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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

士師記 6章

2024年11月30日 | 士師記
士師記6・12 主の使いは彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。

士師記は再び悲しい記録から始まります。「イスラエルの人々はまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを7年の間ミデアンびとの手にわたされた」(6・1)

(こ)りないですね。でも、これが罪人の姿であり、私の姿です。危機に直面すると、「主よ助けてください」と呼び求めるのですが、調子がよくなると、主なる神を忘れてしまうのです。

そんな私たちに対して、なおも忍耐と哀れみをもって共に歩んでくださる神の慈愛の記録……それが士師記です。

そのようなわけで、ミデアン人の支配下で人々は苦しんでいました。第6章で登場するギデオンも、ミデアン人を恐れて細々と農業を営んでいる男でした。しかし驚くべきことに、神はそんなギデオンを士師としてお選びになりました。

彼が大きな酒ぶねの中で麦を打っていたのは(6・11)、ミデアン人が襲撃しては作物を収奪して行くので、隠れて作業をしていたのです。そんな臆病で小心者のギデオンに、主の御使いは、大勇士よ、主はあなたと共におられますと語りかけました。 ※新改訳では「勇士よ」との呼びかけだが、口語訳では「大勇士よ」。

小心者のギデオンが大勇士ですって?。神の御言は現実とかけ離れています。

しかもギデオンは不信仰です。「主が共に居られるのなら、どうしてミデアン人に苦しめられるのですか」と、主に不平をぶつけています。「神がいるならどうして戦争が……、どうして悲惨な事件が……」と文句をつける私たちと同じです。

しかも、「主が私たちをお見捨てになったからだ」と、責任を神に押しつける始末です。イスラエルの民が主を捨てて、異教の神々を拝むようになったことを棚に上げて、よくも言えたものです。でも、そんな恥ずかしいことを、私たちも言っているのです。

そんなギデオンですが、神は彼を「大勇士」と呼んでくださいます。現実は大勇士とはとても言えない状況なのですが……。


人はこう言います。「聖書はそう言うけれど、現実は違うんだよ」と。彼らの理屈は現実が真理なのです。いいえ、神の御言が真理です。神の御言は、私たちを「大勇士よ」と呼ぶのです。なぜなら、神が共におられるからです(6・12)

神の御言が、ギデオンのセルフイメージを変えはじめました。それまでのギデオンがいだくセルフイメージは、「何もできない臆病者」でした。

皆さんは、イエス様に出会う以前、どんなセルフイメージをいだいていましたか。ギデオンのように否定的なセルフイメージだったでしょうか。あるいは、逆に、自分はできる人間だというセルフイメージでしょうか。後者は肯定的で良さそうですが、高慢ゆえに神を否定するかも知れません。

いずれにせよ、悪魔が私たちに刷り込んだセルフイメージは、否定的にして奈落の底に落としたり、肯定的にして神をも認めない傲慢をいだかせて、散々おだて上げてから突き落とします。

神の御言によって養われたセルフイメージこそ、健全なセルフイメージです。

神は、ギデオンが臆病者であることをご存知なかったのでしょうか。彼が不信仰な者であることをご存知なかったのでしょうか。いいえ。よ~くご承知の上でギデオンを選ばれたのです。

主イエス様は、私の弱さも、卑怯なことも、怠け者であることもご存知の上で、牧師としてお選びになりました。これは紛れもない事実です。しかし、その事実がすべてではありません。

神が共に居られるという最も重要な事実を忘れてはいけません。神が共に居られるので、私は大勇士です。罪の力に勝利できる大勇士です。悪魔の誘惑を退けることのできる大勇士です。

これが、神の御言に裏付けられたセルフイメージです。

ギデオンは手のひらを返したように、勇敢な人になったわけでも、急激に信仰深くなったわけでもありません。大勇士よと呼びかけてくださる神の御言によって、少しずつですが、正しいセルフイメージをいだき始めたに過ぎません。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 6章 【聖書通読】
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士師記 5章

2024年11月29日 | 士師記
士師記5・3 もろもろの王よ聞け、もろもろの君よ、耳を傾けよ。私は主に向かって歌おう、私はイスラエルの神、主をほめたたえよう。

女預言者デボラと将軍バラクは、カナン人の王ヤビンとその将軍シセラに打ち勝つことができました。それはイスラエルの実力による勝利ではなく、主なる神が共に戦ってくださったからでした。

第5章は、その勝利を主に感謝する歌です。

主は、どんな戦いにおいても、人の力で勝利できたのではないことを見せてくださいます。だからこそ、私たちは主を賛美せずにはおれないのです。

今回の戦いもそうでした。賛美の歌はこう告げています。イスラエルの四万人のうちに、盾あるいは槍の見られたことがあったか(5・8)

イスラエルには武器といえるようなものは、ほとんどない状態でした。片や敵対するカナン軍は鉄製の武器をはじめ戦車900両を持つ強固な軍隊でした。どう見ても、勝算のない戦いでした。

でも、主が共に居られるなら大丈夫です。

以前のイスラエルは、主から離れてしまった結果、カナン人に支配された20年を経験しました(4・3)。しかし、悔い改めて主に立ち返るとき、まともな武器もないにもかかわらず勝利できました。

