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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヤコブの手紙 5章

2023年03月20日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 5章
主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
(5・7)


救われたクリスチャンが、神の子どもとして完全な者となるために……、

①御言を行うこと(1~2章)
②舌すなわち言葉を制御すること(3章)
③欲を制御すること(4章)
④へりくだること(4章)……でした。

最後に5章では、忍耐が必要であると教えています。

どのように忍耐するのでしょうか。「兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(5・7)。つまり〝農夫の忍耐に学べ〟というわけです。では、農夫の忍耐とはどのような忍耐のことでしょうか。

(1)自分のやれることと、やれないことを区別する。

農夫は収穫を得るために、田を耕し、種をまき、水をやり、雑草を取り除き、肥料をやります。しかし、農夫の手の及ばない領域があります。

種にはいのちが宿っていて実を結ぶ能力が備わっています。これは農夫の手の及ばない領域です。また、雨を降らすことも農夫の手の及ばない領域です。天にまかせるしかありません。このような、自分にできない領域のことを、あせって何とかしようとしても仕方がありません。

農夫は自分ができることと、自分ができないことを区別しています。自分ができない領域のことは忍耐して待つのです。農夫の忍耐とは、自分の力の及ばないことは神にゆだねるという忍耐です。

(2)自然界の法則に信頼する。

作物の種は、実を結ぶようにできています。それを疑ったら忍耐などできません。作物の種が実を結ぶのは、自然界の法則です。農夫は体験的にそれを心得ているので、忍耐して収穫を待ちます。

いのちあるものは必ず実を結ぶようになっているのと同様に、神は、霊的世界にも法則を用意なさっています。それは御言は種であるという法則です。

御言は種です。御言は種のように、実を結ぶ神秘的な力を宿しています。それを信頼するとき、忍耐が生まれます。

また、神が私たちの中に住まわせてくださった聖霊も、霊的な法則をお持ちになっています。それをいのちの御霊の法則と呼びます(ローマ8・2)

いのちの御霊の法則を信頼するとき、御霊(聖霊)は私の中にいのちの豊かな実りを結ばせるようになさいます。

御言と御霊は両輪のようにして、私たちを完全な者とするために実を結んで行かれます。御霊の働きがなければ、御言は単なる文字です。人を活かすのは文字ではなく霊です。聖霊は、御言をいのちの霊として、私たちの中で実を結ばせなさいます。

このように、御言と御霊に秘められた霊的な法則を信頼して忍耐します。

(3)すべての焦点を〝収穫〟に合わせる。

収穫に向けて農夫は忍耐します。それ以外のことで思い煩っていては、忍耐できません。脇目をふらず、主が終わりの時に結ばせてくださる平安な義の実の収穫に焦点を合わせます。

すべての焦点を、主の再臨の収穫の時にあ合わせるのです。周りと比較してはなりません。

脇目をふるなら……つまり、周囲との比較の世界に目を注ぐなら、不平不満のつぶやきが生れます。だから、「互いに不平を言い合ってはならない」と戒めています(5・9)

以上の三つが農夫の忍耐に学ぶことでしたが、次は〝ヨブの忍耐に学べ〟と命じています(5・11)。ヨブは不当と思える境遇の中で神を信頼しました。

「自分は正しい」という思いから不平は出てきます。ヨブも「なぜ自分がこんな目に合うのか。私は正しい者なのに」と主張したこともありました。しかし、神の前に悔い改めて、自己正義を取り下げて、神の正しさを信頼したのです。

自分の正しさは間違っているかも知れません。なぜなら、「人の怒りは神の義をまっとうすることはできない」からです(1・20)。人は、自分が正しいと思うので、怒ったり不平を言うのです。

自分の不確かな正義ゆえに不平を言うよりも、神の正しさ……神の義にこそ信頼すべきです。それが「ヨブの忍耐」です。そんな忍耐の結果は、神の豊かな慈愛とあわれみでした(5・11)

完全な者となるその日まで、主にある忍耐力を働かせてください。

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ヤコブの手紙 4章

2023年03月18日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 4章
何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
(4・1)


ヤコブの手紙は、救われて神の子どもとされたクリスチャンが完全な者となるための手紙です。先の第3章では、完全な者となるために、「舌(言葉)」の問題が取り上げられていました。そして、第4章では、「欲」と「へりくだり」のふたつのテーマが取り上げられています。

そこで、まずあなた方の争いや戦いはどこから来るのかと問いかけています(4・1)

