朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

サムエル記下 24章

2022年01月18日 | サムエル記

サムエル記下24・25 ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。

ある時、ダビデ王は全国の人口調査を実施したのですが、このことで神の大きな御怒りを受ける事になったと聖書を記しています。それは、神を信頼することよりも、国勢調査のデータをもって安心を得ようという不信仰に対する怒りだと思われます。

隣国の軍事力に対して自国はこれだけの軍備がある。だから、安心だ。裏をかえせば、こんな数では不安だ……ということにもなります。万軍の主である神が共におられることを忘れています。

ただ、神が「民を数えるように」と仕向けられているのに(24・1)、それを実施したことを怒られるのは矛盾しています。こう考えてみましょう。不安に駆られたダビデは国勢調査をしきりに切望し、神はそれを容認なさったのでしょう。

側近たちも、ダビデのことを不審に思っているのですが、王は彼らを説き伏せてまで、この調査を実施しています(24・3~4)。しかし、その調査が進む中で先に指摘したように、ダビデの心に傲慢の罪が露わになり、神はそれを怒られたのではないだろうか。

悔い改めたダビデは、神の御怒りを鎮めるために、預言者ガドの言葉に従って、エブス人アラウナの打ち場に祭壇を築くことにしたのです(24・18)

「打ち場」とは穀物を打って脱穀する場所のことで、小高い丘になっていました。実は、この丘が、後のソロモン王が神殿を建設する丘になったのです。

アラウナは王の要請を快く引き受け、土地を無償で差し出そうとするのですが、ダビデ王はこれを断り、正式な支払いをして神に献げるのだと主張します。こう記されています。

いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。私は費用をかけずに燔祭を私の神、主に献げることはしません。(24・24)

神も、正式な支払いをもって、罪人である私たちを神のものとなさいました。その支払いとは金や銀よりもはるかに尊い、神の小羊なるイエス・キリストの血潮でした(Ⅰペテロ1・18~19)

金銭で換算できないほどの尊い支払いを、神は、なさったのです。私たちも何らかの犠牲をもって主にお応えしたいと思うのです。私たちのささげる礼拝は、そのような私たちの心からの献げ物です。

さて、ダビデによって買い取られた「アラウナの打ち場」には祭壇が築かれ、やがて時を経てここに神の御名を置くための神殿が建設されます。神を信頼せず、人の数を信頼した罪を悔い改めたこの場所に、神殿は建設されるのです。

私たちの真実な礼拝も、人や富の数を頼りとせず、まことの神を信頼する信仰の〝丘〟の上に建てられるのです。

さて、最後に書き加えておくべきことがあります。本来なら先の23章でサムエル記が終われば文書としては収まりが良いです。23章はダビデの遺言とダビデの部下たちの武勇伝で締めくくられているからです。

ところが、この24章でダビデの失策が記されて、サムエル記は終わっているのです。サムエル記の最後にあたって、ダビデの失敗を機に祭壇を築く場所としてアラウナの打ち場が確保されたことを記録することで、それがやがて後の神殿建設への布石となるようにしたのでしょう。

聖書はダビデを誉めたたえるための書物ではないからです。人々を神への真実な礼拝へと向かわせる書物なのです。

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サムエル記下 23章

2022年01月17日 | サムエル記

サムエル記下23・3~4 イスラエルの神は語られた、イスラエルの岩は私に言われた、『人を正しく治める者、神を恐れて、治める者は、朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のように、地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。

いよいよサムエル記も終わろうとしています。筆者はその終わりにあたって、今日の聖句を、ダビデ王の「最後の言葉」として記録しています。それは預言の言葉です。

「預言」は「予言」ではありません。未来を占うという意味ではなく、神からの言葉を〝預かって〟語ることが預言です。

そういう意味で、ダビデ王は預言者でもあったわけです。ダビデ自身も告白しているように、主の霊はわたしによって語る、その言葉はわたしの舌の上にあるのです(23・2)

ですから、彼が残した多くの詩篇は預言の歌でもあります。詩篇を読み進めるときに、その預言的内容は霊的な示唆に富んでいます。

さて、ダビデを通して語られた預言の言葉は、人を正しく治める者、神を恐れて治める者は……と述べています。 ※新改訳では「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は……」。

ダビデ王としては最後の言葉です。後に続く王たちが神の御国にふさわしく統治するための重要な教訓が残されています。

近隣諸国では、自分の思うがまま野望の実現のために突き進む王ばかりの時代にあって、ダビデは神の御国の王として……、

① 義をもって治める。
② 神を畏(おそ)れて治める。


この2つを挙げました。これは、国という大きな世界だけのことに限らず、会社でも、教会でも、家庭でも同じことです。

今、世界は自由化の流れの中で混乱しています。多くの人々が自由をはきちがえています。あまりに自由なため、逆に、何をして良いのかわからないほどです。

基準を失った自由はもはや混沌です。

第一に、義をもって治めるとあるように、義とは基準です。神が満足なさる正しさの基準、神が納得なさるきよさの基準です。

神の義は、人の義とは水準が違います。人の義は要するに自己正義です。この自己正義という義が、不用意に人をさばき、愛のない批判をあびせ、無責任に他者を責めるのです。だから、「まず神の国と神の義を求めよ」と言われた主イエスの御言に従おう。

