのは、「人と人との関係は、神と私との関係と連動している」というテーマで共通しているからです。

神を愛するといいながら人間関係を疎(おろそ)かにするなら、それは神を愛しているとはいえません。目に見えない神を愛するとは、人間関係の中で愛することによってあらわされます。

3つの人間関係が記されています。どれも、神を愛し仕えるために大切な関係です。

(1)夫婦の関係において
(5・22~33)


夫婦は神が定めた人間関係です。妻は夫に従い、夫は妻を愛する関係です。そのような夫婦関係を通して、花嫁なる教会は花婿なるキリストに従うことを学びます。また、花婿であるキリストが、花嫁である私たちをいかに愛してくださっているかを学びます。

だから、夫婦の関係は聖なるものです。ここには、キリストと教会(私たち)とのすばらしい関係が秘められています。これは奥義です。夫婦関係を大切にすることは、キリストと私の関係を大切にすることと連動しています。

悪魔は、社会における夫婦関係を崩壊させています。こうして悪魔は、キリストと私たちの麗しい交わりに覆いをかけているのです。だから今こそ、悪魔にだまされないで、夫婦の聖なる関係を回復しなければなりません。

祈りましょう。私たちの夫婦の関係をいやしてください。妻(夫)だけを愛し、仕えることができますように。そのような夫婦の交わりを通して、キリストと教会の交わりも聖なるものとなりますように。

(2)父と子の関係において(6・1~4)

聖書は、子は父母をうやまいなさいと命じています。また、親は子を正しく訓戒しなさいと命じています。なぜなら、親(父)と子の関係も、神と人間の関係を体現しているからです。

親は子をいかに愛することでしょう。それ以上に、父なる神は、私たちを子として愛してくださっています。また、子は親を尊敬すべきです。子が親を尊敬し従うことを通して、父なる神への尊敬と従順を修得するのです。

しかし悪魔は、社会における親子関係を崩壊の危機に追いやっています。子を愛さない親、親を尊敬しない子。そのような崩壊した親子関係から、社会の諸問題が生じています。また、逆に親しみの度が過ぎて、友達のような親子関係もあります。毒親という存在も指摘されて久しいです。本来の親と子の関係が壊れてしまった結果です。

今こそ、悪魔にだまされないで、親子関係を回復すべきです。だから祈りましょう。私たちの親子関係をいやしてください。そしてその中に、父なる神の愛を体現させてください。神の子どもとして父なる神への従順を体現させてください。

(3)奴隷と主人の関係において(6・5~9)

奴隷(しもべ)と主人の関係も、神と人間の関係を体現しています。今日において奴隷制度はありませんが、会社の社長と社員の関係、あるいは上司と部下といった主従関係に適用することができます。

主人は、自分が主人だからといって奴隷につらく当たってはいけないと勧めています(6・9)

時として神は、人間を奴隷(しもべ)として用いられます。人はそれについて不服を申し立てることはできません。しかし、そうは言うものの、神は私たちを慈悲深く扱ってくださいます。

逆に、奴隷である者は、主人に従いなさいと勧めています。へつらいの心や偽りの心ではなく、恐れの心と真心を込めて従うことが大切です(6・5)。人間の主人に従うことは、キリストに従うことを体現しているからです。

だから、社会の上下の関係も聖なる関係です。この秩序を壊してはいけません。上に立つ者は正しく謙遜に権威を用いるべきですし、下にある者は権威を軽んじないで、真心から従うことが大切です。

このことを忘れて、社長とか上司の立場を利用して部下を虐げてはなりません。現代社会においてパワーハラスメントが問題になっていますが、このような主従関係の崩壊が、神と私たちの聖なる関係を破壊しています。

また逆に、社員が偽りの心で上司に仕えたり、上司の権威を軽んじる言動にでる風潮も、神が定めた人間関係を崩壊させています。

だから、今のこの時代に、私たちは正しい上下関係つまり秩序ある主従関係を回復しなければなりません。それは、私たちが、心から主である神に仕え、従順するためです。

このように、夫婦の関係、親子の関係、主従の関係といった人間関係の中に、神と私たち人間の聖なる関係の秘訣が込められています。神は目で見ることはできませんが、きよめられた人間関係の中で神と出会うのです。

夫婦の関係は、花婿なるキリスト(御子なる神)に対する愛の関係。親子の関係は、御父なる神への尊敬の関係。主従の関係は、御霊なる神に対する従順の関係です。このように、御父と御子と御霊の神との聖なる関係をあらわしています。

しかし、悪魔は、人間関係を破壊することによって、神と私たちの関係を破壊しようと働きます。

天上のことと地上のことは、いつも連動しています。地上でつなぐことは天でもつながれています。だから、祈りましょう。地上での人間関係が祝福されますように。そして、天での神と私たちとの関係も連動して祝福されますように……。

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エペソ人への手紙 5章

2022年06月27日 | エペソ書

エペソ書 5章
賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
(5・15~16)


5つの「歩きなさい」の3番目からです。

(3)愛の内を歩きなさい(5・1~2)

愛された経験のある人は、愛することができます。だれでも親や周囲の人々から愛されてきましたから、まったく愛せないわけではありません。でも、人の愛は息切れする愛です。枯渇します。

そこで、第1章の祈りを思い出してください。知恵と啓示の御霊が、私の目を開いてくださって、天での身分がいかに栄光に富んだものであるかを知ることができますように……でした。

いかに神が私を愛してくださっているか……。このことに目が開かれますようにと祈ります。

神の愛は、私が立派だから愛してくださったのではありませんでした。私がまだ罪人であった時に十字架で死んでくださった愛です。人間の愛は、愛するに値するものを愛しますが、神の愛は、愛するに値しない私さえも愛する愛です。

また、神の愛は、私たちを子として愛してくださっています。親が子を愛するとき、子が優秀なので愛するのではありません。できが良くても悪くても、自分のお腹を痛めて生んだ子だから愛します。

神は、十字架の痛みを通して、クリスチャンを生んでくださいました。私たち罪人を神の子として生むために、十字架の苦しみを経験なさいました。このような神の愛を、私たちは受けています。

この神の愛につながるとき、枯渇しない愛がわき上がるようになります。息切れしない愛をいただきます。このような神の愛の内を歩きます。

(4)光の子らしく歩きなさい(5・3~14)

猫にむかって「人間らしく歩きなさい」とは言いません。それは不可能だからです。猫は人間ではないので、人間らしく歩けるはずがありません。

クリスチャンは光の子です。現実は鬱(うつ)っぽくて、元気がなくても、罪の弱さを覚えていても、私たちはすでに光の子です。だから、「光の子らしく歩きなさい」と勧めているのです(5・8)

具体的には5章3節から記されているような、罪や汚れに染まらないで歩むことを言っています。イエス様の救いは、罪のゆるしただけではありません。罪に勝利する力も与えてくださっています。

そのために、聖霊が私の内に生きてくださり、聖霊が私の内に光となってくださいます。だから、光の中を歩むことができます。

心配や怒り、憎しみや疑いなど、心に闇を抱えると、私たちは暗くなります。そういう時には祈りましょう。イエス様、どうか私の闇を照らしてくださいと。そうすれば照らしてくださいます。

「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」のです(5・14)

地上の出来事で一喜一憂しないで、天における私の身分を覚えるべきです。私の天上における身分は光の子です。この世を神の聖なる光で照らすために私たちが立ち上がるのを神は願っておられます。

(5)賢い者のように歩きなさい(5・15)

コリント人の手紙では「愚かになりなさい」と言っていたのに、今度は賢く歩きなさいですか? 混乱しますね。神を信じる生き方は、この世の価値観からすれば愚かなことです。しかし、それこそ最高の知恵です。賢い生き方です。

賢さとは「今の時を生かして用いることだ」と教えています。新改訳では「機会を十分に生かして用いる」と訳しています。この「生かして用いる」は「贖う」という意味です。代価を払って買い取ることです。神のために、わが霊魂のために、時間(機会)を買い取る生き方……これが賢い者の歩みです。