人間関係における争いだけでなく、個人の内的な戦いも含まれます。この争いで私たちの魂(心)は傷つき、破壊されてきました。そこで、完全な者とされるために、魂がいやされ、魂の中に挑む争いや戦いの原因を御言によって対処します。

ヤコブ書は、その争いや戦いの原因はであると指摘しています。先の1章では欲がはらんで罪を生むとも指摘しています(1・15)

では「欲」は悪なのか。禁欲を奨励する宗教もあります。しかし、聖書は違います。欲は善でも悪でもありません。罪悪感を持ちながらご飯を食べますか。富を所有することや、夫婦の交わりに罪悪感がありますか。そんなことはありません。

神は、生きるための能力として、人に「欲」を与えてくださり、それを祝福しておられます。問題なのは〝過剰な〟欲です。ですから十戒の最後は、あなたはむさぼってはならないと教えています。貪るとは、欲に歯止めのかからない状態のことです。つまり、過剰な欲を戒めているのです。

求めても得られないのは、悪い求め方をしているからだと言われてるように、欲を正しく制御することが大切なのです(4・3)

エデンの園でも、神は「園のどの木からも取って食べなさい」と言われました。大いに食べなさいと勧められたのです。つまり、神は食欲を祝福なさっています。ただし、「善悪を知る木からは食べてはならない」と、欲に対する制御を与えられました。

神の御言が欲を制御する力です。

神は男女の性を祝福されました。生めよ増えよと命じられるほどに、神は性を肯定なさっています。性を否定的、禁欲的にとらえるのは聖書の教えではありません。しかし「姦淫してはならない」と、性欲に対して神の御言が制御するようになさいました。盗んではならないも、所有欲に対して神の御言が制御しています。

すべての欲を神は祝福なさっています。欲は悪ではありません。すべては自由です。しかし、そこに神の御言の制御を受け入れるのです。なぜなら、人は神の御言によって生きる者だからです。

さらにこう教えています。求めても得られないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ(4・3)。つまり、御言を基準にしないことが、すなわち悪い求め方です。御言を無視して悪い求め方をするのは世を友とすることになるのです(4・4)。この場合の〝世〟とは、御言の制御を失った世界のことです。

世は御言を無視する世界です。その世の基準で湧いてくる欲望は、私たちの人生に混乱を招きます。なのに、そんな世を友とする生き方をするなら、神は私たちに〝嫉妬〟なさいます。神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられるとはそういう意味です(4・5)

神と共に生きるために、神は人を創造し、霊を注いで霊的存在とし、聖霊さえも注いで「わが友」と呼ぶ関係なのに、その人間が世を友としているなら、神の心中たるや如何ほどでしょう。このようなわけで、神は私たちを「妬むほどに愛しておられる」のです。

救われた私たちが完全な者へと成長するために、欲を正しく働かせます。すると、その過程で「何を欲するか」が変化します。霊的幼な子は世に属する物を欲しますが、成長をとげ完全な者になるにしたがって、天に属するものを求めるようになります。それこそ祝福された〝欲望〟です。

さあ次です。完全な者へとなるためにへりくだりが大切です。4章6節以降を「へりくだり」を軸に読んでみましょう。

完全な者になるとは高ぶることではありません。逆です。へりくだるのです。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うのです(6)。自分をさも偉い者であるかのようにしているなら、悪魔に足をすくわれます。

自分が立派になったから悪魔に勝利できるのではありません。へりくだって神に従う者だから、悪魔は逃げ去るのです(7)。「へりくだり」は悪魔と戦うときの基本姿勢です。完全な者とは、この基本姿勢を身につけた者です。

9節の「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とは、へりくだりを身につけるためです。

でも、身を低くした神の子たちを、神は放っておかれません。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くしてくださるのです(10)。神によって高くされた者こそ完全な者です。

肉の力で立派にやっても、それは完全な者ではありません。神からすれば愚かな高ぶりに過ぎません。悪魔の攻撃にもろくも崩されてしまいます。11節以降は、その高ぶりについての戒めです。

念を押しますが、これは救われるための話ではりません。イエスを信じて救われた私たちが、成長した神の子どもとなるための話です。神の子たちが完全な者へと成長するためです。

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ヤコブの手紙 3章

2023年03月17日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 3章
もし、言葉の上で過ちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
(3・2)


神は見えないお方ですが、神は、御子イエスの全生涯をもってご自分を顕わされました。同じように、人の心も見えませんが行いによって現れます。信仰も見えませんが、信仰による行いによって現れます。

