ユダの手紙
最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り……(1・20)
間違った信仰を持ち込む人々が教会の中にしのびこんで来ました(4)。彼らは不敬虔な者たちで、「神の恵みを放縦な生活に変えてしまう人々」でした。放縦な生活とは、勝手気ままな生活。肉の欲するままの生活のことです。
いったいどういう経緯で、「神の恵み」が「放縦な生活」へと変化してしまうのですか。信じていることとやっていることが違うじゃないですか。
実は、それが「不敬虔」という意味です。不敬虔な者の理屈はこうです。神の恵みがあるのだから、放縦な生活もゆるされるのだと。 ※口語訳の場合、「不信心」と訳されたところは「不敬虔」の意味。
彼らはグノーシス主義に影響を受けた人々でした。先のヨハネの手紙で見たように、グノーシス主義では肉体を卑しいもの、即ち悪とみなし、霊的なことこそ善であり重要であると見なしました。
そのような発想をするグノーシス主義は〝二つの極端〟に陥りました。
第一は、肉体は悪なのだから、肉体を卑しめて禁欲主義になります。そして、霊的なことだけを追い求める人々が登場します。彼らは、肉体に与えられた恵みを否定して、霊的なことこそ重要だと考えました。そして、霊的なことがらを追及するあまり神秘主義に陥りました。
第二は、霊的な知恵に目覚めることが重要なのであるから、霊的な知恵の領域に達することができたなら、あとは肉体のおもむくままに生きても大丈夫だと考える人々が登場します。霊的覚醒を理由に彼らは放縦な生活に陥りました。
ヨハネの手紙では前者の場合が取り上げられていましたが、ユダの手紙が指摘しているのは後者の場合です。両者とも不敬虔です。敬虔とは、信じている内容を生活にあらわす生き方のことですが、彼らの場合、霊的といいながら生活はでたらめです。
今日の聖句で、「最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる」とは、信仰という土台の上に、信仰と矛盾しない生活を建て上げることです。
信じている内容と、その上に築かれた生活とが食い違っていると、土台と上物である家とがねじれた状態です。そのような建物は地震があれば崩壊するように、人生も破綻してしまいます。
さて、教会の中に忍び込んできた不敬虔な人々に対するさばきは、すでに旧約の時代から警告がなされてきました。ユダの手紙は3つの事例をあげて説明しています。
① 荒野で滅ぼされた人々の場合(5)
彼らが荒野で滅びたのは、彼らが最後まで神を信じなかったからです。信じ切れなかった原因は、出エジプトした目的を見失ったからです。
「あなた方が救われたのは神の性質にあずかる者となるため」でした(Ⅱペテロ1・4)。これを忘れてはなりません。この召しと選びを確かにしていれば、過ちに陥ることはなかったのです。
② 天で堕落した御使の場合(6)
彼らが堕落したのは、自分たちの身分をわきまえなかったからです。本来なら、神に仕える天使であるのに、自らも神になろうとしました。
彼らについては、「自分たちの地位(領域)を守らず、自分のおるべき所を捨てた」と指摘されています。私たちは造られた者です。被造者です。被造者である私たちは、創造者である神を礼拝し仕える身分であることを見失ってはなりません。
③ ソドムとゴモラの場合(7)
彼らへのさばきは、肉の欲望のままに動かされたからです。
最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り……(1・20)
間違った信仰を持ち込む人々が教会の中にしのびこんで来ました(4)。彼らは不敬虔な者たちで、「神の恵みを放縦な生活に変えてしまう人々」でした。放縦な生活とは、勝手気ままな生活。肉の欲するままの生活のことです。
いったいどういう経緯で、「神の恵み」が「放縦な生活」へと変化してしまうのですか。信じていることとやっていることが違うじゃないですか。
実は、それが「不敬虔」という意味です。不敬虔な者の理屈はこうです。神の恵みがあるのだから、放縦な生活もゆるされるのだと。 ※口語訳の場合、「不信心」と訳されたところは「不敬虔」の意味。
彼らはグノーシス主義に影響を受けた人々でした。先のヨハネの手紙で見たように、グノーシス主義では肉体を卑しいもの、即ち悪とみなし、霊的なことこそ善であり重要であると見なしました。
そのような発想をするグノーシス主義は〝二つの極端〟に陥りました。
第一は、肉体は悪なのだから、肉体を卑しめて禁欲主義になります。そして、霊的なことだけを追い求める人々が登場します。彼らは、肉体に与えられた恵みを否定して、霊的なことこそ重要だと考えました。そして、霊的なことがらを追及するあまり神秘主義に陥りました。
第二は、霊的な知恵に目覚めることが重要なのであるから、霊的な知恵の領域に達することができたなら、あとは肉体のおもむくままに生きても大丈夫だと考える人々が登場します。霊的覚醒を理由に彼らは放縦な生活に陥りました。
ヨハネの手紙では前者の場合が取り上げられていましたが、ユダの手紙が指摘しているのは後者の場合です。両者とも不敬虔です。敬虔とは、信じている内容を生活にあらわす生き方のことですが、彼らの場合、霊的といいながら生活はでたらめです。
今日の聖句で、「最も神聖な信仰の上に自分自身を築き上げる」とは、信仰という土台の上に、信仰と矛盾しない生活を建て上げることです。
信じている内容と、その上に築かれた生活とが食い違っていると、土台と上物である家とがねじれた状態です。そのような建物は地震があれば崩壊するように、人生も破綻してしまいます。
さて、教会の中に忍び込んできた不敬虔な人々に対するさばきは、すでに旧約の時代から警告がなされてきました。ユダの手紙は3つの事例をあげて説明しています。
① 荒野で滅ぼされた人々の場合(5)
彼らが荒野で滅びたのは、彼らが最後まで神を信じなかったからです。信じ切れなかった原因は、出エジプトした目的を見失ったからです。
「あなた方が救われたのは神の性質にあずかる者となるため」でした(Ⅱペテロ1・4)。これを忘れてはなりません。この召しと選びを確かにしていれば、過ちに陥ることはなかったのです。
② 天で堕落した御使の場合(6)
彼らが堕落したのは、自分たちの身分をわきまえなかったからです。本来なら、神に仕える天使であるのに、自らも神になろうとしました。
彼らについては、「自分たちの地位(領域)を守らず、自分のおるべき所を捨てた」と指摘されています。私たちは造られた者です。被造者です。被造者である私たちは、創造者である神を礼拝し仕える身分であることを見失ってはなりません。
③ ソドムとゴモラの場合(7)
彼らへのさばきは、肉の欲望のままに動かされたからです。
肉体は悪ではありません。内なる聖霊によって支配を受けるとき、肉体は良いことに用いられますが、肉の欲するままに行動するなら放縦な生活のために肉体は用いられます。
ですから、肉の欲しいままに動かされないためには、聖霊のご支配を受けることです。理性も禁欲主義も賢いもののように見えるだけで、実際は何の役にも立ちません。
不敬虔な人々のことを、聖書は「この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間」だと指摘していますが、御霊(聖霊)を受けていない人々です。
知識や知恵が豊富で人並みはずれた努力家であっても、聖霊によらなければ信じている内容を生活に表すことができません。この聖霊の助けを得て、信じた内容の上に実際の生活を築き上げるのです。
かくして、「最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈る」という冒頭の聖句になるわけです。
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