goo blog サービス終了のお知らせ 

朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

出エジプト記 26章

2024年02月29日 | 出エジプト記
出エジプト記 26章
その垂れ幕はあなた方のために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。
(26・33)


引き続き26章も幕屋の詳細が記されています。幕屋の中心部は聖所と至聖所です。その聖所と至聖所は板塀に囲まれた部屋になっており、その板の寸法と枚数が記録されています。

また、板で囲まれた聖所と至聖所の天上部は大きな幕で覆われていました。一枚物の幕を作ることができないので、10枚の幕をつなぎ合わせて一枚にし、それで覆いました。

さて、板塀で囲まれた部屋の入り口から入ってすぐの部屋が聖所であり、その奥にある正方形の部屋が至聖所です。この至聖所は神に最も近く、かつ最も聖なる所を意味しています。この至聖所はを象徴しています。

毎日、祭司たちは聖所に入って神への礼拝のために燭台に油を注ぎ、パンを供え、香をたきました。しかし、至聖所に入ることはできませんでした。定めを無視して入った者は神に撃たれて死んでしまうとされていました。

そのように誤って至聖所に入ってしまわないために、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕がもうけられていたわけです。

主なる神はいつくしみ深いお方ですが、近づきがたいほど聖なるお方でもあります。至聖所を隔てる垂れ幕は、神の聖さをあらわしています。その聖なるが故に、罪人のままでは近づくことのできないことを啓示しています。

しかし、この至聖所には年に一度だけ贖罪の日に、祭司たちの代表である大祭司が犠牲の小羊の血をたずさえて入ることができました。このことは次のことを意味していました。

①罪のきよめ無くして天国に入ることができない。
②罪をきよめる真の大祭司が必要である。


イエス・キリストこそ真の大祭司です。イエス様は動物の血ではなく、御自身の血をたずさえて天に入られました。私たちの先駆けとなって天に入る道を開いてくださったのです。

ですからイエスが十字架で血を流して死なれた瞬間、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が、上から下に向かって引き裂かれてしまいました(マタイ27・51)

これは人の手で裂かれたのではありません。舞台の緞帳の数倍の厚さがあるとされる神殿の垂れ幕を、人の手で引き裂くなど不可能です。しかも〝上から下に向けて〟裂かれたのです。人が裂くとしたら下から上へと裂くしかありません。

この垂れ幕が引き裂かれる光景を、聖所で奉仕していた祭司たちが目撃しました。まだ見たことも入ったこともない至聖所が目の前に露わにされた出来事に、祭司たちは驚嘆したことでしょう。

イエス・キリストが十字架で死なれたことによって神殿の垂れ幕が引き裂かれたことは、今まで閉ざされていた至聖所への道―それは天国への道―が開かれたことを意味していました。

今や、真の大祭司であるイエス様によって、私たちは大胆にも至聖所である天に入り、聖なる神に近づくことができるのです。


出エジプト記 25章

2024年02月28日 | 出エジプト記
出エジプト記 25章
彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らの内に住むためである
(25・8)


シナイ山に登ったモーセは、神から聖所建設を命じられました。聖所とは幕屋とも呼ばれます。厳密には幕屋の中に聖所があるので区別されるべきものですが、ここでは幕屋と呼ぶことにしましょう。

出エジプト記の25~31章は幕屋の材質から寸法にいたる設計図と、幕屋における礼拝の教えが記録されています。

この幕屋建設の目的は、神がイスラエルの民と共に住むためです(25・8)

私たちの主は遠く離れて天からながめておられる神ではなく、実に私たちと共に住もうとなさる神……インマヌエルの神です。 ※「インマヌエル」とは「神はわれらと共に居られる」の意。

幕屋を通して神は人と共に住まわれます。幕屋を通して人は神に出会うことができます。つまり幕屋における礼拝の中に神が共に居られ、神と出会うことができるのです。

この幕屋を完成させ、そこで神を礼拝することがイスラエルの任務です。そして、この働きは新約教会である私たちに引き継がれ、イエス・キリストにあって完成します。

出エジプトの目的とは何でしょうか。すでに何度も見てきたように、〝まことの礼拝の回復〟です。これは聖書全体に流れる重要なテーマです。神は、まことの礼拝者を求めておられます。まことの礼拝者たちによる御国を完成しようとなさっています。

