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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

申命記 34章

2024年07月15日 | 申命記
申命記 34章
そして主は彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。
(34・4)


死期が近づいたモーセは、これから入ろうとするカナンの全地を見渡すことのできるピスガの山に登り、そこで冒頭の御言を神より受けました。

モーセは約束の地に入れませんでしたが、自身の役割を完全に果たしました。民をエジプトから導き出し、約束の地の手前まで導く。これが、モーセに課せられた神からの使命でした。

私たちにも、神は、私でなければできない使命をお与えになっています。そのことに「命を使う(使命とはそういう意味)」人生は何と幸いでしょうか。

モーセが約束の地に入らなかったように、自分の代で完成を見ないことがあります。自分の代で成したことは中途半端のようで、何もできなかったかのように感じることもあるでしょう。

でも、神の大きなご計画の中で、私でなければできない働きがあって、神はそんな各自の働きを組み合わせ一曲の交響曲を仕上げるコンダクターのようにして、ご自身の御心という名の作品を完成なさいます。

必要なことは各自の分を心得て、その分に応じて働くことです。

1タラント与えられた者は、少なさに不平を言わずに、また地に埋めたりせずにそれを生かします。また、5タラントを与えられた者には、5タラントの使命があるのです。自分の多さを誇ったり、高慢になってはいけません。私たちの人生は、ちっぽけな自己実現のためにではなく、神の御心の実現のために用いられるのです。

交響曲の中にはたった1回しか出番のない楽器もあれば、随所に音を奏でる楽器もあります。きらびやかな音を出す楽器もあれば、底支えをするような低音楽器もあります。皆が組み合わさって交響曲が完成します。トランペットだけが自己主張しても完成しません。出番が少ないからと、シンバルが演奏を放棄してはなりません。ひょっとして、神の御国の完成のクライマックスに、高らかに響きわたるシンバルの出番があるのかもしれません。

このように、大きな神のご経綸の中ではモーセの活躍も一部分に過ぎません。それをわきまえ、謙虚に従う多くの聖徒たちによって、神の国は完成するのです。

あなたの、あなたでなければならない使命が、あなたによって果たされますように祈ります。


申命記 33章

2024年07月13日 | 申命記
申命記 33章
神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの人々を祝福した
(33・1)


荒野の旅を終えたイスラエルの民は、約束の地カナンに入って行くわけですが、民を教え導いたモーセ自身は入って行くことはできません。モーセとしては複雑な心境であったことでしょう。

しかし、そのような思いを乗り越えて、モーセはイスラエルの民を祝福したのです。神のしもべとしての身分に徹した姿に学ばされます。あなた方の間で上に立つ者は、仕える者になりなさいと言われたイエス様の御言に通じる生き方です。

遺恨ではなく祝福する。うらみがましく生きるのではなく、祝福する。そんなモーセの姿に、仕える者の生き様を見ることができます。

モーセの祝福の祈りは預言の形態をとっています。昔、ヤコブ(イスラエル)が死の間際に12人の息子たちを祝福し祈ったように、モーセも世を去る前に各部族の祝福を祈っています。

その中でシメオン族については言及されていません。後の時代にシメオン族はユダ族の中に吸収される歴史を経るのですが、それを予見しての事なのでしょうか。定かではありません。

ヨセフの子孫に対する預言で興味深い一節があります。様々な賜物によって祝福されるという文脈で、日によって産する尊い賜物、月によって生ずる尊い賜物と述べられています(33・14)

日によって産する尊い賜物はなるほどと思います。「日」とは太陽であって、太陽の光によって植物は繁茂し豊かに実ります。しかし、「月によって生ずる尊い賜物」とは何でしょう。陽の照らない夜にどんな良き賜物があるのでしょうか。

暗い夜ではありますが、その夜の眠りによって元気を回復します。何もできない夜の内に新しい英気を養います。

また、陽の照る昼間は慌ただしく過ごしてしまいますが、何もできない夜だからこそ祈ります。昼間は自分でやっているようでも、祈りなくして物事は進まないことを学ぶ恵みの時間です。

樹木も陽の下で光合成そして養分を生成しますが、夜は休むようにして呼吸をし、大気に酸素を放ちます。夜がなければできないことです。神は、月によって生ずる尊い賜物をも用意なさっているのです。


