最後に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなた方の所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。(3・1)
この手紙が記された当時も、そして今も、聖書的にいうなら「終わりの時代」です。主イエスの初臨から再臨にいたる期間は「終わりの時代」です。
主イエスの再臨に備えて福音を伝えます。これが、福音を知った者に与えられた使命であり責任です。パウロは、そのために祈ってくれと要請しました。
生活上の必要もあったことでしょうが、パウロが要請したのは「主の言葉が……ここでも早く広まり、あがめられるように」という課題でした。福音のために生きるパウロの潔(いさぎよ)さに教えられます。
福音を聞いて信じるか否かは、聞いた人にゆだねられています。
信じてくれなかったとしても、それ自体は残念なことですが、伝えた人の信仰が足りなかったからではありません。私たちがなすべきことは、福音を伝えることです。
福音を伝える時に大切なことは、私たち自身が、神からの生きた手紙だということです。神は、私たちの心に御言を書き記してくださって、私たちを手紙のように人々に届けられます。
ある人は、それを読まずに破いてしまうかも知れません。それでも、神は手紙を書き続けられます。主よ、私をそのような手紙として用いてください。
さて、主イエスの再臨が近いことを知って、生活が落ち着かなくなる人がいます。テサロニケの教会にもいたようです。手紙にはこう記されています。
「ところが、あなた方の中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています」(3・11 新改訳)。「締まりのない」とは、口語訳では「怠惰な」と訳されています。原意は「無秩序な」とか「無計画な」です。
再臨を待ち望むという点では熱心なようでも、生活面では「締まりのない」「怠惰で」「無計画な」信仰生活になってはいけません。それは、再臨に対して間違った対応です。
第一は、主イエスが来られたら何もかも終わるんだから、仕事なんかしていられないと考えます。 そこで、仕事もやめてしまい、蓄財を消費しながら再臨を待ち望みました。しかし、やがて蓄えも底をつき、教会の人々からのほどこしを受けて生活する羽目になったようです。
第二は、再臨はすぐ来るのだから、福音を伝えることを最優先すべきであって、生活費をかせぐ仕事は二の次だ。 仕事は俗的なことだと、仕事を軽視します。
前者の場合は、再臨を言い訳にして、仕事をしない怠け心を正当化しているように思います。また、後者の場合は、福音にかかわる働きはきよくて立派だが、パンを得るための仕事は俗的だとしてさげすむ心があります。いずれもゆがんだ考えです。
この世の仕事は大切です。自らの手で仕事をしてパンを得るようにしなさいと聖書は勧めています。パウロもそうしました。いつ主が来られても良いように、落ち着いた生活をしなさいと。
神が天地を創造なさったとき、神は人に「地を治めよ」と命じられました。地を治めるとは「しっかりと仕事をしなさい」という意味です。この地を正しく管理することも、私たちの大切な使命です。
私たちの生活のすべてが、神からの手紙です。その手紙の内容を、自分で勝手に書きかえてはいけません。神の書かれた内容が、私の生活の中であらわされますようにと、主にあって祈ります。
テサロニケ人へ第一の手紙でも、パウロが福音を伝えたとき、「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によったことを見ました(Ⅰテサ1・5)。主イエスの再臨を待ち望みつつ、その生き様を通して、主の御言を広げよう。そのために祈ろう。

