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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ローマ人への手紙 16章

2022年05月11日 | ローマ書
ローマ人への手紙 16章
キリスト・イエスにある私の同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。
(16・3)


手紙を終えるにあたり、兄姉へのあいさつがつづられています。パウロと共に神の働きにたずさわった多くの兄姉がいました。そんな彼らのことを、パウロは同労者と呼びました。

私たちも「同労者」と呼ばれる者になりたいと思いませんか。

イエス様も弟子たちに、これからはあなた方とのことをしもべとは呼ばないと言われ、と呼ぶことにすると言われました(ヨハネ15・14)。なぜですか。しもべは主人のしていることを知らないからです。しかし、イエスは弟子たちに神の意図を知らせたので、もはや「しもべ」と言わず、「友」と呼んでくださったわけです(ヨハネ15・15)

このとは、パウロのいう同労者のことです。

私たちはローマ書を通して、神の救いは信仰によることとその確かさを知りました。異邦人の救いとイスラエルの救いを知りました。また、救いは単なる罪からの救いだけでなく、神への礼拝のためであることも知りました。こうして、神の意図を知る者となりました。そのような者たちが、同労者になることができます。イエスから「わが友」と呼んでいただくことができます。

ここに記されているプリスカとアクラ夫妻もそのひとりです。彼らはパウロと出会う以前はローマに住んでいたのですが、ユダヤ人退去令が出され、難を逃れてコリントに来ていた時のことでした(使徒18・1~2)

夫妻はパウロを通してキリストに出会い、コリント教会を建てあげるために尽力しました。

しかし、この手紙では、夫妻がローマ教会に在籍していることが分かります。ユダヤ人退去令がある中で、あえて彼らは福音宣教の使命をはたすために、再びローマに戻っていたのです。

ローマに行けば困難があることを承知のうえで、福音ために再びローマに戻ったアクラ夫妻は「同労者」であり「友」です。

その他にも同労者たちの名前が列記されていますが、ルポスという人物に注目してみましょう。彼はローマ教会の中心的な人物でした。彼の母はパウロにとっても母親のような存在でした(16・13)

実はこのルポスの父親は、イエス様がゴルゴダの丘へ向う道で、イエスの十字架を代わりに背負ったクレネ人のシモンです(マルコ15・21)。あの時の出会いは、シモンにとって人生の分水嶺でした。

彼は十字架を負うことによって、イエスを目の当たりにし、イエスの十字架の死を見届けました。イエスの十字架は傍観者として見ているときは何も分かりません。しかし、十字架を負ってみて初めて見えてくるものがあります。

私にとって十字架とは何でしょうか。救いを受けるだけの十字架でしょうか。神の御心を知って、同労者として負うべき十字架でしょうか。

シモンはその両方を一度に体験したわけです。そして、シモンの家族はイエスを信じる家族となり、その息子ルポスはローマ教会で仕える同労者となりました。

祈りましょう。主からわが友よと呼んでいただける同労者になることができますように。十字架を負って主イエスに従えるように助けてください。
 
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ローマ人への手紙 15章

2022年05月10日 | ローマ書
ローマ人への手紙 15章
こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。
(15・16)


パウロを異邦人伝道へと駆り立てたものは、異邦人を御名のための信仰の従順にいたらせるためであったと、第1章で見ました。

そして、この手紙を終えるにあたって再び福音宣教の目的を語っています。

それは、異邦人を神へのささげものとするためです。これこそ最高の礼拝だからです。これこそ、人が成せる最も光栄に富んだ働きです。

ノーベル賞を受けることも栄光に富んでいます。オリンピックで金メダルを得ることも栄光に富んでいます。しかし、神への礼拝こそ、人の成せる働きの中で最高の栄光に富んだ勤めです。

私たちは、この世では金メダリストのような栄光を受けることはないにしても、やがて朽ちてしまう世の栄光とは比較にならないほどの神の栄光を天で受けることができます。

礼拝……そこは、天においても地においても、最高に栄光が輝く場です。

私たちが罪から贖(あがな)われたのは、私自身が神へのささげものとなるためです。だから、霊的な礼拝とは、自分自身を生きた聖なる供え物として神にささげることだと述べられています(12・1)

人間を罪から救うだけであれば、それは福音の前半部分です。福音はさらに、私たちを御名のために信仰の従順へといたらせます。神への真実な礼拝へと向かわせます。

神は万物を御子のために創造され、御子を万物の相続者として定められました。このようにして、神の栄光に富んだ世界を、御子を通して実現することが神の御心です。

その「神の栄光に富んだ世界」とは、神への霊的な礼拝と秩序のある世界のことです。

陶器師が造った器をどのように使おうと、それは陶器師の権能であることを見ました(9章)。神は人類を創造して、神を礼拝する器となさいました。つまり、神の栄光を入れる器として用いられるのです。

これこそが、土の器として最高に栄誉に富んだ身分です。

あなたは、このような神の意図に同意なさいますか。アーメンと同意なさって聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物(15・16)として自分をささげ、まことの礼拝者となってください。

祈りましょう。私を、主の前にへりくだる者としてください。そして、霊とまことをもって礼拝する者とならせてください。まことの礼拝者としての栄誉にあずからせてください。
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ローマ人への手紙 14章

2022年05月09日 | ローマ書
ローマ人への手紙 14章
それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなた方は、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。
(14・13)


……「福音による生活」のつづきです……

(6)福音による生活はさばき合わない。

日本は海に囲まれているので、外部からの影響や人の出入りも少なく、比較的に同じような環境の中で暮らしています。だから、同じような感覚や習慣で生きています。

しかし、そんな日本人同士ですら互いの違いに驚かされます。ましてや当時のローマ教会は、ありとあらゆる人々で構成された教会でしたから、その違いはもっと大きかったことでしょう。

民族の違いを実感することのひとつは、食べ物の違いではないでしょうか。ローマ教会でも食物のことで賛否両論が行き交いました。菜食主義者もいれば、肉を食べても罪にならないと考える者もいました。

当時の食肉は、偶像への供え物として捧げた後に市場に出回るのが一般的であったため、純粋な食肉用のものとは区別できませんでした。

偶像への供え物としての肉を食べることで、偶像礼拝の影響を受けるから、肉を食べないと考える信者もいました。その人からすれば、肉を食べる信者はつまずきとなりました。「なんて不信仰な人なんだ」というさばきが生まれました。

卑近な例でいえば、仏壇に供えた饅頭を食べても良いか……といったことでしょうか。牧師がそれを美味そうに食べるのを信徒が見てつまずくこともあるわけです。食べ物以外でも、飲酒や喫煙をするクリスチャンにつまずく人もいれば、聖書で禁じていないのだから問題ないと考える人もいます。

肉食を肯定する人は、主イエスが、「口に入るものが人をけがすのではない」と言われたのだから、祈ってきよめて食べれば問題ないと考えました。

本質以外のことでの議論や争いは不毛です。むしろ、さばき合わないために、つまずきとなるものを置かないように配慮せよと命じています(14・13)

教会の一致とは、みなが同じ意見になることではありません。福音の根幹に関わることでない限り、異なる意見を互いに認め合い、尊重し合うところに、成熟した教会としての一致があります。

〝皆が同じになる〟という一致はカルト的です。同調圧力の強い日本ではその傾向が強いです。「和の精神」といえば聞こえは良いのですが、それが行き過ぎると、皆が同じになることによる一致を目指してしまいます。違いを認めないし、違いを恐れるのです。大きな枠でいえば、日本社会全体が「日本教※」というカルト宗教にもなり得ます。 ※日本人の精神構造を読み解いた山本七平は、日本人が〝日本教〟という大きなくくりの中にあり、キリスト教も、〝日本教キリスト派〟であると論じた。著書「日本人とユダヤ人」「空気の研究」等を参照。

しかし、聖書がいう一致とは、異なる器官によって構成される身体としての調和のことです。皆が異なりつつ調和がとれている……これが本当の一致です。

違いを乗り越えるためのキーワードがあります。それは主のためです。第14章に、「主のため」という語句が何回も記されています。私の主義主張のためではありません。また、相手の主義主張のためでもなく、すべては主のためです。

「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものなのである。」(14・8)

「主のため」に違いを乗り越え配慮すること。自分の主義主張のために生きてはならないと……これは、次の15章で教えられています。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることをなさらなかったのですから、「主のため」にそうすべきです(15・3)