申命記 32章

2024年07月12日 | 申命記
申命記 32章
愚かな知恵のない民よ、あなた方はこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。
(32・6)


歌には力があります。特に御言を歌にして歌うことは恵み深いことです。私も、御言を賛美のメロデーにして数曲を覚えています。不思議と御言を覚えて、いつの間にか心に残って行きます。

今日の32章は、神に背を向け罪の暗やみの中で悶え苦しむときに備えて、この歌を暗唱せよと言われます。そんな時に、この歌が大切な神の御言を思い起こさせてくれることになるのです。

冒頭にはその一節をあげました。

神に背を向けることは愚かな知恵のない民ですこんなにも愛しておられる神に対して、背信をもって報いるとは、確かに愚かで知恵がありません。

神はどんなお方でしょうか。賛美の歌詞では次のように歌っています。

主はあなたを生み、創り、あなたを堅く立てられた〝あなたの父〟ではないですか」。

神は万物を創造し、私たち人間をも創られたお方です。しかも、神は人を神に似せて神のかたちに創られました。偶然ではなく、意図をもって創られた故に私たちを「堅くお立てになる」のです。

そればかりか、神を父だと表現しています。旧約では珍しいことです。新約に至って、神の御子が来られ、神が本当の父であることを啓示なさるまでは、人々は神を父と呼ぶことができませんでした。みな、神を恐れながら、神のしもべとして従う者でした。

厳しい主人に仕えるしもべの感覚なので、神の御怒りが臨むと、「ああ自分は神から見離された。神から呪われている」と感じたことでしょう。しかし、神は、私たちの父です。私を生み、私を創り、私を堅く立てられた「私の父」です。

父であるなら、神は決して私をお見捨てにならないのです。父だからこそ、どんなに神がお怒りになったとしても、そこに父の愛を感じるのです。

試練の時、神が父であることを思い起こしてください。愛する子を訓練なさる本当の父であることを思い起こしてください。32章の歌をイスラエルの民が歌って思い起こしたように……。


申命記 31章

2024年07月11日 | 申命記
申命記 31章
その時、この民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。
(31・16)


主なる神は、イスラエルの民が偶像礼拝に染まってしまうことを予告なさっています。さらに、わたしはあなたの背くことと、頑ななこととを知っているとも言われるのです(31・27)

主イエス様も、弟子のペテロに、今夜あなたは、わたしを知らないと三度言うだろうと予告なさいました。私が弱い者であることをご存知の上で、神はあえて私を選び導いておられるのです。

裏切ってしまうこと自体は残念ですが、そのことをも想定内で、そんな私を愛しておられる神の恵みの深さに驚きます。

ですから、自分の不信仰に今さらながら嘆くのはやめよう。神は、あなたが不信仰であるのもご存知なのですから。むしろ、そんな私さえも愛される神の愛の高さ、深さ、広さ、長さを賛美すべきです。

背信することを百も承知で、神はイスラエルを愛されました。愛されているからこそ、失敗のどん底にも救いの道を用意なさっています。悔い改めという道を用意なさっています。

悔い改めて立ち直ったら、あなたの兄弟たちを励ましてあげなさいと、ペテロに言われたように、神は、イスラエルの民にも次のように言われます。

彼らが他の神々に帰して、諸々の悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。それであなた方は今この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証しとならせなさい。(31・18~19)

試練のどん底の中で、この歌を思い出せと言われるのです。そして、立ち帰る道を見出すように、その歌を覚えておきなさいと。次の32章は、その歌です。


申命記 30章

2024年07月10日 | 申命記
申命記 30章
たといあなたが天の果てに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。
(30・4)


神は、イスラエルの民に祝福と呪いを選ぶ自由をお与えになりました。祝福を選ぶ自由もあれば、滅びを選ぶ自由もあります。しかし、自由とは危険なものです。むしろ、自由を禁止して、祝福しか選ぶことができないように制限する方が安全です。

ですから、自由とは楽なことではありません。自由とは、責任を負うことであり、重荷を負うことです。しかし、そのような自由があるので、人としての人格があり尊厳があります。

