列王紀下1・3 あなたがたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか。
北イスラエルの王アハブが戦死し、その息子アハジヤが王となりました。ところが、転落事故で重傷を負ったアハジヤは、「バアル・ゼブブ※」という偶像神に癒しを求めたのです。
※ バアル・ゼブブは「バアル・ゼブル」を揶揄(やゆ)した呼称。バアル・ゼブルとはバアル神の尊称で「気高き主」の意味。豊穣の神として祀られたが、豊穣の象徴として性的儀式もなされ、性的な悪習慣をイスラエルに持ち込んだ。
そのような邪教を嫌った聖書の民は、バアル・ゼブルを揶揄してバアル・ゼブブと呼んだ。これは「ハエの主」の意味。ハエは糞にたかるので「糞の神」という蔑称でもある。転じて「悪霊のかしら」という意味も持つようになった。
さて、アハジヤはイスラエルに真の神である主がおられるのに、邪教の神バアル・ゼブブを頼みとしました。そのことを預言者エリヤは、王に進言し、悔い改めを迫ったのです。
どうして他の神々に ――といっても本当の神ではない―― 人々は魅了されるのか。それは、人が肉の感覚で神を知ろうとするからです。
人は霊的な存在ですが、アダムの原罪(根っ子の罪)が人類に入り込んでいるため、人類の霊は「死の霊」を受け継いでいます。つまり、根っ子の部分から死んでいます。
肉体は生きていますが、霊は罪のために死んでいます。この〝霊の死〟は霊が消滅することではありません。肉体の死は肉体が朽ちて消滅しますが、霊の死は霊が機能していない状態のことです。
ですから人は神を求めるのですが、霊が機能していないので神との交わりを持つことができません。そこで、人は、肉体的な感覚で神を知ろうとします。目で見える神、手で触れる神を求めます。そのため、神を見える姿に描いて偶像を作ります。
そのようにして作り上げた神のイメージは歪んでいます。人間の肉的な願望を投影して神に仕立て上げてしまうからです。ですから律法は……、
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない」と命じています(出エジプト20・4)。
人間が、自分の都合の良いイメージ(かたち)に神を作り上げたのが偶像です。しかし、神の本当のかたちは、御子なる神キリストだけが現されました。
アダム以来、人類の霊は死んでしまい、肉の感覚で生きてきました。だから、肉体の必要を満たすことが、すなわち「生きる」ことだと考えてきました。そこで、神についても、肉体を満たしてくれる神を求めてきました。
商売繁盛の神、子宝の神、豊穣の神、戦争勝利の神等々。近年では受験の神、交通安全の神にまで至ります。みんな肉体を満足させてくれる神々です。そして、人々はそのような神々に魅了されるのです。
それは、イスラエルの民も同じでした。だから、神は、イスラエルの民が霊的に目覚めるために訓練なさいました。
イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野(あらの)を旅したとき、神は、天から降る「マナ」という不思議なパンで彼らを養われました。なぜ、神はそのような御業をなさったのでしょうか。
それは、「人はパンだけで生きる存在ではなく、神の口からで出る神の御言で生きる〝霊的な存在〟であることに目覚めさせるため」でした。
しかし、人はなかなか目覚めません。イスラエルの民は、わが霊魂を生かすことよりも、肉体を生かす方を選びました。その結果が偶像礼拝となって現れたわけです。
信仰を明確にするためには、自分が「霊的存在」であることに目覚めることです。
肉体はどうでもよいと言っているのではありません。仕事をする上で作業服は必要です。私・霊魂が、地上で神の働きをするために、肉体という服を着て働くのですから、肉体は大切です。でも、その肉体という服を着て、私・霊魂がどんな仕事をするのかはもっと重要なことです。
わが霊が生きることを忘れてしまうならば、私たちは、肉体を生存させることのみに、人生のすべてをついやしてしまいます。否、肉体を罪のために使う人生で終わってしまいます。
「あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」(ローマ6・13)とは、そのことを指摘しています。
肉体が健康であることは幸いなことです。でも、その健康な肉体を使って何をするのでしょう。せっかく神が健康な肉体を下さったのに、罪を犯すことに肉体を使ってしまうなら、何と空(むな)しい健康でしょうか。
ゆたかな富を得ることは幸いです。でも、その富を肉体の満足のために用いるだけで、我が霊魂の救いのために、そして多くの人々の救いのために用いなかったら、何と空しい富でしょうか。
全世界を手にしても、私・霊魂が永遠のいのちを受け損ねたら何の益になるでしょうか。
哀れみ深い神は、私たちの肉体の必要をよくご存知です。でも、まず神の国と神の義を第一にすべきです。それは、自分自身の霊魂が生きるためです。そうすれば、神は、肉体の必要を満たしてくださいます。
神が肉体の必要を満たしてくださるといっても、過剰には満たしてくださいません。過剰に与えて、かえって富におぼれてしまうことのないように、神は配慮なさいます。