神は、私たちを悪魔の支配から贖ってくださいました。つまり、イエスの十字架の死という代価を払って、悪魔の支配から買い取ってくださったわけです。

今度は私たちが、、日々の時間を贖うようにしなさいと勧めています。なぜなら、今は悪い時代なのだからと、その理由を述べています(5・16)

今の時代はどうですか。神のための時間がありますか。霊魂のための時間は確保されていますか。世の中はますます、自分の栄光のために、肉の満足のために時間を費やしています。

だから、私たちはこの時間をつまり機会を、生かすことができるように買い取って、神のものとするのです。私たちの時間を、生きた聖なる供え物として神に献げて行くのです。

神の御国のために、霊魂の救いと養いのために、私たちは犠牲という代価を支払って、時間を買い取るべきです。それこそ、賢い者の歩き方です。

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エペソ人への手紙 4章

2022年06月25日 | エペソ書

エペソ書 4章
そこで、私は主にあっておごそかに勧める。あなた方は今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
(4・17)


第1~3章まで、私たち教会がどのような存在なのか、天における身分のいかに栄光に富んだものであるかを見てきました。そんな身分に基づいてどのように生きるかを教えるために、第4章からは5つの〝歩きなさい〟が記されています。

(1)召しにふさわしく歩きなさい
(4・1~16)


現代社会において「召し」は死語になりつつありますが、教会では大切な言葉です。それは、キリスト信仰が人間中心ではなく、神中心であることを表す言葉だからです。

「召し」とは、権威ある立場の存在から大切な任務のために〝呼ばれる〟ことを意味します。私たちはキリストの体の器官として、重要な任務のためにこの世から呼ばれました……つまり召されました。

その任務とは、キリストの姿を世に現すことです。キリスト体の教会となるために、この世から呼び出されました。4章では「ひとつ」が何度も語られていますが、各器官の違いはあってもひとつの体 ―キリストの体― となるために呼び出されたのです。

先の2章11節~3章6節では、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって「新しいひとりの人」になることが奥義であるとありましたが、その「ひとりの人」とは、正確に述べるならキリストの体であり、そのために私たちは召されたのです。

キリストの働きは2千年前で終わったのではありません。キリストの体である教会によって今も続いています。イエス様は、「父がわたしを遣わしたように、あなた方を遣わす」と言われて、キリストと同じ任務のために私たちは召されています。つまり、キリストの働きは教会に引き継がれたわけです。

私たち各自はみな違います。しかし、キリスト教会は、キリストの体としてひとつです。違いを認め合い、その違いを必要とし合う……このような関係が体の各器官です。

こうして結び合わされる中で、私たちは成長し、キリストの姿に達するのです(4・15)。ですから、私たちには、教会の兄姉の〝互い〟が必要です。

他者(ひと)と同じである必要がありません。私には私の、あなたにはあなたの〝分〟があります。それぞれの働きは違っても、教会がキリストの姿を世に現し、キリストの働きをするという目的のために召されたという点で一致します。

あなたは「手」として召され、あの人は「足」として召され、他の人は「目」として召されています。まわりと比較するのではなく、各自の召しに相応(ふさわ)しく歩むなかで、キリストの体としての一致が導かれますように祈ります。

(2)異邦人にように歩いてはならない(4・17~24)

旧約時代の異邦人とは、イスラエル以外の人々のことでした。しかし新約では、イエスを信じて天に国籍のある人以外が異邦人です。

クリスチャンはイエスを信じて天に国籍のある人です。そして、ここでいう異邦人とは、イエスを信じていない地上に国籍のある人です。

言いかえるなら、あなたは天に国籍のある人なのだから、地上に国籍のある人のように歩んではならないと勧められているのです。この勧めは〝おごそかに〟言われています(4・17)。つまり、とても大切な勧めです。神からの厳粛(げんしゅく)な勧めです。

私たちは天の御国の国民ですが、今は地上の国に遣わされています。天国のメッセージを伝える任務を受けて、日本の国に寄留しています。ですから、私たちはこの地上にあっては旅人です。ミッションを終えたら天に戻ります。天に国籍があるからです。

天国からのメッセージとは、この世は罪のゆえに神の御怒りで滅ぼされるという警告です。しかし、イエスを信じる者は罪がゆるされて、この滅びから救われるというメッセージです。

さて、「異邦人のように歩いてはならない」と言われていますが、異邦人はどのように歩いているのでしょうか。聖書は、むなしい心で歩いていると指摘してます(4・17)。「むなしい」とは、「空虚」のことです。何かあるようでも実際は空っぽのような心で歩いているというわけです。

未信者でも充実した生き方をしている人はたくさんいます。クリスチャンより頑張っている人はたくさんいます。でも、神がご覧になるには、それは空虚なのです。

真の主人のいない心は空虚です。人の心には、神によってしか埋めることのできない空洞があるのです。「むなしい」という心の空洞です。真の主人であるイエス・キリストを迎える以外に、その空洞を埋めることができません。

さらに聖書は言います。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れている。(4・18)

どんなすばらしい知識人でも、神を無視するなら、その人の知力は暗くなり、無知とかたくなな心を生み出します。神を知ることこそが知識のはじめだからです(箴言1・7)。心の王座にイエス・キリストを迎え、イエスを王とする天の国民として、歩くことができるように祈ります。

異邦人のようにむなしい心で歩かないとは、さきの「新しいひとりの人」として歩くことを意味します。それは、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることだと表現されています(エペソ4・2~24)

聖徒たちの着るきよい麻布の衣とは、聖徒の正しい行いのことだと言われているように、聖書で着るという表現は行いを表します(黙示録19・8)。ですから、古い人を脱ぎ捨てるとは、古い行いを捨てることであり、新しい人を着るとは新しい人としての行いを意味します。

どんな「行い」なのでしょう。これは、良い行いをするために作られた神の作品である私たちに、あらかじめ準備された良い行いです(エペソ2・10)
どんな行いでしょうか。

①真実を語る(25)
②怒りを翌日に持ち越さない(26)。それは悪魔にチャンスを与えることになるからです。
③自分の手で働く(28)
④悪い言葉を出さない(29)
⑤聖霊を悲しませない(30)。聖霊の内住こそが、古い行いを捨てる原動力になるからです。
⑥親切にし許し合う(31~32)

これらの良い行いは、神が用意なさっています。そして、それを行う力も神が用意なさって、私たちに聖霊をたまわったのです。

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エペソ人への手紙 3章

2022年06月24日 | エペソ書

エペソ書 3章
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなた方の内なる人を強くして下さるように。
(3・16)


エペソ人への手紙はキリストにある私たちの姿が描かれています。2章では、キリストと共に復活し天の座に就いている者。そして、2章後半では、ユダヤ人と異邦人の区別なく、キリストにある新しいひとりの人であると記されていました(2・15)

この〝人〟は、キリストのからだである教会であり、キリストの花嫁とも言えます。旧約ではユダヤ人の救いが強調されていましたが、新約ではユダヤ人から始まり全ての人類へと広がり、ついにはキリストにある〝ひとりの人〟として完成します。

このことは奥義です(3・6)。もはやユダヤ人も異邦人もありません。恵みキリスト教会だとか、◇◇教会、△△教会といった違いを超えて、ひとつの教会、ひとりの人、ひとりの花嫁として完成を目指しています。

こうして〝ひとりの人〟としての祈りがささげられます。3章14節からの祈りです。先の1章の祈りもそうでしたが、霊感に満ちた祈りです。

まず最初に、内なる人を強くしてくださるようにと祈っています(3・16)。内なる人とは霊魂のことです。外なる人とは肉体です。

どちらかというと、肉体の必要のために祈ることが多いのではないでしょうか。でも、聖書では「内なる人が強められるように」と祈ります。まず霊魂のために祈ります。それは肉体を軽んじているのではありません。むしろ、肉体を支えているのは、目には見えない霊魂だからです。

