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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記上 19章

2025年04月07日 | 列王紀
列王紀上19・9 エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。

エリヤはカルメル山でバアルの預言者450人およびアシラ(アシェラ)の預言者400人と対決し、主なる神こそ真の神であることを証明しました。

その結果、偶像礼拝の預言者たちを処刑し、イスラエルの民衆の心を主に立ち返らせることができました。ここまでが先の第18章の出来事です。

その知らせを聞いたアハブ王の妻イゼベルは、報復せんとエリヤ討伐へと動き始めました。それを恐れてエリヤは逃亡するのですが、途中、ユダの荒野で力つきて、彼はこう告白しています。主よ、もはや、じゅうぶんです。いま私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません(19・4)

どんな勇者も弱さを持っています。勇気を失い、落ち込むことがあります。エリヤはこの時、まったく自信を失っていました。

そのようなエリヤに対する神の対応は、名カウンセラーのようです。

彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、『起きて食べなさい』と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。19・5~6)

人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る御言で生きる者ですが、この時の神の対応は、肉体を生かす食物と充分な睡眠を与えることでした。

疲れた時、落ち込んだ時、信仰がどこかにフッ飛んでしまいそうな時、皆さんはどうしますか。不信仰な自分を責めて、もっと熱心に祈らなければと自分を鼓舞しますか。もちろん、そうする時もあります。

しかし、この時のエリヤに対して、主は、食物と睡眠を与えられました。こんな対応も大切です。

その後、エリヤはホレブ山に行きました。この山は、かつてモーセが主から召された山でした。モーセは40才の時、イスラエルの民をエジプトから救出しようと試みましたが、若気のいたりもあって挫折してしまいました。

大きな挫折を味わったモーセでしたが、80才になって、彼はホレブ山の燃える柴の中で主からの呼びかけを受けました。神は、血気盛んな40才のモーセではなく、年老いた80才のモーセを用いて、あの出エジプトの偉業を成し遂げさせました。

そんなホレブの山に、疲れ果て失意の中にあるエリヤが導かれたのは偶然ではありません。

この山で、神はエリヤに語りかけ、再び派遣しようとなさいました。この時、主は何と言われたでしょうか。励ますことも、叱ることもなさいませんでした。ただひとことでした。

エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。

エリヤは、今までの事の経過を主に申し上げ、自分がいかに落ち込んでいるかを語りました。神の前に惨(みじ)めな自分の姿をぐだぐだと愚痴をこぼすように話しました。自分のありのままの姿を神に申し上げるしかなかったのです。素直な祈りです。

それから、再び主は語られました。エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(19・13)

エリヤは、先ほどと同じように、自分の無力さをそのまま神に申し上げるしかありませんでした。

不思議なものです。神に自分のありのままの姿を申し上げている内に、私たちは元気を取り戻します。主に聞いていただいたという満足が、私たちに再び勇気を与えます。主の前には、格好をつける必要はありません。あのヤラベアムの妻のように〝他人を装う〟必要もありません。

「ここで何をしているのか」と神は問われますが、もちろんご存知です。エデンの園で隠れていたアダムに、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけた神は、アダムがどこにいるのかよくご存知です。神は、ご存知のうえで、あえてそう尋ねられるのです。

自分で自分の姿を見てごらんなさい。今は落ち込んでいるが、今まであなたに注がれてきた恵みを数えてごらん。主の力強い御手があったことを振り返ってごらん。あなたはひとりじゃないのだ。わたしが共にいるのだ。

神の前に愚痴をこぼしている内に、自分の姿が見えてきます。神に愛されている自分の姿を再発見します。こうしてエリヤは、ホレブの山で再び力を得て山をくだりました。今度は次なる使命を受けて……。

それは、エヒウ(エフー)に油を注いでイスラエルの次の王を任命することと、エリシャに油を注いで彼を次の預言者として任命することでした。

神の働きは自分ひとりで終わるのではありません。次の油注がれた人物が用意されています。私のやるべきことはわずかであっても、次なる人に聖霊の油を注ぎ、弟子を生み出すことも大切な任務です。

主が残しておくと言われたバアルにひざをかがめなかった7千人に期待しようではありませんか。残された者たちとの出会いと、信仰の継承がなされるようにと祈ります。