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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨエル書 3章

2023年06月14日 | ヨエル書
ヨエル書 3章
わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。
(3・2 新共同訳4章2節)


 この内容は、終わりの時代の更に終盤に起こるとされる出来事です。すべての国民が裁かれると預言されています。 

そこで神は、諸国の民をヨシャパテの谷に集められます。その谷とはエルサレムの町とオリーブ山の間にあるケデロンの谷であるとの説もありますが、正確な所は不明です。ただ、ヨシャパテが「主は裁かれる」という意味からして、そこで諸国の民に対するさばきが成されるのです。 

これは、ヨハネ黙示録でも預言されているところの「患難期の最後に、神および神の民イスラエルに敵対して集結する各国からなる軍隊」に対するさばきだと考えられます。 

その諸国から集結する民について、ヨエルは、「諸々の国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士をふるい立たせ、兵士をことごとく近づかせ、のぼらせよ」と述べています(3・9)。それは、神が、神に敵対する国民に向かって言われている言葉です。

ですから、次の10節の諸々の国民の中に宣べ伝えよ。戦いの備えをなし、勇士を奮い立たせ、あなた方の鋤を剣に、あなた方の鎌を槍に打ちかえよ。弱い者に、私は勇士である』と言わせよとは、「さあ、敵対する民よ、わたしと戦うがよい。勇気を出すがよい。武器を手にするがよい」と、嘲笑まじりの挑発的な神の呼びかけです。

9節の「戦い」を、新改訳では「聖戦」と訳しているので、イスラエルの民を奮い立たせる言葉だと誤解されてしまいます。しかし、ここは前後の文脈で読めば、神に敵対する諸国民へのさばきです。ですから、イスラエルを殲滅しようと奮い立つ民とその軍隊からすれば、イスラエルを滅ぼすことは、皮肉ではありますが正に聖戦」 です

ですから、今に至るまで、神に敵対する人々や勢力は、鋤を剣に、鎌を槍に打ち替えるようにして、軍備を増強してきました。とうとう核兵器にまで〝打ちかえ〟てしまいました。

しかし、神を信じる者たちは逆です。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって、剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばないのです(イザヤ2・4)。 

神に敵対する者たちに対する預言と、神を信じる者に対する預言とは真逆です。

そして、神に敵対する者たちは軍備をまとって、ついに、神の民であるイスラエルを滅ぼそうとヨシャパテの谷に集結します。しかし、そこで神は敵対する者たちを滅ぼされます。こう預言されています。

もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。(ヨエル3・12)

10節の「主よ、あなたの勇士をかしこにお下しください」とあるのは、敵対する民(軍隊)に包囲される中、イスラエルの叫びです。神が遣わされる天の軍勢たち(天使)の助けを要請する祈りです。 

最後に確認しましょう。あなたはどちらにつく者ですか。神に敵対する者なのか。それとも「主の御名を呼ぶ者」であろうか。

主の御名を呼ぶ者はみな救われるのです(2・32)



ヨエル書 2章

2023年06月13日 | ヨエル書
ヨエル書 2章
その後わたしはわが霊を、すべての肉なる者に注ぐ。
(2・28 新共同訳3章1節)


「主の日」は、神が全ての罪をさばき、この世界を精算なさる日です。罪を滅ぼし、神の聖なる世界を完成なさる日です。

「さばき」は恐ろしく、厳しく、悲しみの側面がありますが、しかし、裁かれることによって、罪がきよめられるという別の側面もあります。この「主の日」に向かって歴史は進んでいます。

だから2章12節からは、悔い改めよと勧められています。衣服ではなく、心を裂け(2・13)とありますが、人々は悲しみと悔い改めの表現として、自分の衣服を引き裂きました。しかし、本当の悔い改めとは「心を引き裂くことだ」と言われます。制御しがたい罪に憂い悲しんで悔い改めます。神は、私たちを滅ぼすことではなく、私たちが悔い改めていのちを得ることを願っておられるのです。

そのような悔い改めの後のことです。冒頭の聖句のように、神は〝全ての肉なる者に聖霊を注ごう〟と計画なさっています。

この「肉なる者」とは「人間」のことです。人は肉体を持った存在です。神は、人を創造するにあたって土の塵から肉体を創られたからです。しかし、肉体が人間存在の全てではありません。その土の器にいのちの息(霊)を吹き入れて、人を霊的な存在として創造なさいました。つまり、神は、人が霊的に生きるようにご計画なさっています。

霊的に生きる肉体的な存在……それが人の姿です。

動物のように、ただ食べて寝て、その肉体を維持するためだけの存在とはなさっていません。霊を注ぎ、神との交わりの中で生きるようにお定めになりました。人とは、生物学的に生きるのではなく、霊的に生きる存在なのです。

ただ、最初の人アダムが罪をおかして以来、人はその霊的機能を失って行きました。霊的な生き方はゆがんで、偶像礼拝やまじないや呪術に傾斜して行きました。かくして、罪の結果、人類に死が入ったのです。もちろん、罪の中にあるとはいえ、人は霊的存在なので神を求めます。宗教心があります。しかし、その霊的機能がゆがんでいるというか麻痺しているので、神ならぬ物さえも拝んでしまうわけです。

