ゼカリヤ書 14章
主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名ひとつのみとなる。(14・9)
「その日」とはキリスト来臨の日のことです。
キリスト来臨の直前には、大きな戦いがあると預言されています。多くの民の軍隊がエルサレムを包囲するのです。この情景は先の12章で預言されていたことと同じです。
先の12章では、そのようなギリギリの段階になって、イスラエル(ユダヤ人)は、かつて先祖たちが十字架に付けて殺したイエスがキリストであることを知って、嘆き、このお方を信じて呼び求めるようになると学びました。
それに呼応して主イエスは来臨されます。
第14章では来臨のキリストはオリーブ山に立たれるとあります(14・4)。かつて、イエス様が復活後、その御姿を弟子たちに顕わして後、このオリーブ山から天に昇って行かれました(使徒1・12)。そして、このオリーブ山に再び戻ってこられるというのですから、旧約と新約はつながっています。
イエスを信じなかったユダヤ人にとってキリストの来臨は初めてのことになりますが、イエスを信じるクリスチャンにとっては「再臨」です。
聖書は……特に旧約聖書は、キリストの来臨を預言していますが、それは、十字架で死ぬために来られる「初臨」と、王として世を裁き統治するために来られる「再臨」とに区別されます。旧約聖書では、このふたつが混在するようにして記録されています。ちなみに、ゼカリヤ書の14章で語られている内容は「再臨」のことです。
主イエスが再臨されると、「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」と預言されています(14・9)。この地上における神の御国の実現です。
主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名ひとつのみとなる。(14・9)
「その日」とはキリスト来臨の日のことです。
キリスト来臨の直前には、大きな戦いがあると預言されています。多くの民の軍隊がエルサレムを包囲するのです。この情景は先の12章で預言されていたことと同じです。
先の12章では、そのようなギリギリの段階になって、イスラエル(ユダヤ人)は、かつて先祖たちが十字架に付けて殺したイエスがキリストであることを知って、嘆き、このお方を信じて呼び求めるようになると学びました。
それに呼応して主イエスは来臨されます。
第14章では来臨のキリストはオリーブ山に立たれるとあります(14・4)。かつて、イエス様が復活後、その御姿を弟子たちに顕わして後、このオリーブ山から天に昇って行かれました(使徒1・12)。そして、このオリーブ山に再び戻ってこられるというのですから、旧約と新約はつながっています。
イエスを信じなかったユダヤ人にとってキリストの来臨は初めてのことになりますが、イエスを信じるクリスチャンにとっては「再臨」です。
聖書は……特に旧約聖書は、キリストの来臨を預言していますが、それは、十字架で死ぬために来られる「初臨」と、王として世を裁き統治するために来られる「再臨」とに区別されます。旧約聖書では、このふたつが混在するようにして記録されています。ちなみに、ゼカリヤ書の14章で語られている内容は「再臨」のことです。
主イエスが再臨されると、「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」と預言されています(14・9)。この地上における神の御国の実現です。
主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈り、「御名があがめられますように」と祈りますが、そのことの完成を見ることになります。
ヨハネの黙示録では、第一の復活にあずかった聖徒たちはキリストと共に千年の間、王となって統治すると預言されていますが(黙示20・6)、それはゼカリヤ書14章の統治のことを指しています。この王国のことを「千年王国」と呼びます。
※この千年王国の実現の前にキリストは再臨なさるのか、後なのかによって、キリスト教神学は二分される。この「朝マナ」は前者の立場である。
※後者の立場、すなわち「千年王国の後にキリストが再臨する」という神学では、キリスト教を国教と定めたローマ帝国や中世のキリスト教国家が千年王国であると位置づける。それを根拠にしてキリスト教の国家支配が進められた。はたしてそれは、聖書が預言する千年王国だったのか。力づくで千年王国を実現しようとするあまり、多くの罪を犯したと私は考えている。
