ネヘミヤ記13:31 わが神よ、わたしを覚え、わたしをお恵みください。
第13章は後日談として記されています。城壁再建工事を終えたネヘミヤは、一旦ペルシャに戻ったのですが、12年後、再びエルサレムをおとずれた時のことです(13:6-7)。
年月の経過と共に、神殿や、民の生活の中にゆがみが生じているのを見出したネヘミヤは、適切に対処した様子が記されています。
①神殿の浄化(13:4-9/13:28-29)。トビヤは先の城壁再建では反対派の人物でしたが、ユダヤ地方では有力者だったため、ユダヤの祭司エリアシブとの縁組みが成立し、癒着が生じていました。かつての敵であるトビヤのために、神殿の敷地内に専用の部屋を設けていたのです。
ネヘミヤは即座にこれを撤去させ、祭司エリアシブとその家族を追放しました(13:28)。
その他にも、②レビ人の生活改善(13:10-14)。③安息日の徹底(13:15-22)。④雑婚の解消(13:23-29)。と次々にネヘミヤは迅速に、かつ厳格に対処して行きました。
強引にさえ感じられますが、そうするには相当の勇気を必要としたことでしょう。人々からの誤解や反発も当然あったはずです。どんな改革にも反対勢力というのはつきものです。
しかし、妥協せずに成し遂げなければならないことがあります。だから、ネヘミヤは祈っています。何度も同様の祈りがささげられています。
「わが神よ、この事のために私を覚えてください」(13:14)。「わが神よ、私のためにまた、このことを覚え、あなたの大いなるいつくしみをもって、私をあわれんでください」(13:22)。
そして、ネヘミヤ記の締めくくりも、「わが神よ、私を覚え、私をお恵みください」という祈りで終わっています(13:31)。
私たちは確信をもって決断し実行したとしても、本当にこれで良かったのだろうかと、一抹の不安を抱えます。私の対応は正しかったのだろうか。あのような厳しい対応をして、他者をつまずけることになったのではないか。
そんな不安や恐れを覚えつつも、なおも前進しなければならないとき、私たちはネヘミヤのように、「わが神よ、私を覚え、私をお恵みください」と祈らざるを得ません。
祈りつつ前進しよう。鋤(すき)に手をかけてから、うしろを振り向く者は神の国にふさわしくないと言われた主イエスの御言に押し出されながら……。(Ω)
ネヘミヤ記12:43 こうして彼らはその日、大いなる犠牲をささげて喜んだ。神が彼らを大いに喜び楽しませられたからである。女子供までも喜んだ。それでエルサレムの喜びの声は遠くまで聞えた。
エルサレムの城壁が完成し、その落成式(奉献式)が執り行われました。この時の喜びの声は遠くの町々まで聞こえたと記されています。喜びが爆発した日です。
城壁の完成のために尽力した人々の喜びもひとしおですが、今日の御言には、「神が彼らを大いに喜び楽しませたからである」と記されています。神が、私たちを大いに楽しませてくださるなんて……何とももったいない話です。
でも、神はそうなさるのです。
タラントを僕(しもべ)にあずけて旅に出た主人の話を思い出してください。2タラントを受けた者は、それを用いてさらに2タラントをもうけ、合計4タラントに増やしました。その者に、主人が語った言葉は嬉しいものでした。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21・新改訳)。
「わたしの喜びを一緒に喜ぼう」と言ってくださるのです。
例え話の続きですが、5タラントを受けた僕もおなじように更に5タラントをもうけ、合計10タラントに増やしました。その者に対しても、主人の喜びは2タラントの僕に対するのと同じでした。
神は、私たちの忠実を喜んでくださるのです。少しであっても、多くであっても、任されたことに忠実であることを喜んでくださり、「わたしと一緒に喜んでくれ」と言って、私たちを喜ばせてくださる神です。
この城壁の完成にいたるまでには多くの苦労がありました。たくさんの範囲を修復した者もあれば、自分の家の前だけを修復するので精一杯の者もいました。直接に修復にたずさわれなくて、お弁当を提供したりして下働きをした人もいたでしょう。
もし、民の中に、「何だ、お前はそれぽっちかよ!」という比較の心があったら、このような大きな喜びにはならなかったはずです。成した仕事の大小によって優劣を感じるような心があったら、落成式の歌声は不協和音になって、周囲の町まで響くような賛美にならなかったはずです。
さて、喜びは、個人的な喜びに終わりません。一緒に苦労してくれた人々との喜びと共鳴します。そして、その苦労はイエス様も共に負ってくださった苦労なので、イエス様の喜びでもあります。
こうして、神の喜びも加わるので、それはそれは、もっと大きな喜びです。だから、その喜びは遠くまで聞こえるほどのものになります。
このネヘミヤ記では、城壁の再建工事の苦労について学んできました。それは、私たちの魂の領域(心とか知情意と呼ばれる領域)がキリストに似たものに変えられて行く工事でしたね。
これには苦労がともないます。忍耐を要します。でも、その結果の喜びは大きいことを期待しましょう。(Ω)
ネヘミヤ記11:2 みずから進みでてエルサレムに住むことを申し出た人々は、民はこれを祝福した。
エルサレムの城壁は完成し町は復興したのですが、住民は少なかったようです。そこで、ネヘミヤは町のさらなる復興のために、10人に1人の割合でエルサレムに住むように指導しました。こう記されています。
「民のつかさたちはエルサレムに住み、その他の民はくじを引いて、10人のうちからひとりずつを、聖都エルサレムに来て住ませ、9人を他の町々に住ませた」(11:1)。