第二は、神を畏れて治めることです。今の時代は、神への畏れを失った時代です。汚職や不正。性の乱れや堕胎。偽装や偽証。公文書改ざんや証拠の捏造。あげれば切りがありません。あまりにも畏れを知らない人のなせるわざです。

ここにも、自由とは名ばかりの、畏れを失った混沌たる世界があります。神を畏れることは知識のはじめです(箴言1・7)。神を正しく畏れることは、人の本分であり、基本です。

敬虔とは「正しく畏れる」ことです。そして、その敬虔は信仰の奥義であると聖書が記していることは注目に値します(Ⅰテモテ3・16)

祈りましょう。行き過ぎた自由な世界に、神の義神への畏れが回復しますように天では、その義と畏れがなされています。天でなされている義と畏れが、地上でもなされますように……。

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サムエル記下 22章

2022年01月15日 | サムエル記

サムエル記下22・1~2 ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、「主はわが岩、わが城、わたしを救う者……」

サムエル記の終わりに、ダビデの賛美の歌が記されています。第22章はその全文です。この歌のなかで特徴的なことは、神をわが岩と呼んだことです。

ダビデは王となるために、神からの特別な取り扱いを受けました。もし羊飼いの少年のままであれば、こんな苦労をすることもなかったでしょう。

その苦労の多くを、ダビデは荒野の岩穴で受けました。サウルからいのちをねらわれた期間、ダビデはまさに岩に匿(かくま)われるようにして、いのちを得ました。

先のアブサロム事件においても、はやり彼が逃れた先は岩穴でした。岩穴こそ、ダビデの隠れ家、ダビデの救いの城でした。

けっして、豪奢(ごうしゃ)な王宮がダビデを守ってくれたのではありませんでした。むしろ、その王宮の中で、ダビデは敵である悪魔の侵入を許してしまいました。あのバテシバ事件がそれでした。その王宮の中で、ダビデの息子たちは罪を犯し、ついにはアブサロムの反逆にまで至ったのです。

本当に自分を守ってくれるもの。それは無骨な岩穴でありました。そのような岩なる神の中で、彼は守られ、再生し、復活したのです。

私たちの神、主イエスは、この岩のような救い主です。岩は無骨で格好良くはありませんが、私たちを守り、匿(かくま)ってくれる場所です。イエス様とはそういうお方です。

私たちはイエスの中にあってだけ、救いを得ます。イエスの外に出てはいけません。イエスを信じるとは、イエスの中に入ることです。イエスを信じるとは、正確にはイエスの中に信じるという意味です。

また、イエス様は岩のような土台となってくださる神です。

神の御言こそが、岩の土台です。その上に家を建てよと、主は命じられました。自分の考えや信念の上に立てられた人生は、砂の上に建てた家のようです。人生の洪水や嵐がやって来たら、土台もろとも流されてしまいます。

イエスの御言を基準に生きるのです。その人は、岩であるイエスという不動の土台の上に、人生が成り立っています。

世の富が、我が岩、我が隠れ場ですか。世の肩書きや地位が、我が岩、我が隠れ場ですか。いいえ。主イエスこそ我が岩、我が隠れ場、我が城です。これが、ダビデが生涯を通して得た確信です。

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サムエル記下 21章

2022年01月14日 | サムエル記

サムエル記下21・4 これは我々と、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、我々が殺そうというのでもありません。

ダビデ王の治世に3年間の飢饉がありました(21・1)。その原因を神に問うと、かつてサウル王家の者がギベオン(ギブオン)人の血を流した罪のゆえであると、主は言われました。

ギベオン人とは、イスラエルがカナンに侵攻したとき、ギベオン人を殺さないことを主の御名によって契約した人々です。

しかし、サウル王の治世にギベオン人を無碍(むげ)に殺害する事件があったようです。具体的な経緯は記録されていません。

神は、ご自分の名によって成された約束は必ず守られます。それは、神がご自分の名を尊ばれるからです。ご自身の名によって結ばれた契約が破られたことを、神はお怒りになったのです。それは、ご自身の名を汚すことだからです。

ギベオン人との契約はヨシュア記9章に記されていますが、ギベオン人がイスラエルをだますようにして結ばれたものでした。しかし、主の御名によってなされた契約を、主はお忘れになっていないことに感動を覚えます。

私たちがバプテスマを受けた時の契約はどうですか。確信のないまま受けた人もいます。ある人は不純な動機も混ざっていたかも知れません。そんな契約は無効ですか。でも、感謝すべきは、主イエスの御名による契約であることです。主はその契約を決してお忘れになりません。ご自分の名を汚さないために、その契約をお忘れにならないのです。

さて、話しをもどしましょう。そこで、ダビデは調査に乗り出し、ギベオン人流血事件の真相を明らかにして謝罪しました。 ※歴史の闇に葬られていたギベオン事件は、神の御手の中で真相が明らかにされ、被害者の無念に神が報いられた。

何をもって、この罪を償うことができるでしょうか。ギベオンの人々の返答は、慰謝料を要求したり、報復しようというものではありませんでした。それが、今日の聖句の言葉です。

これは我々と、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、我々が殺そうというのでもありません。(21・4)