そうすることによって、キリストが私たちを受け入れてくださったように、あなた方も互いに受け入れて、神の栄光をあらわす(15・7)ことができるのです。

違いを乗り越えるための次のキーワードは「平和と互いの徳を高めるため」です。

「こういうわけで、平和に役立つことや、互いの徳を高めることを、追い求めようではないか。」(14・19) 新改訳では平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことこととを追い求めましょう」。

違いを認めることができず、互いを非難することでどこに向かうのですか。何を目指していますか。相手を屈服させ、自分と同じになることを目指しますか。それは不可能であり不毛です。

御言が指し示す「互いの平和と霊的成長」にフォーカスを合わせて、違いが活きるようにしよう。互いの違いが「キリストのために」活きるようにしよう。肉を食べるのも食べないのも自由です。飲酒も禁酒も自由です。喫煙も禁煙も自由です。でも、その自由は「キリストのための自由」です。その自由は「互いの平和と霊的成長」を目指すための自由です。

自由が他者を傷つける自由にならないように祈ろう。自由が霊的堕落につながらないように祈ろう。
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ローマ人への手紙 13章

2022年05月07日 | ローマ書
ローマ人への手紙 13章
あなた方は時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなた方の眠りからさめるべき時がすでにきている。なぜなら今は、私たちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
(13・11)


……「福音による生活」のつづきです……

(3)福音による生活は権威を尊重する(13・1~7)

神の権威を認めるが、世俗の権威は認めないのは間違いです。神は天の霊的秩序を表現するために、地上においては人を指導者として立てて、権威と秩序をお与えになりました。

「神の権威だけを認める」といえば信仰深く聞こえますが、職場の上司にいちいち反抗していたら秩序は破壊されます。

主の祈りで、「天で御心が行われたように、地にもなさせたまえ」と祈りますが、イエスが天に昇り、神の右に座されたことで、サタンによって汚された霊的秩序を回復なさいました。これが、天で実現した神の御心です。

その天と同じように、地上でもなされますように、と祈っているわけです。ですから地上における権威に従い、秩序を保つことは大切です。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神へ」と主イエスは言われましたが、直接的には税金のことでした。ここでは、カイザル(ローマ皇帝)の権威を認めて税金を払いなさいと言われています。

しかし、カイザルにゆだねられた権威と神の権威を区別します。

もしカイザルが「私を礼拝せよ」と命令するなら、それはカイザルに賦与された権威を越えています。それは天の権威を超越し、神の権威への敵対ですから、クリスチャンは命がけで反対します。

初代教会の人々が殉教してまで皇帝礼拝を拒否したのは、ローマ帝国を破壊しようとしたわけではありません。カイザルの権威と神の権威を区別し、神の権威に従順したのです。

さて、権威についてもうひとつ注目してくべきことがあります。それは、権威をおびている人々は〝神のしもべ〟であるという点です(13・4、6)。「権威ある者はしもべである」と述べています。

最高の権威をお持ちである御子イエス・キリストでさえ、しもべとなって仕えてくださいました。権威ある者の姿を見せてくださいました。このお方が権威ある立場のすべての基準です。

上に立つ者は、しもべであることを忘れてはなりません。忘れるので、その権威は腐敗し堕落して行きます。牧師しかり。政治家しかり。すべての権威ある者しかり。現代社会に噴出しているリーダーたちの問題はここにあるのです。

(4)福音による生活は律法を完成する(13・8~10)

福音による生活とは「愛する生活」です。イエス様は、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することだ」と、律法を要約されました。つまり、律法は「愛しなさい」と命令しているわけです。旧約では肉の力でこれを成そうとしてできませんでしたが、新約では、肉の力ではなく聖霊によって成す時代です。

福音には、「御子によって罪がゆるされた喜び」と「聖霊によって罪に打ち勝つ喜び」の二面があります。前者だけで終わらず、後者の恵みも得る生活によって、律法の目指すところを完成するのです。

(5)福音による生活とは時を知る生き方(13・11~14)
「時」とはイエスが再臨される時のことです。眠りからさめるべき時……それはイエスが再臨なさって死者は復活し、その時、地上で生きている者は一瞬のうちに復活の体に変えられる……その時のことです。

福音による生活とは、その時を知っている者の生活です。主イエスの再臨にフォーカスを合わせて生きることです。

夜明け近くになり、惰眠をむさぼってウトウトとしていると、「あっ時間が過ぎている。わぁ間に合わない!」なんてことがあります。イエス様が来られた時、そんなことになるなと警告しています。

あなた方の眠りからさめるべき時がすでにきている。なぜなら今は、私たちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからであると聖書は警鐘を鳴らしています。

罪に翻弄されている生活は、霊的には眠った状態です。そんな状態で、主イエスが再臨された時、罪でよごれた服でお迎えしますか。聖歌で歌う「花婿なるキリストを迎えに出られるか。罪のシミのない服を毎日きておるか」の歌詞のごとく、目覚めて備えていますか。そのために聖書はこう勧めています。

「夜はふけ、日が近づいている。それだから、私たちは、闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(13・12~14)

新共同訳聖書はこう訳しています。闇の行いを脱ぎ捨てて……主イエス・キリストを身にまといなさい」。つまり、着ている服が重要です。「主イエス・キリストを着る」ことです。

人は着ている服で行いが導かれます。スーツを着て土木工事をしません。学生服を着て風俗店には入れません。カソリックの僧侶が僧服をまとっているのは意味があります。僧服を着ながら、罪をおかすことはできません。そういう意味で、僧服は、罪をおかすことから身を守ってくれるわけです。

それと同じように、イエス・キリストを着なさいと命じています。肉眼では見えない服ですが、信仰をもってイエス・キリストを着ていると意識すべきです。イエス・キリストという服は、私の行動をコントロールしてくれます。罪から遠ざけてくれます。

今日も時を知って、目覚めていることができますように祈ります。
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ローマ人への手紙 12章

2022年05月06日 | ローマ書
ローマ人への手紙 12章
私たちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
(12・5)


さて、第12章からは福音による生活が記されています。順をおって見て行きます。

(1)福音による生活は礼拝が基本(12・1~2)

福音による生活の最初に記されているのが「礼拝」です。ローマ書の第1章で取り上げた聖句は、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。

御名のための従順……それは礼拝です。このために私たちは救われました。福音による生活の第一は礼拝の生活です。

罪のゆるしを得て救われた私たちですが、私たちは天国に住んでいるわけではありません。天に国籍があるものの、地上の国に派遣されている身分です。そんな自分の立場を忘れないために、自分が何者なのか……というアイデンティティーを見失ってはなりません。私たちは天国人です。

私たちが地上につかわされているのは、天の御国の秩序を世にもたらすためです。主の祈りで、「天で御心が行われるように、地でも行われますように」と祈っているのはこのことです。

その天の御国の秩序とは、神への真実な礼拝です。

神への礼拝は、すべての秩序の根っ子です。造られた者たち(被造者)が、創造者である神を礼拝する……この霊的秩序が崩れるとき、すべての秩序がゆがんできます。

私たちが暮らす「この世」とは、霊的秩序がゆがめられた世界です。創造主である神への礼拝が壊され、神ならぬ偶像や人間を礼拝する世界です。

そんな「この世」に私たちは派遣されているのですから、この世と妥協してはならないと命じられています(12・2)。つまり、創造主なる神を否定する習慣や価値観に飲み込まれてはならないのです。

礼拝を、神が私たちに命じられた窮屈な義務であるかのように勘違いしないでください。むしろ逆です。神の御前に出ることによって、この世の支配から解放されて、罪と死から自由にされた至福の時間が礼拝です。私の天国人としてのアイデンティティーを回復する貴重な時間です。

さて、旧約における礼拝は、動物のいけにえを殺してささげました。つまり死んだささげものでした。しかし新約では、自分自身を生きたささげものとして神に差し出すことが霊的な礼拝です。神から何かを「もらう」礼拝から、一歩進んで、神に自分自身を「献げる」礼拝へと前進しましょう。それが霊的な礼拝であり、福音による生活の基本です。

(2)福音による生活は、キリストの体の肢体としての生活(12・3~21)

福音による生活は、救われた各自がキリストの体の各器官として結び合わされて生きることです。

聖書が描き出す教会のイメージは、性質の異なる各自が有機的に組み合わさったひとつの身体(からだ)として描かれています。無機質で同質な人間の集団ではありません。

身体は、異なったかたちの異なった働きをする器官が、有機的に組み合わさったものです。目と足とではまったく異なった機能を持つのに、身体としては調和を保っています。

そのような身体として、クリスチャンたちが組み合わされているのが教会です。そして、その教会はキリストの身体です。

一方、この世の組織は ――特に日本の組織にはこの傾向が強い―― 違いを嫌います。同質で均質な者たちによって構成しようという論理が働いています。

ですから、組織に適応できる人材を育てようとします。家庭では世間並みの子に、学校では均質な人材を育成しようという傾向にあります。均質な人材であれば交換がきくので、世の組織からすれば好都合なわけです。