このことを通して、弱小民族のイスラエルであっても、主が共に居られるのなら大丈夫だということを、彼らは学ぶべきでした。そして、主を第一として、主を礼拝することの大切さを学ぶべきでした。

新約の時代でも同じです。5つのパンと2匹の魚があれば大丈夫。それがイエス様の御手の中にあるとき、5千人以上の人々が空腹を満たすことができたのですから……。

イエス様はこう言われます。わたしの力は、あなたの弱い所に完全に現れるのだ(Ⅱコリ12・9)

このことを学ばせるために、神は、不信仰なイスラエルが敵に攻撃されるのを痛恨の思いで見守っておられます。そんな時こそ、「主が共に居られるのだから大丈夫」という信仰に立ち返ろう。


士師記 4章

2024年11月28日 | 士師記
士師記4・8 バラクは彼女に言った、「あなたがもし一緒に行ってくだされば、私は行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません」。

「士師記」という書名の由来を述べておかなければなりません。士師とはヘブル語の「シャファト(さばく者)」を漢字表記で訳したものです。古代中国において刑罰をくだす役人のことを士師とよんだことからこの語が適用されました。ですから士師のことを、別名さばきつかさとも呼びます。

古代イスラエルは王政ではなく、神の律法に従う各部族の共同体として存在していました。神である主こそが王ですが、見えない王であるゆえに、人々は時として求心力を失って堕落して行きました。

そこで、神は「士師」を召して、イスラエルを悔い改めに導き、神に立ち返るようになさいました。この士師が活躍している間は太平を保つのですが、残念なことに、士師が不在だと民は堕落し、敵に支配されることの繰り返しです。

このイスラエルの愚かな姿は、私たちの姿でもあります。イスラエルの民は、神の栄光のために用いられることもあれば、人間の愚かさの見本としても用いられることもあります。彼らの失敗に学ぶ者でありたいと思います。

さて、初期の頃に士師として召された人物は、ケナズの子オテニエル(40年の太平)、ゲラの子エホデ(80年の太平)、アナテの子シャムガルでした。この3人の活躍は第3章に記録されていました。

つづいて女預言者デボラが召されました(4・4)。主なる神はデボラに命じて、バラクを将軍に任命して、カナン軍と戦うために戦場に行くようになさいました(4・6~7)

将軍に任命されたバラクは心細かったようです。「どうぞ一緒に(戦場に)行って下さい」と、デボラの出陣を願いました。

デボラが一緒に行かなくても、神が、「ヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手にわたす」と言われるのですから、その〝御言と一緒に〟行けば良いのです(4・7)

御言があるとき、主が共におられます。御言が一緒に行ってくだされば、それは主が共に行ってくださることです。

ところが、将軍バラクは、目に見えない神の御言では頼りなく思えて、目に見える士師デボラが同行してくれるなら心強いと思ったのです。

信仰にも、見て確認する段階もあれば、見ないで信じる段階もあります。見ないで信じることを神は求められますが、恵み深い主は、バラクの申し出を受け止めてくださり、この戦いに勝利させてくださいました。ただし、敵軍の将を討ち取る栄誉は、バラクには与えられないと言われています(4・9)

主は、私たちが見ないで信じる信仰へと成長するようにと、忍耐強くつきあってくださる神です。祈りましょう。信仰の弱い者ですが、どうか御言を信じて踏み出す勇気を与え続けてください。

さて、この戦いの敵軍の将であるシセラについて述べておきましょう。彼は戦車900両という強固な軍事力を誇っていました。しかし、実際の戦いでは、この戦車から飛び降りて、徒歩で逃げ出してしまう始末です(4・15)

さらに、シセラは人脈を頼ってケニ人へベルのもとに逃げ込みます(4・17)。ところが、へベルの妻ヤエルによって殺害されてしまいました(4・21)

強固な軍事力も人脈も助けてはくれませんでした。目に見えるものに頼るのか、それとも神の御言に信頼するのか。第4章は、そのような問いかけを投げかけています。


士師記 3章

2024年11月27日 | 士師記
士師記3・1 すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。

神のご計画は、この地に神の御国をお建てになることです。その御国を通して、神の栄光を全世界に照らそうとなさっています。そのために、神はイスラエルを選び、御国のために用いられるのです。

ですから神は、カナンの地から偶像礼拝の民を除き去れとイスラエルに命じられたわけです。しかし、イスラエルは徹底的に除き去らなかったため、禍根を残すことになりました。

禍根とは〝わざわいをもたらす根〟のことですが、雑草を根っ子から抜かないと再び生えてくるように、偶像礼拝の民を残したことで、イスラエルはその悪影響を受けて堕落してしまいました。彼らは、あなた方にとって、わなとなり、落とし穴となり、あなた方のわき腹にむちとなると預言された通りになりました(ヨシュア23・13)

このように、偶像礼拝の民を追い出さず、残しておいたのはイスラエルだったのですが、今日の聖句は、主が残しておかれた国民は……(3・1)とあります。つまり、〝主が〟残されたのです。目的をもって、主はそうなさったのです。それは、後の世代を試みるためだと言われます(3・1)