この返答からしても分かるように、彼らとしては、かつての流血事件をゆるしています。

ただし、今回の問題は、神がお怒りになっているということです。契約に違反したことによって、神の御名を汚したことが問題でした。

そこで、神への犠牲のいけにえとして、事件の首謀者であるサウル家の者を処刑することになりました。恐ろしい結末です。しかし、見方を変えれば、それほど神の契約は重く確かなのです。そして、罪の問題は深く重いことを表しています。神はご自身の義を全うするために、このような重い犠牲を要求なさるのです。それほどに、ご自分の名を尊ばれるのです。

これは旧約の時代であったことを忘れないでください。旧約においては、罪の代価として人間のいのちを要求なさいましたが、新約にいたっては、神はご自身の血を代価として流されました。

罪の問題は、金銭で解決できる問題ではありません。血による代価が要求される問題です。私たちの罪の解決のために、金(きん)よりもはるかに尊い神の血が流されたことは、決して忘れてはならないことです。

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サムエル記下 19章

2022年01月12日 | サムエル記

サムエル記下19・39 こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。

戦いが終わり都に凱旋するダビデ王のまわりには、人々の思惑や対応の悲喜交々(ひきこもごも)が現れています。

ダビデ王が窮地(きゅうち)に立たされたとき身を挺して仕えた者。あからさまに王を非難した者。ことの成り行きをみて、有利な方になびいた者。それぞれの思惑が交錯しています。

鳥と獣の戦いがあったときのコウモリの話しをご存知でしょうか。鳥が優勢だと「私は鳥ですから」と鳥の味方をし、獣が優勢だと「私は獣ですから」と獣の味方をしたコウモリのように、ご都合主義に生きるなら、後に恥ずかしい思いをするのです。

人の本性は、自分が有利なときや調子良く行っているときは隠れていても、窮地に立たされたとき、その本性が現れるものです。

サウル家の一族であるゲラの子シメイ(シムイ)は、王が落ち延びるときは散々悪口を浴びせ呪いました。先の16章の記事です。ところが、王が帰還して形勢不利と見るや、その舌の根もか渇かぬうちに平謝りに終始しました(19・16~20)

また、王の食卓を共にしていたメピボセテは、ダビデが都落ちするとき着いて行かず、エルサレムにとどまりましたが、今になって出迎えました。一方で、メピボセテの従者ヂバ(ツィバ)は王の都落ちに馳(は)せ参じたのです。このふたりの奇妙でちぐはぐな対応は何を意味するのでしょうか。

私見ですが、ヂバとメピボセテはどっちに転んでもうまく行くように考えたのかも知れません。アブサロムが勝てば、都にとどまったメピボセテに有利。ダビデが勝てば、ダビデに従ったヂバが有利。そんな両面作戦を画策したのではないだろうか。 ※天下分け目の関ヶ原の戦いで、兄の真田信之は東軍の徳川側へ着き、弟の真田幸村は西軍の豊臣側へ着くことで、どちらが勝っても真田家が存続するようにしたことを想起させる。

しかし、そのような中でも、たとえ不利であってもダビデに加勢し、ダビデを助けた人々もいました。異邦人のアンモン人バルジライはそのひとりです。彼は、ダビデたちが都から落ち延びてきたとき、食糧や衣料品をたずさえてやって来て、この戦いが終わるまで援助し続けました(17・27~29)

ダビデはバルジライの献身と厚意を忘れませんでした。ダビデは、年老いたバルジライを祝福し、彼の残りの生涯を引き受けることで、彼に報いたいと申し出ました(19・33)

主イエスも世の終わりに報いてくださいます。

あなた方は、私が空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた。(マタイ25・31~40)

イエス様を信じるとは、イエスに伴う良いことも受け取りますが、困難も受け取ります。イエスを信じるがゆえに迫害や試練や困難があってもイエスに仕え続けます。不利な時にも従順します。

「良(い)いところ取り」をしようと思わないことです。不利になれば背信しますか。そんな卑怯な者になりたくありません。むしろ、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜ぶ者でありたいではありませんか(使徒5・41)

イエスと苦難を共にしているなら、イエスと栄光をも共にするようになります。時が良くても悪くても、イエスを信じ、イエスに従い続ける者になろう。

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サムエル記下 18章

2022年01月11日 | サムエル記

サムエル記下18・33 わが子アブサロムよ。ああ、私が代って死ねばよかったのに。

ダビデ王の軍勢は3隊にわかれ、エフライムの森でアブサロム軍と戦ったのですが、兵の数の上では劣勢であったダビデ軍の圧勝でした。

その圧勝の理由として「この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった」と記されているのは、どのような意味なのでしょうか(18・8)

先の17章で見たように、神の介入によってダビデ軍はしばしの猶予がうまれ、森の中でのゲリラ戦に持ち込むことができました。そこで戦いを有利に進めることができたと思われます。そのようなわけで、森の中での戦いに不慣れなアブサロムは、樫の茂った枝に頭を引っかけて宙づりになってしまいました。その現場を発見したヨアブの槍によって撃たれ戦死。これにより一連の反乱は収束しました(18・14)

アブサロム戦死の報を受け、ダビデ王は悲しみをあらわにしました。わが子アブサロムよ。ああ、私が代って死ねばよかったのに(18・33)

わが子でありながら敵となってしまったアブサロム。ダビデにとってアブサロムの死は素直に喜ぶことのできないものでした。

ここに父の心があります。それは、天の父なる神の心と重なります。

父なる神は、人類が悔い改めて神に立ち返ることを切に望んでおられます。神に敵対する者に対してでさえ、できるものであれば救いを得てほしい……これが父の心です。

わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなた方は心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。(エゼキエル33・11)

