朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ゼカリヤ書 14章

2023年08月07日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 14章
主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名ひとつのみとなる。
(14・9)


「その日」とはキリスト来臨の日のことです。

キリスト来臨の直前には、大きな戦いがあると預言されています。多くの民の軍隊がエルサレムを包囲するのです。この情景は先の12章で預言されていたことと同じです。

先の12章では、そのようなギリギリの段階になって、イスラエル(ユダヤ人)は、かつて先祖たちが十字架に付けて殺したイエスがキリストであることを知って、嘆き、このお方を信じて呼び求めるようになると学びました。

それに呼応して主イエスは来臨されます。

第14章では来臨のキリストはオリーブ山に立たれるとあります(14・4)。かつて、イエス様が復活後、その御姿を弟子たちに顕わして後、このオリーブ山から天に昇って行かれました(使徒1・12)。そして、このオリーブ山に再び戻ってこられるというのですから、旧約と新約はつながっています。

イエスを信じなかったユダヤ人にとってキリストの来臨は初めてのことになりますが、イエスを信じるクリスチャンにとっては「再臨」です。

聖書は……特に旧約聖書は、キリストの来臨を預言していますが、それは、十字架で死ぬために来られる初臨と、王として世を裁き統治するために来られる再臨とに区別されます。旧約聖書では、このふたつが混在するようにして記録されています。ちなみに、ゼカリヤ書の14章で語られている内容は「再臨」のことです。

主イエスが再臨されると、主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなると預言されています(14・9)。この地上における神の御国の実現です。

主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈り、「御名があがめられますように」と祈りますが、そのことの完成を見ることになります。

ヨハネの黙示録では、第一の復活にあずかった聖徒たちはキリストと共に千年の間、王となって統治すると預言されていますが(黙示20・6)、それはゼカリヤ書14章の統治のことを指しています。この王国のことを千年王国と呼びます。
※この千年王国の実現の前にキリストは再臨なさるのか、後なのかによって、キリスト教神学は二分される。この「朝マナ」は前者の立場である。
※後者の立場、すなわち「千年王国の後にキリストが再臨する」という神学では、キリスト教を国教と定めたローマ帝国や中世のキリスト教国家が千年王国であると位置づける。それを根拠にしてキリスト教の国家支配が進められた。はたしてそれは、聖書が預言する千年王国だったのか。力づくで千年王国を実現しようとするあまり、多くの罪を犯したと私は考えている。

ゼカリヤ書14章を読み進めると、12節からもエルサレムに対する侵略が描かれていますが、これは、主イエス再臨の直前の戦いのことを再録しているのでしょう。

この一連の戦いに、再臨のキリストは勝利なさって、その統治は全世界に及ぶのだと主は言われます。その平和の統治を象徴する出来事が、すべてての民で祝う仮庵の祭です。エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになると預言されているとおりです(14・16)

ユダヤの七大祭があります。過越しの祭から始まる7つの祭なのですが、その最後は「仮庵の祭」です。イエス様の初臨によって、過越祭に込められた預言が成就し、イエスの再臨によって、最後の仮庵祭の秘儀が成就して、この7つの祭の秘儀は完成します。

このように、ユダヤの七大祭りは、壮大な神の預言となっているわけです。

さて、仮庵の祭は、出エジプトしたイスラエルの民が荒野の旅を経て、安息の地に入ったことを祝う祭りです。人々は「仮庵」と呼ばれる粗末な掘っ立て小屋を建ててキャンプをします。そこで、かつての荒野での苦労を思い出し、カナンの地に定住するに至った感謝をささげる祭りです。

しかし、実際には、イスラエルが攻め取ったカナンの地は「安息の地」ではありませんでした。正確に申し上げると、荒野で民が神に不従順したために、カナンの地は安息の地にはならなかったのです。「こういうわけで、神の安息に入る約束はまだ残っている」と解釈されるわけです (ヘブル4・1)

しかし、ついに安息に入る日が来るのです。再臨のキリストによって成就する千年王国において神の安息に入る約束が成就します。人類は〝荒野〟という名の悲惨な歴史を旅してきましが、ついに安息の地に到達する日が来るのです。

こうして最後は、すべての民によって仮庵の祭を祝うことになります。それをなさるのは主イエス・キリストです。このひとつの名のもとに、すべての民はひざをかがめ、このお方の統治を歓迎します。

ここに至るまでの人類の道のりは、まさに荒野でした。そのことを思い起こし、キリストによる平和の支配が完成したことを仮庵祭として祝うわけです。私たちは、この祭の成就に向かって進んでいます。

さあ、ご一緒に御国で仮庵祭を祝おうではありませんか。


ゼカリヤ書 13章

2023年08月05日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 13章
その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。
(13・1)


イスラエル(ユダヤ人)はキリストの来臨を待ち望んでいながら、いざイエス・キリストが来られたにもかかわらず彼を拒絶してしまいました。以来、キリストの福音は異邦人たちに宣教されました。

しかし、終わりの時が満ちるに及んで、再びその福音はイスラエルにもたらされます。彼らが、かつて拒絶して十字架で突き刺したイエスこそが、神のキリストであると告白し受け入れる時が来るのです。

