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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エズラ記 10章

2015年09月16日 | エズラ記

エズラ記10:11 それで今、あなた方の先祖の神、主にざんげして、その御旨を行いなさい。あなた方はこの地の民および異邦の女と離れなさい。

このエズラ記は「回復のための書」です。バビロン捕囚から帰還した民がいかにして回復していったのか。そのプロセスは、新約の私たちにも共通することです。

そのポイントを整理しておきます。

①約束の地に戻る。……ユダヤ人たちが約束の地に戻ってきたように、新約の民は、創造主である神のもとに立ち返ります。神を信じ、神がお遣わしになった御子イエスを信じることです。

②神殿を中心に据える。……ユダヤ人たちが神殿を建てたように、新約の民は、神への礼拝を人生の中心に置きます。一週間は主日の礼拝から始まり、一週間は主日の礼拝に向かって生活します。

③御言を学ぶ。……エズラによって律法が教えられたように、新約の民は日々聖書を読み、御言によって整えられます。信じて救われた私ですが、考え方(魂の領域)は信じる以前のままですから、御言を食べて御言に似た考え方を養います。

そして最後に……

④分離する。……エズラの指導によって異邦人の女性をめとった者たちが離縁したように、新約の民は、悪しき影響力から「分離」することが大切です。エズラ記のこの出来事は「分離」という視点で読み解くべきことだと思います。

未信者と結婚したクリスチャンは離婚しなければならない……といった解釈は行き過ぎです。

旧約では姦淫を犯した者は石打の刑ですが、今も死刑にしますか?。旧約では安息日に働いた者は死罪となりましたが、今もそうしますか?。旧約では、偶像礼拝者は殺されましたが、それが異教徒を殺しても良いという理由になりますか?。

もちろん、新約の時代になったので、姦淫しても良い訳ではありません。新約の時代でも、相変わらず未信者との結婚には困難が伴います。偶像との関わりを神は怒られます。

旧約も新約も神の基準は変わりません。新約でも罪の基準は変わりません。

しかし、重要なことは、イエス・キリストの十字架によって、圧倒的なゆるしと恵みの中にあるということです。ですから、未信者と結婚した場合も、主にあるゆるしの中で神の愛があらわされる家庭を建てあげることが大切です。

イエス様が姦淫の現場で捕らえられた女性に、わたしはあなたを罰しない。お帰りなさいと言われたのは、姦淫しても罪に問われない時代が来たのだという意味ではありません。イエス様が、彼女の罪の分まで十字架で背負ってくださったのでそう言われたのです。

だから、イエスは最後にひとこと彼女に言われました。「今後はもう罪を犯さないように」と(ヨハネ8:11)。圧倒的なゆるしと恵みの中にあるとは言え、罪は私たちを破壊するからです。罪は人間関係を破壊し、神との関係を破壊します。そして、いのちある生活から遠ざけてしまいます。

だから、罪との分離が必要です。この分離がしっかり出来ていないと、クリスチャン生活に誘惑が絶えません。余計な失敗も増えます。

罪を犯しやすい環境や人間関係があるなら、そこから離れるようにしてください。私たちはそんなに強くはありません。夜の町に出ていって伝道するんだと言って、一緒になって酒やタバコの世界に入って勝利できる人はそう多くありません。

しかし、イエス様は、罪人や遊女たちの中に入って一緒に飲み食いをなさって、彼らを救いに導かれました。それは、イエス様が罪と分離された聖なるお方だからです。もちろん、私たちもイエス様のような働きを目指しますが、そのために大切なことは「分離」です。

イエスはあなた方はこの世の者ではないと言われました。そうです。私たちは天国の者です。天国人としての分離が必要です。この世から影響を受けやすいクリスチャンではなく、逆に、この世に天国の影響力を与えるクリスチャンに成長すべきです。

悪口や不平が語られている中に入って、その影響を受けてあなたまでが愚痴っぽい人になるなら、この世の影響力から分離できていません。そのような交わりから分離すべきです。そして、祝福を流し出す影響力を養って遣わされるようにしましょう。

だからといって、会社も辞め、結婚もやめ、この世との関わりをもたないような隠遁生活が良いわけではありません。

そこで、罪と分離するための効果的な方法があります。それは旗印をはっきりとさせることです。自分はクリスチャンだという旗印を明確にするのです。周囲からの評価がこわいですか?。でも、旗印をはっきりさせることで、返って守られるのです。