その他にも、自ら志願してエルサレムに住居を移す人々もおり、その人々は民から祝福を受けたと、今日の聖句は述べているわけです(11:2)。
城壁が完成したものの、エルサレムはそれほど住み心地の良い町ではなかったようです。
その理由として、経済的な困難があった事でしょう。転居したところで、どうやってエルサレムで生計を営むのか。また、ユダヤの首都であるが故に、外敵からの標的にさらされる恐れもありました。
ですから、エルサレムに住むには、ただ単に神を信じているだけでなく、神への献身がなければできなかったのです。エルサレムの町で神に仕えて行こうという献身です。
新約的な言い方をすれば、十字架を負って従うことです。
イエス様を信じる人々は多くありました。群衆を成すほど多くいました。しかし、そんな人々に向かってイエスは、「私についてきたいと思う者は、十字架を負って従いなさい」と言われました(マルコ8:34)。十字架を負わなければイエスの弟子になることはできないとも言われました(ルカ14:27)。
信じて救われる人は多いのですが、十字架を負ってイエスの弟子になる人が必要です。ネヘミヤの時代のように、苦労を承知の上でエルサレムに住む人が必要なのです。
あなたはエルサレムに住む人でしょうか?。自分の生活や人生設計を確保しながら、郊外に住んで、時々エルサレムにやって来る人でしょうか?。
エルサレムに住む人とは、新約では、どういう人のことなのでしょうか。先ほどは十字架を負って従う人のことだと申し上げました。別の表現をすれば……これは私なりの解釈ですが……キリストの教会につながる人の事ではないかと思います。
キリストの教会につながるには、礼拝をはじめ諸奉仕に加わるのですから、負担を負うことです。献金もささげます。時には、教会の人間関係から生じるトラブルに巻き込まれることもあるでしょう。そのような関わりをうっとうしく思ったり、時にはそれがつまずきになるかも知れません。
でも、教会につながることによって、私たちは訓練を受けます。人間関係でもまれる中で、肉の思いが砕かれ、キリストの花嫁としてきよめられ、整えられて行きます。
私は不思議に思うことがあります。それは、黙示録に預言されている聖なる都エルサレムのことです。この町は建築物として表現をされているようですが、一方で、キリストの花嫁として描かれているからです(黙21:9-14)。
これは、キリストの花嫁である教会が……つまり教会につながる私たちが、王なるキリストの住まわれる聖都として完成した姿として描かれています。旧約の神殿が新約では私たち自身のことであったように、エルサレムの町もそうではないかと思います。
さあ、自ら志願してエルサレムに移り住んだ民のように、キリストの教会につながる者となってください。教会から離れないでください。ひとりで信仰している方が気楽なのでしょうが、何らかのかたちで教会につながるようになさってください。
このように朝マナメールでつながってくださることも幸いなことです。御言を受けたところで、主にある人々の交わりへと展開することを願っています。そこが教会です。エルサレムに住む人々に祝福あれ!。(Ω)
ネヘミヤ記10:31 また7年ごとに耕作をやめ、すべての負債をゆるす。
先の第9章で語られたメッセージに感動し、その心を奮い立たされた者たちは、互いに誓約をかわしました。そのリストが第10章の前半。その誓約の内容が後半部分です。
誓約の内容は、① 雑婚しないで民の純粋性を守る。② 安息日と安息年を守る。③ 十分の一などの献げ物を守る。という3つの内容です。ここでは、安息年のことにふれてみたいと思います。
1週間の7日目……当時は土曜日のこと……を安息日として守ったように、律法は7年目を「安息年」と定め、休耕田のすすめと、負債のゆるしを命じています。
本当の安息とは何でしょうか。ネヘミヤ記では、安息日に物の売り買いをしないといった規定を設けましたが、それは、商業活動によって神との親しい交わりが妨げられることを拒んだからです。
安息日の目指すところは、神との親しい交わりです。それは、罪という最大の障害が取り除かれた時にもたらされる平安のことです。皆さんは、そのような安息を体験なさっているでしょうか。
伝統的なキリスト教会では、礼拝をささげる日曜日を安息日と位置づけて、日曜日には仕事も休んで、いっさいの娯楽もやめて、その日を守ってきました。でも、それが形式的になると本当の安息を見失います。
安息とは、罪をゆるされた私と神との親しい交わりです。神との平安な交わりの中で憩うことです。形式だけが先行して、本来の安息が置き去りにされてはなりません。
そのために、7日のうちの1日は、体を休める必要があります。そして、7日のうちの1日は「罪のゆるし」が必要です。日曜日の礼拝において、すぐる1週間の罪を告白してゆるしを得ていますか。そして、他者があなたにおかした罪(負債)をゆるしていますか。
他者の罪をゆるすと共に、自らの罪のゆるしを得る。これが安息の秘訣です。この罪のゆるしのないままでは、たとえ礼拝の形式は保たれていても、安息のない日曜日になってしまいます。
もちろん、毎日、罪のゆるしが実践されれば最も良いことです。でも、少なくとも7日目には「罪のゆるし」を実践します。これが安息の秘訣です。
それでも、まだ引きずってしまう罪もあります。聖書は、7年目には負債をゆるすようにと「安息年」を定めています。引きずっている罪があるでしょうか。なおもゆるせないで悶々としている、あの人、あの出来事があるでしょうか。
でも、どうか、7年目には負債をゆるしてください。負債という重荷を神の前におろしてください。それは、あなたの安息のためです。安息の秘訣……それは負債のゆるし、すなわち罪のゆるしです。(Ω)