その時にいたってイエス・キリストは再臨なさいます。冒頭の「その日」とはイエス様が再臨なさった時のことです。罪と汚れを清めるひとつの泉が開かれるのです。

人々を神の御国の民として相応しくするために、神はこの泉で民を清められます。その〝泉〟とは、水そのものが湧き上がる泉というよりも、神の御言が水のように語られ、教えられ、その御言によって清められることを意味するのでしょう。

人々が御言を慕い求め清められて行く情景を、預言者イザヤは次のように語っています。

「多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼(キリスト)はその道を我々に教えられる、我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。」(イザヤ2・3)

神の御言によって人々の罪と汚れが清められ、神の御国は完成します。もはやそこでは神の御名だけが讃美されます。すべての者はイエスの御名にひざをかがめ、まことの礼拝者となるはずです。そのような情景はゼカリヤも語っています。

万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、重ねて人に覚えられることのないようにする。わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。(ゼカリヤ13・2)

このような、まことの礼拝者からなる御国を完成させようと、神はご計画なさっているのです。

さて、このひとつの泉は、イエスの再臨を待たずして、いまやイエスを信じるクリスチャンたちに与えられています。イエスの御霊が私たちの内におられて、御言が泉のように与えられるからです。

あのサマリヤの婦人と語られた時にも、わたしが与える水を飲む者は、その人の内で泉となり、永遠にいのちに至る水が湧き上がるといわれました(ヨハネ4・14)。また、仮庵の祭の時には、わたしを信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出るともいわれました(ヨハネ7・38)

こうして、世界各地のキリスト教会に「ひとつの泉」が開かれています。そこから、無尽蔵の御言の泉が湧き出るのです。この泉を求めて、多くの民が上ってきますように。この泉から湧き出る御言によって、多くの人々の罪と汚れが清められますように祈ります。


ゼカリヤ書 12章

2023年08月04日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 12章
わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、初子のために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。
(12・10)


先の11章で、預言者ゼカリヤは民から拒絶され、銀貨30枚で関係を断たれてしまいました。その出来事は、民がキリストを拒絶する姿を預言していることを見ました。また、キリストであるイエスも、ご自分を拒絶するが故に臨むことになるエルサレムの滅亡を予見して涙なさいました。

その涙に続く最後の言葉は、わたしは言っておく、『主の御名によって来たる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろうでありました(マタイ23・39)

つまり、自分たちが拒絶したイエスこそ神のキリストであると知って、そのお方を呼び求めるようになる時、イエス・キリストは再臨なさり、イスラエルの民とお会いになるという意味です。

さて、ゼカリヤ書12章では、一度はキリストを拒絶したイスラエルの民ですが、彼らがキリストを受け入れるようになるために、イスラエルに大きな試練が臨むことになると預言しています。

その試練とは、軍隊がエルサレムの街を包囲するようになることです(12・2)

この出来事は、紀元1世紀にローマ軍によってエルサレムの都が包囲されたことを指しているかのようですが、このとき、イスラエルはイエス・キリストを受け入れませんでした。ですから、この預言はこれから起こる出来事です。

そんな危機的な状況の中にあって、エルサレムは周囲の民をよろめかす杯としすべての民にとって重い石とすると預言されています(12・2~3)それは、エルサレムの民が、終わりの時代に大きな影響力を持つ存在となるという意味です。

例えば「重い石」とは、子どもが重い石をもてあそぼうとして、かえってその石で怪我をするように、イスラエルを侮って攻撃する民は大きな痛手を負うことになります。

それにもかかわらず、敵対する民はイスラエルを滅ぼそうと塁を築くでしょう。この最終の戦争についてヨハネの黙示録でも預言しています。俗に「ハルマゲドンの戦い※」と呼ばれています。 ※実際はハルマゲドンで戦いが起きるのではない。イスラエルに敵対する各国の軍隊がハルマゲドンに集結するのである。

その過程で、イスラエルはかつて自分たちの先祖が十字架に付けて殺したイエスこそキリストであると知るようになります。冒頭の聖句のように、自分たちが突き刺した者を見て、知って、激しく慟哭するようになるというのです。

如何にしてそうなるのか、そこにいたる詳しい課程は記述がないのでわかりません。

ただ、ひとつ言えることは、ゼカリヤが預言しているように、ダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐことによって大きく舵が切られることになるでしょう。つまり、聖霊の働きによってなされます(12・10)

ここ数十年の間に、イエスがキリストであると信じるユダヤ人が、少しずつではありますが確実に起こされています。彼らは多くの場合、特別な経験や幻とかの啓示を受けて、イエスがキリストだと知るようになったと証言しています。

これはゼカリヤが預言した、恵みと祈りの霊を注ぐことの結果ではないだろうかと思われます。終わりの時代に向かって、このような霊的覚醒運動はユダヤ人の間に広がって行くのでしょう。ヨハネ黙示録によれば、終わりの時代にイスラエルの14万4千人の選ばれしイエスの証人が預言されていますが、聖霊の圧倒的な傾注によって実現するのです。

祈りましょう。終わりの時代に、あの「後の雨」のように聖霊が豊かに降り注がれますように。その聖霊は、イスラエル(ユダヤ人)の上にも豊かに注がれ、彼らをして恵みと祈りへと導いてくださるように。


