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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記上 13章

2025年03月31日 | 列王紀
列王紀上13・34 この事はヤラベアムの家の罪となって、ついにこれを地のおもてから断ち滅ぼすようになった。

ソロモン王の息子レハベアムは権威主義的な政策をとったため、それに反発したイスラエル10部族は分離独立し、エフライム部族のヤラベアム(ヤロブアム)を王に擁立しました。この時からイスラエルは南ユダと北イスラエルに分裂し、いわゆる「南北朝時代」に突入するわけです。

以後、ダビデ~ソロモン~レハベアムと続く南王国は、ユダ族出身の王によって統治されます。構成部族はユダ部族とベニヤミン部族で、南ユダ王国と呼ばれました。首都はエルサレムで、神殿はこの街に建てられていました。

かたや、ヤラベアムを擁立した10部族からなる王国は、北イスラエル王国と呼ばれ、首都はサマリヤでした。

南ユダ王国の権威主義的な政策に反対した北イスラエル王国は、その反動によって自由主義的な政策をとりました。それが顕著に現れたのが宗教政策でした。

人々の信仰の拠り所である神殿は南王国のエルサレムにあったため、北王国のヤラベアムは、民の宗教心をつなぎ止めるために、独自の神殿を建築し、独自の宗教様式を形成して行きました。

神殿がエルサレムに建てられたのは、そこを「わが名を置く町」と神が定められたからでした。しかし、ヤラベアムはそれに反して、自分に都合の良い神殿を建築しました(12・25~30)。

また、祭司職も律法によればレビ族出身でなければなりませんでしたが、ヤラベアムは一般の民を祭司に任命してこれに当たらせました。祭の日も、神が定めた7大祭とは別の祭を考案し、民衆の心をつかもうとしました(12・31~33)

権威主義の反動として現れるのがこのような自由主義です。現代のキリスト教会もこの両方の狭間で混乱しています。

権威を取り違えて、肉の力で支配することで教会を保とうとします。誤った権威主義です。この場合、肉なる支配力が教会をおおうので、聖霊の自由な働きが妨げられてしまいます。

一方、肉なる権威主義に傷ついた人々は、その反動で何でも自由にやろうとします。ヤラベアムが自分勝手な神殿や祭司職や祭を作り上げたように、主日の礼拝を軽んじたり、牧師職を軽んじたりするのですが、それも行き過ぎです。仕えることを基礎とする権威と秩序の回復……これが必要です。そのために祈らなければなりません。

さて、ヤラベアムが行ったわざは、神の目には罪となりました。

地元のベテルとダンに神殿を建てたので、わざわざエルサレムまで行かなくて済むので便利になりました。人々には好評でしたが、神の目には罪でした。便利さが、返って、真の神礼拝を妨害することを忘れてはなりません。

一般の民が祭司になれるようにしたことで、祭司職は身近になりましたが、祭司職としての使命観は薄れていきました。そのことで神殿祭儀は世俗化し、堕落しました。このことは神の目には罪でした。気軽さや妥協が、返って、真の神礼拝をゆがめることを忘れてはなりません。

ヤラベアムによって北イスラエル王国にもたらされた自由主義は、霊的混乱をまねき、ついには、真の神を礼拝すべき神殿で、異教の神々を祀(まつ)るようになったからです。

これらのことはヤラベアムの家の罪となったと、聖書は記しています。そして、彼の家系はこの地から絶やされることになるのです。

私たちは、このヤラベアムが行ったような自由主義の轍(わだち)を踏んではなりません。また逆に、南ユダ王国のレハベアムのように、権威主義の轍も踏んではなりません。

祈りましょう。主よ、仕えることによる真の権威を回復してください。私たちが仕えることによって、神の国の権威と秩序を回復することができますように。


列王記上 12章

2025年03月29日 | 列王紀
列王紀上12・7 彼らはレハベアムに言った、「もし、あなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば、彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう」。

ソロモン王の死後、その子のレハベアム(レハブアム)が王位につきました。ソロモン王の時代は、民に対して苦役や重税がのしかかっていたようで、新しい王の即位に際して、人々はその軽減を願って陳情にやってきました。

さあ、どうするのか。ソロモン王の路線を引き継ぐのか、それとも新しい路線へと転換するのか。

レハベアムは長老たちの意見を聞きました。その時の提言が今日の聖句です。

もし、あなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば、彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう。

王に対して、「民のしもべとなって仕えるなら……」と進言しています。とても大胆ですばらしい提案でした。偉くなりたい者は仕える者になりなさいと言われたキリストの言葉を思い起こさせます。

しかし、レハベアム王はこの進言を受け入れず、同世代の友人たちの意見に従い、父ソロモン以上に厳しい支配体制を押し進めることにしたのです。

いったい権威とは何なのでしょうか。力ずくで民を支配することが権威ではありません。なのに、王をはじめ上に立つ多くの人々が勘違いしています。

仕えることが権威の源泉です。

イエス様は権威について次のように語られました。長くなりますが引用します。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。

かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、しもべとならねばならない。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20・25~28)

私たちはイエス様が権威あるお方であることを認め、主こそが神の御国の王にふさわしいお方であることを認めるのは、イエス様が十字架の死に至るまでも私たちに仕えてくださったからです。

