詩篇118:22 家造りらの捨てた石は隅(すみ)のかしら石となった。
あふれんばかりの感謝と賛美で満ちています。詩篇の冒頭は、「主に感謝せよ。主は恵み深く、そのいつくしみは永久(とこしえ)に絶えることがない」。
この「いつくしみは永久に絶えることがない」という賛美が、何度も繰り返されています。私たちの神は、いつくしみと恵みが絶えることのないお方なのです。
この詩篇は、バビロン捕囚から帰還した喜びと感謝を歌った賛美だと言われていますが、その時の人々の喜びを想像してみてください。
かつてはバビロン軍によって首都エルサレムは完膚無きまで破壊され、奴隷としてバビロンへ連行された人々の心は絶望のどん底でした。常識的に考えて、そこから解放される道は皆無(かいむ)でした。
しかし、神は、人の思いや常識をはるかに超えたことをなさいます。バビロン王朝が倒れ、ペルシャの王クロスが統治するや、神はクロス王をもちいてユダヤ人解放令をだし、民は帰還したのです。
人々にはいかに驚きだったでしょうか。神から見捨てられた者が、再び神の民として建てられ、約束の地に戻ってきたのです。
彼らは、瓦礫(がれき)のとなったエルサレムの街に、神を礼拝する神殿を再建しました。まさに、今日の御言のように、いったんは捨てられた石を、神殿の礎石として再建しました。
だれがこのような劇的な再建を予想し得たでしょうか。そこで詩人は、「これは主のなされた事で、我らの目には驚くべき事である」と告白しました(118:23)。
バビロンからの帰還民が、瓦礫の中から神殿を再建した出来事は、やがて、神が本当の神殿を完成されることの“預言”でもあります。言葉による預言ではないので、「予表」とか「予型」というべきことがらです。
神は本当の神殿を完成なさろうとなさっています。それは石で出来た神殿ではなく、神を礼拝する人々による神殿です。その神殿建築のために、神はイエス・キリストをおつかわしになりました。
イエス・キリストは人々からは十字架で殺され、まさに「捨てられた石」となられましたが、その石は、霊的な神殿の「隅のかしら石」として礎(いしずえ)の石となって建て上げらられて行きます。
新約聖書では、あなた方は……イエスを信じるクリスチャンは……、神の神殿であると言われています(Ⅰコリント3:16)。そして、その礎の石はイエス・キリストです。
「そして、この土台はイエス・キリストである」(同3:11)。
この上に、イエスを信じたクリスチャンは神殿の石のようにして積み重ねられて行きます。その石としてはじめに積み重ねられたのが、弟子のシモン・ペテロでした。
シモンは、イエスを「神の子救い主」と告白したのですが、その告白したシモンに、「あなたはペテロだ」と言ってイエスは新しい名を付けられました。ペテロとは「石」という意味です。
「石」だなんて、変なニックネームです。なんでオレが石なんだ?とペテロは考えたことでしょう。そして、やがて、イエスを信じる者たちが神殿の石となって建て上げられて行くことを悟ったに違いありません。
ですから、ペテロは晩年の手紙の中でこう教えているのです。
「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(Ⅰペテロ2:4-5)。
イエスを信じた人は、この神殿の石として召されているのです。やがて、その神殿は天で本当の姿となって完成するに違いありません。その栄光の姿を目指して、今日も主イエスを賛美しよう。(Ω)


コメント頂きましてありがとうございます。
過去の記事にコメントを頂くことにより、改めてメッセージ内容を読み返す
機会が与えらえ、今回私もよく教えられました。
藤原先生のメッセージから、聖書が伝えようとしているメッセージを
描写付きで受け取ることができました。この自分が神殿を形成するための
わずかな石になれたのだという幸せ。しかも土台にはキリストがおられるという
安心感。こういった一つ一つの恵みを知ってゆくことで、キリスト者は強くなれるのだと
一昨日の説教でも教えられました。(第二テモテ2:1)ありがとうございました。