神は愛なるお方であると同時に、義なるお方です。義なる方であるがゆえに、神はさばかれます。義なる方であるゆえに、神は悪人を滅ぼされます。

しかし、その厳しさの背後には、「滅びるな。滅びではなくいのちを選べ」と悲痛な思いで叫んでおられる神の愛があります。

父ダビデの悲しみに、そんな父なる神の思いを垣間見るようです。アブサロムよ死ぬな。悔い改めて立ち返れ」。天の父の心を忘れてはならない。

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サムエル記下 17章

2022年01月10日 | サムエル記

サムエル記下17・14 アブサロムとイスラエルの人々はみな、アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよいと言った。それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。

首都エルサレムを制圧したアブサロムのもとには、知将アヒトペルが参謀としてついていました。彼は賢く有能な人物で、今回のアブサロムによるクーデターの陰の仕掛け人であり指南役です。

参謀アヒトペルは、この勢いでダビデ王に急襲をかけ一気にダビデの首を取るべきだと提案しました。彼の提案は、アブサロムにも周りの人々にも納得できる作戦でした。もし、彼の作戦のとおり、間髪入れず追撃がなされれば、ダビデ王はひとたまりもありませんでした。

しかし、神の介入がありました。敵がどんなに有能でも、軍事的に強くても、神が介入なさるとき大逆転が起こります。

あの十字架におけるイエス様の死も、祭司長や律法学者らの念入りな作戦でした。彼らに悪知恵をさずけ、彼らの背後で暗躍したのはサタンでした。イエスの十字架の死は、陰の仕掛け人であるサタンの圧倒的な勝利であるかのように見えました。

しかし、神が介入なさいました。神は御子を死者の中から復活させられたのです。神を信じる者は、このような神のご介入を信じます。

都落ちするダビデの時も神が介入なさいました。それは、アルキ人ホシャイ(フシャイ)の提案を通してです。ホシャイはダビデ王の側近でしたが宮殿に残り、「あなたの父に仕えたように、あなたに仕えます」と志願して、アブサロムの側についた人物です。

とはいえ、ホシャイはアブサロムと参謀アヒトペルの動向を探るために潜入していたのであり、ホシャイは王の危機を察知し、アヒトペルとは別の提案を出したのです。その内容はこうです。

ダビデ王は、子を奪われた熊のように怒っている。侮って事を急ぐと思わぬ失敗につながりかねない。むしろ、イスラエルの全軍を組織し体制を整えた上で一気呵成(いっきかせい)に王を打つべし……と。

なるほど。さすが長年ダビデ王に仕えたホシャイだけに、王の心境をよく分かっているものだ……と、アブサロムも周囲の人々も感心する中で、人々はホシャイの作戦に変更しました。

この出来事は、主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからであると記しています。人が最高の知恵をもってしても、神が介入なさるなら、神はそれをひっくり返されます。

神はこう言われます。わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする(Ⅰコリ1・19)

ホシャイの提案が採用されたことで、ダビデは逃げ延びるチャンスを得ました。そしてこのことが、後の戦いに備えて体勢を整える猶予となったのです。

祈りましょう。主よ、私の問題に介入なさってください。

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サムエル記下 16章

2022年01月08日 | サムエル記

サムエル記下16・11~12 彼を許して呪わせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主は私の悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼の呪いにかえて、私に善を報いてくださるかも知れない。

周到に計画されたアブサロム・クーデターはついに実行され、電光石火の勢いで首都エルサレムを制圧。不意をつかれたダビデ王は、わずかな手勢をひきいて都落ちの身となりました。

王の身分から一転、追われの身。しかも裏切ったのは実の息子。何という悲哀。王と王に従った民とは泣きながら下って行きました(15・23)

ダビデは泣きました。その涙は、神への悔い改めの涙であったことでしょう。国は治めても、家庭を治めることのできなかった己の足りなさと不信仰を悔い改めたのです。

だからこそ、今日の聖句のように、自分を呪う者に対して、彼を許して呪わせておきなさい。主が彼に命じられたのだと言い得たのです。

しかし感謝なことは、神の御心にそった悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導くのです(Ⅱコリント7・10)

さて、落ち延びるダビデに向かって呪いの言葉を浴びせたのは、先代の王サウルの一族のシメイ(シムイ)という男でした。「こうなったのは、神からの罰を受けているのだ」と呪ったのです(16・5~8)

「何を言うか、この無礼者!!」と言ってやりたいところです。ダビデの家来アビシャイは、王に代わって怒りをあらわにしたのですが、ダビデは、彼を許して呪わせておきなさい。主が彼に命じられたのだと答えました。

理不尽な非難や中傷に対して、言い返してやりたい、自己弁護したい……そんな思いに駆られます。

でも、そんな時、正しいさばきをなさる神を知っている人は幸いです。神のなさる正しいさばきに身を任せる人は幸いです。その人は、神からの報いを受けるからです。

自分にとっては理由のない非難や中傷かも知れません。しかし、自分が気づいていないだけで、自分の身から出た錆(さび)なのかも知れません。実際のところよく分からないという事もあります。

自己正義という私の義を基準にさばくと、思わぬ間違ったさばきをしてしまいます。しかし、神は、神の義を基準にしてさばかれるので、正しく公平なさばきをなさいます。だから、神のさばきに身をまかせるのです。そうすれば、神がその人を高く引き上げてくださいます。