地上の世界では、悪魔によって権威がゆがめられています。力ずくで支配することが権威であるかのごとく誤解されています。どうか、正しい権威が回復されますように……。正しい権威のあるところに秩序も回復するのです。

神の国の権威は、仕えることによって成り立ちます。まずはじめに、王であるイエス・キリストが仕えてくださいました。そのイエスこそが神であると認め、権威を認め、私たちも仕えます。こうして、神の国の秩序は仕える者たちによって成り立って行きます。

列王記上 11章

2025年03月28日 | 列王紀
列王紀上11・4 ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。

第11章はソロモン王の晩年の様子です。あれだけ知恵に満ちた王であったはずですのに、彼の心は神から離れてしまいました。

失敗が悪いわけではありません。いいえ、失敗のない人などひとりもいません。大切なことは失敗したとき、悔い改めて神に立ち返ることができるかどうかです。

ソロモンの父ダビデは失敗の多い人でした。しかし、ダビデのすばらしいところは、彼の政治手腕でもなく、軍人としての戦術能力でもありませんでした。失敗しても、幼な子のように悔い改めて神に立ち返る人であったことです。

しかし、ソロモンは、父ダビデのように神に対して真実ではありませんでした。つまり、あやまちを悔い改めて神に立ち返る素直さに関しては、父ダビデのようではありませんでした。

新改訳ではこの箇所を、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全くひとつになっていなかったと訳しています(新共同訳も同じ)主とひとつになるとはどういうことでしょうか。それは、主なる神と同じ心になるという意味です。

神は、もともと人間を「神に似せて、神のかたちに創造なさった」のです。しかし、アダム以来、罪が人類に入り込んでしまい、その似姿はゆがめられ、こわされてきました。

知恵に満ちたすばらしいソロモンではありましたが、主と同じ心になることができませんでした。その原因は、アダムの場合と同様に罪の成せる業です。

今日の聖句にも記されているように、ソロモンがめとった妻たちによって、彼の心は他の神々に向いてしまったのです。

そもそも、ソロモンが多くの妻をめとったことに問題がありました。王の後継者を確実に得るために、一夫多妻制度は当時の王たちにはよく見られたことですが、神の国の方法は違います。

また、同盟関係を保つために他国から妻をめとることも当時の常套手段でしたが、神の国の方法ではありませんでした。他国からめとった妻によって、他国の偶像礼拝を持ち込むことになりました。妻たちによってソロモンの心が他の神々に向けられたのは、そのためでした。

他の神々――それは「神」とは呼ばれているが偽りの神――に心が向くとき、人は主なる神と心をひとつにはできません。夫婦以外の異性と関係があるなら、夫と妻が心をひとつにできないのと同じです。

私たちの心がイエス様とひとつになれないとすれば、その原因は何でしょうか。イエス様以外に、神のように慕っているものがあるからです。

神と富と両方を主人にすることはできません。一方を尊びもう一方を疎(うと)んじるからですと、主イエスが言われたとおりです。お金を神のように慕っていると、お金を基準とした心が養われて、その心はイエスとひとつにはなれません。地上における地位とか名誉を神のように慕い崇拝しているなら、その人の心はイエスとひとつになれません。

それらは大切ですが、主人とすべき存在ではありません。私たちが主人とするのは主イエス・キリストだけです。それらは大切ですが、決して礼拝の対象ではありません。私たちが礼拝すべきはイエス・キリストだけです。

何故、神は偶像礼拝を禁じておられるのでしょうか。それは、私たちが神と心をひとつになることを妨害するからです。

祈りましょう。私たちの心が、イエス様の心とひとつとなることができますように。具体的には、私たちの心が、神の御言に似た心になることです。主よ、御言の通り、私の身に実現しますように……。


列王記上 10章

2025年03月27日 | 列王紀
列王紀上10・23~24 このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。

第10章には、シバの女王がソロモン王の名声を聞きつけ謁見(えっけん)したことが記されていますが、シバの女王をはじめとする各国の王たちは、ソロモンの富と知恵を求めて訪れました。

栄華をきわめたソロモンと称されるように、イスラエル史上最高の時代を迎えていました。

さて、ソロモン王の収入は1年間に金666タラントと記されていますが(10・14)、金(きん)22・7トンに相当します。計算すれば……どうですか。すごい金額です。※金1㎎5千円で計算して1トンで50億円。かける22・7トンですから、1千135億円の年収。

彼の時代には、種々の器具や細工はみな金製であったため、銀は顧みられなかったとも記されているほど、あふれんばかりの富でした(10・21)

これは、神の栄光で富む天国の予型です。真の栄光と富は天にあります。ソロモンとその王国は、神の御国の栄光を表すために、ほんのわずか用いられただけです。 ※「666タラント」との表記は不完全な富を表す。

ですから、やがてその栄華は衰退して行きます。ソロモンの死後、王国は分裂し、衰退の道をたどるのですが、すでに、ソロモン王の時代にその萌芽は出はじめていました。

ソロモンは富においても知恵においても最高の領域に到達した人です。しかしその結果、ソロモンが得た結論は何だったでしょうか。彼は「伝道の書」でこう記しています。

伝道者は言う、空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。(伝道1・2)

私は酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。(同2・3)

私はわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。(同2・11)