逆に、人間から自由を奪うなら、人格のないロボットになってしまいます。

神は、あえて祝福と呪いを置いて、人にそれを選ぶ自由をお与えになりました。もちろん、神は祝福を取れと命じておられます。自身の信仰の意志によって祝福を選ぶ者に、神は喜んで祝福をお与えになるのです。ですから、わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならないと言われるのです(30・19)

そのようなわけで、イスラエルの民は自動的に、祝福を受けるようになっていませんから、彼らが罪の誘惑に負けて、呪いを選び取ることもあります。その結果、神の約束通り、他国に追いやられ苦難の歴史を歩むこともあり得ることです。

でも、哀れみ深い神は、なおも道を用意なさっています。それは悔い改めという道です。悔い改めて、神を愛し、神を礼拝する道に立ち帰るなら、今日の冒頭の聖句のように、神は民を祝福の中に連れ戻されるのです。

イスラエルは神の約束の民です。神の御言が本当であることを証明するための「生き証人」として用いられている民です。イスラエルはかつてバビロンに滅ぼされ、その捕囚となり、民族滅亡の危機を味わいました。しかし、神は、バビロンの地から彼らを約束の地に戻されました。

その後、再び、今まで以上の苦難を受けました。ローマ軍によって完膚無きまでに滅ぼされ、イスラエル(ユダヤ人)は離散の民となりました。

主は地のこの果てから、かの果てまでの諸々の民のうちにあなた方を散らされるであろう。その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。(28・64~67)

神の御言の通りに苦難を受けました。しかし、祝福の約束もまた御言通りになりました。1948年にイスラエルの国が再び興され、文字通り世界中から散らされた民が帰還して現在に至っています。

神の御言の真実に驚愕します。

神の御言は絵空事に思えるでしょうか。自分とは無関係な遠くにある御言でしょうか。主は言われます。わたしが、今日、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない(30・11)

むしろ、身近な御言であり、私たちは神の約束を日々口に告白し、心に留めるのです。この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができるのです(30・14)

どんな困難の中を歩もうとも、神の御言を最も近くに持ち、その実現することを信じ続けよう。


申命記 29章

2024年07月09日 | 申命記
申命記 29章
またあなた方の内に、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。
(29・18)


冒頭の聖句は、文字通りの毒草や苦よもぎを栽培してはならないという意味ではありません。文脈は、主なる神以外の神々に仕えてはならないという命令の中で語られています。

まず、神がイスラエルの民をエジプトから導き出された目的を確認しておきましょう。エジプト……それは偶像に満ちた国でした。そんな神ならぬ偶像の国から導き出して、まことの神礼拝に生きる民を得るために、神はイスラエルを選ばれました。

神の意図は、まことの礼拝者を得ることです。まことの礼拝者による世界を完成させることにあります。この意図を無視して聖書を読み解くことは、誤解やつまずきを生じます。聖書は「神中心」の書物です。

さて、神を中心とするまことの礼拝者なる国に、偶像礼拝は相容れないのは当然のことです。

ですから、神は人々に、あなた方の内に、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならないと言われます(29・18)

それに続いて冒頭の聖句です。またあなた方の内に、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならないのです。ですから、毒草とか苦よもぎを生じる根とは、偶像礼拝の根のことを指摘しています。それを根本から取り除けという意味です。これが、神の御国で最も重要なことです。

聖書がくり返し、耳にたこができるほどに戒めているのは、「偶像礼拝の禁止」「異なる神々を礼拝してはならない」ということです。

イスラエルの民はその命令に従って偶像を取り除き、まことの神への礼拝を追及しました。しかし、度々の宗教改革をするも、高き所は取り除かなかったという記録が随所にあります。

「高き所」とは偶像礼拝に使用される所です。見晴らしが良く、天に近く感じるので、神に祈るには最適な立地条件に思えます。でも、それを温存することで、やがて偶像礼拝に傾斜していったのです。

まさに禍根を残したのです。

人間同志の罪も問題ですが、それ以上に神が厳しく禁じておられるのが、異なる神々への礼拝です。それは、神の聖なる秩序を根本的に破壊する罪だからです。この根は、決して残しておいてはなりません。

新約にいたって、神は、イエス・キリストを信じる者たちに聖霊を賜って、御霊の火をもって、この偶像礼拝の根を焼きつくされます。


申命記 28章

2024年07月08日 | 申命記
申命記 28章
あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。
(28・6)


