哀歌 5章
私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。(5・16~17)
エルサレムの陥落。バビロンによる捕囚。このような悲しみと苦しみの原因は何なのか。
哀歌は、それは「罪をおかしたからだ」と告白しています。さらに、今日の聖句では、罪の結果、「心が病み」「目が暗くなった」からだと告白しています。
すべての問題は「罪」から始まっています。その罪とは「神を認めない」「神に従わない」という根っ子の罪のことです。
罪のゆえに心が病みます。目が暗くなります。目が暗いとは、霊的世界のことが分からない状態のことです。物事の本質を見抜くことができないことです。
人は霊的存在であり、神と共に生きる者として創造されています。神との交わりの中で生きるのが人間の本来の姿です。つまり、神の御言によって生きるように創造されています。
なのに、その神を否定したら、人の心は暗くなります。心が病むのは当然です。
社会が悪い、環境が悪い、教育が悪い、景況が悪い……様々なことが原因のようですが、さらに深いところには、この罪が大きく根深く横たわっています。哀歌はその罪を告白し悔い改めています。
問題の根は罪であると気がつかされることは何と幸いなことでしょうか。神を主とせず、自分を主としてる罪に気づき、悔い改め、本当の主であるイエス・キリストを迎えることができるからです。
神は、人が霊的に生きるように「罪を意識する心」つまり「罪責感」を与えてくださっています。これがいかに幸いなことでしょうか。つまり、罪の痛みを感じる能力が与えられているのです。
たとえば肉体の傷を痛いと感じる能力があります。痛いので、その痛みの原因である傷に対処して肉体のいのちを保とうとします。それと同じように、罪の痛みを感じることによって、神との関係を修復し、神と共に霊的に生きようとするのです。
このような機能が働かなくなったら、人は罪をおかすことが平気になってしまいます。だれだってやっているじゃないか。人に迷惑かけなければいいじゃないか……といった理屈もそうです。
罪の痛みを感じることのできる人は幸いです。その人はイエス・キリストを信じるようになるからです。神が人の心に植えつけてくださった霊的な感覚に目覚めている人は幸いです。その人は神に立ち帰ろうとするからです。
バビロンを通して神に撃たれた人々は、罪の意識、霊的な感覚に目覚めました。だからこそ、彼らは叫んだのです。「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです」(5・21)。
試練や困難を通して「神も仏もあるものか」と反応してしまう人もいれば、逆に、悔い改めて神に立ち帰ろうとする人もいます。
人の深いところには「私は神のもとに帰りたい」という霊的な本能があるはずです。それに気づくことのできる人は幸いです。父の財産を使い果たしたあの放蕩息子の場合も、彼は最後に「本心に立ち帰って」とあります(ルカ15・17)。
神は、様々な困難を通して、「私は帰りたいのです」という本心に目覚めることを願っておられます。もちろん、そこまで撃たれなくても目覚めていれば、それに越したことはないのですが……。