自転車のタイヤをイメージしてください。タイヤの中にはチューブがあって、チューブに空気が充満するとタイヤがしっかりするように、肉体はタイヤのような存在です。タイヤゴムの品質も良好で、溝もしっかりあって高機能タイヤであっても、チューブに空気が入っていなければ役に立ちません。それと同じように、内なる霊魂が神からの霊的エネルギーに満たされていないと健康な肉体も活かされません。

目に見えるものは、目に見えないものから成り立っています。つまり、物質の世界は霊の世界によって成り立っています。そのように、霊魂は見えませんが、私の肉体を支え、生かし、動かしています。だから、まず内なる人が強められますようにと祈ります。

どのようにして強められるのか。栄光の富に従って強くされます(16)。先に私たちは、天上の諸々の富を相続する者であることを見ました。地上の陳腐な富とは比較になりません。

ポケットに10万円あれば、少しは気前よくなれるでしょうか。ちょっぴり勇気も出て、太っ腹な態度になるかもしれません。100万円あればどうですか。かなり大胆になれますか。

では、天に栄光の富をもっていることに目が開かれたらどうですか。

地上の富は使えばなくなってしまう富ですが、栄光の富は使ってもなくなりません。あの5つのパンと2匹の魚を人々に分け与えても、なお12のかごいっぱいに残りがあるように、無尽蔵の富です。

幼な子は明日の疲れなど心配しないで一生懸命に生きます。しかし、大人は明日の体力がなくならないように調節します。それと同じように、地上の富しか知らない人は、出し惜しみします。幼な子のように、栄光の富を信じて、明日を心配しないで、出し惜しみしないで、今日一日を大胆に元気に生きようではありませんか。

さらに、御霊により、力をもって強くしてくださいます(16)

外なる人はパンで養われますが、内なる人は霊的な力で養われます。神の御霊で充満されるように祈りましょう。タイヤのチューブに空気が充満するように、御霊(聖霊)が充満するように祈ります。

さらに祈りは続きます。キリストがあなた方の心に住んでくださるように。(17)

もちろん、イエス・キリストを信じた私たちの内に、キリストは聖霊によって住んでくださっています。ですから、改めてもう一度、住んでくださるようにと求めるのではありません。内住のキリストが、私の生活の中心であるようにという祈りです。そうすると、キリストのご人格(キリストの愛)が、私の中に映し出されるようになります。それは、私たちがイエス・キリストに似た者と変えられるためです。

こうして、キリストによる愛の広さ、長さ、高さ、深さが理解できますようにと祈ります(18~19)。人知をはるかに超えたキリストの愛です。

人間の愛は、条件が満たされないと消えてしまう愛です。なんともあさましい愛です。でも、キリストの愛は、どんな不利な条件のもとでも、変わることがありません。どんな条件もキリストの愛から私を引き離すことがありません。

これこそ人知をはるかに超えた愛です(3・19)。キリストにある私たちが〝ひとりの人〟とされたのは、この人知をはるかに超えた愛を世に現すためです。神の御子キリストは、神の愛を世に啓示するために来られました。今度は私たちの番です。

このような祈りが全てのクリスチャンの祈りです。新しいひとりの人である教会の祈りです。

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エペソ人への手紙 2章

2022年06月23日 | エペソ書
エペソ書 2章
罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし ―あなた方の救われたのは、恵みによるのである― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
(2・5~6)


人とは「霊的存在」です。ですから、肉体が生きていても、霊が生きていなければ、死んだ者です。あなた方は、かつては罪によって死んでいた者だったとはそのことです(2・1)

霊は心のことではありません。心は考える部分で魂ともいいます。この心とか魂は、人間だけでなく猿や犬などの動物にもあります。しかし、動物は肉体だけの存在なので、肉体が死ねば心も消滅します。だから死後の世界がありません。

ところが、神は、人を肉体だけの存在ではなく、神の息すなわち霊を注いで霊的存在として創造なさいました。ですから、肉体が朽ちても人の心とか魂は霊と共に永遠に存続します。つまり霊魂として永続します。

肉体には物欲・食欲・性欲などの肉的本能があります。これは肉体を維持しようとする本能です。しかし、人は霊的存在ですから霊的本能もあります。それは、霊が生きようとする本能です。

ですから人は霊的に生きようと欲して神を求めます。霊的ないのちを求めて罪を悔やみます。永遠を思って死後の世界を考えます。宗教心があり、尊厳や名誉を重んじます。これらはみな人が霊的存在だからです。これは動物にはない能力であり霊的本能です。このように神は、人に霊的感覚を与えることによって、人を神と共に生きる存在となさったのです。

冒頭の聖句で、罪過によって死んでいた私たちと記されているのは、肉体の死ではなく霊の死のことです。とはいえ、霊が消滅することではありません。この点が肉体の死とは違います。

霊が死んでいるとは、神との交わりが断絶されている状態のことです。電気が流れていない電線は〝死んでいる電線〟です。電線そのものが消滅したわけではありません。逆に、電気が流れている電線は〝生きている電線〟です。

そのように、神の霊的いのち……つまりエネルギーが流れていない霊は死んでいます。イエスを信じる以前は、神と関わりのない霊魂であり、死んでいました。

でも、霊的本能がありますから、何とかして霊的エネルギーを得ようとして、人は様々な神々や宗教を生みだしてきました。そのことを聖書は次のように述べています。

かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(2・2)

ところが、イエス様を信じたので……つまり、イエスを受け入れたので、私たちの霊は生きるようになりました。キリストが死んで復活なさったように、わが霊も生かされるようになりました(2・5)

あなたの霊は生きていますか。

肉体が生きていればご飯を美味しくいただくように、わが霊も神の御言を食べます。「人はパンだけで生きる者ではなく、神の御言によって生きる」と言われているとおりです。

肉体が病んでいると食欲も落ちるように、霊が病んでいると、神の御言は美味しくありません。ましてや、肉体が死んでしまえば、口元にパンを差し出しても食べないように、霊の死んでいる人は、御言を聞こうとしません。

イエス様は、ご自分を「いのちのパン」だと言われました。御言が肉体となって来られたイエス様こそ、私たちにいのちを与える本当のパンです。人はこのイエス・キリストを食べて生きるのです。つまり、イエスを信じて生きるのです。

それだけではありません。冒頭の聖句は、私たちの霊的身分が大きく変わったと言っています。キリストと〝共に〟復活して、〝共に〟天上で座につかせてくださったのです(2・6)

新共同訳では、「天の王座につかせてくださった」と訳されています。イエス様だけが王座にお就きになったのではありません。イエスを信じる私たちも〝共に〟就いています。すごいことです。

私たちの地上の身分は様々です。肉体の身分は違います。肉体の身分は高い人もいれば低い人もいます。でも、天上における身分はそれと比較になりません。霊的には王座に就いています。

ここにクリスチャンの霊的アイデンティティー(ID)があります。この霊的身分に基づいて生きるのがクリスチャンです。天の座に就いている私が、小さなこともゆるせないなんて了見(りょうけん)の狭い生き方などしません。大胆にゆるし、大胆に祝福します。小さな問題に躓(つまず)いたり落ち込んだりしません。私たちはキリスト共に天の座に就いているのですから。

このような救いと立場は自分自身から出たことではありません。ただただ恵みによります(2・8)恵みによるとは、私に何の根拠も無いことを意味しています私が良い行いをしたからではありません。それはだれも誇ることがないためです(2・9)

では、私の行いはどうでもよいのですか。そんなことはありません。次のように記されています。

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。(2・10)

良い行いさえも神は用意して下さっています。つまり、良い行いも恵みによって備えられています。自分で頑張ることではありません。何故なら恵みですから。私がキリストの中にとどまることで、良い行いは生まれてきます。 ※恵みによって用意されている「良い行い」とは何か。本書の4章以降で述べている。

このようにすべては恵みです。救われるのも恵みです。天の座に就くのも恵みです。良い行いも恵みです。

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エペソ人への手紙 1章

2022年06月22日 | エペソ書

エペソ書 1章
あなた方の心の目を明らかにして下さるように、そして、あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなた方が知るに至るようにと祈っている。
(1・18~19)