ネヘミヤ記9:33 我々に臨んだすべての事について、あなたは正しいのです。あなたは誠実をもって行われたのに、我々は悪を行ったのです。
先の8章では、律法学者エズラの指導の下で民が「仮庵の祭」を祝ったと記されていました。
仮庵(かりいお)とは、小枝や木の葉でこしらえた粗末な小屋のことです。かつて、イスラエルがエジプトを脱出して約束の地に入るまで、彼らは荒野での生活は、まさに仮庵の生活でした。
約束の地で定住生活をするようになり、ゆたかな祝福の中にあることを感謝し、かつての仮庵の生活を忘れないために、神はこの「仮庵の祭」を祝うように命じられたことが起源になっています。
そのような意義深い祭を終えて、エズラは民の歩みをふりかえるようにして語っています。それが第9章の内容です。イスラエルの歴史を3分で語りなさいと言われたら、今日の箇所が最適です。良くまとまっています。
※口語訳聖書では、第9章の説教をエズラが語ったと記録している(9:6)。新改訳・新共同訳ではその点が記されていない。しかし、第8章からの文脈からすれば、エズラが語ったと理解すべきだろう。
その中でくり返し語られていることは、神は真実な方であるということです。「あなたは正しくいらせられるからです」(9:8)。それに反して、私たち人間は不忠実な存在であると述べています。
「しかし彼ら、すなわち我々の先祖は傲慢にふるまい、かたくなで、あなたの戒めに従わず……」(9:16)とそのことを振り返っています。
では、それによって、神は真実であられることをお止めになったのでしょうか。「しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした」(9:17)。
何度も繰り返される民の不従順に対しても……
「しかし、あなたは大いなるあわれみによって彼らを絶やさず、また彼らを捨てられませんでした。あなたは恵みあり、あわれみある神でいらせられるからです」(9:31)と述べられています。
そのような経緯をふまえて、ネヘミヤは語ったのです。「我々に臨んだすべての事について、あなたは正しいのです。あなたは誠実をもって行われたのに、我々は悪を行ったのです」(9:33)。
ある人は、神をうらんだり、神を責めます。「神がいるならどうして?」「神が愛ならこんな事が?」。確かにそのこと自体に目を向けるとき、神にそのように申し上げたくなる気持ちは痛いほど分かります。
でも、そこには、「私は間違っていない!」という頑(かたく)なな心が潜んでいることをお気づきでしょうか?。もう少し申し上げるなら、「私には非がない」「私には罪がない」という自己正義の剣が隠されていないでしょうか?。
ところが、そんな人類に対しても、その罪をお責めにならないで、御子を十字架につけて、私たちの罪を葬ってくださる神の慈愛を忘れてはなりません。そして、この十字架の死が、罪人である自分の葬りであったことを認めて立ち返るようにと、今も招いておられる恵み深い神に素直であってほしいと願います。
さて、神が正しい方であると告白しつつ、なおも、自分たちは奴隷の身であると告白しました。
「我々は今日、奴隷です。あなたが我々の先祖に与えて、その実とその良き物とを食べさせようとされた地で、我々は奴隷となっているのです」(9:36)。
ユダヤの民は、バビロンの奴隷の身分から解放されて約束の地に戻ってきたはずですが、なぜ奴隷だと告白したのでしょうか。ユダヤはペルシャ帝国の支配下にあり、ペルシャに納税する立場からすれば奴隷とも言えます。
しかし、エズラはより深く、霊的な視点で見ていたのではないかと思います。それは、罪の奴隷の姿です。こんなにまで良くしてくださる神。何度もあわれみ深く導いてくださる慈愛の神とは対照的に、罪の支配から自由になれない民の姿を見ていたのでしょう。
罪の奴隷であるおのれの姿に目が開かれるとき、人は、神が正しい方であると心から告白できます。「神が正しい方だ」と認めることは、言い換えれば「私は罪人であって、私には何の義もない」と認めることであり、だから「神の義を求める」のです。
罪の奴隷であるおのれの姿を告白して、神の義を得よと、神は招いておられます。まず神の国と神の義を求める者の幸いを祈ります。(Ω)
ネヘミヤ記8:10 あなた方は去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのない者には分けてやりなさい。この日は我々の主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなた方の力です。
「主を喜ぶことはあなた方の力です」。新改訳では、「あなた方の力を主が喜ばれるからだ」と訳されているのでニュアンスが違いますね。新共同訳では、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」。
さて、こう言われているのは、ユダヤの人々は悲しみ泣いたからです。
城壁の再建が完了し、人々はエルサレムの「水の門」の広場に集まりました。そこで、律法学者エズラによって律法の書が朗読されました。
※このエズラはエズラ記のエズラのこと。エズラが帰還したのがBC.456年、ネヘミヤが帰還したのがBC.445年。ふたりは同時代の人物。エズラは律法教育の面で貢献し、ネヘミヤは総督として町を整備し民の生活を整えた。
さて、律法の朗読は朝から正午まで続いたと記されています。民にも分かるように説明も成されました。新共同訳では、「神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した」と記されています(8:8)。
人々は、その律法の内容を理解し、自分の身に置き換えて聞いたので、悲しみを覚えて泣き始めたのです。
