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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

受難週④ 水曜日

2025年04月16日 | マタイ福音書
マルコ14:8 この女はわたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。

受難週の水曜日、それはイエス様が十字架で死なれる2日前のことです。イエス様が弟子たちと共に居られるとき、ひとりの女性が、300デナリもするナルドの香油を惜しげもなくイエスに注ぎかけました。

1デナリが労働者1日分の賃金ですから、その香油は1年分の給料に相当する高価なものです。それを、一度に使い切ってしまうわけですから、周囲はあっけにとられました。

しかし、彼女のしたことは、福音が語られるところではいつでも記念として語られるとイエスは言われました(マルコ14:9)それほど彼女のしたことは重要なことだからです。

この意味が理解できない人は、「もったいない」とか「無駄づかいだ」と言うのです。そのような人は、神への礼拝の時間を惜しいと思う人です。礼拝の時間を売れば300デナリになるのに……と計算する人です。

300デナリの香油をイエスに注いだことが、福音と一緒に語られるべき理由は何だったのでしょうか。彼女のささげ物が高価であったからでしょうか。

いいえ、彼女はイエス様の葬りの用意をしたからです。

実は、この2日後の過越の祭でイエスが死なれることを、弟子たちは予想だにしていませんでした。死なれるのではなく、イエスは王としての権威をもってこのユダヤを統治し、ローマの圧制から独立を勝ち取ってくださるのだと信じていたようです。

そんな中で、彼女(マリヤ)はイエスが死を覚悟なさっていることを感じ取っていました。 ※ヨハネ福音書は香油を注いだ女性がマリヤだと記録。マリヤが、イエスの死の真意をどこまで理解していたかは定かでないが、香油の注ぎは実に的を射ていた。

実はこの時、イエス様は大祭司としての務めを果たさんとしておられました。イエスはそのために来られたのです。

イエス様は〝本物の大祭司〟として、全人類の罪のゆるしのための血をたずさえて、神の前に執り成すために来られたお方です。そうすることによって、全人類の罪をきよめるためです。

では、その罪のゆるしのための血はどうなさるのでしょうか。

旧約の大祭司は、いけにえの動物を屠って、その血をたずさえて神の御前に出て祈りました。しかし、羊や牛などの血は、人間の罪の代価を完全には支払うことができません。代用品です。

だから、イエス様はご自分の血をささげられました。イエス様はその血を流すために十字架で死なれたのです。罪のないイエスの血でなければ、全人類の罪の代価を完全に支払うことができません。

イエス様は、このような大祭司として、過越の祭の日にご自分をおささげになる覚悟でいらっしゃったのです。

さて、律法によるなら、大祭司はその務めの前に聖なる油を注いで聖別しなければなりませんでした(出エジプト40:13-15)

主イエスこそ、まことの大祭司として、香油を注がれ、全人類の罪のために犠牲の血をたずさえて天の聖所に入って行かれた聖なるお方です。マリヤはそのようなイエス様のために、大祭司の務めの準備として油を注いだことになります。

イエスはいよいよ大祭司としての大役をなさんとしておられました。こうして、救いの道を開いてくださった大祭司なるイエス様に感謝します。

さて、香油を注いだことで、麗しい香りが部屋に満ちました。マリヤの〝聖なる無駄づかい〟は麗しい香りとなったのです。人々には無駄づかいのようでも、神に対しては芳しい香りです。ですから、その後、イエスが十字架を担いで歩かれる道端にも、この芳しい香りは放たれたことでしょう。十字架上でのむごたらしい最期でも、この香りは人々に届けられたはずです。

私たちもイエス様と同じように十字架を担いで従う時、そんな麗しい香りを周囲にもたらすことになるのです。

私たちがキリストの十字架の故にゆるすこと」「愛すること」「ほどこしをすること」「礼拝すること」「伝道すること」「犠牲すること等々。これら信仰による行いは、未信者の人々には〝無駄づかい〟に見えるかも知れません。なぜそんなことをするのか、愚かなことだと指摘されるかも知れません。

しかし、そんな〝聖なる無駄づかい〟は主イエスにふさわしいことです。麗しい香りが広がる出来事です私たちもマリヤに続いて、この〝聖なる無駄づかい〟をささげようではありませんか。福音が語られるとき、そのような香りも共に伝わるようにと祈ります。(Ω)

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【一日一章】朝マナ 受難週④ 水曜日【聖書通読】

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マタイの福音書 28章

2024年08月16日 | マタイ福音書
マタイ28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

イエスが十字架で死なれたのが過越祭のあった金曜日です。その3日目の日曜日にイエスはよみがえられました。教会が日曜日に礼拝をささげるようになったのは、この復活を記念して集まったからです。

さて、弟子たちは、かねてから「わたしは三日後によみがえる」との予告を聞いていましたが、真意を理解できずにいました。復活どころか、イエスの死さえ理解できていなかったことは、すでに見てきたとおりです。

ですから、十字架の死の3日後、弟子たちは、「さあ、今日はイエス様が復活なさる日だぞ!!」と期待して待っていたのではありません。すでに何度も予告されていたのですが、彼らの心が閉ざされていたので、理解できていませんでした。何の希望もなく、ひたすら恐れていました。落胆していました。

また、女の弟子たちは亡骸(なきがら)に油を塗るために墓に出かけて行ったのですが、彼女たちも、イエスの復活を予期していません。だから、イエスの遺体を整えようと思って出かけたのです。

このように、復活の望みがない人生の究極の行き先は「墓」です。弟子たちは墓に何かを求めて出かけました。想い出にひたりたかったのでしょうか。イエスを裏切ったことへの懺悔(ざんげ)をするためだったのでしょうか。ともかく、人生の最終的な行き先が墓であるなら、私たちに希望はありません。

しかし、今日の御言は私たちに告げます。もうここにはおられない。よみがえられたのだと。何もない墓を探し回ることはやめよう。復活のイエス様に目を注ごう。

イエスが復活されたように、イエスを信じる私たちも、永遠のいのちを完成するために復活します。イエス様を信じるとは、イエスと同じようになることです。イエスと同じように死んで、イエスと同じように復活します。

イエス様はもう墓にはおられません。以前ヒットした千の風になってという歌曲があります。あの歌詞の中は……、

「私のお墓でたたずみ泣かないでください。
 私はそこにはいません。
 そこに眠っているのではありません。
 ……中略……
 私のお墓にたたずみ嘆かないでください。
 私はそこにはいません。
 私は死ななかったのです。」

と歌われていますが、イエス様の復活を思い起こさないではいられません。千の風の〝風〟は〝霊を〟を意味していますが、まさにイエスは聖霊となって永遠に私たちと共におられるのです。 ※ナチスの迫害下で母を失った友を慰めようとして書かれた歌だと伝えられている。肉体は朽ちても霊魂は生きていて復活のいのちの中にあることは、残された者に慰めであり希望である。

もう一度申し上げます。イエス様はもう墓にはおられません。

どこにおられますか。聖霊なる神として、イエスを信じる私の内におられます。しかも、世の終わりまで共に居られるのです(28・20)。イエスを信じるとは、復活されたイエスが私の内に生きておられることを体験することです。

キリスト信仰の奥義は内住のキリストです。このお方とひとつになることです。十字架で死なれたキリストとひとつになるので、罪人の私はキリストと共にすでに死んで葬られました。そして、復活されたキリストとひとつになるので、私はキリストと共に復活のいのちにあずかるのです。

◆◆◆◆◆◆

マタイによる福音書を終えるに当たり、イエス・キリストの復活は何を意味しているのかまとめておきましょう。

(1) 私たちの罪に対するさばきが完全に終わったことの証拠です。
 
イエス様は罪の結果である「死」という刑務所に入って、私たちの身代わりとなって刑罰を受けてくださいました。そして、「死」の刑務所から出てこられて、その刑罰が完了したことを証しされました。それが、イエスの復活です。私たちの受けるべき死の刑罰は完全に終わったという証拠です。

もし、まだ出てこられていないのであれば、身代わりの刑罰はいまだに続いていることになります。しかし、主は復活されたのです。私たちの受けるべき刑罰は完全に終わったのです。

(2) 死の向こう側に永遠のいのちがあることの証拠です。
 
人類にとって、死はすべてを飲み込む闇の世界です。まことしやかに死後の世界を語る宗教家たちも、実際は行ったことがないのです。死の向こう側まで行って帰ってきた者だけが、死の向こう側に何があるのかを証言できます。

イエス様は、死の向こう側に行かれて帰ってこられました。その証しが復活です。そして、永遠のいのちがあることを見せてくださいました。十字架の死の向こう側には、栄光の復活があることを見せてくださいました。この復活は、イエスを信じる私たちにも与えられています。

(3) イエスこそ神の国の王であることの証拠です。
 
この世で最も恐れるのが「死」です。この世のどんな偉大な権威も、死の権の前にはひれ伏すしかありません。全世界を手に入れるほどの王の権威をもってしても、死の権に打ち勝つことはできません。

しかし、神の国の王であるイエスは、この死の権を打ち破られました。このお方こそ、まことの王の王、主の主です。死の権を持つ君すなわち悪魔に勝利なさいました。

その復活の主は、天においても地においても、いっさいの権威を授けられたのです(28・18)。それゆえにあなた方は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施せと命じておられます(19)

これは権威ある王の命令です。絶対に服従すべき命令です。すべての国民をイエスの弟子とせよと命じておられます。このことに、クリスチャンの働きは集約されます。教会のさまざまな活動は、すべての国民をイエスの弟子とするために集約されます。

そして、イエスの弟子とするために父と子と聖霊の名によってバプテスマするのです(19)。さらに、イエスの弟子として成長するために御言を守るように教えます(20)

御国の王であるイエス様は、神の御国のために働く同労者をを求めておられます。それが「弟子」です。救いを受けただけの人ではなく、イエスと苦労を共にする弟子を求めておられます。イエスの12弟子だけが弟子ではありません。2千年後の私たちもイエスの弟子です。

神の御国の働きは、まず私が、イエスの弟子となることから始まります。そして、家族や友人をイエスの弟子とすることによって前進します。祈りましょう。私をイエスの弟子としてください……と。

マタイの福音書 27章

2024年08月15日 | マタイ福音書
マタイ27:37 その頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。

犯罪人が処刑される十字架の上には、その人の罪状書きが張り付けられるのが通例でした。イエス様の十字架にも、その罪状書きが張り出されました。

その罪状書きは、これはユダヤ人の王イエスでした。イエスをさばいたローマ総督ピラトは、王であるイエスはローマ帝国に対する反乱罪に相当すると判断したわけです。

ヨハネ福音書は興味深い記録を残しています。ユダヤの指導者たちは、イエスの罪状書きについて、「王と自称していた」と書き直してくれと申し出たのですが、ピラトはその申し出を却下しました(ヨハネ19・21~22)。つまり、ピラトはイエスを王と認めていたのです。王と認めながらイエスを拒絶したピラトであり、王と認めずにイエスを拒絶したユダヤ指導者たちなのです。

イエス様こそ王の中の王、神の御国の王です。しかし、人々はその王を認めませんでした。御国の王を拒絶して、十字架につけて処刑しました。

自分を王とする者……これが罪人の姿です。罪人は、自分が中心であり、心の王座には「自我」がどっかりと座っています。そして、自分が王である人は、自分以外の王を認めません。あのヘロデ王も、王として誕生した幼な子イエスを殺そうとしたように、自分を王とする人々はイエスを殺すのです。これが罪人である私たちの姿です。

しかし、何という恵みでしょう。私たちの罪(自分を王とする罪)のゆえにイエスを十字架で殺してしまったのに、その十字架で私たちの罪が滅ぼされることになったとは……。

サタンは罪人である人類を利用して、王であるイエスに敵対しましたが、イエスの十字架の死が、サタンの罪と死の力を打ち砕くことになりました。イエスの十字架は、人類には救いをもたらし、サタンには滅びをもたらすことになりました。

さて、イエス様を信じるとは、イエスを王として歓迎することです。いま、私の心の王座にイエス様がお座りになっているでしょうか。

イエス様は復活してどこに座されましたか。そう、天です。天の御国では御子イエスが王として座しておられます。では、あなたの内でイエスが王として座してくださるなら、そこは天の御国です。イエスが王としてお座りになっているところが神の御国です。イエスを王として歓迎した私たちの内に、神の国は始まっています。でも、その神の国は建国途上です。だからイエス様を王の座から引きずりおろうとする〝内紛〟が時々起きるのです。

