詩篇131:1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇(くす)しいことに、私は深入りしません。(新改訳)
信仰とは、幼な子が親を信頼するのに似ています。
今日の詩篇でも、詩人は、「まことに私は、自分の魂を和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私の魂は乳離れした子のように御前におります」と告白しています。
乳離れした程度の子ですから、自分でも動き出します。でも、何かあれば、いつでも母のふところに飛び込んで来ます。逆をいえば、「母のふところ」という安全な場所があるので、幼な子は大胆なのです。
抱っこしてもらっている幼な子は、身を乗り出したり、ぶら下がったり平気でします。親の手から落ちたらどうしようか等と心配していません。親の手をまったく信頼しています。
神に信頼するのもこれと同じです。神は私を絶対にお見捨てにならないという信頼があるので、私たちは大胆に生きることができます。
でも、大切なことがあります。親に養われている幼な子である自分を忘れて、自分を誇ったり、高ぶったりしてはならないということです。冒頭の聖句はそのことの告白です。
「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」。自分は神なしに何でも出来ると思い上がりません。そのような高ぶりがあると、「及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入り」してしまうのです。
悩みすぎる人がいます。人間だれしも悩みはつきものですが、悩み“すぎる”ことは問題です。なぜ悩んでいますか。自分には出来ないから悩んでいます。つまり、「及びもつかない大きなこと」を悩んでいるのです。
悩んでいる人からはお叱りを受けるかも知れませんが、真面目に悩んでいるようですが、それは神がご覧になるに高慢です。
幼な子が父親の稼ぎが少ないことで悩んでいたら、それは高慢な子どもです。稼ぐことは親の仕事(領域)です。それと同じように、自分に出来ない領域……つまり、神がなさる領域のことまでしゃしゃり出て悩むのは、神の子どもとして高慢です。
幼な子のようになりましょう。幼な子が母のふところで安らであるように、神を信頼しましょう。主イエスも言われたではありませんか。信仰は幼な子のようでなければならないと。(Ω)
詩篇130:8 主はイスラエルを、その諸々の不義から贖われます。
詩人は、「主よ、私は深い淵(ふち)からあなたに呼ばわる」と述べているように、「深い淵」に居ます(130:1)。「淵」とは、水の溜まったくぼみです。しかもそれは深いのです。
深い淵は、浮き上がろうともがいても、ますます沈むばかりです。新共同訳では「深い淵の“底から”」と訳していますが、この詩人の立場が絶望的であったことをあらわしています。
彼がおかれている状況は、詩人の個人的な苦境ではなく、イスラエルの民全体が抱えている「絶望的な淵」であったようです。そして、その原因は、民の深い罪にあることを、次のように告白しています。
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」(130:3)。
不義とは罪のことです。まさに罪をおかせば犯すほど、底なし沼のような「深い淵」となって行きます。この詩篇の祈りは、罪のどん底からの叫びです。だれがこの罪の奴隷から救ってくれようか。
しかし、彼は絶望しません。唯一の望み……それは、諸々の不義から贖われる「主」です。
宗教改革をしたルターが、この詩篇をこよなく愛したと伝えられていますが、なるほどと思います。どんなに熱心に修道生活をしても、罪の深みから救われることが出来ずに、彼も「深い淵」から叫びました。そして、ついに、諸々の不義を贖われる主イエスに出会ったのです。
順調な時にキリストに出会うことは、少し難しいかも知れません。有頂天になっていて、キリストがおられても気づかずに素通りしてしまうからです。深い淵を体験している者こそ、キリストに出会います。救いを求めるからです。
自分が罪人であることを認めない人は、神に不平を言います。どうして、こんなどん底を味わわせるのですか……と。しかし、神の御前に深く悔いた魂は、神の赦(ゆる)しに期待するのです
すべての不義から贖われる主に祈ろう。主は、深い淵から救い出すお方です。(Ω)
詩篇129:2 彼らは私の若い時から、ひどく私を悩ました。しかし私に勝つことができなかった。
ここでいう「私」とは、詩人のことであり、また、詩人によって代表されるイスラエル民族のことです。そして、「彼ら」とは、イスラエル民族を悩まし苦しめた諸民族のことです。