神を知っている人は、どんなことにも偶然はないと知っている人です。悔しいことではありますが、シメイが呪っていることも、神のご支配の中で起きていることです。神がシメイを用いて私を叱っておられるのだと、ダビデは受け止めたのです。

良いことだけを受けるのが信仰ではありません。時には、神は私たちをお叱りになります。私たちを懲(こ)らしめられます。良いことには神に感謝するが、そうでなければ神に背を向ける……、そんなご都合主義者であってはなりません。

良いことも悪いことも、神は与え、神は取り去られるのです。神の御名はほむべきかな。

神は、正しいさばきをなさるのだと信じて、神に身をまかせてみよう。自分で自分を救おうとジタバタすると試練の荒海に沈みます。もがかないで、神に身をまかせてみよう。

ダビデもそうしたのです。そうすれば、主は私の悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼の呪いにかえて、私に善を報いてくださるかも知れないのです(16・12)

人は自分にされた悪に対して、自分で報いたいのです。自分で仕返しをしたいのです。でも、それは往々にして正しい報いにはならないのが世の常です。

相手に対しても自分に対しても、主が正しく報いてくださいます。正しい神のさばきに身をゆだねる者に幸いがありますように……。

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サムエル記下 14章

2022年01月06日 | サムエル記

サムエル記下14・24 王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。私の顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。

兄弟アムノンを殺害したアブサロムは逃亡し、ゲシュルの王タルマイのもとに身を寄せ、3年が経過しました。タルマイはアブサロムの母方の祖父であって、ダビデはタルマイの娘をめとり、その間に生まれたのがアブサロムでした。

政略結婚として異教徒の妻を迎えたのだと思われますが、ダビデがアブサロムにどのような信仰教育をほどこしたのかは定かではありません。おそらく異教徒である母の影響力が強かったのでしょう。

それが後のアブサロムのクーデターに少なからず影響を及ぼしていると思われます。

いかなる理由であれ、王子殺害の罪をおかしたアブサロムに何らかの処罰がなされるべきでした。しかし、ダビデ王は逡巡(しゅんじゅん)しました。王としては義を通さなければならない。しかし、父としてはゆるしてやりたい。この板挟みです。

ダビデ王の苦悩は、神の苦悩にも似ています。神は罪人である人類を処罰しなければなりません。処罰せず放置してしまえば、義のない混乱した世界です。だから、必ず処罰しなければなりません。これが神の義です。しかし、神はご自分に似せて創造した人類を愛しておられます。何とかして生かしてやりたいと思われます。これは神の愛です。

このようなの狭間でダビデが苦しんだように、神はそれ以上に御心を痛めておられます。私たちに求められるのは、そんな神のもとに悔い改めて立ち返ることです。
アブサロムはどうだったでしょうか。

ダビデ王の苦悩を察した将軍ヨアブの計(はか)らいで、アブサロムはイスラエルに戻ってくることができました。しかし、王の処置は「私の顔を見てはならない」。つまり、王との謁見(えっけん)禁止でした。

この時、アブサロムに求められていたことは「悔い改め」でした。しかし、記録を読む限り、彼の中に悔い改めをみることができません。

アブサロムは戻されたものの、王との謁見が実現しないまま2年が経過しました。その結果、彼のやったことはヨアブの畑に火をはなって、ヨアブの関心を引くことでした。ヨアブを介して王に取り次いでくれという要求です。悪さをして人の気を引き、自分をかまってくれと叫ぶ子どもの反応です。

本来なら、アムノン殺しの非を認め、悔い改めを示すべきです。そして、勇気を出して、自分から王との面会を求めるべきでした。

悔い改める勇気を持とう。そして、義と愛に満ちた王の前に進み出る勇気を持とう。

私たちが神を礼拝するとは、神の御顔をあおぎ見るような親しく、かつ、光栄あるものです。昔は ――今もそうですが昔はさらに―― 王に謁見し、王の顔をみるとは大変なことでした。栄誉あることでした。その王の中の王である神と顔と顔を合わせること、これが礼拝の語源となっています。

私たちが、神への礼拝に参加できることは何と光栄なことでしょうか。私たちが、恐れ多くも、王である神の御顔を拝することができるとは、何という特権でしょうか。

ですから、「礼拝させていただいている」という謙遜な姿勢が大切です。「礼拝に来てやっている」という態度はもってのほかです ――そんな人はいらっしゃらないと思いますが――。

こうしてアブサロムは、王の顔を見ることなく時は過ぎて行きました。しかし、私たちはイエス・キリストの十字架のゆえに礼拝が許されています。その感謝と栄誉を忘れてはなりません。

最後にもうひとつ。14章全体の課題は中途半端です。ダビデ王の息子アブサロムに対する対処は中途半端です。適切な処罰が成されてません。また、あいだを取りなしたヨアブも、アブサロムをエルサレムまで連れ戻しただけで、事態のややこしさ故に未解決のまま問題を放置しています。そして、アブサロムには悔い改めがありません。みな中途半端です。やがて、それが次の事件へと展開して行きます。

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サムエル記下 15章

2022年01月06日 | サムエル記
サムエル記下15・6 こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。

