列王紀上14・6 なぜ、他人を装うのですか。
引き続き北王国の王ヤラベアムについて物語が記されています。彼の息子が病気になったのですが、その子のいやしのために祈ってもらうために、自分の妻を預言者アヒヤのもとに遣わしました。
その時、ヤラベアムは妻に、「立って姿を変え、ヤラベアムの妻であることの知られないようにしてシロへ行きなさい。…中略… 彼はこの子がどうなるかをあなたに告げるでしょう」と命じました(14・2~3)。
なぜ他人を装う必要があったのでしょうか。ヤラベアムには少なからず神に対してうしろめたさがあったからでしょう。自分の欲しいままに振る舞ってきたヤラベアムですが、その成してきたことに対する罪責感がそうさせたのではないかと思います。
ありのままで神の御前に出られず逡巡(しゅんじゅん)する思いが、妻に他人を装わせたわけです。
しかし、神の目にはすべてが明らかです。預言者アヒヤは年老いて目がかすんでいたものの、神の事前の啓示によって、訪ねてくる女がヤラベアムの妻であることを見抜いていました。
そこで、預言者アヒヤは、「なぜ、他人を装(よそ)うのですか」と語りかけたのです。 ※新改訳は「なぜ、他の女のようなふりをしているのですか」。新共同訳は「なぜそのように変装したのか」。
私たちは罪をおかすと隠そうとします。これはアダムの時以来、罪人の性質です。
アダムとイブが善悪の知識の木の実を食べて罪をおかすと、ふたりはイチジクの葉で身を隠しました。そして、神の来られる足音を聞くや、彼らは園の木の間に身を隠しました。
さらに、罪を問われると、アダムはイブのせいにし、イブはヘビのせいにして言い逃れようとしました。つまり、言い逃れという「自己弁護」や「自己正義」で自分をおおって、罪を隠そうとします。
このように、罪人は自分を隠して「他人を装う」のです。しかし、そのような罪人に対して、神は、「なぜ、他人を装うのか」と語りかけられます。
あなたはいかがでしょうか。他人を装っていないでしょうか。装わずに、ありのままの姿で神の御前に出ているでしょうか。
ある人々は、「神は存在するのか否か」とか「人間は性善説か性悪説か」などといった宗教論を戦わせます。しかし、熱心に宗教論争することで神と出会えるわけではありません。「自分は罪人である」という、問題の核心に向き合わない限り、人は神と出会うことができません。
また、「あの人は愛がない」とか、「親が悪い」「社会が悪い」などと自分以外の問題を指摘して批判する人もいます。しかし、どんなに外側の悪を批判しても問題の解決には至りません。
自分の中にある、たったひとりの隣人さえ愛せない罪人の姿を正直に見つめるところに、問題解決の鍵があるのです。おのれの罪という核心部分を隠して、宗教論議や社会批判をしても、所詮は「他人を装っている」に過ぎません。
自分を装うことなく、罪人である自分の姿を認め、悔い改めをもってイエスの十字架の前に出るとき、私たちは恵みを得るのです。
しかし、ヤラベアムもその妻も、最後まで自分を装ったため、神の恵みを受けることができず、ついにヤラベアムの息子は死にました。
他人を装わずに……つまり、ありのままの姿で、罪人としての自分を認めて神の御前に出よう。それが恵みを受ける道です。
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