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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

テサロニケ人への手紙Ⅱ 3章

2022年07月16日 | テサロニケ書
第二テサロニケ書 3章
最後に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなた方の所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。
(3・1)


この手紙が記された当時も、そして今も、聖書的にいうなら終わりの時代です。主イエスの初臨から再臨にいたる期間は「終わりの時代」です。

主イエスの再臨に備えて福音を伝えます。これが、福音を知った者に与えられた使命であり責任です。パウロは、そのために祈ってくれと要請しました。

生活上の必要もあったことでしょうが、パウロが要請したのは主の言葉が……ここでも早く広まり、あがめられるようにという課題でした。福音のために生きるパウロの潔(いさぎよ)さに教えられます。

福音を聞いて信じるか否かは、聞いた人にゆだねられています。

信じてくれなかったとしても、それ自体は残念なことですが、伝えた人の信仰が足りなかったからではありません。私たちがなすべきことは、福音を伝えることです。

福音を伝える時に大切なことは、私たち自身が、神からの生きた手紙だということです。神は、私たちの心に御言を書き記してくださって、私たちを手紙のように人々に届けられます。

ある人は、それを読まずに破いてしまうかも知れません。それでも、神は手紙を書き続けられます。主よ、私をそのような手紙として用いてください。

さて、主イエスの再臨が近いことを知って、生活が落ち着かなくなる人がいます。テサロニケの教会にもいたようです。手紙にはこう記されています。

ところが、あなた方の中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています(3・11 新改訳)。「締まりのない」とは、口語訳では「怠惰な」と訳されています。原意は「無秩序な」とか「無計画な」です。

再臨を待ち望むという点では熱心なようでも、生活面では「締まりのない」「怠惰で」「無計画な」信仰生活になってはいけません。それは、再臨に対して間違った対応です。

第一は、主イエスが来られたら何もかも終わるんだから、仕事なんかしていられないと考えます。 そこで、仕事もやめてしまい、蓄財を消費しながら再臨を待ち望みました。しかし、やがて蓄えも底をつき、教会の人々からのほどこしを受けて生活する羽目になったようです。

第二は、再臨はすぐ来るのだから、福音を伝えることを最優先すべきであって、生活費をかせぐ仕事は二の次だ。 仕事は俗的なことだと、仕事を軽視します。

前者の場合は、再臨を言い訳にして、仕事をしない怠け心を正当化しているように思います。また、後者の場合は、福音にかかわる働きはきよくて立派だが、パンを得るための仕事は俗的だとしてさげすむ心があります。いずれもゆがんだ考えです。

この世の仕事は大切です。自らの手で仕事をしてパンを得るようにしなさいと聖書は勧めています。パウロもそうしました。いつ主が来られても良いように、落ち着いた生活をしなさいと。

神が天地を創造なさったとき、神は人に地を治めよと命じられました。地を治めるとはしっかりと仕事をしなさいという意味です。この地を正しく管理することも、私たちの大切な使命です。

私たちの生活のすべてが、神からの手紙です。その手紙の内容を、自分で勝手に書きかえてはいけません。神の書かれた内容が、私の生活の中であらわされますようにと、主にあって祈ります。

テサロニケ人へ第一の手紙でも、パウロが福音を伝えたとき、「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によったことを見ました(Ⅰテサ1・5)。主イエスの再臨を待ち望みつつ、その生き様を通して、主の御言を広げよう。そのために祈ろう。

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テサロニケ人への手紙Ⅱ 2章

2022年07月15日 | テサロニケ書

第二テサロニケ書 2章
その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。
(2・8)


イエス・キリストの再臨の前兆について、イエスご自身が次のように語られました(マタイ24・4~13)

①自分がキリストだという者が人々をまどわす。
②戦争が激しくなる。
③民族や国同士の争いが激しくなる。
④飢饉・地震などの天変地異が多くなる。
⑤不道徳がはびこり、人々の愛が冷える。

昔からこのような状況はありましたが、近年ますます予告された時代になっています。テサロニケ教会への手紙では、その前兆について、さらに次のように記しています。

(1)再臨があったというデマが流れる。(2・2~3)

「私は再来のキリストだ」とか、「某年某月に世界は滅びる」などと言って混乱させている宗教団体がいくつもあります。キリスト教を名のっていますが、慌(あわ)てたり騙(だま)されたりしてはなりません。

再臨の日時は天の父がご自身の権威をもって定めておられます(使徒1・7)。また、イエスご自身も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と語られています(マタイ24・36)

(2)背教する者たちが続出する。(2・3)

信仰を捨ててしまう人が増えてきます。終わりの時代は、適当に、何となく信じて行けるような状況ではなくなります。信じるのか、信じないのかはっきりする時代が来ます。
ですから、あいまいな信じ方をしていると、道ばたにまかれた種を鳥がついばんで行くように、その信仰をサタンが奪って行きます。

(3)「不法の者」が現れる。(2・8)

これはある特定の人物のことです。主の再臨の直前に登場する人物です。ヨハネ黙示録およびヨハネ書簡では、この人物のことを「反キリスト」とか「獣」と呼んでいます。

神は人となってご自身を世に現わされ、神の愛を啓示なさいました。それと同じように、終わりの時代に、サタンは、この不法の者と呼ばれる人物によって、自分の邪悪な姿と働きを現すようになります。とはいえ、彼はとても有能な人物で、世の人々は彼を世界的なリーダとして称賛し歓迎するでしょう。

やがて、彼は自分を神だと宣言し、神の宮に座すると聖書は予告しています(2・4)。まるでローマ帝国を支配した皇帝(カイザル)のようです。カイザルも自分を神だと宣言し、民に礼拝を強要しました。

不法の者は、そんなカイザルをはるかに超えた人物です。霊的に目覚めたクリスチャン以外は、彼が不法の人だと見抜けないほど、カリスマ的で政治手腕にすぐれた人物です。

彼は自分を神とすることによって、真の神に敵対するようになります。そして、ユダヤ人やクリスチャンに対して激しい迫害を始めます。こうして、悪魔的な力が完全に現れる時代が来ます。

このように、終わりの時は、罪と悪に満ちた時代がやって来ます。この時代に、神の最終的なさばきと激しい御怒りが臨みます。これが「大患難」と呼ばれる時代です。前述の「携挙(けいきょ)」が、この大患難の直前に起こると私は信じますが、携挙されなかった人々は、この大患難を通過することになるわけです。

しかし、再臨のキリストは、不法の者とその背後で支配してきたサタン、それに従った者たちを滅ぼしに来られます。主は、この不法の者を、口の息をもって殺し、来臨の輝きで滅ぼしてしまわれます。(2・8)

武力や腕力で滅ぼすのではなく、口の息と輝きで滅ぼすのです。とはのことです御言とも解釈できます。イエスの御言は信じる者には救いの霊であり、信じない者には滅ぼす霊です。

輝きは主イエスの栄光の輝きです。闇の世の主権者に対しては、神の栄光が最大の武器です。光が来れば闇は滅びます。

主イエスが来られるまで、クリスチャンは「光の子」として世に派遣されています。私たちが罪に勝利して、神の栄光で輝く生活は、サタンに対して最も効果的な戦い方です。「悪に負けてはならない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」という命令は、そのことを意味しています(ローマ12・21)。私たちが聖なる生き様を世に現すことで、主の再臨までの間、サタンとの前哨戦(ぜんしょうせん)を戦っているのです。ですから、目をさまして祈ってください。主は近いのです。

主の再臨の直前には、反キリストが神殿に立つとかエルサレムを包囲してユダヤ人を迫害するなどの前兆を、聖書は預言していますが、これらは皆、ユダヤ人たちがエルサレムに帰還していることが前提になります。

ところが、今や、ユダヤ人たちは約束の地にもどり、国を復興させています。やがて、彼らは神殿建築に取りかかるでしょう。聖書の預言が成就する舞台は整いつつあります。

しかし、まだ「不法の人」の登場を引き留めているものがあります。彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがあると記されている通りです(Ⅱテサ2・6)。2千年後の今も引き留めています。

キリストの花嫁である教会の存在が、不法の人の登場を阻止していると考えられます。やがて教会が携挙されます。地上から取り去られて天に引き上げられます。こうして、引き留めていたものが地上からなくなると、不法の人すなわち反キリストが登場すると私は予測しています。

また、二義的な解釈ですが、不法の人を引き留めているものは民主主義という政治形態ではないかと考えられます。

これから益々混乱した時代になるでしょう。混乱した時代になればなるほど、多数決では対応できない時代になると、人々は誰かに権力を委任し決定力のある政治を期待するようになるでしょう。こうして、民主主義という政治形態に失望する時代が来ます。

不法の人とは、先ほど述べたようにカリスマ的な人物です。混乱した世界を統治するにふさわしいと思えるようなリーダーシップに富んだ人物です。

テロとか戦争、新型コロナなどの世界的疫病、巨大地震や地球規模の気候変動、グリーバル化した経済システムなどといった世界情勢は、民主主義では対処できない問題を提起しています。こうして、不法の人が登場する舞台装置は整いつつあります。