栄華をきわめたソロモンは、知恵と富におぼれて空(むな)しさを覚えていたのです。

人は、多くを得ようと熱心になり、多くを持とうと貪(むさぼ)中で、神を主人とする生き方から、富を主人とする道へと踏みはずし、空しさによって身を震わすことになります。

空しいとは、文字のごとく「空(から)っぽ」です。地上の富で満たされているようだが、それは空っぽです。地位や名誉を得ても、実際は空(から)っぽであれば、それは空(むな)しいのです。

大切なことは、得ることではなく、用いることであり、持つことではなく、正しく管理することです。用いる知恵、管理する知恵を神に祈り求めよう。


列王記上 9章

2025年03月26日 | 列王紀
列王紀上9・6~7 あなた方、またはあなた方の子孫が背いてわたしに従わず、わたしがあなた方の前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。

すでに、宮(神殿)とは天の模型だと申し上げました。それは、天において私たちが神と共に住まう至福を教えるための模型です。

天では、真の神への礼拝が標準です。天で他の神々といわれる偽りの神が礼拝されるなどあり得ないことです。真の神との親しい交わりのあるところ。そこが神殿です。そこに、他の神々を迎え入れる余地は1ミリたりともありません。神への最大の罪は、神以外のものを神とすることです。これが偶像礼拝です。

ヨハネの黙示録に記された神の御怒りは、何に対する怒りですか。それは、神ならぬものを神とする偶像礼拝者と、その背後にあって、自らを神とするサタンに対する御怒りではありませんか。このように、神との真実な交わりを破壊するもの……それが偶像礼拝なのです。

偶像礼拝を神殿に持ち込んではならない。それを持ち込むなら、イスラエルの民をこの地上から滅ぼすと、今日の御言は述べています。たとえ高価で荘厳な装飾をほどこした神殿であっても、神は惜しげもなく、それを投げ捨てると言われました。

残念なことに、後の時代になると人々は神殿に偶像を持ち込み神殿を汚しました。そこで、神は、バビロン軍を用いて神殿とその民イスラエルを滅ぼしてしまわれました。

この列王紀は、そのバビロンの捕囚から帰還した民のために記された書物です。同じ轍(わだち)を踏むことのないようにと、過去の失敗を書き記した書物です。

そのことは、新約のクリスチャンに対する警告でもあります。神の血であがない、きよめられた自分自身を汚してはなりません。不品行や偶像礼拝によって、自らの身を汚してはなりません。なぜなら、私たちは神の神殿だからです。

もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。(Ⅰコリント3・17)

神の宮(神殿)とされた自分自身を破壊するようなことをしてはなりません。

男女関係においてきよさを保ってください。お酒やタバコで自分の身を汚さないでください。みだらな交わりや会話によって心を汚してはなりません。また、自己卑下によって自分自身をおとしめることも、神の宮を汚すことです。

悔い改めて、自身を神の神殿として保つことができますように。

列王記上 8章

2025年03月25日 | 列王紀
列王紀上8・27 神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。まして私の建てたこの宮はなおさらです。

7年の歳月を経てエルサレムに神殿が完成しました。第8章は、神殿を神に奉献する様子が記されています。冒頭の御言は、奉献にあたってソロモンがささげた祈りです。

ソロモンは、天来の知恵によって、この神殿に神が直接住まわれるのではないことを悟っていました。神は偉大な方です。だから、天もいと高き天も神をお入れすることはできないと祈りました。 ※「いと高き天」は新改訳では「天の天」と翻訳。

とは、空(sky)とか宇宙空間(space)のことです。宇宙がどれほど広大な空間でしょうか。宇宙の端から端まで光の速度で137億年以上を要すると言われています。しかし、そんな広大な宇宙にもお入れすることができないほど神は偉大なお方です。

次のいと高き天とは、霊界の天(Heaven)のことです。宇宙がいかに広大であっても有限の世界です。しかし、霊界の天はもっと広大です。といっても、物質界のSpaceと霊界のHeavenを物理的な基準で比較することはできません。次元が異なるからです。そのようなHeaven(天)にも入れることができないほど、神は偉大なお方です。

そこで疑問が生じます。神は天にお住みではないのですか。「天にましますわれらの父よ」と祈るではありませんか。

正確には、神は、ご自分の住む場所として天を創造なさったのではありません。住む場所がなければ、存在できないような神ではありません。

逆に、住む場所が必要なのであれば、それはもはや神ではありません。神は〝自存者〟なるお方です。自ら存在なさる神です。

かつてモーセに対して、神は「わたしは〝あってある者〟」とご自分を証しされました。英語では「I am who I am」というお方です。わたしは〝ある〟という者だと宣言なさっています

ですから、神はご自分の住む場所を用意するために天(Heaven)を創造なさったわけではありません。神は、ご自身の栄光を表現なさるために、天とその中の万物を創造なさったのです。

芸術家が作品を通して自分を表現するように、神は、ご自分の栄光とか聖なることとか、また愛とか義であることなどを表すために万物を創造なさいました。そして、その主役にご自分の御子なるイエス・キリストをお立てになったわけです。

だからこう記されています。

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。コロサイ1・16)