ゼカリヤ書 11章

2023年08月03日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 11章
彼らはわたしの賃銀として、銀30シケルを量った。
(11・12)


先の第10章では、終わりの日のイスラエルは聖霊によって回復されるのだと預言されていましたが、それは順当に成就するのではなさそうです。そこに至るまでの混迷の原因は指導者たちにあるからです。

指導者たちのことを「牧者」とか「羊飼い」と呼んでいます。つまり、羊はイスラエルの民、牧者は民の指導者たちのことです。この指導者たちに向かって神の怒りは燃えています。

民は羊のようにさまよい、牧者がないために悩む。わが怒りは牧者にむかって燃え、わたしは雄やぎを罰するとあります(10・2~3)。ここまでが先の10章でした。

そして11章に入って、牧者たちの堕落ぶりが描かれています。これを買う者は、これをほふっても罰せられない。これを売る者は言う、『主はほむべきかな、わたしは富んだ』と。そしてその牧者は、これをあわれまない(11・5)。牧者は羊である民を養うべき立場であるのに、羊を殺したり売り飛ばしても平気でいる姿です。

また、堕落した指導者に盲従する民に対しても叱責が続きます。わたしは、もはやこの地の住民をあわれまないと、主は言われる。見よ、わたしは人をおのおのその牧者の手に渡し、おのおのその王の手に渡す。彼らは地を荒す。わたしは彼らの手からこれを救い出さないと言われ、 神は侵略者の欲しいままに任せるのです(11・6)

7節からは、神は預言者ゼカリヤに、お前がイスラエルの牧者となりなさいと命じられました(11・4、11・7)

そこで、ゼカリヤは恵み結びという名の2本の杖を手にして民を教えたのです。この行為は、やがて来られるキリストがまことの牧者として民を導かれる姿を預言しています。

しかし、他の指導者たちはゼカリヤに批判的でした。そこでゼカリヤは、反対する指導者たちを罷免したようです。次のように記しています。わたしは一か月に牧者三人を滅ぼした。わたしは彼らに、がまんしきれなくなったが、彼らもまた、わたしを忌みきらったとあるとおりです(11・8)

この情景は、まことの牧者であるイエス・キリストが来られても、イスラエルの指導者たちはイエスを歓迎しなかったことと似ています。

その場合、キリストを拒絶した民はやがてローマ軍の侵攻によって滅ぼされることになるのですが、その悲惨な末路を予見して、イエス様は涙しながら次のように告白なさいました。

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。丁度、めんどりが翼の下にその雛を集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ23・37~38)

こうして、民はまことの牧者であるキリストを拒絶して、銀貨30枚で関係を断ってしまうのですが、ゼカリヤの場合も同様で、人々は彼を拒絶して銀貨30シケルを支払ったのです。この銀貨30シケルについて、神の言葉がありました。

彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮の賽銭箱に投げ入れよと。そこでゼカリヤは銀30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたのです(ゼカリヤ11・13)。 ※口語訳では、ゼカリヤは銀貨30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたとなっている、新改訳では「神殿の陶器師に投げ与えた」と翻訳。

不思議な行為ですが、そのことはやがて、イエスを売った金額が銀貨30シケルであったこと、それを受け取ったユダは後悔して自死する前に銀貨30シケルを神殿の賽銭箱に投げ入れたこと、さらに、祭司長たちはその銀貨が神殿への献金には相応しくないと判断し、その銀で陶器師の畑を買ったことと一致します(マタイ27・3~10)

ゼカリヤに起きた一連の事件は、やがてきたるべきキリストの姿を預言していたというわけです。先の10章の「イスラエルの霊的回復」に至る前には、このような裏切りと試練を経るのだと預言されています。


ゼカリヤ書 10章

2023年08月02日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 10章
あなた方は春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる。
(10・1)


春の雨とは後の雨とも言われ、大収穫を前に降る雨のことです。この雨によって作物は豊かな実りをもたらします。その豊かな収穫を前にして、雨を求めよと命じています。

その収穫とは、単なる農作物のことではありません。終わりの時に実現する大いなる救いのことを意味しています。

聖書は、世の終わりを「収穫の時代」として描いています。イエス様も、「目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」と言われました(ヨハネ4・35)。また、良い畑に毒麦がまかれた例え話の中でも、あわてて毒麦を抜かないで、収穫の時まで待つようにと言われました(マタイ13・30)。また、涙をもって種を蒔く者は、喜びの声を上げて刈り取るという約束も思い出されます(詩126・5)。そして、聖書の最後の書であるヨハネ黙示録には、天使たちが鎌を手に大収穫のために下ってくる様子が描かれています。

天の神は農夫のようなお方です。この地に御言の種を蒔いて、豊かな実を収穫しようとなさっています。しかし、御言という種が実を結ぶためには、聖霊の雨がふらなければなりません。

聖霊の働きのない御言は単なる知識で終わります。神の生きた御言となるために、聖霊がお働きになります。聖書を読む時も、聖霊のお働きがあるので、文字としての聖句が神の御言として私の心に蒔かれ、そして実るのです。

ですから、冒頭の聖句のように春の雨の時に、雨を主に請い求めよと言われるのです。

聖霊なる神様。終わりの時代にどうか聖霊の雨を豊かに降らせてください。そして、神の御言が芽を吹き、成長し、実らせてください。終わりの時代の大収穫を得させてください……と祈ります。

