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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの第一の手紙 2章

2023年03月31日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 2章
キリストの内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに、確信を持ち、その来臨に際して、御前に恥じ入ることがないためである。
(2・28)


ヨハネ第一の手紙は、神との親しい交わりへの招待状だということを確認しました。そして、神との交わりのためには、自分の罪を言いあらわすことが大切でした。

告白することは、私の心のとびらを神に向かって開くことです。すると、開いたとびらから神の光が差し込んできます。そのことを、旧約の預言者マラキは次のように告げています。「わが名を恐れるあなた方には、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなた方は牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」(マラキ4・2)

神の光は、義の太陽のように私たちを照らします。その光にはいやす力があり、いやされた者たちは元気をいただくのです。この「義の太陽」で照らしていただくために、私の罪を告白して明るみに出します。義の太陽で癒され清められるわけです。罪の告白を後ろめたいことだと思わないでください。神との交わりへのとびらなのです。

ですから、恐れないで正直に神の御前に申し上げます。すると、有能な弁護士であるキリストは、私たちを執り成して弁護してくださいます。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」のです(Ⅰヨハネ2・1)

このように1章から2章へとつながります。そして、第2章からは、神との親しい交わりのためには神の命令を守ることが大切だと記しています。

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります(2・3 新改訳)。神との親しい交わりがある者は、神の命令(口語訳では「戒め」)を守るはずだというのです。

では、その神の命令とは何ですか。それは、兄弟を愛することだと告げています。その「兄弟」とは、イエスを信じたクリスチャンたちのことであり、広い意味では未信者も含めた隣人のことです。

聖書は続けて次のように記しています。

「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(2・9)

以上のことはみなつながっています。
 「神との親しい交わり」から始まって、
 「光の中を歩む」……そのために、
 「罪を言いあらわす」……そのような人は、
 「神の命令を守る」……それは、
 「兄弟を愛する」ことだ。……そのような人は、
 「神との親しい交わり」をもっている。
……とぐるりとつながります。

どこかでこのつながりを切ってしまうと、神との親しい交わりが弱くなります。たとえば、兄弟を憎み続けるとか、自分の罪を認めないで心をかたくなにしていると、神との交わりは薄れて、霊的ないのちが弱くなります。

さて、今日の聖句は「キリストの内にとどまっていなさい」と命じています。言い換えれば「つながっていなさい」です。先ほどの「神との親しい交わり」のつながりは、キリストにつながっていることです。キリストにとどまることで完成します。

第2章は〝とどまる〟という語句がくり返されています。はじめから聞いたことば救いの御言にとどまりなさい(24)。それは御子と御父のうちにとどまることだ(24)と教えています。

また、あなた方の内には、キリストからいただいた油がとどまっているのだと悟らせ(27)、聖霊である油が教えることはキリストにとどまることになるのだと続きます(27 新改訳)

最後に念を押すように子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさいと命じています(28)。今日の冒頭の聖句です。

手紙の著者であるヨハネは、福音書の中でもキリストがぶどうの木であり私たちは枝としてとどまっていなさいと記録しました。御言にとどまれ」「キリストの愛にとどまれ……と。

これは信仰の基本です。何でも基本が大事です。基本を忘れると、いつの間にか自分流になってしまいます。失敗するのは、基本を忘れて自分流の信仰になっているからです。基本はキリストの内にとどまることです。すると、主の来臨に際して、恥じ入ることがないと言うのです(2・28)

ところが、主が再臨なさったとき恥ずかしくないようにしたくて、つい、肉の力で頑張ってしまうのです。すると疲れてきます。

肉の力でやっていると、律法的とか宗教的なものになります。「キリスト教」という名の宗教が規定する儀式に参加したり、戒律を守ることが信仰だと思い込むのです。私たはキリスト教という宗教を信じているのではなく、キリストを信じています。それは、キリストの内にとどまることなのです。

キリストの中で、換言すれば、私の内におられる聖霊によって、私の内に湧いてくる愛で生きるのです。主が私を愛してくださったのですから、私も主を愛するのです。信仰とは神への愛です。

自分の頑張りを少し脇に置いてみてください。肩の力を抜いて、温泉にでもつかるように、キリストの愛の中にとどまることです。キリストの安息の中にドップリつかっているうちに湧き出る力があります。それを体験してみましょう。

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ヨハネの第一の手紙 1章

2023年03月30日 | ヨハネ書
ヨハネの第一の手紙 1章
私たちが罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、全ての不義から私たちをきよめてくださる。
(1・9)


著者ヨハネは、イエス様をこの目で見て、手でさわりました。それは、単なる人との交わりではなく、神との交わりでした。そんなヨハネの体験をうらやましく思う人もいるでしょう。

でも、2千年前にタイムスリップしなくても、2千年後の今でも、見て、ふれることができる交わりなのです。この交わりに、あなたも加わって欲しいのだとヨハネは記しました。

私たちが見たもの、聞いたものを、あなた方にも告げ知らせる。それは、あなた方も、私たちの交わりにあずかるようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(1・3)

よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について(1・1)とあるように、神の御言をとおして、見えない神を見て、見えない神をさわることができるのだと述べているわけです。

神は遠い存在だと勘違いしていませんか。熱心な信者や牧師なら、神も交わりの手を差し伸べても、私なんかとは……と思っていませんか。

そうではありません。神は、ご自身との親しい交わりにの中に入ってくるようにと、イエスを信じるすべての人々を招いておられます。この交わりがあるところに喜びが満ち溢れます(1・4)

さて、神との交わりは、光の中を歩むようなものです。だから、もし神との交わりがあるといいながら、闇の中を歩いているならそれは偽りです(1・6)

光はものごとを明らかにします。たとえば、きれいに磨いたつもりのガラス窓も、太陽の強い日差しに照らされると、落としきれていない汚れが見えてくるように、神の光で照らされると、私の罪を隠すことができません。

つまり、神との交わりにおいて隠しごとはできません。同様に、夫婦や友人関係でも同じです。隠しごとがあると、真実な交わりができなくて、ぎこちなくなりますよね。

神との交わりにおいて、隠しごとが減った分、その交わりは深まります。だから、神は、私たちを光の中へと導かれます。そして、神の光で照らしてくださって、私の罪を知らせてくださいます。

罪は霊的な闇を生み出します。隠しごとという闇です。だから、罪を犯して気分の良い人はいません。そして、それは痛みや苦しみを伴います。

しかし、罪によって心が痛むのは、人間にだけ与えられた〝霊的本能〟です。それは、神が私たちに与えた恵みです。肉体的本能の場合、体が傷つけば痛みを感じます。痛いから治療をしていのちを保ちます。それと同じで、罪を犯したら人の霊魂は痛みます。痛みを感じるので、その心の傷をいやして、神との霊的な交わりを回復しようとします。これは、人にそなわった霊的な能力であり恵みなのです。

ですから、罪に苦しむ人は幸いです。その人は神との豊かな交わりを求めるからです。ところが、イエスを知らない人は、罪の結果、暗闇の中を歩みます。すると、神との交わりが途絶えて、霊的ないのちを失います。これが霊的な死です。肉体の死よりも恐ろしい死です。

しかし、神は、イエスの血によって罪をきよめてくださいます。私たちのすることは何でしょうか。冒頭の聖句が語っているとおりです。イエスの血を信頼して、自分の罪を神に申し上げることです(1・9)

では、なぜ告白することが必要なのでしょうか。全知全能の神は、私の心の中もご存知なのだから、わざわざ罪を言いあらわさなくても、心の中で謝ればいいじゃないですか。

告白の法則を知ってください。心にあることを口に出して告白することは、人生の方向性を決定する舵のようです。告白する「舌」は、船でいえば舵、車でいえばハンドルです。

愛しているのに告白しなかったら、その愛は実現しません。欲しいのに、「ください」と言わなければ手に入りません。悲しいのに、悲しみを表現しないでいると病気になります。怒っているのに、それを表現しないで押し殺していると人格がゆがみます。

心にあることを言いあらわすことで、私たちの心が明るみに照らされます。つまり、心にある罪の痛みを神に申し上げるのです。その痛みの原因は私のこの罪ですと具体的に告白します。こうして、罪を告白する舌は車のハンドルのように、神との親しい交わりの方向へと向きを変えることになります。それは神の光で照らされた道です。

今日も、神との親しい交わりの中へ、光の中へとハンドルを切ることにしましょう。

また、こうも表現できます。

罪を告白することは、暗い部屋のとびらを開けて光を取り込むようなものです。「これが私の罪です。これが私の闇の部分です」と言い表すことによって、神の光は私たちの内側を照らし始めます。

告白することが大切なのは、告白によって、心のとびらを開くことになるからです。とびらを開かなければ光が入りません。神の光が入りさえすれば、闇は消えてしまいます。罪はきよめられます。罪の痛みはいやされます。

このように〝神に向かって〟告白することは恵みです。なぜなら神は真実で正しい方であるからです。〝人に向かって〟ではありません。人は真実ではない場合があるからです。

はからずも、私は牧師という立場ゆえに人の罪の告白を聞くことがあります。そのとき私は襟を正すのです。人間である私が聞いているのではない。私を任命なさったイエス・キリストが聞いてくださっているのだと。だから、主がそうであるように真実をもって受けとめよう……と。ですから他言しません。キリストの光のもとでゆるしを宣言します。

そうするのは、神は真実で正しいお方だからです。逆に不真実な人であれば、それを言いふらしたり、弱みを握ったことで私を苦しめることでしょう。ましてや、その相手が悪魔なら……と、想像するとゾッとします。

神は決してそのようなことをなさいません。真実で正しい方ですから、私たちの罪をゆるし、おおい、癒してくださるのです。そんなイエス・キリストとの交わりに、私たちは招かれています。ヨハネの手紙はそんな交わりへの招待状です。

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ペテロの第二の手紙 3章

2023年03月29日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 3章
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
(3・9)


聖書は、今の世界が永遠に続くのではないと告げています。始まりがあったものは必ず終わりがあります。今の世界は……極端に聞こえるかも知れませんが誤解を恐れずに申し上げます。サタンとその悪を滅ぼしてしまうまで保たれているに過ぎません。