悔い改めとは、心の向きを神の方に向けること。そして、神の御前で罪を告白して心の扉を開けることです。そうすれば、神の光が心の闇を照らすことになります。

しかし、悔い改めのないアブサロムの心には闇が広がり、父ダビデへの敵愾(てきがい)心が芽生え始めていました。

アブサロムは、ダビデ王のもとに陳情(ちんじょう)にやってくる人々の話しを親身に聞いてやり、「私が王だったら、あなたの訴えの通りにできるのだが」と言い、人々の心を盗みました。

神が油注いだ王はダビデです。しかし、そのダビデを出し抜いて、アブサロムは民の都合の良い聞き役を演じたのです。人々の心は徐々に、アブサロムになびくようになって行きました。

このような行為を聖書は、人々の心を盗んだと記しています。物を盗むことも罪ですが、〝心を盗む〟ことも罪です。

そもそも最初に人の心を盗んだのは誰ですか。それは悪魔です。神を信頼し、神に従順するアダムとエバの心を悪魔は盗みました。神へ向かうべき心を自分に向かせ、支配したのが悪魔です。

さらに悪魔は、神に立てられた指導者ダビデに従う民の心を、アブサロムを使って盗みました。アブサロムのしたことは悪魔的な働きです。

問題があれば、神に立てられた王と協力して解決すべきです。問題を不平や不満へと助長させるようにして民衆の心を盗む行為は、やがて王国を分裂の危機に追いやって行きます。

そして、ついにアブサロムは、国を二分するクーデターを引き起こしました。

悪魔が人の心を盗んだ結果、神と人とを引き離すことになったように、アブサロムが民の心を盗んだ結果は王国の分裂でした。こうして、王と民とを引き離すことになりました。

私たちは人の心を盗むようなことがないだろうか。また、自分の心を悪魔や世俗に盗まれることはないだろうか。点検すべきです。

お金や世の富に心を盗まれないようにしよう。人のうわさ話や愚痴や不平話に心を盗まれないようにしよう。悪魔の甘いさそいによって心を盗まれないようにしよう。

また逆に、そのようにして他者の心を盗むようなことをしてはなりません。それは、悪魔のお先棒かつぎです。

人の心は、本来、神に向かうように造られています。神に向かうとき、人の心は本来の姿を取り戻します。だから祈りましょう。主よ、私の心があなたにしっかり向くように、私の心をとらえてください。

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サムエル記下 13章

2022年01月05日 | サムエル記

サムエル記下13・21 ダビデ王はこれらの事をことごく聞いて、ひじょうに怒った。

第13章は、ダビデの息子たちが起こした事件の記録です。ダビデの罪に続いて、次は息子たちの罪です。こんな時、親はどうすべきなのか、考えさせられる問題です。

もちろん、人類は罪を犯して以来、罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません(創4・7)とあるように、親も子も各々が罪と向きあい、それを治めなければならないのは言うまでもありません。

ダビデ王には幾人もの妻があったため、王子たちは異母兄弟ということになります。その長男アムノンは異母妹のタマルに恋して、ついに彼女を辱(はずかし)めるにいたる顛末(てんまつ)が記されています。そのことで、タマルの実兄であるアブサロムは、アムノンを憎み、復讐を計画します。そしてある日、王子たちの祝宴をもうけ、その場でアムノンを殺害したのです。

なぜこのような忌まわしい事件が起きてしまったのでしょうか。

アムノンと妹タマルとの事件の一部始終をダビデは知っていました。そのことを聞いて、ダビデは非常に怒ったと記しています(13・21)

この時の、父としてのダビデの対応はどうだったのでしょうか。激しく怒ったと記されてはいますが、どのような処罰をしたのか、その後の対応については何も記されていません。

子どもたちの罪に対して、ダビデは父親として対処しなければなりませんでした。しかし、激しく怒ったものの、具体的な手だてを施さなかったのではないかと思われます。

王としては立派なダビデではありましたが、先のバテシバ事件では夫としてのだらしなさが露呈し、今回は父親としての弱さが露(あら)わにされました。

父親とは、神が天の父であることのモデル(型)のような存在です。父なる神の権威と愛を、少しでも具現化するのが親の務めです。この親としての正しい権威と愛が失われるとき、家庭は崩壊し、社会が不安定になります。

もちろん、家庭を神の御心にかなうように治める難しさは百も承知です。私自身も自分が親であることを畏(おそ)れます。それでもなお悔い改めながら、そして恥ずかしながら、親として子たちを訓戒する務めを果たさなければなりません。

社会の秩序が乱れた時代だからこそ、親の父性の回復が求められる時代です。家庭にも、社会にも父性的な権威と愛の回復が求められています。

祈りましょう。親たちが、正しい権威と愛を表現できますように。そのことによって、父なる神が定められた霊的な秩序が回復しますように。

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サムエル記下 12章

2021年12月29日 | サムエル記
サムエル記下12・7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です」。

ダビデは自分の罪を隠し通そうとしました。しかし、神はそれを明らかにされます。人の罪を暴露するなんて、神様も意地が悪いと思われますか。

でも、これは神の愛です。私たちを闇の支配から救うために、神は私たちの罪を明らかになさいます。罪を隠し通すことができてラッキーだなんて思わないでください。

最後の審判の時になって、悔い改めるチャンスの無い状況で明らかにされるのが良いでしょうか。それとも、いま明らかにされて、悔い改めて救われるのが良いでしょうか。後者こそ幸いです。