戦国時代の戦いを思い出してください。みな旗をはっきり掲げて戦いました。旗を隠していたら、敵なのか味方なのかよく分かりません。敵だと勘違いされて殺されるかも知れません。味方だと知らずに援護してもらえないかも知れません。

キリストの御旗をしっかり掲げて霊的な戦いをしましょう。(Ω)







 


エズラ記 9章

2015年09月15日 | エズラ記

エズラ記9:6 わが神よ、私はあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。我々の不義は積って頭よりも高くなり、我々のとがは重なって天に達したからです。

長旅を終えてエズラ一行はようやくエルサレムに到着しました。しかし、そこで待ち受けていたことは、思わぬ報告でした。それは、すでに帰還したユダヤの人々が、異邦人と結婚しているというのです。

異邦人との結婚は、相手が信じている異教の神々やその習慣がイスラエル民族に入ってくるため、律法では禁じられていました。

出エジプトしてカナンの地に入植したかつてのイスラエルも、土地の人々との関わりを持つことで偶像礼拝や、それに伴う様々な習慣が入ってきました。ましてや、結婚関係に入ることによってそれは加速しました。

ソロモン王は多くの異邦人の女性をめとったのですが、その結果、彼の晩年は信仰から逸れて行きました。

また、異教の女性イゼベルと結婚したアハブ王の時代は顕著でした。イゼベルはバアル教の宣教師のような女性でしたから、バアル礼拝はイスラエルを席巻しました。また、イゼベルの娘のアタリヤは、南ユダのヨラム王のもとへ嫁いで、南ユダにもバアル礼拝を広めました。

王が異邦人の女性と結婚するのですから、一般民衆は影響を受けて、異邦人との結婚はブームにさえなったと思います。こうして根深く入り込んだ異教の神々とその悪習慣がイスラエル民族を滅ぼすことになりました。

この悔い改めのもとに、捕囚の人々は帰還してきたはずではなかったのでしょうか。悔い改めて主なる神だけを信頼して再出発しようという純粋な思いはどこに行ってしまったのでしょうか。

「バビロン捕囚」という大失態を生かせずに、再び同じ道に歩もうとしている人々を目の当たりにして、エズラは激しい悲しみと畏れをいだきました。今日の第9章は、そのエズラの祈りの言葉が記録されています。

エズラの祈りには、罪を犯した民を一方的に責めるような態度が感じられません。自分のこととして受け止めて、民に代わって悔い改めとゆるしのための執り成しを祈っています。

イエス様もそうでした。私たちの罪を責めるのではなく、むしろ自分の罪として受け止め代価を払ってくださいました。父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか分からないのですと祈られたのです。

問題点を指摘する人は多いのですが、エズラのように自分のこととして受け止める人は少ない。他者の罪を見つけるのが得意な人は多い。彼は他人の目にある塵を見つけるのに長けています。しかし、罪の中にある人のために執り成す人は少ないのです。

日本もまた過去と同じ道を歩もうとしています。天皇礼拝の復興の影が見え隠れしています。人々の偶像礼拝は衰えることを知りません。まことの神を恐れる正直なリーダー不在の政治が続いています。

問題を指摘し批判することは簡単なことです。しかし、主を知る者として、エズラのように、そしてイエス様のように祈りましょう。いま、日本の国とその民のために執り成しの祈りが必要な時代です。(Ω)





 


エズラ記 8章

2015年09月14日 | エズラ記

エズラ記8:31 我々の神の手は、我々の上にあって、敵の手および道に待ち伏せする者の手から、我々を救われた。

エズラの一行はペルシャを出立しました。この旅の特徴を上げておきましょう。

①レビ人を特別に召集した(8:15-20)

今回の帰還に参加した人々は男女あわせても5~6千人でした。そのメンバーを確認すると、その中にレビの子孫が加わっていないことが分かり、彼らを緊急召集しました。

今回のミッションは「御言を教える事」でした。神殿という上物だけが完成しても、中身である「御言の生活」が肝心です。レビ人は神殿と御言(律法)のために聖別された部族です。彼らの手によって御言は書写され、祭儀は執り行われてきました。

新約におけるクリスチャンのミッションにも、御言に精通した人材が必要です。御言を伝え人々を育てることの出来る人材が必要です。

②歩兵や騎兵の護衛を断った(8:22)