この28章では前半が祝福について、そして後半が呪いについて語られています。その条件とは何か。

もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば(28・1)です。

祝福の内容は、「物質的豊かさ」「外敵への勝利」として描かれています。かたや呪いの内容は、その逆です。異邦人に攻め滅ぼされ、連れ去られ、苦渋を味わうことになると。実際に、後のイスラエルはバビロン捕囚という形でこの呪いを味わいました。

旧約の時代、神は、祝福と呪いを分かりやすく啓示されました。要するに、物質的な豊かさであり地上の繁栄です。

ただ、このことは、そのまま新約の時代に適用するには注意深くなければなりません。

つまり、イエス様を信じているのに、経済的な困窮があるのは、祝福されていないのだ。問題やトラブルに見舞われるのは、呪われているのだ。そう考えるのは、新約的に正しくありません。

旧約では物質的な繁栄と衰退によって祝福と呪いを表現しましたが、新約では霊的な豊かさをもってそれを表します。基本的にはそのように考えるべきでしょう。

イエス様は何といわれたでしょうか。豊作で一生分の収穫のあった農夫が、それを収める倉を何基も建てて安心していると、その者は愚か者だ。今宵お前のいのちは取り去られるのだ、と語られました。

旧約的にはこの農夫は祝福されたのです。しかし、イエス様はその男を「愚か者」と言われました。そして、自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じであると言われたのです(ルカ12・21)

つまり、物質的な豊かさではなく、霊的な豊かさこそ本当の祝福であることを教えられたのです。

また、生まれつき盲人であった男の前で、人々は、彼が盲人であるのは、彼自身が罪をおかしたからか。それとも先祖が罪をおかしたからなのかと問いました。つまり、彼が盲人であるのは罪の呪いだと考えたのです。旧約的にはそう判断されるのです。

しかし、イエスの答えは違いました。

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネ9・3)

旧約では、それは呪いとされたことだが、それは祝福になるのだと言われたのです。文字通り目が見えるような形で祝福があらわれることもあれば、盲目のままでも、神の働きに用いられるケースが沢山あります。新約の時代の祝福は、物質的な豊かさで計測できないのです。

あなたが神の御前で富んでいることこそ祝福なのです。忌憚なく神の御前に出て、なぐさめを受け、神との親しい交わりをもつことのできる豊かさこそ、本当の祝福なのです。

「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべて呪われる』と書いてある」(ガラテヤ3・13)。このイエス・キリストを信じないことこそ、本当の呪いとなります。物質的には豊かでも、イエス・キリストを拒絶した人生に、いったいどれほどの豊かさがあるというのでしょうか。


申命記 27章

2024年07月06日 | 申命記
申命記 27章
あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない。
(27・8)


約束の地に入ってまず最初になすべきことは、大石によって祭壇を築き、その石に律法の言葉を書き記すことです。祭壇というのは、神に祈りをささげる場所のことです。まだ、正式な神殿が建造されていないのでそうしました。

祭壇の大石は天然石のままを使うように命じられていますが、鉄器で細工などをして偶像を刻んだりするのを避けるためでしょう(27・5~6)

その祭壇の石にしっくい(石灰)を塗って、そこに律法の言葉を書き記しました。しっくいを塗るのは、律法の記録が消えないための工夫です。

旧約聖書の民は御言を消さないために、このように工夫したのです。祭壇で祈る度に、そこに記録された神の御言(律法)を読みました。このような積み重ねがなければ、私たちは神の御言を容易に忘れてしまうでしょう。

今や私たちは、御霊なる神が、私たちの心の板に御言を書き記してくださる時代に生きています。毎朝、祈りの祭壇をささげつつ、今日も御言をわが心に書き記してくださいと祈ります。

 


申命記 26章

2024年07月05日 | 申命記
申命記 26章
あなたの神、主が賜わる国にできる、地のすべての実の初物を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる所へ携えて行かなければならない。
(26・2)


「初物」は神へのささげ物だと命じています。日本では初物は縁起物として珍重され、縁起を担いでその御利益に与ろうとします。しかし、聖書では初物は神へのささげ物として記されています。

