ヨハネの第一の手紙 2章
キリストの内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに、確信を持ち、その来臨に際して、御前に恥じ入ることがないためである。(2・28)
ヨハネ第一の手紙は、「神との親しい交わりへの招待状」だということを確認しました。そして、神との交わりのためには、自分の罪を言いあらわすことが大切でした。
告白することは、私の心のとびらを神に向かって開くことです。すると、開いたとびらから神の光が差し込んできます。そのことを、旧約の預言者マラキは次のように告げています。「わが名を恐れるあなた方には、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなた方は牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」(マラキ4・2)
神の光は、義の太陽のように私たちを照らします。その光にはいやす力があり、いやされた者たちは元気をいただくのです。この「義の太陽」で照らしていただくために、私の罪を告白して明るみに出します。義の太陽で癒され清められるわけです。罪の告白を後ろめたいことだと思わないでください。神との交わりへのとびらなのです。
ですから、恐れないで正直に神の御前に申し上げます。すると、有能な弁護士であるキリストは、私たちを執り成して弁護してくださいます。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」のです(Ⅰヨハネ2・1)。
このように1章から2章へとつながります。そして、第2章からは、神との親しい交わりのためには神の命令を守ることが大切だと記しています。
「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(2・3 新改訳)。神との親しい交わりがある者は、神の命令(口語訳では「戒め」)を守るはずだというのです。
では、その神の命令とは何ですか。それは、兄弟を愛することだと告げています。その「兄弟」とは、イエスを信じたクリスチャンたちのことであり、広い意味では未信者も含めた隣人のことです。
聖書は続けて次のように記しています。
「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(2・9)
以上のことはみなつながっています。
「神との親しい交わり」から始まって、
「光の中を歩む」……そのために、
「罪を言いあらわす」……そのような人は、
「神の命令を守る」……それは、
「兄弟を愛する」ことだ。……そのような人は、
「神との親しい交わり」をもっている。
……とぐるりとつながります。
どこかでこのつながりを切ってしまうと、神との親しい交わりが弱くなります。たとえば、兄弟を憎み続けるとか、自分の罪を認めないで心をかたくなにしていると、神との交わりは薄れて、霊的ないのちが弱くなります。
さて、今日の聖句は「キリストの内にとどまっていなさい」と命じています。言い換えれば「つながっていなさい」です。先ほどの「神との親しい交わり」のつながりは、キリストにつながっていることです。キリストにとどまることで完成します。
第2章は〝とどまる〟という語句がくり返されています。「はじめから聞いたことば(救いの御言)にとどまりなさい」(24)。それは「御子と御父のうちにとどまることだ」(24)と教えています。
また、「あなた方の内には、キリストからいただいた油がとどまっている」のだと悟らせ(27)、聖霊である油が教えることは「キリストにとどまる」ことになるのだと続きます(27 新改訳)。
最後に念を押すように「子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい」と命じています(28)。今日の冒頭の聖句です。
手紙の著者であるヨハネは、福音書の中でも「キリストがぶどうの木であり私たちは枝としてとどまっていなさい」と記録しました。「御言にとどまれ」「キリストの愛にとどまれ」……と。
これは信仰の基本です。何でも基本が大事です。基本を忘れると、いつの間にか自分流になってしまいます。失敗するのは、基本を忘れて自分流の信仰になっているからです。基本は「キリストの内にとどまる」ことです。すると、「主の来臨に際して、恥じ入ることがない」と言うのです(2・28)。
ところが、主が再臨なさったとき恥ずかしくないようにしたくて、つい、肉の力で頑張ってしまうのです。すると疲れてきます。
肉の力でやっていると、律法的とか宗教的なものになります。「キリスト教」という名の宗教が規定する儀式に参加したり、戒律を守ることが信仰だと思い込むのです。私たはキリスト教という宗教を信じているのではなく、キリストを信じています。それは、キリストの内にとどまることなのです。
キリストの中で、換言すれば、私の内におられる聖霊によって、私の内に湧いてくる愛で生きるのです。主が私を愛してくださったのですから、私も主を愛するのです。信仰とは神への愛です。
自分の頑張りを少し脇に置いてみてください。肩の力を抜いて、温泉にでもつかるように、キリストの愛の中にとどまることです。キリストの安息の中にドップリつかっているうちに湧き出る力があります。それを体験してみましょう。