イエスを王座から引きずりおろそうとするのは誰ですか。私です。自分が王であろうとする限り、まことの王であるイエスに敵対してしまいます。しかし、そのたびに悔い改めます。悔い改めて、イエスを王座に迎えます。

イエス様が王座にお座りになっているとは、どういうことでしょうか。何でも王に報告します。王に対して隠しごとがあってはなりません。そして、王の指示をあおぐことです。

そのような、王なるイエスとの関係があるなら、そこは神の御国です。天国は近づいたのです。天国はここにあるのです。今日も、私の心の王座にイエスがお座りになっていることを確認しよう。そして祈ります。神の御国が私の内から始まり、周囲へと広がって行きますように……。

◆◆◆◆◆◆

イエス様が十字架につけられたのが午前9時頃。そして午後3時頃になって、イエスは大声で叫んでエリ、エリ、レバ、サバクタニと言われました。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(27・46)

イエス様は神の御子だから、十字架の死を難なく乗りきられたのだと思いますか。数々の病をいやし、悪霊を追い出し、嵐さえも従わせるイエス様なのだから、十字架の痛みはそれ程ではなかったのだと考えますか。「肉体を殺しても霊魂までも殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われたイエス様だから、十字架に対する恐れがなかったと思いますか。そんなことはありません。

イエス様は神の御子であると同時に、まったき人でした。痛みを感じる肉体を持ち、空腹や寝不足であれば動けない肉体を持ち、肉体の死の痛みも恐ろしさもお持ちでした。

そんなイエス様ですから、ゲッセマネの園での祈りで、わが父よ、できるものならどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてくださいと祈られました。杯とは十字架における死の苦しみのことです。ですから十字架上における、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの叫びは、本心からの叫びです。

もし、あまり苦しくなくて、演技でそう叫ばれたのであれば、それは私たちの身代わりとはなりません。キリストは人類の身代わりの死を味わう事になっていると預言されているのに、苦しみを演じているのなら、本当の身代わりにはなりません。

本当の身代わりだったので、イエスは正真正銘に苦しまれたのです。実に恐ろしくて、確実に神から見捨てられたのです。

神から見捨てられる」。これほど恐ろしいことはありません。人から見捨てられたり、社会から見捨てられることも断腸の思いですが、それ以上に恐ろしく絶望することは、神から見捨てられることです。

イエス様が本当に身代わりとなって見捨てられたので、イエスを信じる者は、もはや神から決して見捨てられることがありません。

イエス様のあの十字架での絶叫は、私の叫びだと告白できる人は幸いです。あのイエスの十字架で、自分も一緒になって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで葬られたと信じる人は幸いです。その人は、もはや二度と見捨てられることがないからです。


マタイの福音書 26章

2024年08月14日 | マタイ福音書
マタイ26:2 あなた方が知っているとおり、ふつかの後には過越(すぎこし)の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される。

いよいよイエス様が十字架で死なれる時が近づいて来ました。すべての福音書が十字架を過越の祭と関連して記録しています。冒頭の聖句もそうです。そして実際にイエスが十字架で殺された日は過越祭(すぎこしさい)の日でした。他の福音書もみな、イエスの十字架を過越祭と関連づけて記録しています。これはとても重要なことです。 除酵祭種なしパンの祭)とも記されているが、過越祭は1日だけの祭であり、その過越祭を初日にして7日間つづく祭が除酵祭である。

過越祭は、イエスの十字架の死より約1200年以上も前の出来事に由来しています。ユダヤ民族がエジプトで奴隷であった時、民を解放するために、神がエジプト中の初子(ういご)のいのちを奪われました。

しかしこの時、ユダヤ民族だけは、事前に小羊を身代わりに殺し、その血を玄関の鴨居と柱に塗りつけておくようにと、神は命令されました。そして、ついに、その日の夜、神の御使はエジプト中の初子のいのちを奪うために遣わされました。

しかし、御使は、小羊の血が塗ってある家だけは過ぎ越して行ったため、彼らは死を免れたのです。この出来事を覚えて「過越祭」として、その日を祝うようになりました。

エジプト全土にくだった死のさばきに耐えかねたエジプトの王パロはユダヤ人の奴隷解放を承認し、民はエジプトを脱出し、約束の地カナンを目指して旅立ちました。この出来事はユダヤ民族のいわば奴隷解放記念日であり原点です。ユダヤ暦ではこの事件のあった月が正月(第一の月)となっています。すべてはここから始まるのです。

この記念すべき過越祭の日に、イエス様は十字架で死なれました。

エジプトで起こった過越の出来事は、神がキリストによってどのように人類を救出するのか、その救いの原型を見せてくださったのです。つまり、過越の事件そのものが預言です。

過越の時、ユダヤの人々は小羊を殺しその血を玄関に塗り、その肉を食べました。何のためにそうするのか、人々には分からなかったことでしょう。こうしてエジプト中に死のさばきがくだったのですが、ユダヤ民族はいのちが守られ、奴隷の地エジプトから解放されました。

つまり、小羊が身代わりの死を受けたわけです。

この事は、やがてキリストが身代わりの小羊となって死ぬことの預言です。この身代わり故に、全人類が受けるべき死のさばきから救われること、それによって罪の奴隷となっている人類を悪魔の支配から救出することの預言です。だからキリストも、「ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」と言われたのです。

そして、予告通りの最期を遂げられました。

イエス・キリストの十字架の死は偶然に起こったと思いますか。天の御国の完成を遂げることなく、イエスはやむなく殺された……つまり、失敗の死だと考えますか。そう主張する人々がいます。

いいえ、まさに、イエス・キリストは、人類を救うために、過越しの小羊として身代わりの死を遂げられたのです。この死によって、罪の奴隷であった人類は、悪魔の支配から解放されたのです。

もう悪魔を恐れる必要はありません。正々堂々と悪魔の支配から〝出エジプト〟できるのです。あなたは出エジプトしましたか。エジプトから出て約束の地である天の御国を目指して旅立ちましたか。

私たちクリスチャンの原点は、この過越の日に十字架で死なれたイエス・キリストにあります。この事を忘れないために、パンと杯を受けます。

ユダヤ人は過越の恵みを忘れないために、過越の食事をしました。祭のたびに小羊を殺し、その血を流し、肉を食べました。彼らの原点を忘れないためです。自分たちは奴隷の民ではなく、神の民であることを心に刻むためです。

今や、イエス様を信じる私たちは、本当の小羊として死なれたイエスの肉を食べ、イエスの血を飲む者たちです。イエスは過越しの食事の席でパンを取り、「これは私の肉体だ」と言って食べるように命じられました。また、杯を取り、「これは私の血だ」と言って飲むように命じられました。

これがキリスト教会の聖餐式です。

あなたは、イエスの肉を食べましたか。イエスの血を飲みましたか。イエスの肉は「いのちのパン」であって、あなたに永遠のいのちを与えます。イエスの血はあなたの中でしるしとなって、やがて世の終わりに臨まんとする滅びの時、その血のしるしのある者には、滅びが〝過ぎ越す〟のです。

◆◆◆◆◆◆

こうして、イエス様は弟子たちと過越しの食事をなさった後、オリブ山で祈られました(26・30)。そこで、ユダの手引きを受けた人々によって捕縛され、イエスをさばくための法廷が開かれました。しかし、法廷では「イエスは黙っておられた」のです(63)

なぜ、イエス様は黙っておられたのでしょうか。

自分にとって不利な状況の時、私たちは自分の正しさを言いたくなります。自分に有利な方へと進めたくなります。言いわけや弁解をしたくなります。しかし、イエスは正しく裁かれる神に、いっさいをゆだねておられたのです(Ⅰペテロ2・23)

イエス様は罪の無いお方ですから、反論しようとすれば、正当な証言をお持ちでした。でも、黙っておられたのは、私たちの罪を背負うためです。その結果、十字架の死にいたりました。

イエス様は私たちに、「十字架を負って従いなさい」と言われましたが、他者(ひと)の罪を担って黙することも十字架を負うことのひとつです。他者の罪を背負い黙して執り成して祈るという十字架があります。

ましてや、自分の罪に対しては何も証言のしようがありません。ただ、神の正しいさばきに身をまかせるしかありません。

自分の罪について証言するとき、自分に有利な情報だけを証言したくなります。証言を歪めたり偽ったりもします。人間の罪深さは、言い訳けや弁解によって、自分で自分を救おうとしてしまうことです。しかし、自分で自分を救おうとして、返っていのちを失うのだとイエス様は言われました。

だから、正しいさばきをなさる方に完全にゆだねて、十字架を背負って神に従うほか生きる道がありません。イエス様もそうなさることによって、神はイエスを復活させられました。

ポンテオ・ピラトはイエスを罪人としてさばき、十字架につけて殺しましたが、神はイエスを死人の中からよみがえらせなさいました。つまり、神のさばきは、「イエスは罪のない神の御子だ」という判決を下したということです。イエスの復活は、イエスに罪がないことの証しです。

正しいさばきをなさる神にゆだねて、自分は黙る。時に、そのような十字架を負わなければならない時があります。しかし、その十字架の向こうは復活へとつながっています。イエス様の御足跡に続こう。


マタイの福音書 25章

2024年08月13日 | マタイ福音書
マタイ25:4 思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。

先の第24章では、イエス様の再臨にそなえて「目をさましていなさい」と教えられました。それは、イエスの再臨に焦点を合わせることでした。

さらに、イエス様は、目をさまして「忠実で思慮深い者であれ」と教えられました。「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか」(24・45)。イエスの再臨にそなえた大切な態度は、忠実思慮深さです。

では、「忠実」とはどのようなことでしょうか。そこでイエスは、タラントをしもべにあずけて旅に出た主人の話をなさいました(25・14~30)。この譬え話では、タラント……つまり、お金が預けられたことになっていますが、「能力」とか「才能」をあらわしています。この言葉は英語の〝talent〟の語源です。

譬え話の中で、主人は、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントあずけました。つまり、神からさずかった各自の能力とか才能はみな違う。生きる環境も寿命も違うことを意味しています。

私たちは、この違いに目が奪われがちです。そして、違いを比較して優越感に陥ったり、うらやましく思ったりします。そして、うらやましい思いを陰湿にすると妬(ねた)みに発展します。

タラントの違いに目を向けるのではなく、タラントをあずけてくださった神に目を向けるべきです。タラントの違いに目をうばわれる人生は、車の運転でいえば脇見運転で、とても危険です。脇見をするようにして、他の人が気になって、このタラントが「あずかったもの」であることを忘れてしまいます。あたかも自分の物のように思うので、他者との比較で一喜一憂するのです。

あずかったものであれば、何も誇ることはありません。自分のものだと思うので、誇ってみたり、劣等感を持つのです。劣等感と優越感は表裏一体です。人生の脇見運転をする人は、いつも劣等感と優越感の間を行ったり来たりして振り回されます。

忠実とは、タラントをあずけてくださった神に目を向けることです。そして、主人がもどってきて精算を始めたとあるように、忠実とは、あずかったタラントを、終わりの時に、精算しなければならないことを心得ていることです。

主は精算をなさいますが、不思議なことに、増やしたタラントの多少に関係なく、同じようにほめてくださっています。いずれの場合も「良い忠実なしもべよ、良くやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と語ってくださるのです(21、23)

大切なことは、自分に与えられたタラントを感謝して、それを神に喜ばれるように活かすことです。それが忠実ということです。 ※もし、タラントを使って減らしたり、なくしたらどうなるだろうか。それでも主人は「勇気を出してチャレンジしたね。信仰をもって挑戦したことが嬉しいのだ」と言ってくださると私は思う。

次に、思慮深いとはどういうことでしょうか。それを教えるために、イエス様は、花婿を待つ10人の娘の話をなさいました(25・1~13)

10人の娘は花婿の到着を待っていましたが、到着がおくれてしまい、眠ってしまいました。この「花婿の到着」とは、イエスの再臨のことです。私たちの目には、イエスの再臨は遅れているように見えます。