その〝まことの礼拝の回復〟への重要な第一歩が幕屋建設でした。

旧約の人々は、地上の物質を材料にして幕屋を建てました。しかし、それはあくまで仮の姿です。新約のクリスチャンによって幕屋の意味するところが完成します。

では、新約の私たちはどのようにして幕屋を建てるのでしょうか。

あなた方はどのような材料で建てるのか気をつけなさい(Ⅰコリント3・10~13)と注意をうながしています。火で燃えてしまう材料ではなく、信仰による材料、御霊の実という材料を用いて建てます。

新約では私たちが神の宮神殿)」です(Ⅰコリ3・16)。つまり、私たちキリスト教会が神殿であり幕屋です。そこに神が永遠に住まわれます。そのために私たちは世から呼び出されました。光栄ある務めに感謝しよう。


出エジプト記 24章

2024年02月27日 | 出エジプト記
出エジプト記 24章
モーセはその血を取って民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなた方と結ばれる契約の血である」
(24・8)


モーセは、十戒を始めとする神からの律法を民に語り継ぎました。その内容が20章~23章に記された事柄でした。それをもとに、神はイスラエル民族と契約を結ばれたのです。

これに対して民は、「私たちは主の語られた言葉をみな行います」と応えました(24・3)

過越しの事件、紅海渡航、荒野での水とマナなど、民は数々の主の御業を体験してきました。このような神が他におられるだろうか。イスラエルの民は、神の律法に基づく契約に心から同意したのです。

ただ、残念なことですが、批准したもののイスラエルの民は従う事ができずに何度も違反してしまうのがその後の歴史です。「その通りだ」と納得するも、従いきれない人の弱さも見逃してはなりません。

新約にいたって、弟子のペテロが「あなたを知らないなどと決して言わない」と誓ったにもかかわらず、主イエスを否んでしまった姿も同じです。でも、新約との大きな違いは「聖霊が注がれた」ことです。聖霊の大いなる助けによって、神の御言に従うようにされたのです。

さて、本題に戻しましょう。契約には〝血〟が注がれました。神への献げものとして屠られた羊や牛の血は、祭壇と民に注ぎかけられました(24・6~8)

この時の光景を想像してみてください。周囲は血のしたたりで赤く染まったことでしょう。契約に同意した人々にもこの血のしぶきは降りかかりました。血は私たちに強烈な印象を与えます。

エジプトにおける過越しの時も血がしるしとなったように、シナイ山での契約においても血がしるしとなりました。

イエス様も十字架で死なれる前、弟子たちとの食事の席で、赤いぶどう酒の入った杯を手にして、これはわたしの血で立てる契約の血だと言われました。

真っ赤なぶどう酒のような、神の尊い血で立てられた新しい契約を私たちは受けています。このイエスの血は契約のしるしです。聖餐式に受ける杯は、契約のしるしです。

この血は、神がご自身のいのちを献げられたという〝しるし〟です。神の尊い血によって成就した契約だからこそ、それは確かな約束です。確かな救いです。新しい契約を感謝します。


出エジプト記 23章

2024年02月26日 | 出エジプト記
出エジプト記 23章
あなたは彼ら、および彼らの神々と契約を結んではならない。……それは必ずあなたの罠となるであろう。
(23・32~33)


様々なテーマが取り上げられています。裁判における証言。安息年。ユダヤの3大祭について等々。これらはレビ記などでも記されているので、その機会に取り上げることにします。

さて、23節以降は、約束の地カナンの先住民であるアモリ人・ヘテ人・ペリジ人・カナン人・ヒビ人・エブス人を滅ぼすことについて記されています。彼らは偶像を拝み、道徳的にも退廃した民族でした。冒頭の聖句の「彼ら」とは、そのような民のことです。

旧約聖書には、神が、イスラエルを用いて彼らを滅ぼしてしまわれることが記されています。つまり聖絶についての記録であり、いまでも論争とつまずきの種になる記録です。

聖書を人本主義ヒューマニズムで見るなら、これ以外にも多くのつまずきの石は散在しています。しかし、聖書は神本主義です。私たち人間は、神の主権を認めるという謙遜さを忘れてはなりません。

神は、罪をさばき滅ぼされるのです。旧約の時代、神は聖絶を通して、神の聖なることを顕わされました。しかし、このことは、宗教を理由に戦争を正当化する根拠にはなりません。そう考える熱狂的なキリスト教徒やイスラム教徒がいますが、私はその立場を支持しません。

さて、神は、異教の人々(偶像礼拝者)と関わりを禁じられました。

彼らとの関わりはやがて罠になると、主は言われます。このようにして、神は、イスラエルを聖なる民とするために世俗と区別されたのです。しかし、これが行き過ぎて、後の選民思想や分離主義(パリサイ主義)を生み出すことになりました。