そんな人間に、神は、終わりの時代に聖霊を注ごうとなさっているのだとヨエルは語りました。いつ、この預言は成就したのでしょうか。使徒行伝2章の出来事がそれです。イエスを信じた弟子たちに、聖霊が内住されたあのペンテコステの出来事です。

神は、私たち人間が、肉の力で頑張ることを期待なさっていません。肉から生まれるものは肉です。肉は何の役にも立たないことをよくご存知です。それを知らないのは我々人間です。

そのために人は相変わらず肉の力で生きようとします。肉の頑張りで天国に入ろうとします。でも、それが如何に徒労であるかは、イスラエル民族がさんざん体験したのです。あの律法に熱心であったパウロでさえそうです。

だから、神は、私たちに聖霊を注ごうとなさっています。神の御霊が、私たちの内に聖なる思いを起こさせ、かつ実現に至らせるように、ご計画なさっています。

2千年前のペンテコステ(聖霊降臨節)以来、聖霊は注がれ続けています。こうして、「聖霊がすべての肉なる者(人間)に注がれる」という預言が成就したということは、終わりの時代に入ったことを意味しています。

えっ、2千年が経過しているのに……ですか?。そうです。今は終わりの時代です。神にとって千年は一日の如く、一日は千年の如くです。そんなに長い期間ではありません。

聖霊を受けて聖なる生き方をしようとする者と、イエスを認めず聖霊を拒絶して罪の中に生きようとする者たちを、神は区別なさいます。終わりの時代は、その区別がより鮮明になる時代です。

丁度、収穫の時期になって、良い麦と毒麦との区別が鮮明になるのと似ています。実がはっきりしてから収穫するのです。良い麦は倉に収め、毒麦は火に焼かれるようにして、さばきの日が来ます。そんな「主の日」は近いのです。


ヨエル書 1章

2023年06月12日 | ヨエル書
ヨエル書 1章
ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。
(1・15)


預言者ヨエルは南ユダ王国で活動しました。彼に関しては「ペトエルの子ヨエル」としか記載がないので、どの時代の人物であったのか不明です。ヨアシュ王の時代(BC800年代)とする説、捕囚前の時代(BC600年代)とする説もあります。

ヨエルにあたえられた主からの掲示は、主の日が来るとの預言でした。「主の日」とは、主である神がこの世界をお裁きになる日のことです。その日の到来についてヨエルは預言しました。

はじめに、いなごの来襲についてです(1・4~5)

この地方ではいなごが大発生して、穀物を食い荒らし、すべてを食いつくしてしまう被害がありました。でも、これは主に日の到来の予兆だと告げています。そして、そのいなごの大群のように敵軍が攻め上ってきて、南ユダは滅ぼしつくされるのだと描写されています(1・6~7)。祖国は荒廃し、人々の嘆き叫ぶ様子が描かれています。

この預言が、先に申し上げたヨアシュ王の時代であるなら、当時の人々には信じがたい光景に思えたでしょう。なぜなら、その時代は比較的安定した時代であり、信仰面では宗教改革がなされ、清さと繁栄を享受した時代だったからです。

でも、預言者は語ります。主の日は近いと。

この預言は2章に入っても続きます。主の日が来るからである。それは近い(2・1)主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう(2・11)

まかさかこの時代が終わるなんて……。この世界が滅びるなんて……。そんな縁起の悪いこと言わないでくれ。そのような声が聞こえてきそうです。自分たちは良くやっている。大丈夫だ。このままでも行けるんじゃないのか。

でも預言者は語ります。「主の日は来る」と。

主の日とは、さばきの時です神が罪をさばき、この世界をきよめる時のことです。「さばき」には恐ろしいイメージがありますが、別な一面はきよめを表します。きよめがなされることによって、回復の時代が到来します。この両者を含めて「主の日」と呼びます。

主の日はキリストの来臨によってもたらされるというのが、聖書全体から読み解かれることです。

このヨエルの時代からすれば「主の日は近い」といわれ、イエス・キリストが来臨された時点で、「主の日は来た」のです。そして、キリストが再び来臨される時に、「主の日は完成する」ことになります。

イエスの弟子であるペテロも預言して語りました。

「『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない言うであろう。―中略―ある人々が遅いと思っているように、主は約束の実行を遅くしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望みあなた方に対して長く忍耐しておられるのである。(Ⅱペテ3・4~9)

このような日に対して私たちは備えているだろうか。私は目を覚ましているだろうか。 

実際に「主の日は近い」と言いつつも、ある人が指摘するように「遅い」ようにも思えます。人にはどのように思えても、私たちはこの主の日の到来について語り伝える使命を受けています。 

これをあなた方の子たちに語り、子たちはまたその子たちに語り、子たちはまたこれを後の時代に語り伝えよと主が命じておられるからです(ヨエル1・2)。 

主の日が近いのであれば、子たちに伝えれば良いのですが、子々孫々に語れ、後の時代にまで語れとも命じられています。人の時間軸ではもっと先なのかも知れません。

でも、主の日は近いのです。それが神の〝時間〟なのです。 私たちは神の時間の中で目をさまして生きるのです。