アルタシャスタ王は旅に必要なものは何でも与えようと言ってくれていましたが、エズラは護衛の兵を辞退しました。一般的に考えれば無防備なことです。道中に盗賊に襲われることなど日常茶飯事の時代です。

それに、この旅では神にささげる金銀も持ち帰ることになっていました。莫大な金額です。それを無事エルサレムまで送り届けようというのです。

しかし、このミッションが神の働きであると確信するエズラは、人の力や方法ではなく、神の力に頼ろうと決心したのです。神の力によってなされた働きは、人々の心をも動かし、栄光ある働きへとつながることになります。

パウロもコリントの人々に御言を教えたとき、神の力でそれを成そうと努めました。

私の言葉も私の宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなた方の信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった(Ⅰコリント2:4-5)

③断食して祈った(8:21)

こう記されています。「アハワ川のほとりで断食を布告し、我々の神の前で身を低くし、我々と我々の幼き者と我々のすべての貨財のために、正しい道を示されるように神に求めた」。

このミッションは神の働きです、人間の小細工も思惑も通用しません。だから、エズラは断食をして祈りました。このたぐいは断食と祈りによらなければできない……というレベルの働きでした。

このように準備して整えた旅でしたから、神の御手が一行の上に共にありました。エズラの上にはいつも、神の御手があったとくり返し記されています(7:6、7:9、7:28、8:22、8:31)

何はなくとも、この「神の御手が私の上にある」。このことが重要です。エズラの勇気はここから生じていました。

律法(聖書)に精通したエズラがいだいた確信はこれです。「我々の神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る(8:22)

今日も主イエス様を求めよう。求める者の上に神の御手はあることを信頼して進もう。(Ω)





 


エズラ記 7章

2015年09月12日 | エズラ記

エズラ記7:27-28 我々の先祖の神、主はほむべきかな。主はこのように、王の心に、エルサレムにある主の宮を飾る心を起させ、また王の前と、その議官の前と王の大臣の前で、私に恵みを得させられた。私はわが神、主の手が私の上にあるので力を得、イスラエルのうちから首領たる人々を集めて私と共に上らせた。

エズラ記は前半と後半にわけることができます。前半は第1~6章で、第1回目のバビロンから帰還した人々の記録です。この時のリーダーはゼルバベルです。ゼルバベルによって神殿は再建されました。

後半の第7~10章は、第2回目のバビロンからの帰還です。この時のリーダーはエズラという祭司であり律法学者です。先の帰還では約5万人の人々が戻ってきましたが、エズラによる帰還は男だけで2千人の規模でした。

エズラによる帰還の目的は民に律法(神の御言)を教えるためです。神殿は完成しました。しかし、神殿を中心に……つまり礼拝を中心に生活するためには、神の御言が語られ、教えられなければなりません。

さて、エズラ記は回復のための書と言えるでしょう。

奴隷の地バビロンからから解放された人々が、どのように回復されて行ったのかが記されています。この書から、罪人であった私たちがどのように回復して行くのかを学ぶことが出来ます。

第一は、約束の地に戻る事。第二は、神殿を人生の中心に据える事。そして、第三は、御言を学ぶ事です。

エズラは祭司アロンの家系の人で、モーセの律法に精通した律法学者でした。そんな彼がこのタイミングでエルサレムに派遣されたのには、神の奥深いご計画であろうと思います。

このエズラが派遣されるにあたって、ペルシャ王アルタシャスタは、エズラの働きを全面的に支援するよう文書を発布しています。その内容が第7章に記録されています。

ペルシャの王をここまで動かしたものは何だったのでしょうか。

実は、第6章と7章の間には約60年近い時代の隔たりがあります。その間にペルシャでは、エステル記の出来事が起きています。ユダヤ人の王妃エステルとその養父モルデカイの物語です。

エステルはペルシャ王アハシュエロス王の王妃となり、モルデカイは王に次ぐ地位を得て政治を担当しています。そういうわけですから、ユダヤ人とユダヤ人が礼拝する主への敬意が、ペルシャの人々の中に醸成されていったであろうと想像できます。

そのような中でユダヤ人がペルシャの要職に就くことも少なくなかったことでしょう。エズラもそのようなひとりです。だからこそ、エズラがエルサレムに帰還して民を教えたいという申し出に対して、アルタシャスタ王は快諾し、厚い保護を与えたわけです。

