ローマ人への手紙 4章
アブラハムは、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。(4・11)
律法に熱心なユダヤ人にとって、「信仰によって義とされる」などという論説は肩すかしをくったようなものです。自分の今までの熱心が否定されたような気がして怒り出す人もいました。
そんなわけですから、パウロはユダヤ人から迫害されました。パウロは律法を台無しにしてしまう。冒涜だ、異端だ、と非難されました。
しかし「信仰によって義とされる」ことは、異端でもなければ、律法に対する冒涜でもない。すでにそのことは、旧約の時から神が啓示なさっていたのだ……と説明しているのが第4章です。
その具体例として、アブラハムの場合が紹介されています。
旧約の時代、神に義と認められた代表的な人物……それがアブラハムです。ユダヤ人は、このアブラハムの時代から実施するようになった割礼を受け継いでおり、この割礼という律法の行いによって義と認められるのだと考えていました。
割礼は男性器の包皮を切り取る儀式ですが、律法は、この割礼を受けよと命じています。ユダヤ人たる者は、この割礼を受けて後、律法を厳守する生活がはじまります。ですから、割礼とは、「律法の行いによる生活」をあらわす象徴的な〝しるし〟なのです。 ※神が命じられた割礼は男子だけに施された。男性器を清潔に保つとともに多産に貢献することが認められている。しかし、アフリカの一部に女性器割礼の習慣があるが、聖書の割礼とは全く別物であり、有害かつ社会問題となっている。
話題を戻しましょう。アブラハムは割礼を受けたので義と認められたのではありません。信仰によって義と認められたのです。そして、義と認められた証印として割礼を受けたのです。
順番を逆にしてはなりません。つまり、良い行いをしたので、義と認められたのではありません。ありのままを受け止めてくださる神の愛を信頼したので、神はそのようなアブラハムの信仰を喜ばれたのです。
愛においてもこの順番が大切です。
親は子を愛します。子が生まれると、その子は手間をかけるばかりで、何の良い行いをしないのですが、親は無条件に愛します。行いによって愛するのではありません。存在そのものを愛するのです。これが親の本来の愛です。ところが、子が成長するにつれて、学校の成績が良かった、良い子になったといって喜ぶようになります。いつしか、始めの愛を忘れて、その子の良い行いを条件に愛するようになります。ここに順番の逆転が起こります。
子も、親がありのままの自分を愛してくれることを忘れて、自分の立派な行いによって親の愛を獲得しようと頑張ります。
でも、良い行いができない子がいます。ちょっと無器用な子なのです。そんな子は悪い行いをしてでも親の歓心を得ようとします。それは愛を獲得したいからです。ここにも順番の逆転が起きています。
神から義と認められようとして、人が良い行いに励むのも、これと似ています。神に義と認めてもらいたい。言いかえれば、神の愛を獲得したいので良い行いをするという構図です。
このように順番を間違えて、「良い子のクリスチャン」になろうとします。そうこうする内に、良い子であり続けることに疲れてしまいます。逆に、開き直って、「不良クリスチャン」になってしまう人もいます。 ※「良い子」であろうが「不良の子」であろうが、神に愛されているのにそれを忘れている。
良い行いをして義と認めてもらおうというのは、労働の対価として得る報酬の考え方です。でも、救いは報酬ではありません。恵みです(4・4)。信仰によって義と認められる、つまり信仰によって救われるのは恵みです。決して報酬ではありません。
神がアブラハムを義と認めてくださった場面を思い出してみましょう。神は夜の星空をアブラハムに見せて、あなたの子孫はこの星の数ほどに増え広がるのだと言われました(創世記15章)。
アブラハムにはまだひとりも子がない時であり、年寄りが子を生むなど不可能な状況の中で、彼は神の約束を信じました。神がおっしゃるのだから、きっとそうなるに違いないと信じたのです。
この信じたことを、神は義と認められました。つまり、神が満足なさったということです。言いかえれば、神が喜んでくださったのです。
つまり、アブラハムの立派な行いではなく、信じたことを神は大いに喜んでくださったのです。むしろ、行いの点では、アブラハムは失敗の連続で、神を失望させることばかりでした。
私たちが幼な子のように神の愛を信頼することを、神は喜んでくださいます。人の親子関係でも同じです。父親を信頼しない息子は、親からすれば嬉しくない。勉学がどんなにすぐれていても……です。やることなすこと立派なのだけれど神を信頼しない人間。「信頼できるのは自分だけだ。お金だけだ」と言っている人間を、神は悲しまれます。
このように、神は、私たちが神の愛を信頼することを喜ばれ、満足なさるのです。つまり、「正しい」としてくださるのです。これが「義と認められる」という意味です。
アブラハムは神を信じました。神の御言を信じました。神が言われるのだからきっとそうなるのだと信じました。信じる根拠があったのですか。いいえ、人間的には何の根拠もありません。「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」のです(ローマ4・18)。
その神への信頼は衰えることなく、老年になって、もはや子孫を残すことなど不可能な状況になっても信じたのです。
「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。」(4・19~21)
そう信じる根拠は「神がおっしゃるから」です。こんな風に篤く信頼されたら、神はどんなに誇らしいことでしょう。いかに喜ばれることでしょう。神はこういう信仰を求めておられるのです。
そして、義とした証印として、アブラハムの場合は「割礼」を受けました。そして、新約のクリスチャンの場合は「聖霊」を受けるのです。私たちが聖霊を受けたのは、義とされた証拠です。この聖霊を受けることによって、心に割礼を受けるのです。
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。
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