聖書は、その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼きつくされると告げています(3・10)

この世界は神の御言によって創造され、神の御言によって保たれているに過ぎません(3・5~7)。「光あれ」と神が言われると光が存在するようになったように、終わりの時も「消え失せよ」と言われれば、万物は焼けて崩れ去るのです。

神の最終目的は義の住む新しい天と新しい地の完成です(3・12)。この実現を私たちも待ち望んでいルのですが、その用意ができたなら、今の世は焼き崩れ去るのだというのです。しかし、これを認めない人々がいます。彼らは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」と主張し(3・4)、放縦な生活を正当化します。

イエス様が「再び来る」と予告されて、もう2千年も経つので、人の目には、神の約束は反故になったように見えます。神のご計画は変更されたのでしょうか。

それに対して聖書は応えています。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。(3・8)

幼い息子を車に乗せて実家に戻ったときのことです。30分にも経たないうちに「まだつかないのか」とたずねてきます。いま高速道路に入ったばかりです。大人はあと8時間くらいかなと答えますが、幼児にはそれがとても長く感じられるわけです。

また、昆虫の蜻蛉ですが、朝に生を受け夕に死んでしまうカゲロウにとって一日が彼の一生です。※正確には幼虫の時代を入れると1日ではないが、成虫としては1日である。「はかない命」の象徴として蜻蛉はいわれる。

そこで、人間の男女が婚約して1年後に結婚するのを知ったカゲロウは、自分の生涯の365回分も待っている人間の感覚は理解できません。でも、婚約中の男女には1年はアッという間です。

このように、霊的な感覚と人間的な感覚は次元が違います。神の時間概念と人間のそれとは違います。ですから、わたしはすぐに来ると言われた主の約束を侮ってはなりません。

今日の御言にあるように、神は、約束の実行を遅らせておられるのではありません。ただ、ひとりとして滅びず救いを得るようにと待っておられるのです。

この世界を終わらせるにあたり、福音がすべての人々に伝わるように待っておられます。それから終わりが来ます。この場合、「忍耐しておられる」のは、福音を伝えるクリスチャンたちに対してです。

私たちは神の約束の完成を待ち望みつつ、かつ、福音を伝えることによって「早める」ことになります。そのことを次の聖句は言っているのです。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。(3・12 新改訳)

口語訳では、「神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」と訳されていて、右記のようなニュアンスが伝わってきません。新改訳、文語訳、新共同訳を参照してください。

神もまた、待っておられるし、同時に急いでいらっしゃいます。

あなたがイエスを信じて救いを得るのを待っておられます。そこまで待ってくださった神は、今度は、あなたがイエスを急いで伝えるようにと召しておられます。クリスチャンの生き方とは、世の終わりにフォーカスを合わせながら〝待ち望みつつ急ぎつつ〟です。

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ペテロの第二の手紙 2章

2023年03月28日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 2章
主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
(2・9 新改訳)


もう一度申し上げますが、ペテロ第二の手紙は〝思い起こしなさい〟の手紙です。著者のペテロは「この幕屋を脱ぎ去る時が間近である」(1・14)と自覚する中で、信者たちに重要なことを思い起こさせようとしているのです。

今日の聖句は、神は敬虔な者たちを試練から救い出してくださることを思い起こしなさいと勧めています。

話は変わるようですが、神がいるのなら、どうしてこんなことが……と、一度や二度は神に申し上げたくなったことがあるでしょう。いったい、神はこの世の悪をいつまで放っておかれるのでしょうか。しかし、神は必ず決着をおつけになります。

聖書は、神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた(2・4)と記しています。「罪を犯した御使」とは悪魔(サタン)とその仲間の天使たちのことです。

新改訳聖書では、罪を犯した御使たちを「地獄に引き渡し」と訳されていますが、地獄と訳された語句(ギリシャ語で「タルタローサス」)は、口語訳の下界との訳が良いでしょう。神は、悪魔を地獄に引き渡すことに定められましたが、悪魔はまだ地獄に投げ入れられていません。それはイエスが再臨なさった後のことだからです(黙示録20・10)。とはいえ、最終的には地獄に入れることは決まっているので「地獄に引き渡し」と訳しても問題はありませんが……。

悪魔は地獄(ゲヘナ)の火に投げ込まれることになっています。しかし、その刑が執行されるまでの間、留置されるようにして、下界、つまりタルタローサスにおとしいれ、暗闇の穴に閉じ込めておかれた……というわけです。

その閉じ込めた場所(下界)はこの世です。私たちの住んでいる地上世界のことです。ヨハネ第一の手紙でも、「全世界は悪しき者(悪魔)の支配下にある」と言っています(Ⅰヨハネ5・19)

ある神学では、悪魔はすでに地獄に入っているので、現世では悪魔の働きはないと解釈します。それをもとに、イエスが支配なさる千年の期間は、悪魔は底知れぬ穴に入れられて活動できないことになっているので、黙示録が預言する千年王国は今の時代だとする解釈です(黙示録20・1~3)

でも、現実はどうですか。悪魔の働きは増長するばかりです。悪魔は自らの終わりの近いのを知って、大暴れしようと企んでいます。そんな闇の力が最高潮に達したとき、イエスは再臨なさって、その後、千年の至福の期間を地上に実現なさるはずです。

さあ、話しをもどしましょう。悪魔が活動する世界に私たちは置かれています。だから、偽預言者が暗躍しています(2・1~3)。また、神に従おうとせず、本能のままに動物的に生きる者がいます(12~14)。さらに、信仰深げにしながら不義の報酬を愛する者もいます(15~16)。それが現実です。

そのような中に私たちは置かれていますが、巻き込まれてはいけません。騙されてはいけません。神は必ずさばきを実行されます。そして、信仰のある者たちをそこから救い出してくださるのです。そのことを思い起こしてください。

過去、旧約の出来事を振り返ってみてもそうでした。

悪に満ちた世界が洪水によって滅ぼされた時も、さばきの中から敬虔なノアとその家族は箱船に乗って救い出されました。淫乱の罪にに満ちたソドムとゴモラが硫黄の火で滅ぼされた時も、信仰深いロトとその家族は救い出されました(2・5~8)

神は、この世の悪をサタン諸共に滅ぼしてしまわれますが、その中から敬虔な者たちを救い出すことを心得ておられるのだと冒頭の聖句は語っています。

神がサタン(悪魔)を地獄で滅ぼしてしまう時が近づいています。悪魔はそのことを知って悪に悪を重ねるようにして、人々を暗闇の支配に引きずり込もうと暗躍しています。

終わりの時代は格差の時代です。それは経済格差のことではありません。霊的な格差です。聖なる者と悪しき者との格差が明確になる時代です。聖なる者は益々聖なる者へ、悪しき者は益々悪しき者へと差が出てきます。

今までは、漠然と信じていられた時代でしたが、信じているのか信じていないのかが、明確に区別される時代になってきます。悪魔によって罪に引きずられる人と、イエスにあって清く生きようとする人との両極端に別れる時代になるでしょう。

世の潮流に流されないでください。世の中は罪に対してますます鈍感になって行きます。「今の時代、だれだってやっているじゃないか」……という感覚はそれです。

クリスチャンは、この世にあって暗闇を照らす星のように輝く光です。イエスにあって、その光を輝かし続けてください。

神はいつまでも、この世の悪を放っておかれるのではありません。必ず精算なさいます。その時まで、世の光としての任務を全うできますように祈ります。

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ペテロの第二の手紙 1章

2023年03月27日 | ペテロ書
ペテロの第二の手紙 1章
あなた方の受けた召しと選びとを確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
(1・10)


ペテロの第二の手紙は〝思い起こしなさい〟の手紙です。

例えば、第1章でも「これらのことを思い起こさせたいのだ」(12)、「思い起こさせるよう努めよう」(15)と記されています。何を「思い起こせ」と言っているのでしょうか。

それは、あなたが受けた召しと選びです。神があなたをクリスチャンとして召して選ばれたのは、何のためだったのか…。それを思い起こして確かなものとしなさいと命じています。

分かりやすくいえば、何のためにクリスチャンとなったのか、その目的を確かなものにしなさいというのです。そうすれば、決してあやまちに陥ることはないと冒頭の聖句は教えています。新改訳では、決してつまずくことはないのです。

目標を見失うと、いつの間にか脇道にそれてしまうものです。そしてあやまちに陥ったり、つまずいたりするのです。私は何のためにイエスを信じたのか。さあ、思い起こしましょう。いつの間にか焦点がずれてきてはいませんか。

イエス様は、「種まき」の譬え話の中で、御言という種がまかれて芽を出し伸びてきたのですが、いばらや雑草が生えてきて実を結ばなかった場合のことを話されました(マタイ13・18~22)。

種の成長を妨げるいばらや雑草……それは、信仰の目的を見失わせて、脇道に逸らさせるものです。それは「世の心づかい」と「富の惑わし」です。

ペテロもこの手紙で、あなた方が救われたのは、世にある欲のために滅びることからまぬかれて、神のご性質にあずかる者になるためですと、目指すべきところを記しました(Ⅱペテロ1・4)

私たちが召され選ばれたのは、滅びを免れて、神のご性質にあずかるためなのだ。このことを思い起こしなさいと命じています。世にある欲のために、人生の焦点がぼやけてしまいます。

人生の目的は、神のご性質にあずかるためです。そのために、力の限りをつくして、信仰に徳を加えなさいと勧めています(1・5)。徳とは、聖なる品性とか人格です。徳の次には、知識、節制、忍耐、敬虔(信心)、兄弟愛、そして愛です。

これを求めましょう。身に着けられるように努めましょう。これらが備わっていないクリスチャンは近視眼か目の見えない人です(1・9)。信じてはいるのですが、どこに向かって生きるべきか見えていないのです。人生の目的に焦点が合っていない人です。

漠然と信じているだけだと、脇道に逸れるようになります。「力の限りをつくして」とあるように、また、新改訳では「あらゆる努力をして」とあるように、このためには熱意が必要です。