アルタシャスタ王がエズラに持たせた親書には、王の愛に満ちた配慮が現れています。ペルシャの初代の王クロスといい、このアルタシャスタ王といい、神である主に対する信仰が与えられていたのは驚きです。

神は、異邦人であるペルシャの王をさえ信仰へと導かれることを覚えるとき、私たちは勇気をえます。日本の国のリーダーたちがイエスを信じる信仰に至ることも不可能なことではありません。指導者たちのために祈ろう。(Ω)




 


エズラ記 6章

2015年09月10日 | エズラ記

エズラ記6:12 エルサレムに御名を住まわせられた神は、この命令をあえて犯しエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようとして手を出す王や民をみな、くつがえされますように。私ダリヨスは命令を下す。まちがいなくこれを守れ。

神の御言によって奮い立たされたユダヤの民は神殿工事を再開しました。

その一方で、この建築の合法性についての調査が進みました。反対派の人々は、ペルシャ王が神殿再建の命令など発布するはずがないと考え、公文書の調査を依頼したのです(5:6-17)

これによって正式な結論が出るに違いないと期待していた反対派の人々に、王からの返答がありました。その回答が上記の聖句の通りです。

クロス王による公式文書が発見され、ユダヤ人たちによる神殿再建は合法であることが裏付けられたのです。更におまけに、この工事を妨害してはならないことまで明記された文書が送られてきました。

こうして敵の反対論は完全に打ち砕かれ、神殿の完成へと至りました。

反対者である悪魔の妨害は今も同じです。悪魔は、私たちの信仰を妨害するために、救いの合法性について疑いをもたらします。「本当にお前は救われているのか」と、過去の罪や過ちを根拠に責め立てます。

さあ、どうしますか?。

なるべく罪を犯さないように清い生活をすることで、悪魔の告訴状に対抗しますか。清い生活をすることは尊いことですが、悪魔はいつもあなたの罪を見破ろうと見張っています。そして、少しでも罪のしっぽを出そうものなら、鬼の首を取ったかのように彼は勝ち誇るでしょう。

では、他の人だって同じようなものじゃないかと、他者と比較して問題をぼやかしますか。あの人よりはましだと、自分を肯定してはみるものの、悪魔は立派なクリスチャンの姿を見せて、「あのような立派な人でなければ救われるはずがない」と惑わすでしょう。

では、そのことは考えないようにしようと、忘却によって対処しますか。しかし、悪魔はまめです。悪魔は、私たちほど「ずぼら」ではないのです。忘れかけた頃に、悪魔は忘れないで、再び罪の記憶を思い出させてくれます。

このような妨害に勝利できるでしょうか。

反対派を黙らせることが出来たのは、クロス王の発布した正式文書によって合法性が裏付けられたからです。この文書によって、彼らは黙ってしまいました。それまで妨害してきたことで赤っ恥をかいたのです。

私たちも、神が記録された公式文書をもって、悪魔に赤っ恥をかかせてやらなければなりません。私たちの救いの合法性は、私の清い生活にあるのではない。神が、私の罪をイエスの十字架で処罰なさったという聖書の記録の故です。

私たちは聖書に記された神の公式文書の故に、私の罪はすでに処罰されていると宣言します。悪魔がどんな言いがかりをつけてこようとも、私たちは神の御言を盾にして戦い、私たちの救いの合法性を主張します。

今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはないのです(ローマ8:1)

その他にもたくさんの御言があなたの救いを保証しています。神の御言によって、私たちの霊魂は奮い立たされ、悪魔に立ち向かい、信仰による神殿を建て上げるのです。(Ω)




 


エズラ記 5章

2015年09月09日 | エズラ記

エズラ記5:5 しかしユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので、彼らはこれをやめさせることができず……

神殿建設の反対者たちが送った告訴状はペルシャに送られました。その時、すでにクロス王は亡くなり別の王が支配している時代でした。

告訴状の内容を要約すれば次のようなものでした。

ユダヤはかつて帝国に反乱を起こした厄介な民族である。ユダヤ人たちが神殿を建設し国が復興するなら、彼らは再び王に背くようになるだろう。だから、彼らが進めている神殿建設を中止させるべきだ(4:11-16)

そこで、ペルシャの王が調べたところによると、アッシリヤ、バビロンといった列強と果敢に戦ってきた民族であることが明らかになり、工事の中断が命じられたわけです(4:17-22)

