士師記6・12 主の使いは彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
士師記は再び悲しい記録から始まります。「イスラエルの人々はまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを7年の間ミデアンびとの手にわたされた」(6・1)。
懲(こ)りないですね。でも、これが罪人の姿であり、私の姿です。危機に直面すると、「主よ助けてください」と呼び求めるのですが、調子がよくなると、主なる神を忘れてしまうのです。
そんな私たちに対して、なおも忍耐と哀れみをもって共に歩んでくださる神の慈愛の記録……それが士師記です。
そのようなわけで、ミデアン人の支配下で人々は苦しんでいました。第6章で登場するギデオンも、ミデアン人を恐れて細々と農業を営んでいる男でした。しかし驚くべきことに、神はそんなギデオンを士師としてお選びになりました。
彼が大きな酒ぶねの中で麦を打っていたのは(6・11)、ミデアン人が襲撃しては作物を収奪して行くので、隠れて作業をしていたのです。そんな臆病で小心者のギデオンに、主の御使いは、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と語りかけました。 ※新改訳では「勇士よ」との呼びかけだが、口語訳では「大勇士よ」。
小心者のギデオンが大勇士ですって?。神の御言は現実とかけ離れています。
しかもギデオンは不信仰です。「主が共に居られるのなら、どうしてミデアン人に苦しめられるのですか」と、主に不平をぶつけています。「神がいるならどうして戦争が……、どうして悲惨な事件が……」と文句をつける私たちと同じです。
しかも、「主が私たちをお見捨てになったからだ」と、責任を神に押しつける始末です。イスラエルの民が主を捨てて、異教の神々を拝むようになったことを棚に上げて、よくも言えたものです。でも、そんな恥ずかしいことを、私たちも言っているのです。
そんなギデオンですが、神は彼を「大勇士」と呼んでくださいます。現実は大勇士とはとても言えない状況なのですが……。
人はこう言います。「聖書はそう言うけれど、現実は違うんだよ」と。彼らの理屈は現実が真理なのです。いいえ、神の御言が真理です。神の御言は、私たちを「大勇士よ」と呼ぶのです。なぜなら、神が共におられるからです(6・12)。
神の御言が、ギデオンのセルフイメージを変えはじめました。それまでのギデオンがいだくセルフイメージは、「何もできない臆病者」でした。
皆さんは、イエス様に出会う以前、どんなセルフイメージをいだいていましたか。ギデオンのように否定的なセルフイメージだったでしょうか。あるいは、逆に、自分はできる人間だというセルフイメージでしょうか。後者は肯定的で良さそうですが、高慢ゆえに神を否定するかも知れません。
いずれにせよ、悪魔が私たちに刷り込んだセルフイメージは、否定的にして奈落の底に落としたり、肯定的にして神をも認めない傲慢をいだかせて、散々おだて上げてから突き落とします。
神の御言によって養われたセルフイメージこそ、健全なセルフイメージです。
神は、ギデオンが臆病者であることをご存知なかったのでしょうか。彼が不信仰な者であることをご存知なかったのでしょうか。いいえ。よ~くご承知の上でギデオンを選ばれたのです。
主イエス様は、私の弱さも、卑怯なことも、怠け者であることもご存知の上で、牧師としてお選びになりました。これは紛れもない事実です。しかし、その事実がすべてではありません。
「神が共に居られる」という最も重要な事実を忘れてはいけません。神が共に居られるので、私は大勇士です。罪の力に勝利できる大勇士です。悪魔の誘惑を退けることのできる大勇士です。
士師記は再び悲しい記録から始まります。「イスラエルの人々はまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを7年の間ミデアンびとの手にわたされた」(6・1)。
懲(こ)りないですね。でも、これが罪人の姿であり、私の姿です。危機に直面すると、「主よ助けてください」と呼び求めるのですが、調子がよくなると、主なる神を忘れてしまうのです。
そんな私たちに対して、なおも忍耐と哀れみをもって共に歩んでくださる神の慈愛の記録……それが士師記です。
そのようなわけで、ミデアン人の支配下で人々は苦しんでいました。第6章で登場するギデオンも、ミデアン人を恐れて細々と農業を営んでいる男でした。しかし驚くべきことに、神はそんなギデオンを士師としてお選びになりました。
彼が大きな酒ぶねの中で麦を打っていたのは(6・11)、ミデアン人が襲撃しては作物を収奪して行くので、隠れて作業をしていたのです。そんな臆病で小心者のギデオンに、主の御使いは、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と語りかけました。 ※新改訳では「勇士よ」との呼びかけだが、口語訳では「大勇士よ」。
小心者のギデオンが大勇士ですって?。神の御言は現実とかけ離れています。
しかもギデオンは不信仰です。「主が共に居られるのなら、どうしてミデアン人に苦しめられるのですか」と、主に不平をぶつけています。「神がいるならどうして戦争が……、どうして悲惨な事件が……」と文句をつける私たちと同じです。
しかも、「主が私たちをお見捨てになったからだ」と、責任を神に押しつける始末です。イスラエルの民が主を捨てて、異教の神々を拝むようになったことを棚に上げて、よくも言えたものです。でも、そんな恥ずかしいことを、私たちも言っているのです。
そんなギデオンですが、神は彼を「大勇士」と呼んでくださいます。現実は大勇士とはとても言えない状況なのですが……。
人はこう言います。「聖書はそう言うけれど、現実は違うんだよ」と。彼らの理屈は現実が真理なのです。いいえ、神の御言が真理です。神の御言は、私たちを「大勇士よ」と呼ぶのです。なぜなら、神が共におられるからです(6・12)。
神の御言が、ギデオンのセルフイメージを変えはじめました。それまでのギデオンがいだくセルフイメージは、「何もできない臆病者」でした。
皆さんは、イエス様に出会う以前、どんなセルフイメージをいだいていましたか。ギデオンのように否定的なセルフイメージだったでしょうか。あるいは、逆に、自分はできる人間だというセルフイメージでしょうか。後者は肯定的で良さそうですが、高慢ゆえに神を否定するかも知れません。
いずれにせよ、悪魔が私たちに刷り込んだセルフイメージは、否定的にして奈落の底に落としたり、肯定的にして神をも認めない傲慢をいだかせて、散々おだて上げてから突き落とします。
神の御言によって養われたセルフイメージこそ、健全なセルフイメージです。
神は、ギデオンが臆病者であることをご存知なかったのでしょうか。彼が不信仰な者であることをご存知なかったのでしょうか。いいえ。よ~くご承知の上でギデオンを選ばれたのです。
主イエス様は、私の弱さも、卑怯なことも、怠け者であることもご存知の上で、牧師としてお選びになりました。これは紛れもない事実です。しかし、その事実がすべてではありません。
「神が共に居られる」という最も重要な事実を忘れてはいけません。神が共に居られるので、私は大勇士です。罪の力に勝利できる大勇士です。悪魔の誘惑を退けることのできる大勇士です。
これが、神の御言に裏付けられたセルフイメージです。
ギデオンは手のひらを返したように、勇敢な人になったわけでも、急激に信仰深くなったわけでもありません。「大勇士よ」と呼びかけてくださる神の御言によって、少しずつですが、正しいセルフイメージをいだき始めたに過ぎません。
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