そのための力はすでに与えられています。神の子どもとして生まれた時から、私たちの中に備わっていますから、やれるはずです。主はその力を聖霊によってすでにくださっていますから、そうすることにしましょう。

さて、神のご性質って何でしょうか。それはイエスご自身のことです。

イエスは神のご性質を地上の生涯で、みんな見せてくださいました。惜しみなく現してくださいました。謙そん、愛、義(正しさ)、きよさ等々。それらは神の栄光の輝きです。その顕現の象徴的な出来事がありました。

それをペテロは見ました。私はその威光の目撃者だと記しています(1・16)。これは、イエスが、変貌の山でまばゆいばかりに光り輝いた時のこと(マタイ17・1~9)を思い出して述べています。

あの日の出来事は、イエス様におこった栄光の姿変わりですが、それはイエスのあとに続く私たちにも与えられるのです。神学用語で言えば、新生して義とされた者が聖化され、最後に栄化される栄光に満ちた姿のことです。

さらに、姿変わりをなさったイエス様に、天からあった御声は、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」でした(Ⅱペテロ1・17)。イエスにとどいた神の御声は、私たちにも注がれています。

このイエスのようになるために、私たちは召され選ばれました。イエスが神の子として父を信頼し従順して歩まれたように、私たちも天の父に従って生きるために召され選ばれたのです。

この〝召しと選び〟から目を離してはなりません。そうすれば、あやまちに陥ることはない。つまづくことはないと、今日の御言は教えています。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/42P0yVTx0yi8LCU1zUalqO?si=cXEuzyuvR7mgOC9WmXZimg
You Tubehttps://youtu.be/xNEGVTVrnNA

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ペテロの第一の手紙 5章

2023年03月25日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 5章
身を慎み、目をさましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
(5・8)


イエスを信じて救いを受けます。その救いには、「罪のゆるし」「永遠のいのち」「義とされる」「神の子どもとなる」など、幾つもの面をもっています。どれも救いの内容を表しています。

そして悪魔サタンの支配からの解放とういう救いの一面も大切な内容です。

私たちは悪魔の支配から救い出されて、神のものとなりました。神は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださったとあるとおりです(コロサイ1・13)

ところが冒頭の聖句は、獅子(ライオン)が獲物を求めているかのように、悪魔は我々を狙っていると記しています。どういうことですか。悪魔はなおも私を支配し得るというのでしょうか。

もちろん、神が私たちの味方なのですから、だれも敵対できるものはありせん(ローマ8・31)

初臨のイエスは十字架の死と復活によって悪魔をさばかれました。分かりやすくいえば、有罪判決が下されたということです。その判決で、悪魔とその仲間たちには、永遠のゲヘナの火(地獄)に投げ込むという刑罰が定められました。

しかし、悪魔に対する刑罰はまだ執行されていません。それがなされるのは、イエスが再臨なさった時です。この詳しいタイムスケジュールは「ヨハネの黙示録」で見ることにします。

なぜ初臨の時に、悪魔に刑罰を執行なさらなかったのでしょうか。それは、人類を悪魔の道連れにして滅ぼさないためです。

だから、悪魔に刑罰が執行される前に、悪魔の支配の下で罪と死の奴隷になっている人々に、イエスの救いを伝えなければなりません。悪魔と一緒になって滅びないように、イエスの血を信頼して出てきなさいと呼びかける期間が必要です。

それが今の時代です。今は人類に対する救いの期間です。こうして、福音が全世界に伝え終えたらイエスは再臨なさいます。「福音が全世界に伝えられた」との判断は神の専権事項です。私たちには分かりません。私たちはただ、福音を伝えるのです。

だから、イエスの再臨を妨害したい悪魔は、クリスチャンの伝道を妨害します。伝道できないように彼らを堕落させます。この世のわずらいを用いて、信仰を形骸化させます。

このような悪魔との霊的な戦いに勝利する秘訣は何でしょうか。

(1)身を低くする。(5・6)

どんな事にでも基本姿勢があります。霊的な戦いの基本は、身を低くすること……つまり「謙遜」です。書道の基本、野球の基本などがあるように、悪魔と対抗するときの基本姿勢……それは、身を低くすることです。謙遜です。

あなた方は、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。(5・6)

悪魔は神に仕えるべく立場を捨てた者です。その居るべき所を捨てて、自ら神の立場に登ろうとした者です。高慢を擬人化するなら、それは悪魔です。悪魔の反対語は「謙遜」です。

神の力強い御手の下にとあるように、時に神は、力強い御手をもって私たちの首根っこを押さえてでも、謙遜を教えてくださいます。それは私たちに対する神の愛です。

かつてのペテロは高慢でした。自分こそイエスの一番弟子であると自負し、自分にかぎって裏切ることはないと高を括っていました。

しかし、謙遜を失ったペテロは、まんまと悪魔にしてやられて、イエスを知らないと3回も否定してしまいました。そんな、苦い経験を思い出しながら、ペテロはこの手紙を書いています。

あの失敗は、謙遜を学ばせるために、神の力強い御手のもとでの取扱いでした。私たちにも、そのような取扱いがあります。

(2)思いわずらいを神にゆだねる。(5・7)

思いわずらいとは、心が分裂することです。多くの場合、この地上でのことで思いわずらいます。すると、この地上に対する心と、天に向かう心とが分裂します。

たとえば、富のことで思いわずらうと、心が分裂します。イエスは、富と神との両方を主人とすることはできないと言われましたが、両方を主人にしようとして、心が分裂するのです。人の主人は神だけです。それ以外のものを神とすると、私たちの心は分裂します。つまり、思いわずらうようになるのです。

主なる神だけを主人とするとき、人の心は安定するようになっています。

思いわずらいは、地上につなぎ止めようとする引力のように働きます。私たちはこの地上にあっては旅人であり、寄留者です。私たちは永遠の住まいである天の故郷に向かって旅立とうとするのに、思いわずらいに引っ張られています。

また、思いわずらいは、自分で背負ってはならない荷物です。聖書は、神にゆだねよと命じています。言いかえれば、自分で責任を負いすぎてはいけないという意味です。

真面目な人ほど思いわずらいます。でも、旅人は荷物を減らします。思いわずらいは、この世の旅に支障をきたします。そして、旅の目標を見失わせ、地上に鎖でつなぎとめてしまいます。

思いわずらいは私たちを神の群れから迷い出させ、地上を彷徨わせます。こうして迷い出た獲物を悪魔がねらうのです。

だから、思いわずらいは〝すべて〟神にゆだねるべきです。それは霊的には安全なことです。

そもそも、私が心配したからといって解決できません。人は解決できないことで心配しています。解決できるお方はだれですか。神おひとりです。神が解決なさる方です。解決できる神が心配なさいます。

とはいえ、神は、解決できなくて心配なさっているのではありません。どのようなタイミングと方法で解決しようかと〝心を配っておられる〟のです。神だからできることです。このお方にゆだねるべきです。

(3) 身を慎み目をさます。(5・8)

ペテロは、あのゲッセマネの園で「目をさまして祈りなさい」とイエスから言われたのに眠ってしまい、その直後に、三度「イエスを知らない」と言って主を裏切った苦い経験がありました。

そんなペテロが、「目をさましていなさい」と勧めるのは、祈り続けることの大切さを痛感したからです。目を覚ましているとは祈ることです祈っている時、私たちの目は覚めています。

さあ悪魔に立ち向かおう。主はすでに勝利をとられたのですから。

目をさましているとは、主の再臨に焦点をあ合わせて祈る生活のことです。世界中の主にある兄姉も数々の試練の中で目を覚まして祈っています(9)。その先には、「いやし、強め、力づけ、不動の者としてくださる」希望があるからです(10)。今日も、忍耐をもって祈ることにしましょう。

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ペテロの第一の手紙 4章

2023年03月24日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 4章
万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
(4・7)


聖書は万物の終わりが近づいていると告げています。この目に見える世界は永遠に続くのではありません。やがて終わる時が来るのだと言うのです。そうはいうものの、この書が記されて約2千年が経過していますが、この世界はまだ存続しています。だから聖書の預言を軽んじたり嘲る人々がいます。

彼らは主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいないと言っています(Ⅱペテロ3・4)。この書が記録された当時でも、そう批判する人がいるのですから、2千年を経た現代では尚更です。

しかし、人間の感覚では長い年月が経過したようですが、神の感覚では近づいているのです。近いと感じられない人間の感覚が鈍いだけです。主イエスも「わたしはすぐに来る」と言われました。神にとっては〝すぐ〟なのです。

現在、私たちが肉眼で見ている世界は永遠に続く世界ではありません。物質という次元の世界が滅びると、朽ちることのない永遠の世界※が現れてきます。それは物質とは別の次元の世界……つまり、霊的な世界のことですが、今は肉眼で見たり手で触れることができないだけです。 ※異なる次元である「霊的な世界」は存在するが、人の肉の感覚では認識できないだけである。救いも同じで、「終わりの時に現されるように用意されている」とも言っている(Ⅰペテ1・5)

ただ、私たちが復活の体を得たとき……つまり、朽ちない体を受けたとき、その朽ちない目で新しい世界をはっきりと見るはずです。その朽ちない手でしっかりと触れてつかむことができるはずです。それが霊的な世界です。

霊的な世界は空想や象徴的な世界に過ぎないと考える人もいますが、架空ではなく実在の世界です。次元が変われば、はっきりと見てさわることのできる世界です。ただ、今の肉体は物質の次元に属する体なので、次元の違う世界を確認できないだけです。だから今は、信仰によって確認するのです(ヘブル11・1)

神は、今の時代を終わらせ、新しい世界をもたらそうとなさっています。罪と悪で満ちた今の世界を精算して、神の義と神の愛で満ちた世界を完成しようとなさっています。

その完成の予兆があります。それは、今の世界をきよめるために、患難の時代がやって来るというのです。患難の時代は、クリスチャンにとっては迫害を意味しますが、イエスを信じない人々にとっては刑罰を意味します。