「彼らは私の“若い時”から、ひどく私を悩ました」とあるのは、イスラエルが民族として形成された頃のことであり、エジプトで奴隷であった時代の頃からのことでしょう。
確かに、イスラエル民族の歴史は、「若い時からひどく悩まされた」歩みでした。「耕す者は私の背の上を耕して、その畝(うね)みぞを長くした」(129:3)とあるように、イスラエルは諸民族から攻撃を受け、支配を受け、田を耕すようにして戦乱に巻き込まれた歴史をたどってきました。
イスラエル民族ほど苦悩を味わった民は、他にいないと思います。もちろん、彼らが受けた祝福も大きなものでしたが、それに比例して、苦難も半端ではありませんでした。
彼らは、神の御言に従うべく民として召されたがために、多くの苦難を通過しなければなりませんでした。
神の御言に従ってエジプトを出たいと申し出たら、パロからは、「イスラエルは怠け者だ」と揶揄(やゆ)され、さらなる重労働が課せられたことがありました。
また、ようやく出エジプトを果たしたものの、行く手を紅海にはばまれ、絶体絶命を味わいもしました。
約束の地を受け継げとの神の御言に従うために、彼らはシナイの荒野では食物と水で苦労し、ヨルダン川をわたってからは、異民族に苦しめられ、異教の影響の中で惨めな堕落も味わいました。
実に、信仰生活にはこのような戦いがあるのです。世俗の価値観で、世俗の習慣で、世俗と同じ感覚で暮らすのであれば、こんな戦いはありません。
ところが、御言に従って生きるとは、この世にありながら、天国の価値観で生きようとするので戦いがあり、悩みがあります。しかし、今日の詩篇が告白しているように、「しかし私に勝つことができなかった」のです(129:2)。
そうです。この戦いは主イエスもご存知です。「あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と主イエスは宣言なさいました(ヨハネ16:33)。
どんな苦難があっても、敵は私たちに勝つことは出来ません。せいぜい肉体のいのちを奪うだけです。すでに「永遠の死」に対して完全に勝利された主イエスのあとに続こう。(Ω)
詩篇128:1 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
この詩篇では、「主をおそれる」というテーマが述べられています。1節で述べ、さらに4節でも「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける」と述べられています。
先の詩篇(111:10)では、「主をおそれる」とは、聖なるお方に近づくことを通して、自分の罪深さを知ることだと確認しました。つまり、単なる「恐怖」という感情を超えています。
「主をおそれる」とは、聖なるお方と罪人である自分との立場を「わきまえる」ことです。また、創り主である神と、造られた側の自分との立場を「わきまえる」ことでもあります。
この「わきまえ」を失った者がサタン(悪魔)です。主をおそれて、悪魔のようにならないこと……そのような者は幸いです。祝福です。
さて、旧約の時代には「主をおそれる」ことが強調されるあまり、神は近寄りがたい存在になってしまいましたが、新約の時代になって、神の方から近づいてくださいました。
イエス・キリストは罪人の中に来られ、われらと共に食事をし、語らい、私たちの罪を背負ってくださいました。
このように、神の方から近づいてくださったので、私たちは「主をおそれる」ことを土台にして、さらに「主を愛する」生き方へと導かれるようになりました。
「主をおそれる」ことを抜きにした「主を愛する」は、なんだかお友だち感覚のような気がします。旧約の「主をおそれる」という根っ子があって、「主を愛する」という花が咲くのです。
主をおそれ、主を愛する者に祝福がありますように祈ります。(Ω)
詩篇127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
教会ではよく「主にゆだねる」という言い方をします。それは神に任せることですが、自分は何もしないこととイコールではありません。とはいえ、自分で頑張って何でも出来るかといえば、そうでもありません。
今日の御言は何と言っていますか。「主が家を建ててくださる」というのです。そうでなければむなしいのだと。では、人間は勤労しなくても主が建ててくださるかといえば、そんな事はありません。実際には人間の勤労で家を建てます。
「主が町を守ってくださる」とも言っています。では、人間は無防備で何もしなくてもよいかといえば、そんなことはありません。やはり、町を守るために警備します。
人間は家を建てるために勤労します。しかし、その根底には、私の勤労を通して、主が建ててくださっていることを忘れたら、その勤労はむなしいのです。
