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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨナ書 4章

2023年06月30日 | ヨナ書
ヨナ書 4章
ましてや、わたしは12万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。
(4・11)


ニネベに素晴らしい悔い改めが起きました。神の民イスラエルが主流である旧約の時代に、異邦人たちの救いの記録はまれです。すごいことが起きています。新約にいたって異邦人にも救いが及ぼされることを予見するかのような記録です。

ところが、ニネベ宣教の功労者である預言者ヨナ自身は、その結果を素直に喜んでいません。神が、ニネベをゆるされたことに腹を立てています。放蕩三昧の弟が戻ってきたのに、その歓迎会に加わろうとしない兄の姿が思い浮かびます(ルカ15・11~32)

ヨナは同胞のイスラエルをこよなく愛していましたが、それは偏った愛でした。偏った愛はしばしば人を傷つけ、神を悲しませます。もちろん、神は、イスラエルを愛しておられますが、それと同じように異邦人を愛しておられます。これはヨナ書に啓示された重要な神の御心です。

神のなさることに不満をもつヨナは、ニネベの成り行きを見極めようと、小さな小屋を建て、そこに座り込みます。とても暑い地域です。神は、そんなヨナを慈しんで、トウゴマを生やせて日陰を用意なさいました。神の粋なおはからいです。神は時に愉快なことをなさいます。へそを曲げるヨナに怒られるのではなく、やさしく寄り添ってくださるのです。 ※トウゴマは大きな葉を持つ多年草で、暑くなると急激に成長するが、茎のわずかの傷で枯れてしまう性質がある。

ヨナはわかっているのです。主は恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされるお方であることを(4・2)。でも、わかっていても腹が立つのです。神もまた、ヨナの心持ちをわかってくださっています。だからこそヨナをあわれんで、トウゴマの日陰をかざすようにして、なだめてくださっているのです。

本音で神と対面するヨナの姿と、そんなヨナを微笑みながら対応なさる神との交わり。そこに、真の信仰の姿を見ます。形式的に神を敬うだけの宗教ではありません。信仰とは、神の愛を信頼して、正直に自分をさらけ出しながら神と共に生きて行くことです。

さて、神はトウゴマを一夜のうちに枯らせてしまいました。翌日、かんかん照りの中でヨナは暑さに耐えられず、トウゴマを枯らせた神に文句をつけるのです。神を批判するなんてとんでもないですか。いいえ、ここにも神とヨナの麗しい信頼関係を見ます。

そこで、神はお応えになりました。あなたは、こんなトウゴマが滅びることでさえ惜しむのか。ましてや、わたしは、ニネベの人々が滅びることを惜しまないでいられようか……と(4・10~11)

自分中心の愛は偏っています。だから都合の良いトウゴマが枯れることは惜しむが、都合の悪いニネベが滅びることは惜しまないのです。しかし、神の愛は偏っていません。神は、イスラエルが滅びることを惜しむように、異邦人の滅びも惜しむお方です。

わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ(エゼキエル18・32)。これが神の御心です。神の愛です。



ヨナ書 3章

2023年06月29日 | ヨナ書
ヨナ書 3章
人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
(3・8)


大魚の腹から救い出されたヨナは、遂に神の命令に従って一路ニネベへ向かいました。神の御言を告げるためです。到着するや、ヨナはニネベの町を3日かけて行き巡り、「40日を経たらニネベは滅びる」と告げました。

神がこうしてあらかじめ告げられるのは何故でしょうか。ニネベの人々に悔い改める機会を用意するためです。

それは、今日においても同じです。神は、この罪の世界もろとも、サタンとその手下たちを滅ぼすことになさっています。その最後の様子はヨハネの黙示録に克明に預言されています。つまり、あらかじめ滅びが告げられているのです。

しかし、今は恵みのとき、救いの日です。悔い改めて救いを得る期間です。神の目的は、罪をおかした御使を滅ぼすことであって、人間に対しては救いを得るように用意なさっています。だから、悔い改めて生きよと言われるのです。