イスラエルの民についても同じです。終わりの時代に、どうか聖霊の雨が「後の雨」のように豊かにイスラエルに降り注ぎ、聖霊を受けたイスラエルが、終わりの時代に立ち上がりますようにと祈ります。

彼らはホロコーストの歴史の中で苦しみ、屠られる羊のような弱々しい民でしたが、その群れの羊であるユダの家を顧み、これをみごとな軍馬のようにされるからであるとあるからです(10・3)。また、歴史の舞台からは消されてしまったかのようなイスラエルの中から、偉大な働き人が起こされます。隅石は彼らから出、天幕の杭も彼らから出、いくさ弓も彼らから出、支配者も皆彼らの中から出るからです(10・4)。

この終わりの時代に向かって神のご計画は進んでいます。私たちもその働きに召されています。聖霊が春の雨のように豊かに降り注ぐことを祈りましょう。


ゼカリヤ書 9章

2023年08月01日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 9章
シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
(9・9)


第9章からは、世の終わりにおけるさばきと、完成する神の御国の栄光について預言されています。まず始めに、長年イスラエルを苦しめたスリヤやペリシテの町々の滅びが語られています。

そして、9節からはエルサレムの祝福です。

神の御国の王なるキリストが来られるからです。真実な王のご支配によって、まことの平和と繁栄がもたらされます。しかし、不思議なことに、御国の王はロバの子に乗って来られるのです。

王は軍馬に乗って入城するのが常です。屈強な兵士を引き連れて、雄々しく勇ましく入城するのです。しかし、キリストは柔和で、ロバに乗って来られるのです。

これはまったく予想外の展開です。ロバは体も小さく、馬のように速く走ることもできません。ですから、戦争に不向きです。荷を運び、平和のために労働するための家畜です。そんなロバの子に乗ってキリストが来られるとはどういう意味でしょうか。

実際、この預言はイエス様が十字架で死なれる5日前に実現しました。屈強な兵士ではなくガリラヤ出身の漁師たちからなる弟子たちを引き連れて、イエスはエルサレムに入られました。その意味を解く鍵は10節の聖句にあります。

わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ」。

神の御国の王は、武力をもって平和をもたらすのではなく、逆に、その武力を取り除くことによって支配なさるのです。

しかし、人類史上登場した王たちは、キリストとはまったく逆の道をたどりました。軍隊を送り込んで平和をもたらそうとしました。軍備を増強することで、それが抑止力になって平和をもたらすのだと主張してきました。もちろん、それが人間のなせるぎりぎりの選択肢であることは承知しています。

しかし、そのような平和は薄氷の上の平和に過ぎません。サタンに騙されたり唆されて、今まで以上の戦渦に見舞われることでしょう。

さて、預言通りキリストはロバに乗って来られたのですが、「エフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる」という内容は成就していません。でも、神はご自分の言葉を必ず実現なさいます。キリストが再臨なさる時、それは文字通り成就するはずです。

いま肝心なことは、イエス・キリストを王として我が内なる〝城〟に迎え入れた人々の中に、すでにこの武装解除の預言が成就していることです。

人の心にある「憎しみ」という弓は断たれ、「恨み」という軍馬の脚は切られ、人を踏みつける戦車のような傲慢は打ち砕かれてしまいます。時には核兵器のような武器を隠し持っている心があるかも知れません。それも王なるキリストが取り除き、そこを神の御国となさるのです。

さあ、シオンの娘よ喜べ。平和の王が私の中に来られ、永遠に住まわれるからです。私の中から、人を傷つけたり殺してしまう武器を取り除かれるからです。このようなキリストを王としてお迎えし、彼の支配の下にひざまずく者は幸いです。


ゼカリヤ書 8章

2023年07月31日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 8章
勇気を出せ。あなた方は、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。
(8・9 新改訳)


イエス・キリストを信じた当初、心は熱く燃えていても、歳月が流れると冷めたり弱ったりすることがあります。神殿再建の使命に燃えていた人々も、様々な困難や世の煩いの中で弱さを覚えていました。ですから、ゼカリヤは神殿再建の向こう側に用意されている祝福を預言し励ましたのです。

完成した神殿で真実な礼拝がささげられるとき、そこは神が共におられる祝福の場所なのだと言われるのです。出エジプト以来、イスラエルの民が求めてきた安息の場所とも言えるでしょう。

まず第一に、神殿の建つ都エルサレムは真実の町となります(8・3)。町の広場には老人や子どもたちが平和に暮らす様子も描かれています(8・4~5)

今まで戦乱に次ぐ戦乱で、流血の町エルサレムしか知らない人々にとって、このような平和に満ちた町の姿は安息の世界です。神はそのような町を目指しておられるのです。『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われるように神には当然の帰結です(8・6)

第二に、私たちの信仰は喜びに溢れたものになると預言されています(8~23)

先の7章では「断食はもういいじゃないですか」と質問したことが記されていました。それは人々には信仰は苦行に感じられたからです。喜びではなかったのです。しかし、まことの神殿と礼拝が完成すると、断食はユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝いの時となるのです(19)