エペソ人への手紙は、私たち即ち教会が如何にすばらしい存在であるかを告げています。

進化論に基づく思考では、人間は偶然に猿から進化して現在の文明まで進んできたと考えています。しかし、聖書は全くちがいます。神は、天地創造の以前から、人間をイエス・キリストの中で準備し、ご自分の子にしようと定められたのです。

みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。(1・4~5)

この一文にふれるだけでも、神のご経綸(けいりん)の深遠さに心がふるえます。このような思想は人間からは出てきません。ましてや、進化論からは到底導き出すことができません。

あなたも私もキリストの中で選ばれています。神の子どもになるように定められています。愛されるように定められています。相続者となるように定められています。

しかし、私たちの霊の目が曇っていて、その素晴らしい姿が見えていません。エペソ書1章では、そのための祈りがささげられています。私たちも、日頃からエペソ書1章のように祈る必要があります。

その祈りのポイントは、私たちの心の目が明らかになって、はっきりと見えるようにしてくださいです(1・18)。どのようにして見えるようになるのでしょうか。神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えてくださることによってです(1・17)

神様の領域、天に属する領域は、聖霊による知恵と啓示によらなければ見ることができません。

ユダヤの人々が、イエス様のことを大工のヨセフの息子にすぎないと考えたのは、この「知恵と啓示の御霊」によらなかったからです。たとえ学識豊かな律法学者たちであっても、御霊によらなければ、イエスが神の御子キリストだと分かりません。

実は、イエスの弟子たちも分かっていませんでした。イエスが十字架の死を予告なさっても、それを理解できず、ペテロはいさめるように、「主よ、不吉なことを言わないで下さい」と、神の働きを妨害しました。彼らの心は閉ざされていたので、イエス様の十字架の死の意味が分かりませんでした。でも、聖霊を受けることによって、イエスの死は、人類の罪を贖(あがな)うためであったと分かりました。

このように、神からの智恵と啓示の御霊が注がれて、私たちの霊の目がはっきりと見えるように……と祈るのです。

信仰とは、目に見えない世界を見る〝めがね〟です。このめがねをかけていなかった時は、肉眼で見える世界が全てでした。肉眼で見える世界の出来事で一喜一憂していました。それは、霊的な領域が見えていなかったからです。信仰というめがねをかけるとき、聖霊は智恵と啓示の霊を注いで、私たちに約束されているすばらしい世界が見えるようにしてくださいます。

では、どんな世界が見えるのでしょうか。18~19節には三つの内容が記されています。

(1)私たちに与えられている望みについて

今どんな望みがありますか。目先の小さな望みは、私を少し元気にしてくれます。でも御言が、「あなた方が神に召されていだいている望みがどんなものであるか……」と告げる望みは、とてつもなく大きい望みです。この大きい望みに目が開かれて、大きな元気を受けてください。

その望みとは、私たちが栄光の体に復活する望みです。復活した私たちが、キリストと共に神の御国を相続する望みです。キリストの花嫁として、キリストと共に永遠に暮らす望みです。

神がくださる永遠の望みを知ることができますように、祈ります。

(2)私たちが相続することになっている富の豊かさについて

神は、御子イエスを万物の相続者として定められました。「なんだ。イエス様が相続なさるのか」と思わないでください。クリスチャンの奥義は、私たちはキリストの中にいることです。私たちがキリストの体であることです。

ですから、御子イエス・キリストが相続者であるとは、キリストの中にいる私たちも相続者です。私たちは、キリストの中にあって神の御国を受け継ぐ者たちです。 ※「キリストにあって」「このお方にあって」と繰り返し記されているが、「キリストの中で」という意味である。

肉親の遺産が気になりますか。それは欲しい人が受け継げばよいのです。私たちは神の御国の世継ぎです。どうか、その身分と、その受け継ぐものの豊かさを見ることができますように祈ります。

(3)私たちに働く神の力の絶大さについて

天に行ってからようやく受ける望みではありません。今も現実に働く力を、私たちは受けています。それは神からの力です。私の弱さの中に働く神の力です。

神の力の絶大なことは、復活に表現されています。キリストは地上では弱くあられました。十字架で死んでしまわれるほどに弱く、小さく、愚かであられました。でも、父なる神の絶大な力は、キリストを復活させました(1・20)。そして、天に昇らせ、神の右の御座すなわち天の王座に座らせました。それと同じ力が、私たちにも注がれています。

このようなすばらしい神の力に目覚めることができますように、その力が私の弱さの中に現れてきますようにと祈ります。

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ガラテヤ人への手紙 6章

2022年06月21日 | ガラテヤ書

ガラテヤ書 6章
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っているなら、霊の人であるあなた方は、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしや自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
(6・1)


この6章からの教えは、ガラテヤ人への手紙の文脈からして、少し唐突な感じがします。でも、きちんとつながっています。

1章から5章までは、律法によるのではない、御霊による自由なんだと教えられてきました。では、兄弟姉妹たちの問題をどう解決した良いのか。

問題を指摘して矯正(きょうせい)するなら、律法的な対応になりかねない。だから御霊の自由にまかせて、見て見ぬふりをすれば良いのか。御霊の自由の中で、自動的に問題解決されるのか。そうではありません。やはり忠告し、正しい方向へと導きます。そのことを、冒頭の聖句は教えているのです。

キリスト教会はひとりでは成り立ちません。互いが関わり合いながら生きています。だから、仲間の問題は私の問題にもなってきます。放っておくわけには行きません。ちょうど、体から離れて手だけでは生きて行けないように、一人びとりは、キリストの体の各部分として影響し合って生きています。

そんな人と関わりは面倒なことです。トラブルもあります。傷つけられたり、傷つけることもあります。だから、そんな煩わしさを避けて、ひとりで信じて行こうとする人もいます。

しかし、私たちが互いに愛し合い、きよめ合い、キリストの身の丈まで成長し合うために、主はキリストの体としての教会をお建てになりました。

完成された教会ならつながっていようと考える人もいます。未熟な教会は問題も多いからです。でも、実際には完成された教会などありません。問題のない教会もありません。2千年のキリスト教会の歴史がそれを物語っています。

教会は問題を抱え、罪に悩みながら、この地上の旅を続けています。教会は決して理想郷ではありません。神もそれを重々ご承知です。

そんな罪人たちのぶつかり合う教会を、神はなおも愛してくださっています。そして、やがて天に引き上げられる時までに、聖なる栄光の教会に仕上げようと、今も愛し続けてくださっています。

今日の御言は、兄姉が罪に陥っているのを知ったなら、正してあげるようにと勧めています。信仰生活はひとりではなく、キリストの体として、互いに影響しあい、聖なる者にされるためです。

ところが、冒頭の御言のように文字通り、ただしてあげようとして、相手の罪や欠点を指摘し合うなら大変なことになります。律法的に解決しようするからです。6章の後半で教えられているように、律法的に解決しようとするのは、見栄(みえ)を飾ろうとするからです。教会の見栄(みば)えを良くしようとして、肉なる感覚で指摘し、正そうとして混乱します。

でも、冒頭の聖句に注目してください。〝御霊の人であるあなたはです。なのに、〝肉の人〟が他者の罪を云々すると、さばいたり、責めたり、傷つけます。そのような教会は針の筵(むしろ)です。

イエス様は、「まずあなたの目から梁(はり)を取りのけなさい。そうしたら、相手の目にある塵(ちり)を取ってあげることができる」と言われました。 ※梁とは屋根を支える横木のこと。塵と梁とでは雲泥(うんでい)の差である。

自分の目には大きな梁が横たわっているのに、他者(ひと)の目にある塵が気になるのは、肉の人だからです。自分の目に横たわっている梁は虫眼鏡のような機能があるので、他者の罪や欠点が大きく見えます。

御霊の人とは、自分の目にある梁を取りのける人のことです。では、自分の目から梁を取り除くとはどういうことでしょうか。

(1)もしかして自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省することです。(6・1)

「灯台もと暗し」と言いますが、他者のことはよく見えても、意外と自分のことは見えていないのです。充分な反省力がともなわない指摘は、人をさばき、傷つけることになります。