「愛する」ことも、これと似ています。愛する心は見えません。でも、愛していたら、やがて「愛しているよ」という告白になって現れます。プレゼントを贈るとか、親切にするとか……行いになって現れます。

「信仰」と「行い」は理論上では区別できても、実際は切り離せません。「信仰によって救われるなら、行いは不要なのか」などと屁理屈を言わないで、信じた者としての自然な生き方が大切です。

さて、先の第2章では、信仰による行いによって、私たちは神の子どもとして完全な者になって行くことを見ました。第3章では、その信仰による行いの核心部分が言葉と指摘しています。行いというと手足の成すことのように思いますが、根幹は〝舌が成す行い〟です。「舌」とは言葉のことです。この舌が言葉を発します。この舌(言葉)は、人生を左右するほど力があります。

大きな船でも小さな舵ひとつで向きを変えてしまいます(3・4)。それと同じように、舌も小さな器官ですが、人生の方向を大きく変えてしまいます。舵が大きな船の行き先を決めるように、私たちの人生という航海の行き先を私の舌が決めるのです。

まさに、舌は人生の〝舵〟です。

私の舌がどのような言葉を発するのか、それによって人生の方向性が決まってきます。愚痴っぽい言葉を発する人は、愚痴っぽい人生へと舵を切っているのです。喜びや感謝を告白する人は、喜びと感謝の人生へと舵を切っているのです。

だから「悪口」(4・11)とか「不平」(5・9)を言い合ってはならないなど、言葉についての戒めがなされています。祝福された人生へ舵を切るのか、破壊的な人生へ舵を切るのか。舵である舌(言葉)を正しく制御しなければなりません。
イエス様は言葉についてこう言われました。

「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、自分の言葉によって罪ありとされるからである。」(マタイ12・35~37)

表面上の言葉だけを注意したらよいという意味ではなく、心にあるものが口に出てくるのだと、主イエスは教えられました。つまり、言葉の出所である心が問題なのだ……と。

心は見えませんが、言葉となって現れてきます。心で信じている信仰も見えませんが、言葉になって現れてきます。ですから、大切なことは、私たちがどのように信じているか……です。

人生の方向性を決める舵のような言葉(舌)を、どのように管理すべきなのでしょうか。
 
(1)御霊による支配を受けよう。

心にあるものが言葉になって表れるのですから、私の内に神の御霊が住まわれることが最優先です。

イエス様は、私の中に内住なさるために、十字架で私の罪をきよめ、その後に聖霊として住まわれます。ですから、日々の祈りで、「聖霊様、どうか私の中で主人となってください」という祈りは欠かすことができません。

御霊の賜物の9つの内5つが、言葉に関する賜物であることは興味深いことです。「知恵の言葉」「知識の言葉」「預言」「異言」「異言の説き明かし」の5つです。御霊は私たちの舌を制御して、新しい言葉を与えてくださいます。

ペンテコステの日に聖霊がくだり、最初に現れたしるしが異言であったことも意味深いものがあります。それだけ、神は私たちの舌を用いようとなさっているのです。

私たちの舌を用いて福音を伝えようとなさっています。私たちの舌を用いて神のゆるしを世にあらわそうとなさっているのです。神の愛と恵みを世に示そうと、神は私たちの舌を用いたいのです。

ですから祈るのです。主よ、私の舌を聖霊によってご支配ください。主よ、新しい言葉を語れるように私の舌をご支配ください。

(2)人をほめるようにしよう。

神を讃美する同じ舌で、神の似姿である人を悪く言うのは矛盾しています(ヤコブ3・10)。だから、神をほめたたえた舌で、人もほめるようにしてみよう。

他者に対しても自分に対しても、長所を探すより欠点を探す方が得意なのは罪人の性質です。だからこそ、他者に対して、否、自分に対しても、長所を発見してほめるように努力してみてください。

(3)言いたいことを咄嗟に言わない。

ほんの数秒、言いたいことを待ってください。私たちの内に住まわれる聖霊は、「待て」「語るな」など、何らかの答えや感覚を、私たちの心に数秒の間に教えてくださいます。これは、肉の感覚ではなく、聖霊の感覚を信頼する訓練です。多くの場合、反射的に言った言葉は肉から出てくることが多いのです。

人は常に、外部からの何らかの刺激に反応しています。その刺激に対して肉が反応するのか、霊が反応するのか……どちらかです。聖霊を受ける以前は、肉の反応だけでやって来たのですから、そのような反応がすっかり馴染んでいます。