しかし、キリストの身体である教会は違います。そこで大切なのは、互いの違いを認めることです。

クリスチャンは各自がみな違います。完全な人はひとりもいません。足りない者たちの集団です。むしろ各自の違いや不足は、互いが協力し合い、愛し合うために神が与えられた賜物です。

だから、それぞれ自分の分をわきまえることが大切です(12・3)。口語訳と新改訳では「限度を越えて思い上がることなく」。共同訳では「分を越えて思い上がることなく」です。

奉仕をする者、教える者、勧めをする者、献金する者、慈善をする者、みな違います。私のなすべき事と他の兄姉のなすべき事は違います。自分の「分」を祈り求め、それをはたすことができますように……。

もうひとつ大切なことは、互いを尊敬することです(12・10)。相手は自分よりまさっている者だと思うことです。人には思いにもよらない能力が備わっているものです。周りも気づかないし、本人も気づいていない場合が多いのです。

私たちがキリストの体として結び合わされたのは、そのような能力が引き出され、神の栄光のために用いられるためです。欠点と思っていたことが、実は長所になるかも知れません。
謙遜な心で結び合わされますように祈ります。
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ローマ人への手紙 11章

2022年05月05日 | ローマ書
ローマ人への手紙 11章
一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。
(11・25~26)


第11章は福音は如何(いか)にしてイスラエルを救うのかのしめくくりの章です。

イエス・キリストの救いはイスラエル(ユダヤ人)から始まりました。もともと聖書の契約は、神がイスラエルと結ばれた約束です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものですと記されているとおりです(9・4)※イスラエル民族は12部族から成り立っていたが、時代の変遷の中で「ユダヤ部族」が中心に展開してきた。そのため、イスラエルのことをユダヤ人とも呼ぶ。

イスラエルに与えられた神の約束は、キリストが来られること、そのキリストによって神の国が完成するという約束です。しかし、彼らはイエスをキリストと認めず拒絶しました。拒絶したためイエスを十字架につけて殺しました。

しかし、神はイエスを死からよみがえらせて、イエスこそキリストであると確証されました。しかし、それでもイスラエルはイエスを信じませんでした。むしろ、信じたのは異邦人たちでした。

その結果、初代教会はユダヤ人クリスチャンによって始められましたが、異邦人クリスチャンの数が増して行き、ついに、キリスト教会はユダヤ人と一線を画するようになりました。

旧約を通して、神はイスラエルを訓練し、キリストを迎えるために養ってこられたのに、神がイスラエルを見捨てたかのような結果です。しかし、断じてそうではありません(11・1)。イスラエルがそのようになったのは、異邦人の救いの期間が挿入されるためであり、これは奥義です(11・25~26)

(1)神の慈愛と峻厳とを見よ(11・22)

たしかに神はイスラエルを切り捨てられました。純正種のオリブの枝が切り捨てられ、野生種のオリブの枝が接ぎ木されたとは、イスラエルが不信仰のゆえに切り捨てられ、そこに異邦人がつながれたことを意味しています(11・17~)

しかし再び、純正種のオリブ(イスラエル)が接がれるとしたら、野生種のオリブ(異邦人)が接がれるよりも、もっとたやすく接がれるはずです(24)。もともと救いの約束はイスラエルのものだったのですから、やがて神は、純正種のオリブであるイスラエルを、救いの木に接がれる時が来るのです。

神はイスラエルに対する約束を、途中でやめたり変更なさる方ではありません。ですから、イスラエルは必ず救われます。神はそのために、長く忍耐されるお方です。

これを通して学ぶべきことの第一は、イエスを拒(こば)んだイスラエルの不従順をあざ笑ってはならないことです。純正種さえ切り捨てられる神の峻厳を知って謙遜でなければなりません(21)

第二に、ご自分の約束を決してお忘れにならない神を信頼することです。高ぶったり、卑下するあまり、神の慈愛から離れてはいけません。神の慈愛の中にとどまるべきです(22)

(2)異邦人の救いの期間はやがて終わる(11・25)

神の人類に対する計画は、イスラエル(ユダヤ人)を軸にして進んでいます。しかし今に至るまで、イスラエルの救いは棚上げ状態になっていて、異邦人の救いの期間が挿入されています。
この期間を異邦人の時代と呼びます(ルカ21・24)。「教会の時代」と呼んでもよいでしょう。この時代は、イエスを信じた人々によって構成される教会が、キリストの花嫁としてきよめられ成長する期間です。

しかし、この期間がいつまでも続くわけではありません。異邦人の完成のなる時までです(ローマ11・25)。 ※口語訳は「異邦人が全部救われるに至る時まで」と翻訳しているが、ひとり残らず異邦人が救われるという意味ではなく、「異邦人の期間が完成する時まで」と解すべきであろう。

言いかえれば、「キリストの花嫁(教会)が完成する時まで」という意味です。教会が完成したら ――つまり、花嫁の準備ができたら――、花婿なるキリストが花嫁(教会)を迎えに天からくだってこられ、教会は天に引き上げられます(Ⅰテサ4・17)

教会が引き上げられると、イスラエルを軸とした神のご計画は再び動き始めます。これは奥義です。

終わりの時、イスラエルは再び歴史の主役として登場するはずです。こうして、黙示録に預言されたことが実現する時代に突入し、キリストが再臨されます。

(3)時の兆候(しるし)を見よ

イスラエル民族が救われる前提条件は、イスラエル民族が散らされた所から約束の地に集められることです(エゼキエル36・24)。つまり、それがキリストの来臨の条件でもあります。

これは2千年前、イエス・キリストが来られる前に一度実現しています。バビロン捕囚から彼らは帰還して、約束の地に住んでいました。そしてついにイエス・キリストは来られましたが、イスラエルはイエスを拒絶しました。

そのためイスラエルは歴史の表舞台から消え、異邦人の期間が始まりました。しかし、あの大戦を経て再びイスラエルは約束の地に集められ、歴史の表舞台に登場するようになりました。そして1948年にイスラエルは建国を果たしました。

ユダヤ人は今もキリストの来られるのを待ち望んでいます。同じくクリスチャンもキリストが〝再び〟来られるのを待ち望んでいますが、両者は同じ方の来臨を待ち望んでいます。しかし、イスラエルはそのキリストがあの十字架に付けて殺したイエスだとは気づいていません。やがて気づく時が来ると聖書は預言しています。

イスラエルの民族的な救いのための条件は整いつつあります。これは時の徴(しるし)です。

祈りましょう。異邦人の救いが完成しますように、そして、イスラエルの救いが実現されることによって、御国が来ますように……。
 
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ローマ人への手紙 10章

2022年05月04日 | ローマ書
ローマ人への手紙 10章
人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。(10・10)


第9~11章は、福音はイスラエルを如何(いか)にして救うのかがテーマだと前章で述べました。

しかし、イスラエルは、福音ではなく律法の熱心によって義とされよう……つまり、救いを得ようとしました。ただ、その熱心は深い知識に基づいていないとパウとは指摘します(10・2)。では、その「深い知識」とはなにか。信仰によって義とされるという知識です。それを無視して、律法の行いによって義とされようというのがイスラエルの熱心です。

一生懸命やっていると自分が見えなくなります。一生懸命なんだから正しいんだという理屈です。こんなに熱心にやっているのに、とやかく言う方が悪い……となると、自分の熱心が正義になります。実は、この自己正義が神の義を妨げるのです。

イエスを信じたぐらいで義とされるって?、そんなわけないだろ!と、自分の正義を通すのです。彼らは神の義を知らないで、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったのです(10・3)

熱心には二通りがあります。肉から来る熱心霊から来る熱心です。肉の熱心は自分の力です。我力です。熱心だけど「肉の臭い」が漂います。それは「キリストの香り」とは異質なものです。そして、やがて自分を誇るようになるのが特徴です。

また、肉の熱心は、周囲に異様な緊張感や圧力を与えます。しかし、霊から来る熱心は、安息と熱心が両立しているので、周りに負担を与えない熱心です。神の愛によって押し出された熱心なので、自分を誇りません。神の御名があがめられることにフォーカスされています。

律法の行い……つまり、肉の熱心で義を追及すると、だれが天に上るであろうかと気になます(10・6)。良い行いをする人は、きっと天に上るだろう。かたや、自分はどうだろうかと恐れます。