(2)自分は何ら偉い者でも何でもないことを知ることです。(6・3)

聖書は、「自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いている」と警告しています(6・3)。言いかえれば、自己正義を捨てて、自分に何ら正しいものはないと知ることです。

(3)互いに重荷を負い合う心で成すことです。(6・2)

祈りましょう。まず、私の目から梁を取りのけてください。そして、兄弟姉妹の罪をさばく心から解放してください。そして、互いに成長し合い、互いにきよめ合う関係の中で、指摘することができるように導いてください。

◆◆◆◆ 

さて、ガラテヤ人への手紙を書き終えるにあたって、パウロは最後にもう一度、割礼問題を取り上げています(6・11~)。割礼を強要する人たちは、肉において見栄を飾ろうとしているのだと指摘しています。新改訳では外見を良くしたいのだと訳しています。

割礼それ自体は隠れていて、見栄も外見もありません。注目すべきは、割礼を受けて律法を行うことで〝行いが立派になる〟ことです。良い行いは外見が立派です。そのように指導している牧師の見栄を飾ります。でも、それは肉の誇りです(6・13)

私たちの教会には、毎年ギデオン聖書協会の方々が証しと報告のために来られます。彼らは真面目で熱心な方々です。礼拝が始まる30分前から来訪して準備してくれます。すると、牧師である私は、教会の兄姉に遅刻しないようにとか、聖書献金を多く献げるようにと、つい口うるさく言ってしまいます。でも、これは聖書が指摘しているように「見栄を飾る」ことです。「外見を良くしたい」のです。

こんな感覚が積み重なると、律法によって立派にしようとするわけです。ガラテヤ教会も律法主義を取り入れて、見た目には立派な教会形成をして、自分を誇っていたのです。

そんな見栄のために、行いを強調してはなりません。そんなことのために、外見上だけ立派に見せるようなことをしてはいけません。大事なことは、割礼のありなしではなく新しい創造です(6・15)愛によって働く信仰です(5・6)

つまり、見た目を立派にすることに心を注ぐのではなく、キリストの愛をもって生きることです。外見上を良く見せて肉を満足させるのではなく、天の価値観で生きる〝新しい人〟として生きることです。

日本人クリスチャンに文字通りの割礼はありませんが、この「外見上を良くしようとする誘惑」は、割礼を受けようとする ――あるいは、割礼を受けさせようとする―― ことの延長線上にあります。大事なことを忘れてはなりません。それは、「愛によって働く信仰」と「新しい創造」です。

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ガラテヤ人への手紙 5章

2022年06月20日 | ガラテヤ書

ガラテヤ書 5章
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
(5・22~23)


すばらしい「実」が記されています。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です。私たちは、このような実の収穫を目指して歩みます。

さて、ガラテヤ人への手紙は、神を信じて生きるにも、2通りの歩みがあることを教えています。旧約の生き方と、新約の生き方です。言いかえるなら、律法による生き方と御霊による生き方です。

旧約は律法に従って歩みます。でも、それは御霊が内住なさるまでの準備運動みたいなものです。準備運動ばかりをしていても実は結びません。

また、律法による生き方は、奴隷のような生き方だということも見てきました。ああしなさい、こうしなさい。あれはいけないこれもだめと、律法は外側から制御します。そのように強制されて、冒頭にある実を結ぶことができるでしょうか。

ところが、人間は律法のように外側から制御されると、安心するところがあるのです。自由にしろといわれると不安なので、むしろ制御されたい……。これが、ガラテヤ教会の人々が律法の生活に憧れるようになった理屈です。 ※「自由」の反対語は「安心」との説は興味深い。言語としては間違っているが、神学的には的を射ている。

これは今日のキリスト教会にも言えることです。

御霊の自由を会得していないと、容易に律法主義に流れます。5章では、私たちが救われたのは自由を得るためだ(5・1、13)と、繰り返し記しているにもかかわらず、牧師は信徒が御霊によって自由に生きることを信頼できず、律法的に制御しようとします。そのほうが安心だからです。

しかし、聖書は御霊による自由に生きよと命じます。御霊によって歩むとき、律法が目指すところの愛の完成を見るからです(5・13~14)。愛を律法によって完成しようとしたら、つまり、強制的に愛するように仕向けるのなら、それは愛ではありません。やはり、自由でなければ愛は完成しません。しかも、その自由は御霊による自由です。 ※御霊(聖霊)は私を支配なさるお方であるが、そこに自由がある。一見、矛盾である。聖霊が私の外側から支配成するのであれば、その支配は窮屈だ。しかし、聖霊は内住して、私の霊とひとつになられる。もはや、御霊の思いは私の思いだ。御霊の考えは私の考え。御霊の生き方で私も生きる。だから窮屈ではない。これが、「御霊のあるところに自由がある(Ⅱコリ3・17)という実際だ。

ところが、御霊によって歩まないので、残るは肉の力です。だから、肉の力で頑張るしかありません。肉で頑張ると律法的になります。「今月の目標」を紙に書いて張り出したり、スローガンを掲げて他と競走する。できない項目はデータ解析をもとに改善を要求する等々、律法的になって行きます。

このように、肉の力と律法はとても親和性があります。律法があるところに肉の力が活性化されます。肉の力で頑張る人は律法が好きです。律法によって自らを鼓舞しようとします。

ところが、律法は罪をさばく道具になるので、自分はこんなに頑張っているのにあの人は……と、他者の罪や欠点をさばいたり責めたりしがちです。逆に、自分は何て駄目なんだろう……と、自分自身をさばいたり、責めたりもします。自分のはかるはかりで、はかり返されるわけです。

こうして、他人や自分をさばいたり責めたりする人は、律法に生きているのです。奴隷の身分で生きています。頑張り過ぎです。肉の力はたかが知れています。これは旧約の生き方です。

イエス・キリストを信じる人は新約の人です。神の子どもの身分で生きます。律法によって生きるのではなく御霊によって歩みます。

クリスチャンとは我力で立派にやる生活だと勘違いしていませんか。そういう人は、自分にはとてもできないと思って悲観的になってしまいます。また、逆に、「よ~し、頑張るぞ!!」と我力全開でやってしまいます。その結果、頑張ってはいるけれど偽善的な自分に戸惑います。

でも、新約の人は、律法によってではなく、御霊によって歩む人です。冒頭のすばらしい実は、〝御霊の〟実であることに注目してください。〝肉の〟実ではありません。つまり、〝頑張りの〟実ではないのです。

私の中に住んでおられる御霊(聖霊)が、私という畑に実を結んでくださるのです。律法ではそんな実を結んだことがありません。どんなに厳しい水準の律法が定められても結ぶことができません。

たとえば、犯罪が深刻化している社会で、法律もどんどん厳しくなります。飲酒運転の厳罰化が進んでいます。最近ではあおり運転も厳しく取り締まります。種々の犯罪の厳罰化が進んでいます。御霊の働きを受け入れない世界では、厳罰化の方向は当然のことです。抑止力にはなりますが、御霊の実を結ぶことはできません。

律法は外側からの力です。本当に必要なのは内側からの力です。御霊は内側からの力となって、働きかけてくださいます。

私は何をすべきでしょうか。まず、御霊によって歩もうと決心することです。御霊が私の内側を支配なさるようにと祈るのです。信じてください。祈るなら、御霊なる神は私たちの中で働き始めてくださいます。と言っても、第三者的な立場から働かれるというより、私の霊とひとつになって、日々の生活に霊的な対応を導いてくださるのです。

御霊の働きは魔法ではありません。我慢げのない私が手のひらを返すように「寛容」になるわけではありません。でも、御霊は私の内にイエスの思いを目覚めさせ、他者(ひと)を怒るのではなく理解しようとさせてくださいます。不思議なものです。昔の私は短気で怒りっぽい性格でした。周囲が心配して、旅の土産に「忍耐」という楯を送るほどでした。それが、今では寛容の〝か〟の字が見えてきました。