神は、私たちを無菌室で純粋培養するのではなく、あえて罪や悪の働く世界で訓練し育てます。「試みるため」とは、「訓練するため」という意味です。

子どもが自転車に乗れるように練習しますが、親は倒れそうになっても見守ります。痛みを経験して上手に乗れるようになるためです。そのように、神はあえて、私たちが失敗することをおゆるしになります。

罪による痛みや悲しみを知ったからこそ、神の救い、神のきよさが分かります。偶像礼拝の民が残っていることは、一面では失敗ですが、もう一面では、神の救いを経験する〝教材〟となります。

カナンの地から偶像礼拝者たちを滅ぼしつくさなかったことは、イスラエルの失敗であることには間違いありませんが、神はあえて、その失敗を教材として用いられるのです。成功にも失敗にも、良いことにも悪いことにも、主なる神の御手があるのです。主の御手の中にあることを感謝しましょう。

そうは言うものの、あやまちの結果を刈り取ることはつらいことです。でも、その痛みを通して、神に立ち返ることを学びます。神に立ち返る恵みを学ばせるために、神はあえて、私たちがあやまちをおかすことを容認され、その結果の痛みを受けるようになさいます。

イスラエルの人々はそれを学ぶ必要がありました。そして、私たちも学ぶ必要があります。主の愛の訓練として受け取る者は幸いです。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 3章 【聖書通読】
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士師記 2章

2024年11月26日 | 士師記
士師記2・10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

先のヨシュア記は勝利の記録でしたが、この士師記は勝利のあとの堕落と悔い改めの記録です。

私たちの人生で、信仰の勝利を味わうこともあれば、堕落と敗北を味わうこともあります。しかし、そのような死の谷の陰を歩むような時にも、主はのがれの道を用意なさっています。士師記はそんな教訓を与えてくれます。

さて、ヨシュアに導かれて勝利を得たにもかかわらず、イスラエルの民が堕落して行った原因は何だったのでしょうか。

そのひとつは、第1章にも記されていたように、偶像礼拝の民を追い出さなかったからです。そのため、異なる神々を拝む人々の習慣や価値観が、神の民の中に忍び込んで来たのです。

もうひとつの原因は、新しい世代に信仰の継承(けいしょう)がなされていないことです。新しい世代は、主を知らない世代だ、主がイスラエルになさったことを知らない世代だと、今日の聖句は指摘しています(2・10)

先の世代の人々……つまり、ヨシュアにひきいられてカナンに入ってきた当時の人々は、主が成してくださったことを目の当たりにしました。そして、その経験は父から子へと語り継がれたのでしょう。

では、どうして信仰の継承が途中で途絶えてしまったのでしょうか。

ひとつには、信仰は自動的に継承できるものではないからです。自分が体験したキリストを後生に語り継ぐことと同時に、その証しを聞いた者も、それを自分のこととして体験して行くことが必要です。

信仰は聞くことから始まります。だから語り継ぐことは重要です。しかし、聞いてそれを体験することによって、信仰は自分のものになって行きます。聞いているだけでは、それは〝先祖の信仰〟であって、自分の信仰にはなりません。

かつて、出エジプトして間もない頃、イスラエルの人々は、モーセを通して神の御声を聞きました。それは、「カナンの地に入ってそれを支配せよ」という御言でした。

しかし、イスラエルの先祖は、せっかく聞いた神の御言を体験しようとしませんでした。聞き従わなかったのです。それは、聞いた御言が、信仰によって結びつけられなかったからだと聖書は説明しています(ヘブル4・2)

聞いた御言を、信仰によって結びつけるとは、

①自分に語られた言葉として聞くこと、
②従うべき神の命令として聞く
……ということです。


聖書の御言を昔話としてではなく、神が私に語りかけてくださっている命令として聞くとき、神の御言は信仰になります。そして、その御言は私に結びつき、私の体験となります。

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【一日一章】 朝マナ 士師記 2章 【聖書通読】
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士師記 1章

2024年11月25日 | 士師記
士師記1・19 主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。

士師記は、カナンの地に入ってからイスラエル初代の王サウルの登場までの約400年間 ――学者によっては年数が異なる―― の出来事が記されています。ヨシュアの死後、イスラエルは各部族からなる共同体として、カナンの地を支配するのですが、王による中央集権国家ではありませんでした。

イスラエルにとって王とは主なる神です。民が神に聞き従うとき平和が保たれるのですが、神に背を向けるとき、他民族の攻撃や支配に苦しむといったことが何度もくり返されます。

ヨシュアにひきいられてカナンに入った当時、イスラエルの人々は信仰に燃えていました。神から与えられた嗣業(しぎょう)の地を、神の栄光の現れる国にすることが、イスラエルに与えられた使命でした。

しかし、それを妨害する働きもあります。それは、外側からは異教の民による攻撃や影響であり、内側からはイスラエルの不信仰と堕落でした。このことでイスラエルの民は悪戦苦闘します。そして、その戦いは、今日の私たちの姿でもあります。

