ヤコブの手紙 5章
主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。(5・7)
救われたクリスチャンが、神の子どもとして完全な者となるために……、
①御言を行うこと(1~2章)
②舌すなわち言葉を制御すること(3章)
③欲を制御すること(4章)
④へりくだること(4章)……でした。
最後に5章では、「忍耐が必要である」と教えています。
どのように忍耐するのでしょうか。「兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(5・7)。つまり〝農夫の忍耐に学べ〟というわけです。では、農夫の忍耐とはどのような忍耐のことでしょうか。
(1)自分のやれることと、やれないことを区別する。
農夫は収穫を得るために、田を耕し、種をまき、水をやり、雑草を取り除き、肥料をやります。しかし、農夫の手の及ばない領域があります。
種にはいのちが宿っていて実を結ぶ能力が備わっています。これは農夫の手の及ばない領域です。また、雨を降らすことも農夫の手の及ばない領域です。天にまかせるしかありません。このような、自分にできない領域のことを、あせって何とかしようとしても仕方がありません。
農夫は自分ができることと、自分ができないことを区別しています。自分ができない領域のことは忍耐して待つのです。農夫の忍耐とは、自分の力の及ばないことは神にゆだねるという忍耐です。
(2)自然界の法則に信頼する。
作物の種は、実を結ぶようにできています。それを疑ったら忍耐などできません。作物の種が実を結ぶのは、自然界の法則です。農夫は体験的にそれを心得ているので、忍耐して収穫を待ちます。
いのちあるものは必ず実を結ぶようになっているのと同様に、神は、霊的世界にも法則を用意なさっています。それは「御言は種である」という法則です。
御言は種です。御言は種のように、実を結ぶ神秘的な力を宿しています。それを信頼するとき、忍耐が生まれます。
また、神が私たちの中に住まわせてくださった聖霊も、霊的な法則をお持ちになっています。それを「いのちの御霊の法則」と呼びます(ローマ8・2)。
いのちの御霊の法則を信頼するとき、御霊(聖霊)は私の中にいのちの豊かな実りを結ばせるようになさいます。
御言と御霊は両輪のようにして、私たちを完全な者とするために実を結んで行かれます。御霊の働きがなければ、御言は単なる文字です。人を活かすのは文字ではなく霊です。聖霊は、御言をいのちの霊として、私たちの中で実を結ばせなさいます。
このように、御言と御霊に秘められた霊的な法則を信頼して忍耐します。
(3)すべての焦点を〝収穫〟に合わせる。
収穫に向けて農夫は忍耐します。それ以外のことで思い煩っていては、忍耐できません。脇目をふらず、主が終わりの時に結ばせてくださる平安な義の実の収穫に焦点を合わせます。
主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。(5・7)
救われたクリスチャンが、神の子どもとして完全な者となるために……、
①御言を行うこと(1~2章)
②舌すなわち言葉を制御すること(3章)
③欲を制御すること(4章)
④へりくだること(4章)……でした。
最後に5章では、「忍耐が必要である」と教えています。
どのように忍耐するのでしょうか。「兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(5・7)。つまり〝農夫の忍耐に学べ〟というわけです。では、農夫の忍耐とはどのような忍耐のことでしょうか。
(1)自分のやれることと、やれないことを区別する。
農夫は収穫を得るために、田を耕し、種をまき、水をやり、雑草を取り除き、肥料をやります。しかし、農夫の手の及ばない領域があります。
種にはいのちが宿っていて実を結ぶ能力が備わっています。これは農夫の手の及ばない領域です。また、雨を降らすことも農夫の手の及ばない領域です。天にまかせるしかありません。このような、自分にできない領域のことを、あせって何とかしようとしても仕方がありません。
農夫は自分ができることと、自分ができないことを区別しています。自分ができない領域のことは忍耐して待つのです。農夫の忍耐とは、自分の力の及ばないことは神にゆだねるという忍耐です。
(2)自然界の法則に信頼する。
作物の種は、実を結ぶようにできています。それを疑ったら忍耐などできません。作物の種が実を結ぶのは、自然界の法則です。農夫は体験的にそれを心得ているので、忍耐して収穫を待ちます。
いのちあるものは必ず実を結ぶようになっているのと同様に、神は、霊的世界にも法則を用意なさっています。それは「御言は種である」という法則です。
御言は種です。御言は種のように、実を結ぶ神秘的な力を宿しています。それを信頼するとき、忍耐が生まれます。
また、神が私たちの中に住まわせてくださった聖霊も、霊的な法則をお持ちになっています。それを「いのちの御霊の法則」と呼びます(ローマ8・2)。
いのちの御霊の法則を信頼するとき、御霊(聖霊)は私の中にいのちの豊かな実りを結ばせるようになさいます。
御言と御霊は両輪のようにして、私たちを完全な者とするために実を結んで行かれます。御霊の働きがなければ、御言は単なる文字です。人を活かすのは文字ではなく霊です。聖霊は、御言をいのちの霊として、私たちの中で実を結ばせなさいます。
このように、御言と御霊に秘められた霊的な法則を信頼して忍耐します。
(3)すべての焦点を〝収穫〟に合わせる。
収穫に向けて農夫は忍耐します。それ以外のことで思い煩っていては、忍耐できません。脇目をふらず、主が終わりの時に結ばせてくださる平安な義の実の収穫に焦点を合わせます。
すべての焦点を、主の再臨の収穫の時にあ合わせるのです。周りと比較してはなりません。
脇目をふるなら……つまり、周囲との比較の世界に目を注ぐなら、不平不満のつぶやきが生れます。だから、「互いに不平を言い合ってはならない」と戒めています(5・9)。
以上の三つが農夫の忍耐に学ぶことでしたが、次は〝ヨブの忍耐に学べ〟と命じています(5・11)。ヨブは不当と思える境遇の中で神を信頼しました。
「自分は正しい」という思いから不平は出てきます。ヨブも「なぜ自分がこんな目に合うのか。私は正しい者なのに」と主張したこともありました。しかし、神の前に悔い改めて、自己正義を取り下げて、神の正しさを信頼したのです。
自分の正しさは間違っているかも知れません。なぜなら、「人の怒りは神の義をまっとうすることはできない」からです(1・20)。人は、自分が正しいと思うので、怒ったり不平を言うのです。
自分の不確かな正義ゆえに不平を言うよりも、神の正しさ……神の義にこそ信頼すべきです。それが「ヨブの忍耐」です。そんな忍耐の結果は、神の豊かな慈愛とあわれみでした(5・11)。
完全な者となるその日まで、主にある忍耐力を働かせてください。