祈りましょう。終わりの時代、いかなる状況の中でも、最後まで信仰を全うできますように。希望の光を照らすことができるように用いてください。

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テサロニケ人への手紙Ⅱ 1章

2022年07月14日 | テサロニケ書
第二テサロニケ書 1章
これは、あなた方を、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなた方も苦しんでいるのである。
(1・5)


初代教会は迫害による苦難の中を通りました。その苦難は、キリスト教がローマ帝国の国教となった時点で終わったのではなく、形をかえて今日にいたるまで続いています。 ※迫害については「朝マナ」第1テサロニケ3章を参照。

そのような試練とか患難のことを、あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきと表現しています(1・5)

聖書に記された「さばき」には、二通りがあります。

第一は、サタンに対するさばきです。 罪を処罰して滅ぼしてしまうためのさばきです。罪を悔い改めず、神に反逆する人々にも、このさばきは臨みます。

第二は、信者に対するさばきです。 この場合は、滅ぼすためのさばきではなく、きよめるためのさばきです。冒頭の聖句で述べられている神のさばきは、きよめるという意味が込められています。

神は聖なるお方ですから罪や悪をお受けになりません。食事の時、手を洗い、食材も食器を洗ってきれいにしていただくように、神は私たちを天に迎えるために、私たちをきよめられます。

実は、すでに神は、私たちの罪をきよめるために、御子イエスを十字架につけて血を流されました。罪の代価である血が流されたのです。私たちは、このイエス様の血を受けることによって、すでにきよい者とされました。イエスの血によって義とされたという表現も同じことです。

ですからイエスを信じた私たちを聖なる者だと、神は見なしてくださいます。キリストの御言を受けてすでにきよいのです(ヨハネ15・3)

でも、クリスチャンのどこが聖なる者か……と疑問を持つ人もいるでしょう。未信者から責められたり、自分が自分を見てもそう思うこともあります。

そう感じるのは、私のはきよめられましたが私の「考え」とか「心」の領域は、昔のままを引きずっているからです。考える部分 ―「心」とか「魂」と呼ばれる領域― は、いまだに神に反する思いが出てくるし、憎しみや怒りも日常茶飯事です。

人には、」と「」と「の領域があります。先のテサロニケ人への第一の手紙5章23節の祝福の祈りでは、「あなたがたの霊と心と体とを完全に守って」とありました。 ※「心」は「魂」とも訳される(新改訳)。

イエスを信じた時点で、神は私たちのをきよめられました。は人の本質ですから、霊がきよめられたなら、その人は基本的にはきよいのです。だから義なる者」「聖なる者と呼ばれます。

きよめには順番があって、次に「心(魂)」と呼ばれる領域のきよめです。思考という領域のきよめです。この魂とか心には、イエスを信じる以前に養った考え方が刷り込まれています。

ですから、救われたはずのクリスチャンでも、邪悪な思いが湧いてきます。そんな心の醜さを感じて、救いを疑う人もいます。それでも、神は、あなたを聖なる者だと見てくださっています。

そこで、神は、私たちの魂(心)をきよめるために、試練や苦難を用いられます。このことを今日の聖句は、あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきと表現しているわけです。

イエスを信じたら、困難や問題がなくなって、平穏無事な人生を過ごすことになる等と、聖書は約束していません。そうではなく、神はあなたを子として愛しておられるので、様々な試練を通してあなたを〝神の国にふさわしい者にしよう〟と訓練なさいます。主の祈りでも「御国が来ますように」と祈りますが、それは同時に、御国の国民である私たちもその国にふさわしいものになることを祈っているわけです。

試練の最中にある時はつらいです。いやです。楽しくありません。逃げ出したいです。でも、これは、私が神の国にふさわしい者になるための道です。十字架を負って従うとは、こういうことです。

でも、試練の最中にあっても、神の愛が途絶えたわけではありません。十字架の死の経験は、必ず栄光の復活につながっていることを忘れないでください。

日々負う十字架によって、邪悪な心が死んで、キリストにある新しいきよい心が復活します。こうして、心(魂)の領域がきよめられて行きます。そのために試練を通過します。

このつらい経験も必ず報われる時が来ます。そのことについて、聖書はこう記しています。

苦しめられているあなた方には、私たちと共に、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。(1・7)

主イエスの再臨の時、私たちに用意されているのは完全な安息です。ですから、今の試練や苦難でめげないでください。不当な仕打ちがあってもくさらないでください。

いのちの無いものはくさります。キリストのいのちを持っている人は、どんな苦難の中でも、くさらない人です。私たちは、神の子としての永遠のいのちを持っている者です。

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テサロニケ人への手紙Ⅰ 5章

2022年07月13日 | テサロニケ書

第一テサロニケ書 5章
神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
(5・9)


なぜイエス様は十字架で死なれたのでしょうか。もちろん人間を罪と死から救うためです。

では、なぜ、罪をおかすような環境に人間をおかれたのですか。つまり、悪魔が存在するこの世にアダムとイブをおかれたのでしょうか。始めから人間を天に置いてくだされば、罪を犯すようなリスクもなかったのではと思うのです。

このように、キリストの十字架の死を人の救いのためという視点……、即ち人間中心の神学では読み解くことのできない盲点があります。

別の視点が必要です。イエス様が来られたのはサタン悪魔を滅ぼすためです。使徒ヨハネはその手紙の中で、「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼすためである」と記しました(Ⅰヨハネ3・8)。また、イエスご自身も、十字架の死を前にして、「今はこの世がさばかれる時である。今こそ、この世の君は追い出される」と言われました(ヨハネ12・31)

このように視点を変えると、イエスが来られたのは、この世の君をさばくためであることが見えてきます。この世の君は、「この世を支配する者」とも訳されており、悪魔のことです。イエスが来られた目的は、サタンをさばいて滅ぼすためです。

人間社会でも、罪をおかした者をさばき、刑罰を執行します。そうしなければ社会の秩序を保つことができません。天においても同じです。天で罪をおかしたサタンに対しても、神は彼をさばき、刑罰を執行なさるのです。

サタンは、もとは天で神に仕えていた御使(天使)でしたが、天で罪をおかしました。自分も神のようになろうとしたのです。自分が天の王座に座ろうとしたのです。いわゆるクーデターです。

そこで、神はサタンと彼に追随した仲間の天使たちを下界に閉じこめてしまわれました。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」(Ⅱペテロ2・4・口語訳)

この「下界」は、新改訳で「地獄」と訳されていますが、ふさわしい訳ではありません。なぜなら、サタンはまだ地獄に入っていないからです。地獄行きは、イエス再臨の後のことです(黙示録20・10)。 ※「下界」と訳されたギリシャ語は「タルタローサス」。「地獄」と訳される「ゲヘナ」とは区別される語句である。

下界とは私たちの住む世界のことです。彼らを閉じ込めた世界は「暗やみの穴」と表現されていますが、まさに、宇宙は、天から見れば「下界」であり「暗やみの穴」のようなところです。

そこにサタンとその仲間である堕落した御使たちを、神はさばきの時まで閉じ込めたというわけです。一般社会でも、犯罪者は留置され、裁判を経て刑を確定し、その刑罰を執行するわけですが、天で罪を犯したサタンも同じ経緯をたどります。

初臨のイエスは、十字架の死と復活によってサタンをさばきました。なぜ十字架の死と復活がサタンへのさばきになるのか……詳しい説明は別の機会にゆずることにします。

そして、再臨のイエスはサタンを地獄(ゲヘナ)に投げ込むために……つまり、刑罰の執行のために来られます。この一連の出来事をまとめて「さばき」と表現しています。

このさばきのために、イエス様は来られたのです。

ですから、さばきと死の刑罰とは、本来、罪をおかした御使たちのため……つまり、サタンとその仲間のために用意されたものであって、人間のために用意されたものではありません。

神はご自分に似せて創造なさった人間をこよなく愛しておられます。

ところが、神を誤解する人がいます。神は、人間を肉体という弱さをもつ存在に創造しておいて、その弱さゆえに罪を犯したら地獄に投げ込もうと準備なさっている……と。そんな非情な神ではありません。

整理するとこうなります。

イエス様が来られたのは悪魔をさばいて」「悪魔のわざを滅ぼすためである(Ⅰヨハネ3・8)。これは悪魔から見た立場です。

しかし、人間の立場からすれば、神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ3・17)

そして、今日の聖句は何と言っていますか。神は、私たちを御怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」。

神はサタンをさばくために、御子イエスをお遣わしになりました。その御子が肉体をとって来られるために、御子に似せて人間を創造なさいました。いわば、人間を道のようにしてイエスが来られました。そして、その後は逆に、私たちが天に行くための道となってくださいました。 ※イエスは「わたしは道だ」と言われた。

このように、人間は神の同労者として造られたのであって、神は、人間に御怒りをくだそうと定められたのではありません。御怒りはサタンに対してくだります。そして、人間には救いを用意なさっています。