さて、イスラエルの各部族は、それぞれ受け嗣(つ)いだ地を完全に支配できていませんでした。つまり、偶像礼拝の民がまだ残っていたのです。

第1章には、住民を追い出さなかったという記録がくり返されていますが、イスラエルの人々は、神の命令に徹底できていなかったわけです。その原因は何だったのでしょうか。

今日の聖句は、イスラエル民族の中のユダ部族の取り組みが記されています。

彼らは山地を支配することができました。それは、主が共に居られたからです。しかし、平地を支配することができませんでした。その理由は、敵が鉄の戦車を持っていたからだと記しています。

どういうことでしょう。神が共に居られるのに、鉄の戦車を持っている敵には勝利できないのでしょうか。 ※戦車とは馬に引かせて戦う馬車。槍や剣が装備された当時最強の兵器であった。

そうではありません。ユダ族の人々は、鉄の戦車を持っている敵に対しては恐れをなして、主が共に居られることに信頼できなかったので、闘うことができなかったのが真相です。

自分の力で何とか対処できると思える敵(問題)に対しては神に頼るが、自分の手には負えない敵(問題)に対しては、さすがの神でも打ち負かすことができないと思って、神により頼まない……。こんな態度を、私たちはしていないだろうか。

私たちは、自分にできそうもないことは、神もできないと思いやすいのです。そうではありません。逆です。人にできないことも、神にはできるのです(ルカ18・27)

敵が強いか弱いかで態度を変えるのをやめよう。問題が大きいか小さいかで態度を変えるのをやめよう。敵(問題)が大きかろうと、小さかろうと、神が共に居られるなら同じです。

自分で対処できそうな敵だと、勝利の兆候が見えるので、もうちょっとだと思って、「主よ助けてください」と祈るが、何の兆候も見えないと、不可能だと思って祈らないという態度ではいけません。

これは、共に居られる神を信頼しきっていない態度です。勝利の兆(きざ)しがなくても、「神にはできる」と信じて祈り求めるのです。

ユダ族の人々は、鉄の戦車を持っている敵には無理だと思って、戦おうとしませんでした。そして、そのことがやがて妨害となり罠となりました。

私たちは、この問題は無理だと思って放置していることはないだろうか。その放置した問題(敵)が、やがて信仰生活の妨害となり罠となってしまっていないだろうか。

自分には解決できなくても、神にはできます。祈って、神に対処していただこうではありませんか。

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ヨシュア記 24章

2024年11月23日 | ヨシュア記
ヨシュア記24・23 あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。

ヨシュアの遺言説教は続きます。

父祖アブラハムから今日に至るまで、主なる神が成してくださった恵みを顧みています。今あるのは、主が与えて下さった恵みであることを忘れてはならないと語られています(24・1~12)

自分たちが労しなかった土地を受け、自分たちが労しなかった家、作物、富を得ている。これは主が与えて下さったのだと語られています(24・13)

この恵みを忘れて、自分の力で成し遂げたと思う傲慢から堕落が始まります。

新約聖書でも、こう告げられています。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、何故もらっていない者のように誇るのか」(Ⅰコリ4・7)

すべてを与えてくださっている神を忘れることが傲慢です。

だから、私たちはすべての根源である神を礼拝します。礼拝とは、すべてが神のものであるとの告白です。自分さえも自分のものではなく、神よ、あなたものですと告白するのが礼拝です。この礼拝を忘れると人は傲慢におちいります。

だから、主なる神への礼拝を第一としよう。

ヨシュアは、何度も偶像礼拝を警告しています。神ならぬものを神として礼拝すること……これが偶像礼拝です。そしてヨシュアは、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさいと命じました(24・23)

今日のクリスチャンが神社・仏閣に詣でて意図的に拝むことなどしないでしょう。むしろ気をつけるべきは、冒頭の聖句が指摘しているように、私の内にある偶像異なる神々です。

主イエス以上に頼りにしているもの。主イエス以上に愛していて、それとイエスとどちらを選ぶのかと問われたら、主イエスを捨てて選んでしまいそうなもの。それは偶像であり、異なる神々です。

ヨシュアは、そのような異なる神々を捨て去れと命じました。そうすることによって、心を主に傾けるのだと教えました。つまり、私の中に偶像があると、主イエスに心を傾けなくさせるのです。

祈りましょう。主イエスに心を傾けることを妨げている偶像があるなら、主よ示してください。そして、それを捨て去ることができるようにして下さい。

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ヨシュア記 23章

2024年11月22日 | ヨシュア記
ヨシュア記23・6 あなた方は堅く立って、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。

イスラエルの民を導いたヨシュアも晩年を迎えるにあたり、民の長老たちを集め、遺言を語りました。第23~24章はその内容です。イスラエルの民に残すべき大切な教えが語られています。

(1)律法(神の御言)を守れ(23・6)

御言から離れて右にも左にも曲がってはならない。人はパンだけで生きる者ではありません。パン(ご飯)は肉体を養う食物です。しかし、私たちの霊魂は、霊的な食物で養われます。それは神の御言です。

旧約時代の御言は「律法」でしたが、新約時代の御言は「福音」です。イエスをキリストとして信じる信仰から離れてはなりません。この福音から右にも左にも曲がってはなりません。