「断食」とありますが、信仰生活のことです。礼拝のことです。私の心の内に神殿が再建されたら、礼拝は喜びです。楽しみです。でも、内なる神殿が壊れている人にとっては、礼拝とか信仰生活は苦行に感じることでしょう。

さらに、そのように喜んで礼拝する姿を見て、異邦人がひとりのユダヤ人の衣の裾をつかまえて『あなた方と一緒に行こう。神があなたと共にいますことを聞いたから』と言うのです(23)。これこそ究極の伝道です。

これが、神殿再建の向こう側に用意されている世界です。だから勇気を出して、神の御言を信頼して、神殿再建工事を熱心に進めよと主は命じられます。冒頭の御言の通りです。

やがて終わりの時に完成するこの約束を想い出してください。その約束を忘れてしまうので、世のわずらいによって惑わされるのです。さあ、思い起こそう。預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか(8・9)

日頃、聖書を読む中で、聖霊はあなたに御言を語っておられるではありませんか。毎週の主日礼拝で、牧師の口を通して神の約束を聞いているではありませんか。そこが、私たちの寄って立つべき所です。


ゼカリヤ書 7章

2023年07月29日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 7章
あなたがたが70年の間、5月と7月とに断食し、かつ泣き悲しんだ時、はたして、わたしのために断食したか。
(7・5)


第7章は「ダリヨス王の第4年」とありますから、先の預言から2年が経過しています。ハガイとゼカリヤの預言を通して、人々の信仰は燃やされ神殿再建工事が前進しました。しかし、徐々に信仰は冷めていったようです。

というのは、ベテルの人々から質問が寄せられたのです。それは、私は今まで、多年おこなってきたように、5月に泣き悲しみ、かつ断食すべきでしょうかというものでした(7・3)

ここまで再建工事も進んだし、もうそろそろ断食しなくてもいいんじゃないですか、というわけです。質問者にとっては、断食と祈りは苦痛なことであり、自分の当面の必要が満たされるための交換条件のように考えていたのでしょう。

そもそも、断食とは祈りのためです。日常の飲み食いの時間を祈りの時間としてささげようというのが、断食の精神です。肉の生活から離れて霊的生活を確保するわけです。その意図を踏まえるなら、べテルの人々の質問は的を外しています。

そこで、逆に神が質問なさっています。いったいあなた方は何のために祈っているのですか。冒頭の聖句を要約するなら、今まで断食して祈ったというけれど、果たしてわたしのために……つまり神のために祈ったのですか。むしろ、自分の願望のためだったのではありませんかというのです。

どんなに熱心な断食や祈りでも、それは御利益を得るためとか、願望をかなえるための修行になっているなら、自分のためです。そうではなく、神のためにという本質を見失っていないだろうかと問われているのです。 ※「もちろん、私個人の必要のためにも祈ろう。でも基本は「神のため」である。

主の祈りの前半は神のための祈りです。神の御名があがめられるために祈り、神の御心が成就し、神の御国と栄光が表されるようにと祈ります。その後で、私のための祈りです。

もっと神のために祈ろう。主よ、あなたの正義がこの世になされるようにと祈ろう。主よ、あなたの真実な愛が行われるように祈ろう。だから、ゼカリヤも質問者にこう語っているのです。

真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない。(7・9~10)

これは神の御心です。神が世に現そうとなさっている神の義と愛です。それを疎かにして、自分の欲望を実現するための祈りや断食は、どんなに熱心であっても、神の喜ばれる断食ではありません。


ゼカリヤ書 6章

2023年07月28日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 6章
万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。
(6・12)


ゼカリヤが見た幻の第1~5番目までは、直面している神殿再建に関わる幻でしたが、その後は世の終わりに伴う幻へと展開しています。最後の第8番目の幻は4つの戦車とそれを引く馬の幻です。情報があまりにも少ないので、断定的な解釈は避けるべきですが、世の終わりに全地を行き巡るさばきと戦いを表していると思われます。以上が幻による預言です。

つづいて主は、ゼカリヤを大祭司ヨシュアのもとに派遣しました。そして、大祭司の頭に冠をかぶせよと命じられたのです(6・11)。まるで王を任命する戴冠式のようです。

歴代の王はダビデ王家直系の子孫ですから、大祭司が、王になることはあり得ないことです。ですから、ゼカリヤのこの行為は預言としての行為であって、この時点で実際にヨシュアが王となったわけではありません。

大祭司でありながら王となる人物。しかも、その名がヨシュアであるのは預言です。なぜなら、ヘブル語の「ヨシュア」は、ギリシャ語では「イエス」だからです。新約における主イエスが御国の王であり、かつ大祭司であることを想起させます。

この戴冠式で語られた言葉が冒頭の聖句です。王と大祭司を兼ねた人物がやって来るというのです。そのお方が枝(若枝)です(3・8)。先に申し上げたように、枝とはメシヤのことを指します。捕囚前にイザヤによって預言された「若枝」ですが、この時に至ってそれが、王であり大祭司であるお方だと啓示されています。

そして、そのお方こそが神殿を建て直す方だと言われます。冒頭の聖句の主の宮を建てるとは、そういう意味です。

勿論、大祭司ヨシュアも総督ゼルバベルも熱心に神殿再建工事に尽力してきました。しかし、その神殿再建は、終わりの時代に完成する本物の神殿再建を予表する出来事なのです。

