列王紀上18・21 あなた方はいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい。
主なる神は、預言者エリヤを再びアハブ王のもとに遣わしました。バアルの神に従うのか、それとも真の神である主に従うのか。決着をつけようというわけです。その時の言葉が冒頭の御言です。
今日、私たちの心に迷いはありませんか。
もちろん、この朝マナメールを受けてくださっているクリスチャンの中には、観音山の高崎白衣観音※とイエス様とどちらを選ぼうかと迷う人はいないでしょう。 ※高崎市の観音山にそびえる白衣観音像は、高さ24メールにもなる仏像で高崎市のシンボルになっている。
でも、世の富とイエス様との間で迷うことはあるでしょう。出世や名誉とイエス様を天秤(てんびん)にかけるようなことがあるでしょう。冷静に考えれば、もちろんイエス様です。しかし、情けないことに、世の富や栄光を選んでしまう弱さを私たちは持っています。
そんな時、今日の御言を思い出します。「あなた方はいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。
さて、エリヤとバアルの預言者たちによる対決はこうでした。
「『われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。私(エリヤ)も一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
こうしてあなた方はあなた方の神の名(バアル)を呼びなさい。私は主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう』。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。」(18・23~24)
こうして、バアルの預言者たちがバアルの神を呼び求めました。朝から呼び始め昼を過ぎても、何の応答もありませんでした。
「こうして昼が過ぎても彼らは(バアルの預言者たち)なお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかし、なんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。」(18・29)
このことは何を表しているのでしょうか。
偶像の神とは偽りの神です。人間が作った神です。お金も人間が作ったものです。地上の地位も名誉も人間が作り出したものです。なのに、その作ったものに向かって、「私を救ってくれ」と叫び求めることは愚かなことです。
バアルの預言者たちは、喉をからして叫び、自分の身を傷つけて血を流すまでして求めましたが、応答はありませんでした。
それは丁度、人間が作り出したお金に向かって、声をからして叫び、身体を傷つけてまで求めるようにして働く現代人の姿に似ています。でも、「世の富」という名の偽りの神は何も応えてくれません。
「なんの声もなく、答える者もなく、顧みる者もなかった」というのが偶像の正体です。
預言者ハバククも告げています。「彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。」(ハバクク2・18)
さて、預言者エリヤの場面に戻りましょう。
今度はエリヤの番です。彼が主の御名によって呼ばわると、「主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした」のです(列王上18・38)。
偶像は人間が作り出した神ですが、主なる神は人間を創造なさった神です。だから、生きておられる神です。私たちが求めれば応えてくださる神です。
さあ、ふたつの間で迷っていることがあれば、生きておられる神、主イエスに求めてください。イエス様は必ず応えてくださる神です。
この「応えてくださる」とは、「何でも願うようにしてくださる」という意味ではありません。
私たちの神は「父なる神」です。神の子どもである私たちを正しく愛してくださるお方です。だから、私たちが間違った求めをした場合は、その通りになさるとは限りません。
小学生の息子が10万円を求めてきても、それを与える親はいません。それは彼の年齢にふさわしくない要求だからです。彼を愛する親なら、どうしてそんな大金が必要なのかを質問します。
悪い人から「金を持ってこい」と脅されているのではないか。それなら、その脅されている問題を解決してあげます。あるいは、何か欲しいものがあるのか。それなら、それが本当に必要なのか、もう少し考えてみなさいと時間を与えます。
人間の親でさえも、子を愛して最善な方法で応えようとするのですから、ましてや天の父がそうなさらないはずがないでしょう。
自分の願い通りに神を〝操作〟しようとする祈りは、偶像礼拝者の祈り方です。たくさん祈ったら願いがかなうというのも、偶像礼拝者の祈りです。断食したら神は腹をすかせている私を哀れに思って、かなえてくださると考えるなら、それは神へのハンガーストライキです。バアルの預言者たちは、そんな求め方をしました。
偶像礼拝者の祈りは一方的です。双方向のやり取りがありません。人格的な交わりがないのです。もしそのような祈りをイエス様にしていたら、それはイエス様を偶像礼拝していることになります。
しかし、私たちのイエス様は必ず応えてくださる神です。願った通りでなくても、必ず応答があります。願うだけの一方通行ではなく双方向の交わりがあります。その交わりの中で私たちは養われます。
さあ、必ず応えてくださるイエス様に祈ろう。祈りの中で、イエス様との人格的な交わりを持ち、その交わりの中で、自分の求めていることも申し上げ、最善の方法を与えてくださるように祈ろう。
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