この手紙が記された時代は、激しい迫害の時代が間近に迫っていました。否、徐々にその兆候は現れてきていました。だから、ペテロはこの手紙を通して、その迫害に備えるよう警告と励ましを与えたのです(Ⅰペテロ、4・1)。さらに、次のように注意喚起がなされています。

愛する者たちよ。あなた方を試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、喜びにあふれるためである。(4・12~13)

迫害をともなった患難の時代は滅亡を意味するのではありません。この万物が終わり、新しい世界がもたらされる前兆です。キリストの栄光が完全に現れる時が近いのです。だから「喜ぶがよい」とか「喜びに溢れるのだ」と勧め励ましているわけです。

また、冒頭の聖句のように万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさいと命じています(4・7)

患難の時代は、きよめにあずかるために必ず通過しなければなりません。これは、初代教会のクリスチャンだけの課題ではありません。歴史的な時代として患難期を通過する人もいれば、各自の人生の中で〝患難の時代に相当する試練〟を通過する人もいます。今日の場合、後者の意味で患難を通過します。

この患難のことをさばきとも表現しています。「さばきが神の家から始められる時がきた」とは、終わりの時代の患難のことをいっているのですが、これは、私たちクリスチャンの滅びを意味しているのではありません。きよめるためです。

すでに救いを受けたクリスチャンでさえ、終わりの日に〝さばき〟という患難を受けるとすれば、未信者にとって終わりの患難は如何に厳しい取り扱いでしょうか。「それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか」とはそういう意味です(4・17)

もう一度くり返しますが、患難はきよめるためです「あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」と言われているからです(Ⅰペテロ1・7)

患難の時代は、純金を得るために金鉱石が火で精錬されるようなものです。私たちの信仰も、患難の時代を通過することによって精錬されて、純金よりもはるかに尊くなって行くのです。

実際に、初代教会のクリスチャンたちは、ローマ市民の余興としてライオンの餌食にされたり、ローマの都を灯すたいまつ代わりに火あぶりの刑で殺されたりしました。本当にひどい時代でした。初代教会の人々は、迫害という火の中をくぐって精錬され、不純物が焼きつくされ、純粋な信仰へと精錬されました。

このような迫害は歴史の中でくり返されました。そして、そのつど、不純物が取り除かれ、純粋な信仰へと精錬されてきました。

こうして、患難を経た純粋な信仰が今日まで伝えられ、私たちはその恩恵にあずかっています。そして、私たちもまた、終わりの時代にさしかかっています。万物の終わりが近いのです。今の時代にも激しい迫害があるかも知れません。

そのために、今日の聖句は心を確かにしてとあります。新改訳では心を整えて。共同訳では思慮深くふるまいです。幅の広い語彙ですが、元来の意味は正気になってです。

万物の終わりを意識すること……、その終わりには、神は私たちを試練や迫害をとおして精錬して純粋なものになさることを意識すること……、これが「正気になって」いる状態です。

世の人々からすれば、万物の終わりを信じているクリスチャンこそ正気の沙汰ではないでしょう。神による最後の大審判を信じているなんて、「お前、気は確かか?」と問われるでしょう。世の基準からすれば、クリスチャンの生き方は狂気です。でも、聖書を基準にするなら、万物の終わりを意識していることこそ〝正気なこと〟です。

正気になって祈りましょう。そして、身を慎んで祈りましょう。患難の中で信仰の純粋を保てるように。そして、患難を通して精錬された純粋な信仰を後輩たちに残すことができるようにしてください。

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ペテロの第一の手紙 3章

2023年03月23日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 3章
悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって祝福をもって報いなさい。あなた方が召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
(3・9)


先の第2章では、迫害下にありながらクリスチャンが世におかれている意図は、私たちが祭司となって人々をイエス・キリストに橋渡しするためだと学びました。

ところが、その橋を渡ろうにも欄干が壊れているとか、建て付けが悪くて途中で壊れそうな橋では〝橋渡し役〟ができません。そこで、2章の後半からは、橋渡し役として整えられる道を教えています。

異邦人の中にあって、立派な行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなた方を悪人呼ばわりしていても、あなた方の立派なわざを見て、返っておとずれの日に神をあがめるようになろう。(2・12)

「立派な行い」と言われると尻込みをしてしまいます。でも心配しないでください。クリスチャンの生き方は未信者(異邦人)からすれば意外と立派なものです。大切なことは神への謙遜と従順です。人を意識して立派にやろうとするのではなく、神を意識して誠実に生きようとすることです。

どのような立派な行いなのか、整理します。2~3章にわたって記されていることなので、少し長くなります。

(1)社会の秩序に従う。(2・13~17)

私たちは自由人です。天の御国に属する者ですから、私たちの行動規範は御言であり聖霊です。しかし、地上においては仕える者です。だから世の法律に従います。自由だからといって、世の規範を乱して神の御名を汚す者であってはなりません。

神から与えられた自由をどのように使うのか。悪のために使う自由ではなく、神のしもべとなる自由として使います。だから、自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさいと言われているのです(2・16)

(2)神のしもべとして社会に仕える。(2・18~25)

当時の社会には奴隷制がありました。人類は長い時間をかけてそれを廃止しました。ここで奴隷制を議論するのは主旨ではありません。

聖書は、いかなる環境にあってもキリストにある救いを述べています。たとえ奴隷であっても神の子とされ霊的には自由人です。逆に、身分上は自由人であっても、霊的には神のしもべとして仕えよと聖書は教えます。

そもそも、我らの主であるキリストがしもべとなられたのです。それは、私たちがどのように生きるべきか模範を残されたのです。ですから、私たちもキリストに倣ってしもべとして生きるのです(2・21)

しもべというのは、理不尽なことがあっても従順します。キリストもそうなさいました。「罵られても罵り返さず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しいさばきをするかたに、一切をゆだねておられた」のです(2・23)

唯々諾々と泣き寝入りするのではありません。正しくさばく神にお任せします。一見、弱そうですが、正しくさばく神の存在を知っている者こそ、本当に強い者です。本当に強い者だからこそ、仕える力を持っているのです。

(3)仕え合う夫婦関係。(3・1~7)

ようやくここで第3章です。「仕える生き方」は夫婦の中にも活かされます。夫も妻も仕え合う姿にこそ、キリストと私たちの関係が凝縮されています。

そのような姿こそ男女を問わず最高の飾りです。表面的な装飾品ではなく、「隠れた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」と教えています(4)

(4)祝福を祈れ。(3・8~15)

迫害が激しくなってきた頃に、この手紙は記されました。周りからは不当な嫌がらせや侮辱があびせられる時代でした。悔しさのあまり、仕返ししてやりたい思いに駆らたことでしょう。

しかし御言は悪をもって報いてはならない。むしろ、祝福をもって報いなさいと命じています。

私たちの生活は常に外側からの刺激に対する反応の連続です。悪口を言われたら悪口で返そうと反応します。殴られたら殴り返そうと反応します。これが罪人の反応であり、肉なる反応です。

ところが御言は、悪に対して悪で反応してはならない。むしろ、祝福で反応しなさいと命じています。これは、言い返えさない、仕返しをしないといった我慢強さのことではありません。

大切なのは、私の内側の〝何が反応するか〟です。

悪に対して悪で反応してしまう部分がいやされていないと、どんなに我慢強い人でも「堪忍袋の緒が切れる」ことになります。

時には善に対して悪が反応する場合もあります。隣人の喜びを素直に喜べずに嫉妬で反応します。親切に対して猜疑心で反応し、真実に対して「しらけ」で反応します。

このように悪で反応してしまうことを、聖書は〝肉〟とか〝肉の思い〟と呼んでいます。外側からの刺激が、私の肉のスイッチを押してしまうのです。この肉の問題を解決しない限り、報復の連鎖が続きます。

この世は、悪の報復の連鎖に明けくれています。この連鎖を断ち切ることのできるのはクリスチャンだけです。これを断ち切るために、神は私たちを召してくださったのだと、今日の聖句は記しています。

この悪の連鎖から救い出すために、イエス様は十字架で死んでくださり、罪の連鎖を断ち切ってくださいました。今度は私たちが、十字架を背負って、家族や社会の中で悪の連鎖を断ち切る番です。十字架を負わなければできないことです。

悪や罪に対して反応してしまう私の肉は、私たちが日々負う十字架で葬ります。そうすると、私の内に住まわれる聖霊が反応なさいます。聖霊はイエスの心を私の心に映し出してくださいます。

イエス様は人類の罪に対して罪で反応なさいませんでした。人類の度重なる悪に対して悪で反応なさいませんでした。イエスの反応の結論は「十字架の死」でした。主は十字架の死をもって、私たち罪人に報いてくださいました。悪に対して悪で報いず、祝福をもって報いてくださったわけです。こうしてイエスは、人類が背負い続けた罪と死の連鎖を断ち切ってくださったのです。

今度は、私たちも、イエスと同じ心をもって反応できるように、私たちの内に聖霊を内住させてくださいました。ハレルヤ。

日々十字架を負うとは、私の肉なる反応を十字架につけて葬ってしまうことです。そうすると聖霊の反応が現れます。私が死ななければ、聖霊が反応なさるチャンスがありません。私の〝肉〟が葬られないことには、聖霊の出る幕がありません。だから十字架を負うわけです。

聖霊の反応は、悪の連鎖を断ち切ります。憎しみの報酬に終焉をもたらします。

だから、悪口や噂話、罪の誘惑などの連鎖は自分のところで切るのです。悪口がさらに次なる悪口を生んではなりません。噂話を〝横流し〟してはなりません。その悪の連鎖を断ちきるのは私たちクリスチャンの役目です。代わりに私たちからは「祝福」を流し出すのです。祝福することで、悪の応酬と連鎖を断ち切ることができます。

神がアブラハムに、「あなたとあなたの子孫は『祝福の基』となる」と約束されました。今や、イエスの中で私たちもアブラハムの子孫です。だから、私たちは祝福の発信基地です。周りの人々の祝福を祈ろう。それこそ聖なる祭司の務めです。

(5)福音を伝えよ。(3・13~22)