若枝として来られるお方とは、神の御子イエス・キリストです。イエスは当時の神殿をご覧になって、この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろうと言われました(ヨハネ2・19)。イエスがご覧になった神殿とは、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルの時代に再建された神殿のことです。正確には後にヘロデ王によって大改修がなされ、荘厳な神殿へと生まれ変わっていましたが、それが完成形ではありませんでした。

イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである(ヨハネ2・21)とあるように、イエス様の体こそが本当の神殿です。イエスの中にこそ神殿の真意が完全に実現されています。イエスの中にこそ神へのまことの礼拝があり、イエスの中でこそ罪のゆるしがあり、神との親しい交わりがあるのです。

そして、このイエス・キリストこそ、まことの大祭司であり、まことの王です。罪の執り成し手である大祭司と、罪をさばいて支配する権威ある王とが矛盾なくひとつになっておられるお方です。

ですから、このお方のことをゼカリヤは次のように預言しています。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある(ゼカリヤ6・13)。王の立場と祭司の立場とに一致があるお方こそ、私たちの主イエスなのです。


ゼカリヤ書 5章

2023年07月27日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 5章
これは全地のおもてに出て行く、のろいの言葉です。すべて盗む者はこれに照して除き去られ、すべて偽り誓う者は、これに照して除き去られるのです。
(5・3)


ゼカリヤが見た6番目と7番目の幻は、空を飛ぶ巻物(5・1~4)と、エパ枡の中に座る女(5・5~11)でした。

空を飛ぶ巻物は神の律法であろうと思われます。巻物のサイズが神殿の聖所と同じであるのは、神の聖なる基準の象徴だと考えられます。

巻物が空を飛ぶようにして全地を行き巡り、その基準に従って罪が暴かれる様子が描かれています。罪を悔い改めない者にとっては、その巻物は「のろい」だと言われてしまいます。しかし、神の御言を受け入れて従う者には、救いの言葉であり、蜂蜜のように甘いのです。

イエス様も、ご自分の語られた御言が、世の終わりのさばきの基準であると言われました。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ12・48)

次に、エパ枡の幻は何でしょう。約23リットルの枡で、分量を量る道具です。その中には人々の罪が詰まっています(ゼカ5・6)。そして、その蓋を開けると、ひとりの女が座っているのです(7)

「罪と女」というキーワードは偶像礼拝を意味します。黙示録が預言しているように、最後に滅ぼされるのは大淫婦バビロンという名の女です。聖書では、女は人間を表します。そして、この場合、偶像礼拝の罪に満ちた人々を表しています。

そんな罪がギューッと詰まったエパ枡は、地と天の間に高く上げられます(9)。人々が崇拝するような高みへと上げられるのです。そして、エパ枡はシヌアルの地の神殿に安置されるというのです(11)。シヌアルとはバビロンの地です。偶像礼拝の象徴であるバビロンで崇拝されるために、エパ枡は高く上げられるというわけです。

ゼカリヤの預言ではそこまでですが、ヨハネの黙示録によれば、それは大淫婦バビロンとして滅ぼされることになっています。ですから、この偶像礼拝から離れよ。まことの礼拝者たれ。それがイエス・キリストを信じる者たちの生き方です。


ゼカリヤ書 4章

2023年07月26日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 4章
ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
(4・6)


今までも見て来たように、帰還民による神殿再建工事は非常な困難が伴いました。それを率いる総督ゼルバベルの心労は量りがたいものでした。そんなゼルバベルを励ますための預言です。それは、ゼカリヤ書の5番目の幻で、金の燭台と2本のオリブの木の幻です(4・2~3)※先の第3章では、大祭司ヨシュアへの励まし。ここでは総督ゼルバベルへの励ましである。

このメノーラと呼ばれる金の燭台は、神殿の聖所に設置されているものです。燭台には7つの「ともしび皿」があり、この火は消してはなりませんでした。ですから、神殿で奉仕する祭司は、オリーブ油を定期的に注がなければなりませんでした。これは、世を照らす神の栄光の象徴です。

しかし、ゼカリヤが見た燭台の幻は、神殿に置かれているものとは様子が違っていました。それぞれ7つのともしび皿に〝給油管〟がついていて、両隣の2本のオリーブの木から油が途切れることなく供給されているのです。

このオリーブの木から供給される油は、聖霊を表しています。この聖霊の油注ぎによって、神の御業は遂行され、神の栄光は輝き続けるのです。冒頭の聖句のこれは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのであるとはそういう意味で(4・6)

神の働きもそれに伴う栄光も、人間的な能力や立場上の権力によってなされるのではなく、ただ、神が注がれる聖霊によるのです。

ゼルバベルはペルシャ帝国からユダヤ総督の任命を受け、その権威を授かって帰還民を統率しました。また、彼はダビデ王家の子孫であって、その能力は優れていたことでしょう。しかし、エルサレムに帰還してみて、その権勢も能力も歯が立たない現実にぶつかっていたのです。

現代の私たちも息切れをしていませんか。無力感に押しつぶされていませんか。ゼルバベルもそうだったのです。しかし、だからこそこれは権勢によらず、能力によらず、聖霊によるのです。

