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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

テトスへの手紙 3章

2023年02月25日 | テトス書
テトスへの手紙 3章
これは、私たちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
(3・7)


キリストにある救いには幾つもの〝面〟があります。冒頭の聖句は、その3つを表しています。

(1)キリストの恵みによって義とされた。

「義とされる」とは、罪のない者とみなされるという意味です。一般的には、罪のない者になるために、自分の良い行いで義を追及するわけです。でも、実際は不可能なことです。

だから聖書は、私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、私たちは救われたのであると述べています(3・5)。キリストによって義とされるのは、神のあわれみなのです。でも、「あわれみを受けるほど落ちぶれてはいない」と頑張る人は、力尽き矢折れるまで「自分の行った義のわざ」を追及し続けます。

行いを軽視しするのではありません。人の頑張りではなく、聖霊の助けを得て行うのです。「聖霊は、私たちの救主イエス・キリストをとおして、私たちの上に豊かに注がれた」からです(3・6)。頼るべきは聖霊です。聖霊が〝行い〟の原動力です。〝義とされること〟も〝行い〟もすべて恵みによるのです。

(2)永遠のいのちを与えられた。

永遠のいのちを単に時間的な長さだと勘違いしてはなりません。永遠のいのちとは「死なないいのち」のことです。失敗して凹んでしまいますか。もう死にたいと嘆きますか。それは肉のいのちで生きているからです。でも「死なないいのち」は困難があっても乗り越えようとするエネルギーです。

また、永遠のいのちとは「腐らないいのち」のことです。不当な扱いを受けてふて腐れていますか。それは肉のいのちだからです。有限ないのちなので腐ってしまいます。朽ちるいのちなので〝クサル〟のです。でも「腐らないいのち」は不条理な環境にあっても腐らずに前を向きます。

つきるところ、永遠のいのちとはイエスのいのちなのです。イエス様がお持ちであるいのちと同じいのちを、私たちにも与えてくださったのです。だから、イエスのように死んでも生きるのです。イエスのように愛するエネルギーを持っているのです。イエスのようにゆるす力をもっているのです。

(3)御国の相続人とされた。

口語訳では「御国をつぐ者」と訳していますが、新改訳では「相続人」です。

地上のわずかな土地や金銭の相続でもめている場合ではありません。価値が変動してしまう地上の富の相続など小さなことです。何と、私たちは御国の世継ぎなのです。単に天国に入れていただく程度の救いではありません。御国の王であるイエス・キリストとの共同相続人であるとも記されています。

私のような罪人を義と認め、永遠のいのちを与えてくださるばかりか、御国の相続者となさったというのです。かくも恵み深いイエス・キリストの神に栄光が永遠にありますように。

人は、自分が何者なのかという自覚によって生き方が決まります。つまりアイデンティティです。冒頭の御言はまさにそれです。この自覚と誇りが、私たちの生き方を決めます。

しかし、自分は猿から進化した者だ、動物よりちょっとましな程度の存在だと思っているなら、動物のように生活します。しょせん人間は罪人だ、どうしようもない者だと思っている人は、罪に身をまかせる生き方をします。

偶然に生きるようになったと思っている人は、理由も目的も無く、ただ生存するだけの生き方をします。自死に至ったある青年の遺書には、こう記されていたそうです。「死ぬ理由はありません。でも、生きる理由も無いのです」。

自分が何者なのかも分からないのに、ただ、「立派に生活しなさい」「真面目にやりなさい」といわれても、それは息苦しく、空しい命令です。

私は神の子とされた者であり、天の御国の相続者です。空虚な戯言ではありません。「信頼すべき言葉だ」と聖書は記しています(3・8)。その自覚と誇りによって、「良いわざに励むことを心がけるように」なります。「これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。」(3・8)

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テトスへの手紙 2章

2023年02月24日 | テトス書
テトスへの手紙 2章
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
(2・14)


この手紙の受取人は、パウロが手塩にかけて育てた愛弟子のテトスです。パウロはこのテトスを、クレテの教会を立て直すために派遣しました。

地中海のクレテ島は、日本の四国よりすこし小さい島で、エーゲ海の南に位置します。当時のクレテ人は粗野で道徳的にも退廃的であった様子がうかがわれます(1・12~16)。 ※1章12節は、紀元前600年頃のクレテ出身の哲学者エピメニデスの言葉とされる。

そのようなわけで、この手紙には、きびしい命令が記されています。教会指導者である長老や監督の選任には、責められる点がなく、慎み深く、自制する者と、その水準は高いものです(1・5~9)

2章からは、老人、婦人、青年、奴隷などの人々に、慎み深く(思慮深く)、善良で従順な生き方をするようとも命じています。

このように命ぜざるを得ないほど、クレテ教会の信仰生活は、信じていることと実際の生活が食い違っていました。つまり、神を信じると口では言うが、行いではそれを否定する状態でした(1・16)

それを是正するようにと、手紙はつづられています。なぜなら神のことばがそしられないためであり、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです(2・5、2・10)

神の御言は、私たちがどう生きようが微動だにせず真理です。しかし、信じた私の生活が、信じていることと食い違うなら誹りを受けます。救われた私はそれで良くても、これから救われるべき人々にとって躓きとなってはなりません。

また、クリスチャンがどんな生き方をしようが、キリストの栄光の輝きが陰ることはありません。しかし、キリストを信じた者たちが、それを生き様に現すことで、神の教えを〝飾ることになる〟のです。

信仰という見えない世界を、日常生活という見える世界に表すことが敬虔ということですが、この敬虔はテモテへの手紙で取り上げられ、テトスへの手紙でも大切なこととして語られています。