皆さんはどうですか。律法を読んで喜びが湧いてくるという人は、新約の福音をしっかりと理解している人を除いてはいないでしょう。みな憂鬱になるのが普通です。なぜなら、律法は、私たちが罪人であると啓示しているからです。
ユダヤの人々は、自分をはじめ先祖たちの歩みを顧みて、律法に違反してきた事実をはっきりと悟ることが出来たはずです。そして、律法には、そのような罪人は呪われ、約束の地から除き去らせると言われているのですから、民は嘆き悲しんだのです。
しかし、エズラもネヘミヤも、「今はその時ではない。今は、神が、その罪から私たちを救い出された喜びの日である」と語りました。
そうです。律法にはそう記されていますが、神はあわれみ深い方でもあります。必ず罪の中から救い出すと約束された神は、今日、こうしてバビロンから民を導き出し、神殿を建てさせ、城壁を完成させてくださったわけです。
罪人である自分を見て悲しむのではなく、そんな罪人を救い出される主を見て喜ぶべきです。自分の欠点や悪いところばかりを見ている人には、力が湧いてきません。でも、こんな私をも愛してくださる主を見上げ、その方を喜ぶとき、勇気をいただいて勝利できます。
旧約の時代でさせ、神はこのような哀れみを見せてくださいました。新約ではついに御子イエス・キリストが、律法による罪の責めをすべて身に負って十字架で葬ってくださいました。この主イエスを喜ぶべきです。
罪人の自分を見て悲しむことはあります。でも、それで終わりではありません。そんな私を愛して、十字架で私の罪を負って死んでくださった主イエスを喜ぼう。そこから、本当の力が湧いてきます。(Ω)
ネヘミヤ記7:3 日の暑くなるまではエルサレムの諸々の門を開いてはならない。人々が立って守っている間に門を閉じさせ、貫の木を差せ。またエルサレムの住民の中から番兵を立てて、各々にその所を守らせ、また各々の家と向かい合う所を守らせよ。
幾多の苦難を経て城壁は完成しました。先の第6章では、城壁は築き終わったが、門のとびらがまだ取り付けられていなかったと記されていました(6:1)。しかし、その門のとびらもつけ終わり完成しました。
門のない城壁は無用な壁に過ぎません。外部と遮断するだけの壁で終わってしまいます。そこには門が取り付けられ、その門を通して出入りがあってこそ城壁の意味を成します。
エルサレムの城壁には幾つかの門がありましたが、今日の聖句は、その門の開閉についての記録です。陽がのぼってあたりをしっかり照らすようになるまでは、門を開いてはならず、日没には門を閉じてしっかりと施錠すると共に、番兵を立てる事などが記されています。
この門の管理を怠ると、暗がりに乗じて敵が侵入してきたり、スパイが入る込むこともあります。
私たちの心の城壁はどうでしょうか。正しいものが出入りしているでしょうか。悪い考えが、暗やみに乗じて入ってくることを許してはいないでしょうか。ましてや、門ではなく城壁を乗り越えて入ってくるものは、私たちの心を盗もうと入ってくる盗人です。
悪魔は、私たちの心を神から引き離して盗んでしまうために、悪しき考えを忍び込ませます。
城壁を乗り越えて入るものを阻止するのはもちろんですが、心の城壁の門が正しく機能しなければなりません。何を入れるのか、何を入れないのか。それは門が正しく機能して判断すべきことです。
悪い言葉も何もかも吟味せずに心に入ってくるのを許可しているなら、それは、昼も夜も明けっぱなしの門のようです。門の部分で入れて良いのか、入れるべきでないのか、許可を与えるのは自分自身です。
たとえば自分を傷つける言葉が語られたとき、城壁の門を閉じて、その言葉を受け入れないようにすることも出来ます。逆に、門を開いて、その言葉を受け入れ、その言葉が私の中で活動することを許可することも出来ます。その場合、確実に、その言葉は私を傷つけます。
心の城壁にある門には、私にとって有害な言葉や情報や考えを受け入れないという機能が必要です。悪魔の言いなりになってはなりません。敵がもたらす有害な情報は門で閉め出さなければなりません。
祈りましょう。主よ、心の城壁を建て上げさせてください。そして、城壁の門が、良いものと悪いものとを識別できる機能をはたすことができるようにしてください。(Ω)
ネヘミヤ記6:3 私は大いなる工事をしているから下って行くことはできない。どうしてこの工事をさしおいて、あなた方の所へ下って行き、その間、工事をやめることができようか。
城壁の再建工事は進みます。しかし、再び妨害です。
このように、神の御業を妨害するために、悪魔は手を変え品を変えてやって来ます。特に、私たちの魂(思考の領域)は霊的な戦場です。神から来る思いと、悪魔が投げ込む思いとの戦いです。
聖書では、救いを受けたクリスチャンの心には二つの心があると記しています。「肉の思い」と「霊の思い」です。新改訳では「御霊の思い」と翻訳していますが、御霊が私の霊に内住なさって、そこから生じる思いのことです。
サンバラテ等による次なる妨害は「わな」です。こう記されています。
「そこでサンバラテとガシムは私に使者をつかわして言った、『さあ、我々はオノの平野にある一つの村で会見しよう』と。彼らは私に危害を加えようと考えていたのである」(6:2)。
これに対するネヘミヤの返答が、今日の冒頭の聖句です。このようなさそいには乗らないのです。
敵は「話し合おう」と提案しています。何を話し合うというのでしょうか。この時の内容は次のようなものでした。
「諸国民の間に言い伝えられ、またガシムも言っているが、あなたはユダヤ人と共に反乱を企て、これがために城壁を築いている。またその言うところによれば、あなたは彼らの王になろうとしている」(6:6)。