そして、待ちくたびれるようにして「眠ってしまう」ことがあります。「目をさましていなさい」と言われたのですが、この世での生活で明け暮れている内に、霊的には眠ってしまうことがあります。

さて、10人中の5人が眠ってしまいました……とは記されていません。10人とも眠ってしまいました。つまり、100%目をさましていられるクリスチャンはいません。完璧なクリスチャンなどいません。弱さがあって眠ってしまうのです。そのことで、自分を責める必要はありません。

肝心なことは、そのように眠ってしまうことがあっても、思慮深いことです。 ※思慮深くても眠ることはあるのだ。では、思慮深いとはなにか。

10人の娘たちが眠っている間に、油が切れそうになりました。花婿を迎えるためのあかりを灯し続けることができません。せっかくの人生のクライマックスを暗い中で迎えなければならなくなります。

さあ、そんな時、思慮深い娘たちは油を用意していました。思慮深さとは、油を切らさないことです。このとは聖霊のことです。

信仰生活は決して人の力で続けられるものではありません。聖霊の油注ぎがなければ、信仰のあかりをともし続けることは不可能です。

肉なる賢さや熱心で信仰生活を継続させることはできません。聖霊が私の中に内住なさって、いつも霊の目を目覚めさせてくださらなければ、自分の頑張りで一生涯信じ続けることは不可能です。

娘たちのように眠ってしまうこともあります。でも、居眠りから目覚めたとき祈るのです。「聖霊様、助けてください」。「聖霊様の助けによって、一生涯、信仰のあかりをともし続けることができるようにしてください」と。聖霊に頼ることが思慮深いのです。

◆◆◆◆◆◆

ここで、再臨に関する教えの全体像を把握しておきましょう。イエスの初臨から再臨に至るまでの時代のことを「終末の時代」とか「終わりの時」と呼びます。旧約の預言でも、「その日」などと呼ばれています。

その終わりの時の終盤、そして再臨にあたってどのような事が起こるのかを示されました。その内容は3つに区分することができます。

(1) ユダヤ人に対する教え(24・4~31)

終わりの時代の終盤には、反キリストがユダヤ人を迫害する時がやって来ると預言されています。その期間を「患難期」と呼びます。患難期の半ばに、反キリストは自分こそ神だと宣言し、多くの人々を惑わすことになります。しかし、キリストの来臨によって反キリストと悪魔とその仲間たちは滅ぼされる。だから、最後まで信仰を捨てるなと教えられました。キリストの教会は、患難期を前に天に引き上げられていると考えられます。

(2) キリスト教会に対する教え(24・32~25・30)

キリスト教会の使命は何でしょうか。キリストが再び来られることを宣べ伝えることと、キリストがいつ来られても良いように、自分自身も準備することです。だから目を醒ましていなさいと命令されています。

キリスト教会に問われていることは、「思慮深さ」と「忠実」です。

「思慮深さ」を教えるために、油を絶やさずに灯火を灯しつづけた思慮深い5人の娘の譬え話(25・1~13)、「忠実」を教えるために、タラントを活用したしもべたちの譬え話をなさいました(14~30)

(3) 異邦人(右記以外の国民)に対する教え(25・31~46)

患難期に登場する反キリストは、神に敵対して立ち、おのれを神として人々に礼拝を強要するようになります。それを拒む者にとっては迫害の時代となります。

この時、反キリストにひざをかがめず、イエス・キリストを礼拝する人々が残されます。しかし、彼らは、反キリストによって激しい迫害を受けることになります。そのようなイエスの証人たちが裸であったときに着せ、空腹であったときに食事を提供し、病気や投獄されたときに見舞う者は、その報いからもれることはありません。

何故なら、反キリストの迫害下にあって彼らを助けることは、命がけの信仰告白となるからです。このように、羊と山羊を区別する出来事は、終末の患難期における、イエスの証人たちに対する対応によって区別されることを意味すると考えられます。

これはイエスが語られた預言です。天地が滅びようとも、イエスの御言は決して滅びません。今の時代は、ノアの洪水前の時のようで、こんな預言を荒唐無稽の作り話として一笑に付す人がほとんどです。

しかし、ノアの時代の洪水の教訓は、神の御言をあなどって滅ぼされることがないようにとの警告です。終わりの時のことを預言した使徒ヨハネも、黙示録の中でこう告げています。

「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは幸いである。時が近づいているからである」(黙示録1・3)


マタイの福音書 24章

2024年08月12日 | マタイ福音書
マタイ24:37 人の子が現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。

マタイ福音書の24~25章はイエス様の二度目の来臨について語られています。イエス様はマリヤからお生まれになることによって、世に来られましたが、これを初臨といいます。しかし、イエス様はもう一度来ると預言なさいました。これを再臨といいます。人の子が現れる(37)とは再臨のことです。

イエス・キリストは二度来られます。一度目(初臨)は十字架で死んで悪魔をさばき、人類を救うために来られました。そして二度目(再臨)はその救いを完成するためです。

イエスが十字架で死なれたのは、人の側から見れば罪の支払いをするためですが、神の側から見れば悪魔の〝わざ〟を滅ぼすためです。天の御国の完成のためには、まず最初に、罪の問題を必ず解決しなければならないからです。それは、罪の支配下にある人類を救い出すことであり、同時に、罪の根源である悪魔をさばくことです。「さばく」とは罪に定めるという意味ですが、裁判で有罪判決をくだし、刑罰を確定することです。

悪魔がさばかれる以前は ……つまり旧約の時代は……悪魔は当然のように人類を支配していました。何故なら人類は罪のうちにあり、それを根拠に悪魔は、罪と死の力で人類を縛り上げていたのです。

暴力団に脅(おど)されながら暮らしていたとしましょう。ところが裁判で暴力団の支配は違法だと判決がくだったら、脅されていた者は彼らの支配から自由になります。もはや、暴力団がその人を支配する法的根拠がなくなります。

イエスの十字架の死と復活によって、悪魔がさばかれたのもこれと同じです。もはや、悪魔が人間を支配する合法性がありません。イエスを信じて悪魔の支配から出てくることができるようになりました。

このように、悪魔はさばかれました。あとは刑罰の執行が残っているだけです。

裁判で判決がくだされると、しばらくして刑が執行されます。そのように、イエスが再臨なさるのは、悪魔に対する刑罰を執行するために来られます。その時、再臨のイエスは、御国の王の権威をもって、悪魔とその仲間を地獄に投げ込まれます。それが、神がくだす刑罰です。

しかし、神はすぐに刑罰を執行なさいませんでした。なぜなら、まだ悪魔のもとに多くの人々がとどまったままだからです。このままでは、悪魔と一緒に人類も滅ぼすことになるからです。

今でも悪魔の下で脅されるようにして、罪と死の奴隷になっている人々がいます。もちろん、そのような支配は不法です。しかし、人々はまだ福音を知らないので、その支配に泣き寝入りしています。だから、この福音をすべての人に告げる必要があります。

イエスの十字架の死と復活によって、悪魔に判決がくだりました。その刑が執行されようとしています。その時、悪魔とそれに属する者たちすべてが滅ぼされます。だから、イエスを信じて、悪魔の支配から出てきてください。悪魔が人類を支配する合法性は、もはやなくなりました。悪魔と道連れに滅ぼされないように出てきてください。この事を伝えるのが伝道です。

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この悪魔への刑罰は、イエスが再臨なさるときに執行されます。その日の事につてイエスは、人の子が来るのも、ちょうどノアの時のようであると言われました。(24・37)

「ノアの時」とは、洪水によって地上の全生物が滅ぼされた事件です。その時と同じようだとイエスは言われました。どのように同じなのでしょうか。

(1) すべての者に滅びが臨もうとしています。

ノアの時は洪水によって滅ぼされましたが、イエスの再臨の時には地獄の火によって滅ぼされようとしています。罪人はこの滅びから逃れることはできません。洪水が全世界の人々に臨んだように、最後の審判もすべての人に臨みます。

(2) 滅びからの救いが用意されています。

ノアの時は「箱船」を用意して、この船に乗り込むならだれでも洪水から救われるようになさいました。全世界に臨むさばきの時は、イエスの中に入るならだれも地獄の滅びから救われます。入る人の身分も功績も関係ありません。どんな悪人でも、イエスという名の「箱船」に入って救われます。

(3) 人々は神のさばきによる滅びを侮(あなど)りました。

ノアとその家族は洪水による滅びを人々に警告しました。警告しつつ、彼らは救いのための箱船を建造しました。しかし、人々はそれを侮って受け入れようとしませんでした。

イエス様の再臨の時もこれと似ています。世の終わりが来る事、そのとき神のさばきの刑罰が下される事をキリストの教会は宣べ伝えています。しかし、信じてイエス(箱船)に乗り込もうとする人は少ないのです。今の時代も、そんなおとぎ話しのようなことなど信じるに値しないと人々は侮っています。

(4) 滅びの後に新しい世界が始まります。

神のさばきは滅ぼすことで終わりではありません。その後に新しい世界が始まります。再臨のイエスはすべてを精算し、新しい世界……すなわち天の御国を完成なさいます。

このようにノアの洪水の時も人々が惰眠を貪っている時に滅びが臨んだのですから、主イエスの再臨に備えて、目をさましていなさい。いつの日にあなた方の主が来られるのか、あなた方には、わからないからであると教えられました(24・42)

しかし、そのように語られてから2千年も経過しています。神の計画は中止になったのですか。いいえ、わたしの言葉は滅びることがない(35)とイエスは言われました。ですから必ず実現します。

そもそも、初臨の場合も、神がアブラハムに約束されて2千年以上も経過してから実現しました。ならば、再臨の約束も時間はかかりますが、必ず実現なさるはずだと信じます。

ただし、その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられるのです(36)。だから、イエスは、「目をさましていなさい」と命じられたのです(42)

「目をさます」とは、夜も眠らないでいることではありません。「霊の目」をさますことです。それは、イエス様の再臨に焦点(フォーカス)を合わせる生き方のことです。

日常の生活に明け暮れるあまり、イエスの再臨を無視して生きるなら、霊的には眠っている状態です。この世ににおけるすばらしい活躍も、イエスの再臨に焦点が合っていなければ、霊的には眠っています。

天国人としての自覚を失い、地上の国民のように生きているなら、霊的には眠っている人です。私たちの国籍は天にあるのであって、そこから王なるキリストが来られるのを待っているのです。

私たちの人生は、地上における短い期間で完結するのではありません。つまり、地上の人生だけでは計算が合わないのです。しかし、イエスが再臨なさって、その理不尽な計算を合わせてくださるのです。だから目をさましていてください。それは、イエスの再臨にフォーカスを合わせて生きることです。

なぜ、肉眼で見える世界のことで揺さぶられますか。それは、私たちの目がイエスの再臨にフォーカスされていないからです。

近くばかりを見ていると近視になります。遠くが見えません。今の世界ばかりを見ているので、霊的には近視です。遠くが見えない。全体が見えない。だから、肉眼で見える世界で一喜一憂します。

さあ、目をさまして、イエスの再臨に焦点を合わせてください。

肉眼で見える世界は辻褄(つじつま)の合わない世界です。計算の合わない人生です。悪者が繁栄し、善人が損をする。真面目に生きているのが馬鹿らしく見えるのが、肉眼で見る今の世界です。イエスの再臨に焦点が合っていないと、そんな矛盾する世に対して、自分で計算を合わせたくなります。うまく行かない人生を他者(ひと)のせいにしたり、怒りの鉾先(ほこさき)を社会に向けるのは、自分で計算を合わせたいからです。

計算を合わせられるのは再臨のイエス様だけです。イエスの再臨に焦点が合っていないと、悪に対して、自分で復讐しようとします。早く計算を合わせたいのです。今の世で計算を合わせたいので、先走って他者(ひと)をさばき、自分をもさばいてしまいます。

すべてを正しくさばく方は再臨のイエス様だけです。イエスの再臨に焦点が合っていないと、自分のやったことに評価を催促するかのように自己主張したり、自己顕示欲に振り回されます。しかし、自己アピールが功を奏して、この世で報いを得たとしても、それはやがて朽ちる報いです。

正しく報いてくださるのは再臨のイエス様だけです。イエスは、悪に対しては刑罰をもって報い、善に対しては冠をもって報いてくださいます。すぐに消えてしまう地上の報いを得たいですか。それとも、永遠に朽ちない天の報いを求めますか。