その御子であるイエス・キリストが天を治められるにあたり、私たち人間も、この御子と共にその栄光ある務めにあずかるようにと、神は人間をお定めになりました。

この天がいかに栄光に富んだ所であるか……今の私たちの想像をはるかに超えるものに違いありません。そんな、天の情景を表すために、神は地上に天の模型である神殿を建てるようになさいました。神殿は天の模型です(ヘブル8・5)

天がいかに栄光に富んだ場所であるかを、神殿は表しています。天で、神が人類と共に住まわれることの祝福がいかにすばらしいものであるかを、神殿は表現しています。

このようなわけで、ソロモンが奉献した神殿は、天における御心が完成するまでの暫定的なものです。ましてや、その天の模型である神殿に、神をおいれすることなどできません。

そこで、神殿には神の御名が置かれました。神の御名が置かれた所……それは、神がおられるのと同じ意味をなします。

私たちがイエスの御名によって集まるとき、そこにイエスが共におられると約束されたように、神の御名があるところに、神が共におられるのです。

ですから、神の御名が置かれた神殿に神は共におられて、昼も夜も目をそそぎ、耳を傾けておられます。だから、こう記されています。

わたしはあなたが建てたこの宮(神殿)を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。(列王上9・3)

ある日、私は病院の待合室で読書しながら、自分の名が呼ばれるのを待っていました。他の人の名が呼ばれても気にもせず読んでいましたが、自分の名が呼ばれるとすぐに反応しました。このように、自分の名に、耳も目もそそがれています。

同じように、神はご自分の名のあるところに全神経を集中なさっているのです。自分の名が置かれている神殿に、日夜、目をそそぎ、四六時中、耳を傾けておられます。

ですから、私たちが神の御名によって祈るとき、神はその祈りを全神経を注いで聞いてくださるのです。私たちがイエスの御名によって行動をおこすとき、神は共におられて最大限の関心をもって見守り、ご自身の栄光を表してくださるのです。

新約の時代に、神の名は神の御子を通して表されました。その御名は「イエス」です。

あなたはイエスの御名を受けておられますか。イエスを信じるとは、イエスの御名を受けることです。イエスという神の御名を受けた人は、その人自身が神殿です。イエスの御名によって集まる教会、そこが神殿です。イエスの御名が置かれているところに神がおられるのです。

イエスの御名を讃美します。神が共におられて、私たちと親しく住まわれる栄誉を感謝します。


列王記上 7章

2025年03月24日 | 列王紀
列王紀上7・1 またソロモンは自分の家を建てたが、十三年かかってその家を全部建て終った。

さて、第7章では、ソロモンが自分のための家(王の宮殿)を建設したことが記されています。神のための神殿に7年の歳月を費やしたわけですが、自分の家のためには13年を費やしました。

自分のためには、神のこと以上に時間も資金も費やすソロモンの姿から教訓を学ばなければなりません。ソロモンは、決して不信仰な人ではありませんでした。歴代の王たちの中で、彼ほど知恵に富み、平和をもたらした王は他にいません。

しかし、神を第一とする姿勢から離れつつありました。チョットしたほころびから、やぶれはひどくなるものです。

この王宮建築で、ソロモンは彼がめとったパロの娘たちのための家も建てています。このことが、やがて王国の禍根(かこん)なります。禍根とは、読んで字のごとく禍(わざわい)の根です。

彼は、エジプトの王パロ(ファラオ)の娘を娶(めと)りました。政略結婚です。隣国の大国エジプトと同盟を結ぶことで、小国イスラエルの安泰をはかったわけです。当時の世界ではよくなされたことですが、神の国の方法ではありません。

一般的には当たり前の政策であり、後のイスラエルにおける安全保障政策の屋台骨になって行きます。しかし、このことで、神を信頼するより、目に見える大国のご機嫌を伺う民へと変質してしまいます。

最初から大きな罪を犯す人はいません。こんな小さなほころびが、やがてイスラエルの国を引き裂き、滅亡へと導くのです。小さな罪の恐ろしさは、その罪がいつまでも小さいままではないことです。

雑草は小さい内なら根からゴッソリと抜くことができますが、大きくなって根が張ってしまうと、抜いたつもりでも根が残っています。すると、その根から、また出てきます。

罪もこの雑草に似ています。根を残して〝禍根〟としないためにも、小さな内に根から抜いてしまう人は幸いです。


列王記上 6章

2025年03月22日 | 列王紀
列王紀上6・7 宮は建てる時に、石切場で切り整えた石をもって造ったので……。

今日の聖句は、神殿建設の材料になる石材は、あらかじめ切り整えられたので、建築中には槌(つち)などの工具の音がしなかった……と述べられている箇所ですが、前半の「石材が切り整えられた」ことに着目しようと思います。

先の5章では、旧約時代の神殿は石材で建設されたが、新約における神殿は、イエス・キリストを信じた者たちによって構成されるキリストの体であることを見ました。つまり、私たち自身が、神殿の〝材質〟です。神殿の各所の石材となって組み合わされて行くわけです(Ⅰペテロ2・5~6)

そのような石材の最も重要な箇所……つまり、隅(すみ)のかしら石がイエス・キリストです。人々からは無用な石として捨てられるようにして十字架で死なれたイエス様が、実は神殿の重要なかしら石となってくださったわけです。