ネヘミヤよ、あなたは王になろうとしているとみんなも言っているぞ。こんな噂がペルシャ王に聞こえたら大変だ。大事にならないうちに相談しようというわけです。「みんなが言っている」……この台詞は要注意です。
悪魔が考えていることなのに、「みんなも言っている」と揺さぶりをかけてきます。本当は2~3人しか言っていないのに、「みんなも言っている」というのです。
次なる「わな」は内部からです。
ユダヤ人の同胞であるシマヤは、ネヘミヤに提案してこう言ったのです。「あなたの身に迫る危険から免れるために、神殿に隠れなさい。今夜の内にも敵はあなたを襲撃するだろう」と(6:10)。
祭司ではないネヘミヤが神殿に入ることは律法違反です。敵は、そのような罪を根拠にスキャンダル事件にしたてて、ネヘミヤを失墜させようというものでした。サンバラテはシマヤを買収して「わな」をしかけていたのです(6:12)。
ネヘミヤは二つのわなに勝利しました。勝因は、ネヘミヤの心が城壁再建に心をひとつにしていたからです。
心がひとつにならないで、二心になると、わなにかかりやすくなります。霊的な祝福もほしいが、地上的な栄華もほしい……とか、神も主人としたいが富も主人としたいというように、心が二つになると、心にスキが生じます。
イエス様が山上の説教で、「何を食べようか、何を飲もうかと思いわずらうな。空の鳥を見なさい。神は養ってくださる」と語られた箇所がありますね。そのメッセージの直前に主が言われたことは、「神と富とふたりの主人に仕えることは出来ない」という事でした(マタイ6:24)。
ふたりの主人に仕える……これが二心の原因です。二心なので迷います。二心なので思いわずらいます。二心なので、悪魔のわなにかかりやすくなります。
私たちの心の城壁を再建するにあたり、この二心をそのままにしておくと、城壁はもろくも崩されてしまいます。
二心があると、「みんなもそう言っているぞ」という悪魔の言葉に揺さぶられます。みんながどう言っているかではなく、神がどう言われるかに集中すべきです。神の御言に心ひとつにしていなければなりません。
私たちの心は、常に外側からの何らかの刺激に反応しています。その反応によって、振り回されたり、時にはわなに陥ったりもします。
そこで、外側からの刺激が入ってこないように遮断する方法があります。禁欲的な生き方であり、律法的な生き方のことです。しかし、問題は、外側からの刺激をなくすことではなく、私の内側で反応です。
外部からの刺激に対して正しく反応できるのか。それとも、誘惑として反応したり、揺さぶりとして反応したり、恐れとか怒りとか、自己卑下とか高慢といった反応が生まれます。これはみな心の城壁の問題です。
さあ、心をひとつにして城壁を完成させよう。妨害する悪魔に勝利するために、聖書は次のように語っています。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」(ヤコブ4:8)。
二心の者が心を清くするとは、御言に基づく考えに集中することです。御言が土台となって建て上げられた城壁は強固です。(Ω)
ネヘミヤ記5:9 あなた方のする事は良くない。あなた方は、我々の敵である異邦人のそしりをやめさせるために、我々の神を恐れつつ事をなすべきではないか。
外側からの敵に対して勝利しつつ、城壁の修復は順調に進んであるかのようでした。しかし、次なる問題が生じました。それは内側からの問題でした。
同じユダヤ人同士の問題です。帰還したユダヤ人にも貧富の差があって、お金の貸し借りが生じたようです。しかし、それが返済できずに、借金の担保としていた田畑や屋敷がとられ、あげくは娘や息子までが奴隷になる事態へと至りました。
彼らはかつてはバビロンで奴隷でした。そこから解放されてエルサレムに帰還し、神殿を建て、町を再興しているのです。各自はみな、神によって霊魂を奮い立たされて戻ってきた者であったはずでした。
ところが、一部の人ではありますが、そのような神の御心は二の次になって、同胞から搾取する者たちがいました。これでは、心ひとつにして城壁を建て上げることなどできません。
ネヘミヤは、「神を恐れつつ事をなすべきだ」とさとしました。何のためにバビロンから解放されたのか……その目的を見失っているので、同胞を苦しめて平気でいられるのです。
さあ、軌道修正をしよう……というわけです。
借金の利息を取らないこと。また、借金の形に取っていた田畑や屋敷、奴隷を戻すことにしました。そのような身のまわりの負担を、互いが負いあうことによって、本来の目的に集中しようというわけです。
私たちの心の城壁はどうでしょうか。
私たちは神から、桁外れの借金(罪)をゆるしていただいて今日があります。神からそのようにしていただいたのに、自分が他の兄姉の罪をゆるさないでいたら、ユダヤの民がおちいった状態と同じです。
罪という借金の取り立てで仲間を苦しめてはなりません。
ユダヤの民が借金関係でこじれると、最終的には奴隷の関係になってしまったように、罪をゆるさないで、その借金を取り立て続けるなら、やがて何らかの奴隷状態が生じるようになります。
私たちは神を恐れて事をなすべきではありませんか。
神がゆるしてくださった罪の大きさはどれほどでしょうか。イエス様の例え話では「1万タラント」だと言われました。1年間に300日働いて300デナリ稼ぐとするなら「20万年分の労働賃金」です。20万年も働いて返済できますか。
でも、神はそれをゆるしてくださったのです。そんな恵みを受けた事を忘れて、他の人の100デナリ(100日分の賃金)の罪をゆるせないなど、神を恐れていれば出来るはずがありません。
さて、「ゆるさない心」は城壁のくずれたままの町に例えることができます。ゆるさない心、憎しみ続ける心……それは心の城壁の破れ口です。その壊れたところから、悪魔の妨害や攻撃が始まります。