するとどうでしょう。ヨナの宣教によってニネベの人々は悔い改めたのです。人々は主を信じ、断食を呼びかけ、身分の低い者から高い者までみな「荒布を着た」のです(3・5)。荒布を着るとは、悔い改めの姿勢です。断食は神への祈りです。

一般市民の悔い改めは王さえも動かし、彼はその王座から立ち上がり、王の服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座したのです(3・6)。神は、人々の真実な悔い改めをご覧になり、災いをくだすことを思い直されました(3・10)

この時のアッシリヤ帝国の王は、アダド・ニラリ三世ではないかと言われています。アッシリヤの文献によると、彼だけが一神教信者であったようです。彼の治世の時代にアッシリヤの拡大路線は穏やかになり、それに呼応するかのように、北イスラエルは領土を回復しています。

そう考えると、歴代志下巻の14章の記述とも符合します。次のように記録されています。

彼(北イスラエルの王ヤラベアム二世)はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。(列王紀下14・25)

こうして、ニネベでは町をあげての悔い改めがなされました。それを奨励するための王の布告はとても興味深い内容です。今日の冒頭の聖句です。

悔い改めが人に対してだけでなく、動物たちに向けても勧めているからです。不思議な表現ですが、聖書で度々その主旨のことが啓示されています。

神によって創造された被造物たちの任務は、神をほめたたえることです。万物は神の栄光を現すために創造されたからです。だから詩篇でも、息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよと命じられています(150・6)。人間だけではありません。「息のあるすべてのもの」です。

しかし、人類が罪に服して以来、罪の重荷は被造界全体に暗い影を落として来ました。ですから、被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいるのです(ローマ8・19)。「神の子たちの出現」とは、人類が救いを受けて、本来の姿に回復することを指しています。本来ならば、人間は自然界の良き管理者として地を従わせ、神の祝福に満ちた世界を治める任務が与えられていました(創世記1・26)。しかし、罪の結果、その使命を果たせておらず、戦争、破壊、汚染、搾取などによって実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けているのです(ローマ8・22)

ですから、罪人が悔い改め、神と和解し、本来の姿を回復することは、被造物全体の回復をも意味するのです。本来、神が創造なさった被造物の目的を果たす時が来るのです。その回復された世界を、預言者イザヤは次のように描写しています。

「狼は小羊と共にやどり、豹は子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、

乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ11・6~9)

ニネベに起きた悔い改めは、それをほんの少し先取りした姿です。やがてこれが全ての世界で実現する時が来ますようにと祈ります。これが、主の祈りの「御国を来たらせたまえ」の内容です。


ヨナ書 2章

2023年06月28日 | ヨナ書
ヨナ書 2章
私は悩みのうちから主に呼ばわると、主は私に答えられた。私が陰府の腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞かれた。
(2・2)


海に投げ込まれたヨナは大魚に飲み込まれ、その腹の中で神に悔い改めの祈りをささげました。

人間が大魚に飲み込まれることは、実際にも記録があるそうです。しかし、その中で生存する可能性は限りなくゼロに近いことでしょう。ヨナは神に祈りをささげ、その後、仮死状態となって三日目に吐き出されたのではないかと私は想像しています。

さて、第2章はヨナの祈りです。

神に本音でぶつかっていったヨナは、悔い改める時も本音です。神は、私たちの本音の祈りを喜ばれます。大きな声であろうが、小さな声であろうが、正直な祈りは神に届きます。陰府の底からでも届きます。

※余談であるが、ヨナにとって建前と本音の区別はない。それがあるのは日本人特有の文化だ。建前と本音を使い分けるので「忖度文化」が生じる。相手はこれを願っているのだろうなと推察して応じるとか、逆に、本音で願うのは恥ずかしいので、相手に慮って欲しいと願うのだ。だから、忖度しなければならないのが日本文化だ。「よろしくお願いします」という挨拶が通用するのも忖度の〝おかげ〟である。

しかし、神の御前では忖度する必要がない。大胆に本気で向き合うことが最良の道である。神はそれを喜び、真実に応答してくださるからだ。

ヨナは大魚の腹の中を陰府だと表現しました。陰府とは死者の霊が行く所です。そんな絶望的なところからでも、悔いし砕けし霊魂の祈りは神に届きます。自分の置かれている場所がいかに悲惨で絶望的であっても、誠実な祈りは神に届くのです。