サタンと一緒になって滅ぼされないために、サタンの支配から出てきなさいと、神は人々を呼び出しておられます。それは言いかえれば、サタンと一緒になって神の御怒りを受けてしまわないために、悔い改めて神に立ち返りなさいという意味です。

このような呼びかけは、ノアの時代の大洪水の時もありました。罪に汚れたこの地をご覧になった神は、洪水によって滅ぼすことになさいました。しかし、ノアに箱船を建造させて、助かりたい者はだれでも箱船に入るように伝えました。

ノアの箱船と洪水事件は、世の終わりに臨まんとするさばきと刑罰の〝ひな型〟です。

どうぞ、誰でも助かりたい人は、イエスの中に入ってください。イエスという箱船に入った者は、だれでも、終わりの日の御怒りから救われます。

さて、この主イエスの再臨の時期と場合は父なる神の専権事項であって、私たちの知るところではありません。ただ私たちは、目をさましていることです(5・6)。ですから、第5章の後半では、浮き足だったり、落ち着きのない生活をしないで、愛し合い励ましあう生活をするようにと勧められています。

互いに善を行う生活(15)
喜び祈り感謝する生活(16~18)
聖霊に信頼する生活(19)

……などが勧められています。それもこれも、主イエスが再び来られるからです。全ての結論は再臨のイエスにあるからです。だから喜べます。だから感謝できます。主の再臨を待ち望む人々に祝福あれ。

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テサロニケ人への手紙Ⅰ 4章

2022年07月12日 | テサロニケ書
第一テサロニケ書 4章
主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり……
(4・16)


テサロニケ教会は迫害の中にあっただけに、手紙はキリストの再臨の希望に目を向けるようにと勧められています。

始めに整理しておきましょう。聖書は、旧約も新約もイエス・キリストについて記しています。

旧約聖書は、やがてキリストが来られることを予告しています。キリストを迎えるために、神はイスラエル(ユダヤ人)を選んで準備されました。その歴史が記されています。

新約聖書は、キリストが来られたことを証ししています。その方は十字架で死なれ、復活し、天の王座に着かれたイエスです。しかも、このイエスは再び来られて、救いを完成なさるのだと予告しています。

つまり、旧約ではキリストが来ると予告し、新約でもキリストがもう一度来ると予告しているわけです。そこで、最初に来られたのを初臨、二度目に来られることを再臨といいます。

初臨では、イエスは人類の罪のゆるしのために来られました。十字架の死と復活によって、私たちの支払うべき罪の刑罰をみな支払ってくださいました。

イエスの十字架の死と復活は、人類にとっては救いですが、サタンにとっては裁きです。それまでサタンは罪と死の力で人類を支配してきましたが、イエスは十字架の死によって罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼしてしまわれました。こういうわけで、サタンに残されているのは、有罪とされたサタンに対する地獄行きという「刑罰の執行」です。

なぜ、神は、サタンをすぐに滅ぼさないのか。つまり、刑罰を速やかに執行されないのか。それは、サタンのもとで、罪と死の奴隷になっている人類を道連れにしないためです。ですから、「御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられ」「それから最後(再臨)が来る」ようになさいました(マタイ24・14)。サタンを滅ぼす前に、救いの知らせを全人類に知らせる期間が必要です。今がその時代です。今が救いの日、恵みの時です。

イエスが再臨なさるのは、サタンに滅びの刑罰を執行するためです。

イエスの再臨は、サタンにとっては滅びが完成する日です。しかし、信じる私たちにとっては救いが完成する日です。サタンは終わりの時が近いのを知って、人類を道連れにしようと悪の働きを増し加えています。今はそのような時代です。

さて、主イエスが再臨される時の様子を、神のラッパが鳴り響く内に来られるとあります(Ⅰテサ4・16)。聖書では、ラッパはいつも重要な合図として用いられます。旧約の時代、荒野で宿営していたイスラエルは、約束の地に向けて出立する時、ラッパを吹いて旅立ちの準備をせよ知らせました。人々はラッパの音を聞くと、旅立の支度(したく)をしました。

このことは、やがて来たらんとする世の終わりに、新約の民がこの世を旅立って、約束の地である天に入るときを予表しています。

そのような時を迎えるのですから、私たちは身のまわりの整理をします。この地上に思い残すものがないようにすべきです。復活の時も、終わりのラッパが鳴り響くと記されていますが(Ⅰコリ15・52)、それは主の再臨の時のことで、今日の聖句と同じラッパです。

再臨の時、信者は復活します。すでに眠りについた者は、眠りからさめるようにして復活します。また、その時点で地上で生き残っている者は、肉体が「霊の体」に変えられて、天に引き上げられます(4・17)。 ※復活の詳細については第一コリント15章を参照。

このすばらしい出来事を携挙(けいきょ)と呼びます。

キリスト教会は、主の再臨の時に復活して携挙され、天において、「キリストのさばきの座」とよばれる場で、信仰生活に対する主からの報いを受けます(Ⅱコリ5・10)。その後、花婿であるキリストと花嫁である教会の結婚式があります。天での祝宴として、聖書では度々言及されています。至福の時です。

しかし、教会が携挙された後の地上では、大患難の時代が始まります。

この大患難の期間が、聖書でいう神の御怒りの時のことです。この最終段階についてはヨハネの黙示録で取り扱うことになります。この神の御怒りの時を前に、私たちは携挙されることによって、地上に下される御怒りから救い出されます(Ⅰテサ5・9)

今は迫害の中にあっても、この希望の時を知って、互いに励ましあうようにと聖書は勧めています(4・18)。主の再臨を待ち望みつつ、主の再臨に備えよう。

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テサロニケ人への手紙Ⅰ 3章

2022年07月11日 | テサロニケ書

第一テサロニケ書 3章
あなた方の知っているとおり、私たちは患難に会うように定められているのである。
(3・3)


テサロニケ教会が迫害の中で誕生した教会であったことは、先に記したとおりです。そして、初代教会のみならず今日に至るまで、キリスト教会は迫害や苦難の中を通ってきました。今日の御言が示しているように、キリスト教会は患難に会うように定められているのです。 ※「定められている」は、詳訳聖書では「避けて通れない」と翻訳。

逆に、迫害や苦難が止んでしまうと、キリスト教会は堕落して行きました。それは、キリスト教会の歴史が物語っています。AD313年のミラノ勅令でキリスト教はローマ帝国公認宗教となり、その後、380年にはキリスト教はローマ帝国の国教となり、帝国の庇護のもとで大成長をとげたというのが、一般的な歴史解釈です。しかし実際は、キリスト教会堕落の歴史の始まりでした。

旧約の時代、神を信頼せず隣国のエジプトやアッシリヤと同盟を結んで保身をはかったイスラエルに対して、それは「霊的な姦淫」だと神は指摘されました。新約の時代、キリスト教会もイスラエルと同じ轍(わだち)をふんで堕落しました。キリストの花嫁たる教会が、世俗の帝国の妻になり下がったのです。

国教化とは、キリスト教がローマ帝国の公式な宗教になることです。国民はキリスト教徒になるように、法律で決まったわけです。どういう事態が起きるか想像してみてください。

かつてのローマ帝国では、「皇帝(カイザル)は主である」と告白することが法律で定められていましたが、今や、「イエスは主である」と告白するよう、国家権力のもとで強制されるのです。迫害の時代は、「イエスは主である」と告白することは命がけでした。しかし、国教化されるとは、私はイエスを信じませんと告白することが命がけになるわけです。こうして教会はローマ帝国の〝妻〟として保護され、また、未信者であった者も、クリスチャンである方が都合がよいので、かたちだけの宗教生活をするようになりました。

この国教化に反対するクリスチャンたちは、国策への反逆者、異端者として殉教して行きました。キリスト教の名のもとにクリスチャンが迫害を受ける時代の始まりです。何という皮肉でしょうか。以後、千年の間に数千万人の殉教者を出したと言われています。 ※バプテストの歴史を記した「血まみれの道」(J・M・キャロル著)には殉教者の詳細が記されている。

キリスト教会がこの世の者であろうとするとき、堕落します。クリスチャンが天国人としての身分を捨てて、地上の国民であろうとするとき、堕落します。

イエス様は「わたしの国はこの世のものではない」と言われ、また、私たちにも、あなた方はこの世の者ではないと言われました。つまり、この世の者ではないので、信者は地上では困難があるのです。クリスチャンにとって、地上は快適な場所ではありません。実に、生きにくい場所です。しかし、その困難を受けたくないために、この世の者であろうとするとき、堕落するわけです。

とはいえ、この世を軽視したり隔絶せよと言われたのではありません。カルト宗教のように、世を敵視し、世との関わりを断とうとするのではありません。むしろ逆で、積極的に世と関わって行きます。

イエス・キリストは罪人たちの中に入って行き、共に泣き、共に苦しみ、共に重荷を負ってくださいました。そのことによって、天国の秩序を地上にもたらしてくださいました。その使命は私たちにも継承されています。