迫害や困難の中にあっても動揺せず、福音を語る準備をしていなさいと勧められています。毎日、少しずつでも聖書を読み、その意味を思い巡らす時間を持つことです。

私は大学生の時に信じたのですが、その頃から信仰の友と一緒に聖書を読んで共に祈る時間を持ってきました。現在、私が牧会している教会でも、早天祈祷会で共に聖書を読み祈る時間を持っています。地道な積み重ねですが、これが「あなた方の内にある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意」となっています(15)

ただし、福音を伝えるにあたって、相手を言い負かしたり口論してはなりません。「やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」と勧めています(16)。キリストも福音を現すために世に来られ、ご自身の死と復活によって福音を証しされました。 私たちも同じ目的のもとに召されているのです。 

※19~20節は「すでに死んだ者にもキリストが御言を語られた」とあり物議を醸す聖句である。前後の文脈から見ると、イエスが苦難の結果、肉体は死んだが霊においては生かされた(18)。そのように〝死〟というバプテスマを経て ――この場合のバプテスマはノアの洪水のこと―― 正しい良心を持つ霊への復活につながる(21)。だから肉体の苦難や死を無闇に恐れるのではなく、罪からの清めに目を向けよと教えている(4章)。なので、「イエスが霊において、ノアの洪水以前の人々に福音を語った」ことは中心点ではない。

ただ、この聖句を根拠に、福音を聞く機会のなかった人々にも霊の世界で何らかの方法で福音が語られるのではないかと予測する解釈があるが、あくまで予測である。前者の人々に対する裁きについて聖書は多くを語っていない。彼らの良心を基準に裁かれるとある(ロマ2・15~16)。裁きは、真実で公平な神がなさる分野であって人の考えを超えている。確実にいえることは、イエスを信じれば救われることだ。
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ペテロの第一の手紙 2章

2023年03月22日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 2章
あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(2・5)


先の第1章では、私たちの救いの根拠について記されていました。神の御言という種によって新しく生まれたこと、神の血による支払いによって贖われたことを確認しました。

第2章では、その救われた私たちが迫害下に置かれている意味は何かを述べています。結論から申し上げます。地上における祭司職をはたすためです。祭司とは「橋渡し役」です。地上の人々と天の神とをつなげる役割をします。

そのことを深掘りする前に、神殿について述べておきましょう。聖書は神殿建築の歴史書です。神殿とは神の家であり、神が人と共に住む場所です。

神が人と共に住むために、いかに産みの苦しみをなさったことでしょうか。そして、神が人と共に住む場所を用意するために、神がいかに苦労なさったことでしょうか。聖書は、そのような神と人類の労苦の歴史が記された書です。

神が人類と共に住む場所として、神は「神殿」を定められました。

その神殿の原型を見たのはヤコブでした。彼は石を枕に野宿したとき、夢で、天と地がつながっている情景を見ました。つまり、神は遠くにおられるのではなく、自分がいる地上とつながり、神が共におられることを示す夢でした。

そこで、ヤコブは、夢を見たその地をベテル神の家)」と名付けて記念としました(創28・17)

その後、神は、ヤコブの子孫であるイスラエル民族に幕屋テント式の神殿の建造を命じました。それは、神が民と共に住むためでした(出25・8~9)。これは、後のソロモン王の時代になって、石造りの神殿として建造されました。

ところが後世の人々は神殿に異教の神々をまつるようになり、神はこれを激しく怒られて、バビロン軍を用いて破壊してしまいました。これがバビロン捕囚の事件です(紀元前597年)。

そんな神の厳しい刑罰を受けたユダヤ人でしたが、やがて神は彼らを解放し、エルサレムに戻って神殿を再建せよと命じられました。そして、捕囚から帰還した民は、幾多の苦難を経て神殿を建立しました。

このように苦労して再建した神殿でしたが、イエス様が来られた時はどうなっていましたか。主イエスは、人の子には枕するところがないと嘆かれました。それは、神が人と共に住むべき神殿が汚されていることへの悲しみでした。

まさにその通りで、人々は、神殿を「強盗の巣」「商売人の家」にしてしまっていました。それをご覧になったイエスは、激しくお怒りになり、こう言われたのです。この神殿をこわしたら、私はそれを三日後に建てます(ヨハネ2・19)。つまり、本当の神殿……神が私たちと永遠に住まわれる場所をお建てになると宣言なさったのです。

どのような神殿でしょうか。それは「イエスご自身の体」のことなのだと聖書を記録したヨハネは説明しています(ヨハネ2・21)こうして今や、キリストの体である私たち教会が神殿です。

このように、旧約から新約に至るまで、聖書には、神が私たちと共に住むために、真の神殿を建てる計画とその歴史が記されているのです。

(1)私たちは新しい神殿の生ける石です。

旧約の時代は石で建造された神殿でしたが、新約の時代は、イエスを信じる私たちが神殿です(Ⅰコリント3・16)

旧約の神殿はいのちのない無機質な石で建造されましたが、新約の神殿は、イエスを信じる私たち一人ひとりが生ける石となって霊の家を築き上げるのだと、冒頭の聖句は告げています。

昔は物言わぬ石で造られましたが、今や、讃美を歌い、主イエスの証しを語る〝生ける石〟で建造されています。つまり、私たちがこの霊の家(真の神殿)の石なのです。

この神殿の隅のかしら石」(新改訳では「尊い礎石」)はイエス・キリストです。

旧約の預言者イザヤは、後に完成する新しい神殿について告げています。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」と(Ⅰペテロ2・6/イザヤ28・16)

石造り建築で「隅」とは神聖な場所を意味します。当時の人々は建築を始める際に、隅にかしら石を据えて工事の無事を祈願しました。全ての建築はこの隅のかしら石から始まります。イエスはユダヤ人からは捨てられましたが、新しい神殿の最も神聖な場所の石となってくださいました。

だから、ペテロはサンヘドリン議会にて聖霊によって証言したのです。「このイエスこそは、『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである」と(使徒4・11)。そして、私たちもその後に続く「石」として築き上げられています。

この霊の家の建築はどこまで進んだでしょうか。「住む場所が完成したら私はもう一度来る」(ヨハネ14・3)とイエスが言われたように、その時、この時代は終わります。※この「住む場所」は、地上では私たちキリスト教会をさすが、同時に天でも並行して進められている。

完成までの間、新しい石が次々と積み重なって行きます。先に救われた私たちは、これから救われるであろう新しい石が積み重ねられるために下敷きとなる石です。私たちが下敷きとなることで、次の人々が救われて行きます。私たちがしっかりと神殿の石として組み込まれなければ、次の石が積み重ねられないことを覚えましょう。

イエス・キリストは神殿の最初の「隅のかしら石」となってご自分を献げられました。このお方の上に私たちが積み上げられました。さらに次の人々が積み上げられて、ついに神殿が完成します。

この手紙の著者はペテロです。ペテロとはの意味です本名はシモンですが、イエス様から「ペテロ(岩)」と名付けられました。主イエスから召されたときのシモンは、まさにゴツゴツとした岩でした。まるで原石みたいな人でした。しかし、主の御手の中で削られ、研がれて、ペテロは神殿の石となって今に至り、この手紙を書いたのです。

ペテロのように、私たちも失敗や試練を通して削られ、研かれて、神殿の生ける石となります。主の取り扱いを感謝しましょう。

(2)私たちは新しい神殿の聖なる祭司です。

さて、神殿とは何をするところですか。神の住まわれるところであると同時に、神への礼拝がささげられるところです。祈りの家です。

その神殿で、礼拝のご用にあたるのが「祭司」です。旧約聖書で祭司職といえばアロンの家系の人々でしたが、今日の冒頭の聖句によれば、イエスによって建てられた神殿における祭司は、クリスチャンである私たちだと告げています。

続いて9節でもあなた方は選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべき御光に招き入れて下さったかたの御業を、あなた方が語り伝えるためであると述べています。

牧師だけが祭司ではありません。クリスチャン皆が祭司です神に直接祈り、礼拝をささげる祭司です。礼拝を他者任せにしてはいけません。私たちは、恵みを一方的に受けるだけの民衆ではなく祭司です。

私たちは、まだ主を知らない家族や友人と神との間の橋渡し役です。まだ救いを受けていない日本の99%以上の人々と神との橋渡し役に、私たちは任じられています。手紙が記された当時も今も困難な時代ですが、あえてそこに私たちが置かれている意味は、私たちが祭司の役目を果たすためなのです。

生ける石となり、聖なる祭司として召され、選ばれた皆さんに、主からの特別な支えと守りがありますように祈ります。

You Tube 朝マナ ペテロの手紙Ⅰ 2章 - YouTube
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ペテロの第一の手紙 1章

2023年03月21日 | ペテロ書
ペテロの第一の手紙 1章
あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、傷も、染みもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
(1・18~19)


使徒ペテロは迫害下の中で苦しむクリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。キリストによる救いとは何なのか。それを明確にしなければ、苦難によって信仰を捨ててしまいかねないからです。

(1)救いとは新しく生まれることです。(1・3)

肉体が新しく生まれるのではありません。私たちの内なる人である霊魂の新生です。肉体の自分がすべてだと思っていた時の希望は地上のことばかりでした。ところが、内なる人が新しく生まれると、天にこそ本当の希望があることに目覚めます。

私たちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなた方のために天に蓄えてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。(1・3~4)天にある「しぼむことのない資産」を相続する者となったのは、私たちが新しく生まれ、しかも神の子どもとして生まれたからです。子であるので相続人でもあります(ローマ8・17)

目に見えることに希望の根拠を求めません。そうであれば、迫害や試練の中で初代教会の信仰は消滅していました。むしろ、その試練をとおして、あなた方の信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変るという約束に根拠があります(Ⅰペテロ1・7)

そして、まだ見てはいませんが、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからです(1・8~9)

時を経て2千年後の私たちにも、この喜びがあることに気づいてください。新しく生まれた我が霊魂に目を注ぐなら気づくはずです。当時の外側の環境は迫害でした。今の私たちの環境も試練や困難です。そのことに目がうばわれて、内にいただいた救いの素晴らしさに気づかないでいるのです。

