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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エレミヤ書 16章

2019年01月21日 | ネヘミヤ記
エレミヤ16:11 主は仰せられる、それはあなた方の先祖がわたしを捨てて他の神々に従い、これに仕え、これを拝し、またわたしを捨て、わたしの律法を守らなかったからである。
 
神の御怒りは本気でした。おどしではありませんでした。
 
主がエレミヤに「妻をめとるな。娘や息子を持つな」と命じられたのは、やがて来たらんとするさばきがあまりにも厳しいがゆえに、妻子があることを悔いるようになるからでした(16:1-9)
 
このような厳しいさばきを下さなければならない理由が、11~13節で述べられています。それは、民が「主を捨てたからだ」と言われます。
 
創造主である神に仕えることこそ、被造者としての人間の本分であるにもかかわらず、人間の方から「主を捨てる」などとは……。あり得ないことです。しかし、そのあり得ないことを人間はしているです。
 
「主を捨てる」とは、換言すれば「主の御言を捨てる」ことです。
 
はじめのアダムは、「善悪を知る木から取って食べてはならない」と言われた神の御言を、悪魔の誘惑に負けて捨ててしまいました。アダムは神の御言を捨て、「食べても死なない。神のようになれるのだ」という悪魔の言葉を受けたのです。
 
また、初代イスラエルの王サウルも、主の言葉を捨てた者でした。
 
そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが〝主のことばを捨てた〟ので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた(Ⅰサムエル15:23)
 
この「主の御言を捨てる」という罪は、アダム以来、人類の中に連綿と続いています。
 
私たちはそうであってはなりません。新約時代のクリスチャンは、主の御言そのものであるイエス・キリストを受け入れた者です。その御言は、聖霊によって心の板に書き記されています。
 
私たちの内に住まわれる聖霊なる神の絶対的な助けをいただいて、神の御言をサタンに奪われることがないようにしよう。
 
様々な試練の中で、肉のプライドを捨てなければならないこともあるでしょう。名誉や地位を失うこともあるでしょう。富を捨てなければならないこともあります。しかし、御言だけは捨ててはならないのです。(Ω)