伝道とは、この世に属している人々を、天に属する人々にすることですから、自分が世に属していては伝道できません。

実は、世に属する人々を支配する闇の力があります。それを、聖書はサタン(悪魔)の力だと言っています。この世は、神の目からご覧になるに、サタンの支配下にあります(Ⅰヨハネ5・19)。ですから、サタンは、人類をこの世につなぎ止めようと、あらゆる手段を駆使してきます。時には患難をもって、私たちの信仰を妨害したり、信仰を放棄させようとします。また、時には、先の国教化したキリスト教会のように、快適な環境によって世俗化させます。

いずれにしても、キリスト教会の歴史は患難の歴史です。今も、共産圏やイスラム圏では暴力的な迫害がつづいていますが、逆に、あまりにも快適になった日本では、暴力によらない患難が深刻です。仏教による先祖崇拝は、日本人をこの世に縛り付けて、私たちが天に属することを妨げます。また、この世の便利さや快楽もそうです。天に行かなくても、この世で十分に満足できるかのようです。

信仰を妨害するために、日本ではこの方法が最も効果的だと、敵は見抜いているようです。そして、クリスチャンを腑抜(ふぬ)けにしておいて、最後の大患難で信仰を奪ってしまうのかも知れません。

日本で暮らしていると、惰眠をむさぼりそうです。だから、主は「目をさましていなさい」と命じられます。目をさまして祈り続けようではありませんか。主イエスが来られて、すべてを精算なさる時が近いのですから。

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テサロニケ人への手紙Ⅰ 2章

2022年07月09日 | テサロニケ書
第一テサロニケ書 2章
あなた方が私たちの説いた神の言
(ことば)を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実その通りである――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなた方の内に働いているのである。(2・13)


先の1章では、パウロが福音を伝えるにあたって、「言葉だけによったのではなく、力と聖霊と力強い確信とによったからです。また、私たちがあなた方の所で、あなた方のためにどのように振る舞ったかは、あなた方は知っています」とありました(1・5 新改訳)

つまり、福音は「言葉」で伝えますが、「聖霊によって」伝えられ、そして、「ふるまい」が伴って伝わるのです。 ※口語訳では「どんな事をしたのか」。新改訳を参照。また、「力と聖霊と力強い確信」は「聖霊によって」とひとまとめにして考えてみよう。福音を伝える3要素。言葉と聖霊とふるまいによってである。

そして、第2章では「母が子どもを育てるように」ふるまい(7)、さらに「父がその子に対してするように」ふるまったと記されています(11)。母は子のために全てを与えようとします。いのちさえも与えようとします。父は子に威厳をもって大切なことを命じます。そのような〝ふるまい〟が、〝言葉〟〝聖霊〟の導きの中で福音を伝えることになるのです。

◆◆◆◆◆ 

そのようにしてパウロは、テサロニケで福音を伝えました。そして、3週間という短期間の伝道によって教会が誕生し、しかも迫害の中でも信仰を失わずに前進し続けることができました。いったい、その秘訣は何だったのでしょうか。

もちろん聖霊に満たされたパウロの伝道もその要因でしたが、冒頭の聖句は、もうひとつの要因を示しています。先程は、伝える側が「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によって伝えることをみましたが、次はそれを受け取る側の要因です。

テサロニケの人々が、パウロの語る言葉を神の御言として聞いたからでした。信仰は勉強したり研究して得られるものではありません。信仰は神の御言を聞くことによって生じます。

2千年前、イエス様の言葉を直接聞いた人はたくさんいました。でも、聞いた人すべてが信じたのではありませんでした。信じなかった人たちは、イエス様の言葉を「人間の言葉」として聞いたからです。彼らは、ナザレ村出身の大工の言葉として聞きました。

漁師であったシモン(後のペテロ)も始めはそうでした。一日中漁をしても獲物がなかった時、「沖へこぎ出して網をおろしてみなさい」というイエスの言葉を聞きました。シモンは漁の専門家ですから、大工に何が分かるかと反感をもったことでしょう。

そこで終わっていたら、ペテロはイエスを信じることができませんでした。しかし彼は、「お言葉ですからやってみましょう」と従いました。すると、網いっぱいの魚を捕ることができました。

ペテロは、この出来事を通して、イエス様の言葉は神の御言だと信じるようになりました。

聖書の言葉もそうです。聖書を単なる人間の言葉として読んでいるなら、信仰は生まれませんし、神との出会いもありません。知識や教養は深くなるかも知れませんが、信仰には至りません。

聖書の言葉は、神の御言であると信じて読むとき、すばらしいことが始まります。

これには聖霊の助けが不可欠です。

かつて、私は信仰が行き詰まっている時代がありました。救いの確信がうすれ、喜びも感動もない信仰生活をおくっていました。

ある時、「あなたは恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、神の子たる身分を授ける霊を受けたのである。この霊によって神を『アバ父』と呼ぶのだ」という聖句が衝撃を伴って入ってきました。ローマ人への手紙8章15節です。

今まで何度も読んだことのある聖句です。しかし、この時は違いました。感動と涙で、この言葉は神の御言として私の中に入ってきました。そして、すばらしいことが始まりました。

それまでの私にとって、神は失敗を見逃さない恐ろしいお方でした。私は神の顔色をうかがうようにして慎重に生きていました。失敗しないように歩んできました。

でも、この時、神は私の父だと分かりました。私が神を恐れながら生きている姿を、神は不憫(ふびん)に思っておられることが分かりました。天の父は、私の失敗を覆い尽くすほどの大きな助けの手を、いつも差しのべておられるのだと分かりました。こうして、天の父への信頼と安心と愛でつつまれました。

恐れで動くのではなく、神の愛の中で大胆に動けるようになりました。思い切ってやってみようと思うようになりました。そして、印刷業として独立自営。その後、とうとう牧師にまでなってしまいました。聖霊は、この御言をまさに神の言として受け取ることができるように導かれたわけです。

今日の聖句は何と言っていますか。この神の言は、信じるあなた方の内に〝働いている〟のである」。神の御言は、信じる人の中で働き始めます。信じる人の中で、御言の力は現れます。

自分が歓迎されていない所へ行ったら窮屈です。場違いなところへ来たと思うと、自分の力を発揮できずに、おとなしくしているしかありません。

神の御言もそうです。神の御言を歓迎していますか。御言は、あなたの中で窮屈な思いをなさっていませんか。せっく御言を受けたのに、自分の考えの方が正しいと思っていませんか。そんなことでは、御言は私たちの中で働けません。御言は、実力を発揮できずにおとなしくしているしかありません。

信じるとは、歓迎することです。

「あぁ、よく来てくださいました。待ってました。どうぞ思う存分なさってください。私の心の中で自由になさってください。自分の部屋のように使ってください」。そんな心で御言を歓迎しよう。

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テサロニケ人への手紙Ⅰ 1章

2022年07月07日 | テサロニケ書

第一テサロニケ書 1章
死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下って来られるのを待つようになった……
(1・10)


第2回伝道旅行でマケドニヤに渡ったパウロは、ピリピで伝道しましたが、そこで迫害され投獄されました。しかし、その牢獄で讃美を歌っていると、獄のとびらが開き解放されたという奇跡がありました(使徒16・11~40)。次に向かった街がテサロニケでした。そのテサロニケでも激しい迫害があり、3週間ばかりの滞在でしたが、テサロニケにも教会が誕生しました(使徒17・1~2)。 ※ピリピとテサロニケはマケドニヤ地方の都市。ギリシャ半島の北部地方である。かたや半島の南部地域はアカヤ地方と呼ばれ、ギリシャやコリントなどの都市がある。

短い期間の伝道であったため伝えきれなかったことがあります。それを補うために、また、その後も執拗につづく迫害下にある彼らを心配してパウロはテモテを派遣したのです。

さて、戻ってきたテモテの報告によると、テサロニケの人々は御言にかたく立って信仰を保っていたのです。それどころか、その信仰の言葉はマケドニアから始まり、アカヤ地方にも響き渡っているというのです(1・8)。そのことへの感謝と喜びと共に、彼らへの励ましを込めてこの手紙は記されました。

さて、手紙では、テサロニケの人々が何をどのように信じたのかを再確認しています。テサロニケの人々はイエスを信じてどのように変化したのでしょうか。

(1)偶像を捨てて神に立ち返った(1・9)

私たちが以前に信じていたものは、神ならぬ神でした。仏は神ではありません。それは人の死後の存在です。神社に祀られた神々も真の神ではありません。多くの場合、それも人の死後の存在か、あるいは空想や伝説の話です。仏や日本伝来の神々は、人々から尊敬をあつめた卓越した人物ではありますが、人間に過ぎません。死んだ人であり、死後の世界に行った人であり、復活することがありません。 ※神道や仏教の中には、景教(東方キリスト教)がもたらした神概念が反映されているが、後世になって偶像化した。

神など信じないという人も、自分を神としたり、お金や仕事を神としたり、また、家族を神として頼り、拝み、そして支配されています。以上のような神ならぬ神々を、聖書は「偶像」と呼んでいます。

真の神は聖書の神です。万物の創造者なるお方だけです。偶像とは、結局は、人間の願望の化身です。「こうあって欲しい」という願いを具現化するための道具としての神です。ですから、聖書はこう言います。