さて、私たちが新しく生まれたのは、「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのです(1・23)私の努力によるのではありません。地上での生まれ育ちが根拠でもありません。神の御言という〝種〟によって新しく生まれました。人間の種(精子)であれば、やがて朽ちる肉体のいのちが生まれるだけですが、神の霊的な種(御言)が私の心に蒔かれ、神の子としての生命が生まれたのです。

(2)救いとは贖われることです。(1・18~19)

聖書の重要なメッセージは、神が私たちを贖ってくださったことです。「贖い」は重要な語句ですから、整理しておきましょう。

贖うとは、他の誰かが代金を支払って買い取ることです代金を支払うのが自分ではなく、他の誰かであることがポイントです。

よく似た語句で「償う」があります。これは〝自分で〟代金を支払うことです。ある程度の失敗は自分で償うことができます。でも、私たちの罪は、自分で支払うことのできない膨大な借金です。

イエス様は譬え話の中で、その罪の借金たるや1万タラントだと教えてくださいました(マタイ18・24)。当時の1万タラントは、労働者の20万年分の賃金に相当します。20万年も働いて返済できますか。到底返済不能の金額です。

ところがこの話の中の借金男は、「何とか返すからもう少し待ってくれ」と懇願しました。つまり、償おうとしたわけです。でも、とうてい無理です。この借金まみれの男の姿こそ、私たち人間の姿です。

いったい誰がこの罪の代価を支払うことができますか。だから、神が代わりに支払ってくださいました。これが贖いです。

では、神はどのようにして罪の代価を支払われたのでしょうか。罪の代価として、神は何を支払われたのでしょうか。それは神の血です。傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血です。

いったい、どのようにして神が血を流すことができるというのでしょうか。永遠であるお方が、如何にして死ぬことができるというのでしょうか。

だからこそ、神は肉体をとって世に来られたのです。御子なる神は、肉体という弱さを身にまとって世に来られました。それは、神が血を流し、いのちを支払って人類を罪の支配から贖い出すためです。人類を贖って、神のものとするためです。

神の血……これ以上に高価な支払いはありません。聖書は、金や銀よりもはるかに高価なものだと言っています。

歴史上こんな高価な買い物があったでしょうか。神は最高の買い物をなさいました。ご自分の血で私たちを買い戻してくださったのです。何という光栄でしょう。ハレルヤ。

人も、高価な買い物をしたら大事にします。一生分のローンを組んで家を買います。何千万という支払いをします。だからこそ大事にします。手放すことができません。

私たちの神は、それと比較にならないほどの高価な買い物をなさいました。そんなにすごい出費をして私たちを買い取ったのですから、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と主は言われるのです。

こんなに高価な支払いをして自分の所有としたクリスチャンを、神が途中で捨ててしまうと思いますか。いいえ、絶対に捨てるわけには行きません。だから、私たちの救いは確実なのです。

神は正式な支払いをして、私たちを買い取り、神の所有となさいました。悪魔の支配下にいた私たちを、無理矢理に引っ張り出したのではありません。盗んだのでもありません。盗んだのであれば、悪魔が取り戻す権利があります。悪魔が私たちを奪い返す可能性があります。

しかし、神は正式な支払いをなさいました。しかも、お釣りがくるほどの……否、お釣りの方が大きいほどの支払いをなさいました。だから、私たちは神のものです。だから、私たちの救いは確実なのです。

私たちの罪がゆるされるために、神の血という最高の代価が支払われたことを感謝します。確実な支払いの故に、その救いが確実であることに感謝します。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/36H1thWwPiAMBj0Iagjp2W?si=25EU_iudS5ewggaW-_jWbA
You Tubehttps://youtu.be/iW4rmDVoZe4

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ヤコブの手紙 5章

2023年03月20日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 5章
主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
(5・7)


救われたクリスチャンが、神の子どもとして完全な者となるために……、

①御言を行うこと(1~2章)
②舌すなわち言葉を制御すること(3章)
③欲を制御すること(4章)
④へりくだること(4章)……でした。

最後に5章では、忍耐が必要であると教えています。

どのように忍耐するのでしょうか。「兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(5・7)。つまり〝農夫の忍耐に学べ〟というわけです。では、農夫の忍耐とはどのような忍耐のことでしょうか。

(1)自分のやれることと、やれないことを区別する。

農夫は収穫を得るために、田を耕し、種をまき、水をやり、雑草を取り除き、肥料をやります。しかし、農夫の手の及ばない領域があります。

種にはいのちが宿っていて実を結ぶ能力が備わっています。これは農夫の手の及ばない領域です。また、雨を降らすことも農夫の手の及ばない領域です。天にまかせるしかありません。このような、自分にできない領域のことを、あせって何とかしようとしても仕方がありません。

農夫は自分ができることと、自分ができないことを区別しています。自分ができない領域のことは忍耐して待つのです。農夫の忍耐とは、自分の力の及ばないことは神にゆだねるという忍耐です。

(2)自然界の法則に信頼する。

作物の種は、実を結ぶようにできています。それを疑ったら忍耐などできません。作物の種が実を結ぶのは、自然界の法則です。農夫は体験的にそれを心得ているので、忍耐して収穫を待ちます。

いのちあるものは必ず実を結ぶようになっているのと同様に、神は、霊的世界にも法則を用意なさっています。それは御言は種であるという法則です。

御言は種です。御言は種のように、実を結ぶ神秘的な力を宿しています。それを信頼するとき、忍耐が生まれます。

また、神が私たちの中に住まわせてくださった聖霊も、霊的な法則をお持ちになっています。それをいのちの御霊の法則と呼びます(ローマ8・2)

いのちの御霊の法則を信頼するとき、御霊(聖霊)は私の中にいのちの豊かな実りを結ばせるようになさいます。

御言と御霊は両輪のようにして、私たちを完全な者とするために実を結んで行かれます。御霊の働きがなければ、御言は単なる文字です。人を活かすのは文字ではなく霊です。聖霊は、御言をいのちの霊として、私たちの中で実を結ばせなさいます。

このように、御言と御霊に秘められた霊的な法則を信頼して忍耐します。

(3)すべての焦点を〝収穫〟に合わせる。

収穫に向けて農夫は忍耐します。それ以外のことで思い煩っていては、忍耐できません。脇目をふらず、主が終わりの時に結ばせてくださる平安な義の実の収穫に焦点を合わせます。

すべての焦点を、主の再臨の収穫の時にあ合わせるのです。周りと比較してはなりません。

脇目をふるなら……つまり、周囲との比較の世界に目を注ぐなら、不平不満のつぶやきが生れます。だから、「互いに不平を言い合ってはならない」と戒めています(5・9)

以上の三つが農夫の忍耐に学ぶことでしたが、次は〝ヨブの忍耐に学べ〟と命じています(5・11)。ヨブは不当と思える境遇の中で神を信頼しました。

「自分は正しい」という思いから不平は出てきます。ヨブも「なぜ自分がこんな目に合うのか。私は正しい者なのに」と主張したこともありました。しかし、神の前に悔い改めて、自己正義を取り下げて、神の正しさを信頼したのです。

自分の正しさは間違っているかも知れません。なぜなら、「人の怒りは神の義をまっとうすることはできない」からです(1・20)。人は、自分が正しいと思うので、怒ったり不平を言うのです。

自分の不確かな正義ゆえに不平を言うよりも、神の正しさ……神の義にこそ信頼すべきです。それが「ヨブの忍耐」です。そんな忍耐の結果は、神の豊かな慈愛とあわれみでした(5・11)

完全な者となるその日まで、主にある忍耐力を働かせてください。

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ヤコブの手紙 4章

2023年03月18日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 4章
何が原因で、あなた方の間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方の体の中で戦う欲望が原因ではありませんか。
(4・1)


ヤコブの手紙は、救われて神の子どもとされたクリスチャンが完全な者となるための手紙です。先の第3章では、完全な者となるために、「舌(言葉)」の問題が取り上げられていました。そして、第4章では、「欲」と「へりくだり」のふたつのテーマが取り上げられています。

そこで、まずあなた方の争いや戦いはどこから来るのかと問いかけています(4・1)

人間関係における争いだけでなく、個人の内的な戦いも含まれます。この争いで私たちの魂(心)は傷つき、破壊されてきました。そこで、完全な者とされるために、魂がいやされ、魂の中に挑む争いや戦いの原因を御言によって対処します。

ヤコブ書は、その争いや戦いの原因はであると指摘しています。先の1章では欲がはらんで罪を生むとも指摘しています(1・15)

では「欲」は悪なのか。禁欲を奨励する宗教もあります。しかし、聖書は違います。欲は善でも悪でもありません。罪悪感を持ちながらご飯を食べますか。富を所有することや、夫婦の交わりに罪悪感がありますか。そんなことはありません。

神は、生きるための能力として、人に「欲」を与えてくださり、それを祝福しておられます。問題なのは〝過剰な〟欲です。ですから十戒の最後は、あなたはむさぼってはならないと教えています。貪るとは、欲に歯止めのかからない状態のことです。つまり、過剰な欲を戒めているのです。

求めても得られないのは、悪い求め方をしているからだと言われてるように、欲を正しく制御することが大切なのです(4・3)

エデンの園でも、神は「園のどの木からも取って食べなさい」と言われました。大いに食べなさいと勧められたのです。つまり、神は食欲を祝福なさっています。ただし、「善悪を知る木からは食べてはならない」と、欲に対する制御を与えられました。

神の御言が欲を制御する力です。

神は男女の性を祝福されました。生めよ増えよと命じられるほどに、神は性を肯定なさっています。性を否定的、禁欲的にとらえるのは聖書の教えではありません。しかし「姦淫してはならない」と、性欲に対して神の御言が制御するようになさいました。盗んではならないも、所有欲に対して神の御言が制御しています。

すべての欲を神は祝福なさっています。欲は悪ではありません。すべては自由です。しかし、そこに神の御言の制御を受け入れるのです。なぜなら、人は神の御言によって生きる者だからです。

さらにこう教えています。求めても得られないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ(4・3)。つまり、御言を基準にしないことが、すなわち悪い求め方です。御言を無視して悪い求め方をするのは世を友とすることになるのです(4・4)。この場合の〝世〟とは、御言の制御を失った世界のことです。