だから数秒間、聖霊が反応なさる時間を明け渡すのです。聖霊は、私の反応をきよめ、正しくし、言葉を導いてくださいます。

祈りましょう。聖霊様、私の舌をご支配ください。そのことによって、完全な者へと導いてください。

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ヤコブの手紙 2章

2023年03月16日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 2章
信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ……
(2・22)


ヤコブ書は、御言を行う人になりなさい(1・22)とか、行いのない信仰は何の役に立つだろうか(2・14)など、信仰の行いを強調しています。

しかし、私たちには「行い」に対する苦手意識があります。なぜなら、行いとは〝立派な〟行いだと思い込んでいるからです。そうではなく、注目すべきは立派な行いではなく〝信仰による〟行いです。

昔の話しです。1才になった息子をテーブルに立たせて、私の腕に飛び降りさせました。「さあ、おいで。ジャンプしてごらん」と手を広げて待ちかまえました。怖がっていた息子が、ついに父親を信頼して飛び降りました。もちろん、私もしっかりと受け止めました。

私は信頼して飛び降りた息子を嬉しく思いましたし、息子も父を信頼する喜びを味わったことでしょう。信仰も同じです。父なる神を信頼して行動に移すことを神は喜ばれますし、また、私たちの神への信頼も深まります。

このように、行いによって信仰が働きます(2・22)。行いのない信仰は宝の持ち腐れです。お金があるのに、減るのを恐れて使わずに、ひもじい生活をしているようなものです。

あの1タラントのしもべも、タラントが減るのを恐れて地に埋めてしまいました。そうではなく、2タラントのしもべと5タラントのしもべのように、タラント使うことを主は喜ばれます。

今日の聖句は、行いによって信仰が全うされると記しているように、信仰の行いは信仰を完成させるのです。こうして、神は、私たちが完全な者になることを願われるのです(1・4)

私たちはイエスを信じて神の子として新生しました。子が成長して立派に成人するのを親が誇らしく思うように、父なる神は、私たちが神の子どもとして完成することを願っておられます。

また、そのような私たちを、神は自慢なさりたいのです―これは人間的な言い方ですが―クリスチャンは、父なる神の「自慢の子」なのです。それはサタンに対しての自慢です。

主はある時、サタンに対して「ヨブのように潔白で、正しく、神を畏れ、悪に遠ざかる者はいないだろう」とヨブのことを誇られました(ヨブ1・8)

なぜ、神はサタン(悪魔)に対してそうなさるのでしょうか。

悪魔(サタン)は神に仕えるべき立場を守らず堕落した天使です。自分も神のようになろうとして神の敵対者になりました。悪魔は、被造者としてのあるべき姿を失った者です。分をわきまえない者です。

その悪魔に対して、神は御自身の血で買い取った神の子たちの完成した姿を示すことによって、悪魔をさばかれるのです。この神の子たちこそ、被造者としての真の姿だと……。

神の子たちの完成した姿の〝輝き〟をもって悪魔を滅ぼすことが神の方法です。闇を打ち破るのは腕力ではなく光です。悪をもって悪に報いるのではなく、善で報いるのです。これが神のなさり方です(Ⅱテサロニケ2・8)

その先陣を切られたのが御子イエスでした。

御子は神の栄光の輝きを見せてくださいました。御子は神の完全なあらわれです。御子の十字架の死に至る従順は、私たちへの模範としてだけでなく、悪魔に対しては悪魔を滅ぼすための栄光の輝きでした。

イエスは、十字架にかかられる前に、「父よ、私があなたの御そばで持っていた栄光で輝かせてください」と祈られました(ヨハネ17・5)。そして、あの悲惨な十字架を神の栄光となさったのです。

イエス様の十字架の姿は、人間の目にはみじめで何の栄光もない姿に見えたことでしょう。しかし、悪魔にはあまりにも眩しい光でした。あまりにも眩しい神への従順、あまりにも輝かしい神への謙遜と信頼を、悪魔は見せつけられたのです。

そして、その栄光の輝きによって悪魔はさばかれたのです。

悪魔は、御子が神の栄光で輝くのを見たくないので、イエスを誘惑しました。ゲッセマネの祈りの時も、「今なら逃げられるぞ!」……と。十字架上でも「十字架から降りて見よ。神の御子であるお前ならできるだろう」……と。