花婿を迎えるために火を灯しながら待っていた娘たちも、疲れ切って眠ってしまい、その火を消してしまいました。しかし、思慮深い娘たちは予備の油を用意していて、すぐに火を灯して花婿を迎えることができました。このように、私たちも時には眠ってしまうことがあります。しかし、聖霊の油そそぎを忘れてはなりません。いつでも悔い改めて、聖霊なる神につながって、油の供給を得るようにしましょう。とは言え、「そうだ!!聖霊によってだ!!」と、再び肉で頑張るのではありません。誤解を恐れずに申し上げますが、聖霊によってとは、〝力を抜くこと〟です。主イエスに任せて〝手を抜いて〟みてください。

すると、神は、大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろうと宣言なさいます(4・7)

「大いなる山」とは神殿建設を妨げる困難のことです。しかし、この幻で勇気を得たゼルバベルは、神殿の「かしら石」……つまり神殿の重要な礎石を据えることができたのです。

行く手を阻む「大きな山」に向かって「お前は平地となれ」と叫んでみましょう。そして、「恵みだ、恵みだ」と賛美しながら進むのです。それが、権力や能力によらず聖霊によって歩む私たちの生き方です。

さて、ゼカリヤの預言では、燭台の両脇に立つオリブの木は、たりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者と解説されています(4・14)

先の3章では、大祭司ヨシュアへの励ましがあり、この4章では、総督ゼルバベルへの励ましです。帰還民を率いて神殿再建のリーダーとして立てられたこのふたりによって、民は励まされ使命を果たして行きます。彼らがしっかりと聖霊によって立つことで、民は働くことができたのです。

いつの時代にも、神の業がなされるために〝ふたりのオリーブの木〟が立てられるのではないかと思います。出エジプトではモーセとアロン。バビロン解放後にはゼルバベルとヨシュア。初代教会の時代にはペテロとヨハネとかパウロとバルナバ等々です

やがて、世の終わりに登場する聖霊に満ちたふたりのことも聖書は預言しています。ヨハネの黙示録では、反キリストが暗躍する時代に聖霊の油注がれたふたりの証人が描かれています(黙11・1~12)

最後の最後まで、聖霊の確かな証しと光が世を照らすことになるはずです。いつの時代も、そのような聖霊の油が注がれた「世の光」となる人物が求められています。あなたがその人です。


ゼカリヤ書 3章

2023年07月25日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 3章
御使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。
(3・4)


ゼカリヤに啓示された4番目の幻は大祭司ヨシュアの幻でした。

このヨシュアは総督ゼルバベルと共にバビロンからの帰還民を率いて戻ってきた大祭司です。しかし、そんな偉大な大祭司も、幻の中では、サタンによって訴えられているのです。しかも大祭司ヨシュアの服は汚れています。

この服とは、礼拝を執り行うときに着る「祭服」のことで、その汚れはヨシュア個人の罪を意味していると共に、イスラエル民族の積み重ねた罪をも象徴しています。

そんな罪に汚れた大祭司が、いったい神への執り成しのわざをなし得ようかと、サタンはヨシュアの傍らに立って彼をとがめ、お前など神の任務にふさわしくないと訴えるのです。このサタンの攻撃に人は滅入ってしまいます。実際にヨシュアも、帰還民を信仰に導くにあたって挫折を味わっていたのです。

私たちクリスチャンも同じです。「えっ!お前みたいな奴がクリスチャンなのか」と、ほくそ笑むサタンの嘲りが聞こえてきそうです。

でも、恵み深き神のもとに救いがあります。神は、大祭司ヨシュアの汚れた服を脱がせ、彼にきよい祭服を着せられたのです(3・4)。この〝神が着せてくださる服〟というモチーフは、旧約では罪を犯したアダムとイブに、神は皮の衣を着せてくださったことに始まります(創3・21)。それは、新約に至ってイエス・キリストという服の預言です。イエスを信じる者はキリストを〝着た〟とあるとおりです(ガラ3・27)

ですから、サタンが執拗に私を責めようとも、神が着せてくださった祭服を着て、私たちは神の御前に出て祈り、神に礼拝するのです。この祭服を着ないでは、だれも神にお会いすることができません。せっかくの婚宴の席からつまみ出される他ありません(マタイ22・11~13)

さらに神は、この大祭司ヨシュアに語りかけるようにして、後の時代に登場する〝本物の大祭司〟について語っておられます。

見よ、わたしは〝わたしのしもべなる枝〟を生じさせよう。(ゼカリヤ3・8)

この「わたしのしもべなる枝」とは、キリストを表しています。預言者イザヤは、エッサイの切り株から若枝が芽吹くようにしてキリストは登場すると告げました(イザ11・1)。また、預言者エゼキエルも、神の若枝が成長し豊かな木となることを語りました(エゼ17・22~24)。この若枝なるキリストこそ本物の大祭司であり、彼の執り成しによって、人々の罪は〝一日の内にきよめられる〟というのです。

万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。(ゼカリヤ3・9)

まさに、大祭司キリストは、たった一度限りの十字架の死によって、全人類の罪を取り除いてしまわれました。因みに、石とはキリストのこと、石の7つの目とは聖霊のことと考えられます。このような完全なる大祭司の登場を待ち望みつつ、大祭司ヨシュアは帰還民の執り成し手として祈り、神に仕えました。