一事が万事。御霊なる神は、実を結ぶために環境や出会いや出来事を適確に塩梅(あんばい)なさいます。人との争い事を用いて、御霊は私の中に「愛」の実を結ぶようになさるかも知れません。また、悲しみの中で、聖霊による慰めによって、「喜び」と「平和」の実を結ぶように導かれるかも知れません。

「桃栗三年、柿八年」といいますが、果実さえ時間がかかるのですから、天に属する御霊の実を結ぶためには時間と忍耐が必要です。聖書は、農夫の忍耐に学べと教えています(ヤコブ5・7)。涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取ります。種をたずさえ、涙を流して出て行く者は、束をたずさえ、喜びの声をあげて帰ってくることができます(詩篇126・5~6)。御霊の導きに期待しましょう。

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ガラテヤ人への手紙 4章

2022年06月18日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 4章
そして、あなた方は子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
(4・6)


先の3章では、イエスを信じて御霊を受けたことが、とても重要なことであると見ました。

聖書で啓示されている神は、三位一体(さんみいったい)の神です。御父なる神、御子なる神(キリスト)、そして御霊(聖霊)なる神です。三つの神が別々におられるのではなく、ひとりの神です。これを理屈で分かろうとしないことです。イエスを信じるようになると、直感的とでもいいましょうか、神からの霊感によって、あぁそうだなと腑(ふ)に落ちるようになるでしょう。

御父なる神は、とても大きな方で、見ることもふれることもできない。でも確かにいらっしゃる……そんなイメージです。御子なる神は、キリストとして世に来られました。人の姿で来られ、私たちに近づいて来てくださった神です。そして、御霊なる神です。御霊は信じる者の中に住んでくださる神です。このように、父…子…聖霊と、どんどんと近づいてくださる神であることが分かります。

旧約の時代……キリストが来られる以前の時代は、神は遠くに感じられました。それを象徴しているのがシナイ山です。モーセが十戒の石板を受け取った山です。この時、シナイ山に登って神に近づくのをゆるされたのはモーセだけでした。シナイ山は雲につつまれ、稲妻が鳴り響いており、人々は恐ろしくて、とても近づける状況ではありませんでした。

しかも、シナイ山の麓(ふもと)には注連縄(しめなわ)のようなものがはられていて、これ以上近づいてはならない。近づくと、神の聖さにふれて死ぬのだと言われていました。

このように、罪人にとって神は遠い存在でした。また、神は人間と共に住まおうと願っておられるのですが、人間の罪深さゆえに、そのままでは共に住むことができないのです。

さて、シナイ山で受け取った十戒の石板には律法が刻まれていて、神に近づくことのできる水準が記されていました。その水準に到達できれば、人間は神に近づくことができるし、神もその人の中に住むことができます。

そこで、旧約の人々(イスラエルの民)は、一生懸命に十戒に刻まれた律法を守ったのですが、到底その水準に到達できるものではありませんでした。

そして、ついに子なる神(イエス・キリスト)が来られました。神の方から近づいて来てくださいました。そして、十字架の血で人間の罪をきよめてくださいました。このキリストを信じる人は、罪のきよめを受けることができます。

御子が来られて、随分と神は近くになりました。それどころか、信じた者には御霊なる神がその人の中に住まわれます。これ以上近い関係はありません。これが、イエス様によって成立した新しい約束です。

それなのに、ガラテヤ教会の人々は、旧約に戻ろうとしていたわけですから、パウロは困惑したのです。「もう一度あなた方の所に行って、語調を変えて話してみたい」と願ったのです(4・20)

さて、御霊(聖霊)が内住されるということは……、

第一に、罪がきよめられた〝しるし〟です。 換言すれば、神に義と認められたしるしであり、救いを確証する印鑑のようにして与えられました。このことは、先の第3章で述べました。

第二は、神の子どもだという〝しるし〟です。 私の内に住まわれる御霊は、神を「アバ父」と呼ぶ心をくださいました。 ※「アバ」とは「とうちゃん」という、幼な子の父に対する親しい呼び方。

御子イエス様も、神のことを「わが父」と呼ばれました。そのイエス様が私の中におられるので ―御霊が内住なさっているので―、私も神のことを「アバ父」と呼ぶことができます(4・6)

これは理屈を越えて、天の神は私の父だと〝分かる〟のです。

肉親の父でもそうでしょう。血液型を調べたり、DNA鑑定をしたり、戸籍を根拠に、自分のお父さんを認めますか。そんな証拠があろうとなかろうと、お父さんだと分かります。そのように、御霊を受けた人は、神がお父さんだと分かります。

でも、旧約にとどまっている人 ―律法にとどまっている人― は、神のことを「主よ」としか呼ぶことができません。つまり、「主人よ」と呼んでいるわけですから、呼んでいる本人は僕(しもべ)の身分です。※4章21節以降、「女奴隷の子」と「自由の女が生んだ子」との区別がされている。

神に服従するにも、僕(しもべ)の心で恐れながら服従するのと、子の心で父を尊敬する思いで服従するのとでは違います。神の子供としての身分を受ける救いを、しっかりと受け取ってください。

さて、神の子どもであることがこんなにも素晴らしいことなのに、どうしてガラテヤの人々は容易に律法の世界に戻ってしまったのでしょうか。

実は、律法的に生きるのは人間としての性(さが)です。人の集団が生まれると「決まり」を作ります。そうしないと統率できないからです。得体の知れない〝自由〟に身をまかせるよりは、〝決まり〟によって管理するほうが容易(たやす)いのです。こうして、「決まり」という名の律法によって奴隷の身分に陥るのです。

新約の信者は奴隷ではなく神の子たちです。律法の下にいるのではなく御霊によって生きる者です。しかし、御霊によって生きることをやめてしまうと、容易に律法の生き方に逆戻りしてしまいます。 ※罪人という奴隷の性(さが)は、律法で管理されることに親和性がある。

だから、御霊によって目をさましていよう。聖霊の油を絶やさないようにしよう。「御霊によって生きる」という生活は、意識的にそうしないと身につきません。せっかく御霊によって神の子どもとされたのに、神の子であるキリストの姿は薄れて行きます。

だからパウロは、ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、私はまたもや、あなた方のために産みの苦しみをすると述べています(4・19)

本来、私たち人間は神のかたちに創造されたのですが、神はそのかたちを回復するために産みの苦しみをなさっています。その回復過程の基本が「アバ父よ」と呼ぶ御子の御霊なのです。

この御霊によって神を「おとうさん」と呼ぶのです。神の子どもとしての本来の姿を回復するのです。こうして、神の御子であるキリストのかたちが回復して行きます。ですから、今日も神に向かって「おとうさん」と親しく呼んで生きよう。

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ガラテヤ人への手紙 3章

2022年06月17日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 3章
私はただこの一つの事を、あなた方に聞いてみたい。あなた方が御霊
(みたま)を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(3・2)


先の2章では、律法に留まるのではなく、イエス・キリストの中に留まることの大切さを見ました。そして、イエスの中に留まる者に、神はその保証として御霊を注いでくださいます。

神の御霊を受けるということは凄(すご)いことなのです。旧約の偉大な聖徒たちも、神の御霊の〝内住〟を受けたことはなかったからです。

旧約の聖徒たちの働きは聖霊によるものですが、それは限定的なものでした。上から服を着るようにして、聖霊におおわれて働きましたが、聖霊が〝内住〟したわけではありませんでした。

旧約の預言者エゼキエルは、神の御霊が内住される時代が来ることについて、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの内に新しい霊を授け、彼らの体から石の心を取り去って、肉の心を与える」と告げました(エゼキエル11・19、36・26)。 ※「肉の心」とは石のような固い心ではなく、肉のように柔らかい心の意味。

また、イエス様も、後に実現する聖霊の内住について語られたのですが、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのであると記されています(ヨハネ7・39)。イエス様が栄光をお受けになったら、御霊が信者の中に内住されるのです。つまり、この時点ではまだ、誰の内にも聖霊は内住なさっていないわけです。

聖霊が信じる者に内住なさるのは、イエスが栄光をお受けになった後だと説明しています。それはいつですか。イエスが十字架で死んで復活し、天に昇り、神の右に着座された時です。