いま、あなたは、大魚に飲み込まれたかのような環境におかれているでしょうか。まさに、私たちに住む世界は、行いによって評価される成果主義という大魚の中に飲み込まれているかのようです。

また、この世界は、罪と死という大魚に飲み込まれた世界のようです。だれも、この大魚の中で生きのびることはできません。こんな大魚の中で、私たちは苦しみあえいでいます。
でも、そんな大魚からの叫び声を、主は聞いてくださいます。


ヨナ書 1章

2023年06月27日 | ヨナ書
ヨナ書 1章
時に、主は大風を海の上に起されたので……
(1・4)


アミッタイの子ヨナは列王紀下14章25節にも記録されています。それによれば、ヨナはガテヘペエルの出身です。ガテヘペルは北イスラエルのナザレに近い町であり、そこで彼は預言者として召され、ニネベに行って預言せよと命じられました。

ニネベはアッシリヤ帝国の首都です。現在のイラク北部、チグリス川の中流域にある大都市でした。アッシリヤは残虐な侵略政策をもって次々と隣国を攻め滅ぼし、支配を広げて行きました。イスラエルもこの脅威にさらされていたのです。

しかし、神はそのアッシリヤに向かって、悔い改めよ。ニネベは40日後には滅びるのだと告げるために、ヨナをニネベに派遣なさったのです。

イスラエル人のヨナにしてみれば、敵国アッシリヤが滅びるのであれば大歓迎です。わざわざ悔い改めを告げなくても、放っておいて40日後に滅びてしまえばいいじゃないですか。なのに、主よ、なぜ私を遣わされるのですか。

悔い改めを告げて、万が一にも彼らが悔い改めたらどうなさるのですか。主よ、あなたはニネベの滅亡を思いとどまられるのですか。そんなことなら私は嫌です。あんな奴ら滅びてしまえば良いんです。

そんなやり取りが、神とヨナとの間に交わされたことでしょう。ヨナは神の命令に反発しました。納得できないヨナは、ヨッパの港にくだってタルシシ行きの船に乗ったのです。タルシシはスペイン南部の町で、ニネベとは正反対の方向です。

神には従順すべきです、しかし、建前で従順なふりをするよりは、ヨナのように、神様と本音でぶつかり合うのも良いことでしょう。それは、神への信頼の現れだからです。ですから、神もまた、本音でぶつかってくるヨナを愛しておられます。

そこで冒頭の聖句が示すように、時に、主は大風を海の上に起こされました。神は、嵐を用いてでも、ヨナと関わって行かれます。少し〝手荒い関わり方〟ではありますが、神もまたヨナを信頼して窮地に追い込まれるのです。

事情がわからないのは、同じ船に乗船している人々です。彼らは、各々自分たちが日頃拝んでいる神々に命乞いをし始めました。しかし、ヨナだけは船底で「ふて寝」をしているのです。主に腹を立てて、ふてくされています。

一方、人々は嵐の原因を突きとめようとくじを引くと、ヨナに当たりました。神は、不信者の占いさえ用いて、ヨナに悔い改めをせまります。

それでもヨナは神に従いません。原因は自分だと認め、自分を海に投げ込むように申し出ました。自分の死をもって神の御怒りを鎮めれば、これ以上迷惑をかけることはないし、ニネベ宣教も頓挫してしまうから本望だと考えたわけです。かくして、人々は恐れつつヨナを海に投げこむと嵐は止んだのです。

しかし、それでも神はヨナに関わって行かれます。神は大魚を用いて、ヨナを大魚の腹の中に導かれ、一命を保たれました。

神は、愛する者ととことん関わって行かれます。嵐を用いてでも私たちに語りかけ、導かれます。海の底に投げ込まれようとも、陰府の暗やみのような大魚の中にあろうとも、神は私たちと共におられ、関わってくださいます。

私たちのなすべきことは、この神である主と真摯に向き合うことです。

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