「地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ3・5)

テサロニケの人々はその間違いに気づき、偶像を捨てて真の神へ立ち返りました。

(2)生ける真の神に仕えるようになった(1・9)

偶像が人間の欲望を起因としているのに対して、生ける神は逆です。神の御心、つまり神の計画、神の考えが先にあります。そのために、万物をはじめ人間を創造し、人間と共に神の働きをなそうとしておられる神です。

だから、真の神は、私を愛しておられる神です。私を子として扱い、訓練し、導かれる神です。私を通して神の栄光をあらわそうとなさる神です。

生きておられる神ですから、私たちと交わりを持たれる神です。私たちに語りかけ、私たちからの応答を喜ばれる神です。

そのような係わりの究極が礼拝です。真の神を知った人は、そのお方を礼拝するようになります。礼拝こそ、真の神に対する最もふさわしい応答です。

(3)キリストの再臨を待つようになった(1・10)

聖書の信仰は、実にスケールの大きい内容です。地上で生きている間、無事であることを祈願する程度の信仰ではありません。イエス・キリストがもう一度来られるのを待ち望む信仰です。

キリストの再臨の意味するところは、テサロニケ書の中で順を追って紹介することにしましょう。ヨハネ黙示録では更にくわしく取り上げることになりますが、再臨によって世界に大変化が起こります。

今日の聖句は、その大変化の時に「来るべき神の御怒り」が臨むのだと告げています。神のさばきのことです。最後の審判とも呼ばれています。

この時、神を神とも思わず侮(あなど)っている者たちに、神の御怒りがくだります。その御怒りから救い出すこのできるお方は、イエス・キリストだけです。冒頭の聖句も「来るべき怒りから救い出して下さるイエス」と述べています(1・10)

実は、神の人類に対する御怒りは、2千年前にくだりました。あの十字架のイエスの上に激しくくだったのです。酷(むご)たらしいイエス・キリストの死は、人類にくだった神の御怒りでした。

イエス様は人類の受けるべき、神のさばき(御怒り)を一身に受けてくださいました。そのことを信じてください。私は、あの十字架でイエスと一緒に、すでに、神の御怒り(さばき)を受けたのです。

本来なら、罪人である私が受けるべき神の御怒りです。罪の結果である死をもって、その御怒りを受ける存在でした。ところが神は、その御怒りを私に下すのではなく、ご自身の御子に下されたのです。

このことを信じる者は、すでに、さばきを受けた者です。私に対する神の御怒りは、すでに御子イエスと一緒に受けたのです。ですから、もはや信じた者への刑罰はありません。終わったのです。

しかし、イエスの十字架は、私が受けるはずのさばきだったと信じない人は、自分で自分の罪の結果を引き受けます。最後の審判で神の御怒りがくだるとき、それを自分が受けることになります。

だから、イエスを信じてください。そして、神のさばきから逃れるようにと伝えるのが伝道です。

そして、この大審判の後に栄光に富んだ世界が実現します。それを神がなさいます。私たちはそれを待ち望んでいるのです。

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テサロニケ人への第二の手紙3章

2020年09月18日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ3:1 最後に、兄弟たちよ。私たちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなた方の所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。

この手紙が記された当時も、そして今も、聖書的にいうなら「終わりの時代」です。主イエスの初臨から再臨にいたる期間は「終わりの時代」です。
 
主イエスの再臨に備えて福音を伝えます。これが、福音を知った者に与えられた使命であり責任です。パウロは、そのために祈ってくれと要請しました。
 
生活上の必要もあったことでしょうが、パウロが要請したのは「主の言葉が……ここでも早く広まり、あがめられるように」という課題でした。福音のために生きるパウロの潔さに教えられます。

福音を聞いて信じるか否かは、聞いた人にゆだねられています。

信じてくれなかったとしても、それ自体は残念なことですが、伝えた人が信仰深くなかったからではありません。私たちがなすべきことは、福音を伝えることです。

福音を伝える時に大切なことは、私たち自身が、神からの生きた手紙だということです。神は、私たちの心に御言を書き記してくださって、私たちを手紙のように人々に届けられます。

ある人は、それを読まずに破いてしまうかも知れません。それでも、神は手紙を書き続けられます。主よ、私をそのような手紙として用いてください。

さて、主イエスの再臨が近いことを知って、生活が落ち着かなくなる人がいます。テサロニケの教会にもいたようです。手紙にはこう記されています。

ところが、あなた方の中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています3:11 新改訳)。「締まりのない」とは、口語訳では「怠惰なと訳されています。原意は「無秩序な」とか「無計画なという意味です。

再臨を待ち望むという点では熱心なようでも、生活面では「締まりのない」「怠惰で」「無計画な」信仰生活になってはいけません。それは、再臨に対して間違った対応です。

第一は、主イエスが来られたら何もかも終わるんだから、仕事なんかしていられないと考えます。 
そこで、仕事もやめてしまい、蓄財を消費しながら再臨を待ち望みました。しかし、やがて蓄えも底をつき、兄姉からのほどこしを受けて生活する羽目になったようです。


第二は、再臨はすぐ来るのだから、福音を伝えることを最優先すべきであって、生活費をかせぐ仕事は二の次だ。 仕事は俗的なことだと、仕事を軽視します。

前者の場合は、再臨を言い訳にして、仕事をしない怠け心を正当化しているように思います。また、後者の場合は、福音にかかわる働きはきよくて立派だが、パンを得るための仕事は俗的だとしてさげすむ心があります。いずれもゆがんだ考えです。

この世の仕事は大切です。自らの手で仕事をしてパンを得るようにしなさいと聖書は勧めています。パウロもそうしました。いつ主が来られても良いように、落ち着いた生活をしなさいと。

神が天地を創造なさったとき、神は人に「地を治めよ」と命じられました。地を治めるとはしっかりと仕事をしなさいという意味です。この地を正しく管理することも、私たちの大切な使命です。

私たちの生活のすべてが神からの手紙です。その手紙の内容を、自分で勝手に書きかえてはいけません。神の書かれた内容が、私の生活の中であらわされますようにと、主にあって祈ります。
 
テサロニケ人へ第一の手紙でも、パウロが福音を伝えたとき、「言葉」と「聖霊」と「ふるまい」によったことを見ました(第一テサ1:5)。主イエスの再臨を待ち望みつつ、その生き様を通して、主の御言を広げよう。そのために祈って欲しい。(Ω)

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テサロニケ人への第二の手紙2章

2020年09月17日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ2:8 その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。

イエス・キリストの再臨の前兆について、イエスご自身が次のように語られました。

①自分がキリストだという者が現れて人々をまどわす。②戦争が激しくなる。③民族や国同士の争いが激しくなる。④飢饉・地震などの天変地異が多くなる。⑤不道徳がはびこり、人々の愛が冷える。(マタイ24:4-13)

今の時代と非常に似ています。テサロニケ教会への手紙では、その前兆について、さらに次のように記しています。

(1) 再臨があったというデマが流れる。(2:2-3)

「私は再来のキリストだ」とは「某年某月に世界は滅びる」などと言って混乱させている宗教団体がいくつもあります。キリスト教を名のっていますが、慌てたり騙されたりしてはなりません。
 
再臨の日時は天の父がご自身の権威をもって定めておられます(使徒1:7)。また、イエスご自身も「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と語られています(マタイ24:36)。

(2) 背教する者たちが続出する。
(2:3)


信仰を捨ててしまう人が増えてきます。終わりの時代は、適当に、何となく信じて行けるような状況ではなくなります。信じるのか、信じないのかはっきりする時代が来ます。
 
ですから、あいまいな信じ方をしていると、道ばたにまかれた種を鳥がついばんで行くように、その信仰をサタンが奪って行きます。

(3)「不法の者」が現れる。(2:8)

これはある特定の人物のことです。主の再臨の直前に登場する人物です。ヨハネ黙示録とヨハネ書簡では、この人物のことを反キリストとかと呼んでいます。

神は人となってご自身を世に現わされ、神の愛を啓示なさいました。それと同じように、終わりの時代に、サタンは、この「不法の者」と呼ばれる人物によって、自分の邪悪な姿と働きを現すようになります。

とはいえ、彼はとても有能な人物で、世の人々は彼を世界的なリーダとして賞賛し歓迎するでしょう。

やがて、彼は自分を神だと宣言し神の宮に座すると聖書は予告しています(2:4)。まるでローマ帝国を支配した皇帝カイザルのようです。カイザルも自分を神だと宣言し、民に礼拝を要求しました。

不法の者は、そんなカイザルをはるかに超えた人物でしょう。霊的に目覚めたクリスチャン以外は、彼が反キリスト(不法の人)であると見抜くことはできないほど、カリスマ的で政治手腕にすぐれた人物です。

彼は人々の心をつかみ、自分を神とすることによって、真の神に敵対するようになります。そして、ユダヤ人やクリスチャンに対して激しい迫害を始めます。こうして、悪魔的な力が完全に現れる時代が来ます。