ですから、前述のヨハネ福音書7章39節の時点では、まだ誰にも、聖霊の内住は実現していません。ましてや旧約の聖徒たちも同様です。

弟子のペテロが、イエスこそ神の御子キリストだと告白した時、それは、人間の力で告白できたのではなく、天の父の助けによったのだ……すなわち聖霊によるのだ、とイエスは解説されました(マタイ16・17)

この時点でも、ペテロや弟子たちは、聖霊の働きを受けてはいましたが、聖霊は内住していませんでした。つまり、聖霊の外側からの助けによって、「イエスは神の御子キリストだ」と告白しました。しかし、イエス様が大祭司の庭で裁判を受けた時、ペテロはイエスについて証言できず、「イエスを知らない」と拒絶してしまいました。なぜなら、聖霊の内住が実現していなかったからです。

しかし、ペンテコステの時に聖霊がくだり、弟子たちに聖霊が内住されるようになると、サンヘドリン議会で裁判の席に着いたペテロは、「イエスは神の御子キリストだ」と堂々と証言しました。

説明が長くなりましたが、申し上げたいことは、新約の恵みは聖霊が内住されることなのです。旧約のどんな偉大な聖徒たちも、聖霊の内住の恵みを受けたことがありませんでした。

なぜ、旧約の時代に、聖霊の内住が実現しなかったのでしょうか。それは、罪のきよめが完成していなかったからです。これは重要なことです。

旧約の時代は、律法によって罪がきよめられる準備をしました。動物による犠牲をほふって、罪のきよめを教えました。しかし、動物の血は、完全な罪のきよめをもたらしません。ですから、旧約では動物犠牲がくり返されてきました。つまり、律法によっては完全な罪のきよめは成し得ないことを意味しています。

しかし、ついにイエス・キリストが来られて、神の小羊として、私たちの罪のための生贄(いけにえ)となってくださいました。神の御子の血は、私たちの罪を完全にきよめました。そして、罪のきよめが完全に成し遂げられたところに、聖霊は内住なさるのです。

神の御子キリストは、罪をあがなうために来られたのですから、罪人の中で飲み食いして、共に住んでくださいました。しかし、御霊なる神は、罪のきよめられたところに住まわれるお方です。

ですから、聖霊の内住は、その人の罪が完全にきよめられたことの証しです。神に義とされたことの証拠です。救われたことの証印として、聖霊が内住なさっているのです。「あなたの救いは本物だ」という印鑑をおされたのです。

こういうわけですから、聖霊を受けるとはものすごいことなのです。聖霊の内住は、律法によってなし得なかったことなのです。

この聖霊の内住は、イエスを信じたから受けたのです。律法を行ったら受けたのではありません(3・2)。だから、律法にとどまろうとするのは、前進ではなく後退です。

すでに、1~2章で見てきたように、割礼を受けたり律法の行いに熱心になるのは、救いの確信を肉の感覚で得ようとするからです。そうではなく、私たちに内住される御霊こそ〝しるし〟なのです。3章ではそのように論理展開して行きます。

自分の良い行いで救いの確信を得ようとするのではなく、内住される聖霊によって確信を得るべきです。この感覚が希薄なので、キリスト教会が律法主義に陥って行きます。聖霊の感覚で救いを確かにしないので、肉の感覚で仕上げようとするのです。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのかと問うているのです(3・3)

そもそも、律法というのは救いの契約の後から定められたものです。救いの契約とはアブラハムとの約束のことで、律法はその後430年を経て与えられました(3・17)。だから約束の方が優位なのです。

では、何のための律法なのか。それは律法の行いによっては義とされないことを自覚するためです。つまり、律法を行おうとしても自分が罪人だと自覚するためです。そうすることによって、すべての人を罪の下に閉じ込めたのです(22)

でも、それは全ての人を罪人として滅ぼすためではなく、罪人を救うことになるキリストのもとへ導くためです。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのであるとはそういう意味です(24)

ですから、キリストにつながった私たちは、養育係である律法から解放されて、神の子どもとして約束の相続者なのです(25~29)。なのに、律法に逆戻りするなど断じてあり得ません。

自分の良い行いで救われるのではなく、イエス・キリストを信じることによって救われるのです。この信仰に留まってください。内なる聖霊によって確信を得てください……と、聖書は命じているのです。

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ガラテヤ人への手紙 2章

2022年06月16日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 2章
私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。
(2・20)


ガラテヤ教会の人々は、律法の行いによって義とされると考えました。それは、信じて義とされるより、さらに水準の高い段階だと思われたのです。

「信じて義とされる」だけでは、頼りなくて、もっと手応えのある〝しるし〟が欲しくなるのです。例えば、礼拝出席を欠かさないとか、熱心な奉仕や献金であったり、また、人々からの称賛や承認が〝しるし〟となることもあります。

そのような〝しるし〟をもって救いを確信しようとするのです。肉なる感覚は、救いの確証となる具体的なしるしを要求します。そこで、律法を守って良い行いをし、きよい生活をすることで、この肉の感覚を満足させようとするのです。

福音は決して、「良い行い」とか「きよい生活」を軽んじてはいません。ただ、それを救いの根拠にしないのです。義とされるための行いではなく、信じて義とされた者としての行い……これが福音による行いです。順番を逆にしてはなりません。

律法の行いによって義とされようとする人は、律法がどういうものなのかを知らないのです。だから平気で律法的に生きようとします。でも、それは自殺行為です。 ※私は一度〝死にかけた〟のでもうやりません。

律法は神の義を啓示しています。神の義とは、神が満足なさる水準です。神が納得なさる聖なる水準です。律法の行いによって義とされようとする人は、行いによって神を満足させようとする人です。自分の立派さで神を喜ばせようとする人です。

何という無謀な行為でしょうか。何の装備もつけずに ―食糧や防寒具や酸素ボンベも持たずに― 行く手を阻(はば)むようにそびえ立つエベレストに登る人のようです。その結果は死です。

なぜなら、自分の力で、つまり肉の力で律法を行おうとすればするほど、自分が罪人であることを痛感します。そして、律法は、この罪人を死に定めていることを知ります。だから、ますます律法的に正しくあろうとして藻掻(もが)きます。このように、律法は、私たちが罪人であり、その結果は死であることを告げる役目を果たします。

でも、この律法のおかげで、死に定められた自分に身もだえしながら、救いを求めるようになります。そして、その救いは十字架のイエスにあることを発見するのです(3・22)

そういう意味で、誰しも律法を通過します。言いかえれば、行いによって ―自分の正しさによって― 救いを得ようとする道を通過します。行いによって、自分は良い人間になったかのように思い上がる道を通過します。良い人間になった自分が、だらしない他者を見くだすという傲慢の道を通過します。

そしてついに、どうあがいても救いようのない自分を見出すまで、人は律法にとどまろうとするのです。このような道は〝通過〟することはあっても、留まるところではありません。

しかし、この律法の道で散々苦労を味わっていない人は、キリストの救いの有難味(ありがたみ)が分かりません。そのような人にとって、律法は魅力的で、水準が高くて、霊的なことのように思えるのです。

こうして、一度はこの律法主義の迷路に迷い込んで、紆余曲折を経て、やっとの思いで再びキリストの十字架にたどりつきます。このように、誰しも律法を通過します。しかし、律法に留まったままではいけません。キリストの中に留まらなければなりません。

キリストに留まるとは、どういうことでしょうか。それはキリストと一緒になることです。キリストの中に入ってしまうことです。キリストを信じるとは、キリストの〝中に〟信じることです。

パウロはキリストの十字架を外から眺めているのではありません。キリストの十字架を他人事(ひとごと)のように見ていません。ましてや、2千年前の昔を振り返るようにして見るのでもありません。パウロは、そして私たちクリスチャンは、キリストの十字架の姿は私の姿であることを見出す人です。私はキリストと共に十字架につけられたのです。これは他人事ではありません。〝私が〟十字架につけられたのです(2・20)

キリストが私の身代わりになって十字架で死んでくださった……と表現されますが、それは、「だから私は死なずにすんで、今もそのまま罪人の私がのうのうと生きている」という意味ではありません。