天に上るべき義なるお方はキリストのみ。このお方の義以外に天国に入れる正しさはない。人間ごときの正しさで天に入れるのであれば、キリストの義を蔑(ないがし)ろにすることになります。それはキリストを天から引き降ろすことです(6)。つまり、キリストの義を無価値なものにしてしまうのです。

また、肉なる熱心で義を追及する人は、だれが底知れぬ所に下るであろうかとさばきます(7)。あんな悪人は地獄行きに違いないと、己が肉なる義憤から生じる溜飲(りゅういん)をさげようとします。

しかし、罪による死の刑罰をキリストが引き受けて、罪人の行くべき地獄に下ってくださったのに、人の悪で地獄に下るのなら、それはキリストを死人の中から引き上げることだ(7)。つまり、キリストの身代わりの死では足りないので、人間も地獄行きの刑罰を受けねばならないと言っていることになるのです。違います。断じて違います。キリストを信じる義を受けて私たちは救われるのです。

このキリストを信じて義とされるという福音の言葉は、イスラエルの人々から遠く離れたところにあるのではありません。言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にあると記されているではありませんか(8)。だから、これを心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです(9~10)

ただ、律法に熱心なイスラエルの人々には、この福音は遠くにあるように思われます。だから宣べ伝えるのです。宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができようかというわけです(14~15)。このようにして福音は、全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及んだのですが(18)、心を頑なにするイスラエルは反発しています。しかし愛の神は、服従せず反抗する民に、終日わたしの手を差しのべていたのです(21)。以上が第10章の概要です。

さて、信仰によって義とされることを見てきたわけですが、では、信じるとはどういうことなのでしょうか。聖書は、心で信じて義とされ、口で告白して救われると言っています(10・10)。つまり、義とされること救われることは切り離せないという意味です。義とされたけれど救われていない……ということはあり得ないし、同様に、心で信じたこと口で告白することとは切り離せないのです。

信仰は心の中だけのことではありません。「心」と「口」とはいつも連動します。切り離せません。心で思ったことは口に出てきます。これは自然なことです。

心では愛しているのに、「愛してるよ」と口で告白しないのは変です。このように、心で愛していることと口で告白することは切り離せません。心にある愛は、告白という行動を通して完結します。

信仰も同じです。心で信じたことは口で告白して完成します。私は、これを告白の法則と呼ぶことにしたいと思います。

たとえば、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである」から(マタイ6・8)、自分の必要を神に告白しないという人はひねくれ者です。

聖書は、あなたの必要を告白しなさいと勧めています。口にして神に伝えなさいというのです。

あなた方の求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば人知で測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろうと言われています(ピリピ4・6~7)

心にあることは素直に告白しましょう。それが信仰が完成して行く秘訣です。

また、聖書はこうも記しています。神は全知全能ですから、私たちの罪さえもご存知です。でも神は、罪を告白しなさいと勧めておられます。そして、告白するならその罪はきよめられます(Ⅰヨハネ1・9)

神は、私の内の罪をご存知なのだから、わざわざ告白しなくてもいいじゃないかという理屈もありますが、内にあるものを告白することによって解決へと展開するのです。

たとえ自分の罪に気づいていても、罪を神の御前に言いあらわさなければ、その罪は解決されません。これも、告白の法則のひとつです。口で告白することによって、心の中にあることを実現させる、あるいは解決するという法則です。

心にある信仰を告白して信仰が完成します。心にある必要を神に申し上げて、その願いが実現します。心にある罪を、口で告白して、罪がきよめられます。これらはみな「告白の法則」です。

だから、心に信じたことを告白してください。信じたことが、生活の全ての面であらわされ、実現されて行きます。救いを心の中だけのことにとどめておきますか。それとも、人生の全ての面で味わいますか。その秘訣は「告白すること」です。

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ローマ人への手紙 9章

2022年05月03日 | ローマ書
ローマ人への手紙 9章
陶器を造る者は、同じ土くれから、ひとつを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。(9・21)


律法によらず、信仰によって救われるのであれば、いったい何のためにイスラエル民族(ユダヤ人)は律法を守ってきたのか。旧約時代の大変な苦労は何だったのか……そんな批判や不満が彼らの中から出てきそうです。

それがイスラエル民族には受け入れがたい所であり、ユダヤ人がパウロをやキリスト教会を迫害した理由です。こうして、イスラエルは心を閉ざし、ますますイエスを拒絶するようになり、彼らは律法の下から出てこようとしなくなりました。

新約の恵みを受けるために、イスラエルは神の民として律法の下で訓練を受け、迫害も苦難も耐えてきたというのに、何ということでしょう。

傍目(はため)には、神はイスラエルを見捨てて、異邦人の救いへとシフトなさったように見えます。そんな神のなさることは非情にも感じます。

なぜ、神は、イスラエルをそのように扱われるのでしょうか。神はイスラエルの民をお見捨てになったのですか。この疑問に答えるのが第9~11章のテーマです。 ※ローマ人への手紙は、第1~8章が福音は罪人をどのように救うのか。第9~11章が福音はイスラエルをどのように救うのか。そして、第12~16章が福音による生活がテーマである。

まず最初に抑えておくべきことは、神が中心であることです。神が愛ならなぜとか、神がおられるならどうしてという反応は、人間中心の思考が土台になっています。人間のために神は世界を創造し、人間の幸せのためにイエスは十字架で死んでくださった……と考えるのは人間中心(ヒューマニズム)の発想です。それは人本主義のキリスト教です。そこに多くの矛盾をかかえ込むことになります。

昔の人々は、地球を中心に太陽も天体が動いていると考えたので、天体の運行を説明することはとても困難でした。そのため当時の天文学は多くの矛盾をかかえました。ところが、太陽を中心に地球も動いていると分かると、天体の動きは理路整然としました。

それと同じように、人間中心ではなく神中心です。それを理解するために、パウロは〝陶器師と器の関係〟を論じるのです。

どのような器を造るのかは陶器師の権能です。器には、自分をこのような形に造ってほしい、このように使ってほしいと主張する権利がありません。これが造る側と造られる側の違いです(9・20)

ですから陶器師は丹誠こめて造った器でも、納得が行かなければ壊します。人である陶器師でもそのようにするのに、万物の創造者である神にそうする権能がないのでしょうか。神はそのような権能をお持ちであると認め、神の御前における謙遜を土台にすることから始めなければなりません。

創造主と被造者(造られた側の者)の違いを認め、創造主が被造物をいかようにもお用いになる権能を認めます。そのような「謙遜」と「従順」が信仰の大切な土台です。

そのような神ですが、同時に哀れみ深いお方です。罪の故に滅びる器を、神は寛容な心で忍耐しておられます(9・22)。そればかりか、神の栄光を盛る器として定めているのです(23)。まさに「土の器に宝を持っている」のです(Ⅱコリ4・7)。人の肉体は「土の器」なのでとても脆(もろ)いのです。だから苦しみがあり、傷つき、痛みます。卑しい器です。

何のために神は、人をこのような弱い存在に造られたのでしょうか。土から造られた陶器のようです。しかし、神は、そんな弱い土の器を、神の栄光を盛る器としようとなさっています。

栄光のために、神は私をどのようにお使いになるのか……それは神の主権に委ねられています。「このような方法で栄光をあらわしてください」と要求する権利は私にありません。

神の栄光を現すために、神はイスラエルを選ばれましたが、今後は異邦人を用いるというのです。ホセア書はそれを示唆しているとパウロは解説します(ローマ9・25~26)。また、選びの民であるべきイスラエルも、残された者がその任務を受け継ぐことになると、イザヤ書を引用して説明します(27~29)

神がイスラエルを用いることも、ひととき彼らを見捨てるようにして異邦人を用いることも、創造者である神の権能です。どのように造り、用いるのか、それは陶器師の権能です。陶器である私たちは、主権者である神を信頼して従うのみです。

ピアノの鍵盤は100本近くありますが、何回も用いられる鍵盤もあれば、1回だけ音を出す鍵盤、一度も出番のない鍵盤もあります。それでもピアノとして神を讃美する栄光のために用いられます。

神がどのように私を用いて栄光を盛る器になさるのかは分かりませんが、イスラエルの人々のように心をかたくなにしないで、哀れみ深い神を信頼して、謙遜と従順をもって信じて行けるよう祈ります。

だから、神の主権に躓(つまず)いてはなりません。なぜならわたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがないからです(9・33)
 