心の城壁を建て上げる……これは「魂」の部分の救いのことです。魂というのは思考の領域です。知・情・意とも言えるでしょう。知性とか感情とか意志の領域がキリストに似た姿になって行くこと……これが心の城壁の完成です。
中心にはすでに神殿が建っています。救いはすでに中心に据えられています。「霊」は救いを受けています。しかし、城壁の部分……つまり「魂」の領域は修復され、きよめられる作業が必要です。
私たちの心はキリストに似た心でしょうか。キリストのように考え、思い、感じ、意志しているでしょうか。そのようになることを神は目指しておられます。聖霊の助けの中でそれはなされます。
その時に大切なことは「罪のゆるし」です。この所から、城壁を修復して行かなければなりません。こんな罪深い私をもゆるしてくださった神を恐れつつ、それを成すべきです。(Ω)
ネヘミヤ記4:1 サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。
ネヘミヤ記の城壁修復の物語は、クリスチャンとしての、あるいは教会としてのミニストリーを建て上げる事でもあり、また、各自の心の城壁の修復でもあることを見ました。どちらの取り組みにせよ、そこには戦いがあります。
ユダヤの民が城壁を再建し始めると早速、妨害が始まりました。サンバラテという人物による妨害です。彼はサマリヤ人でサマリヤ州の知事です。第一回目のユダヤ人の帰還事業で、神殿再建の時も同じような妨害がありました。
いつの時代にも、神の御業が成し遂げられようとすると、それを妨害する悪魔の働きがあります。しかし、ネヘミヤ記から学ぶべき事は、妨害に屈しないで戦い続ける信仰による勇気です。
彼らの妨害は、第一に「あざけり」です(4:1)。
「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか。自分で再興しようとするのか。犠牲をささげようとするのか。一日で事を終えようとするのか。塵塚の中の石はすでに焼けているのに、これを取りだして生かそうとするのか」(4:2)。
「そうだ、彼らの築いている城壁は、きつね一匹が上っても崩れるであろう」(4:3)。悔しいですね。こんな風に言われて落ち込まない人はいません。
信仰が何になるんだ。世の中そんなに甘くはないぞ……。そんな悪魔のあざけりが聞こえてくるでしょうか。お前はそれでもクリスチャンか。その程度のクリスチャンが何の役に立つのか……。そんな中傷も聞こえて来るかも知れません。
あなたの心の城壁は、そのようなあざけりを受けて、もろくも崩れてしまう状態でしょうか。きつね一匹がのぼっても崩れてしまうような城壁でしょうか。だとするなら、城壁を修復しなければなりません。
こういう時は“むき”になってはいけません。これは悪魔の挑発です。城壁も充分でない状態で、むきになって対抗しても、逆にやられてしまいます。ネヘミヤもそうしました。挑発に乗らずに、神に祈りました。
「我々の神よ、聞いてください。我々は侮られています。彼らのはずかしめを彼らのこうべに返し、彼らを捕囚の地でぶんどり物にしてください」(4:4)。報復は神にゆだねつつ、まずは城壁の修復を急がなければなりません。
次の妨害は「おどし」です。サンバラテたちは徒党を組んで武器を手に襲撃しようとしました(4:7-8)。
暴力という具体的な妨害が身に迫っています。聞き流していればよいという段階ではありません。具体的な損失や被害を被るという状態です。ここでも、まずなすべき事は「祈り」です。しかし、事が具体的である場合は、対策も具体的です。
「そこで我々は神に祈り、また日夜見張りを置いて彼らに備えた」(4:9)。
祈って神により頼むという霊的な武装と共に、具体的な対応も欠かしてはなりません。人々は夜襲に備えて見張りを置きました。そして、昼間の工事の間は、半数は工事を担当し、残りの半数は武器を手に見張りました。また、荷を運ぶ者は、片手に工具、別の手に武器を執りました(4:16-17)。
ネヘミヤの指導は、霊的であることと実際的であることとがバランス良く融合しています。
さあ、私たちの心の城壁の場合はどうでしょうか。
悪魔がどんな妨害をもたらしたとしても、また、それが殉教をともなう迫害であったとしても、私たちの城壁は大丈夫でしょうか。主イエスは言われました。「肉体を滅ぼしても、霊魂を滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるな」と。
私たちの心に、「肉体のいのちが最優先だ」とする価値観が支配するなら、私たちの心の城壁は悪魔の攻撃によって破壊されてしまいます。たとえ癌になっても、肉体のいのちを失うだけです。霊魂のいのちを最優先する価値観で、心の城壁が強固にされていなければなりません。
このような段階に至っては、悪魔に対抗しなければなりません。片手に武器を執るべきです。といっても、それは、御霊の剣……すなわち神の御言です。悪魔の火の矢を打ち消す盾です。
御言こそが最大の武器です。イエス様でさえ、断食後の悪魔の挑戦に対して、御言によって対抗なさいました。「……と聖書に書いてある」と三度も対抗なさいました。
「『肉体を滅ぼしても、霊魂を滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるな』と聖書に書いてある」と御言を根拠に対抗します。私の罪を攻撃する悪魔に対して、「『イエス・キリストにある者は罪に定められない』と聖書に書いてある」と言って対抗します。
悪魔に立ち向かってください。そうすれば悪魔はあなたから逃げ去ります(ヤコブ4:7)。(Ω)