私たちもイエス・キリストという祭服を着て神に仕えるべく「新約時代の祭司」です。


ゼカリヤ書 2章

2023年07月24日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 2章
主は言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。
(2・10)


ゼカリヤが見た幻はさらに続きます。測り縄を手にした人がエルサレムを測りに行く幻でした。彼は、町の周囲を測量して、街を守るための〝城壁〟を建設しようというのです。しかし、それには及ばない。城壁などで収まらないほどに人々や家畜でエルサレムは繁栄するようになるからです。

ですから、石造りの城壁ではなく、主なる神ご自身が〝城壁〟となってくださり、エルサレムの町を守ってくださるのです。エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる。とはそういう意味です(2・4~5)

主なる神からの心強いエールです。このような励ましとビジョンを心に抱きながら、人々は神殿を再建したのです。

そして、さらに主の励ましの預言は続きます。冒頭の聖句です。シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むのです。シオンとはエルサレムのことであり、娘とはそこに住む民のことです。

第一義的には、再建されるエルサレムの街を意味します。しかし、王の住まうエルサレムは、キリストを迎え入れた新約の教会でもあり、それは花婿であるキリストと共にある花嫁としても表現されます。

そして、やがて天で完成する天の都エルサレムではまさに文字通り、キリストがそのただ中にすまわれるのです。そんな聖なる都が完成するのですから、娘たちよ喜び歌えと言われるのです。

さあ、私たちの人生という街のただ中にも、主イエスは住まわれます。また、キリストの教会のただ中に住まわれるという意味でもあります。そして、その街の中心は〝再建された神殿〟です。そこでは、まことの礼拝がささげられます。

帰還したユダヤ人たちが神殿再建工事に苦労したように、新約の私たちも、人生の中心にまことの礼拝という神殿を完成させるには、苦労が伴います。サマリヤ人が妨害したようにサタンの邪魔も入ります。

でも、私たちはゼカリヤの預言した幻を胸に抱きながら神殿を再建するのです。


ゼカリヤ書 1章

2023年07月22日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 1章
あなた方の先祖たちのようであってはならない。
(1・4)


ゼカリヤは先のハガイと同じ時期に活躍した預言者でした。ハガイが預言したダリヨスの第2年第6月から遅れること2ヶ月、第8月に預言活動が始まっています(1・1)

帰還したユダヤ人たちは預言者ハガイの御言によって奮起し、神殿再建工事を再開しました。そんな人々に、ゼカリヤは励ましの御言を預言しました。この神殿再建の更に先に用意されている神のご計画について語りました。

まず神は、あなた方の先祖たちのようであってはならないと語られました。

この先祖たちとは、バビロン捕囚以前のイスラエルのことです。歴代の預言者たちによって悔い改めが勧められたにもかかわらず、彼らは御言に耳を傾けませんでした。そして遂にバビロン捕囚へと追いやられたのです。人々はこの試練を通してたたき直されたわけです。あの悲しく悲惨な出来事を通して、人々は悔いし砕けし魂へと変えられたのです。

新約における私たちもキリストを信じて新しく生まれ、新しく造られた者です。その私たちにも同様に「以前のようであってはならない」と励まされています。だから、この私から、新しい流れを造り出そうという気概を持つのです。

さて、ゼカリヤ書の前半は8つの幻の描写と解説からなっています。

第1章からは、赤馬に乗った人の幻です(1・8)

この馬に乗った人とは御使のことです。彼らが全地を行き巡ると全地は穏やかだと言うのですが、エルサレムとユダの町々はそうではありません(10~12)。ユダヤ人は帰還したものの、なおもペルシャ帝国の属国としてその支配下に苦しんでいるからです。

ですから、万軍の主よ、あなたは、いつまでエルサレムとユダの町々とを、あわれんで下さらないのですか。あなたはお怒りになって、すでに70年になりましたと述べられています(12)

それに対して主は、わたしはエルサレムとシオンをねたむほど激しく愛したと言われます(14・新改訳)。「ねたむ」など、神には不適切な表現のようにも思いますが、人の語彙では表現しきれないほど神の愛は大きく深いのです。

なぜ、ねたむほどに愛されるのかと言えば、都エルサレムの中に王なる神が住まわれることは、変更することのない計画だからです。

16~17節のわたしはあわれみをもってエルサレムに帰る。わたしの家はその中に建てられ、測りなわはエルサレムに張られるとか「わが町々は再び良い物で満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶとの聖句は、神の揺るがない決意表明であり、今はまだ荒れ廃れていても、主はシオンの繁栄を必ず回復し、エルサレムに共に住まわれるのだという励ましの言葉です。

それは、新約の私たちにも同じです。私たちも、私の内なる霊魂に神殿を完成させます。そこでささげら真実な礼拝の中に主イエスは共に住まわれ、まことの繁栄を回復なさるのです。

さて、18節以降は4つの角と4人の鍛冶の幻です。角とは王権であり、エルサレムを散らした4つの帝国のことだと考えられます。バビロンとペルシャ。さらにこれから登場するギリシャとローマです。

その角を鍛冶職人のように打つのは、それら帝国を制御する御使たちのことだろうと思われます。いかなる大国の王権であろうとも、神のご支配の下でなされることを意味しています。