さあ、天に国籍のある者らしく、再臨のイエス様に焦点を合わせて生きようではありませんか。それが、目をさましていることです。


マタイの福音書 23章

2024年08月10日 | マタイ福音書
マタイ23:3 彼ら(律法学者とパリサイ人)があなた方に言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには倣(なら)うな。彼らは言うだけで、実行しないから。

第23章は、律法学者とパリサイ人たちに対する痛烈な批判です。こんな事が言えるのはイエス様だからです。イエスのこの叱責を根拠に、自分がする他者批判を正当化してはなりません。

彼らの律法解釈は正しい。だから実行しなさい。しかし、彼らのやっていることは見習ってはならないと言われました。

先の22章では、律法を要約すると何でしたか。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することでした。しかし、律法学者やパリサイ人たちは、この愛を実行していませんでした。だから真似(まね)てはなりません。

彼らは言っていることは正しいのです。つまり、律法そのものは悪ではなく、正しいものであり、良いものです。聖書はこう言っています。律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである(ローマ7・12)

しかし、律法学者らに欠けていたものは何か。それはです。

正しいことを言っていても、それを剣のようにして人を斬りつけ、さばいてしまうからです。律法学者たちは、律法に基づいて正しいことを語りましたが、それによって人をさばき断罪するだけでした。

正しさは人を救うことができません。正しさに〝愛〟が加わって完成します。

イエス様は、律法を完成するために来たとおっしゃいました。それは、律法の目指すところの愛を完成するために来られたという意味です。イエス様は、律法の正しさに愛を加えてくださいました。その愛とは、十字架による赦(ゆる)しです。

私たちがこの愛を忘れてしまうなら、つまり赦しを忘れるなら、律法学者と同じように、正しいことを主張しながら人をさばく者、人を斬りつける者になってしまいます。そんな姿に倣(なら)ってはなりません。律法の本質である愛を完成させよう。

このように、イエス様はユダヤ教指導者に対して激しく叱責し、怒りをあらわになさいましたが、最後に、彼らのために悲しみをこめて、「『主の御名によって来たる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後ふたたび、私に会うことはないであろうと預言なさいました(39)

神の怒りの背後には、いつも悲しみと慈しみが込められています。 ※人の怒りの場合これがないので問題を起こしやすい。「人の怒りは、神の義を全うできない」と言われる所以(ゆえん)である。

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さて、ユダヤ人はキリストを待ち望むために準備された民族です。彼らが土台になって、キリストによる神の国は成立するはずでした。しかし、当のユダヤ人がイエスはキリストではないと拒絶しました。

この後、イエス様は十字架で死んで、そして復活されます。その復活は、イエスこそが御国の王キリストであることの最後の「しるし」でした。

かつて人々が、「あなたがキリストであれば、しるしを見せてくれ」と要求したのに対して、ヨナのしるし(復活)の他は何もないとイエスが言われたことを思い出してください(マタイ16・4)。

※「ヨナのしるし」……旧約の預言者ヨナは大魚に飲み込まれたが、3日目に吐き出された。そして、彼の預言を聞いてニネベの人々は悔い改めた。このヨナの体験は、キリストが死んで3日目に復活し、宣教と悔い改めが起きることの予型。

だから、弟子たちは、イエス様が復活したこと、それ故にイエスこそキリストであること、そのキリストは天で神の右に座し、いっさいの権威をお持ちである王であると証ししました。

しかし、ユダヤ人の多くは、その最後のしるしである復活さえも信じないで、イエスの弟子たちを迫害しました。その結果、神の国の働きはユダヤ人から異邦人に移ってしまいました。そのことをイエスは、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と予告なさいました(23・38)

こうしてユダヤ人たちは、キリスト教の歴史から一旦姿を消してしまいます。その象徴的な事件が、ローマ軍によるエルサレム陥落です。その後、2千年もの期間、ユダヤ人は流浪(るろう)の民となったのは、皆さんもよくご存知の通りです。

イエス様の目には、そのようなユダヤ人の悲惨な行く末が見えていました。でも、神はユダヤ人をお見捨てになってはいません。

イエス様は、「『主の御名によって来たる者に、祝福あれ』とお前たちが言う時までは、今後、再び、私に会うことはないであろう」(39)と言われました。ということは、ユダヤ人が悔い改めてイエスをキリストと信じ、主よ来てくださいと呼び求めるようになる時、主イエスは再臨なさって、ユダヤ人たちと再会なさるという意味です。

ここ2千年の歴史の中で、ユダヤ人がそのように求めることはありませんでした。それどころか、ユダヤ人にとってイエスの名は忌まわしい名となっています。聞くのも嫌で、まして呼び求めるなんてとんでもないのです。

なぜなら、キリスト教会の誤った聖書解釈のために、教会はイエス・キリストの名のもとにユダヤ人を迫害して来たからです。だから、ユダヤ人はイエスが大嫌いなのです。

なぜ、こんな歴史になってしまったのでしょうか。それは、キリスト教会の罪です。そして、そうすることによって、イエスの再臨を阻止しようとするサタンの働きが背後にあるからです。

しかし、近年になって、キリスト教会の中に悔い改めが始まりました。そして、少しずつですが、クリスチャンがユダヤ人に援助の手を差し伸べるようになり、ユダヤ人の中にもイエスを主と告白する者が誕生しつつあります。 ※このようなユダヤ人は「メシアニック・ジュー」と呼ばれている。

ユダヤ人たちが主の御名によってきたる者に祝福あれと、イエスを呼び求める時が近づいています。その時が、主イエスの再臨の時、神の御国の完成なる時です。そのために祈りましょう。


マタイの福音書 22章

2024年08月09日 | マタイ福音書
マタイ22:12 王は言った。あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。しかし、彼は黙っていた。

先の第21章における天の御国の譬え話は、逆転がテーマでした。ブドウ園に行って手伝ってくれという父親の要請に対して、兄は「行きます」と返事をしておきながら、行かなかった。しかし、弟は「行きたくありません」と返事をしておきながら、行った(21・28~32)。 ※新共同訳では、この兄と弟が逆になっているが主旨は同じ。


神の国に近いと思われていたパリサイ人や律法学者らはイエスを信じないで、神の国から遠い存在であった取税人や遊女たちがイエスを信じたのです。

神の国を受け継ぐはずのユダヤ人はイエスを拒絶して、神の国からは縁遠い存在であった異邦人がイエスを信じて神の国を受け継ぐことになるというのも、逆転のテーマです(21・33~44)

この逆転のポイントは悔い改めです。

「行きたくありません」と言っていた弟は、悔い改めました。しかし、兄であるパリサイ人や律法学者たちは悔い改めませんでした。悔い改めとは「考えを変える」ことです。

第22章の王子の婚宴のたとえ話もテーマは同じです。

王子の婚宴に招待されていた人々とはユダヤ人のことです。でも、彼らは招待を断ってしまいました。王のことよりも自分の都合を優先したのです(22・5~6)。つまり、ユダヤ人は御国の救いを受け取らず、断ってしまいました。

そこで王は、町の大通りに出て、だれでも、善人でも悪人でも、連れてくるように命じました(22・9)。つまり、ユダヤ人ではなく、異邦人を救いに招くことになったのです。新約はそういう時代です。神の招きに応じるなら、だれでも救われる時代です。今は恵みの時、救いの日です。救いには、民族や性別の区別がありません。身分や能力の区別もありません。

ですから、婚宴に集められた人々は、悪人でも善人でもみな集めてきたと記されているとおりです(22・10)。救いとは、神の招きに対して、信じて応じるだけです。「救いをあげよう」という神の申し出に対して、「はい、いただきます」といって受け取るだけです。それが救いで、その救いは確実なものです。

ところが、婚宴の席に礼服を着ないで入ってきた人がいました。王はその人を外に追い出しました。いきなり婚宴に招集されたのですから、礼服を用意できない人だっているじゃないですか。それに、礼服をもっていない貧しい人もいます。王のやり方に疑問を感じる人もいるでしょう。

そうではないのです。王の婚宴では、王が礼服を用意するのが当時の慣例です。つまり、この礼服を着ないで入ってきた人は、王が用意した礼服を断る無礼者です。

この「礼服」とは何を意味しているのでしょうか。

聖書はこう記しています。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである(ガラテヤ3・27)。また、こうも記しています。真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである(エペソ4・24)

イエス様を信じるとは、キリストを着ることです。イエス様を信じるとは、神の義を着ることです。これは、自分で用意することのできない着物です。ちょうど、王が列席者に礼服を用意したように、神が用意してくださる着物です。

あのエデンの園で罪をおかしたアダムとイブは、罪人である自分を恥じてイチジクの葉で隠しましたが、それは自前の服でした。しかし、主なる神は人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられたのです(創3・21)。皮の衣ですから、血が流されています。何という不思議な記録でしょうか。

創世記の初めから、神が、義の衣を用意してくださることが予告されていたのです。この衣とは、十字架で血を流してくださったイエス・キリストを着ることを表しています。

王が用意してくれた礼服とは、イエスを着ることを意味しています。イエスという義の衣を着ることです。あなたは、その礼服を受け取るべきです。アダムとイブが自分の服(イチジクの葉)を着たように、自分の服で神の御前に出ることはできません。

礼服を着なかった男とは、自分の服でやって来た人です。自分の服……それは「自分の義」です。自分はこんなに立派にやりましたという自己正義の服です。自分の真面目さや自分の頑張りで、神に認めてもらおうと思って、キリストを頼らずに、自分の正しさで神の前に出てきた人です。

イエスを受け入れなかったパリサイ人や律法学者らは、自分の正しさで天国に入れると勘違いした人々です。でも、彼らは神の前から追い出されます。ここにも「逆転」があります。

必要なことは、自分の正しさや立派さが、神に通用するという考えを悔い改めることです。神の義を着ないでは、神の前に出ることはできません。さあ、悔い改めて、自分の義という服を脱いで、神が用意してくださった神の義を着よう。おのれの頑張りという服を脱いでキリストを着よう。

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さて、イエスをキリストと認めたくない人々は、質問をしてイエスを処罰する言質(げんち)を取ろうとしました。そのひとつに、先生、律法の中でどの戒めが一番大切ですかという質問がありました(マタイ22・36)

悪意ある質問にも関わらず、それがキッカケになって素晴らしい御言を受けることになりました。ですから、どんな質問でもしてみるものです。イエス様の答えはこうでした。

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている。(22・37~40)

イエス様は旧約聖書をズバリひとことでまとめてくださいました。

私が手にしている旧約聖書(口語訳)は全部で千三百二十六ページからなります。こんなに分厚い聖書に何が記してあるのか。イエス様がまとめてくださったように、「愛しなさい」と命令されているのです。

たくさんの命令や規定が記されていますが、まとめるとそれは「愛しなさい」と言っているのです。まず第一は神を愛しなさいです。第二は自分を愛するように隣人を愛しなさいです。

第一の愛は「神を愛する」ことです。愛は人間に対する愛だけだと思われがちですが、神を愛することを忘れてはなりません。人を愛する場合、自分なりの愛ですぐ息切れしてしまうのは、「神を愛する」という愛ができていないからです。

では、神をどうやって愛するのでしょうか。

そこで重要になるのが「十戒」です。旧約聖書に沢山記された戒めの基本は十戒です。そこには、どのように愛するのかが的確に記されています。順番に見てみましょう。出エジプト記の第20章です。

(1) わたしの他に何ものをも神としてはならない。

神を愛するとは、神以外の何ものをも神としないことです。ある人はお金を神とします。また、自分を神とする人もいます。某神社の神を礼拝する人もいます。でも、まことに礼拝すべきお方は、私たちを創造なさったまことの神のみです。

夫がいるのに他の男性と関わりがあるなら、それは忌まわしいことです。それと同じです。まことの神がおられるのに、他の男と関係を持つ淫婦のように、他のものを礼拝するのは、神を愛していないのです。

(2) 神を形に刻んで偶像を作ってはならない。

人間は霊的な存在ですから、神を求める心を持っています。しかし肉体を宿としている故に、肉体の感覚で……つまり、見たり触れたりして神を確かめたいという欲求があります。だから、偶像を作って、それを神として拝もうとするのです。