私たちも、このかしら石であるイエスを中心に、神殿の〝生ける石〟となって組み上げられて行きます。その際、神は、石材である私たちを〝切り整えられる〟のです。

イエスを信じる以前の私は、岩山の中で埋もれていました。そんな私を見出してくださり、救ってくださいました。

救われた頃の私は、山から切り出されたままの無骨な岩でした。それを神殿にふさわしい材質へと、神は切り整えられます。私の生来の肉の性質を砕くことによって、神は私を切り整えられます。

私たちは、神の取り扱いを通して〝切り整えられる〟という経験をだれもがします。ある人は苦手な人間関係の中で取り扱われます。また、ある人は、仕事上の失敗を通して、また、ある人は病気や怪我を通して取り扱われます。

つらく厳しい現実を通して切り整えられた者は、神の神殿を建て上げるための栄誉を受けるのです。すべては神殿の完成を目指して進んでいます。霊と真とをもって礼拝する者たちによる世界の完成に向かっています。

あのフィラデルフィアの教会に対する預言を思い出してください。勝利を得る者を、私の神殿の柱としよう黙3・12)と約束なさったではありませんか。何という光栄でしょうか。神による今の取り扱いを感謝しよう。苦難の中にも恵みを発見しよう。
 

列王記上 5章

2025年03月21日 | 列王紀
列王紀上5・5 わが神、主の名のために宮神殿を建てようと思います。

いよいよソロモン王は神殿建設に着手しました。父ダビデ王が建設しようとしたのですが、その使命は子のソロモンに託されました。神も、「あなたの身から出る子が神殿を建てる」と預言なさったとおりです。

神が、人と共に永遠に住まう場所を用意する……このテーマは、聖書全体をつらぬくご計画です。

ダビデの子であるソロモンが神殿を建てましたが、それは、父なる神の御子であるイエスが、真の神殿を建てることの「預言」でもあります。

イエス様は、物質で造られた神殿に対して、「これをこわしたら、わたしはそれを三日目に建てる」と言われましたが、それはイエス・キリストご自身の体のことでした(ヨハネ2・19~21)

神は、このイエス・キリストの体の中で、神と共に永遠に住まう場所を用意なさったのです。そのご計画をふまえながら、ソロモンによる神殿建設を見て行くとき、示唆に富んだ教えを学ぶことができます。

さて、ソロモンは王国の中心が神殿であることを確信していました。政治的手腕によってでもなく、軍事力によってでもなく、神殿を中心に神の国は建て上げられて行きます。

私たちは、主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈ります。その御国の中心は神殿です。つまり、神への礼拝が中心です。中心である礼拝が疎(おろそ)かになるとき、神の国は立ち行かなくなります。

「列王紀」と「歴代志」には、神殿における神礼拝の重要性が説かれています。両書物は、イスラエル王国およびユダ王国が滅んで、バビロン捕囚から帰還した民が国を再建するにあたって記された書物です。

そして、何故かつての王国は滅んだのか。その原因は神殿を汚したからだ ――すなわち神への礼拝を軽んじたからだ―― と教えているのです。

「御国が来ますように」と祈る私たちは、霊と真によって礼拝する神殿を建て上げます。何故なら、御国はそのような礼拝者の国だからです。

最後にもうひとつ。ソロモンによる神殿建設にツロの王ヒラムの協力があったと記録されています。

こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、材木と石とを宮を建てるために備えたのです(5・18)

イスラエル人だけで建設されたのではありませんでした。異邦人の王とその人々が共に協力して建設されました。

それは、やがて新約の神殿である教会が、ユダヤ人と異邦人という「隔ての中垣」を取り壊して、主にある「新しい人」となって建て上げられる様子を預言するかのような出来事でした(エペソ2・13~15)

様々な違いを乗り越えて、イエスにある新しい人として、神の住まわれる、神の御名が置かれる神殿を建て上げるために、私たちは召されているのです。
 

列王記上 4章

2025年03月20日 | 列王紀
列王紀上4・29 神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。

先に、神はソロモンに天来の「知恵」をお与えになったことを見ました。今日の聖句では、海辺の砂原のような広い心を授けられたと記していますが、その広い心の中身を探ることにしましょう。

(1)違いを認めることのできる心

イスラエルの王国は12部族から成り立っていました。同じ神を信じてはいますが、考え方や性格は様々です。そんな違いを認めながらも、ひとつの国としてまとめて行くには、違いを認める心が必要でした。

新約における「キリストの体」としての教会も同じです。身体の各器官(肢体)はみな違います。異なる器官が組み合わさっているのが体です。神が、教会を身体にたとえられたのは意義深いことです。私たちの身体は実に不思議です。各器官のはたす機能がまったく違うにもかかわらず、ひとつの体として一致して機能しているのです。

それを、可能にするのは、ソロモンが与えられたような「海辺の砂原のような広い心」です。

とはいえ、何もかも妥協してしまうことではありません。

私たちの身体には免疫があって、外部からの侵入者から身を守るために抵抗します。そのように、教会の交わりにも免疫力がなければなりません。

イスラエルの王国が、創造主なる神の御名のもとにひとつとなったように、キリストの身体の教会も、主イエス・キリストを礼拝するために構成されます。

この成り立ちを破壊する外部からのウイルスに対して戦います。私たちの礼拝を破壊するような人物、思想、価値観などに対しては、免疫力が働かなければなりません。

(2)忍耐できる心

ソロモンは統一王国をもたらしたものの、各部族の違いや権力争いは燻(くすぶ)っていました。でも、そんなもめごとも、やがて神の御名のもとにひとつとされることを信じて忍耐する心です。