退廃した社会だからこそ、なおさら敬虔は大切でした。今日の私たちも同じ立場です。

しかし、どうぞこれを肉の力でやろうとしないでください。肉の力でやろうとする人は、神の御言を律法として受け取る人です。そうではなく、恵みによって受け止めるのがキリスト信仰です。

「福音」が記されている新約聖書でさえも、受け取りようによっては「律法」になります。肉で受け取り、肉でなそうとしたら、律法の世界に引きずり込まれてしまいます。きびしく思える命令でも、恵みの中で受け取ってください。

今日の御言は、私たちが良いわざに熱心な者となるように、神は私たちを聖別してくださったと言っています。

これは、「良いわざをしなければならない」という律法ではありません。神は、私たちを、良いわざをするように〝すでに〟してくださっているのだと宣言しているのです。イエス様を信じて新しく生まれた人は、良いわざに熱心になるように〝すでに〟なっているのです……という意味です。

イエス様を信じて新しく生まれたご自分の霊の声を聞いてみてください。内なる声です。どうですか。良いわざをしたいという声が聞こえますよね。その心に素直に応じればよいのです。それが「敬虔の奥義」の始まりです。

新生した霊にこそ私の本心があります。父のもとを離れて財産を使い果たした放蕩息子は、本心に立ち返って、父の家に戻ったように、神が私の内に与えてくださった本心に従うことです。 ※新改訳では「我にかえって」と翻訳。口語訳では「本心に立ち返って」。

神は、そうできるように、すでに永遠の昔に約束しておられるのだと、先の第1章で見たとおりです。

先の1章から2章にかけて健全なおしえとか健全な言葉など、健全について述べられています。

それは、本来あるべき姿のことです。冒頭の聖句にあるように、私たちはキリストの血で「不法からあがない出された」ことで、私たちは本来あるべき「神のもの」となったという意味です。それ以前の私は不法でした。

かつては、神のものであるのに罪の支配下にいました。神のものとして健全に生きるはずの者が、罪の奴隷となっていました。そのような状態は神の目には不法です。そこから、神はキリストの血を代価として支払って「神のもの」として取り戻されたのです。これが健全な姿です。こうして良いわざをする人間として、本来あるべき姿に戻されたのです。

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テトスへの手紙 1章

2023年02月23日 | テトス書
テトスへの手紙 1章
偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのである。
(1・2)


あなたは何に基づいて生きていますか。こんな質問をされたら、応えにとまどってしまうかも知れません。でも、今日は考えてみましょう。

ある日、背広のポケットに手を入れたら1万円札が入っていた。入れた覚えはないのだが、自分のポケットに入っているのだから自分の物だろうと思って使ってしまう……。

人生もそんなふうに、ある日、気がついたら人生というものがあって、あぁこれは自分の物だと思って何となしに生きています。

何に基づいて生きているのだろうか。多感な青年期には考えてもみたのですが、日々の労働や食べたり着ることで明け暮れる内に今日まで来てしまったという人も多いことでしょう。

今日の聖句は、偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのであると言っています。私たちの人生は、永遠の昔に約束された、永遠のいのちに基づいています。偶然のいのちに基づいているのではありません。

私は聖書と出会うまでは根っからの進化論者でした。大学では生物学の教師を目指して理系の学部を専攻しましたが、そこでクリスチャンと出会い、聖書を読みました。聖書には、創造主なる神が万物を創造なさったと記されていました。

進化論は神の創造を認めません。偶然に生命が誕生して、偶然に人類までたどりついたことになっています。つまり、私たちの存在の根拠はすべてが〝偶然〟だと言っているわけです。

ですから、「何に基づいて生きていますか」と質問されるなら、私は「偶然に基づいて生きています」と応えるしかありませんでした。しかし恐ろしいことに、偶然には目的ながないのです。

4月1日の午後、教会で会いましょうと約束してお会いした相手に、「いや~こんなところで会えるなんて偶然ですね」とは言いません。何の計画も目的もなく出会ったら「偶然ですね~」と言えますが、この場合は、お会いして聖書を読んで祈るという目的があったのです。しかし、偶然には目的がありません。空しいことです。

進化論に基づいて人間存在を教えている教育は、何を教えるのでしょうか。人生の目的は何だと教えるのでしょうか。人生は何に基づいていると教えるのでしょうか。

聖書は偽りのない神が、永遠の昔に約束された、永遠のいのちの望みに基づくのであると教えています。永遠のいのちに基づいています。永遠前からの神のご計画に基づいています。

永遠のさらに昔……永遠前からある計画に基づいています。つまり、初めから神は、私たち人間の創造を計画なさっていたということです。

神が粘土をこねているうちに、人間ができちゃったのですか。そんなことではありません。私たち人間でさえも、目的をもって小麦粉を練ってパンを作ります。ましてや、神のお造りになった万物が、偶然の産物であるはずがありません。

また、人間が罪を犯したので、神はあわてて御子イエスを十字架につけることにしたのですか。そんな行き当たりばったりの神ではありません。永遠の昔に約束されたことに基づいているのです。

神が、私たちに永遠のいのちを与えようとなさるのは、はじめからのご計画です。永遠前からのご計画です。こんなすごい計画なのですから、私たちのちょっとした失敗ごときで、この計画が頓挫するはずがありません。

もちろん、神のご計画の深さ広さを私たちは理解し切れません。ただ、その神に信頼するのみです。御子イエスをくださるほどに愛してくださったことを認めて信頼するだけです。

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