キリストだけが十字架で死なれたのではなく、私も、キリストの中で、キリストと一緒に十字架で死んだのです。だから、律法が罪人に要求する死の刑罰は、あの十字架ですでに受けてしまいました。

どうあがいても律法は私を罪人だと宣告し、律法は私に死の刑罰を宣告します。でも、その刑罰は受けてしまいました。十字架のキリストの中で受けてしまいました。それどころか、さらに感謝なことは、私もキリストと一緒になって復活しました。死の刑罰を終えて、死の獄から出てきました。刑罰は終わったので、もはや罪人としてさばきを受けないのです。

こんなすばらしいことは、みなキリストの〝中で〟実現しています。律法の中ではあり得ないことです。律法の中にとどまるなら、死に定められるだけです。

キリストの中で、キリストと一緒になって私は生きています。律法から出て、キリストの中にとどまってください。

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ガラテヤ人への手紙 1章

2022年06月15日 | ガラテヤ書
ガラテヤ書 1章
私はそれを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。
(1・12)


ガラテヤ教会は違った福音に逸れて行く危機的な状況にありました。「違った福音」(新改訳では「ほかの福音」)といっても、そのような福音が別にあるわけではありません(1・6~7)。福音はひとつです。

ガラテヤ教会の人々をまどわしている教えは、パウロが伝えたイエスを信じて救われるという福音より、もっと高度な神学のように思われました。その内容は旧約の律法を遵守(じゅんしゅ)する教えでした。

イエスを信じたら、次はレベルアップして律法を守るのだ……というのです。信じるだけでは救われない。律法を行って義とされるのだ。そのために、まず割礼を受けなければならない……と。

ものは言いようです。確かに信じるだけで救われると言われても、見えない領域のことなので、救われた実感というか、救われた「しるし」が不明瞭なためにでもどかしいのです。

だから、救われた証拠となる具体的な〝何か〟がほしくなるのです。

ガラテヤ教会を惑わす偽教師たちは、その具体的なしるしとして、「割礼」とか「良い行い」が救いの証拠なのだと教えました。そう言われると、信じるだけよりも水準が高くて立派に思えてきます。

しかし、それはレベルアップではなく堕落です。前進ではなく後退です。無力で貧弱な霊力への逆戻りです(4・9)。このことを正すために、パウロはガラテヤ人への手紙を書きました。 ※聖書は行いを否定しているのではない。聖書は、信じて救われたなら、聖霊に促された行いがあらわれると教えている。ただし、その行いは救いの根拠ではない。

さて、パウロが語った福音の信憑(しんぴょう)性はどこから来るのでしょうか。つまり、それが神からのものだという証拠はどこにあるのかという問題です。パウロ自身は、それは人間からではない、イエス・キリストの啓示によったのだと証しました。

しかも、当時の教会の中心的な人物であるペテロや使徒たちにも会っておらず、そういう意味で、使徒たちからの受け売りでもない(1・17~19)。つまり、聖霊によって直接受け取ったのだというのです。

この説明を聞いて、パウロは本物だと思う人と、いや、むしろパウロは怪しい奴だと思う人と、意見は分かれるところです。

怪しいと思うのは、パウロが受けた福音が神からの啓示であるという証拠を、肉の感覚で確認しようとするからです。そこで、わけの分からない啓示よりも、目に見える具体的な証拠を信頼します。

たとえば、使徒ペテロから直接教えを受けたのであれば安心します。ペテロはイエスから直々に教えを受けた人だから、そのペテロに師事した人物の教えであれば間違いないと思うのです。

今日的には、△△神学校の卒業生だとか、◎◎博士に師事したとか、◇◇教団の牧師だとか……。そんな裏付けや肩書きがあれば確かだと思い、そうでないことを軽んじるといった考えです。 ※神学校とか所属教団の存在は軽んじてはならない。しかし、そこに重きをおくあまりに、聖霊による感覚に鈍感であってはならない。

イエス様の場合もそうでした。イエスに対して、当時の律法の専門家たちは、お前は何の権威で教えているのだと問いつめました。つまり、どこの神学校出身なんだ。師事したラビはだれなんだと問うたわけです。

これは、目に見える証拠で安心を得たいという肉の感覚です。律法の行いによって義を得ようとしたり、肉体に受けた割礼をもって救いの確証を得ようとする感覚と同じ性質のものです。

そのような肉の感覚ではなく、霊の感覚というのがあります。私の内に住まわれる聖霊の感覚です。パウロの語る福音の信憑性は、聖霊によって「本物だな」と分かります。

同じ聖霊を受けた者同士……それまで何の情報交換もしなかったけれど、会ってみて、互いが受けた福音を分かち合ってみると、同じだった。2章でパウロはそのことを証言しています(2・1~10)

パウロは、最初の啓示を受けた時から3年後に使徒のケパと主の兄弟ヤコブと会い(1・18~19)、それから14年間のブランクがあってエルサレム教会の主(おも)だった人たちと会ったのですが、聖霊はそれぞれに同じ福音を啓示してくださっていました。これこそ正しい福音なのです。 ※ペテロのこと。「ケパ」とはアラム語で「岩」の意味。同じくペテロもギリシャ語で「岩」を意味する。

祈りましょう。肉の感覚と聖霊の感覚とを区別させてください。そして、私の内なる聖霊の感覚がいつも目覚めていることができるようにしてください。
 
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コリント人への手紙Ⅱ 13章

2022年06月14日 | コリント書
第二コリント書 13章
あなた方は、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられることを悟らないのか。
(13・5)


パウロはあらゆる言葉をつくして、コリント教会の人々の説得につとめました。それでもなお、教会内の反対者らによる問題はくすぶっていました。あとは神のなさることです。

あとは、彼らの中に信仰があるかどうかの問題です。彼らが、自分たちの中に住まわれるイエス・キリストを悟ることにかかっています。今日の御言には、そんな思いが込められています。

最終的に、私たちの望みはどこにあるのでしょうか。仕事が順調であるとか、能力に長(た)けているとか、財産があるとか……そのようなことに望みをおくなら、やがて失望に終わります。

私たちに信仰があることこそ望みです。私たちの内にイエス・キリストがおられることにこそ、最大の希望があります。

はたして信仰があるかどうか吟味しなさい、と聖書は勧めています。信仰があるとはどういうことでしょうか。 ※新改訳では、「信仰に立っているかどうか」と問うています。

礼拝に出席しているから、信仰があるのでしょうか。教会活動に参加しているから、信仰に立っているのでしょうか。何となく、漠然と習慣的に礼拝に参加するのは、信仰がなくてもできてしまいます。

そのような生活は「宗教生活」です。キリスト教は「宗教」ではなく「信仰」です。信仰とは、イエスとの交わりの中で歩むことです。

信仰がある(信仰に立っている)とは、どういうことでしょうか。今日の御言はさらに問うています。イエス・キリストがあなた方の内におられることを悟らないのか(13・5)

信仰があるとは、イエス・キリストが私の内におられることです。イエスが私の内におられるとは、信仰があることです。

パウロがコリント教会の人々に、「信仰があるかどうか吟味しなさい」と勧めたのは、「ほら。信仰なんてないでしょ!。あなた方の内にイエスがおられないんですよ。それが問題なんですよ」と言いたいのではありません。

あなた方の内にイエス・キリストがおられることを悟れと勧めているのです。

私の内にイエス・キリストがおられるので、その方との交わりを無視することはできません。その方と会話をし、愛をはぐくみ、そのお方と心をひとつにして行くこと……これが信仰です。

今日も、イエス様が私の内におられることを確認して始めよう。わが内に住まわれるイエスを悟らないで礼拝に参加しても、それは宗教生活に終わってしまいます。

わが内なるイエス様は、自分に何と語りかけておられますか。主よ、今日もあなたの言葉を聞かせてください……と祈ります。

わが内なるイエス様にいつも相談してください。何でもかくさずにうち明けるなら、主は私の内を、いつも御言と聖霊によって照らしてくださいます。

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