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ローマ人への手紙 8章

2022年05月02日 | ローマ書
ローマ人への手紙 8章
キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(8・2)


ここにふたつの法則(原理)があります。罪と死の法則いのちの御霊の法則です。

この「法則」と訳された言葉は「律法」と同じ語です。言いかえれば、「罪と死をもたらす律法」と「いのちをもたらす律法としての御霊」というふたつの法則です。 ※新改訳2017は「律法」と翻訳。

先の第7章では、律法という夫から解放されるために、私たちはキリストと共に死んだことを見ました。

罪と死をもたらす律法という呼び名のごとく、まさに律法は、私たちを罪に定め、死をもたらす律法(法則)でした。そこから解放されなければ、私は何という惨めな人間でしょう(7・24)

これは「法則(原理)」です。つまり、罪をおかしたら、その結果は死だという法則です。法則とは普遍的であって、すべての人に適用され、いつの時代にも適用され、どこででも適用されます。

このような法則は、自然界の法則でも同じです。たとえば、引力の法則は万人に当てはまります。大統領であろうが一般庶民であろうが、高いところから飛び降りると、だれでも容赦なく地面にたたきつけられます。ヨーロッパでは落ちないとか、3千年前にはフワッと落ちたなどということもありません。いつの時代でも、どの地域でも、どの民族にも適用されます。それが法則というものです。

それと同じように、人は罪と死の律法(法則)に支配されています。いつの時代の人々も、偉い人も庶民もみなこの法則によって罪と死の支配を受けています。昔も今も引き続き罪と死の法則は人類を支配しています。

しかし、引力の法則を越える原理があれば空を飛ぶことができます。飛行機とか空の鳥がそうです。彼らは引力の法則を越える原理を適用して空を飛んでいます。そのように、罪と死の法則とは別の、それを超越する法則が、イエス・キリストによってもたらされました。それがいのちの御霊の法則です。

キリストと一緒になった者に御霊が内住されることによって、特別な法則(律法)が与えられました。これはエレミヤによって預言された「後の時代に与えられる新しい契約」のことです。その預言を要約すると、こうです。

イスラエルの人々は、旧約の律法を守れなかった。その結果、律法の規定に従って罪と死をもたらした。しかし、新しい契約では、律法を人々の内に書き記すことで律法の目的を実現するのです(エレミヤ31・31~34)

昔は、文字による律法によって人を罪からきよめようとしたが、キリストがもたらす新しい法則は、文字ではなく御霊によって神の律法を心に書き記すことで、罪と死に勝利するのです。

文字によって……つまり、外側から規制しようとする律法では人を活かすことができません。むしろ、逆に、律法という文字は人をしばり、人をさばき、人を責めることになります。

しかし今や、文字ではなく御霊によって人の内側に律法を書き記す時代がやってきました。それが新約です。「文字は人を殺し、御霊は人を活かす」と記されているとおりです(Ⅱコリ3・6)

また、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのであるとも宣言されています(ローマ7・6)

文字による律法の時代は、罪と死の法則に対して無力でしたが、私たちに内住される御霊によって歩むなら、不思議な力を得ます。いのちのある鳥が引力の法則を越えて空を舞うように、御霊によるいのちのあるクリスチャンは、罪と死の法則を越えて自由に生きることができるのです。

文字による律法は、「~ねばならない」という思いに強いられていましたが、御霊という律法は、私たちの内側から「そうしようとする思いが出てきます。これが御霊の思い(霊の思い)です。

聖書を読まねばならない……のではなく、聖書を読んで御言を食べたいと心から思うのです。礼拝に集わなければならない……のではなく、礼拝でイエス様にお会いしたいのです。強いられてではなく、私の内なる霊からの思いがそうさせるのであって、負担ではありません。

文字による律法は人を束縛するようにして行動を促すのですが、御霊による律法は私の自由意志でそうしたいのです。自らの意志である以上、それは束縛ではなく自由です。このように、御霊のあるところに自由があるのです。信仰生活は「御霊の思い」で成すことが肝心です。

肉の思いは「~ねばならない」という感覚です。だから疲れます。継続しません。喜びが消えます。自分も他者もさばいて傷つけます。

だから祈るのです。御霊の思いが私の心を支配してください。御霊の思いで動くことができますように……と。この祈りが「いのちの御霊の法則」に生きるための秘訣です。

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ローマ人への手紙の中で、第8章はクライマックスのような箇所です。その中心テーマが「いのちの御霊の法則」です。8章の後半は、いのちの御霊の法則の中にある者たちに注がれる恵みが記されています。要点を整理いておきましょう。

(1)神の子どもであり相続人という恵み(15~28)

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは〝アバ、父よ〟と呼ぶのである。」(8・15)

神のことを「お父さん」と呼ぶって凄いことです。演技ではありません。御霊によって生まれ変わった私の霊には、神が私のお父さんだと分かる心があるのです。だから、神に向かって「お父さん」と呼んで何の違和感もありません。

教会に集い始めた頃、クリスチャンの先輩がいつも「天のお父さま」と呼んでいるのが不思議であり、違和感を抱いていました。変な人だと思っていました。でも、今では私が〝変なオジサン〟です。

神をお父さんと呼ぶなど、違和感どころか冒涜とさえ感じる人々もいます。まさにユダヤ教の人々は、神を父と呼ぶイエスを十字架につけ、クリスチャンたちを迫害しました。イスラム教でも、日本の神道でも、神を父と呼びません。

神の御子であるイエスだけが神を父と呼び、そのイエスの御霊を受けた者だけが、「アバ父」と呼び、神の子どもとして神の御国を相続するのです。これはとてつもなく大きな恵みです。

こんな神の子たちが地上に満ちる時代が来ます。そんな神の子たちが治める新しい世界が完成します。それが「神の御国」であり、栄光に富んだ世界です。私たちをはじめ被造物全体が、呻(うめ)き苦しみながらその実現を待ち望んでいます(18~25)

(2)万事が益と変えられるとういう恵み(26~30)

新しい世界の到来……すなわち、神の御国が完成するまでには、今後も産みの苦しみを経ます。しかし、私たちだけが苦しむのではありません。御霊も共に苦しみながら、私たちと一緒に祈ってくださるので大丈夫です(26~27)。「どう祈ったら良いのか分からない」とパウロも告白していますが、祈りが苦手な人には朗報です。どうぞ、上手に祈ろうと思わないでください。つたない私たちの言葉でいいのです。御霊も一緒に呻(うめ)きながら祈ってくださるのですから……。

いのちの御霊の法則に生きる者は幸いです。御霊の助けと執り成しの中で歩むからです。ですから、いかなる患難があろうとも、それは益と変えられることを知っています。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と記されているとおりです(28)

「ご計画に従って召されら者たち」とあるように、私たちが患難を受けることがあっても、そこには計画があるという意味です。

それは、神の御国の完成という計画はもちろんですが、御国の民である神の子たちが変えられるという計画です。それは「御子イエスに似た者へと変えらる」という栄光に富んだ計画です(29)。これは「あらかじめ定められた」ことです。

あなたはこの神の計画に賛同しますか。栄光に富んだ神のご計画に賛同する者が「神を愛する者たち」です。神を愛するので、神のご計画に賛同し、人生をその計画のために献げます。

そのような者のために万事が益とされるのです。だから、試練の中にあっても神への信頼を失ってはなりません。神を愛してください。

(3)神の愛から私を引き離すものは何もないという恵み(31~39)

私たちは試練の中にあっても、万事を益とされる神を愛し続けます。しかし、神もまたそれ以上に私たちを愛しておられます。その愛がいかに偉大で力強いことでしょうか。

物事が順調に行っている人の言葉ではありません。ありとあらゆる困難や試練を経験したパウロの告白です。のほほ~んと生きている私ごときの告白ではありません。「終日、死に定められている」パウロの確信に満ちた言葉です。説得力が違います。

8章31~39節の聖句は、ぜひ暗唱して心に深く刻んでください。

どんな事があっても、神の愛は決して私から離れることはないという確信が、いのちの御霊によって霊魂に刻まれますように……。
 
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ローマ人への手紙 7章

2022年04月30日 | ローマ書
ローマ人への手紙 7章
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなた方も、キリストの体によって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなた方が他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(7・4)


先の第6章では、人がアダムとの関係から切り離されてキリストにつながる方法は〝死〟であることを見ました。死を経て〝いのち〟につながる……これは、キリスト信仰の重要な法則です。

〝いのち〟に至るためには〝死〟を通過するのです。

キリストにつながっている私は、キリストの義にあずかっています。私はキリストとひとつなので、キリストのいのちにあずかっています。つまり、救いとはキリストとひとつになることです。