ネヘミヤ記3:30 その後にベレキヤの子メシュラムが、自分の部屋と向かい合っている所を修理した。
いよいよエルサレムの城壁の修復に取りかかりました。第3章には、修復箇所の細かな分担が記録されています。どんな大事業も小さな分担から始まります。いきなり大事(おおごと)をしようと思わないことです。
まず自分に出来ることから……これが勝利の秘訣です。
私の出来ることは小さな事です。こんな小さな箇所が、城壁全体からすればどれほどになるのだろうか……と心配する必要はありません。神が、全体を把握して、私にふさわしい分担をくださったのです。小さな事に忠実であることから始めよう。
さて、その分担の仕方で、興味深い記録が残っています。
「その次にハルマフの子エダヤが自分の家と向かい合っている所を修理し……」(3:10)。「その後にベニヤミンおよびハシュブが、自分たちの家と向かい合っている所を修理し、その後にアナニヤの子マアセヤの子アザリヤが、自分の家の附近を修理し……」(3:23)。
「馬の門から上の方は祭司たちが、おのおの自分の家と向かい合っている所を修理した」(3:28)。「その後にインメルの子ザドクが、自分の家と向かい合っている所を修理し……」(3:29)。
各自の家に面している部分を修復したのです。遠い向こう側のことではありません。私の目の前にある「壊れた部分」から始めました。これならやれそうです。しかも具体的で分かりやすい。
さあ、私たちの心の城壁はどうでしょうか。悪魔によってすっかりこわされ、ゆがめられた城壁の人もいます。幼い時から親から受けた仕打ちによって、正しく心の城壁が築き上げられて来なかった人もいるでしょう。
どこから手をつけて修復すれば良いのやら、途方に暮れてしまいそうな現状かも知れません。しかし、まず、目の前の壊れた箇所から修復すればよいのです。こつこつと、あきらめてはいけません。
ある人は、自己卑下しやすい心の持ち主です。生まれつきではありません。悪魔によって心の城壁がこわされているので、他者(ひと)からのチョットした言葉にも傷ついてしまいます。他の人がほめられると、自分がけなされたと感じます。
この場合、自分に対する正しい評価が崩れています。セルフイメージが傷ついています。だから、神の御言によって心の城壁が修復されなければなりません。神の御言は何と言っていますか。「あなたは高価で尊い」と言っています。「あなたは義とされた神の子だ」と言っています。
御言をもって何度も、何度も、城壁を築き上げなければなりません。悪魔がその破れ部分から攻撃してくるからです。
ある人は欲張りの心で苦しんでいます。また、ある人は怒りっぽい心で苦しんでいます。ある人は不平や愚痴が泉のように湧き出る心で苦しんでいます。いろんな心の壊れ方があります。
それは、城壁が壊れている部分です。各自の弱さの部分です。悪魔はそのような破れ口から攻撃してきます。修復には、神の御言による以外に方法がありません。こつこつと、あきらめてはいけません。
さて、冒頭に取り上げた聖句では、「ベレキヤの子メシュラムが、自分の部屋と向かい合っている所を修理した」と記録されています。このメシュラムという人は貧しくて自分の持ち家ではなく、借家暮らしでした。だから、「自分の部屋と向かい合っている所を……」と記されています。
メシュラムは貧しいなりに、自分の出来る箇所を精一杯修復したのです。大きな事業も、また、私たちの心の修復も、この小さな一歩から始まります。(Ω)
ネヘミヤ記2:17 あなた方の見るとおり、我々は難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、我々は再び世のはずかしめを受けることのないように、エルサレムの城壁を築こう。
エルサレムの悲惨な現状を伝え聞いたネヘミヤは、このことのために自分は何が出来るだろうか、神に祈り求め始めました。そして4か月を経てその結果を見ることになりました。
何か事をはじめる時、日本の諺では「善は急げ」とか、逆に「急がば回れ」とか言われ、一体どっちなの?となるのですが、聖書ではまず「祈れ」と教えています。
ネヘミヤは4ヶ月祈りました。長く祈ったかどうかは問題ではありません。祈って神の御心を求めます。そして、祈りの中で、それを実行に移す「タイミング」と「方法」を求めます。このタイミングと方法を間違えて頓挫する事もあります。
かつてのモーセがエジプトの王子であった時、彼は奴隷となっているイスラエルを解放しようと実行に移しました。イスラエルのエジプト脱出は、確かに神の御心でした。しかし、タイミングと方法が違いました。彼がそれを実行に移すのに、さらに40年を経なければなりませんでした。
どんなに良いアイデアであっても、主の御心を求めて祈る。次に、それを実行に移す「タイミング」と「方法」を求めて祈ります。
ネヘミヤは王の承諾を得てついに実行に移しました。彼はユダヤ州の総督の地位を得てエルサレムに戻りました。
そして、城壁の現状をつぶさに見て回りました。ネヘミヤは祈りの人ですが、同時にとても現実的な人です。現状を正確に把握することも忘れません。神の御心ですから、とにかくやりましょうというのは乱暴です。タイミングと方法が必要です。
そこでネヘミヤはユダヤの民の指導者たちを集めて、これからなすべき事を伝えました。今日の聖句はその時の言葉です。①エルサレムが荒廃している現状の確認。②その原因が城壁が破壊されたままであること。③城壁を再建の必要性……について語りました。
さて、ネヘミヤ記は、こうして始まった城壁再建の物語です。ここに示唆に富んだ教訓が啓示されています。それは、私たちの魂に……心・思考の領域に……建て上げるべき霊的な城壁についてです。