残念ながら、ソロモンによる王国は未完で終わってしまいました。やがてキリストによって建て上げられる王国の栄華のほんの一部を、ソロモン王によって垣間見たに過ぎませんでした。

新約の私たちも、御国の完成を目指しての途上です。各自の「違い」がそれを妨げる要因になっていたとしても、御霊によってひとつとされる時が来ることを忍耐する心が求められます。

教理によってひとつになろうというのではありません。それでは延々と神学論争が続くだけです。趣味や好みでひとつになるのでもありません。御霊によってひとつになります。

神から生まれたものは、同じ神からの御霊を受けているので、それができるはずです。御霊に従順する心でひとつとなることができますように。その時に至るまで忍耐する心で待ちます。


列王記上 3章

2025年03月19日 | 列王紀
列王紀上3・5 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。

あなただったら何を求めますか。地上の富ですか。それとも世の成功に至る能力とか技術でしょうか。また、肉体の健康を求める人もいます。何を求めるかは、その人の価値観で決まります。

イエスを訪ねた金持ちの青年は、「永遠のいのちを得るには何をすればよいですか」と質問しました。彼は永遠のいのちを求めたわけです。

しかし、自分の財産を放棄せよというイエスの教えにつまずき、悲しみながら去って行きました。ということは、この青年の価値観は、結局は地上の富だったわけです。

たとえば、有名なキリスト教の牧師を招いて、「永遠のいのちを得るために」と題して教会でセミナーを開いたとしましょう。

ところが、同じ日時にお隣の公民館では ――私たちの教会の前には公民館がある―― 「お金持ちになるための七つの法則」といった題で、著名な経済アナリストを講師に招いて講演会が開かれたら、どちらに多く集まるでしょうか。

言わずとしれたことです。人々の考えは地上のことが最優先です。

だからこそ、物事の本質を見抜く目が必要です。それを判断する知恵が必要です。ソロモンは地上の富でもなく、長寿でもなく、権力や武力でもなく、自分が王として治めるための知恵を求めました。

そこで主は次のように語られました。長くなりますが引用します。

「そこで神は彼に言われた、『あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。

わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう
』」
(3・11~13)


どんなに豊かな富を得たとしても、それを活かす知恵がなければ、人は富によって滅びます。どんなにすばらしい環境を手にしたとしても、環境がその人を幸せにするのではなく、それを活かす知恵です。

私たちには、地上で養った知恵がありますが、それは偏(かたよ)った知恵です。神を認めない、人間中心の知恵です。だから、私たちの古い考えが一新されて、神からの知恵を求める必要があります。

聖書はこう勧めています。

「あなた方は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」ローマ12・2)

古い考え方は葬られ、御言が私の考えや知恵となって、私たちの心は一新されて行きます。こうして心を新たにすることで、何が神の御旨であるかを知る知恵を得ます。何が善であり、神に喜ばれることかを知る知恵を得ます。

祈りましょう。主よ、あなたの御言が私の考えとなるようにしてください。あなたの御言が、私の知恵となるようにしてください。


列王記上 2章

2025年03月18日 | 列王紀
列王紀上2・4 心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば……、

王位についたソロモンは、父ダビデの時代に悪を重ねてきた者たちに対する処罰がなされました。この処罰を通して、神の御国に相応(ふさわ)くないことは何かを考えてみましょう。

(1)アドニヤの場合

彼は油注ぎを無視して、自分が王になろうとしましたが、ソロモンが王に即位するや、幕屋に逃げ込んでいのち乞いをしてゆるされました。しかし、彼の悔い改めは上辺だけのものでした。彼の言動にも、本来なら自分が王であるのにと、ソロモンが王であることへの不満があらわれています(2・15)

アドニヤは、父ダビデの妻アビシャグ ――彼女はダビデの晩年に嫁いだので若かった―― を自分の妻にしたいと願い出ました。この申し出には、再び王位を狙うための下心が隠されていました。

下心のある者は神の国に相応しくありません。自分が中心になろうとする下心……それは、神を認めず、自分が神の座につこうとするサタン的な罪につながります。

(2)ヨアブの場合

彼はダビデ王に仕えた将軍ですが、これまでたびたび、王の意志にそむいてダビデを窮地に追い込んできました。ここぞという時に、自分の肉なる考えで動いたのです。

ダビデ王が和平交渉を進めていた矢先に、ヨアブは敵軍の将アブネルを暗殺しました。先の戦争で自分の弟を殺したアブネルに復讐をはたしたわけです。

また、アブサロムによるクーデター後の収拾のために、ダビデ王はあえてアブサロム側のマアサを将軍職に就けたのですが、ヨアブはそれを不服としてアマサを暗殺しました。

王国を平和的に確立しようとしたダビデの方針に逆らい、ヨアブは憎しみと恨みに動かされて、不要な血を流してきました。ヨアブは、軍人としては長けていましたが、自分の心にわき上がる肉の思いを支配することができませんでした。