かつての私は、霊においてはアダムとひとつでした。だから、アダムの中で罪人でした。しかし今や、〝アダムとの関係〟から切り離されてキリストとひとつになっているので、キリストにあって義とされています。

さて次のテーマ……それは〝律法との関係〟です。

律法につながっているかぎり、律法は私を罪人であると指摘し、責めるのです。まるで、律法とは、妻の欠点をあれこれと指摘する夫のようです。

律法につながっている私は、律法という夫と結婚している妻のような立場です。夫の姓は「律法(りっぽう)」、名は「正(ただし)」です。夫はいつも正しいのです。しかも完璧主義者であって、罪のない妻を要求するのです。

夫(律法)は間違っていません。律法は聖なるものであって、正しくかつ善なるものだからです(7・12)。悪いのは妻である私です。だから夫の指摘に対して何も反論できません。

この律法という夫と結ばれている以上、私はずっと責められ続けます。罪責感で悩み苦しみます。だからパウロも告白しています。自分はしたくない罪をおかしてしまう、何という惨めな人間なのだろうと(7・19~24)

ところが、律法正(りっぽうただし)氏とは対照的な男がいます。それは、イエス・キリストです。彼は、私を責めるお方ではありません。罪をおかす私の弱さを知って、私と一緒にきよい道へと導いてくださるお方です。

イエス・キリストは欠点を見つけても責めないで、「それは私が補ってあげよう」と言われます。「お前ひとりで完全になろうとしなくて良いんだよ。私と一緒になることで完全なのだから……」と言ってくださいます。

夫の律法正氏が死んでしまえば、このキリストと一緒になることができるのですが、律法は死んでくれません。律法は聖なるもの(7・12)であり、霊的なもの(14)であるからです。かといって、夫である律法が生きているのに別の男性との結婚は姦淫ですから、それもできません(2~3)

夫である律法から解放される唯一の方法があります。それは〝死〟です。

そうです。妻である私が死ぬのです。第6章で述べたように、私はバプテスマによってキリストと共に死んだのです。そして、キリストと共によみがえってキリストと一緒になったのです。

こうしてキリストと一緒になったのは、神のために実を結ぶようになるためです。もう一度、今日の聖句を確認しましょう。

あなた方も、キリストの体によって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなた方が他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(7・4)

人は緊張すると余計に失敗します。罪をおかさないようにしよう……と頑張るのですが、失敗したら、また夫(律法)に叱られると思うと、余計に緊張して失敗します。悪循環です。

律法と一緒だと、ここが悪い、あそこが間違っている等と何かと責められるので、オロオロするばかりで実を結ぶことができません。このように律法の下にいる人には、緊張恐れがあります。でも、私と一緒になってくださったキリストは、私の緊張と恐れを取り除いてくださいます。

もし、あなたに、立派なクリスチャン生活をしなければと思うあまり緊張や恐れがあるなら、昔の夫である律法正氏と〝より〟を戻しているのです。ぜひとも点検すべきです。

あなたは、律法から完全に切り離されて、イエス・キリストに結ばれたキリストの花嫁のはずです。さあ、緊張しないでください。キリストの愛の中でリラックスしてください。

緊張や恐れから生じるエネルギーで動き出すのではなく、キリストの愛から来るエネルギーで動き出すべきです。キリストは、私たちが神のために実を結ぶことができるように共に歩んでくださるお方なのですから。

 
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ローマ人への手紙 6章

2022年04月29日 | ローマ書
ローマ人への手紙 6章
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(6・3)


先の5章の後半から話を進めなければなりません。ローマ人への手紙は、第5章12節から新たなテーマを展開しています。

私たち人類は70数億から成っていますが、神がご覧になるに、霊的にはひとつです。なぜなら、人の肉体は70数億あっても、人の霊はアダムから分離されて、みな同じ霊を持っているからです。

小麦粉に水を含ませて団子を作ります。これがアダムです。小麦粉は肉体で水が霊だと考えてください。

このアダムから人類がわかれ出て70数億になりました。しかし、すべての団子には〝同じ水〟が分離されているように、すべての人類は同じ霊を持っているので、霊的にはひとつです。

ところが問題があります。最初のアダムがエデンの園で神に不従順して罪人になりました。罪は霊的なことですから、アダムの不従順の罪および罪の結果である死は、全人類の霊の中に入り込んでいます。

ちょうどひとりの人―創世記のアダム―によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。(5・12)

ひとりの人によって全人類が罪人となりました。死の力をおびた罪に汚染された「霊」を、全人類が引き継いでいることになります。

ですから、私たちは罪をおかすので罪人なのではありません。罪人なので罪をおかすのです。最初の人であるアダムに属している以上、この罪人としての身分から抜け出すことができません(5・14)

しかし、複音はすばらしい法則をもたらしました。このように罪は、ひとりのアダムから全人類に入り込んだのですから、それと同じように、恵み救いもひとりの人から全人類に入り込むという法則です。

この恵みをもたらした人とは、イエス・キリストです罪をもたらした人が「最初のアダム」であるので、イエス・キリストは「最後のアダム」と呼ばれます(Ⅰコリ15・45)。この最初のアダムから切り離されて最後のアダムにつながるなら、確実に義とされ、永遠のいのちを得るのです。

次の問題です。では、どうやって最初の人アダムから切り離されるのか。そして、どうやって最後のアダムであるイエス・キリストにつながることができるのかという問題です。

たとえ、律法を守って良い行いをしても、罪人としての身分から抜け出ることはできません。アダムに属している以上、その人は罪人であり、罪の結果の死から逃れることはできません。

ここからが第6章です。

結論から申し上げましょう。アダムとのつながりを断ち切るには、〝死〟以外に方法がありません。アダムに属しながら、罪人を改良しようとしても、根っからの罪人ですから、対処療法に過ぎません。

努力家の人は、改良したり修正して立派にやろうとするのですが、罪をおかすのは時間の問題です。善良な人も悪人も、遅かれ早かれ罪の前にむなしく跪(ひざまず)くしかありません。

ですから、死ぬ以外にアダムとの縁を切ることができません。ではどうやって死ぬことができますか。それは、キリストと一体となるバプテスマを受けることによって可能です。こうして、キリストの体験は自分の体験となります。 ※バプテスマとは水の中に浸すこと。キリスト教会の重要な儀式である。

キリストが十字架で死なれたのは、あのキリストの中で罪人の私も一緒になって死んだのだと認めます。罪人である古き人をキリストと共にあの十字架で葬ってしまったのです。

このことに同意して、私たちはバプテスマを受けるのです。聖書はこう記しています。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである(6・3)

神の方法は、小手先の改良ではなく、アダムに属する人を完全に葬ってしまうことです。古い人(アダムに属する私)は十字架でイエス・キリストと共に死んで葬ってしまいました(6・6)

キリストと一緒になって死んだので、続いてキリストと一緒になって復活しました。キリストと共に死んだので、古い私はもう生きていません。いま生きているのは、キリストと一緒になって新しくされた私が生きているのです(6・5)

このことを見事に表現しているのが、水のバプテスマです。水の中に浸されることで、私はキリストと一緒になって葬られ、水の中から出てくることで、キリストと一緒になって復活したことを表しています。

このように、バプテスマはキリスト信仰の肝(きも)です。だから、信仰が迷ったなら、バプテスマの恵みに立ち返ってください。まだ受けていない人は、是非バプテスマを受けてください。信仰が知的な理解から体験へとなる機会です。バプテスマに込められた意味が私の生き様になりますように祈ります。

◆◆◆◆◆

古い自分は十字架で死んで、キリストとつながった新しい自分が生きている。何とも不思議な理屈です。そこでパウロは、そのように認めなさいと命令しています(6・11)。新改訳では思いなさい、新共同訳では考えなさいです。

馴染みのない理屈ですが、そのように考え方を変えることから始めよというのです。ギリシャ語の源語では帳簿に付けなさいという意味です。帳簿に付けると、その数を基に後の計算も記帳します。数字ですから、厳密に積み重なって行きます。

私はキリスト共に死んで、キリスト共に生きているという記帳から始めるのです。その記帳後の決算は、御霊の実となってキチンと算出されるはずです。

そのような考え方で、ローマ人への手紙を読み進めて行きましょう。

さあ、私たちはキリストにつながった者です。罪人の根っ子であるアダムからは切り離されました。かつては、罪人という根っ子につながっていたので、罪の奴隷でした(6・17)