神は、預言者ナタンをダビデに遣わして、例え話を語られました。

多くの羊や牛を所有する富んだ男が、旅人をもてなすために、自分の羊をほふるのを惜しんで、一匹の羊を大事に育てている貧しい人の羊を横取りしてもてなしたという話しです(12・1~4)

これを聞くや、ダビデは激怒して言いました。「その裕福な人は罰せられるべきである」(12・5~6)傍目八目(おかめはちもく)とはこのことです。

悲しいかな。他人の罪はよく分かるが、自分も同じ罪人であることが分からない。これが罪人の性(さが)です。他者の目にある小さな塵を発見するのはプロ並みですが、自分の目に横たわっている大きな梁(はり)を発見できない霊的盲目です。

罪のある人間が、罪のない御子イエスを十字架につけたように、罪人は、自分こそ十字架につけられるべき罪人であることが分かりません。むしろ、他者の罪がよく分かるのです。

ですから、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」と、主イエスは祈ってくださいました。

他者の大切な小羊をうばった裕福な人の罪は分かっても、ウリヤの大切な妻を横取りした自分の罪が分からない。そんなダビデに、神の御言はするどく突き刺さりました。

あなたがその人です。(12・7)

私たちは神の御言によらなければ、自分が「その人だ」「自分が罪人だ」とは分からないのです。

多くの場合、私たちは神の御言ではなく、人の言葉や人の基準で生きています。だから、この程度のことは誰もやっているじゃないか……、今時の社会ではこの程度は大丈夫だ……と考えます。

「あなたがその人です」という、神の御言に照らされなければ、ダビデも、私たちも、自分の罪を知ることができません。

神の御言は、私たちの真の姿を映し出す鏡のようです。世の人々の言葉も、世俗の基準や常識も、私を正しく映し出すことはできません。それらは歪んだ鏡、曇った鏡です。

神の御言は、罪人である私の姿を映し出します。また、神の御言は、罪がゆるされ義とされた私の姿をも映し出します。そして、神の御言という鏡は、死ぬ他にない罪人が、神の子とされ、永遠のいのちを与えられた姿をくっきりと映し出すのです。

ダビデは、神の御言によって自分の罪を知らされました。そして、悔い改めて自らの罪を告白しました。罪は隠すことによって解決するのではなく、神の御前に明らかにして解決します。

「罪を告白する」とは、心の扉を神の前に開くようなものです。扉を開ければ、太陽の光が部屋を明るくするように、罪を告白して、心の扉を開けると、義の太陽が私を照らします。

ダビデは、罪を隠し通そうとしていた時のことを告白しました。私が自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、私の骨はふるび衰えた(詩篇32・3)。しかし、ダビデは悔い改めて、罪を告白し、私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。私は言った、『私のとがを主に告白しよう』と。その時あなたは私の犯した罪をゆるされたのです(詩篇32・5)

祈りましょう。私の罪を告白します。主よ、あなたの義の光で照らして、私をきよめてください。そして、光の中を歩むことができるように、導いてください。

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サムエル記下 11章

2021年12月28日 | サムエル記
サムエル記下11・27 しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。

一般的な歴史書は、その王朝にとって都合の悪いことは抹消したり改ざんして、王の正当性を擁護し称賛する記録に終始するものです。

日本の歴史教科書問題もその点が議論されています。しかし、聖書はダビデ王の過ちを克明に記録しています。

何もここまで詳しく記録しなくても……と思うほどです。

なぜなら、この記録は、ダビデ王朝の正当性のためではなく、主なる神のご支配の正当性を主張するための記録だからです。天の公式文書だからこそ、正直にありのままが記されています。

さて、先のアンモンとの戦争は続いていましたが、ダビデ王は王宮にとどまっていました。そんな中、出兵しているウリヤの妻バテシバを見初(みそ)めたダビデは姦淫の罪をおかしました。

彼女の妊娠を知るや、ダビデは事態をもみ消そうと躍起になるのですが、それもうまく行かず、とうとうウリヤを戦争の激戦地に追いやって戦死させ、喪が明けるやバテシバを妻として迎えたのです。

だれにも知られることなく、ダビデは自分の罪の隠蔽(いんぺい)に成功しました。状況を知っていた側近もいたでしょうが、王に忖度(そんたく)して、黙認するしかありませんでした。

人の目には隠すことはできても、神の目をごまかすことはできません。ダビデのしたこの事は、主を怒らせたと、聖書は記しています。 ※新改訳では「ダビデの行なったことは主の御心をそこなった」。

人は罪を隠そうとします。しかし、隠すことによって罪の苦しみは増します。人は罪をおかすと、ありのままの姿で神の前に出られなくなって、自分で自分を隠そうとします。

アダムとイブが罪をおかしたときも同じでした。まず、イチジクの葉でおおいを作って、裸である自分を隠しました。それから、主が来られる足音を聞き、彼らはものかげに隠れました。

そして、なぜ善悪を知る木の実を食べたのかとの問いに、アダムは「イブのせいです」と言い、イブは「ヘビのせいです」と、それぞれ言い訳によって自分の罪を隠しました。

悪魔は、罪を隠すように誘導します。隠すことによって人の心に闇の世界を作るためです。悪魔は、その闇を砦(とりで)として支配するのです。このように、罪を隠そうとすることは悪魔の罠です。