始めのものは、どんなものであれ、神のものであるという考え方です。なぜなら、〝始め〟は神から来るからです。

始めに言があったのであり(ヨハネ1・1)始めに神は天と地を創造されました(創世記1・1)。また、イエス・キリストは死んで復活なさって、復活の始めになられました。愛の始まりも神からです。

「始め」ということに、神を意識し、神を礼拝するのです。私たちが毎週ささげる礼拝も、週のはじめであることは意義深いことです。一週の始めを神のものとしてささげる。これを人生の基本とすることは幸いです。

さて、その初物を献げるときの祈りの文言が記録されています。

その内容は、自分たちは神から召された民であり、奴隷の地エジプトから救い出され、この豊かな地を受け継ぐ者になった。この感謝をささげます……という内容です(26・3~10)

このように祈れ!と命じられることで、自分たちが何者であるのかを忘れないようにと、神は配慮なさっています。地の収穫があり、豊かになって行くと、神への感謝を忘れてしまい、何の目的で今があるのかを忘れてしまうのが、人の愚かさです。

新約に至って、主イエスは、主の祈りを祈るように命じられました。これもまた、自分たちの信仰の基礎となるものです。

祈りというと、日常的な願い事をすることだと思ってしまいます。そして、その願い事のほとんどは、自分の都合の良いことが起きますようにという、自分中心、人間中心の願い事です。

でも、主の祈りは、神の名があがめられ、神の御国が完成し、神の御心が成るようにと祈ります。自分のためには、一日分の食物と、罪と誘惑から救われるようにという願いだけです。

ここに、人間のあるべき姿。神が目指しておられる姿が見えてきます。主の祈りを祈る度に、軌道修正されるわけです。神の命じられる祈りをささげよう。


申命記 25章

2024年07月04日 | 申命記
申命記 25章
あなたの袋に大小二種の重り石を入れておいてはならない。あなたの家に大小二種のますをおいてはならない。
(25・13~14)


神の配慮に満ちた律法は続きます。正しい裁きをなすように命じつつも、罪人が受ける刑罰である鞭打ちは40回を越えてはならない。それ以上打つことは、必要以上のはずかしめを受ける事になるからです(25・1~3)。人は感情にまかせて、余計に打ってしまうものです。行き過ぎた刑罰を禁じています。

次に、脱穀する牛にくつこを掛けてはならない(4)。「口籠」とは文字の如く、牛が穀物を食べないように、口を塞ぐ道具です。牛も働いているわけですから、収穫の分け前を食べさせてやれというのです。家畜である牛にさえ配慮なさる神は、私たちにも、それ以上に配慮してくださるのです。
 
次に、子を授かることなく夫が死亡した婦人は、その夫の兄弟が彼女をめとって子を授かるようにと命じています。第一に、亡き兄弟の名を残すためであり、第二に、未亡人という弱い立場にある兄弟の妻に対する配慮です(5~10)

そして、冒頭の聖句が命じるように、あなたの袋に大小二種の重り石を入れておいてはならない。あなたの家に大小二種のますをおいてはならないといわれます。

重り石とは、天秤で重さを量るときの基準として使います。大小ふたつあるとは、ごまかすためのものです。大小ふたつの升もおなじです。ふたつの基準を自分の都合に合わせて使い分けます。こんなごまかしの商売をやってはいけません。

商売上のことだけでなく、日常生活でも同じです。あっちではこう言うが、こっちでは違うことを言う。これは大小異なるふたつの重り石を持っている人です。ある人には重箱の隅を突くように責めるくせに、別な人には寛容な態度を取る。これは、大小異なるふたつの升を持つ人のことです。

ひとつの尺度を持つべきです。できれば、その尺度は神の基準にそった尺度であることが望ましいことです。そうでないと、私たちは、自分の目には大きな梁があるのに、他人の目にある塵を指摘し、責める者になってしまうからです。

調べてみよう。私の袋には大小二種類の重り石が入っていないだろうか……と。


申命記 23章

2024年07月02日 | 申命記
申命記 23章
主の会衆に加わってはならない。
(23・1)


神の厳しい命令です。次の者は主の会衆に加わってはならないといわれています。つまり、正式なイスラエルと見なされない。あるいは、神殿にて礼拝することがゆるされないという意味です。