キリストの内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに、確信を持ち、その来臨に際して、御前に恥じ入ることがないためである。(2・28)
ヨハネ第一の手紙は、「神との親しい交わりへの招待状」だということを確認しました。そして、神との交わりのためには、自分の罪を言いあらわすことが大切でした。
告白することは、私の心のとびらを神に向かって開くことです。すると、開いたとびらから神の光が差し込んできます。そのことを、旧約の預言者マラキは次のように告げています。「わが名を恐れるあなた方には、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなた方は牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」(マラキ4・2)
神の光は、義の太陽のように私たちを照らします。その光にはいやす力があり、いやされた者たちは元気をいただくのです。この「義の太陽」で照らしていただくために、私の罪を告白して明るみに出します。義の太陽で癒され清められるわけです。罪の告白を後ろめたいことだと思わないでください。神との交わりへのとびらなのです。
ですから、恐れないで正直に神の御前に申し上げます。すると、有能な弁護士であるキリストは、私たちを執り成して弁護してくださいます。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」のです(Ⅰヨハネ2・1)。
このように1章から2章へとつながります。そして、第2章からは、神との親しい交わりのためには神の命令を守ることが大切だと記しています。
「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」(2・3 新改訳)。神との親しい交わりがある者は、神の命令(口語訳では「戒め」)を守るはずだというのです。
では、その神の命令とは何ですか。それは、兄弟を愛することだと告げています。その「兄弟」とは、イエスを信じたクリスチャンたちのことであり、広い意味では未信者も含めた隣人のことです。
聖書は続けて次のように記しています。
「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(2・9)
以上のことはみなつながっています。
「神との親しい交わり」から始まって、
「光の中を歩む」……そのために、
「罪を言いあらわす」……そのような人は、
「神の命令を守る」……それは、
「兄弟を愛する」ことだ。……そのような人は、
「神との親しい交わり」をもっている。
……とぐるりとつながります。
どこかでこのつながりを切ってしまうと、神との親しい交わりが弱くなります。たとえば、兄弟を憎み続けるとか、自分の罪を認めないで心をかたくなにしていると、神との交わりは薄れて、霊的ないのちが弱くなります。
さて、今日の聖句は「キリストの内にとどまっていなさい」と命じています。言い換えれば「つながっていなさい」です。先ほどの「神との親しい交わり」のつながりは、キリストにつながっていることです。キリストにとどまることで完成します。
第2章は〝とどまる〟という語句がくり返されています。「はじめから聞いたことば(救いの御言)にとどまりなさい」(24)。それは「御子と御父のうちにとどまることだ」(24)と教えています。
また、「あなた方の内には、キリストからいただいた油がとどまっている」のだと悟らせ(27)、聖霊である油が教えることは「キリストにとどまる」ことになるのだと続きます(27 新改訳)。
最後に念を押すように「子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい」と命じています(28)。今日の冒頭の聖句です。
手紙の著者であるヨハネは、福音書の中でも「キリストがぶどうの木であり私たちは枝としてとどまっていなさい」と記録しました。「御言にとどまれ」「キリストの愛にとどまれ」……と。
これは信仰の基本です。何でも基本が大事です。基本を忘れると、いつの間にか自分流になってしまいます。失敗するのは、基本を忘れて自分流の信仰になっているからです。基本は「キリストの内にとどまる」ことです。すると、「主の来臨に際して、恥じ入ることがない」と言うのです(2・28)。
ところが、主が再臨なさったとき恥ずかしくないようにしたくて、つい、肉の力で頑張ってしまうのです。すると疲れてきます。
肉の力でやっていると、律法的とか宗教的なものになります。「キリスト教」という名の宗教が規定する儀式に参加したり、戒律を守ることが信仰だと思い込むのです。私たはキリスト教という宗教を信じているのではなく、キリストを信じています。それは、キリストの内にとどまることなのです。
キリストの中で、換言すれば、私の内におられる聖霊によって、私の内に湧いてくる愛で生きるのです。主が私を愛してくださったのですから、私も主を愛するのです。信仰とは神への愛です。
自分の頑張りを少し脇に置いてみてください。肩の力を抜いて、温泉にでもつかるように、キリストの愛の中にとどまることです。キリストの安息の中にドップリつかっているうちに湧き出る力があります。それを体験してみましょう。
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