このように、終わりの時は、罪と悪に満ちた時代がやって来ます。この時代に、神の最終的なさばきと激しい御怒りが臨みます。これが「大患難」と呼ばれる時代です。

前回に学んだ「携挙(けいきょ)」が、この大患難の直前に起こると私は信じますが、携挙されなかった人々は、この大患難を通過しなければならないわけです。

しかし、再臨のキリストは、不法の者とその背後で支配してきたサタン、それに従った者たちを滅ぼしに来られます。主は、この不法の者を、口の息をもって殺し、来臨の輝きで滅ぼしてしまわれます。(2:8)

武力や腕力で滅ぼすのではなく、口の息と輝きで滅ぼすのです。「息」とは「霊」のことです。御言とも解釈できます。イエスの御言は信じる者には救いの霊であり、信じない者には滅ぼす霊です。

「輝き」は主イエスの栄光の輝きです。闇の世の主権者に対しては、神の栄光が最大の武器です。光が来れば闇は滅びます。

主イエスが来られるまで、私たちクリスチャンは「光の子」として世に派遣されています。私たちが罪に勝利して、神の栄光で輝く生活は、サタンに対して最も効果的な戦い方です。

「悪に負けてはならない。かえって善をもって悪に勝ちなさい」という命令は、そのことを意味しています(ローマ12:21)。

私たちが聖なる生き様を世に現すことで、私たちは主の再臨までの間、サタンとの前哨戦(ぜんしょうせん)を戦っているのです。ですから、目をさまして祈ってください。主は近いのです。

主の再臨の直前には、「反キリストが神殿に立つ」とか「エルサレムを包囲してユダヤ人を迫害する」などの前兆を、聖書は預言していますが、これらは皆、ユダヤ人たちがエルサレムに帰還していなければ成り立たない事柄です。

ところが、今や、ユダヤ人たちは約束の地にもどり、国を復興させています。彼らはやがて神殿建築に取りかかるでしょう。聖書の預言が成就する舞台は整いつつあります。
 
しかし、まだ「不法の人」の登場を引き留めているものがあります。彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがあると記されている通りです(Ⅰテサ2:6)。2千年後の今も引き留めています。
 
キリストの花嫁である教会の存在が、不法の人の登場を阻止していると考えられます。やがて教会が携挙されます。地上から取り去られて天に引き上げられます。こうして、引き留めていたものが地上からなくなると、不法の人とか反キリストと呼ばれる者が登場すると私は予測しています。
 
また、二義的な解釈ですが、不法の人を引き留めているものは民主主義という政治形態ではないかと考えています。「不法の人」とは、先ほど述べたようにカリスマ的な人物です。混乱した世界を統治するにふさわしいと思えるようなリーダーシップに富んだ人物です。
 
やがて民主主義という政治形態に失望する時代が来るでしょう。混乱した時代になればなるほど、多数決では対応できない時代になると、人々は誰かに権力を委任し決定力のある政治を期待するようになるでしょう。
 
テロとか戦争、新型コロナなどの世界的疫病、巨大地震や地球規模の気候変動、グリーバル化した経済システムなどといった世界情勢は、民主主義では太刀打ちできない問題を提起しています。こうして、不法の人が登場する舞台装置は整いつつあります。

祈りましょう。終わりの時代、いかなる状況の中でも、最後まで信仰を全うすることができますように。希望の光を照らすことができるように私たちを用いてください。(Ω)

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テサロニケ人への第二の手紙1章

2020年09月16日 | テサロニケ書
Ⅱテサロニケ1:5 これは、あなた方を、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなた方も苦しんでいるのである。

初代教会は迫害による苦難の中を通りました。その苦難は、キリスト教がローマ帝国の国教となった時点で終わったのではなく、形をかえて今日にいたるまで続いています。 ※迫害については「朝マナ」第1テサロニケ3章も参照。

そのような試練とか患難のことを、「あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき」と表現しています(1:5)。

聖書に記された「さばき」には、二通りがあります。

第一は、サタンに対するさばきです。 罪を処罰して滅ぼしてしまうためのさばきです。罪を悔い改めず、神に反逆する人々にも、このさばきは臨みます。

第二は、信者に対するさばきです。 この場合は、滅ぼすためのさばきではなく、きよめるためのさばきです。冒頭の聖句で述べられている神のさばきは、きよめるという意味が込められています。

神は聖なるお方ですから罪や悪をお受けになりません。食事の時、手を洗い、食材も食器を洗ってきれいにしていただくように、神は私たちを天に迎えるために、私たちをきよめられます。

実は、すでに神は、私たちの罪をきよめるために、御子イエスを十字架につけて血を流されました。罪の代価である血が流されたのです。

私たちは、このイエス様の血を受けてすでにきよめられた者です。イエスの血によって義とされた……という表現も同じことです。ですからイエスを信じた私たちを聖なる者だと、神は見なしてくださいます。キリストの御言を受けてすでにきよいのです(ヨハネ15:3)。

でも、クリスチャンのどこが聖なる者か……と疑問を持つ人もいるでしょう。周囲の未信者からそういわれたり、自分が自分を見てもそう思うこともあります。

それは、私のはきよめられましたが、私の考え」とか「の領域は、昔のままを引きずっているからです。考える部分……「心」とか「魂」と呼ばれる領域……は、いまだに神に反する思いが出てくるし、憎しみや怒りも日常茶飯事です。

人には、「霊」と「心」と「体」の領域があります。先のテサロニケ人への第二の手紙5章23節の祝福の祈りでは、あなたがたの霊と心と体とを完全に守って……とありました。
 
イエスを信じた時点で、神は私たちの「霊」をきよめられました。「霊」は人の本質ですから、霊がきよめられたなら、その人は基本的にはきよいのです。だから「義なる者」「聖なる者」と呼ばれます。

きよめには順番があって、次に)」と呼ばれる領域のきよめです。ここは「考え」の領域です。この魂(心)には、イエスを信じる以前に養った考え方が、たくさん刷り込まれています。

ですから、救われたはずのクリスチャンでも、邪悪な思いが湧いてきます。そんな心の醜さを感じて、救いを疑う人もいます。それでも、神は、あなたを聖なる者だと見てくださっています。

そこで、神は、私たちの魂をきよめるために、試練や苦難を用いられます。このことを今日の聖句は、「あなた方を神の国にふさわしい者にしようとする神のさばき」と表現しているわけです。

イエスを信じたら、困難や問題がなくなって、平穏無事な人生を過ごすことができるなどと、聖書は約束していません。そうではなく、神はあなたを子として愛しておられるので、様々な試練を通してあなたを〝神の国にふさわしい者にしよう〟と訓練なさいます。主の祈りでも「御国が来ますように」と祈りますが、それは同時に、御国の国民である私たちもその国にふさわしいものになることを祈っているわけです。

試練の最中にある時はつらいです。いやです。楽しくありません。逃げ出したいです。でも、これは、私が神の国にふさわしい者になるための道です。十字架を負って従うとは、こういうことです。

でも、試練の最中にあっても、神の愛が途絶えたわけではありません。十字架の死の経験は、必ず栄光の復活につながっていることを忘れないでください。

日々負う十字架によって、邪悪な心が死んで、キリストにある新しいきよい心が復活します。こうして、心(魂)の領域がきよめられて行きます。そのために試練を通過します。

しかし、このつらい経験も必ず報われる時が来ます。そのことについて、聖書はこう記しています。

苦しめられているあなた方には、私たちと共に、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。1:7)

主イエスの再臨の時、私たちに用意されているのは完全な安息です。ですから、今の試練や苦難でめげないでください。不当な仕打ちがあってもくさらないでください。

いのちの無いものはくさります。キリストのいのちを持っている人は、どんな苦難の中でも、くさらない人です。私たちは、神の子としての永遠のいのちを持っている者です。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙5章

2020年09月15日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ5:9 神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。

なぜイエス様は十字架で死なれたのでしょうか。

もちろん「人間を罪と死から救うため」です。では、何故、罪をおかすような環境に人間をおかれたのですか。つまり、悪魔が存在するこの世にアダムとイブをおかれたのでしょうか。始めから天に置いてくだされば良かったのにと思うのです。

「人の救いのため」という視点……即ち人間中心の神学では読み解くことのできないテーマです。

別の視点が必要です。イエス様が来られたのはサタン悪魔滅ぼすためです。それを裏付けるように、聖書は「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼすためである」と言っています(Ⅰヨハネ3:8)。

また、イエスはご自分の十字架の死について、「今はこの世がさばかれる時である。今こそ、この世の君は追い出される」と言われました(ヨハネ12:31)

イエスが来られたのは、この世の君をさばくためです。

「この世の君」とは、「この世を支配する者」とも訳されており、サタン(悪魔)のことです。イエス様が来られた目的は、サタンをさばいて、滅ぼすためです。

人間社会でも、罪をおかした者をさばき、そのさばきに基づいて刑を執行します。そうしなければ社会の秩序を保つことができません。天においても同じです。天で罪をおかしたサタンに対しても、神は彼をさばき、刑罰を執行なさるのです。