私たちは職場に行って働きます。自分が働いていますが、その働くいのちは神が下さっています。体温の36度は、神が維持してくださっています。
私が働いているようですが、私を用いて、神が働かれることを知ることは何と幸いなことでしょうか。
単に自分が稼いで、食って生きるだけの人生はむなしいですが、私の働きを通して、神の祝福を周りに分かち合うことが出来るようにと、主が働いてくださっていると知るなら、何とその勤労は祝福された勤労でしょうか。
自分が、自分の働きだけで何かをしていると思い上がってはなりません。何故なら、「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」(127:2)。
自分は眠っているとき何も出来ません。でも、主は、私が眠っている間も働いてくださり、疲れをいやし、眠っている間だけでも悩みを忘れさせてくださり、明日への英気を養ってくださっています。
目が覚めれば、また悩みを抱えますが、しかし、眠っている間に主が働いてくださり、忘れさせてくださったので、今日一日分の苦労をになうことが出来るようにしてくださいます。
自分が頑張っているという気負いを捨てましょう。肩の力を抜いて、主がもっと多くの働きをなさっていることを信頼してください。
多くのクリスチャンと教会を生みだしたパウロもこう告白しています。
「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは神である。だから、植える者も水を注ぐ者も、共に取るに足りない。大事なのは、成長させてくださる神である」(Ⅰコリント3:7)。
農夫は苗を植え水を注ぎます。その勤労は大変なことですが、農夫が出来ることはそこまでです。彼が眠っている間も、神は働かれて成長させてくださいます。
もちろん、全部、神まかせで、人間は何もしなくてよいわけではありません。自分も頑張ります。努力します。工夫もします。しかし、自分の頑張り以上に、神の働きはもっと大きいことに期待することは、何とすばらしいことでしょうか。
仕事以外にもスポーツとか勉強でも同じことです。自分の頑張りによる自分の栄光ではなく、神の働きによる神の栄光こそ賛美されるべきことです。
クリスチャンは努力しない人ではありません。神から智恵をいただいて工夫します。祈りつつ努力もします。しかし、それ以上に働かれる神の勤労を知っているのです。
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」ことを知って努力するのが、クリスチャンの勤労です。(Ω)
詩篇126:5-6 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携(たずさ)え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
「主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった」とあるように(126:1)、これは、バビロン捕囚の民が解放されて、エルサレムに戻ってきたときの喜びの賛美です。
イスラエル民族は奴隷からの解放を経験する民族です。かつては、エジプトで奴隷でした。しかし、神が遣わされたモーセによって、出エジプトしました。
また、バビロン捕囚によって彼らは奴隷となりました。しかしこの時も、神はペルシャの王クロスを用いて奴隷解放をなし、彼らはエルサレムに戻ってきたのです。
それは、人間の成せるわざではないことは明白でした。あまりにも不思議で、あまりにも劇的な展開だけに、人々は夢を見ているようだと歌いました。
「その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時、『主は彼らのために大いなる事をなされた』と言った者が、もろもろの国民の中にあった」(126:2)。
バビロンでの捕囚の生活は、いかに苦労なことだったでしょうか。沢山の苦労を味わった分、解放されたときの喜びは大きいものです。
イスラエルの民はバビロンで捕囚となっている期間、多くの悔い改めを祈ったことでしょう。来る日も来る日も涙で祈り、かつての偶像礼拝の罪を悔い改めました。
しかし、ついに、神はゆるしを与え、エルサレムに戻されました。「多くゆるされた者は多く愛するのだ」と言われた主イエスの御言の通り、彼らは神を愛する心で満たされていました。
罪をおかすことは悲しいことです。失敗や挫折は、だれだってしたくありません。しかし、その悲しみは、やがて神からのゆるしを得て、神を多く愛するための道です。
民がこのような大きな喜びの収穫を得られたのは、悔い改めというつらい道を通ったらかです。
喜びの収穫は、「棚からぼたもち」式に得られるものではありません。どんなにつらい時にも、種をまき続けた結果です。この詩篇を歌った詩人は、バビロンという試練の中で、「悔い改めの祈り」という種をまき続けたのです。