世は御言を無視する世界です。その世の基準で湧いてくる欲望は、私たちの人生に混乱を招きます。なのに、そんな世を友とする生き方をするなら、神は私たちに〝嫉妬〟なさいます。神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられるとはそういう意味です(4・5)

神と共に生きるために、神は人を創造し、霊を注いで霊的存在とし、聖霊さえも注いで「わが友」と呼ぶ関係なのに、その人間が世を友としているなら、神の心中たるや如何ほどでしょう。このようなわけで、神は私たちを「妬むほどに愛しておられる」のです。

救われた私たちが完全な者へと成長するために、欲を正しく働かせます。すると、その過程で「何を欲するか」が変化します。霊的幼な子は世に属する物を欲しますが、成長をとげ完全な者になるにしたがって、天に属するものを求めるようになります。それこそ祝福された〝欲望〟です。

さあ次です。完全な者へとなるためにへりくだりが大切です。4章6節以降を「へりくだり」を軸に読んでみましょう。

完全な者になるとは高ぶることではありません。逆です。へりくだるのです。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うのです(6)。自分をさも偉い者であるかのようにしているなら、悪魔に足をすくわれます。

自分が立派になったから悪魔に勝利できるのではありません。へりくだって神に従う者だから、悪魔は逃げ去るのです(7)。「へりくだり」は悪魔と戦うときの基本姿勢です。完全な者とは、この基本姿勢を身につけた者です。

9節の「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とは、へりくだりを身につけるためです。

でも、身を低くした神の子たちを、神は放っておかれません。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くしてくださるのです(10)。神によって高くされた者こそ完全な者です。

肉の力で立派にやっても、それは完全な者ではありません。神からすれば愚かな高ぶりに過ぎません。悪魔の攻撃にもろくも崩されてしまいます。11節以降は、その高ぶりについての戒めです。

念を押しますが、これは救われるための話ではりません。イエスを信じて救われた私たちが、成長した神の子どもとなるための話です。神の子たちが完全な者へと成長するためです。

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ヤコブの手紙 3章

2023年03月17日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 3章
もし、言葉の上で過ちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
(3・2)


神は見えないお方ですが、神は、御子イエスの全生涯をもってご自分を顕わされました。同じように、人の心も見えませんが行いによって現れます。信仰も見えませんが、信仰による行いによって現れます。

「愛する」ことも、これと似ています。愛する心は見えません。でも、愛していたら、やがて「愛しているよ」という告白になって現れます。プレゼントを贈るとか、親切にするとか……行いになって現れます。

「信仰」と「行い」は理論上では区別できても、実際は切り離せません。「信仰によって救われるなら、行いは不要なのか」などと屁理屈を言わないで、信じた者としての自然な生き方が大切です。

さて、先の第2章では、信仰による行いによって、私たちは神の子どもとして完全な者になって行くことを見ました。第3章では、その信仰による行いの核心部分が言葉と指摘しています。行いというと手足の成すことのように思いますが、根幹は〝舌が成す行い〟です。「舌」とは言葉のことです。この舌が言葉を発します。この舌(言葉)は、人生を左右するほど力があります。

大きな船でも小さな舵ひとつで向きを変えてしまいます(3・4)。それと同じように、舌も小さな器官ですが、人生の方向を大きく変えてしまいます。舵が大きな船の行き先を決めるように、私たちの人生という航海の行き先を私の舌が決めるのです。

まさに、舌は人生の〝舵〟です。

私の舌がどのような言葉を発するのか、それによって人生の方向性が決まってきます。愚痴っぽい言葉を発する人は、愚痴っぽい人生へと舵を切っているのです。喜びや感謝を告白する人は、喜びと感謝の人生へと舵を切っているのです。

だから「悪口」(4・11)とか「不平」(5・9)を言い合ってはならないなど、言葉についての戒めがなされています。祝福された人生へ舵を切るのか、破壊的な人生へ舵を切るのか。舵である舌(言葉)を正しく制御しなければなりません。
イエス様は言葉についてこう言われました。

「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならない。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、自分の言葉によって罪ありとされるからである。」(マタイ12・35~37)

表面上の言葉だけを注意したらよいという意味ではなく、心にあるものが口に出てくるのだと、主イエスは教えられました。つまり、言葉の出所である心が問題なのだ……と。

心は見えませんが、言葉となって現れてきます。心で信じている信仰も見えませんが、言葉になって現れてきます。ですから、大切なことは、私たちがどのように信じているか……です。

人生の方向性を決める舵のような言葉(舌)を、どのように管理すべきなのでしょうか。
 
(1)御霊による支配を受けよう。

心にあるものが言葉になって表れるのですから、私の内に神の御霊が住まわれることが最優先です。

イエス様は、私の中に内住なさるために、十字架で私の罪をきよめ、その後に聖霊として住まわれます。ですから、日々の祈りで、「聖霊様、どうか私の中で主人となってください」という祈りは欠かすことができません。

御霊の賜物の9つの内5つが、言葉に関する賜物であることは興味深いことです。「知恵の言葉」「知識の言葉」「預言」「異言」「異言の説き明かし」の5つです。御霊は私たちの舌を制御して、新しい言葉を与えてくださいます。

ペンテコステの日に聖霊がくだり、最初に現れたしるしが異言であったことも意味深いものがあります。それだけ、神は私たちの舌を用いようとなさっているのです。

私たちの舌を用いて福音を伝えようとなさっています。私たちの舌を用いて神のゆるしを世にあらわそうとなさっているのです。神の愛と恵みを世に示そうと、神は私たちの舌を用いたいのです。

ですから祈るのです。主よ、私の舌を聖霊によってご支配ください。主よ、新しい言葉を語れるように私の舌をご支配ください。

(2)人をほめるようにしよう。

神を讃美する同じ舌で、神の似姿である人を悪く言うのは矛盾しています(ヤコブ3・10)。だから、神をほめたたえた舌で、人もほめるようにしてみよう。

他者に対しても自分に対しても、長所を探すより欠点を探す方が得意なのは罪人の性質です。だからこそ、他者に対して、否、自分に対しても、長所を発見してほめるように努力してみてください。

(3)言いたいことを咄嗟に言わない。

ほんの数秒、言いたいことを待ってください。私たちの内に住まわれる聖霊は、「待て」「語るな」など、何らかの答えや感覚を、私たちの心に数秒の間に教えてくださいます。これは、肉の感覚ではなく、聖霊の感覚を信頼する訓練です。多くの場合、反射的に言った言葉は肉から出てくることが多いのです。

人は常に、外部からの何らかの刺激に反応しています。その刺激に対して肉が反応するのか、霊が反応するのか……どちらかです。聖霊を受ける以前は、肉の反応だけでやって来たのですから、そのような反応がすっかり馴染んでいます。

だから数秒間、聖霊が反応なさる時間を明け渡すのです。聖霊は、私の反応をきよめ、正しくし、言葉を導いてくださいます。

祈りましょう。聖霊様、私の舌をご支配ください。そのことによって、完全な者へと導いてください。

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ヤコブの手紙 2章

2023年03月16日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 2章
信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ……
(2・22)


ヤコブ書は、御言を行う人になりなさい(1・22)とか、行いのない信仰は何の役に立つだろうか(2・14)など、信仰の行いを強調しています。

しかし、私たちには「行い」に対する苦手意識があります。なぜなら、行いとは〝立派な〟行いだと思い込んでいるからです。そうではなく、注目すべきは立派な行いではなく〝信仰による〟行いです。

昔の話しです。1才になった息子をテーブルに立たせて、私の腕に飛び降りさせました。「さあ、おいで。ジャンプしてごらん」と手を広げて待ちかまえました。怖がっていた息子が、ついに父親を信頼して飛び降りました。もちろん、私もしっかりと受け止めました。

私は信頼して飛び降りた息子を嬉しく思いましたし、息子も父を信頼する喜びを味わったことでしょう。信仰も同じです。父なる神を信頼して行動に移すことを神は喜ばれますし、また、私たちの神への信頼も深まります。

このように、行いによって信仰が働きます(2・22)。行いのない信仰は宝の持ち腐れです。お金があるのに、減るのを恐れて使わずに、ひもじい生活をしているようなものです。

あの1タラントのしもべも、タラントが減るのを恐れて地に埋めてしまいました。そうではなく、2タラントのしもべと5タラントのしもべのように、タラント使うことを主は喜ばれます。

今日の聖句は、行いによって信仰が全うされると記しているように、信仰の行いは信仰を完成させるのです。こうして、神は、私たちが完全な者になることを願われるのです(1・4)

私たちはイエスを信じて神の子として新生しました。子が成長して立派に成人するのを親が誇らしく思うように、父なる神は、私たちが神の子どもとして完成することを願っておられます。

また、そのような私たちを、神は自慢なさりたいのです―これは人間的な言い方ですが―クリスチャンは、父なる神の「自慢の子」なのです。それはサタンに対しての自慢です。

主はある時、サタンに対して「ヨブのように潔白で、正しく、神を畏れ、悪に遠ざかる者はいないだろう」とヨブのことを誇られました(ヨブ1・8)

なぜ、神はサタン(悪魔)に対してそうなさるのでしょうか。

悪魔(サタン)は神に仕えるべき立場を守らず堕落した天使です。自分も神のようになろうとして神の敵対者になりました。悪魔は、被造者としてのあるべき姿を失った者です。分をわきまえない者です。

その悪魔に対して、神は御自身の血で買い取った神の子たちの完成した姿を示すことによって、悪魔をさばかれるのです。この神の子たちこそ、被造者としての真の姿だと……。

神の子たちの完成した姿の〝輝き〟をもって悪魔を滅ぼすことが神の方法です。闇を打ち破るのは腕力ではなく光です。悪をもって悪に報いるのではなく、善で報いるのです。これが神のなさり方です(Ⅱテサロニケ2・8)

その先陣を切られたのが御子イエスでした。

御子は神の栄光の輝きを見せてくださいました。御子は神の完全なあらわれです。御子の十字架の死に至る従順は、私たちへの模範としてだけでなく、悪魔に対しては悪魔を滅ぼすための栄光の輝きでした。