なぜ、クロス王の勅令記録を無視して、それより昔の記録を調査して結論をくだしたのでしょうか。建設反対派の何らかの裏工作があったのかも知れません。

このように、悪魔は、いつもあの手この手で妨害する敵です。

悪魔は、私たちの過去の失敗や罪をあれこれ調べあげて、それを根拠に私たちの信仰生活を妨害します。あんな失敗をしたお前が、聖なる生き方など出来るはずがない。お前は偽善者だと訴えてきます。悪魔の告訴状です。

あなたもそのような悪魔の告訴状で悩んでいないでしょうか。悪魔が訴えるたびに良心はうずき、意気消沈してしまうことはないでしょうか。

この時のユダヤ人たちも同じでした。彼らの志気はさがり、あきらめムードに満たされていました。そして、神殿建設は中断してしまいました。これが悪魔の作戦です。

そんな時、預言者ハガイとゼカリヤが起こされ、神の励ましのメッセージが伝えられました。工事を再開せよとの力強い御言によって、民は再びその霊を奮い起こされて工事を開始したのです。

この再開した日がハガイ書に記された「9月24日」のことです(ハガイ2:18-19)。そして、「バビロンについて預言された70年」が終わった日です。バビロンの呪縛から完全に解放された日です。

イエス様は私たちに励ましのメッセージくださっています。後ろを振り向く者は神の国にふさわしくない。前を向いて、神を信頼して、神を礼拝する人生を建て上げよ……と。

さて、工事を再開した民に対して、反対者たちの妨害は続きましたが、神殿建設を止めさせることが出来ませんでした。その理由を、今日の御言は告げています。

神の目がそそがれていたからです。

反対者である悪魔がどんな理由を付けて妨害しようとも、神である主の目がそそがれているので大丈夫です。私たちが礼拝を第一としようとする生活……そこには苦労や戦いがありますが……神の目がそそがれていることを忘れないでください。神は、その歩みを勝利させてくださいます。(Ω)





 


エズラ記 4章

2015年09月08日 | エズラ記

エズラ記4:24 それでエルサレムにある神の宮の工事は中止された。すなわちペルシャ王ダリヨスの治世の二年まで中止された。

感動をもって始められた神殿再建工事でしたが、執拗な妨害を受け、長い期間にわたり中断してしまいました。その事の発端は、神殿建設を快く思わない人々からの提案から生じました。その人々とはサマリヤ人と思われます。

サマリヤ人とは遡れば北イスラエルの人々です。ですから、ユダヤ人たちと同族で同じ神である主を礼拝していた人々です。しかし、アッシリヤ帝国の支配下で雑婚が進み進み、宗教的にも大きくずれて行きました。

その人々が神殿建設の協力を申し出てきたのです。一見、魅力的な提案です。何もないところに戻ってきたユダヤの民にとって、渡りに舟といったところです。

しかし、民の指導者ゼルバベルはこの申し出をことわりました。

あなた方は、我々の神に宮を建てることにあずかってはなりません。ペルシャの王クロス王が我々に命じたように、我々だけで、イスラエルの神、主のために建てるのです(4:3)

提案を断った理由は、ゼルバベルが言うように、確かに神殿建設は、バビロン捕囚の経験を経たユダヤ人たちに与えられた命令だからです。捕囚という「死」を経験した者たちに与えられた使命だからです。

バビロンにおける捕囚というと、捕囚からの解放という復活を経験した者に、神殿建設のミッションは与えられました。

新約においては、キリストの十字架の死と復活の経験をした者によって、霊的な神殿は建設されます。キリスト教会はこの十字架の死と復活を経たクリスチャンによって建て上げられて行きます。

その経験のない人々も教会の集会には参加しますが、教会を建て上げるのは、死と復活を経験した者に拠らなければなりません。

あなたは自らの罪の故に苦しみを経験したでしょうか。その罪の重さ故に、十字架の死をもって支払わなければならない苦悩を経験したでしょうか。そして、イエスが十字架で死なれた経験は、私の経験だと告白なさったでしょうか。

キリストの十字架の死と復活は、キリストだけの体験ではありません。私の体験です。信仰によって、私もあの十字架でキリストと共に死んだという経験を持ちます。信仰によって、キリストと共に復活したという経験を持ちます。