ともすれば、私たちはつらい時期にヤケを起こしてしまいます。どうして自分だけが……とか、どうしてこんな事に……とか。くさってしまって、種まきを忘れてしまいます。
「くさる」のは、いのちがないからです。動物もいのちを失った時点から腐り始めます。花も野菜も、切り取られた時点から腐りがスタートします。私たち人間も同じです。主イエスから離れた時から、くさりはじめます。
ですから、どんなにつらいときでも、主イエスにつながり続けてください。つながっている以上は、いのちの流れがあります。いのちがあれば、必ず収穫の時は来るものです。
では、どうやってイエスにつながるのでしょうか。それは、御言の種を我が霊魂にまき続けることによってです。種をまかなければいのちは芽生えてきません。御言の種まきをしよう。
試練の時こそ、御言の種まきをするチャンスです。なぜなら、試練は私たちの心の畑が耕される時だからです。反省したり、悔い改めることによって、人の心は耕され、柔らかくされ、種まきの環境が整います。
ですから、試練の時、心をかたくなにしないで下さい。かたくなな心では種がまかれても、いのちが芽吹かないからです。
また、どんなに悔しい思いをしたときでも、「ゆるしの種まき」と「祝福の種まき」をしましょう。あんな奴は絶対にゆるしたくないと思うときに祝福するなど、とんでもないことです。
でも、「涙をもって種まく者が、喜びの声をもって刈り取ることになる」ことを忘れないでください。
試練の時、どんな種まきをしますか?。憎しみの種まきをしますか。それとも「ゆるし」の種をまきますか。恨みの種まきをしますか。それとも「祝福」の種をまきますか。
憎しみや恨みの種をまくこととは、陰湿な喜びがあります。しかし、ゆるしや祝福の種をまくことは、嫌だし、悔しいし、つらいです。でも、その涙をもって種をまくからこそ、喜びの刈り取りがあるのです。
さあ、御言の種をまこう。ゆるしと祝福の種まきをしよう。(Ω)
詩篇125:1 主に信頼する者は、動かされることなく、とこしえにあるシオンの山のようである。
私たちの心は環境によって動かされることが多いものです。しかし、今日の御言は、「主に信頼する者」は動かされることがない」と教えています。
人は依存している対象によって動かされるものです。
経済に依存している人は、景気の良し悪しによって、その心は上下に激しく変動します。仲間や職場の上司などの「人」に依存しているなら、その人々の機嫌の良し悪しによって、心の平安を得たり、失ったりするでしょう。
しかし、私たちの主は、変わらないお方です。「あなたはわたしの目には高価で尊い」と言われた主は、その愛を貫かれるお方です。
「夫たる者よ、キリストが教会を愛してご自分のいのちをささげられたように、自分の妻を愛せよ」とお命じになった神は、有言実行の神です。花嫁なる教会である私たちに対する愛を貫かれます。
このように、昨日も今日もいつまでも変わらないお方に信頼するからこそ、その人は動かされないのです。先の詩篇(123)で教えられたように、しもべが主人の手に目をそそぐように、主イエスに目をそそぎます。
私たちの肉体には不思議な機能が備わっています。
たとえば「体温」です。外気が30度を超える真夏日でも、また、零下になるほどの極寒の地でも、人の体温は36度と動かされることなく一定です。もし、体温が上がったり下がったりしたら、それは病気です。危険な状態です。
それと同じように、生活環境が順調だからと行って、調子に乗って高ぶったりするのは病気です。調子の良いときでも、主にあって感謝し謙遜であることは「動かされない」ことであって、健康な心です。
また逆に、困難や試練の中にあるからといって、そのことでひどく落ち込んだり、気が沈むのであれば、それもまた危険な状態です。極端に落ち込むことなく、主を信頼して、平常心を保てる健康な心であってください。
外の環境が上下しようとも体温が一定のように、私たちの心も、主に信頼することによって動かされてはなりません。(Ω)
詩篇124:1 もしも主が私たちの味方でなかったなら。(新改訳)
今日の聖句は、口語訳では「主がもしわれらの方におられなかったならば」と翻訳されていますが、新改訳の方が良い訳だと思います。
もし、主が、私たちの味方でなかったら、どんなに大変なことになっていただろうかと、くぐり抜けた試練を振り返ると、神の恵みの大きさに感謝せずにはいられません。
讃美歌の「驚くばかりの恵み」の中でも、「危険をも、わなをも、避けえたるは、恵みのみわざと言うほかなし……」と歌っていますが、まさにその通りです。
イエス・キリストを信じているから、すべてが順調というわけではありません。イエスを信じている人にも、信じていない人にも、試練はあります。大きなつまずきと遭遇します。