(2)他の国民と交わってはならない(23・7~8)

このことは誤解しないようにしてください。当時、イスラエル民族以外の国民は、偶像礼拝者たちです。神ならぬ神を拝み、神の忌み嫌われる習慣を持っていました。そんな国民と交流が盛んになれば、その影響力は甚大です。

神は、イスラエル民族を神の国民、聖なる民として選び育てようとなさったので、このような命令が与えられました。他の国民と交わったり、婚姻することで、偶像礼拝をイスラエルに持ち込ませないためです。

ところが、この後のイスラエルは、この点で多くの失敗をしました。そして、まことの神から離れ、堕落し、逸脱して行きました。新約時代のクリスチャンにとって、これは霊的教訓です。

しかし、このことを極端に解釈して、未信者と関わりを持たないようにするのは間違いです。クリスチャンはイエス様を我が内に宿している者たちで、すでに聖なる者たちです。

未信者の人々と関わりを持ったからといって、自分が駄目になるような弱い存在ではありません。主があなたの中に住まわれていることを忘れないでください。むしろ、積極的に出ていって福音を伝える存在です。新約の民は、未信者の人々から影響を受ける柔(やわ)な存在ではなく、逆に影響を与える存在です。そのために聖霊を受けたのですから……。

ただ、注意すべきことは、偶像礼拝にかかわってはならないということです。これは、主なる神に仕える者にとって重要な課題です。

(3)ひとりで千人に当たることができる(23・9~10)

今日に至るまでの勝利は、イスラエルが強かったからでもなく、優秀であったからでもありません。ひとえに、主なる神が共におられたからです。このことを忘れてはならないと教えられています。

このように主が共におられるなら、ひとりが千人に当たることができると、励ましの御言が与えられています。

ヨシュア記に一貫して流れているテーマは、「インマヌエルの神」です。主が私たちと共におられることです。

このことは、イエス・キリストによって私たちに成就しています。今や、私たちはイエスの中に居り、私の中にイエスが居られます。イエスこそ、インマヌエルの神です。

神が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると、主は約束されています。

現在、日本のクリスチャン人口は1%と言われています。つまり、100人にひとりの割合です。日本人口約1億人のうち、約100万人がクリスチャンです。何と少ないことでしょうか。

さらに、実際に教会に集って明確な信仰をもって生きているクリスチャンともなればもっと少なくなると言われていますから、1000人にひとりという割合になるかも知れません。

でも、人数が問題ではありません。主が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると主は言われるではりませんか。それなら、現在のクリスチャンたちで1億の日本の人々に対応できるということになります。

勇気をもってキリストの証人として立ち上がりましょう。そして祈ります。どうか私を、ひとりで千人に当たることのできる者にしてください。


ヨシュア記 22章

2024年11月21日 | ヨシュア記
ヨシュア記22・10 ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。

イスラエルは12の部族からなっていますが、その内の「ルベン族」「ガド族」「マナセの半部族」の人々は、すでに、ヨルダン川の東側の地を受け嗣ぐことになっていました(民数記32章)。

実は、神がイスラエルに与えると約束なさった地は、ヨルダン川の西側です。しかし、上記の2部族と半部族の人々は、東側の地が気に入ったので、それを自分たちのものにしたいと申し出たのでした。

神のご計画よりも自分たちの要望を優先したことになります。

そこで、モーセは彼らの要望を認める代わりに、ヨルダン川の西側を獲得するまで、兵士を派遣して共に戦うという条件を付け、彼らはそれに従ったわけです。そしてついに戦いも終結し、ルベン族とガド族とマナセの半部族は、ヨルダン川の向こう側、東の地に戻ることになりました。

今でこそ橋や道路といったインフラが整っていますが、当時、川によって隔てられることは、社会的にも信仰の面でも、隔たりが生じることは当然のことでした。そのことを危惧した2部族と半部族は、ヨルダン川のほとりにひとつの祭壇を建設して、信仰から離れまいとしました。

ところが、他の部族からすれば、シロの幕屋とは別にもうひとつの祭壇を築くことになり、それはイスラエルに霊的分断をもたらす危険性があるとして、人々は異議を唱えました。

彼らは戦争をも辞さない覚悟で、東側の人々に詰め寄った結果、シロの幕屋に代わる祭壇ではない」、「東側の民は、西側の民とひとつであることの証しの祭壇であるという見解を得て一件落着とあいなったわけです。

さて、これが本当に「一件落着」であったのかどうかは、時を経なければ分かりません。

神が用意なさった約束の地は、ヨルダン川の西側です。自分の都合を優先して東側にとどまり、川を渡ろうとしなかった人々は、その後、イスラエルの歴史から姿を消してしまいます。

「証しの祭壇」と呼び名は美しいのですが、気に入った領地も欲しいが、信仰的な祝福も手放したくない。そんなわがままを両立させる欲望の記念碑に過ぎなかったのではないかと思います。

主イエスは、神と富との両方を主人とすることはできないと言われましたが、ヨルダン川の東側の人々は、神と富との両方を主人としようとした姿ではないだろうか。熟考すべき課題です。