罪を隠そうとすると、ますます悪魔の支配が強まるだけです。闇が広がるだけです。 ※悪魔や悪霊は心の暗闇を足掛かりにして、わたしたちを支配する。

ダビデは、まさに闇が広がる経験をしました。人の目からは隠し通すことができましたが、その分、闇の世界は広がりました。その分、悪魔の支配の深みへと落ちて行きました。

神は、ダビデのしたことを「怒られた」のです。それは、神の御心に反することです。自分のしたことを怒ってくださる方がおられるとは、何と幸いなことでしょう。

罪を怒られる神は、また、隠されていることを明るみになさるお方でもあります。どんなに隠そうとしても、神の目から隠すことはできません。神の目にはすべてが明かです。

神の目を意識するなら、光の中を歩くことができます。神は、私たちを光の世界へと招いておられます。その招きに応えて、罪を告白する勇気を得よう。隠せば大丈夫だという悪魔の罠にはまってはならない。

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サムエル記下 10章

2021年12月27日 | サムエル記

サムエル記下10・2 そのときダビデは言った、私はナハシの子ハヌンに、その父が私に恵みを施したように、恵みを施そうそしてダビデは彼を、その父のゆえに慰めようと、しもべをつかわした。

アンモン人の王ナハシ(ナハシュ)が死にました。ダビデ王はかつて世話になったナハシの訃報(ふほう)に接し、使節をつかわして哀悼の意を表しました。

ダビデ王は、先のヨナタンの息子メピボセテに恵みを施したように、隣国アンモンの王ナハシの息子ハヌンにも恵みを施そうとしたのです。

国を安泰させる手段は戦争以外にないと思われた時代に、ダビデの政策は、恵みの手を差し伸べることによって平和をもたらそうとするとするものでした。

しかし、ナハシの息子ハヌンは、ダビデの厚意を疑い、ダビデの使者に侮辱を加えて帰らせました。

ハヌンはダビデのしもべたちを捕え、おのおの、ひげの半ばをそり落し、その着物を中ほどから断ち切り腰の所までにして、彼らを帰らせた。(10・4)

これによって両国の関係は悪化。アンモン軍の蜂起に対してイスラエルが応戦して勝利した。以上が第10章のあらすじです。

イエス様が語られた例え話を思い出します。

ある人がブドウ園を造り、農夫たちに管理させました。収穫の季節になって分け前を得ようと使いの者を差し向けると、袋叩きにしたり、殺したりして主人のつかわした使いの者を愚弄(ぐろう)した話しです。

また、王子の婚宴の準備ができたので、あらかじめ招待してあった人々に使いをやったら、彼らは断ってしまったという話しもなさいました。

ブドウ園の主人も、王も、自分自身が直接出向かないで、使いの者を派遣するところが同じです。そして、使いの者であるが故に、人々はこれを軽んじました。

神は直接に出向かれるお方ではありません。旧約聖書の時代は、天使を遣わして語られ、預言者を派遣して伝えました。新約の時代になって、御子を遣わされました。でも、その御子も大工の息子の身分で来られたので、人々は軽んじました。

さらに、御子イエスはご自分が選んだ弟子たちを派遣されました。しかし、弟子の多くは漁師や取税人や遊女などの取るに足りない人々でした。だから人々は彼らを軽んじました。

ブドウ園の主人が直接行けばいいのに……、王みずから出向けばいいのに……と思いますが、神のなさり方は使者を遣わすのです。それは謙遜を学ばせるためです。

神は、神への謙遜を学ばせるために、あえて欠点のある牧師を教会にお立てになります。人々がへりくだりを学ぶために、神はあえて無きに等しいクリスチャンを証人として用いられます。

こうして、終わりの時に「この小さい者にしたことは、わたしにしたのだ」と、主からのねぎらいの言葉を受けることになるでしょう。

アンモンのハヌンは、使いの者だというので軽んじました。ダビデが差し向けた恵みの手を拒絶しました。ハヌンのようになってはらない。しもべを侮辱したブドウ園の農夫のようになってはならない。婚礼の知らせを断った民のようであってはならない。神の招きに謙遜になって応じる者は幸いです。

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サムエル記下 8章

2021年12月24日 | サムエル記

サムエル記下8・15 こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。

ダビデの治世は安定して行きました。それは、外敵に対して勝利しただけでなく、全イスラエルにおいて、正義と公平を行ったからです(8・15)

この聖書箇所は、新改訳では正しいさばきを行なった。新共同訳では裁きと恵みの業を行ったと訳されています。

かつて、自分のいのちをつけねらったサウル王の死でさえ、ダビデは哀悼の意をあらわしました。これは決して民の好評価をねらったパフォーマンスではありませんでした。

サウル王の息子イシボセテを擁立して敵対した将軍アブネルの死に際しても、また、イシボセテの死に際してもダビデの態度は変わりませんでした。

ダビデは、人間的な裏工作をもって取り入ろうとする人々を退け、神の正義をつらぬきました。この点が、「正義と公平を行った」とされる所以(ゆえん)です。

それでも、人間としてのダビデの限界はあります。真の王であるイエス・キリストが支配なさる王国で、この正義と公平は完成します。そのような神の国が完成する時を待ち望みつつ、クリスチャンは少しでも「正義と公平」を表すために世におかれています。

祈りましょう。神の国の正義と、神の国の公平を表すことができますように。そして、神の御国が来ますように……。

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