ゼカリヤ書14章を読み進めると、12節からも「エルサレムに対する侵略」が描かれていますが、これは、主イエス再臨の直前の戦いのことを再録しているのでしょう。
この一連の戦いに、再臨のキリストは勝利なさって、その統治は全世界に及ぶのだと主は言われます。その平和の統治を象徴する出来事が、「すべてての民で祝う仮庵の祭」です。「エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる」と預言されているとおりです(14・16)。
ユダヤの七大祭があります。過越しの祭から始まる7つの祭なのですが、その最後は「仮庵の祭」です。イエス様の初臨によって、過越祭に込められた預言が成就し、イエスの再臨によって、最後の仮庵祭の秘儀が成就して、この7つの祭の秘儀は完成します。
このように、ユダヤの七大祭りは、壮大な神の預言となっているわけです。
さて、仮庵の祭は、出エジプトしたイスラエルの民が荒野の旅を経て、安息の地に入ったことを祝う祭りです。人々は「仮庵」と呼ばれる粗末な掘っ立て小屋を建ててキャンプをします。そこで、かつての荒野での苦労を思い出し、カナンの地に定住するに至った感謝をささげる祭りです。
しかし、実際には、イスラエルが攻め取ったカナンの地は「安息の地」ではありませんでした。正確に申し上げると、荒野で民が神に不従順したために、カナンの地は安息の地にはならなかったのです。「こういうわけで、神の安息に入る約束はまだ残っている」と解釈されるわけです (ヘブル4・1) 。
しかし、ついに安息に入る日が来るのです。再臨のキリストによって成就する千年王国において神の安息に入る約束が成就します。人類は〝荒野〟という名の悲惨な歴史を旅してきましが、ついに安息の地に到達する日が来るのです。
こうして最後は、「すべての民によって仮庵の祭を祝う」ことになります。それをなさるのは主イエス・キリストです。この「ひとつの名」のもとに、すべての民はひざをかがめ、このお方の統治を歓迎します。
ここに至るまでの人類の道のりは、まさに荒野でした。そのことを思い起こし、キリストによる平和の支配が完成したことを仮庵祭として祝うわけです。私たちは、この祭の成就に向かって進んでいます。
さあ、ご一緒に御国で仮庵祭を祝おうではありませんか。
ゼカリヤ書14章を読み進めると、12節からも「エルサレムに対する侵略」が描かれていますが、これは、主イエス再臨の直前の戦いのことを再録しているのでしょう。
この一連の戦いに、再臨のキリストは勝利なさって、その統治は全世界に及ぶのだと主は言われます。その平和の統治を象徴する出来事が、「すべてての民で祝う仮庵の祭」です。「エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる」と預言されているとおりです(14・16)。
ユダヤの七大祭があります。過越しの祭から始まる7つの祭なのですが、その最後は「仮庵の祭」です。イエス様の初臨によって、過越祭に込められた預言が成就し、イエスの再臨によって、最後の仮庵祭の秘儀が成就して、この7つの祭の秘儀は完成します。
このように、ユダヤの七大祭りは、壮大な神の預言となっているわけです。
さて、仮庵の祭は、出エジプトしたイスラエルの民が荒野の旅を経て、安息の地に入ったことを祝う祭りです。人々は「仮庵」と呼ばれる粗末な掘っ立て小屋を建ててキャンプをします。そこで、かつての荒野での苦労を思い出し、カナンの地に定住するに至った感謝をささげる祭りです。
しかし、実際には、イスラエルが攻め取ったカナンの地は「安息の地」ではありませんでした。正確に申し上げると、荒野で民が神に不従順したために、カナンの地は安息の地にはならなかったのです。「こういうわけで、神の安息に入る約束はまだ残っている」と解釈されるわけです (ヘブル4・1) 。
しかし、ついに安息に入る日が来るのです。再臨のキリストによって成就する千年王国において神の安息に入る約束が成就します。人類は〝荒野〟という名の悲惨な歴史を旅してきましが、ついに安息の地に到達する日が来るのです。
こうして最後は、「すべての民によって仮庵の祭を祝う」ことになります。それをなさるのは主イエス・キリストです。この「ひとつの名」のもとに、すべての民はひざをかがめ、このお方の統治を歓迎します。
ここに至るまでの人類の道のりは、まさに荒野でした。そのことを思い起こし、キリストによる平和の支配が完成したことを仮庵祭として祝うわけです。私たちは、この祭の成就に向かって進んでいます。
さあ、ご一緒に御国で仮庵祭を祝おうではありませんか。
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