そんなキリストの十字架の死と復活を経た人によって、まことの霊的な神殿は建て上がられて行きます。

次に、ゼルバベルが提案を断ったもうひとつの理由は、サマリヤ人の提案に潜む悪意を見抜いたからです。

本当に神殿建設に賛成しているなら、自分たちの提案を断られたことへの腹いせに、神殿建築中止を求める告訴状をペルシャ本国に出すはずがありません。彼らは、2回にわたって告訴状を送り(4:6-7)、神殿建設を中断させたのです。

彼らは、かつてのクロス王による神殿再建命令の記録ではなく、それ以前の反抗的なエルサレムの記録に注目するように誘導しています。彼らがいかに反抗的な民であるかという点を取り上げて訴えています。卑怯な情報操作です。

悪魔は過去の罪人であったことばかりを取り上げて責め立てるのです。しかし、そんな罪人のためにキリストが十字架でゆるしてくださったという重要な記録からは目をそらそうとします。

私たちクリスチャンの中心に神殿(神への礼拝)がしっかりと据えられるまでには、そんな悪魔からの妨害があります。仕事上のトラブル、家族の反対、自分自身の信仰が弱まるとき等に妨害を受けるかも知れません。

しかし、完成に向かって、それぞれ達しえたところに従って進んでください。勝利者であるイエスを目当てに進んでください。くじけてはないません。(Ω)





 


エズラ記 3章

2015年09月07日 | エズラ記

エズラ記3:11 彼らは互に歌いあって主をほめ、かつ感謝し、「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえにイスラエルに絶えることがない」と言った。そして民はみな主を賛美するとき、大声をあげて叫んだ。主の宮の基礎がすえられたからである。

帰還したユダヤ人たちがまず最初に取りかかったのは、「神殿の再建」でした。人々は神殿を再建し、礼拝を中心とした国造りを目指しました。それは、かつて滅びた原因が、礼拝を軽んじ、神殿を偶像で汚してしまったことにあり、そのことへの深い悔い改めから来ていました。

祖国に帰還したばかりですから、まずは自分たちの住む家を整えてからという思いもあったでしょう。畑を耕して、家畜を飼って、商売をして、物質的な基盤が整ってから神殿再建を……という葛藤もあったことでしょう。

しかし、ユダヤ人たちは、先祖たちのあやまちを通して、神の大切な原則を学んでいました。それは、神殿中心の原則です。つまり、礼拝こそが私たち人間の第一とすべき務めです。そこから、すべての働きが始まります。

預言者エゼキエルも回復された神殿の幻を記録しました。その完成された神殿からは、いのちの水の川が流れ出て、その川の水は大きく広がり、その水にふれる樹木も魚もみな生き返るという幻でした(エゼキエル47:1-12)

帰還民たちは、今度こそは神の御心に添った国造りをしようという、霊の感動にあふれて戻ってきた人々ですから、彼らがまず最初に着手したのは、神殿の再建でした。

時間的にゆとりができたら礼拝しようとか、気分にゆとりができたら礼拝しようとか、困難を乗り越えたら神を礼拝するとか……神をまったく礼拝しないよりはましですが……神への礼拝を後回しにする傾向はないでしょうか。

そうではなく、神への礼拝を第一にして、その時間を捧げるとき、そこから有意義な時間配分が整えられてゆたかな時間が流れ出します。礼拝を通して神の大きな愛の中ではぐくまれるゆとりが流れ出します。

あなたからどんな水が流れ出ているでしょうか。その水にふれた人々が傷ついたり病んだりするようでは大変です。いのちの水が流れ出す人生でありたいではないですか。そのようないのちの水の川は“神殿から”流れ出すのです。

エゼキエルが見た幻(ビジョン)を私たちも共に見ながら、私たちの人生の中心に神殿を置くのです。

さて、ユダヤの民は、神殿建設に取りかかり、その基礎工事を開始しました。その時の定礎式での賛美が今日の聖句です。新改訳では、主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルにです。

本当にそうです。主はいつくしみ深く、恵みは永遠です。この告白を、今日も人生の中心に据えて、主を礼拝しようではありませんか。(Ω)





 


エズラ記 2章

2015年09月05日 | エズラ記

エズラ記2:1 バビロンの王ネブカデネザルに捕えられて、バビロンに移された者のうち、捕囚をゆるされてエルサレムおよびユダに上って、おのおの自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。

私たち人間は不真実でも、私たちの神である主は真実な方です。神は、ご自分の語られたことを必ず成し遂げられるからです。有言不実行の私たちとは違い、主は有言実行の神です。