しかし、幸いなことは、神が、私たちの味方であるという事実です。神がもし、私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対し得るでしょうか(ローマ8:31)。
神が私たちの味方ですから、いかなる困難な中にあっても、神は最善以下のことをなさらないのです。主イエスを信頼しよう。(Ω)
詩篇123:1 天に座しておられる者よ、私はあなたに向かって目をあげます。
「都もうで」の詩篇はつづきます。都にのぼって神殿で祈りをささげます。喜びの祈りもあれば、悲しみの祈りもあります。感謝の祈りもあれば、今日の詩篇のように、神のあわれみをひたすら求める祈りもあります。
この詩人には深い悲しみがあったようです。侮(あなど)りと嘲(あざけ)りの中で苦しんでいます。それは思いわずらいとなって、彼の魂を満たしていました(123:3-4)。
でも詩人は、「主なる神に目をそそぐ」と告白しています。一心不乱に神に目をそそぐ様子は、ちょうど、奴隷(しもべ)が主人の手に目をそそぐかのように……と表現されています。
忠実なしもべ(奴隷)は、主人の手の動きひとつで、主人の指示を悟って働こうとして注目します。
ちょうどそのように、神である主に目をそそぎ、神が何をおっしゃるか聞き漏らすまいと注目しています。神がなさる恵みをひとつとして見落とすまいと、神に注目します。
私たちの礼拝もそうであるべきです。礼拝に来ながら、人のことが気になるのは、まことの礼拝ではありません。私たちは人に目をそそぐためではなく、神に目を注ぐために礼拝に集います。
毎週の礼拝も、今日の「都のぼり」の詩篇のように、しっかりと神に目をそそいで、神の御言を聞き、神の恵みを受け取ることが大切です。(Ω)
詩篇122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように」。
先の詩篇では、エルサレムに近づくにつれ、都の建つ山を見あげて勇気と励ましを得たことを見ました。やった!やっと着いたぞ!。そんな歓喜の声が聞こえてきそうです。
ついに到着したエルサレムの街は活気に満ちていました。都もうでに来た人々はこの街で英気を養い、再びそれぞれの生活の場にもどって行ったことでしょう。
そんなわけで、人々にとってエルサレムは心の拠り所でした。ですから、そのエルサレムの繁栄と平和を祈りました。エルサレムの平和のために祈れと、今日の御言は告げています。
その祈りは、エルサレムの平和のために祈る者に、栄えがあるという祈りです。エルサレムの平和のために祈ったら、祈った人には祝福があるというのです。
「エルサレムの平和」。そこには神の深い御心があるからです。
実際のエルサレムの歴史は戦乱につぐ戦乱です。平和な時期はほんのわずかでした。ご存知のように現在もエルサレムは戦乱の最中にあります。
そこで、エルサレムの平和のための祈りとは、単に、戦争のない世の中になりますように……という祈りに終わりません。エルサレムに込められた神の御心を知る必要があります。
神の御心は「天の都エルサレム」の完成にあります。
天には、天国の都であるエルサレムがあることが、新約聖書によって啓示されています。ヨハネの黙示録によると、キリストの花嫁のように着飾ったエルサレムが登場します。
ところで、「都」とは何でしょうか。王の住む街のことです。
たとえば日本でいえば、天皇は江戸時代までは京都に住みました。だから京都が日本の都でした。明治以降は江戸に住むようになったので、江戸が都になりました。そこで、「東の京都」という意味で「東京都」と呼ぶわけです。
イスラエル歴代の王はエルサレムを都としてさだめ、エルサレムに住みました。では、神の御国の王(キリスト)はどこに住まわれるのでしょうか。天のエルサレムです。
先ほどの黙示録では、天の都エルサレムは、「小羊の妻である花嫁」であると証しされています(21:9-10)。「都」のことを、地上の都市のように考えがちですが、聖書は「花嫁」だといっています。
つまり、天の都とはキリストの花嫁である教会……すなわち、クリスチャンの群れをさすものと私は理解しています。
地上の旅路の中で訓練され、きよめられたクリスチャンたちのただ中に、御国の王であるキリストは住まわれるでしょう。それは、花婿が花嫁と親しく共に住むようにして、キリストは私たちの中に住み、御国を治められるのです。
地上の都エルサレムについて、「エルサレムの娘よ、喜べ。あなた方のただ中に王が来られる……」といった内容の預言が随所に述べられていますが、それは、天で完成される都の預言でもあるわけです。
このような意味で、エルサレムの平和のために祈ることは、神の御心が完成するための祈りです。そのように祈る者には、祝福があるというのです。