口語訳は「罪のしもべ」ですが、「罪の奴隷」という訳の方が強烈な印象です。つまり、罪を犯したくなくても、罪という主人の下で、有無を言わせず罪を犯してしまう状態です。

逆に、それほど強烈に、今や私は義の奴隷となっているのです(18)私みたいな怠け者は、義なるお方であるイエスの奴隷にでもならなければ、良い行いはできそうにもありません。

私は神の子どもですが、あえて自ら進んで義の奴隷になろうというのです。罪人である古き自分が主人であったときは、自分の手足を罪のために使うことしかできませんでした。「不義の器として罪にささげている」生活でした。惨めで不毛な人生です。

でも今や、義なる主人……イエス・キリストに、自分の手足を奴隷として献げよう。

あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい(13)とは、そういう意味です。主人であるキリストは、愛と赦しに満ちたご主人であって、決して私を恐怖に陥れるような主人ではありません。

 
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ローマ人への手紙 5章

2022年04月28日 | ローマ書
ローマ人への手紙 5章
まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。(5・8)


先の第4章では、行いによって義とされようとするのは、丁度、一生懸命に良い子になって親の愛を獲得しようとする子のようだと学びました。

でも、神は、私たちが「良い子」になる前から私たちを愛してくださっています。私たちが罪人で神に敵対している時でさえ、神は愛してくださって、御子の死をもって和解してくださったのです。

今日の聖句はそれを言っています。まだ罪人であった時とは、私が「良い子でなかった時」という意味です。何の良い行いもできなかった時……です。そんな時から、神は愛してくださったのです。

私たちのなすべき事は、ただ、その神の愛を感謝して受け取ることです。信じるとは、神の愛を素直に受け取ることです。その信仰を神は喜んでくださいます。つまり義としてくださるのです。

このように、信仰によって義とされてるのですから  ――この順番が大切です―― 神との平和を得ているのです(5・1)。そのような神との平和があるので、患難をも喜ぶことができるのです(5・3)

患難を喜ぶ?、冗談でしょ!。そう言いたくなりますよね。でも、順を追って行けばそうなるのです。私が罪人であった時、すでに神は私を愛してくださったという順番が狂っていないか、点検してみてはどうでしょうか。

私は神から義とされているのだ。神から愛されているのだ。私が何か立派なことをしたからではなく、イエスを信じることを神は喜んでくださっているのだ。こうして「神との平和」を持っているので(5・1)、たとえ患難であっても喜ぶことができるのです。

ところが、「私は立派にやっているから、神は私を義としてくださる」と考えるならどうなりますか。そのように考える人は、問題が起きると、自分は立派にやれていないから、神から罰を受けたのだと考えてしまいます。

神からの愛をしっかり受け取っている人は、いつでも肯定的に受け止めます。逆に、神の愛をしっかり受け取っていない人は、否定的・悲観的に物事を受け止める傾向にあります。

否定的・悲観的な感覚が出てきたとき、「私は信仰によって義とされたのだ」という原点に立ち返ってください。義とされたしるしとして、神は聖霊をくださったことに立ち返ってください。

「この聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」からです(5・5)。この聖霊によって、「私は義とされている」「私は神から愛されている」ことを知るようになります。

だから ――神の愛が注がれているので――、患難を喜び、それが希望にまで至る原動力となるのです。

さあ、整理しましょう。聖霊によって神の愛がチャ~ンと注がれているなら、患難」→「忍耐」→「錬達」→「希望」→「希望は失望に終わらないという順番になります(5・3~5)。 ※「錬達」は、新改訳では「練られた品性」。

もし、この「神の愛」が真っ先に来ていないと結果は違います。患難に会うと、忍耐ではなく「我慢」になります。希望のない忍耐が「我慢」です。そんな我慢は、錬達した人格ではなく、ひねくれた卑屈な品性が育ちます。

品性が練られていないので、「神は私をお見捨てになったのだ」とか、「神は私を憎んで罰しておられるのだ」と考えるようになります。だから、希望ではなく失望に終わってしまいます。

いかがですか。神の愛が真っ先に来ていますか。ならば大丈夫です。いかなる患難も忍耐を経て錬られた品性を生み出します。その品性はいかなる状況下でも〝希望を見つける達人〟です。

このような経過を経て得た希望は、そんじょそこらの希望とは違います。決して失望に終わらない希望です。安っぽい希望はチョットした事で失望に終わりますが、患難を経て得た希望は失望に勝利するのです。

 
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ローマ人への手紙 4章

2022年04月27日 | ローマ書
ローマ人への手紙 4章
アブラハムは、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。(4・11)


律法に熱心なユダヤ人にとって、「信仰によって義とされる」などという論説は肩すかしをくったようなものです。自分の今までの熱心が否定されたような気がして怒り出す人もいました。

そんなわけですから、パウロはユダヤ人から迫害されました。パウロは律法を台無しにしてしまう。冒涜だ、異端だ、と非難されました。

しかし「信仰によって義とされる」ことは、異端でもなければ、律法に対する冒涜でもない。すでにそのことは、旧約の時から神が啓示なさっていたのだ……と説明しているのが第4章です。

その具体例として、アブラハムの場合が紹介されています。

旧約の時代、神に義と認められた代表的な人物……それがアブラハムです。ユダヤ人は、このアブラハムの時代から実施するようになった割礼を受け継いでおり、この割礼という律法の行いによって義と認められるのだと考えていました。

割礼は男性器の包皮を切り取る儀式ですが、律法は、この割礼を受けよと命じています。ユダヤ人たる者は、この割礼を受けて後、律法を厳守する生活がはじまります。ですから、割礼とは、「律法の行いによる生活」をあらわす象徴的な〝しるし〟なのです。 ※神が命じられた割礼は男子だけに施された。男性器を清潔に保つとともに多産に貢献することが認められている。しかし、アフリカの一部に女性器割礼の習慣があるが、聖書の割礼とは全く別物であり、有害かつ社会問題となっている。

話題を戻しましょう。アブラハムは割礼を受けたので義と認められたのではありません。信仰によって義と認められたのです。そして、義と認められた証印として割礼を受けたのです。

順番を逆にしてはなりません。つまり、良い行いをしたので、義と認められたのではありません。ありのままを受け止めてくださる神の愛を信頼したので、神はそのようなアブラハムの信仰を喜ばれたのです。

愛においてもこの順番が大切です。

親は子を愛します。子が生まれると、その子は手間をかけるばかりで、何の良い行いをしないのですが、親は無条件に愛します。行いによって愛するのではありません。存在そのものを愛するのです。これが親の本来の愛です。ところが、子が成長するにつれて、学校の成績が良かった、良い子になったといって喜ぶようになります。いつしか、始めの愛を忘れて、その子の良い行いを条件に愛するようになります。ここに順番の逆転が起こります。

子も、親がありのままの自分を愛してくれることを忘れて、自分の立派な行いによって親の愛を獲得しようと頑張ります。

でも、良い行いができない子がいます。ちょっと無器用な子なのです。そんな子は悪い行いをしてでも親の歓心を得ようとします。それは愛を獲得したいからです。ここにも順番の逆転が起きています。

神から義と認められようとして、人が良い行いに励むのも、これと似ています。神に義と認めてもらいたい。言いかえれば、神の愛を獲得したいので良い行いをするという構図です。

このように順番を間違えて、「良い子のクリスチャン」になろうとします。そうこうする内に、良い子であり続けることに疲れてしまいます。逆に、開き直って、「不良クリスチャン」になってしまう人もいます。 ※「良い子」であろうが「不良の子」であろうが、神に愛されているのにそれを忘れている。

良い行いをして義と認めてもらおうというのは、労働の対価として得る報酬の考え方です。でも、救いは報酬ではありません。恵みです(4・4)信仰によって義と認められる、つまり信仰によって救われるのは恵みです。決して報酬ではありません。

神がアブラハムを義と認めてくださった場面を思い出してみましょう。神は夜の星空をアブラハムに見せて、あなたの子孫はこの星の数ほどに増え広がるのだと言われました(創世記15章)

アブラハムにはまだひとりも子がない時であり、年寄りが子を生むなど不可能な状況の中で、彼は神の約束を信じました。神がおっしゃるのだから、きっとそうなるに違いないと信じたのです。

この信じたことを、神は義と認められました。つまり、神が満足なさったということです。言いかえれば、神が喜んでくださったのです。

つまり、アブラハムの立派な行いではなく、信じたことを神は大いに喜んでくださったのです。むしろ、行いの点では、アブラハムは失敗の連続で、神を失望させることばかりでした。