川を渡って神の約束の地に入り、そこにとどまるべきではなかっただろうか。イスラエル人の別名はヘブル人ですが、その名の由来は川を渡ってきた者です。

世俗の側から神の側へ、罪の世界から神の光の世界へ、川を渡って来た者がヘブル人です。歴代の信仰の父祖たちは、数々の川を渡ることで、それ以前の生き方を葬って、神と共にある新しい生き方へと渡って来たのです。これこそがヘブル人の真髄です。

このヨルダン川東岸のイスラエルの事例を通して、私はヘブル人となっているだろうかと自問してみるのは大切なことです。


ヨシュア記 21章

2024年11月20日 | ヨシュア記
ヨシュア記21・41 イスラエルの人々の所有のうちに、レビびとが持った町々は、合わせて四十八であって、それに属する放牧地があった。

イスラエルの各部族には嗣業としての相続地が分割されたことは、すでに見たところです。そして、レビ族だけは分割地がなく、幕屋(のちの「神殿」)で神に仕えることが嗣業でした。

とはいえ、レビ族の人々の居住地は必要です。そこで、12部族の分割地からレビ族が居住できる町と放牧地を提供することになりました。その町の数は48であったと記されています。このようにして、レビ族の人々はイスラエルの各地に分散して居住することになりました。

彼らが仕えるべく幕屋は、エルサレムの町から北に約30㎞のところにあるシロという町におかれており、このシロの幕屋に出掛けて礼拝にかかわる働きをすると共に、居住地では人々に律法を教え信仰を養いました。こうして神は、レビ族を各部族の中に住まわせることによって、神の律法、即ち御言を伝える働きをさせました。

神の御言を伝え教える働きはとても重要です。

もし、レビ族の働きがなかったなら、イスラエル民族は雲散霧消していったことでしょう。人々はカナンの習慣に埋没し、異教の神々の影響を受け、主への信仰を失うことになったことでしょう。

今の時代も同じです。私たちの目や耳を通して入ってくる情報の99%以上が、この世に属するものです。神に属する情報、天に属する情報は、どれぐらいあるでしょうか。

今日、世俗からの情報量はますます増えています。テレビ、雑誌、インターネット等々。情報の洪水の中で溺れそうです。ある人は、「情報断食」なるものの必要を提案していますが、それほど、現代社会のような環境の中で、イエス・キリストについて知ることは難しいことであるし、だからこそ、それを語り伝える働きは重要です。

祈りましょう。レビ族の人々が地域に分散して、神の律法(御言)を伝えたように、私たちがイエス・キリストを伝えることのできる存在となり得ますように。


ヨシュア記 20章

2024年11月19日 | ヨシュア記
ヨシュア記20・2~3 のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。

私たちは故意に罪をおかすこともあれば、誤っておかしてしまう罪もあります。そこで神は、あやまって人を殺してしまった者を保護するためにのがれの町を定められました。

律法では、「目には目を、歯には歯を」と言われているように、目が被害を受けたなら、おなじ目をもって償(つぐな)わなければならないと定めています。 ※これは「やられたらやり返せ」という報復を奨励しているのではない。目をやられたら〝目だけ〟にしておけ、という限定報復を意味する。過剰な報復を禁止するものである。

ですから、殺人に対しては死をもって償わなければなりませんでした。これが原則です。しかし、故意によらない殺人もあります。事故や正当防衛の場合が考えられるのですが、そのような場合、「死には死を」を根拠に報復してしまわないために、のがれの町が定められました。

のがれの町は、イスラエルの各地に点在し、どこからでも1日路ほどの距離にありました。

あやまって人を殺した者が、のがれの町に逃げ込んだ場合、町は彼を保護し、彼はこの町で正当なさばきを受けることができました。このように、助かりたい者は、のがれの町に逃げ込むことができました。

神は、罪人が滅びるのを喜ばれません。悔い改めて生きることを願っておられます(エゼキエル18・32)その悔い改めて生きようとする者が生きられる方法がのがれの町だったのです。

まさにイエス・キリストは新約時代ののがれの町です。

旧約ののがれの町は過失の罪をおかした者に対する保護とゆるしでしたが、新約のイエス様は〝誰でも〟です。この〝誰でも〟は新約の特徴です。「誰でも重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。「今やキリスト・イエスにある者は誰でも罪に定められることがない」。

このように、のがれの町はやがて実現するイエス・キリストによる救いを予表しています。旧約ののがれの町の場合、救済できる罪人には限度がありましたが、イエス・キリストにあっては〝誰でも〟です。このイエスにのがれる者は、誰でも救われます。

旧約の律法によれば、油断してのがれの町を出てしまうなら、追っ手によって彼は殺されることもありました。そのように、イエスから出てしまうなら、追っ手である悪魔は私たちの罪を根拠に容赦なく責めて滅ぼしてしまうでしょう。

ですから、イエスの中から出てはいけません。イエスの中にとどまってください。イエスの中で私たちはゆるされ、イエスの中で救われ、イエスの中でいのちを得るのですから。


ヨシュア記 19章

2024年11月18日 | ヨシュア記
ヨシュア記19・49 こうして国の各地域を嗣業(しぎょう)として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業をヌンの子ヨシュアに与えた。