そして、天で御心が成されるように、地上にも成されるようにと、私たちは「主の祈り」の中で祈りますが、天での祝福が、地上のエルサレムにも完成する時が来るようにと祈るわけです。(Ω)
詩篇121:1-2 私は山に向かって目を上げる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。
この詩篇も「都もうでの歌」です。都エルサレムは小高い丘(山)の上に建てられた街で、その山は「シオン」と呼ばれました。
長旅で疲れ切った巡礼者は、近づくシオンの山を見あげて勇気を得たのです。
故郷の山を見て、なにか不思議な勇気を得るような思いに似ています。群馬の人であれば赤城山とか榛名山が見えると、ああ、故郷に戻ってきたなぁ~って、何とも言えないなつかしさと共に感動があります。私の場合は、丹後の大江山が見えてくるとそれを感じます。
都エルサレムにむかって巡礼の旅をつづけた人々も、神殿の建つシオンの丘を見ると、それ以上の感動を得たに違いありません。
ああ、なつかしいシオンの丘。あの丘(山)から、神の救いは始まるのだ。あの丘にこそ、天地を創造された神が住まわれる神殿があるのだ。人々はそんな希望で奮い立ったのです。
さあ、私たちはどんな山を見あげますか。神が救い主イエスをお遣わしになって、私の罪の結果である死を滅ぼしてくださったあのカルバリの山です。
イスラエルの人々が都エルサレムへ巡礼にやって来たように、新約の時代のクリスチャンも、教会に来て礼拝をささげます。その時、私たちが見あげるべきは、キリストが十字架でかかられたカルバリの丘です。
私たちの助けはそこから来るのです。
天と地を創造し、人間をも創造なさった神が血を流されたカルバリの山から、すべての助けは始まります。都のぼり(礼拝)はそのような恵みの山を見あげることからはじまります。(Ω)
詩篇120:1 私が悩みのうちに、主に呼ばわると、主は私に答えられる。
この120篇から134篇までは「都もうでの歌」シリーズです。都エルサレムへ巡礼する人々の賛歌です。そんな視点を持ちながら読むと、味わいも深まります。
さて、イスラエルは周囲の国々から何度も攻撃され、そのたびに人々は各地に離散していった歴史があります。しかし、彼らがイスラエル(ユダヤ人)であることのアイデンティティーは、祭のために都エルサレムに詣(もう)でることによって育まれてきました。
都のぼりに出かける人々は、日頃は異邦人のなかで暮らしています。でも、都に行けば、そこで同じ信仰の仲間と出会い、励まされるのです。
この詩人の居住地は、「メセク」と「ケダル」でした(5)。メセクはカスピ海と黒海の間の地域。ケダルはアラビアの南方とされていますが、当時としては辺境の地です。
そこの人々はまことの神を認めない人々であったようで、ユダヤ人たちの信仰を小馬鹿にする人々であったようです。だから、こう祈っています。「主よ、偽りのくちびるから、欺きの舌から、わたしを助け出してください」(2)。
また、こうも告白しています。「わたしは久しく平安を憎む者のなかに住んでいた。わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む」(6-7)。
詩人は随分と悔しい思いをしたことでしょう。でも、都に行けば励ましがあるので、その足取りは軽くなります。主はそこで応えてくださる。悩みを解消するほどの喜びがあるのです。
私たちもそんな期待をもって礼拝に参加しよう。(Ω)
詩篇119:156 あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。(新改訳)
自分で生きているようですが、実は主が生かしてくださっています。詩篇の作者も、「私を生かしてください」と祈っています。詩篇119篇には、何度もその祈りがささげられています(17、25、37、40、116、144、149、154、159)。
主イエスが、「床を取り上げて歩け」と言われると病人は起き上がったように、また、「ラザロよ、出てきなさい」と言われると彼は墓から出てきたように、神の御言が「生きよ」と言われるなら、私は生きることができるのです。
私たちは神の御言によって「生かされて」いる存在です。私の「頑張り」を少し横に置いて、主が生かしてくださるという人生に身をゆだねてみようと思うのです。
冒頭の聖句は「あなたが決めておられるように」とあります。口語訳では「あなたの公義に従って」。新共同訳では「あなたの裁きによって」です。直訳風にいうなら「あなたが決めておられるように」になるのでしょう。
私がこれこれの計画を立てるので、私は生きられるのでしょうか。でも、私の計画通りになったことなど、人生の何パーセントでしょうか。実に思い通りにならないのが人生です。でも、私は生きています。神が生かしてくださっています。