さあ、本当の必要……霊的な必要、そして肉体的な必要を正しく満たしてくださる神は、私たちと共におられます。バアル・ゼブブのもとに行く必要はありません。
そのような邪教を嫌った聖書の民は、バアル・ゼブルを揶揄してバアル・ゼブブと呼んだ。これは「ハエの主」の意味。ハエは糞にたかるので「糞の神」という蔑称でもある。転じて「悪霊のかしら」という意味も持つようになった。
さて、アハジヤはイスラエルに真の神である主がおられるのに、邪教の神バアル・ゼブブを頼みとしました。そのことを預言者エリヤは、王に進言し、悔い改めを迫ったのです。
どうして他の神々に ――といっても本当の神ではない―― 人々は魅了されるのか。それは、人が肉の感覚で神を知ろうとするからです。
人は霊的な存在ですが、アダムの原罪(根っ子の罪)が人類に入り込んでいるため、人類の霊は「死の霊」を受け継いでいます。つまり、根っ子の部分から死んでいます。
肉体は生きていますが、霊は罪のために死んでいます。この〝霊の死〟は霊が消滅することではありません。肉体の死は肉体が朽ちて消滅しますが、霊の死は霊が機能していない状態のことです。
ですから人は神を求めるのですが、霊が機能していないので神との交わりを持つことができません。そこで、人は、肉体的な感覚で神を知ろうとします。目で見える神、手で触れる神を求めます。そのため、神を見える姿に描いて偶像を作ります。
そのようにして作り上げた神のイメージは歪んでいます。人間の肉的な願望を投影して神に仕立て上げてしまうからです。ですから律法は……、
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない」と命じています(出エジプト20・4)。
人間が、自分の都合の良いイメージ(かたち)に神を作り上げたのが偶像です。しかし、神の本当のかたちは、御子なる神キリストだけが現されました。
アダム以来、人類の霊は死んでしまい、肉の感覚で生きてきました。だから、肉体の必要を満たすことが、すなわち「生きる」ことだと考えてきました。そこで、神についても、肉体を満たしてくれる神を求めてきました。
商売繁盛の神、子宝の神、豊穣の神、戦争勝利の神等々。近年では受験の神、交通安全の神にまで至ります。みんな肉体を満足させてくれる神々です。そして、人々はそのような神々に魅了されるのです。
それは、イスラエルの民も同じでした。だから、神は、イスラエルの民が霊的に目覚めるために訓練なさいました。
イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野(あらの)を旅したとき、神は、天から降る「マナ」という不思議なパンで彼らを養われました。なぜ、神はそのような御業をなさったのでしょうか。
それは、「人はパンだけで生きる存在ではなく、神の口からで出る神の御言で生きる〝霊的な存在〟であることに目覚めさせるため」でした。
しかし、人はなかなか目覚めません。イスラエルの民は、わが霊魂を生かすことよりも、肉体を生かす方を選びました。その結果が偶像礼拝となって現れたわけです。
信仰を明確にするためには、自分が「霊的存在」であることに目覚めることです。
肉体はどうでもよいと言っているのではありません。仕事をする上で作業服は必要です。私・霊魂が、地上で神の働きをするために、肉体という服を着て働くのですから、肉体は大切です。でも、その肉体という服を着て、私・霊魂がどんな仕事をするのかはもっと重要なことです。
わが霊が生きることを忘れてしまうならば、私たちは、肉体を生存させることのみに、人生のすべてをついやしてしまいます。否、肉体を罪のために使う人生で終わってしまいます。
「あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」(ローマ6・13)とは、そのことを指摘しています。
肉体が健康であることは幸いなことです。でも、その健康な肉体を使って何をするのでしょう。せっかく神が健康な肉体を下さったのに、罪を犯すことに肉体を使ってしまうなら、何と空(むな)しい健康でしょうか。
ゆたかな富を得ることは幸いです。でも、その富を肉体の満足のために用いるだけで、我が霊魂の救いのために、そして多くの人々の救いのために用いなかったら、何と空しい富でしょうか。
全世界を手にしても、私・霊魂が永遠のいのちを受け損ねたら何の益になるでしょうか。
哀れみ深い神は、私たちの肉体の必要をよくご存知です。でも、まず神の国と神の義を第一にすべきです。それは、自分自身の霊魂が生きるためです。そうすれば、神は、肉体の必要を満たしてくださいます。
神が肉体の必要を満たしてくださるといっても、過剰には満たしてくださいません。過剰に与えて、かえって富におぼれてしまうことのないように、神は配慮なさいます。
さあ、本当の必要……霊的な必要、そして肉体的な必要を正しく満たしてくださる神は、私たちと共におられます。バアル・ゼブブのもとに行く必要はありません。
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