ある人は富士山のような荘厳な山を神として拝みます。確かに堂々たる山ですが、しかし神の偉大さを現すにはあまりにも貧弱な山です。このように、地の中、水の中にあるどんなものも、神を表すに相応しい形はありません。ですから、偶像を神とすることは、神の真の姿を歪曲(わいきょく)することです。それは神を愛することにはなりません。神の真実の〝かたち〟は御子なるイエスだけです(コロサイ1・15、ヘブル1・3)。このお方こそ礼拝すべきまことの神です。

(3) 神の御名をみだりにとなえてはならない。

このことは誤解されがちです。神の御名を呼んではならないのではなく、神の御名を軽んじたり汚してはならないという意味です。

人間同志でも、愛する人の名を辱(はずかし)めるようなことをしません。それと同じように、神を愛するとは、神の御名を尊重することです。ですから、神の御名を愛して呼び求めることを、主は喜ばれます。

その名は「イエス」です。新約の時代になって、神の御子が、神の名を知らせてくださいました。その名は、父から受けた名だとイエスは言われました。父の名であり、御子の名であり、聖霊の名は「イエス」です。神を愛し心から尊重して、イエスの御名を賛美します。それが神を愛することです。

(4) 安息日を聖とせよ。

6日働いて7日目は休めと命令されています。神との親しい交わりの中で安息せよと命じられています。神との親しい交わりの時間を持つこと……これが神を愛することです。

人間同志でもそうでしょう。愛するといいながら、その人と一緒の時間を持たないでいたら、やがて心にすれ違いや隙間が生じてきます。私たちが一週の初めの日に礼拝をささげるのは、神を愛する大切な時間だからです。

こうして、心をつくして、思いをつくして、力をつくして神を愛することが、人間としての本分です。人間としての基本中の基本です。こうして神への愛が豊かになると共に、自分を愛するように隣人を愛する愛も豊かになります。

十戒の残りの⑤~⑩は、自分を愛するように隣人を愛することの基本を教えています。

(5) あなた方の父と母とを敬え。……これこそ、人を愛することの基本です。どうぞ、自分を生んでくれた父母を敬ってください。それができないで、他人を愛しても偽善になってしまいます。

(6) 殺してはならない。……愛しているから殺しません。喧嘩はしますが、愛しているので和解に努めます。

(7) 姦淫してはならない。……性欲は愛ではありません。正しく愛する方法は、自分の妻(夫)以外と関係を持たないことです。「愛があるなら……」と屁理屈をこねて肉体関係をもつのは愛ではありません。本当に愛するなら、他者の性を尊重します。

(8) 盗んではならない。……隣人を愛するなら盗みません。盗んでまで所有することは自分も隣人も愛することになりません。

(9) 偽証をしてはらない。……嘘をついてまで利益を得ますか。嘘をついてまで自己保身しますか。それは愛から出ていることではありません。

(10) むさぼってはならない。……欲求は罪ではありません。しかし、貪(むさぼ)るほどの欲求は自分も隣人も破壊します。そこまでして欲しがってはなりません。これが人を愛することの基本です。

さて、旧約の人々はこれを実行できませんでした。でも、イエス様はそれを完成するために来られました。実行できない私たちの罪を取り除き、聖霊を注いで、この「愛」を実行するようにと、イエスは私たちを招いておられます。律法の一面は、それを実行できない人間の罪を示していますが、もう一面では聖霊によって実現する愛を啓示しているのです。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

マタイの福音書 21章

2024年08月08日 | マタイ福音書
マタイ21:3 主がお入り用なのです。

マタイ福音書もいよいよクライマックスに向かって書き進められて行きます。第21章はイエス様がロバに乗って都エルサレムへ入られた出来事です。ここから十字架の死へと向かう受難週が始まります。

この日は、人々が棕櫚(しゅろ)の枝を手にしてイエスを歓迎したところから、「棕櫚の日曜日」と呼ばれています。この日からの一週間は受難週と呼ばれ、イエスの十字架の死と復活が成就するわけです。

マタイ福音書に描かれているキリストは、「御国の王としてのキリスト」でした。王は天の御国が近づいたと宣言されて、その活動を開始されたわけですが、いよいよエルサレムにやって来られました。どのようにして御国が立てられるのでしょうか。

(1) イエスは天の御国の王として来られた。

人々はイエスを王として歓迎したのですが、それは世間一般の王としての期待でした。ローマの圧政から解放し、ユダヤ人を中心とした理想郷を完成してくれる王を期待していました。しかし、イエス様は世俗の王ではなく、天の御国の王として来られました。

王が支配なさるところに国があります。イエス様が私たちの内にあって王としてご支配なさっていますか。〝私〟が王であれば、そこは〝私の国〟であって、天の御国ではありません。

具体的な御国が完成する前に、まず、私の内側に御国が建てられなければなりません。国としての形態が整い、外見は立派でも、人の内側に「自分を王とする罪」が残されたままで御国は完成しません。

御国の王の御前でおのれの罪を告白し、内なる王座をキリストにお座りいただくことです。そこから御国は始まります。

(2) イエスは武装解除するために来られた。

王であれば白馬にまたがり、屈強な兵士を引き連れて都に入城するのが通例です。ところが、天の御国の王はロバに乗って来られました。しかも、敵を滅ぼす武器も持たず、漁師育ちの弟子たちを引き連れて来られました。

しかし、旧約聖書は、御国の王であるキリストはロバに乗ってこられると預言しています。

「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子ろばに乗る。」(ゼカリヤ9・9) 預言は更に続きます。

わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。(ゼカリヤ9・10)

御国の王は、文字通りの武装解除をなさるのですが、意味は更に深いものがあります。核兵器もミサイルも恐ろしい武器ですが、それは肉体を殺すことしかできません。もっと恐ろしい武器は、私たちの内側にあります。それは、自分を傷つけ他者をも傷つける、敵意・ねたみ・うらみ・殺意などの目に見えない武器です。

子ロバに乗られた王は、まず私たちの内側を支配なさって、私の内側の武装解除をなさるお方です。さあ、平和の王であるキリストの御前にひれ伏し、おのが内なる武器を差し出そう。この武装解除をせずして天の御国はやって来ないのです。

(3) キリストは子ロバをご入り用なのです。

イエス様は王であるのに立派なサラブレッドに乗るのではなく、ロバの子に乗られました。頼りないヨタヨタと歩く子ロバを主はご入り用なのです。イエス様を乗せて神の国の福音を持ち運ぶ子ロバがご入り用なのです。

イエス様はロバの子に乗って私の中に来られ、私の内側に天の御国が始まるようにしてくださいました。今度は、私がロバの子になってイエス様をお乗せして、次の人の所に出かける番です。

キリストを信じた私たちは、イエスをお乗せする子ロバです。格好良くは行きません。ヨタヨタとした足取りです。〝ころばないかな〟と心配ですが、福音を必要とする人々のもとへ、主をお乗せして歩き出そう。

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さて、イエス様がゼカリヤの預言どおりにロバの子に乗って来られたのは、ご自身が来たるべきキリストであることの証しでした。しかし、一般庶民の歓迎ぶりとは裏腹に、指導者たちはイエスを殺害しようと計画していました。

そのような敵対する人々に向かって、イエスはブドウ園の譬え話をなさいました。

ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけたのです(マタイ21・33)

ブドウ園とは神の国のことです。そして、農園をまかされた農夫たちとはユダヤ人のことです。神の国を実現するために、神はユダヤ人を選んで、長い期間をかけて準備なさいました。

準備の途中で、神は預言者たちを派遣して、神の国を整えようとなさったのですが、ユダヤ人たちは彼らを受け入れず、殺してしまいました。主人が遣わした「しもべ」とは過去の預言者のことです(34~36)

ここまでが旧約のできごとです。そして、新約の時代に入って「最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした」のです(37)。ブドウ園の主人がつかわした「わが子」とは、神のひとり子イエスのことです。父なる神は、神の御国の完成のために、御子イエスをこの世にお遣わしになりました。

すると農夫たちは、その子を見て互に言った、あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。(38~39)

農夫たち、すなわちユダヤ人たちは、譬え話で予告されたとおりに、イエスを十字架につけて殺してしまいました。その結果、神の国はどうなったのでしょうか。イエスは、こう預言なさっています。「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」と(43)

神の国は異邦人(ユダヤ人以外の人々)に与えられることになりました。つまり、イエスを信じる私たちに与えられることになりました。それが今日に至るまでのキリスト教の歴史です。

※正確には、イエスを十字架で殺したことで、ユダヤ人がイエスをキリストと認めずに拒んだとは言えない。3日後にイエスが復活されたが、それはイエスがキリストである「最後のしるし」であった(マタイ16・1~4)

※そのしるしである「復活」をイエスの弟子たちはユダヤ人に宣べ伝えたが、彼らは認めなかった。その結果、神の国の福音は異邦人(外国人)に受け入れられるようになった。これが正確な経緯である。

この神の国の計画は今もなお継続して進んでいます。神の国の計画は、ユダヤ人が拒んだぐらいで頓挫しません。むしろ、彼らのつまずきを用いて、異邦人の救いへと展開しました。

ですから、今は、異邦人である私たちが救われる時代です。今は恵みの時、今は救いの日です(Ⅱコリ6・2)。イエスを信じるだけで救われ、神の国を受け継ぐ者にされる時代です。

しかし、神の国が異邦人にまかされた時代はいつまでも続くわけではありません。イエス様はこう預言なさいました。「そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」と語られたとおりです(ルカ21・24)

異邦人の時代が終わると、再びユダヤ人の計画が動き出します。神は、ユダヤ人(イスラエル)との契約を決してお忘れになってはいません。

神は、契約違反を激しくお怒りになる方です。だからこそ、ご自身の契約をご自身の方から反故(ほご)になさることは決してありません。だから、最終的にはイスラエルの民族的な救いは完成します。聖書は、そのことを奥義として説明し、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる(ローマ11・25~26)と約束しています。現在の私たちの位置づけがお分かりいただけたでしょうか。

せっかく準備してきたユダヤ人たちは退けられて、私たちが神の国を受け継ぐ恵みにあずかるようになりました。しかしそれは、私たちに何か取り柄があったからではありません。それは神の哀れみです。

しかし、異邦人の救いの期間が終わったら、再び神の国のバトンはユダヤ人に渡ります。それは、最後にユダヤ人(イスラエル)の救いが完成するためです。

祈りましょう。バトンを渡す時までの期間、私たちがキリスト教会としての務めを走りきることができますように。
 

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。
 

マタイの福音書 20章

2024年08月07日 | マタイ福音書
マタイ20:14 私はこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。

イエス様はブドウ園の労働者たちの話しをなさいました。ユダヤではブドウの収穫期間というのはとても短く、ほど良く熟した時に一斉に収穫しなければならず、とても忙しいのです。

まさに、猫の手も借りたいといったところです。ですから、ブドウ園の主人は、1日1デナリの約束で労働者をやとって仕事をさせました。 ※当時の労働者の1日分の労働賃金は1デナリと相場が決まっていた。

朝にやとった人数では間に合わなくなり、午前9時に数人、昼の12時にも数人、午後3時にまた数人……。それでも間に合わないので、午後5時にも数人をやといました。

朝から働いた人は12時間の労働です。そして、午後5時からの人は1時間しか働いていません。ところが、賃金をもらってみると、みんな1デナリの賃金を受け取りました。

そこで、朝から働いた人は不平を言いました。午後5時から働いて1デナリであれば、朝から働いた者はもっと多くもらえるはずだと計算したのです。

※普通なら、賃金支払いの順番は朝からの者たちから始めて、午後5時からの男は最後にする。しかも、他の労働者に分からないように、そっと支払うだろう。しかし、この場合は逆。主人は自分の気前よさを知らせる気満々である。神は最低な人間を救って、ご自分の恵みの偉大さを世に示される。

イエス様はこの話しを通して、地上の計算と天上の計算は違うことを教えておられます。

先の19章でも、金持ちの青年は、どんな良い行いをすれば天国に入れるのかと、計算したわけです。これだけ立派な行いを積み上げれば、永遠のいのちが獲得できるのだというのは、地上の計算方法です。