ヨブの妻が夫に対して、「こんなにみじめになってまでも神を信頼するのか。いっそのこと神をのろいなさい」と誘惑したのも同じです。

しかし、イエスは、たとえみじめな姿であっても、神の御心に従うことに忍耐されました。そして、それが神の栄光の輝きになりました。

この輝きのゆえに悪魔はさばかれ、その業は滅びました。「御子が来たのは悪魔の業を滅ぼすため」(Ⅰヨハネ3・8)であり、同時にその悪魔にと捕らえられていた私たちを救うためでした(ヘブル2・15)

だから、御子イエスからバトンを受け継いだ私たちにも、「完全な者になるために忍耐力を充分に働かせなさい」(ヤコブ1・4)とすすめ、「ヨブの忍耐に学びなさい」(同5・11)と励ましています。

このようにして神は、私たちを完全な者として輝かせようとなさっています。私たちを輝かせて、悪魔の業を滅ぼし、人々を救いに導くのが、私たちに託された神の使命です。

さあ、忍耐しつつ、信仰の完成を目指して、少しずつでも行動に移してみましょう。信仰は行いによって完成するのです。しかも、その行いは〝立派な〟行いではなく〝信仰の〟行いです。

それは救いのためではありません。完全な者へと成長するためです。イエス様も、御言を聞いて実行しなさいと言われ、それは岩の上に家を建てるようなものだとお教えになりました。御言を聞いて信じるなら救いを受けます。次に、その御言を実行して岩の土台とするわけです。

神は難しいことをせよと言われません。信じてやってみよと言われるのです。

シリアの将軍ナアマンは、ヨルダン川に七度身を浸しなさいと言われたことに腹を立てました。しかし、「難しいことを言われたのではい」と部下にさとされ、行動に移していやされました。

また、盲人をいやされたイエス様も、「シロアムに行って目を洗え」と言われただけでした。それほど難しいことではありませんでした。信仰をもって動き出してみましょう。

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ヤコブの手紙 1章

2023年03月15日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 1章
心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言にはあなたがたの魂を救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
(1・21~22)


ヤコブの手紙は冒頭から、あなたがたが、試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいものと思いなさいと勧めています(1・2)。試練を喜ばしいことと思えですって!? これは「やせ我慢」の勧めなのでしょうか。聖書は、肉の感覚……つまり、生まれつきの感覚からすれば、「えっそんな!」と思うようなことを命じてきます。

でも、静かに御言を黙想していくと、私の霊の感覚では神の御言を喜んでいるのを知るようになります。肉の感覚では御言に反発しているのですが、霊は喜んでいます。 ※普段は肉の感覚の方が前面に出ていて、霊の感覚とか内なる人の感覚が鈍くなっている。祈りとか瞑想の時間を大切にし、わが霊の声を聞く――それは御霊の声を聞くことにも通じる――習慣を身につけよう。

神の御言は生きていて、両刃の剣より鋭くて、私の肉の思いと霊の思いを切り分けます(ヘブル4・12)。肉の思いが朽ちて、霊の思いで生きるようになるために、神の御言は人の心をさぐられるのです。

さあ、試練を喜べとはどういうことですか。その第一の理由は、試練を通して信仰がためされて忍耐が生み出されるからです(1・3)。試練は、私がどのような信じ方をしているのかを明らかにします。

イエス様はペテロにこう告げられました。「サタンがあなたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。でも、私はあなたの信仰がなくならないように祈っている」(ルカ22・31~32)。この後に来るであろう試練を予告なさいました。

その後、ペテロは十字架の恐怖を前にして「イエスを知らない」と信仰を隠してしまいました。このことを通して、ペテロは、自分の熱心は肉の力であったことを痛感したのです。

ペテロはこの試練を通して、肉ではなく聖霊によって信じる道へと導かれました。試練を通して信仰がためされることによって、ペテロに本物の熱心……つまり忍耐が与えられたのです。

次に、試練を喜べと命じる第二の理由は、この〝忍耐〟を働かせることによって〝完全な者〟になるからです(1・4)

簡単でスピーディーなことを追及する現代社会で、忍耐は難しいものになってきました。サタンは現代人から忍耐を奪おうと躍起です。信仰があっても、忍耐を奪いさえすれば敵の思うつぼです。なぜなら、クリスチャンが忍耐を働かせて完成された者になることをサタンは最も恐れるからです。

だから忍耐を働かせよう。試練にあうと人はそれから逃げたくなります。ごまかしたり、曖昧にしたり、先送りしたくなります。また、それより手っ取り早い解決を選びたくなります。

そこで、試練から忍耐を生み出すための「知恵」が必要です。何の工夫もなく我慢せよというのではありません。忍耐を働かせるための知恵を、神は求める者に惜しみなく与えてくださいます(1・5)。どのような知恵なのでしょうか。