そのひとつは、第1章で見たように、預言者イザヤとエレミヤを通して語られた神の御言の通りに、神はなさいました。捕囚の民は祖国に戻ってくることができたのです。

さて、第2章には、バビロンからの帰還者たちのおもだった人々の名簿が記録されています。みな、神の御言に感動して、困難をも承知の上で戻ってきた人々です。そのままペルシャ帝国に残っている方が楽だったと思います。

しかし、私たちクリスチャンは、この世で楽な生活をしたいからイエスを信じたのではありません。苦労はあるかも知れませんが、神の御言に従い、神の御言が実現することの喜びと栄光をイエスと共にするためです。

私たちは、キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にしている以上、キリストとの共同相続人なのです(ローマ8:17)

第2章には、そのような人々の名簿が記録されているのですが、きちんと一桁の数まで記されています。神は、私たちをその他大勢でひと括(くく)りになさっているのではありません。四捨五入もなさいません。そんな神の御手の中で数えられている私であることを感謝しましょう。

次に、神が有言実行の方であることのふたつめは、帰還民の中にゼルバベルという人物が加えられていることです。神は何と恵み豊かで哀れみ深いお方でしょうか。このゼルバベルは、ダビデ王家の子孫です。

神は、ダビデに約束なさいました。

あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。……中略……あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる(Ⅱサムエル7:12-16)

「ダビデの身から出る子」とは、次の王ソロモンのこともあらわしていますが、正確にはキリストのことです。キリストこそ、神の御名のための神殿を三日後に完成したお方であり、キリストこそ神の愛する子であり、神の御国を永遠に支配なさる王です。

つまり、この預言は、ダビデの子孫からキリストが誕生するという意味です。

ですから、神はご自身が語られた御言に真実であられるために、たとえダビデ王家が堕落したとしても、また、王家の危機存亡の事態に至ったとしても、神は真実な方であって、ご自身の御言を確実に実現なさいます。

思い出してください。ダビデ直系の王エホヤキンは、第一次バビロン捕囚によってバビロンに連れて行かれ投獄されました。ついにダビデ王家もここまでか……と思われました。

しかし、不思議なことが起こりました。

バビロン政権下で37年間も投獄されていたエホヤキンは、バビロンの王エビルメロダクの治世に、牢獄から解放され、彼の名誉が回復され、以後、バビロンの王と食卓を共にする身分に引き上げられたのです(Ⅱ列王紀25:27-30)

とらわれの身の37年間、エホヤキンはダビデ王家のたどった道を顧みて、悔い改めを祈ったのではないでしょうか。

そして自分が牢から解放され、バビロン王の右の座につくことを許されたとき、かつての先祖ヨセフが牢から解放され、エジプト王の右の座についた出来事を思い出したに違いありません。

自分が今こうして活かされていることの意味、それはダビデの子孫としてこられるキリストを迎えるべく道ぞなえの使命に目覚めたのではないでしょうか。エホヤキンにとって37年という投獄生活は、新しく生まれ変わるための素晴らしい試練の時だったに違いありません。

だからこそ、エホヤキンの孫にあたるゼルバベルが、ユダヤ帰還民のリーダーとして戻ってきたのです。 ※ゼルバベルはエコニヤの孫と記録されているが(マタイ1:12)、「エコニヤ」は「エホヤキン」の別名(エレミヤ24:1)

最後にもうひとつ注目しておきましょう。それは帰還民数です。会衆の総数は42,360人であったと記録されています。約70年前バビロンに奴隷となって連れて行かれた人々は4,600人でした(エレミヤ52:28-30)。約10倍になって戻ってきたわけです。

バビロンの捕囚となることについて、かつてエレミヤは次のように預言していました。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない(29:6)。さらに、バビロンの地で仕えよ、その民を祝福せよと語りました。主は御言の通りをなさいました。

新約の私たちにも同じことが言えるでしょう。バビロンという名の試練を通して、信仰を増し加えよ、減ってはならないのです。主はきっと私たちの信仰を10倍にして戻されるに違いないのです。

このように、神の御言は確実に進んで行きます。真実な神の御言(約束)の中で生きようではありませんか。(Ω)




 


エズラ記 1章

2015年09月04日 | エズラ記

エズラ記1:5 神にその心を感動された者は、エルサレムにある主の宮を復興するために上って行こうと立ち上がった。

バビロンによってエルサレムは破壊され、人々はバビロンへ捕囚として連れて行かれましたが、ついに解放の時がやって来ました。ペルシャによってバビロンは滅び、ペルシャの王クロスは「ユダヤ人解放令」を発布しました。BC.538年のことです。