遂にイスラエルのすべての部族に嗣業の地が与えられました。ところが、最功労者であるヨシュアの住む土地が決まっていませんでした。彼は、民の居住地を優先して、自分は後回しにしたからです。

ヨシュアの立場と功績を考えるなら、最も良い地を早々に得ていてもよいはずなのですが、ヨシュアはあえて、エフライムの山地にあるテムナテ・セラという町を選びました(19・50)

この地は、偶像礼拝の盛んなところであったと考えられています。地誌学によれば、太陽神を拝む言葉が町の名の由来だそうです。

そんな曰(いわ)く付きの土地を建て直そうというのです。そのことを聖書は、彼はその町を建てなおして、そこに住んだと記しています(19・50)

ヨシュアはすでに高齢に達していました。もう隠退してもよい境遇でしたが、彼はこの偶像礼拝の町を建て直すことに残りの生涯を費(つい)やしたのです。

神からの使命に年齢差はありません。青年には青年の使命があります。壮年には壮年の、老人には老人でなければならない使命があります。何歳になっても、今の私に与えられた神からの使命を果たす者でありたいと願います。

さて、一連の嗣業(相続地)の割り当ては〝くじ〟をひいて決めたと何度も記してあります。重要なことをくじ引きにするなんて軽率ではと思います。民主主義が定着した現代では、何でも話し合って決めるのが最高の結論だと思っているからです。

しかし、人間の小賢(こざか)しい意見や下心が行き交う会議の結果、得られた結論にも疑問符が灯(とも)ります。何かを決めるというのは難しいものです。そこで〝くじ〟の登場です。神に決めてもらおうじゃないかという訳です。

意外とくじ引きには神の御心が反映されているのではないかと私は思っています。自分の人生を振り返って見ても、自分で決めたとおりになったことは何割でしょうか。1割あるでしょうか。特に重要なことはもっと低いかも知れません。

なぜ、藤原家の次男坊に生まれたのか。なぜ京都の田舎に生まれたのか。なぜ日本人なのか。なぜ昭和の時代なのか。どれをとっても〝くじ〟で決められたかのような人生です。

でも、そこに神の御心があるのです。そこに、神が与えた嗣業があるのです。ならば、これを由(よし)として受けとめようではないかと思うのです。

私には私の、あなたにはあなたの、くじを引いて得た嗣業があるのです。それを誠実に生きよう。タラントを増やすように生きよう。そんな人生であるように祈ります。


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【一日一章】 朝マナ ヨシュア記 19章 【聖書通読】
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ヨシュア記 18章

2024年11月16日 | ヨシュア記
ヨシュア記18・3 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなた方は、先祖の神、主が、あなた方に与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか」。

ヨシュア記は、救われた私たちが大人の信仰者に成長する物語として読むことができます。荒野ではマナが天から与えられたましたが、約束の地に入ってからは自分の手で食物を得るようになったという記録も、そのことを表しています。

棚から牡丹餅(ぼたもち)式に与えられるのは〝幼な子の時代〟です。いつまでもそのままではありません。〝おとなの時代〟へと進まなければなりません。主が共におられることを信じて勇気をだして前進します。

だから、先の17章でも「自分で切り開きなさい」と命じられていました。また、今日の18章でもいつまで怠(おこた)っているのかと叱責されています。

イスラエルの各部族に嗣業の地が分け与えられたにもかかわらず、7つの部族は、いまだそれを手にしていませんでした。そんな彼らにヨシュアは、「いつまで怠っているのか」と呼びかけました。新改訳ではいつまで先延ばしにしているのですか」。

主なる神は、私たちに豊かな勝利をすでに約束なさっています。あとは、私たちが約束を信じて、行動するだけです。

行動を躊躇(ためら)わせるものは何なのでしょうか。日々の生活のわずらいもその一因でしょう。

御言の種がまかれ、芽が出て茎も伸びたのですが、いばらが生え出て成長を妨げるように、日々の生活のわずらいが、先延ばしの原因になります。

また、イエス様はこうも言われました。(すき)に手をかけてうしろを振り返る者は、神の国にふさわしくないと。

過去の失敗や間違いを振り返ると、私たちの志気はなえてしまいます。適切な反省は前を向くのに役立ちますが、過度な原因さがしや後悔は、前を向くどころかバックギアが入って前進を防げてしまいます。私たちはイエスを信じ、神の御国のために鋤に手をかけた者たちです。前に向かって、主が用意なさった嗣業を手にしようではありませんか。

私たちの行く所々に、神の御国のご支配をもたらすことは、私たちのミッションであり嗣業です。私たちの周りの環境はどうでしょうか。神の栄光が現れる所となっているでしょうか。むしろ、悪魔の勢力がのさばる世界の方が大きいのが現実です。

イエス様の福音を知らずに、罪と死の奴隷となっている世界がまだ残っています。その地を取りに行くのは神の御心です。そこは私たちの嗣業です。

それなのに、いつまで先延ばししているのですか、と主は問いかけておられます。

祈りましょう。まだ、イエスのご支配が及んでいない人々や社会を、イエスのものとすることができるように、私たちをお遣わしください。


ヨシュア記 17章

2024年11月15日 | ヨシュア記
ヨシュア記17・18 山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます。