サタンは、もとは天で神に仕えていた御使(天使)でしたが、天で罪をおかしました。自分も神のようになろうとしたのです。そこで、神はサタンとその仲間の天使たちを下界に閉じこめてしまわれました。

「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」(Ⅱペテロ2:4・口語訳)

この「下界」は、新改訳で「地獄」と訳されていますが、ふさわしい訳ではありません。なぜなら、サタンはまだ地獄に入っていないからです。地獄に入るのは、イエス再臨の後のことです(黙示録20:10)。 ※「下界」と訳されたギリシャ語は「タルタローサス」。「地獄と訳される「ゲヘナ」とは区別される語句である。

下界とは私たちの住む世界のことです。彼らを閉じ込めた世界は「暗闇の穴」と表現されていますが、まさに、宇宙は、天から見れば「下界」であり「暗闇の穴」のようなところです。

そこにサタンとその仲間である堕落した御使たちは、さばきの時まで閉じ込めたというわけです。一般社会でも、犯罪者は留置され、裁判を経て刑を確定しその刑罰を執行するわけですが、天で罪を犯したサタンも同じ経緯をたどります。

初臨のイエスは、十字架の死と復活によってサタンをさばきました。なぜ十字架の死と復活がサタンへのさばきになるのか……詳しい説明は別の機会にゆずることにします。

そして、再臨のイエスは、サタンを地獄(ゲヘナ)に投げ込むために……つまり、刑罰の執行のために来られます。この一連の出来事をまとめて「さばき」と表現しています。

このさばきのために、イエス様は来られたのです。

ですから、さばきと死の刑罰とは、本来、罪をおかした御使たちのため……つまり、サタンとその仲間のために用意されたものであって、人間のために用意されたものではありません。

神はご自分に似せて創造なさった人間をこよなく愛しておられます

ところが、神を誤解する人がいます。神は、人間を肉体という弱さをもつ存在に創造しておいて、その弱さゆえに罪を犯したら地獄に投げ込もうと準備なさっている……と。そんな非情な神ではありません。

整理するとこうなります。

イエス様が来られたのは「悪魔をさばいて」「悪魔のわざを滅ぼすためである」(Ⅰヨハネ3:8)。これは悪魔(サタン)から見た立場です。

しかし、人間の立場からすれば、「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネ3:17)

そして、今日の聖句は何と言っていますか。神は、私たちを御怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」。

神はサタンをさばくために、御子イエスをお遣わしになりました。その御子が肉体をとって来られるために、神に似せて人間を創造なさいました。いわば、人間を道のようにしてイエスが来られました。

そして、来られてから後は、逆に、イエスは、私たちが天に行くための道となってくださいました。

このように、人間は神の同労者として造られたのであって、神は、人間に御怒りをくだそうと定められたのではありません。御怒りはサタンに対してくだります。そして人間には救いを用意なさっています。

サタンと一緒になって滅ぼされないために、サタンの支配から出てきなさいと、神は人々を呼び出しておられます。それは言いかえれば、罪と一緒になって神の御怒りを受けてしまわないために、悔い改めて神に立ち返りなさいという意味です。

このような呼びかけは、ノアの時代の大洪水の時もありました。罪に汚れたこの地をご覧になった神は、洪水によって滅ぼすことになさいました。しかし、ノアに箱船を建造させて、助かりたい者は誰でも箱船に入るように伝えました。

ノアの箱船と洪水事件は、世の終わりに臨まんとするさばきと刑罰の〝ひな型〟です。

どうぞ、誰でも助かりたい人は、イエスの中に入ってください。イエスという箱船に入った者は、だれでも、終わりの日の御怒りから救われます。
 
さて、この主イエスの再臨の時期と場合は父なる神の専権事項であって、私たちの知るところではありません。ただ私たちは、目をさましていることです(5:6)。
 
第5章の後半では、浮き足だったり、落ち着きのない生活をしないで、愛し合い励ましあう生活をするようにと勧められています。
 
互いに善を行う生活(15)、喜び祈り感謝する生活(16-18)、聖霊に信頼する生活(19)などが勧められています。それもこれも、主イエスが再び来られてるからです。全ての結論は再臨のイエスにあるからです。だから喜べます。だから感謝できます。
 
主の再臨を待ち望む人々に祝福がありますように。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙4章

2020年09月14日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ4:16 主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり……

テサロニケ教会は迫害の中にあっただけに、手紙はキリストの再臨の希望に目を向けるようにと勧められています。

始めに整理しておきましょう。聖書は、旧約も新約もイエス・キリストについて記しています。
 
旧約聖書は、やがてキリストが来られることを予告しています。キリストを迎えるために、神はイスラエル(ユダヤ人)を選んで準備されました。その歴史が記されています。

新約聖書は、キリストが来られたことを証ししています。その方は十字架で死なれ、復活し、天の王座に着かれたイエスです。しかも、このイエスは再び来られて、救いを完成なさるのだと予告しています。

つまり、旧約ではキリストが来ると予告し、新約でもキリストがもう一度来ると予告しているわけです。そこで、最初に来られたのを初臨、二度目に来られることを再臨といいます。

初臨では、イエスは人類の罪のゆるしのために来られました。十字架の死と復活によって、人類の支払うべき罪の刑罰をみな支払ってくださいました。

イエスの十字架の死と復活は、人類にとっては救いとなりましたが、サタンにとっては裁きとなりました。

それまでサタンは罪と死の力によって、人類を支配してきましたが、イエスは十字架の死によって罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼしてしまわれました。

サタンに残されているのは、有罪とされたサタンに対する地獄行きの「刑罰の執行」です。

なぜ、神は、サタンをすぐに滅ぼされないのでしょうか。つまり、刑罰を速やかに執行されないのでしょうか。それは、サタンのもとで、罪と死の奴隷になっている人類を道連れにしないためです。

ですから、「御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられ」「それから最後(再臨)が来る」ようになさいました(マルコ24:14)。

サタンを滅ぼす前に、救いの知らせを全人類に知らせる期間が必要です。今がその時代です。今が救いの日、恵みの時です。

イエスが再臨なさるのは、サタンに滅びの刑罰を執行するためです。また、その時、罪を悔い改めてイエスを信じなかった人々も、サタンと共に滅ぼしてしまわれます。

イエスの再臨は、サタンにとっては滅びが完成する日です。しかし、信じる者にとっては救いが完成する日です。サタンは終わりの時が近いのを知って、人類を道連れにしようと悪の働きを増し加えています。今はそのような時代です。

さて、主イエス様が再臨される時の様子を、神のラッパが鳴り響く内に来られると言っています(Ⅰテサ4:16)。イスラエルでラッパはいつも重要な合図として用いられました。

旧約の時代、荒野で宿営していたイスラエルは、約束の地に向けて出立する時、ラッパを吹いて旅立ちの準備をするように知らせました。人々はラッパの音を聞くと、旅の支度(したく)をしました。

この世(荒野)を旅立って、約束の地(神の国)に入るとき、神のラッパが鳴り響いて、私たちは身のまわりの整理をします。この荒野に思い残すものは何もないようにすべきです。

私たちが復活する時、終わりのラッパが鳴り響きます(Ⅰコリ15:51)。それは主の再臨の時のことで、今日の聖句と同じラッパです。

再臨の時、信者は復活します。すでに眠りについた者は、眠りからさめるようにして復活します。また、その時点で地上で生き残っている者は、肉体が「霊の体」に変えられて、天に引き上げられます(4:17)。 ※復活の詳細については朝マナの第一コリント15章を参照。

このすばらしい超自然的な出来事を、携挙(けいきょ)と呼びます。このようにして、信者は主の再臨の時に復活して、携挙されます。携挙されたクリスチャンは、この時から天でイエスと特別な時間を過ごします。

天に引き上げられたクリスチャンは、「キリストのさばきの座」とよばれる場で、信仰生活に対する主からの報いを受けます(Ⅱコリ5:10)。その後、花婿であるキリストと花嫁である教会の結婚式があります。至福の時です。

しかし、クリスチャンが携挙された後の地上では、大患難の時代が始まります。この大患難の期間が、聖書でいう「神の御怒りの時」のことです。この最終段階についてはヨハネの黙示録で取り扱うことになります。この「神の御怒りの時」を前に、私たちは携挙されることによって、地上における御怒りから救い出されます(Ⅰテサ5:9)。

今は迫害の中にあっても、この希望の時を知って、互いに励ましあうようにと聖書は勧めています(4:18)。主の再臨を待ち望もう。そして、主の再臨に備えよう。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙3章

2020年09月12日 | テサロニケ書

Ⅰテサロニケ3:3 あなた方の知っているとおり、私たちは患難に会うように定められているのである。

テサロニケ教会が迫害の中で誕生した教会であったことは、先に記したとおりです。そして、今日に至るまで、キリスト教会は迫害や苦難の中を通ってきました。

今日の御言が示しているように、キリスト教会は患難に会うように定められているのです。 ※「定められている」は、詳訳聖書では「避けて通れないと翻訳。

逆に、迫害や苦難が止んでしまうと、キリスト教会は堕落して行きました。それは、キリスト教会の歴史が物語っています。

AD312年のミラノ勅令以後、キリスト教がローマ帝国の国教となり、帝国の庇護のもとで大成長をとげたというのが、一般的な歴史解釈です。しかし実際は、キリスト教会堕落の歴史の始まりでした。