これは単なる偶然だったのでしょうか。ペルシャの王クロスの気まぐれによってなされたことでしょうか。いいえ、すべてを支配なさる神の働きです。

ユダがバビロンによって滅ぼされる以前から、預言者エレミヤによって次のように語られていました。

主はこう言われる、バビロンで70年が満ちるならば、わたしはあなた方を顧み、わたしの約束を果し、あなた方をこの所に導き帰る。

主は言われる、わたしがあなた方に対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである(エレミヤ29:10-11)

バビロンへ捕囚として連れて行かれたとき、人々の心には底知れぬ不安と恐れがあったことでしょう。でも、神のご計画は「災いを与えようというのではない」のです。むしろ逆で、「平安」と「将来」と「希望」を与えるものです。

目の前に見える現実は災いであっても、神の約束の御言に目を向けようではありませんか。ペルシャ王クロスさえ動かし、事を成し遂げられる神の力強い御手を信頼しようではありませんか。

奴隷の民が解放されて国を再建することはほぼ不可能です。しかし、人には出来ないことを神はなさるのです。

神は、クロス王の心(霊)を感動させられたと記されています(エズラ1:1)。クロス王は、バビロンを倒しユダヤ人を解放する事は自分に課せられた神からの使命だと受け止めたのだと思います(1:2-3)

クロス王は預言者たちの書を読んでいたのかも知れません。例えばイザヤ書には、油注がれし人物……口語訳では「受膏者」……について予告されています。この人物はイスラエルを解放し、主のために町を復興するのです。その人物の名はクロスと預言されています(イザヤ45:1-13)

自分の名が預言されている書を読んで、彼は感動したのです。彼の霊は奮い立ったのです。このことが自分の使命であると確信したのです。

神の働きは、聖書を読んで、ああ、これは私のことだと感動した人々によってなされて行きます。あなたは、聖書をどのように読んでいますか?。バビロン捕囚の民が悲しみのどん底から解放される姿を「自分のことだ」と読んでいますか。その人は、エレミヤの預言を体験します。

イチジク桑の木の上にいるザアカイに向かって、「降りてきなさい。今日、私はあなたの家に泊まることにしている」と呼びかけられたイエスの御言を、「ああ、私に言われたことだ」と感動しますか。その人の心に今日イエスは宿られるのです。

放蕩息子が悔い改めて父のもとに帰る姿を読んで、「ああ、これは私のことだ」と感動しますか。その人は、父の祝福のもとに帰還するのです。

さて、クロス王による解放令によってユダヤ人たちは帰国の途につきました。しかし、すべてのユダヤ人が帰国したのではありませんでした。今日の御言が示すように、神にその心を感動された者たちが帰還しました。

ユダヤ人たちはイザヤが預言した御言を知っていたはずです。エレミヤが告げた神の約束を知っていたはずです。しかし、御言を知ってはいましたが、「ああ、これは私のことだ」と、その霊に感動を受けた人は少なかったのです。

しかし、たとえ少数の者であっても、御言に感動した人々によって、この回復の物語は始まりました。

では、なぜ、他の人々は御言に従って、祖国に戻らなかったのでしょうか。それは、御言を聞いても自分のこととして聞かなかったからです。そして、御言を自分のこととして聞かなかったので、心が感動されなかったのです。

解放されたユダヤ人は、長い間バビロンに居たので、そこでの生活が馴染んでいる人も多くありました。しかし、御言を聞いても、日常生活がいばらのようになって御言をふさいでしまいました。御言に従うよりも、今の生活の方が快適でした。

人は動き出すために、まず心(霊)が感動します。心が動き出すので、人生も動き出します。そして、心の奥底からの……つまり、霊の感動は、神の御言から来ます。神の御言は、私たちの霊を動かし、心を動かし、体を動かします。

バビロンから遠く1,100kmも離れたエルサレムにまで旅をすることは、容易いことではありませんでした。祖国に戻っても何の保証もない所で新しく始めるには問題が山積みでした。でも、御言によって感動した者たちが、神の偉大な働きを始めました。

祈りましょう。主よ、私たちも、帰還した人々のように、神の御言に感動されて動き出す者としてください。(Ω)