知恵の1……神にある身分を喜ぶ。(1・9~11)

世に属する身分が貧しいと、試練にあうと自己卑下に陥りやすくなります。どうせ自分は……と愚痴りたくなります。自己卑下や不平からは忍耐は生まれません。また、逆に、世の身分が富んでいると、プライドが忍耐のさまたげになります。神より富を信頼して、忍耐を見失います。地上の富は一時的であることを悟る知恵が必要です(11)

私たちの身分は「神の子」であり「神のしもべ」です。世では貧しくても、天における神の子どもとしての誇りを失いません(9)。また、世では富んでいても、天における神のしもべたる謙遜を失いません(10)。このような知恵が、試練の中で忍耐を生み出し、完全な者へと向かわせるのです。

知恵の2……試練誘惑は神から来たのではないと知る。(1・13~18)

誘惑(試練)にあったとき、これは神からものだといってはならないと戒めています(13)。問題が起きると、他者や環境のせいにしがちですが、問題の真相は自分の内にある「欲」です。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出すのです(1・14~15)

「欲は悪だ」と言うのではありません。欲は神が人にお与えになった生存本能です。人間が生きて行けるように、神は私たちに、食欲・物欲・性欲を授けてくださいました。問題は、欲が〝はらむ〟ようにして膨らむことです。つまり欲張りです。

「欲」は善にも悪にもなります。神の明るみの下で欲を満たそうとするなら祝福ですが、欲を神の前に隠して満たすなら―本当は隠すことなどできないが―罪を生み、死に至ります。

ですから、この誘惑(試練)は神からだと考えてはいけません。なぜならあらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくるのです(17)

神は良いものをお与えになる天の父です。そのような神のお立場に変更はありません。父には、変化とか回転の影とかいうものはないとは、そういう意味です(17)

一見よいものを与える神だが、角度を変えて見たら誘惑を与える神だ……というのではありません。どの方向から見ても、良きものを与える父です。この信頼を揺るがせてはなりません。そうでないと、試練を通して神に敵対する者になってしまいます。

※ヤコブ書では、試練とか誘惑は人間の欲張りから生じると説明しているが、「悪魔のわざ」だと説明する記録もある。ヨブ記が顕著な例である。祭司の庭におけるペテロの誘惑もそれである。また、ヨハネ黙示録では、患難期の試練は獣の働きとして描かれている。いずれも、神の大きな支配の中で起きている。つまり、どんな試練の中にも神は共に居られるのだと記している。

知恵の3……御言を行うチャンスだ。(1・19~27)

試練にあったとき、神の御言を聞くことを最優先しよう。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきであるとは、そのような文脈で述べられています(1・19)。試練の意味を講釈したり、怒ったりするのは後まわしです。

冒頭の聖句が示しているように、試練の時こそ御言を受け入れ、実行するチャンスです。それによって完全な者へと成長するからです。

つまり魂の救いに至るのです。

ここで、救いについて整理をして起きます。人は心・思考の領域)」からなっています。救いもそれぞれの領域においてなされます。

「霊」は信じて救われました。これを「義認」と言います。次に「魂」の救いが続きます。これは「聖化」です。そして、復活の時に朽ちない体を受けて「体」の救いへと進みます。これが「栄化」です。

ヤコブの手紙は、2番目の〝魂の救い〟を取り上げています。それは、魂(心・考え)がいやされ、正されることです。 ※霊の救いは信じることによってである。行いによらない。これが信仰義認である。次の魂の救いは御言を行うことによって完成する。

イエスを信じて、霊は救われて神の子の身分を受けました。しかし、心(魂)は歪んでいたり傷ついたままです。基本的(身分的・法的)には救われているのですが、歪んだり傷ついたままの心では、救いの喜びを味わうことができません。救われているのですが、考え方が悲観的であったり、悪魔的な思考法であったり、肉なる価値観でいるなら、救いの恵みは薄らいでしまいます。

そこで、神の御言は、私たちの心(魂)の領域を救うのです。つまり、考えの領域をいやし、正すことで、完全な者へと導くのです。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさいと勧めているのです(1・21)。なぜなら、御言には、あなたがたの魂を救う力があるからです(1・21)

ヤコブ書は、御言を聞くだけでなく、行いなさいと勧めています(1・22)御言を行う中で、私たちの傷ついた魂はきよめられ、いやされ、正されて行くのです。それがクリスチャンとして完成して行く道です。

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