この肉の思いを治めなければ、「神の御国」を建てあげることは難しくなります。ヨアブ的な考えを十字架につけて葬る必要があります。

(3)シメイの場合

アブサロムの反乱によって都を追われたダビデ王に罵詈雑言ばりぞうごん)をもって呪ったのがシメイでした。やがて、ダビデ王が闘いに勝って凱旋(がいせん)するや、シメイは先の非礼を詫びて許しを得たのでした。

彼の悔い改めは真実ではありませんでした。ダビデ王が統治する期間は神妙(しんみょう)にしていましたが、息子のソロモン王の時代になると、再び侮りの心が芽生え始めました。表向きは反省しているが、内実は不誠実。従順に見えて、内面は不真実な男です。

このような不誠実は神の国に相応しくありません。

冒頭の聖句にあるように、神の御前で私たちは、「心をつくし、精神をつくして真実をもって」歩むのです。それが神の御国に相応しい生き方です。
 

列王記上 1

2025年03月17日 | 列王紀
列王紀上1・39 祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、油をソロモンにそそいだ。

イスラエルに統一王国をもたらしたダビデ王でしたが、その後の王位継承を明確にしないまま晩年を迎えてしまいました。そのことから、少なからず国内に混乱が生じたのです。

王の子たちには、それぞれ王位を継承する可能性がありましたが、第四子のアドニヤは、自分が王になろうと立ち上がりました。アドニヤによるクーデターです。

ダビデ王の承認も得ずに、なぜこのような愚行に及んでしまったのでしょうか。しかも、ダビデ王の側近である将軍のヨアブと祭司アビヤタルもこれに追随したのです(1・7)

アドニヤに進言できる知恵者はいなかったのでしょうか。

「ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう』と言って、野心をいだき」と記されているように(1・5)アドニヤの高ぶりから生じた愚行でした。

しかもアドニヤは、彼の父(ダビデ)は彼が生れてこのかた一度も『なぜ、そのような事をするのか』と言って彼をたしなめたことがなかったとあるように、叱られずに育った人です(1・6)

王子ゆえに周りからはチヤホヤされて、高慢な人間に育ったのだろうと思われます。

ダビデは、国を治める王としては立派でしたが、家庭を治める父親としては失敗の多い人物でした。まさに、「むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす」のです(箴言29・15)

さて、かねてから次期の王と目されていたのはソロモンでした。そこで、ダビデは王位をソロモンに継承させるために、ソロモン王の即位式を早急に執り行わせました。

イスラエルの王に即位するときには必ず油を注ぎました。ソロモンはこの慣例に則って油注ぎを受けて王となりました。しかし、アドニヤは、この油注ぎを受けていません。ここに大きな違いがあります。

油を注がれた者」。これをヘブル語で「メシヤ」、ギリシャ語で「キリスト」と呼びます。神は、油注がれた者を通して、ご自身の働きをなさいます。以後、列王紀には何人もの王が登場しますが、油を注がれた者でなければなりませんでした。

何のために油を注ぐのでしょうか。それは聖別するためです。幕屋の器具にも聖なる油を注いで聖別しました。聖別とは神のために用いる器として〝区別する〟ことを意味します。幕屋で仕える祭司も、聖なる油を注いで神の働きのために、一般の人々とは区別しました。このように、神のご用のために区別することを聖別と呼びます。

イスラエルの王という立場は、決して自分の支配欲を満たすものではありません。自分のやりたいことをやるために王になるのではありません。神の働きをするためです。真の礼拝者からなる神の御国を建て上げるという神の御業のために神は王に油を注いで聖別なさるのです。

ところが、アドニヤは自分の虚栄心を満たすために王となろうとしました。自己実現の野望の果てのクーデターです。彼は、油注ぎを受けた者ではありません。神の働きのためには、神の油注ぎが必要である所以(ゆえん)はここにあるのです。

旧約の時代は、特別に調合されたオリーブ油が注がれましたが、新約の時代には、聖霊が注がれる時代です。聖霊を受けた者は、自分のための人生ではなく、神の御国のために聖別された人です。

新約の時代のクリスチャンは、聖霊を受けて世から区別された者です。聖霊を受けた者は、「もはやこの世の者ではない」と言われたイエスの宣言を思い起こしてください(ヨハネ17・16~18)

私たちは神の御国の者です。天に属する者です。その自覚と誇り、そして神が立ててくださったという謙遜をもって働くことができますように祈ります。
 

サムエル記下 24章

2025年03月15日 | サムエル記
サムエル記下24・25 ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。

ある時、ダビデ王は全国の人口調査を実施したのですが、このことで神の大きな御怒りを受ける事になったと聖書を記しています。それは、神を信頼することよりも、国勢調査のデータをもって安心を得ようという不信仰に対する怒りだと思われます。

隣国の軍事力に対して自国はこれだけの軍備がある。だから、安心だ。裏をかえせば、こんな数では不安だ……ということにもなります。万軍の主である神が共におられることを忘れています。

ただ、神が「民を数えるように」と仕向けられているのに(24・1)、それを実施したことを怒られるのは矛盾しています。こう考えてみましょう。不安に駆られたダビデは国勢調査をしきりに切望し、神はそれを容認なさったのでしょう。