旧約の時代、神を信頼せず隣国のエジプトやアッシリヤと同盟を結んで保身をはかったイスラエルに対して、それは霊的な姦淫と神は指摘されました。新約の時代、キリスト教会もイスラエルと同じ轍(わだち)をふんで堕落しました。

国教化とは、キリスト教がローマ帝国の公式な宗教になることです。国民はキリスト教徒になるように、法律で決まったわけです。どういう事態が起きるか想像してみてください。

かつてのローマ帝国では、「カイザル(皇帝)は主(神)である」と告白することが法律で定められていましたが、今や、「イエスは主である」と告白するよう、国家権力のもとで強制されるのです。

迫害の時代では、「イエスは主である」と告白することは命がけでした。しかし、国教化されるとは、はイエスを信じませんと告白することが命がけになるわけです。

このことによって、クリスチャンたちはローマ帝国によって保護される事になりました。また、信仰のない人々も、クリスチャンであることの方が都合がよいので、かたちだけの宗教生活をするようになりました。

この国教化に反対するクリスチャンたちは、国策への反逆者、異端者として殉教して行きました。キリスト教の名のもとにクリスチャンが迫害を受ける時代の始まりです。何という皮肉でしょうか。以後、1千年の間に数千万人の殉教者を出したと言われています。 ※バプテストの歴史を記した血まみれの道(J・M・キャロル著)には殉教者の詳細が記されている。

キリスト教会がこの世の者であろうとするとき、堕落します。クリスチャンが、天国人としての身分を捨てて、地上の国民であろうと固執するとき、堕落します。

イエス様は「わたしの国はこの世のものではない」と言われましたし、また、クリスチャンに対しても、「あなた方はこの世の者ではない」と言われました。

つまり、この世の者ではないので、クリスチャンは地上では困難があるのです。クリスチャンにとって、地上は快適な場所ではありません。実に、生きにくい場所です。しかし、その困難を受けたくないために、この世の者であろうとするとき、堕落するわけです。

とはいえ、この世を軽視したり隔絶せよと言われたのではありません。カルト宗教のように、世を敵視し、世との関わりを断とうとするのではありません。むしろ逆で、積極的に世と関わって行きます。

イエス・キリストは罪人たちの中に入って行き、共に泣き、共に苦しみ、共に重荷を負ってくださいました。そのことによって、天国の秩序を地上にもたらしてくださいました。その使命は私たちにも継承されています。

伝道とは、この世に属している人々を、天に属する人々にすることにすることですから、自分が世に属していては伝道できません。

実は、世に属する人々を支配する闇の力があります。それを、聖書はサタン(悪魔)の力だと言っています。この世は、神の目からご覧になるに、サタンの支配下にあります(Ⅰヨハネ5:19)。

ですから、サタンは、人類をこの世につなぎ止めようと、ありとあらゆる手段を駆使してきます。

時には患難をもって、私たちの信仰を妨害したり、信仰をあきらめさせようとします。また、時には、先の国教化したキリスト教会の場合のように、快適な環境によって世俗化させます。

キリスト教会の歴史は患難の歴史です。今も、共産圏やイスラム圏では暴力的な迫害がつづいていますが、逆に、あまりにも快適になった日本では、暴力によらない患難が深刻です。

先祖崇拝は、日本人をこの世に縛り付けて、がんじがらめにしています。そして、私たちが天に属することを妨げています。また、この世の便利さや快楽もそうです。天に行かなくても、この世で十分に満足できるかのようです。

信仰を妨害するために、日本ではこの方法が最も効果的だと、敵は見抜いているようです。そして、クリスチャンを腑抜(ふぬ)けにしておいて、最後の大患難で信仰を奪ってしまうのかも知れません。

日本で暮らしていると、惰眠をむさぼりそうです。だから、主は「目をさましていなさい」と命じられます。目をさまして祈り続けようではありませんか。主イエスが来られて、すべてを精算なさる時が近いのですから。(Ω)

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テサロニケ人へ第一の手紙2章

2020年09月11日 | テサロニケ書
Ⅰテサロニケ2:13 あなた方が私たちの説いた神の言(ことば)を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実その通りであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなた方の内に働いているのである。

先の1章では、パウロが福音を伝えるに当たって、「言葉だけによったのではなく、力と聖霊と力強い確信とによったからです。また、私たちがあなた方の所で、あなた方のためにどのように振る舞ったかは、あなた方は知っています」とありました(1:5 新改訳)。
 
つまり、福音は言葉で伝えますが、聖霊によって伝えられ、そして、ふるまいが伴って伝わるのです。 ※口語訳では「どんな事をしたのか」。「力と聖霊と力強い確信」は「聖霊によって」とひとまとめにして考えてみよう。
 
そして、第2章では母がこどもを育てるようにふるまい(7)、さらに父がその子に対してするようにふるまったと記されています(11)。母は子のために全てを与えようとします。いのちさえも与えようとします。父は子に威厳をもって大切なことを命じます。
 
そのような〝ふるまい〟が、〝言葉〟と〝聖霊〟の導きの中で福音を伝えることになるのだと思います。
 
そのようにしてパウロはテサロニケで福音を伝えました。そして3週間の伝道で教会が誕生し、しかも迫害の中でも信仰を失わずに前進し続けることができました。その秘訣は何だったのでしょうか。

もちろん聖霊に満たされたパウロの伝道もその要因でしたが、今日の聖句は、もうひとつの要因を示しています。

テサロニケの人々は、パウロが語る言葉を神の御言として聞いたからでした。信仰は勉強したり研究して得られるものではありません。信仰は神の御言を聞くことによって生じます。

2千年前、イエス様の言葉を直接聞いた人はたくさんいました。でも、聞いた人すべてが信じたのではありませんでした。信じなかった人たちは、イエス様の言葉を「人間の言葉」として聞いたからです。彼らは、ナザレ村出身の大工の言葉として聞きました。

漁師であったシモンも始めはそうでした。一日中漁をしても獲物がなかった時、「沖へこぎ出して網をおろしてみなさい」というイエスの言葉を聞きました。シモンは漁の専門家ですから、大工に何が分かるかと反感をもったことでしょう。

そこで終わっていたら、ペテロはイエスを信じることができませんでした。しかし彼は、「お言葉ですからやってみましょう」と従いました。すると、網いっぱいの魚を捕ることができました。

ペテロは、この出来事を通して、イエス様の言葉は神の御言だと信じるようになりました。

聖書の言葉もそうです。聖書を単なる人間の言葉として読んでいるなら、信仰は生まれませんし、神との出会いもありません。聖書の言葉は、神の御言であると信じて読むとき、すばらしいことが始まります。

これには聖霊の助けが不可欠です。

かつての私は、信仰が行き詰まっている時代がありました。救いの確信がうすれ、喜びも感動もない信仰生活をおくっていました。ある時、「あなたは恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、神の子たる身分を授ける霊を受けたのである。この霊によって神を『アバ父』と呼ぶのだ」という聖句が入ってきました。ローマ人への手紙8章15節です。

今まで何度も読んだことのある聖句です。しかし、この時は違いました。感動と涙で、この言葉は神の御言として私の中に入ってきました。そして、すばらしいことが始まりました。

それまでの私にとって、神は失敗を見逃さない恐ろしい方でした。私は神の顔色をうかがうようにして慎重に生きていました。でも、この時、神は私の父だと分かりました。父への信頼と安心と愛でつつまれました。

恐れで動くのではなく、神の愛の中で大胆に動けるようになりました。思い切ってやってみようと思うようになりました。そして、印刷業として独立自営。その後、とうとう牧師にまでなってしまいました。感謝。不思議。聖霊は、この御言をまさに「神の言」として受け取ることができるように導かれたわけです。

今日の聖句は何と言っていますか。この神の言は、信じるあなた方の内に〝働いている〟のである」。神の御言は、信じる人の中で動き始めます。信じる人の中で、御言の力は現れます。

自分が歓迎されていない所へ行ったら、窮屈ですよね。場違いなところへ来たかなと思うと、自分の力を発揮できずに、おとなしくしているしかありません。

神の御言もそうです。神の御言は、あなたの中で歓迎されていますか。御言は、あなたの中で窮屈になさっていませんか。せっく御言を受けたのに、自分の考えの方が正しいと思っていませんか。そんなことでは、御言は私たちの中で働こうにも働けません。御言は、実力を発揮できずにおとなしくしているしかありません。

信じるとは、歓迎することです。

「あぁ、よく来てくださいました。待ってました。どうぞ思う存分なさってください。私の心の中で自由になさってください。自分の部屋のように使ってください」。そんな心で御言を歓迎しよう。(Ω)

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