私たちが幼な子のように神の愛を信頼することを、神は喜んでくださいます。人の親子関係でも同じです。父親を信頼しない息子は、親からすれば嬉しくない。勉学がどんなにすぐれていても……です。やることなすこと立派なのだけれど神を信頼しない人間。「信頼できるのは自分だけだ。お金だけだ」と言っている人間を、神は悲しまれます。

このように、神は、私たちが神の愛を信頼することを喜ばれ、満足なさるのです。つまり、「正しい」としてくださるのです。これが「義と認められる」という意味です。

アブラハムは神を信じました。神の御言を信じました。神が言われるのだからきっとそうなるのだと信じました。信じる根拠があったのですか。いいえ、人間的には何の根拠もありません。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じたのです(ローマ4・18)

その神への信頼は衰えることなく、老年になって、もはや子孫を残すことなど不可能な状況になっても信じたのです。

およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。(4・19~21)

そう信じる根拠は「神がおっしゃるから」です。こんな風に篤く信頼されたら、神はどんなに誇らしいことでしょう。いかに喜ばれることでしょう。神はこういう信仰を求めておられるのです。

そして、義とした証印として、アブラハムの場合は「割礼」を受けました。そして、新約のクリスチャンの場合は「聖霊」を受けるのです。私たちが聖霊を受けたのは、義とされた証拠です。この聖霊を受けることによって、心に割礼を受けるのです。

 
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ローマ人への手紙 3章

2022年04月26日 | ローマ書
ローマ人への手紙 3章
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。(3・28)


第1~2章で、ユダヤ人も異邦人もすべての人が罪人である。例外はない。そして、罪人に対しては、やがて来るべきさばきの日に、神の御怒りが用意されていることを見ました。

この御怒りから逃れることができるものはひとりもいません。なぜなら、義人はいない、ひとりもいないからです(3・10)

ローマ人への手紙では、この「義人」とか「義」というテーマがくり返し論じられます。では、義とはなんでしょうか。大雑把な言い方ですが、〝神が満足なさる水準〟のことです。

ユダヤ人はこの水準に到達しようと、律法を厳格に行ってきました。では、彼らは神の義に到達したのでしょうか。いいえ、むしろ律法によっては罪の自覚が増すばかりです(3・20)。パリサイ派として生きてきたパウロは、このことを痛感しています。

ではどうすれば、神の満足なさる水準に到達できるのでしょうか。律法の行いによるのではありません。冒頭の聖句が示すように、人が義とされるのは信仰によるのです。 ※人が神の義に到達するのは「行いによらない」という論旨は、「行いは不要だ」という意味ではない。ローマ書13~15章では行いの大切さが語られている。

なぜ神は、私たちの良い行いを義と認めてくださらないのでしょうか。世の中にはとても親切な人もいれば、品行方正な人もいます。とてもすばらしいではありませんか。

それは、高級な器に汚物を盛って神に差し出すようなものだからです。有田焼の最高級の器でも、中に盛られているものが汚物であれば、神を満足させることなど到底できません。

最高の行いという「器」に「罪人」を盛って神に差し出すことができるでしょうか。それで神が満足なさると思うなら、何という傲慢でしょう。

では、慈愛に富んだ神は、満足なさる水準を下げてくださるのか。それはできません。神の自尊心にかけてできません。それが神の義というものです。

神の聖なる自尊心にかけて、神は最高の水準を要求されます。だからイエス様は、「わたしが来たのは律法を廃止するために来たのではない。律法を完成するためにきたのだ」と言われました(マタイ5・17)

神は、旧約の時代には罪に厳しくて、新約ではあまくしておられるのか。いいえ、むしろ逆です。旧約の時代は見逃しておられました(3・25)。しかし、新約では、人間の罪を微塵たりとも見逃さないで、それを十字架の血で完全にきよめられたのです。

神の御子が十字架で血を流さなければならないほど、神のきよさの水準は高いのです。これが神の満足なさる水準です。これが神の義です。ですから、人間の行いで到達できるような水準ではないのです。

そこで、この義に到達する方法がたったひとつあります。それは、神の義を信仰によって受け取るのです。

十字架の意味を認めて、イエスを救い主と信じる信仰によって、神の義を受け取ることができます。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのであるとは、そういう意味です。

十字架の意味を認めるとは、自分が十字架で死ななければならない罪人だと認めることになります。そして、その罪人の私に代わってイエス様が死なれたことを感謝するのです。

そこには、もはや自分の義が割り込む隙がありません。否、自分の義を割り込ませてはいけません。自分にこんな良い点があるので、神は私を義としてくださったというのが、「自分の義を割り込ませる」という意味です。

自分では立派だと思っていても、神には塵芥(ちりあくた)のようなものです。なのに、自分の義を誇りはじめると、優越感と劣等感のシーソーゲームが始まります。比較と競争のデッドヒートが始まります。

その悪循環から抜け出して、神の義を受け取るべきです。

自分には何も誇るものがありません。それでよいのです。信仰という方法で神の義を受け取るのは、人がだれも誇らないためなのですから……。信仰によって義と認められたことを感謝します。

 
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ローマ人への手紙 2章

2022年04月25日 | ローマ書

ローマ人への手紙 2章
神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(2・4)


ローマ人への手紙の1~2章は、すべての人が罪人であると述べ、神の御怒りはその罪人の上に臨むのだと論を進めます。

まず異邦人(ユダヤ人以外のすべての人々)についてです(1・18~32)

人は霊的存在ですから、本能的に神の存在を意識しています。ただ、神を認めると都合が悪いので、神を信じようとしません。むしろ自分を神とし、自分の欲望のままに生きています。

また、神を信じても、偽りの神々をおがみます。なぜなら、偽りの神の方が、自分に都合の良い神 ―― 自分が操ることのできる神 ―― だからです。

こうして人類は、神を偽りの姿に変えてしまっています。これが偶像礼拝です。すべての問題の根っ子がこの偶像礼拝です。

偽りの神礼拝は、始めからボタンの掛け違いです。掛け違うと、あとはすべて狂ってきます。人間関係でも親子関係は第一ボタンです。親と子の関係が崩れていると、人間関係の秩序が倒錯します。

また、夫婦の関係も人間関係の第一ボタンです。愛すべき夫(妻)がいながら、他の男(女)を愛しているなら、そこから人間関係が歪んできます。

このように、正しい神との関係が崩れているので、人類の中にあらゆる不義と悪と貪欲と悪意が満ちているのです(1・29)。そのような者に神の御怒りはくだります(1・18)

以上が、異邦人は罪人であることの論旨で、第1章18~32節の大まかな内容です。

つづいてユダヤ人の場合です(2・1~)。彼らは神を信じています。そして律法に従順するしるしとして割礼を受けているので、自分たちは神の御怒りに対しては例外だと考えていました。

しかし、ユダヤ人であるあなたは神の御怒りのさばきから逃れうると思っているのかと問いかけています(2・3)。つまり、例外はないのだ。イエス・キリストによって、人々の隠れた罪が明らかにされ、さばかれる日が必ず来るのだと述べています(2・16)

神の御前にはすべてがあらわになります。律法を守ることで人の目には立派に見えても、神は隠れたところをご覧になります。

だから、自分は律法を行っているから大丈夫だと考えているなら、それは神の義をあなどっているのです。そして、神の正しいさばきの日に、神の怒りを我が身に積んでいることになるのです(2・5)

ローマ人への手紙の第1~2章は、読む者に絶望を与えます。ここだけを読むならだれもが絶望です。私は義人だと主張できる者はいない。罪に対する神の御怒りから逃れうる者はいないのです。

しかし、自分の罪深さに絶望する人は幸いです。神の慈愛を知るからです。罪の暗闇に一筋の光が差し込んできます。どんなに罪の暗闇が深くても、助かる道がひとつだけあります。

それは神の慈愛を知って悔い改めることです。人が悔い改めて神に立ち返るのを、神は慈愛と忍耐と寛容をもって待っておられます。今日の聖句を心に刻むべきです。神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。(2・4)

悔い改めは、神が与えてくださったのがれの道です。救いにいたる唯一のです。小さくて狭いので、多くの人はこの門をくぐりたがりません。しかし、終わりの日には、隠れたすべてのことが明らかにされるのですから、そうなる前に、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじないで、悔い改めに導かれますように祈ります。

神が、私に対してここまで、慈愛と忍耐と寛容をもっておられるのですから、なおさら私たちも、他者(ひと)に対して慈愛と忍耐と寛容をもって接すべきではないかと思います。主よ、その力をお与えください。

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