イエスは、十字架にかかられる前に、「父よ、私があなたの御そばで持っていた栄光で輝かせてください」と祈られました(ヨハネ17・5)。そして、あの悲惨な十字架を神の栄光となさったのです。

イエス様の十字架の姿は、人間の目にはみじめで何の栄光もない姿に見えたことでしょう。しかし、悪魔にはあまりにも眩しい光でした。あまりにも眩しい神への従順、あまりにも輝かしい神への謙遜と信頼を、悪魔は見せつけられたのです。

そして、その栄光の輝きによって悪魔はさばかれたのです。

悪魔は、御子が神の栄光で輝くのを見たくないので、イエスを誘惑しました。ゲッセマネの祈りの時も、「今なら逃げられるぞ!」……と。十字架上でも「十字架から降りて見よ。神の御子であるお前ならできるだろう」……と。

ヨブの妻が夫に対して、「こんなにみじめになってまでも神を信頼するのか。いっそのこと神をのろいなさい」と誘惑したのも同じです。

しかし、イエスは、たとえみじめな姿であっても、神の御心に従うことに忍耐されました。そして、それが神の栄光の輝きになりました。

この輝きのゆえに悪魔はさばかれ、その業は滅びました。「御子が来たのは悪魔の業を滅ぼすため」(Ⅰヨハネ3・8)であり、同時にその悪魔にと捕らえられていた私たちを救うためでした(ヘブル2・15)

だから、御子イエスからバトンを受け継いだ私たちにも、「完全な者になるために忍耐力を充分に働かせなさい」(ヤコブ1・4)とすすめ、「ヨブの忍耐に学びなさい」(同5・11)と励ましています。

このようにして神は、私たちを完全な者として輝かせようとなさっています。私たちを輝かせて、悪魔の業を滅ぼし、人々を救いに導くのが、私たちに託された神の使命です。

さあ、忍耐しつつ、信仰の完成を目指して、少しずつでも行動に移してみましょう。信仰は行いによって完成するのです。しかも、その行いは〝立派な〟行いではなく〝信仰の〟行いです。

それは救いのためではありません。完全な者へと成長するためです。イエス様も、御言を聞いて実行しなさいと言われ、それは岩の上に家を建てるようなものだとお教えになりました。御言を聞いて信じるなら救いを受けます。次に、その御言を実行して岩の土台とするわけです。

神は難しいことをせよと言われません。信じてやってみよと言われるのです。

シリアの将軍ナアマンは、ヨルダン川に七度身を浸しなさいと言われたことに腹を立てました。しかし、「難しいことを言われたのではい」と部下にさとされ、行動に移していやされました。

また、盲人をいやされたイエス様も、「シロアムに行って目を洗え」と言われただけでした。それほど難しいことではありませんでした。信仰をもって動き出してみましょう。

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ヤコブの手紙 1章

2023年03月15日 | ヤコブ書
ヤコブの手紙 1章
心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言にはあなたがたの魂を救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
(1・21~22)


ヤコブの手紙は冒頭から、あなたがたが、試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいものと思いなさいと勧めています(1・2)。試練を喜ばしいことと思えですって!? これは「やせ我慢」の勧めなのでしょうか。聖書は、肉の感覚……つまり、生まれつきの感覚からすれば、「えっそんな!」と思うようなことを命じてきます。

でも、静かに御言を黙想していくと、私の霊の感覚では神の御言を喜んでいるのを知るようになります。肉の感覚では御言に反発しているのですが、霊は喜んでいます。 ※普段は肉の感覚の方が前面に出ていて、霊の感覚とか内なる人の感覚が鈍くなっている。祈りとか瞑想の時間を大切にし、わが霊の声を聞く――それは御霊の声を聞くことにも通じる――習慣を身につけよう。

神の御言は生きていて、両刃の剣より鋭くて、私の肉の思いと霊の思いを切り分けます(ヘブル4・12)。肉の思いが朽ちて、霊の思いで生きるようになるために、神の御言は人の心をさぐられるのです。

さあ、試練を喜べとはどういうことですか。その第一の理由は、試練を通して信仰がためされて忍耐が生み出されるからです(1・3)。試練は、私がどのような信じ方をしているのかを明らかにします。

イエス様はペテロにこう告げられました。「サタンがあなたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。でも、私はあなたの信仰がなくならないように祈っている」(ルカ22・31~32)。この後に来るであろう試練を予告なさいました。

その後、ペテロは十字架の恐怖を前にして「イエスを知らない」と信仰を隠してしまいました。このことを通して、ペテロは、自分の熱心は肉の力であったことを痛感したのです。

ペテロはこの試練を通して、肉ではなく聖霊によって信じる道へと導かれました。試練を通して信仰がためされることによって、ペテロに本物の熱心……つまり忍耐が与えられたのです。

次に、試練を喜べと命じる第二の理由は、この〝忍耐〟を働かせることによって〝完全な者〟になるからです(1・4)

簡単でスピーディーなことを追及する現代社会で、忍耐は難しいものになってきました。サタンは現代人から忍耐を奪おうと躍起です。信仰があっても、忍耐を奪いさえすれば敵の思うつぼです。なぜなら、クリスチャンが忍耐を働かせて完成された者になることをサタンは最も恐れるからです。

だから忍耐を働かせよう。試練にあうと人はそれから逃げたくなります。ごまかしたり、曖昧にしたり、先送りしたくなります。また、それより手っ取り早い解決を選びたくなります。

そこで、試練から忍耐を生み出すための「知恵」が必要です。何の工夫もなく我慢せよというのではありません。忍耐を働かせるための知恵を、神は求める者に惜しみなく与えてくださいます(1・5)。どのような知恵なのでしょうか。

知恵の1……神にある身分を喜ぶ。(1・9~11)

世に属する身分が貧しいと、試練にあうと自己卑下に陥りやすくなります。どうせ自分は……と愚痴りたくなります。自己卑下や不平からは忍耐は生まれません。また、逆に、世の身分が富んでいると、プライドが忍耐のさまたげになります。神より富を信頼して、忍耐を見失います。地上の富は一時的であることを悟る知恵が必要です(11)

私たちの身分は「神の子」であり「神のしもべ」です。世では貧しくても、天における神の子どもとしての誇りを失いません(9)。また、世では富んでいても、天における神のしもべたる謙遜を失いません(10)。このような知恵が、試練の中で忍耐を生み出し、完全な者へと向かわせるのです。

知恵の2……試練誘惑は神から来たのではないと知る。(1・13~18)

誘惑(試練)にあったとき、これは神からものだといってはならないと戒めています(13)。問題が起きると、他者や環境のせいにしがちですが、問題の真相は自分の内にある「欲」です。

人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出すのです(1・14~15)

「欲は悪だ」と言うのではありません。欲は神が人にお与えになった生存本能です。人間が生きて行けるように、神は私たちに、食欲・物欲・性欲を授けてくださいました。問題は、欲が〝はらむ〟ようにして膨らむことです。つまり欲張りです。

「欲」は善にも悪にもなります。神の明るみの下で欲を満たそうとするなら祝福ですが、欲を神の前に隠して満たすなら―本当は隠すことなどできないが―罪を生み、死に至ります。

ですから、この誘惑(試練)は神からだと考えてはいけません。なぜならあらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくるのです(17)

神は良いものをお与えになる天の父です。そのような神のお立場に変更はありません。父には、変化とか回転の影とかいうものはないとは、そういう意味です(17)

一見よいものを与える神だが、角度を変えて見たら誘惑を与える神だ……というのではありません。どの方向から見ても、良きものを与える父です。この信頼を揺るがせてはなりません。そうでないと、試練を通して神に敵対する者になってしまいます。

※ヤコブ書では、試練とか誘惑は人間の欲張りから生じると説明しているが、「悪魔のわざ」だと説明する記録もある。ヨブ記が顕著な例である。祭司の庭におけるペテロの誘惑もそれである。また、ヨハネ黙示録では、患難期の試練は獣の働きとして描かれている。いずれも、神の大きな支配の中で起きている。つまり、どんな試練の中にも神は共に居られるのだと記している。

知恵の3……御言を行うチャンスだ。(1・19~27)

試練にあったとき、神の御言を聞くことを最優先しよう。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきであるとは、そのような文脈で述べられています(1・19)。試練の意味を講釈したり、怒ったりするのは後まわしです。

冒頭の聖句が示しているように、試練の時こそ御言を受け入れ、実行するチャンスです。それによって完全な者へと成長するからです。

つまり魂の救いに至るのです。

ここで、救いについて整理をして起きます。人は心・思考の領域)」からなっています。救いもそれぞれの領域においてなされます。

「霊」は信じて救われました。これを「義認」と言います。次に「魂」の救いが続きます。これは「聖化」です。そして、復活の時に朽ちない体を受けて「体」の救いへと進みます。これが「栄化」です。

ヤコブの手紙は、2番目の〝魂の救い〟を取り上げています。それは、魂(心・考え)がいやされ、正されることです。 ※霊の救いは信じることによってである。行いによらない。これが信仰義認である。次の魂の救いは御言を行うことによって完成する。

イエスを信じて、霊は救われて神の子の身分を受けました。しかし、心(魂)は歪んでいたり傷ついたままです。基本的(身分的・法的)には救われているのですが、歪んだり傷ついたままの心では、救いの喜びを味わうことができません。救われているのですが、考え方が悲観的であったり、悪魔的な思考法であったり、肉なる価値観でいるなら、救いの恵みは薄らいでしまいます。

そこで、神の御言は、私たちの心(魂)の領域を救うのです。つまり、考えの領域をいやし、正すことで、完全な者へと導くのです。だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさいと勧めているのです(1・21)。なぜなら、御言には、あなたがたの魂を救う力があるからです(1・21)

ヤコブ書は、御言を聞くだけでなく、行いなさいと勧めています(1・22)御言を行う中で、私たちの傷ついた魂はきよめられ、いやされ、正されて行くのです。それがクリスチャンとして完成して行く道です。

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