その人々とは、去勢した男子(睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者)。私生児(不倫の子、あるいは混血児)。そして、アンモン人とモアブ人です。

どうか、このことで神につまずかないでください。神は、聖なるものと汚れたものとを区別なさるお方ですが、これは旧約の時代の記述です。去勢した男子は神殿男娼、神殿娼婦といった忌み嫌う異教の習慣に基づくものでした。

しかし、新約になって、あのエチオピアの宦官(去勢された男子で役人であった)は、ピリポを通してイエス様を信じるに至りました。また、どこの誰とも分からない私生児のような私が、イエスを信じて神の子どもとなる特権を受けました(ヨハネ1・12)

今や、私たちは、天の父から訓練を受ける存在にさえなっています。それは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。もし、訓練を受けないのであれば、それこそ私生児であって、本当の子ではないのです(ヘブル12・7~8)

主の会衆に加わることを禁じられたモアブ人ですが、そのモアブの女性ルツは、姑ナオミによってイスラエルの神を信じ、ボアズの妻となり、イエス・キリスト誕生の系図に加えられるに至りました。

神の聖なる区別は厳しいものでありますが、同時に、恵み深い神であられることを忘れてはなりません。


申命記 24章

2024年07月02日 | 申命記
申命記 24章
あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。
(24・22)


日本の法律が日本の義を表しているように、神の律法は、天の御国の義を表しています。

とは正しさの水準のことです。地上の国では、まぁそれくらいで良いか~という水準でも、天の御国では「姦淫してはならない」「盗んではならない」といった水準があるわけです。その天国の義の水準は、律法に表されています。

ですから、きよさに関しても厳しいものがあります。それが天国の水準であり、義なのです。しかし、あわれみとか配慮においても、天国の水準があります。神は義なるお方ですが、同時にあわれみ深いお方でもあります。そんな神の配慮が律法に表れています。

離婚問題に関しては離縁状を渡せと命じられています。この離縁状があることで、離縁した婦人は正式に再婚できることになります。離縁後の道を用意することで、弱い立場にある離婚後の女性を保護せよという意味です(24・1~4)

次に、新婚の男子は徴兵してはならない(5)。貧しい人に金銭を貸す場合は、生活の必需品を質にとってはならない(6~13)。上着を質に取った場合は、夜には一旦返せと命じているのは、冷え込む夜は上着が布団代わりだからです。

貧しい人の労働賃金は日払いにせよ(14~15)。その日の糧にも困るような人々には、速やかに賃金が支払われるようにという配慮でした。

裁判においては、他国人であろうと孤児であろうと正しく裁かなければならない(17~18)。天の御国の義はえこひいきをしません。目先の損得に左右されません。自国民や裕福な者に有利な裁きをしがちな裁判に対する警告です。

さらに、田畑の収穫において、落ち穂や刈り残した穀物は、そのままにしておけ(19~22)。貧しい人々のために残しておけとの命令です。神の恵みは落ち穂や残りものにも現れています。貧しい者や弱い者を、見捨てないのが、天の御国の水準です。

神は義なるお方ですから厳しい一面がありますが、しかし、あわれみ深く配慮と愛の神でもあられます。そのような生き方が、天に国籍のある神の民の水準です。すなわち神の義です。

ところが、その哀れみに欠けるのは、過去の自分がどんな者であったかを忘れるからです。ですから、あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならないと戒めています。

新約の時代の私たちも忘れてはならないことがあ ります。それは、かつては、この世の君(悪魔)の支配下にあって、罪の奴隷であったことです。しかし、神は哀れみによって、私の罪をゆるし、罪の奴隷であるエジプトの地から導き出されたのです。

かつての自分はどんな者であったか。もし、イエス・キリストに出会っていなかったら、自分はどんな生き方をしていたことか。そのことを思い出したり、想像をふくらませる必要があります。


申命記 22章

2024年07月01日 | 申命記
申命記 22章
それを見捨てておいてはならない。
(22・1)