19章でも取り上げたように、イスラエルは「祭司の国」であり、同時に「聖なる民」です。

祭司の国であるためには、人々を神へ導くのですから積極的に世俗と関わって行きます。宣教のために世と深く関わって行く生き方です。ところが、そうするあまりに妥協し、「聖なる民」としての純粋性を失ってしまいます。かたや、「聖なる民」であるためには、世と距離をおいて、世俗の影響を避けようとします。すると、純粋ではあるが孤立してしまい、「祭司の国」の役目を果たせません。

このように祭司の国聖なる民というふたつのテーマは相反する課題です。

このふたつの課題を新約の教会も抱えています。このふたつが両立するところ……それは「霊とまことをもってささげる礼拝」です。真の礼拝者として、新約の教会は世から呼び出されました。私たちがまことの礼拝者であるとき「聖なる民」です。また、まことの礼拝者であるとき、人々を執り成し伝道できる「祭司の国」となり得ます。


出エジプト記 22章

2024年02月24日 | 出エジプト記
出エジプト記 22章
あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。
(22・21)


神の律法は弱者への配慮を忘れていません。

いつの時代も寄留の他国人は、不自由な暮らしを余儀なくされています。そこで、かつてはエジプトに寄留していたことを思い起こして、イスラエル在住の異国人に配慮せよと教えています。

イスラエルにとってエジプトの経験は苦しいものでしたが、振り返ってみてそれは良かったことです。何故なら同じ境遇にいる人々を哀れむことができるようにされたからです。

私たちも、苦しみの中で神の慰めを受けたので、同じように苦しんでいる人々を慰めることができます。このことを聖書は語っています。

神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また、私たち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」
(Ⅱコリント1・4)


また、寡婦(やもめ…未亡人のこと)や孤児を悩ましてはならないと命じています(22・22)。レビ記で、収穫の落ち穂は弱者のために残せと記されているように、相互扶助による助け合いを定められました。

神がそのように命令なさるのは、神ご自身が哀れみ深いお方だからです(22・27)。弱者の叫びに耳を傾けてくださる哀れみ深い神に感謝します。

現世は「強者こそ正義」「成功者こそ正義」といった価値観が支配的です。しかし、私たちの主は弱者を哀れんでくださる神です。弱さを認め受け入れて行く社会や教会でありたいと思います。

そのためには、まず自分の弱さを認めるところから始まります。

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス様は律法を解釈なさいましたが、言いかえるなら、自分の弱さを認めるように、隣人の弱さを認めなさいということでしょう。

自分の弱さを認める人は幸いです。なぜなら、哀れみの心を持つからです。神は、その弱さを忘れてはならないと言われるのです。


出エジプト記 21章

2024年02月23日 | 出エジプト記
出エジプト記 21章
ヘブル人である奴隷を買う時は、6年の間仕えさせ、7年目には無償で自由の身として去らせなければならない。
(21・2)


21章~23章は生活上の具体的な律法が記されています。今から3千年以上も前に、このような水準の高い法律をもっていた民族は他にありませんでした。祭司の国・聖なる民にふさわしいルールが定められました。

中でも奴隷に関する法律に注目してみましょう。

奴隷制度というと近代の欧米に見る黒人奴隷が思い出されますが、それと比較してイスラエルの奴隷に対する扱いは、奴隷の人格を尊重する様子が感じられます。奴隷を撃って死なせた場合は主人が罰せられるなどはその一例です(21・20)。 ※神が奴隷制をある程度お認めになっていることに驚く。しかし、今日のように基本的人権や社会保障が確立されていない時代に、敗戦国の民がぎりぎり生きることのできる社会制度が奴隷制であった。しかし、そんな最底辺の立場にある奴隷にも、いつくしみの眼差しを、神は注いでおられる。

さて、2節の内容は、同胞奴隷の場合、7年目には解放するよう求めています。かつて自分たちはエジプトで奴隷であったことを忘れないためです。かつての奴隷時代の苦しみを思い起こし、奴隷に対して哀れみ深くあるようにと教えています。