また、それを聞いていた弟子のペテロはは、自分たちはすべてを献げて従ってきたのだから、特別な報酬があるのだろうと計算しました。もちろん、神は正しく報いてくださるお方です。しかし、あとの者は先になり、先の者があとになるということがあるのだと注意なさいました(19・30、20・16)

地上の計算と天上の計算は違うことを知るべきです。

地上の計算は報酬が原動力です。地上ではみな報酬のために働いています。金銭という報酬であったり、何らかの見返りという報酬を期待して働きます。しかし、天の計算は違います。が原動力です。

朝から働いた人も、神を愛して、神のために労苦させてもらった光栄を感謝すれば良いのです。午後5時から働いた人より、自分はたくさん神を愛することができたことを喜べば良いのです。午後5時からの人も、短い時間でしたが一生懸命に神を愛した1時間だったのです。わずかでもお役に立てたと感謝すれば良いのです。卑屈になることはありません。

愛は「報酬の論理」を超越します。地上の論理につかまってしまうと、「あとの者が先になり、先の者があとになる」というドンデン返しを喰らいますよ……と主は教えてくださいました。

◆◆◆◆◆◆

さて、その後またしても同じ問題が浮上します。

弟子たちの中でだれが偉いのか、出世するのかといった肉なる問題でした。このテーマは弟子たちにいつもつきまとっていました。それは私たち一人ひとりの課題でもあります。

すでに見たように、先の第18章でも、弟子たちは「天国ではだれがいちばん偉いのですか」と質問をし、イエス様は、幼な子のように身を低くする者が天国でいちばん偉いのだとお応えになりました(18・4)

しかし、この問題は弟子たちの中で解決されておらず、燻(くすぶ)ったままでした。

ヨハネとヤコブの母がイエスのもとに来て、私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をくださいと願い出ました。ところが、この事を聞いた他の弟子たちは憤慨し論争となったと聖書は告げています(20・21~24)

「右」とか「左」というのは、右大臣、左大臣といった地位のことです。王の次に重要なポストです。このような出世をヨハネとヤコブだけが願っていたのではなく、他の弟子たちも同じでした。だから論争になったのです。こうして「だれが偉いのか」という問題がこれを機に再び吹き出したわけです。

どうして、この問題がくり返し出てくるのでしょうか。それは人間の中に潜んでいる〝肉〟が原因です。私たちの心には「偉くなりたい」「仕えられたい」という願望が潜んでいます。弟子たちのように右大臣・左大臣クラスを願わなくても、少なくとも職場ではそうありたい、家族の中ではそうありたい……と心ひそかに願っていませんか。

裏をかえせば、〝しもべ〟に徹しきれない自我であり、おのれの傲慢です。これは罪の性質であって根深い問題です。

だから、イエス様はあなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間でかしらになりたいと思う者は、僕(しもべ)とならねばならない」と言われました。この事はイエス様が「仕えるために来たのと同じ意味をもっているというのです(20・28)

イエス様こそ御国の王であるに相応(ふさわ)しいお方です。ところが、そのお方がしもべとなって仕えてくださいました。人々から仕えられて当然のお方が、十字架の死に至るまで仕えてくださいました。

このイエス様の御姿を心に焼き付けるとき、先ほどの自我とか傲慢という罪の性質は少しずつ砕かれ、滅ぼされて行きます。

良く考えてみてください。世の中は「偉い人」によって混乱しています。「偉い人」が戦争を起こし、「偉い人」が世の中を悪くしています。逆に、「しもべ」とか「仕える人」ばかりの国であれば、そこはどんなに平和な国でしょうか。

トルストイはイワンのばかという小品の中で、王となったイワンは自らしもべとなって、しもべの国をつくりました。「王なのに、しもべになるなんて、ばかだ」と揶揄(やゆ)されながらも、幸せ者の国を造りました。このように、天国は〝しもべたちの国〟です。幼な子のように身を低くして仕える者たちの国です。

もともと人間は「偉くなる」ために創造されたのではありません。神が人間を創造なさったのは、「仕えられる」ためではなく、「仕える」ためです。

それが、人間の本分です。偉くなることで幸せになるのではなく、しもべになることで幸せになれるように、神は人を創造なさいました。

この人間本来の姿を破壊したのは悪魔です。

悪魔は元は天で神に仕える天使でした。仕える身分の天使が、自分も神のように仕えられる者になろうとして堕落したのが悪魔です。悪魔は自分と同じ性質を人間にも注ぎました。

「偉くなりたい」という問題の根が深いと申し上げたのはこの事です。悪魔と同じ性質が、罪人である人間の中に根深く潜んでいるのです。

イエス様が私たちに、しもべになりなさい」「仕える者になりなさいと命じておられるのは、とても重要な命令です。人間としての本来の姿を失ってはならないという意味です。逆をいえば、悪魔のようになってはならないという命令です。

神であられるお方、御国の王であられるお方が、まず仕えてくださいました。それは、私たちが人としての姿を回復するためです。そして、わたしと同じように歩みなさいと見せてくださいました。

私たちの肉の感覚からすれば、しもべになるよりは偉い人になりたいです。仕えるよりは仕えられる人になりたいです。そうです。肉の感覚によれば、しもべとなることは「狭い門」です。身をかがめ、身を低くしなければ通れない門です。

しかし、滅びにいたる門は広く、救いにいたる門は狭いことを忘れないでください。


マタイの福音書 19章

2024年08月06日 | マタイ福音書
マタイ19:14 幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。

イエス様に手をおいて祈ってもらいたくて、子どもたちが集まってきました。ところが弟子たちは、それをたしなめたと記されています。「先生はお疲れなんだから」とか「子どもを相手にしている暇(ひま)はないのだ」とか言ったのでしょう。イエス様を気遣ってのことではなく、どうやら、子どもを軽視する考えが弟子たちにあったようです。

そこで、イエスが語られたのが今日の御言です。

幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。先の第18章でも、幼な子を例にあげて、「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのだ」と言われたことにも関連しています。

キーワードは幼な子のようにです。

先の第18章の場合の事の始まりは、天国では誰が一番偉いのですかという質問からでした(18・1)。大人というのは、……悲しいかな特に日本では……出会った相手が、自分より偉い人かどうかを意識します。偉い人には丁寧語や尊敬語を駆使し、同等の人にはため口で話し、目下とおぼしき人には横柄な口調になる。日本語は身分によって言葉づかいが変化するので、相手が偉い人かどうかをいつも意識させられています。

※日本語が相手によって言葉が変化するのは、それだけ日本人は人間関係を上下の関係でとらえるという伝統が根深いと言える。それは儒教文化の影響であろう。

それと比べて、幼な子は偉い人にも平気で近づきます。自分の言葉で話します。だれが偉いかなどまったく気にしません。天国とはそのような者たちの国だと、イエス様は言われたのです。

そこで幼な子の特徴を3つあげておきましょう。

第一に依存性です。

幼な子は、自分で何でもできるなんて思っていません。親を頼り、だれかを頼らないでは生きられないことを知っています。ところが大人になると、自分で何でもやらなければならなくなるので、幼な子らしさを忘れてしまいます。

でも、本当のところ、大人になったからといって、自分で何でもやっている訳ではありません。実は、大人になればなるほど、自分にはできない事がいっぱいあることに気付くはずです。

正直に自分を見つめるとき、天の父を頼らなければ生きて行けない「幼な子」である自分を発見するはずです。

第二に正直です。

幼な子は自分が偉くなろうという邪念がないので、何でも正直です。正直なので自分を飾りません。ところが、大人になるにつれて、偉くなろうとするので、偉くなるために自分を飾るようになります。だから偽装します。

悪いことをしたら、子どもはすぐに認めて謝ります。でも、大人になるにつれて、罪を認めなくなります。昨今の政治家などのリーダーたちの不祥事が報道されるたびに、罪を認めないで何とかごまかそうとする姿に辟易(へきえき)とします。

罪を認めて悔い改める正直さは、幼な子の特徴です。天国はそのような者の国です。

第三に難しく考えないということです。

幼な子は難しく考えません。大きくなったらプロ野球の選手になるんだ!とか、総理大臣になるんだ!とか、いとも簡単に考えます。でも、大人になるにつれて、それは難しいことだと考えるようになります。

成長するに連れて、学校でも難しい問題を解く訓練をします。大人になれば、会社や家庭の難しい問題を抱えます。ですから、大人になると、何でも難しく考えるようになります。

しかし、その難しく考える性質が、神の働きさえも難しいと受け止めるようになります。たとえば「山が動く」というのはどうですか。考えれば考えるほど難しいことです。でも、幼な子はいとも簡単に信じてしまいます。

天国に入ること、永遠のいのちを得ること。これも難しいことです。何をしたら永遠のいのちを得ることができるだろうか、大人は難しく考えます。

「天国は幼な子のような者の国だ」と言われた出来事の後に、聖書は「すると」と次の出来事を紹介しています(19・16)。「すると」何があったのでしょうか。すると、律法を誠実に守っている金持ちの青年が登場するのです。彼はある悩みをかかえていて、イエスに質問したのです。

先生、永遠の生命を得るためには、どんな良いことをしたらいいでしょうか(16)。彼は天の御国に入ることを難しく考えていました。つまり、幼な子のようではなかったのです。

自分は立派にやって来たのだから天国に行けると思うのだが、でも本当は分からない。何か他にすべきことがあるのだろうか……と。この青年のように、多くの人が、救われるためには何か良いことをしなければならないと難しく考えています。かくして富めるの青年は幼い時から律法を厳守してきました。

この青年は、どんな返答を期待していたのでしょうか。イエス様から太鼓判をおしてもらいたいと願っていたのかも知れません。

「いや~よくやっているね。それだけ真面目にやっていれば天国に入れますよ。うん、大丈夫!!」と言ってもらえるかと思いきや、イエス様はもっと高いレベルを要求なさいました。

持ち物を全部売ってそれを貧しい人に施しなさい。そしてイエスに従って来なさい……と。これを聞いた青年は、「自分には無理だ」と思って立ち去りました。彼の天国行きの計算からすれば、難しい算段だったのです。彼は幼な子のようではありませんでした。

このやり取りを聞いていた弟子たちも、自信がなくなりました。では、だれが救われるのだろうか(25)。弟子たちも難しく考える人々の仲間入りです。皆さんは自信がありますか。自信のない人は幸いです。その人は救いを受けるからです。

自分の行いとか、立派さによって救われようとする人は、遅かれ早かれ自信を失い、そして絶望します。しかし、人間だれしも、この絶望を味わわなければなりません。なぜなら、自分の努力や行いに絶望した人は、必ずイエスにたどりつくからです。イエス様は意図的に、この青年が絶望を味わうように返答なさったのです。

この青年のその後についての記録がありません。彼は、イエス様の言われたように、全財産を売って貧しい人に施そうとチャレンジしたかも知れません。そして気づくのです。財産を手放すことができない自分の姿に。神より富を主人とする罪人の姿に。

そして、この罪人を救い得るのは、自分の善行ではなくイエス・キリストだけであることに気づくことになったはずです。

絶望を味わった人。その人は幸いです。「心の貧しい人は幸いです」とはこのことです。自分で自分を救うことにまったく絶望し、人にはできないことをなさるイエス様を信頼するようになるからです。

私を救うことのできる方はイエス様だけです。


マタイの福音書 18章

2024年08月05日 | マタイ福音書
マタイ18:15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

王であるキリストは、神の国(天の御国)と地上の国との違いを説明されました。

(1) 誰が偉いのか?

地上の国では、大きい者が偉いと相場が決まっています。しかし、神の国では「幼な子のように自分を低くする者がいちばん偉いのだ」と言われました(18・4)

「大きい者」とはどんな人でしょうか。お金のある人、才能豊かな人、地位の高い人です。そして、何もないのにただ偉そうにする人もいます。でも、それは地上の国でいう「大きい人」です。

神の御国では、小さい者がもっとも偉いのです。神の国の国民は、身を低くして、謙遜になって狭い門をくぐって入る人です。〝小さい者〟でなければ、狭い門をくぐることができません。

肩書きや世の富を携えて天国に入りたい人は、それを持ったまま通れる広い門、広い道を選びます。大量輸送が可能です。それらを搬入して天国でも偉ぶりたいのです。しかし、天国への道は細いので、それらは捨てて小さい者になる必要があります。

(2) 罪を犯した場合は?