日常生活の細かな規範が記されています。その特徴は配慮区別です。

冒頭の聖句は、迷っている羊や牛などの家畜を見つけたら、それを見捨てておいてはならない。それを、持ち主のところに連れ帰れと命じています。

持ち主はきっと探しているだろうな。途方に暮れているかもしれないな。そんな、他者の身になって想像する心を教えています。

この心は神の心を啓示しています。イエスは、救い主を知らない人々を、「迷い出た羊」だと言い、また、「失われた者を探し出すために来た」とも言われました。神からすれば〝失われた者〟を見て、それを見捨てておいてはならないというのです。

「見捨てておいてはならない」は、新改訳では知らぬふりをしてはならないと翻訳しています。

人生の目的も喜びも知らずに、罪の中をさまよっている人々を見て、私たちは知らないふりをしてはならない」。本来の所有者、創り主である神の御もとに返さなければなりません。


申命記 21章

2024年06月29日 | 申命記
申命記 21章
木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。
(21・23)


神は、約束の地に神の聖なる御国を完成させようと、イスラエルを導かれたのですが、21章には神の御心を踏みにじる身勝手な罪人が列挙されています。

目撃者のない殺人事件。その結果、罰を受けずに逃走する身勝手な犯人。また、外国人捕虜の中から外見上の美しさで妻にするも愛情が冷めて離縁する身勝手な男。ふたりの妻があり、嫌いな妻が長子を生んだにもかかわらず、その子に長子の権を与えない身勝手な父親。逆に、親に感謝もせず放蕩三昧する身勝手な息子などです。

罪に対してなされる処罰は厳しいものがありますが、神が目指しておられるのは、あなた方の内から悪を除き去ることです(21・21)。そうするのはあなたの神、主が嗣業として賜る地を汚してならないためです(21・23)。罪が地に蔓延することは、地を汚すことだと、主はご覧になるからです。

ですから、犯罪者を地上から〝離して〟木に掛ける刑罰は最も呪われた者に対する刑罰とされました。冒頭の聖句が示すように、木に掛けられた者は神に呪われた者とされたのです。

イエス・キリストは、十字架という木に掛けられて死なれました。最も呪われた者となって死なれました。それは、全人類の罪を身に引き受けて死なれたゆえに、最も呪われた方法で死なれたのです。

そうなさったのは、キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いからあがない出して下さった。聖書に、木にかけられる者は、すべてのろわれると書いてあるからです(ガラ3・13)

本来なら私が受けるべき呪いを、イエスが引き受けてくれました。ですから、イエスを信じる者に、もはや呪いはありません。何か悪いことが起こっても、この御言を思い出してください。〝イエス・キリストは私たちのために呪いとなって死なれたのです。


申命記 20章

2024年06月28日 | 申命記
申命記 20章
あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。
(20・1)


イスラエルがこれからカナンの地で立ち向かう相手は、みな自分たちより大きく強い民たちばかりです。しかし、それを見て恐れるな、怯んではならないと命じられました。

そうは言われても、現実に武装した軍隊、近代的な兵器を前にして恐れない者はいません。一方、自分たちといえば、荒野を旅してきた民ですから、充分な軍事訓練も兵器もありません。

でも、ひとつだけ違うことがあります。全能の神である主が共におられることです。

私たちの人生においても、見えるところによれば恐れをいだかせる要因が山積です。しかし、見えないところにも目を注ぎます。そこには、共におられる神、イエス・キリストがおられます。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続きます。見えない世界ではありますが、しかし、それは肉眼で見えないだけであって、確かに生き、働いておられる神の世界です。

「恐れるな」と命じておられる神ではありますが、それでも恐れてしまう者は、無理をせずに帰れといわれます。恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから(20・8 新改訳)

全員が同じように戦えるわけではありません。だから神は弱気の者にも配慮なさいます。皆が信仰にあついわけではありません。皆が勇敢なのでもありません。恐れ弱気な仲間を批判することなく、でも、主の闘いは進みます。

さて、イスラエルの闘いは有無を言わさず敵を滅ぼしたのではありません。戦闘の前に降伏を勧めました。聖絶が強引になされたのではありません。ひとつの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならないと言われているのです(20・10)

新約では武力による戦闘ではなく、霊的な闘いです。そして、神の和解の福音を伝えます。いわば、神の御前に和解し降服するように勧めるわけです。この和解案を受け入れる人は、自分が罪人であることを認め、神の正しい裁きの前に降服するのです。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさいと言われているとおりです(Ⅱコリ5・20)