テトスへの手紙 3章
これは、私たちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。(3・7)
キリストにある救いには幾つもの〝面〟があります。冒頭の聖句は、その3つを表しています。
(1)キリストの恵みによって義とされた。
「義とされる」とは、罪のない者とみなされるという意味です。一般的には、罪のない者になるために、自分の良い行いで義を追及するわけです。でも、実際は不可能なことです。
だから聖書は、「私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、私たちは救われたのである」と述べています(3・5)。キリストによって義とされるのは、神のあわれみなのです。でも、「あわれみを受けるほど落ちぶれてはいない」と頑張る人は、力尽き矢折れるまで「自分の行った義のわざ」を追及し続けます。
行いを軽視しするのではありません。人の頑張りではなく、聖霊の助けを得て行うのです。「聖霊は、私たちの救主イエス・キリストをとおして、私たちの上に豊かに注がれた」からです(3・6)。頼るべきは聖霊です。聖霊が〝行い〟の原動力です。〝義とされること〟も〝行い〟もすべて恵みによるのです。
(2)永遠のいのちを与えられた。
永遠のいのちを単に時間的な長さだと勘違いしてはなりません。永遠のいのちとは「死なないいのち」のことです。失敗して凹んでしまいますか。もう死にたいと嘆きますか。それは肉のいのちで生きているからです。でも「死なないいのち」は困難があっても乗り越えようとするエネルギーです。
また、永遠のいのちとは「腐らないいのち」のことです。不当な扱いを受けてふて腐れていますか。それは肉のいのちだからです。有限ないのちなので腐ってしまいます。朽ちるいのちなので〝クサル〟のです。でも「腐らないいのち」は不条理な環境にあっても腐らずに前を向きます。
つきるところ、永遠のいのちとは「イエスのいのち」なのです。イエス様がお持ちであるいのちと同じいのちを、私たちにも与えてくださったのです。だから、イエスのように死んでも生きるのです。イエスのように愛するエネルギーを持っているのです。イエスのようにゆるす力をもっているのです。
これは、私たちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。(3・7)
キリストにある救いには幾つもの〝面〟があります。冒頭の聖句は、その3つを表しています。
(1)キリストの恵みによって義とされた。
「義とされる」とは、罪のない者とみなされるという意味です。一般的には、罪のない者になるために、自分の良い行いで義を追及するわけです。でも、実際は不可能なことです。
だから聖書は、「私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、私たちは救われたのである」と述べています(3・5)。キリストによって義とされるのは、神のあわれみなのです。でも、「あわれみを受けるほど落ちぶれてはいない」と頑張る人は、力尽き矢折れるまで「自分の行った義のわざ」を追及し続けます。
行いを軽視しするのではありません。人の頑張りではなく、聖霊の助けを得て行うのです。「聖霊は、私たちの救主イエス・キリストをとおして、私たちの上に豊かに注がれた」からです(3・6)。頼るべきは聖霊です。聖霊が〝行い〟の原動力です。〝義とされること〟も〝行い〟もすべて恵みによるのです。
(2)永遠のいのちを与えられた。
永遠のいのちを単に時間的な長さだと勘違いしてはなりません。永遠のいのちとは「死なないいのち」のことです。失敗して凹んでしまいますか。もう死にたいと嘆きますか。それは肉のいのちで生きているからです。でも「死なないいのち」は困難があっても乗り越えようとするエネルギーです。
また、永遠のいのちとは「腐らないいのち」のことです。不当な扱いを受けてふて腐れていますか。それは肉のいのちだからです。有限ないのちなので腐ってしまいます。朽ちるいのちなので〝クサル〟のです。でも「腐らないいのち」は不条理な環境にあっても腐らずに前を向きます。
つきるところ、永遠のいのちとは「イエスのいのち」なのです。イエス様がお持ちであるいのちと同じいのちを、私たちにも与えてくださったのです。だから、イエスのように死んでも生きるのです。イエスのように愛するエネルギーを持っているのです。イエスのようにゆるす力をもっているのです。
(3)御国の相続人とされた。
口語訳では「御国をつぐ者」と訳していますが、新改訳では「相続人」です。
地上のわずかな土地や金銭の相続でもめている場合ではありません。価値が変動してしまう地上の富の相続など小さなことです。何と、私たちは御国の世継ぎなのです。単に天国に入れていただく程度の救いではありません。御国の王であるイエス・キリストとの共同相続人であるとも記されています。
私のような罪人を義と認め、永遠のいのちを与えてくださるばかりか、御国の相続者となさったというのです。かくも恵み深いイエス・キリストの神に栄光が永遠にありますように。
人は、自分が何者なのかという自覚によって生き方が決まります。つまりアイデンティティです。冒頭の御言はまさにそれです。この自覚と誇りが、私たちの生き方を決めます。
しかし、自分は猿から進化した者だ、動物よりちょっとましな程度の存在だと思っているなら、動物のように生活します。しょせん人間は罪人だ、どうしようもない者だと思っている人は、罪に身をまかせる生き方をします。
偶然に生きるようになったと思っている人は、理由も目的も無く、ただ生存するだけの生き方をします。自死に至ったある青年の遺書には、こう記されていたそうです。「死ぬ理由はありません。でも、生きる理由も無いのです」。
自分が何者なのかも分からないのに、ただ、「立派に生活しなさい」「真面目にやりなさい」といわれても、それは息苦しく、空しい命令です。
私は神の子とされた者であり、天の御国の相続者です。空虚な戯言ではありません。「信頼すべき言葉だ」と聖書は記しています(3・8)。その自覚と誇りによって、「良いわざに励むことを心がけるように」なります。「これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」(3・8)