次に、誰かが罪をおかした場合はどうでしょうか。地上の国では罪の噂はまたたくまに広がります。井戸端会議で、雑誌で、テレビで、ネットで……と、容赦なく批判とさばきの嵐が浴びせられます。

しかし、神の国では、彼とふたりだけの所で忠告します。それは、その兄弟を「得る」ためです。

直接、その人に話すことは勇気が要ります。その勇気をもたず、話しやすい人にチクったり、匿名で告発するのです。しかし、勇気をもって直接話すなら、互いの間に信頼も生まれます。そして、その忠告がうまく行けば彼を友として「得る」のです。

しかし、うわさ話は信頼ではなく不信を生みだします。人を深く傷つけます。人間関係を破壊して、友を「失う」のです。
ですから、神の国の国民は、うわさ話が自分の所に来た時点でごみ箱に捨ててしまいます。いったん捨てたら、再び拾い出して読みません。また、「これをあなたに言うのは祈ってほしいから……」という屁理屈も、新手(あらて)のうわさ話です。要注意!!。

(3) どこまでゆるせばよいのか?

次に、「ゆるし」の問題です。地上の国では7回までゆるしたら上出来です。ペテロもそう思って質問しました。すると、イエス様は、7を70倍にするまでゆるしなさいと教えられました(18・21~35)

そこまでゆるして大丈夫ですか。相手が調子に乗るだけじゃないですか。相手のためにならないですよ。無理です。いやです。……地上の国民からは、そんな声が聞こえてきます。でも、神の国の民は自分がいかに多くの罪をゆるして頂いたのかを、よーく分かっている人です。

ここで勘違いしてはならないことは、「ゆるす」とは、例えばその過ちが実害をともなう場合、何の罰も与えないということではありません。当然、社会的な罰則が課せられます。

ところが、罰則が課せられたにも関わらずゆるせない心を持ち続ける性質が、私たちにはあります。ましてや罰則を受けないでいるなら、その憎しみはメラメラと燃え上がります。

なぜ、そのような思いが燃え上がるのでしょうか。憎しみを持ち続けて幸せになれた人はひとりもいないと分かっていながら、その悪循環の罠(わな)にはまってしまうのは何故なのでしょうか。

それは、ゆるすと「損をする」と思っているからです。人は損得には非常に敏感です。

でも、本当に損をするのは自分なのです。ゆるさないでいると、いつもその罪を犯した人のことを思い出すことになります。それは、その嫌な人が自分の心に住みついて、自分の心を荒らし回ることを許可していることになるのです。これでは大損です。

そこで、イエスは譬(たと)え話で教えられました。主人から1万タラントの借金をしている男がいました。1タラントが6千デナリです。1デナリが同労者の1日分の賃金ですから、1タントは6千日分の労働賃金です。1年に3百日働くとすれば、1タントは20年分の賃金。ですから、その1万倍ですから、1万タラントは20万年分の賃金に相当する借金です。もうこれは返済不可能な金額です。

この男のように、私たちは神に対して〝罪という借金〟を負っています。その負債は、私たちの人生に重くのしかかっています。ただ、気が付かないでその日その日をやり過ごしているだけです。神の御前で精算をする時、この大変な額(罪)に驚愕します。

日本の借金が現在1千兆円を超えています。普段は意識しないで呑気(のんき)に暮らしていますが、いつか大変なことになります。問題を先送りにしているだけです。

譬え話の男も、請求される段階になって、借金の膨大さに気付き途方に暮れたのです。彼は何とか返済しますからと懇願しました。でも、本当に返せますか。落とし物を交番に届けるとか、お年寄りに席を譲るとか……、その程度の善行で1万タラントの罪を返済できると思いますか。だから神は赦(ゆる)してくださったのです。もちろん、何の根拠もなく赦してくださった訳ではありません。十字架で御子の贖(あがな)いのいのちが献げられたからです。

※償(つぐな)いとは自分で支払うこと。自分では支払えないので、他者が代わって支払うことを「贖(あがな)い」という。

さて、1万タラントの借金男は主人からゆるしてもらいました。ところがその帰り道、自分が100デナリを貸している友人を見つけて、返済を要求し、返せないと見るや投獄したというのです。

100デナリですから100日分の賃金です。自分がゆるしてもらった20万年分の借金からすれば、目の中の塵(ちり)みたいなものです。しかし、自分の目の中に大きな梁(はり)が横たわっていると、友人の目にある塵みたいな小さな事がゆるせないのです。

(はた)から見ていれば、この男の愚かさは良く分かります。あなたなら言うでしょう。1万タラントもゆるしてもらったんだから、100デナリぐらいゆるしてやれよっ!と。でも、自分のこととなると目に梁があって見えないのです。

この愚かな男の姿は私の姿です。

だから主は言われるのです。「わたしが哀れんでやったように、あの仲間を哀れんでやるべきではなかったか」。御言に従順する人は幸いです。


マタイの福音書 17章

2024年08月03日 | マタイ福音書
マタイ17:2 彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。

とても不思議な光景です。でも、これがイエス様の本来のお姿です。神のひとり子としての栄光です。御子イエスが天の父のふところにおられた時にお持ちになっていた栄光です。弟子のヨハネはその栄光を見たと証言し(ヨハネ1・14)、ペテロもその目撃者だと告白しています(Ⅱペテロ1・16)

イエス様の本来の姿は栄光に富んでおられましたが、この世に来られるにあたり、肉の体を着て来られたので、人々はイエスがどんなに偉大なお方なのかわかりませんでした。

肉体というベールで、神のひとり子としての栄光が覆(おお)われていたのです。

肉体は限界があります。霊的存在である天使であれば、地球を一瞬に行き巡ることができますが、肉体は時間をかけて旅をしなければなりません。また、肉体は弱さです。空腹では動けないし、体温が1~2度上がるだけで倒れます。剣や槍で傷つけられれば、血を流して死んでしまいます。

イエス様もそのような肉体を着て世に来られました。こうして、しばらくの間、天使たちよりも低い者となりました(ヘブル2・7)。なぜ、そこまでして世に来られたのでしょうか。その目的と使命は、同じ肉体を着ている私たち人間にも共通する部分があります。

この地上では肉体がなければ働けません。肉体は地上で働くための〝服〟のようなものです。御子イエス様もまた私たち人間も、この世で働くために肉体をいただいたのです。

御子イエスに与えられた働きとは、この地上で神の御心を行うためです。それは、十字架で血を流して人類の罪を贖うためであり、また、その死によって悪魔を滅ぼすためです(ヘブル2・14~15)

肉体という弱さがあるので罪の代価である〝死〟を支払って贖うことができました。血を流せば死んでしまうという弱さがあるので、ご自分の死をもって悪魔を滅ぼすことができたのです。ですから、肉体の弱さは苦労もあるのですが、主の栄光を表す器という恵みもあるのです。御子イエスがそうであったように、それに続く私たちも同じです。

弟子たちはイエス様の秘められた栄光の真の姿を目撃しました。同じように、私たちも、この御子イエスの栄光という宝を、肉体という土の器に持っているのです(Ⅱコリ4・7)。ですから、肉体の弱さに嘆くのではなく、土の器の欠けた部分から主の栄光がもれるようにして輝くことを期待しよう。たとえ、この肉体が朽ちたとしても、内に秘めた栄光の姿が復活の身体となって現れることを喜ぼう。

こうして私たちも、変貌山で栄光に輝いたイエスに続く者になるのです。

◆◆◆◆◆◆

さて、この変貌山からくだってくると、癲癇(てんかん)で苦しむ息子をもつ父親が、イエスの帰りを待っていました。留守をまもる弟子たちに癒してほしいとお願いしたのですが、できなかったからです。

イエスはいつものように悪霊(あくれい)を追い出し、お癒しになったのですが、それを見ていた弟子たちは、なぜ、私たちは悪霊を追い出すことができなかったのかと質問しました(マタイ17・19)

イエス様は答えて言われました。あなた方の信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかってここからあそこに移れと言えば、移るであろう。このように、あなた方にできない事は何もないであろう(20)。 
   
あなた方の信仰が足りないからだと指摘なさいました。では、もっと沢山の信仰、大きな信仰が必要なのかと思いきや、イエスはからし種一粒ほどの信仰でよいと言われます。つまり、小さくても良いのです。どんなに小さくても、種にはいのちが宿っているように、いのちのある信仰を言われたわけです。

口語訳聖書では信仰が〝足りない〟からだと訳されているのですが、この翻訳だと、もっと沢山の信仰、もっと大きな信仰が……という〝量〟が必要であるかのような印象を受けます。新改訳・新共同訳では信仰が薄いからだと翻訳しています。

信仰が薄い……これは量を問題にしていません。

先の、5つのパンと2匹の魚の奇跡でも学んだように、私たちはとかく「量」とか「大きさ」を問題にします。多い方が良いとか、大きい方が良いと考えるのです。

パンの奇跡の場合、それが誰の手にあるかが重要だと学んだのですが、 この場合は〝質〟が問われているのです。信仰が薄い……これは質の問題です。私たちは信仰に様々な混ぜ物を入れて、信仰を薄めているのではないだろうか。

医学が発達した今の時代に聖書時代のようないやしは起こらないとか。イエス様にはできたけれど、私のような者になんかできるはずがないとか。今どき悪霊だとか言えば非科学的だと馬鹿にされるとか。そのような人の考えが、信仰を薄めたり、信仰に混ぜ物を入れてしまいます。

ガソリンでも不純物が混ざっていると正しく燃焼せず、エンジンの力が出ません。それと同じように、信仰以外のものを混入させたり、水増しして、信仰を薄めてはいないだろうか。

かたや「からし種」は大きさの点では最も小さい種です。日本では小さいことを「胡麻粒ほどの」と形容しますが、ユダヤでは「からし種ほどの」と言います。胡麻よりぐ~っんと小さいのです。

でも、れっきとした種です ……初めて見た時は種だとは思えません……、種ですからいのちが宿っています。そこから芽が出て実を結びます。それと同じような信仰があれば、山をも動かすような結果を生むのだと、イエス様は約束してくださいました。

イエスを神の子キリストだと信じます。十字架の死と復活によって、私の罪の支払いを完済なさったと信じます。そのことによって私はゆるされ、神の子どもとして新しく生まれたと信じます。イエスの死と復活によって、悪魔のわざは滅ぼされたのですから、私は悪魔の働きに勝利できると信じます。

このように信じたら、これに不純物を混入しない。水増ししない。世間から愚か者扱いされてもくじけない。見下されたり小さい者と見なされても、信仰を薄めないようにしよう。これが「からし種一粒ほどの信仰」です。


マタイの福音書 16章

2024年08月02日 | マタイ福音書
マタイ16:18 わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。

「あなた方(がた)はわたしをだれだと言うのか」というイエス様の質問に、弟子のペテロは答えました。あなたこそ、生ける神の子キリストです」。この告白が、キリスト教会の土台です。この告白を土台として、キリストの教会は建てられます。これ以外のどんな告白も、また強固な組織も、キリスト教会の土台にはなり得ません。

「神の子」とは、神が人となって来られた方だという意味です。また、「キリスト」とは、旧約で約束されていた御国の王、救い主という意味です。

人間の知恵や理解力ではこのようには告白できません。ペテロが告白できたのも、血肉(人間的な能力)によるのではない、天の父なる神の助けによるのだ、とイエスは指摘されました(16・17)。また、だれでも聖霊によらなければ「イエスは主だ」と告白できないと記されているとおりです(Ⅰコリ12・3)

あなたは、イエスがそのようなお方(かた)だと告白していますか。私たちは毎週の礼拝をとおして「イエスこそ神の子、キリストです」と告白します。その告白が教会の土台です。

当時のローマ帝国の国民は、カイザル(皇帝)は神の子だと告白しました。やがてその告白は法律化され、皇帝礼拝が国民の義務となりました。

地上の国民は「カイザルは神の子だ」と告白しましたが、天に国籍のあるクリスチャンは、イエスこそ神の子だと告白したわけです。この告白が当時の社会でいかに大変なことであり、命がけであったかは想像に難くありません。