むしろ、私の計画よりも、神が「決めておられる」という道の方が、もっとすばらしいことを何度も発見しています。今日も祈ります。主よ、あなたが決めておられるように、私を生かしてください。(Ω)
詩篇119:75 主よ、わたしはあなたのさばきの正しく、また、あなたが真実をもって、わたしを苦しめられたことを知っています。
※「朝マナ」は1日1章ですが、詩篇119篇はあまりにも長いので、3回に分けて読むことにしています。昨日の「朝マナ」は総論でした。今日は短く……。
「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」(71)とは、なかなかいえることではありません。できるものなら、苦しいことは避けたいです。
それどころか、「神が愛ならどうしてこんなことが」とか、「神がいるならなんでこんなことが?」と、不満さえ飛び出してきます。これは、私の肉なる感覚、価値観から出てくる発想です。
でも、私の深いところの感覚で……それは、私・霊魂の告白……あの苦しみは良かったことだと言えるのです。
肉の感覚では、「苦しみ」は理不尽なものです。納得が行きません。「何で私が?」と言いたいのです。しかし、冒頭の聖句のように、神は真実です。もし、苦しみがあるとすれば、それは「神が真実をもって苦しめられた」のです。
神の中にこそ真実がります。
それを悟ることができなかったら、私たちの人生は「恨み節」で終わってしまうでしょう。詩篇の作者もこう告白しています。「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、私はついに悩みのうちに滅びたでしょう」(92)。
神が真実であることを信頼しよう。今は苦しみでも、きっと「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」と、私・霊魂の告白に至ることを信じて……。(Ω)
詩篇119:105 あなたの御言はわが足のともしび、わが道の光です。
とても長い詩篇です。口語訳と新共同訳では、所々に「アレフ」「ベス」「ギメル」……と記されていますが、これはヘブル語のアルファベットが順に記されているわけで、日本でいう「いろは歌」です。
全部で176節にもなるこの詩篇を一言でまとめるのは難しいとは思いますが、あえて申し上げるなら「神の御言への信頼」といえるでしょう。
神の御言によって人は正しく歩むことが出来るのだと告白しています。「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。御言にしたがって、それを守るよりほかにありません」(9)。
ですから、「罪を犯すことのないように、心のうちに御言をたくわえました」と言うのです(11)。
詩篇はつづいて、「あなたの定めを私に教えてください」と何度も祈っています(26、30、64、68)。「さだめ」とか「いましめ」は、御言のことです。今日の詩篇は「御言を求める祈り」です。
そこで、神は、御言を教えるために、苦しみに遭わせられることさえもあります。学校の教室で教わるようにして学んでも、それは身に着かないし、机上の空論になってしまうからです。
神は、教室で教えないで、現場を通して教えてくださいます。現場ですから失敗もあります。自分のひとことが他者を傷つけたり、決断や行動が結果となってはね返ってきます。
だから苦しみがあります。でも感謝なことは、そのような「苦しみ」という代価を支払ったからこそ、大切な神の御言を体験し、身に付けることが出来るからです。そのことを詩篇はこう告白しています。
「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」(72)。※「おきて」とは御言のこと。
このようにして体験した御言は、我が足のともしびです。我が道の光です。真っ暗闇の中を行くとき、足元を照らす光がなければ、大けがをしてしまうかも知れません。
お金をかせぐことに夢中になっていたとき、「あなた方は神と富との両方を主人とすることは出来ない」という御言が、私の足元を照らしてくださいました。
もし、御言が照らしてくださらなかったら、富の誘惑によって道を踏みはずしていたかも知れません。
かつて、「牧師なんか辞めてしまいたい」と迷っていたとき、「あなたの受けた召しと選びを確かにせよ。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」という御言が、私の足元を照らしてくださった事もありました。
あの御言で照らされなければ、どんな人生を送っていたことか分かりません。
さあ、神の御言を慕い求めよう。神を肉眼で見ようとしないで、御言をとおして神と出会おう。神を肉の手で触れようとしないで、御言をとおして体験しよう。(Ω)