側近たちも、ダビデのことを不審に思っているのですが、王は彼らを説き伏せてまで、この調査を実施しています(24・3~4)。しかし、その調査が進む中で先に指摘したように、ダビデの心に傲慢の罪が露わになり、神はそれを怒られたのではないだろうか。

悔い改めたダビデは、神の御怒りを鎮めるために、預言者ガドの言葉に従って、エブス人アラウナの打ち場に祭壇を築くことにしたのです(24・18)

「打ち場」とは穀物を打って脱穀する場所のことで、小高い丘になっていました。実は、この丘が、後のソロモン王が神殿を建設する丘になったのです。

アラウナは王の要請を快く引き受け、土地を無償で差し出そうとするのですが、ダビデ王はこれを断り、正式な支払いをして神に献げるのだと主張します。こう記されています。

いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。私は費用をかけずに燔祭を私の神、主に献げることはしません。(24・24)

神も、正式な支払いをもって、罪人である私たちを神のものとなさいました。その支払いとは金や銀よりもはるかに尊い、神の小羊なるイエス・キリストの血潮でした(Ⅰペテロ1・18~19)

金銭で換算できないほどの尊い支払いを、神は、なさったのです。私たちも何らかの犠牲をもって主にお応えしたいと思うのです。私たちのささげる礼拝は、そのような私たちの心からの献げ物です。

さて、ダビデによって買い取られた「アラウナの打ち場」には祭壇が築かれ、やがて時を経てここに神の御名を置くための神殿が建設されます。神を信頼せず、人の数を信頼した罪を悔い改めたこの場所に、神殿は建設されるのです。

私たちの真実な礼拝も、人や富の数を頼りとせず、まことの神を信頼する信仰の〝丘〟の上に建てられるのです。

さて、最後に書き加えておくべきことがあります。本来なら先の23章でサムエル記が終われば文書としては収まりが良いです。23章はダビデの遺言とダビデの部下たちの武勇伝で締めくくられているからです。

ところが、この24章でダビデの失策が記されて、サムエル記は終わっているのです。サムエル記の最後にあたって、ダビデの失敗を機に祭壇を築く場所としてアラウナの打ち場が確保されたことを記録することで、それがやがて後の神殿建設への布石となるようにしたのでしょう。

聖書はダビデを誉めたたえるための書物ではないからです。人々を神への真実な礼拝へと向かわせる書物なのです。


サムエル記下 23章

2025年03月14日 | サムエル記
サムエル記下23・3~4 イスラエルの神は語られた、イスラエルの岩は私に言われた、『人を正しく治める者、神を恐れて、治める者は、朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のように、地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。

いよいよサムエル記も終わろうとしています。筆者はその終わりにあたって、今日の聖句を、ダビデ王の「最後の言葉」として記録しています。それは預言の言葉です。

「預言」は「予言」ではありません。未来を占うという意味ではなく、神からの言葉を〝預かって〟語ることが預言です。

そういう意味で、ダビデ王は預言者でもあったわけです。ダビデ自身も告白しているように、主の霊はわたしによって語る、その言葉はわたしの舌の上にあるのです(23・2)

ですから、彼が残した多くの詩篇は預言の歌でもあります。詩篇を読み進めるときに、その預言的内容は霊的な示唆に富んでいます。

さて、ダビデを通して語られた預言の言葉は、人を正しく治める者、神を恐れて治める者は……と述べています。 ※新改訳では「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は……」。

ダビデ王としては最後の言葉です。後に続く王たちが神の御国にふさわしく統治するための重要な教訓が残されています。

近隣諸国では、自分の思うがまま野望の実現のために突き進む王ばかりの時代にあって、ダビデは神の御国の王として……、

① 義をもって治める。
② 神を畏(おそ)れて治める。


この2つを挙げました。これは、国という大きな世界だけのことに限らず、会社でも、教会でも、家庭でも同じことです。

今、世界は自由化の流れの中で混乱しています。多くの人々が自由をはきちがえています。あまりに自由なため、逆に、何をして良いのかわからないほどです。

基準を失った自由はもはや混沌です。

第一に、義をもって治めるとあるように、義とは基準です。神が満足なさる正しさの基準、神が納得なさるきよさの基準です。

神の義は、人の義とは水準が違います。人の義は要するに自己正義です。この自己正義という義が、不用意に人をさばき、愛のない批判をあびせ、無責任に他者を責めるのです。だから、「まず神の国と神の義を求めよ」と言われた主イエスの御言に従おう。

第二は、神を畏れて治めることです。今の時代は、神への畏れを失った時代です。汚職や不正。性の乱れや堕胎。偽装や偽証。公文書改ざんや証拠の捏造。あげれば切りがありません。あまりにも畏れを知らない人のなせるわざです。

ここにも、自由とは名ばかりの、畏れを失った混沌たる世界があります。神を畏れることは知識のはじめです(箴言1・7)神を正しく畏れることは、人の本分であり、基本です。

敬虔とは「正しく畏れる」ことです。そして、その敬虔は信仰の奥義であると聖書が記していることは注目に値します(Ⅰテモテ3・16)

祈りましょう。行き過ぎた自由な世界に、神の義神への畏れが回復しますように天では、その義と畏れがなされています。天でなされている義と畏れが、地上でもなされますように……。