この告白のある教会は、黄泉(よみ)の力も打ち勝つことができません。新改訳では、黄泉の力ハデスの門と訳しています。黄泉とはハデスのことで、死者が閉じ込められている所を意味します。死の力によって閉じ込められている世界……それが黄泉(ハデス)です。しかし、イエスを神の子キリストと告白する教会は、死の世界に打ち負かされることはないのです。

※「門」とは都市を守るための重要拠点。この「門」が破られたら、その都は陥落する。そういう意味で「門」は、その都市の権威とか力を象徴する。

ローマ帝国の迫害によって多くのクリスチャンが殉教し、肉体のいのちを奪われましたが、それによって教会は滅びませんでした。むしろ逆に、黄泉の力に打ち勝って、教会はますますいのちを増して行きました。いのちを失えば失うほど、教会のいのちは増して行きました。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、イエスのためにいのちを失う者はそれを得ると言われたとおりでした(16・25)

イエスを神の子キリストと告白する教会には、このように、〝黄泉の力に打ち勝ついのち〟があります。今日も私たちは共に集まり、イエスこそ神の子キリストであると告白します。ここに私たちのいのちの源泉があります。

このような〝黄泉の力に打ち勝ついのち〟は、キリストの教会にしか与えられていません。このいのちを世に現すために、キリストの教会はこの世におかれています。

天に属するいのちを世に現すために、教会は肉のいのちをキリストのために失います。こうして、世に属するいのちを失うことによって、天に属するいのち、即ち〝黄泉の力に打ち勝ついのち〟が現れるのです。

◆◆◆◆◆◆
 

さて、「イエスはキリストである」と弟子たちの信仰告白がなされたものの、この時点では、イエスは地上における御国の王としてご支配なさるお方だと、弟子たちは考えていたようです。

そう考えたのも無理はありません。旧約預言の多くが、キリストによる王国支配を予告しているからです。かつてのダビデ王のような、否それ以上の王が誕生する。その王は神から油注がれた者……「キリスト」とは「油注がれた者」の意……であって、神の栄光に満ちた御国が完成すると預言されているからです。

それなのに、イエス様はご自分の死を予告されたのです。

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。(16・21)

この事は、職を捨ててイエスに従ってきた弟子たちには、とんだ番狂わせです。ここでイエス様に死なれては困ります。あり得ないことです。ですから、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、諫(いさ)めはじめました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と(22)

しかしそれは、神のことを思わないで、人のことを思っているのです。

ペテロには、敬愛する先生を純粋に心配する心もあったでしょう。また、ここでイエス様が死んでしまわれたら、自分はどうなるんだ……という心配もあったのです。でも、それらは人のことを思っているのです。

自分の都合の良い救い主を期待していないだろうか。神がこんな風に助けてくれて、こんな展開になって…と、自分なりの筋書きを描いていないだろうか。神の御心に自分を合わせるのではなく、自分の計画に神を合わせようとしていないだろうか。

それはペテロと同じように、神のことを思わないで、人のことを思っているのです。

聖書に啓示された信仰は神本主義です。しかし、神のことを思わないで、人のことを思う信仰は人本主義です。このような人本主義(ヒューマニズム)の信仰は、神の御心を妨害します。神が愛ならどうして?と神につまずきます。

この場合の神の御心とは何だったのでしょうか。

(1) 天の御国の完成の前に、罪がきよめられなければなりませんでした。

想像してみてください。どんな素晴らしい環境が実現しても、もし人の罪がそのままだったら、そこは天国でしょうか。罪をおかし続ける性質を持ったままで永遠に生きるなら、それは天国でしょうか。

イエス様はまず私たちの罪の解決のために、十字架で贖いの死を遂げなければなりませんでした。それが神の御心です。

ペテロをはじめとする弟子たちは、罪の問題を素通りして、天の御国が完成することを期待しました。でも、神の御心は、御子イエスの十字架の死によって罪をきよめることが先でした。

(2) 天の御国の完成の前に、悪魔がさばかれなければなりませんでした。

想像してみてください。形の上では立派な国が完成しても、そこに悪魔が暗躍しているなら、そこは天国でしょうか。悪魔はさばかれなければなりません。神の御子イエスが来られた目的は、この悪魔をさばいて滅ぼすためです。

イエスが来られた目的は「人類を罪から救うため」というのは、人の側からの視点です。一方、「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(Ⅰヨハネ3・8)という目的は神の側の視点です。

では、イエス様はどうやって悪魔のわざを滅ぼされたのでしょうか。それは十字架の死と復活によってです。御言はこう告げています。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを解き放つためである。」(ヘブル2・14~15)

私たち人間が考える筋書きは穴だらけです。私の思い以上に、神の思いは先を行っています。私の思い以上に、神の思いは大きく広く深いのです。だから、人のことを思う以上に、神のことを思う者にならせていただこう。


マタイの福音書 15章

2024年08月01日 | マタイ福音書
マタイ15:18 口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。

事の発端はイエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことで、パリサイ派の人々と律法学者らが抗議したことに始まります。あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません(15・2)

律法にはこんな幼稚園生に教えるようなことも書いてあるのか……と思う人もいることでしょうが、事の真相はもっと深い所にあります。水で洗うという行為は単に衛生上そうするだけではなく、身をきよめるという意味が込められていました。日本でも神社にお参りに行くと手水舎(ちょうずや)があって、その水で手を洗ってお参りするのに似ています。

律法による定めでは、神殿に詣(もう)でる時はもちろんのこと、外出先からもどった時も、死体にふれた時も、食前にも、病気や体液の漏出があった時も、日常生活の様々な場面で水できよめました。

ですから、ユダヤ人たちは飲料水としての水だけでなく、きよめのための水を多く必要としました。イエス様がカナの町で行われた婚礼に招かれた時にも、そこにきよめの習わしに従って4~5斗も入る石の水がめが6つ置いてあった(ヨハネ2・6)と記されていることからも、水を多用する当時の生活を垣間見ることができます。

このようにユダヤ人は、水によってきよめられると信じていたわけです。確かに水はきれいにします。でも、それは外側をきれいにするだけです。

旧約の時代は律法によって外側のきよめを教えました。しかし、それは、やがて新約の時代に完成する「本当のきよめ」に導くためのものでした。イエス様が来られて「本当のきよめ」……つまり「内側のきよめ」を実現なさいました。このように、律法はイエスによって完成します。

イエス様は、私たちの外側ではなく、内側が問題なのだと指摘なさいました。口に入るものではなく、口から出るものが人を汚すのです。口から出るものは、心の中から出てくるからです。

表面的に立派に整えても、問題はいつも内側から出てきます。憎しみの〝卵〟が心に産みつけられると、それを温めて、ついに孵化(ふか)して殺人という罪が出てきます。淫乱の〝卵〟が心に産みつけられて、それが孵化すると姦淫の罪が出てきます。

水が表面だけをきよめるように、律法は卵から孵化した鳥とか成虫を駆除するだけの力しかありません。問題は、心に産みつけられる〝卵〟です。私たちの内側が汚れているので、悪魔が簡単に罪の卵を産みつけて行きます。

律法で定められた「水によるきよめ」の「水」は、何を意味しているのでしょうか。

第一にバプテスマを意味しています。 バプテスマによって水の中に入り、水から出てきます。これを単なる外側をきよめる意味の水ではありません。アダムにつながる古い自分を葬るための水です。

イエスを信じる者は、古い自分を葬って、キリストとつなぎ合わされた新しい人となって復活します。そのような霊的な出来事がキリストにあって成されると信じて、水のバプテスマを受けます。

第二に神の御言を意味します。 新しく生きた私たちは、神の御言を受けるようになります。イエス様は、御言を受けた弟子たちに次のように語られました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ17・17)

「聖別」とは「きよめ」を意味しています。新改訳では「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」と訳され、新共同訳では「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」。

律法では、生活の様々な場面で「水のきよめ」が成されたように、新約のクリスチャンは、生活の様々な場面で、神の御言を受けて判断し、行動します。この世の原理とは違う生き方をします。それが聖別された生き方、つまり、きよい生き方です。

第三に聖霊を意味しています。 律法は外側を問題にしました。見た目はきよくすることができましたが、内側までには及びませんでした。それが文字による律法の限界です。しかし、新約の特徴は聖霊の内住です。聖霊が、イエスを信じる者の内側に住まわれて、正しい基準となってくださいます。

悪魔が罪の卵を産みつけても、聖霊がそれを感じさせてくださり、私たちを悔い改めへと導いてくださいます。外側だけをきれいに取りつくろっても、ボロが出るのは時間の問題です。聖霊に頼ります。聖霊によって、きよい感覚を持つようになります。

このようにして、内側がきよめられることによって、きよい水(言葉)が流れ出るようになります。私たちは、口によって失敗してしまうものです。他者も自分も傷つけたり、汚す言葉を出してしまうものです。口だけを制御しようとしても表面的です。

だから、本当の水によって内面をきよめてもらわなければなりません。主よどうか、自分を生かし、他者を生かす水を流し出す者とならせてください。

◆◆◆◆◆◆

さて、イエス様がツロとシドンの地方に行かれた時のことです。そこに、その地方出身のカナンの婦人が登場します(15・21~22)。 彼女はカナン人ですから、異邦人(外国人)です
。彼女の娘は悪霊に憑(つ)かれて苦しんでいました。そこで、イエス様の噂を聞きつけて、いやしていただきたいと願い出たわけですが……、

しかし、イエスはひと言もお答えにならなかったのです(23)。イエス様!ひどいじゃないですかと思います。主は、時として沈黙なさることがあります。そんな時、私たちはどう反応しますか。不平を言いますか。あきらめて帰りますか。

カナンの婦人はあきらめませんでした。それどころか、ますます叫び求めるので、イエスの弟子たちは困り果てました(23)

しかし、そんなに熱心に求める彼女に対して、イエス様はわたしはイスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていないと言われました。これはどういう意味でしょうか。

神の大きなご計画を知る必要があります。神の約束はアブラハムとその子孫に与えられました。つまり、イスラエル民族(ユダヤ人)に約束された救いです。といっても、異邦人を軽視なさっているのではありません。神は、神の御国とその救いのご計画を、イスラエルから開始されます。そのために、旧約の時代という長い期間を通して、神はイスラエル民族を訓練して準備なさったのです。

ですから、まずイスラエル(ユダヤ人)が先なのだと言われたのです。でも、気の短い人なら、「ああ、そうですか。どうせ私は外国人ですよ!」と啖呵(たんか)を切って帰ってしまうところでしょう。

それでも、カナンの婦人はあきらめませんでした。なおも求め続けました。これは、あきらめの良すぎる日本人へのメッセージのようです。「求めよ、そうすれば与えられる……」でしたね。

そんな彼女に対してイエスは言われました。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのはよろしくない(26)。 ※「子供たち」とはイスラエル(ユダヤ人)、「小犬」とはカナンの女のこと。「犬」は、異邦人を意味する。

イスラエル民族がまだ充分に神の祝福にあずかっていないのに、その祝福を取り上げて、犬である外国人にあげるわけには行かない。イスラエルから始まって異邦人へというのが、神のお定めになった順番なのだ。これが、イエスの返答の真意です。

彼女は、外国人は後回しだと言われてもへこみません。自分が犬よばわりされてもつまずきません。それどころか、「パンを丸ごと下さいというのではないのです。子供たち(イスラエル人)が食べるときに落ちるパンくずで良いのです」と応えたのです。

(1) 彼女は謙遜でした。

自分が何者であるかを知ることが謙遜の根です。彼女は、自分の異邦人としての立場を心得ていました。
私たちはどうですか。造られた者としての、創造主への謙遜がありますか。この謙遜がない人は、神の沈黙に耐えられません。イエス様の返答の真意を誤解して背を向けてしまいます。

(2) 彼女はしたたかでした。

したたかさは悪いイメージで受け止められそうですが、そうではありません。神の愛をどこまでも信頼し、門をたたき続ける粘り強さのことです。神は彼女のような信仰を喜ばれます。

イエス様に信仰を誉めていただいた人がふたりいます。それは、御言の権威を認めて、「ただ、お言葉をください」と求めた百卒長と、このカナンの女性です。不思議なことに、ふたりとも外国人です。このふたりの信仰に続こう。