私たちは、先のエズラ記を通して、クリスチャンの中心に神殿が建て上げられなければならないことを見てきました。神を第一とし、神を礼拝することが、クリスチャンの中心に据えられることです。
このことは、クリスチャンの基本であって、私たちの「霊」において確立されています。私たちの霊には、主イエスを愛して礼拝しようという願いや喜びがすでに据えられています。主イエスを信じた人の霊には、このような霊的な神殿が建てられています。すでに救いを受けた人です。
しかし、クリスチャンとして生きて行こうとすると、私の魂(心・思考の領域)には様々な葛藤や戦いを経験します。
肉の思いが湧いてきて、神の霊的な思いに敵対します。また、悪魔が誘惑や疑いの思いを投げ込みます。時には隣人を通してあざけりの言葉、批判、罵倒など、心を傷つける火の矢が飛んできます。
このために、私たちの心は混乱し、自分の救いを疑ったり、救われて神の子とされた身分を卑しめたりするのです。丁度、エルサレムの町が外敵の攻撃にさらされて荒廃していたように……。
何が問題ですか。もう神殿は建てられているのです。問題は、悪魔が放つ火の矢から防御すべき城壁が破壊されたままであることです。私たちの霊に神殿が建て上げられたら、次に私たちの魂(心・思考の領域)に城壁が建て上げられなければなりません。
イエスを信じて救いを得ていても、私たちの魂(心・思考の領域)は、悪魔によって攻撃され破壊されたままの状態です。考え方はゆがみ、否定的で、自虐的で、時には高慢で……。心の城壁はくずれたままです。
ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したように、私たちは心の城壁を再建しなければなりません。様々な攻撃にも絶えられるような城壁です。クリスチャン生活をしっかり続け、成長して行くための城壁です。
この城壁の再建には戦いがあります。ネヘミヤも戦いながら、城壁を完成しました。ネヘミヤのように、祈りつつ、実際的な取り組みが必要です。(Ω)
ネヘミヤ記1:3 彼らは私に言った、「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」と。
先のエズラ記では、バビロン捕囚から帰還した民による神殿建設を見ました。しかし、神殿は完成したものの、エルサレムの城壁は破壊されたままで、町は荒廃していました。
ネヘミヤ記はこの城壁再建についての記録です。
整理しておきましょう。バビロンから捕囚の民が帰還したのはBC.538年。ゼルバベルの指揮のもと神殿(宮)は再建されました。続いてエズラが率いるチームが帰還したのがBC.456年。神の御言である律法を教えるためでした。そして、今回のネヘミヤが率いるチームが帰還したのがBC.445年。目的はエルサレムの城壁を再建するためでした。
第1章は、ネヘミヤが帰還するに至った経緯とネヘミヤの祈りが記録されています。
ネヘミヤは捕囚解放後もペルシャにとどまった人々の子孫です。最初の捕囚の民が帰還してからすでに90年も経過しています。ネヘミヤにとって、捕囚解放の事もエルサレムでの出来事も他人事のような、遠い話ではなかったかと思われます。
彼はペルシャの王の給仕役(献酌官)を努めていました。給仕役とは王の食事の毒味役であると共に王の相談役でもあったので、王からの厚い信頼を得た身分の高い役職でした。
そんなネヘミヤのもとに、祖国の町エルサレムの様子が伝えられました。神殿は再建されたと聞いていましたが、町は荒廃したままだと言うのです。なぜなら、城壁はバビロンによって破壊された当時のままであったからです。
日本古来の城下町は城壁の外側に形成されました。日本の治安は良かったので、城壁の外でも大丈夫だったわけです。
しかし、中近東では状況が異なります。城壁の外側は外敵にさらされる「死」の世界です。だから、町は城壁の内側に形成されました。そのような環境ですから、城壁が完成していないエルサレムは、常に外敵の攻撃にさらされていました。
ネヘミヤにとって、話に聞いていたが祖国の町エルサレムが、この時からとても身近なことになりました。もはや他人事ではすまされなくなりました。自分のことになりました。そして、祈るようになりました。
自分が何者であるかに気づき始めたからです。自分がユダヤ人であって、神が建てようとなさっている神殿、その町エルサレム、そして神の御国のビジョン……そのために、自分たちユダヤ人が召されていることに目覚めたからです。
私たちクリスチャンはどうでしょうか。自分が天国人だと目覚めているでしょうか。自分の国籍が天にあることに目覚めない限り、聖書の記録は、遠い国の出来事のようです。知ってはいるが、心を奮い立たせるような事件とはなりません。
想像してみてください。外国暮らしをしていて、日本のニュースが飛び込んできたら関心を引きますよね。ましてや、その事件が自分の出身地の京都府与謝野町のことだったら衝撃的です。しかも、知人の某さんのニュースだともう目が離せません。
ましてや、聖書には私たちの祖国である天国について記されているのに、他人事でしょうか。それとも、身近な衝撃的なニュースでしょうか。
ネヘミヤは、神がご自分の名を置くと定められた町エルサレムについて無関心であったことに悔い改めました。また、それが、イスラエル民族に託された重要な使命であることを忘れて、日々の生活の明け暮れに終わっていたことを悔い改めました。
第1章は、そのようなネヘミヤの悔い改めの祈りです。
では、新約的には、神の御名が置かれている町……神の宮の建てられた町……その町の城壁を再建するとは、何を意味するのでしょうか。私たちは、この城壁の再建を自分のこことして、どれだけ関心を注いでいるでしょうか。(Ω)