イスラエルの各部族ごとに嗣業(しぎょう)が割り当てられる中で、ヨセフの子孫から不平が出てきました。

「ヨセフの子孫はヨシュアに言った、『主が今まで、私を祝福されたので、私は数の多い民となったのに、あなたはなぜ、私の嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか』。」(17・14)

1タラントを受けた者には、2タラントを受けた人が羨(うらや)ましく見えます。また、2タラントの者には5タラントが魅力的です。しかし、その違いは差別ではなく、〝それぞれの能力に応じて分け与えられた〟ことを見落としてはなりません(マタイ25・15)

多い方が良い、大きい方が良い、という価値観は正しいのでしょうか。少ないことは悪いことなのでしょうか。弱いことは欠点なのでしょうか。また、皆が同じ数、皆が同じ量というのは正しいのでしょうか。差があることは悪いことなのでしょうか。違いがあることはいけないことなのでしょうか。

聖書は、それぞれの能力に応じて……と述べています。それは神がご覧になった裁量によるのであって、私たち人間が推しはかることのできない領域です。

さて、ヨシュアはヨセフの子孫たちに、あなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジ人やレパイム人の地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなた方には狭いのだからと提案しました(17・15)。しかし、そこに住むカナン人が鉄製の武器を持っているので開拓するのは難しいと、ヨセフの子孫は言い訳をしました。

なにやら、1タラントを使わずに土の中に埋めておいた者のようです。そんな人々に自分で切り開きなさいと命じました(17・15)

タラントの話しでは、2タラントの者はそれを用いて4タラントに、5タラントの者は10タラントに増やしました。ヨセフの子孫たちにも、タラント増やすようにして切り開くことが求められたのです。

それを躊躇させる原因は「恐れ」でした。1タラントの者も、これを失ったら大変だと思い、恐れたので、土の中に埋めておいたのです。

ヨセフの子孫たちも恐れました。土地を切り開くにも、そこにはカナン人が住んでいて、しかも鉄製の戦車を持っているからです。彼らは、主なる神が今までしてくださったように、これからも成してくださることを忘れていました。

だから、彼らに与えられた御言は、カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます※という約束でした(17・18)。 ※口語訳・新共同訳を参照。新改訳は「強いので、追い払わなければならない」と翻訳。

相手がどんな武器を持っているかが問題ではありません。私たちの持っている武器の質も量も重要な問題ではありません。主が共におられることこそ最も大切なことです。

主が共におられることを忘れてはいないだろうか。今日、もうひとたび、主が共におられることゆえに、勇気をもって前進しよう。
 

ヨシュア記 16章

2024年11月14日 | ヨシュア記
ヨシュア記16・10 ゲゼルに住むカナンびとを、追い払わなかったので、カナンびとは今日までエフライムの中に住み、奴隷となって追い使われている。

「カナンの地を聖絶せよ」。これがイスラエルに課せられた神からの命令でしたが、イスラエルの民はそれを徹底できずにいました。

冒頭の聖句でも、カナン人がエフライム部族の地域に残っていると記録しています。

先にも申し上げたように、「聖絶」という命令(口語訳では「滅ぼしつくせ」)は旧約に限られたことで、新約では罪との戦いを表しています。

つまり、カナン人がそのまま残っている状態は、新約的には、罪と戦わないでそのまま残しておくことを意味しています。

今日の聖書ヶ所では、カナン人の生き残りが今も存在していることを記録しているだけですが、これが後の時代の禍根となります。ヨシュア記の次の書である士師記では、生き残りのカナン人によってイスラエルは大いに苦しめられるのです。

カナン人の偶像礼拝に影響を受けて、主なる神から離れてしまったり、カナン人に支配される事態にもいたります。だからこそ、主なる神はカナン人を聖絶するよう命じられたのですが……。

それと同じように罪の結果はやがて刈り取ります。罪は雑草のようです。しっかりと根から抜き取ってしまわないと、何度でも出てきます。

相手をゆるしたのに、ゆるし切れていない。記憶から忘れ去ろうとしているだけで、ふたをした状態。苦々(にがにが)しい思いが残っている。この状態は、「ゆるさない」という罪が根っ子から抜き切れていません。

そのことを聖書はこう記しています。苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい(ヘブル12・15)

私たちの原罪(神を認めない罪)はイエス様の十字架の死によって完全にきよめられました。しかし、救われたものの、日々おかす罪は、神に告白することでゆるされ、きよめられます(Ⅰヨハネ1・9)

苦い根が残っていると指摘されている罪は、後者の「日々の生活の中でおかす罪」のことです。神に告白しないで放っておくとか、口先だけの告白で終わっているようなとき、苦い根として残ります。

神に申し上げるとは、神の前に明らかにすることです。雑草を根っ子から引き抜いて天日にさらすことで干からびてしまうように、日毎の罪も神の御前にさらけ出すことによって、神の栄光の光で干からびてしまいます。それが、新約における聖絶です。