新約の時代の私たちも、かつては罪の奴隷であったことを忘れてはなりません。それは今も罪の中にあって苦しんでいる人々への哀れみを忘れないためです。

クリスチャンはイエスによって罪ゆるされ、義人とされた罪人に過ぎません。それを忘れてしまうと、他者を哀れむよりも非難し、さげすみ、さばいてしまう傾向にあります。

王から1万タントの借金を免除された男の話しを思い出してください(マタイ18・21~35)。彼は自分のかつての姿を忘れたために、1デナリの借金のある友を哀れむことができなかったのです。 ※1万タラントは20万年分の労働賃金。かたや1デナリは1日分の賃金。

罪の奴隷であった私さえも、神は哀れんでくださいました。このことを聖霊によって心に刻むことができますように。 ※神は何故イスラエルの民をエジプトで奴隷となることをお許しになったのだろうか。当時の世界規模の飢饉が収束した時点で民は約束の地カナンに戻れば良かったのにと思われる。しかし、この民が「祭司の国」となるため、奴隷の身分を味わうようになさったのではないか。


出エジプト記 20章

2024年02月22日 | 出エジプト記
出エジプト記 20章
わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である
(20・2)


冒頭の聖句には、自分たちが、かつては奴隷であったことを忘れてはならないこと、またそこに戻ってはらないという神の願いが込められています。新約の私たちもそうです。かつては罪の奴隷でした。私たちの主は、そこから救い出してくださった神です。

自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない(ガラテヤ5・1)のです。

では、奴隷から解放されたら何をやっても良いのでしょうか。それは本当の自由ではありません。スポーツはルールの中で楽しくプレイできますし、車の運転は交通ルールの中で安全に移動できます。人生も同じです。

奴隷から解放されたイスラエルにもルールが必要でした。それが20章に記された「十戒」です。「十戒」は生活を縛り付けるものではなく、人生を楽しくかつ安全に進むためのルールです。

言い換えるならばです

神である主は、イスラエルをエジプトから導き出して荒野へ導かれました。荒野とは道がないところですどちらに進めばよいか分かりません。いったい約束の地に向かうにはどの方向に進めばよいのでしょうか。

そんな道なき荒野に、神は十戒というを与えられました。

「十戒」を窮屈な規律だと誤解してはなりません。それは「道」です。道がなければどっちに進めばよいか分かりません。そして道にはおのずと幅があります。狭さがあります。

右端と左端が極端に広ければそれは道ではなくグランドです。これでは方向が分かりません。だから道の両端を決めているのが十戒です。ですから、多少の狭さは当たり前です。

何でも欲するがままにするのが自由でしょうか。欲しいからといって盗むでしょうか。好きだからといって姦淫するでしょうか。腹が立ったからといって傷つけたり殺すでしょうか。

そんな自由は、右端も左端もないグランドのようなだだっ広い道なき荒野です。何をするのも自由だと主張する現代は、まさに「荒野」のような混沌とした時代です。

狭い道は不自由だ。もっと自由に、もっと幅を広げて快適にしよう。こうして右も左も広げたらどうなりますか。

人生を終わってみれば、道を進んだのではなく、道の右端から左端に横断したに過ぎないという人生で終わってしまいます。ちっとも天国に向かって進んでいなかったと分かって愕然とするでしょう。

ですから、道にはおのずと左右の幅があるのであり、それはある程度の狭さを意味しています。どこを進むのも勝手ですが、いのちに至る道は狭いのです。約束の国へと続く道は限られているのです。その道を外れるなら、そこは崖や沼などの危険なところです。

新約時代に生きる私たちにとって、この十戒の道は、わたしが道だと言われるイエスご自身です。

イスラエルの人々は十戒を自分の力で行おうと努力しましたが挫折しました。イエス様につながる以外に、十戒のルールに従うことは誰にもできません。私の内におられるイエスが、十戒を私の内に完成してくださるのです。


出エジプト記 19章

2024年02月21日 | 出エジプト記
出エジプト記 19章
わたしの契約を守るならば、あなた方は……わたしの宝となるであろう。……あなた方はわたしに対して祭司の国となり、聖なる民となるであろう
(19・5~6)


神はイスラエルをシナイ山に導きました。それは民と契約を結ぶためです。この契約を通して、神はイスラエルに三つの使命というか特権をお与えになりました。それは……、

(1)宝の民とする……何と光栄ある御言でしょう。

奴隷であった民を「宝」としてくださるのです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43・4)と言われるのです。逆に、私を宝だと言ってくださる主を、私たちは宝としているでしょうか。心と力と命をつくして主を愛そう。

(2)祭司の国とする……神に対しては礼拝をささげる国民です。

主は、私たちをまことの礼拝者とするためにエジプトから呼び出されました。と同時に、人々に対しては執り成し役です。それが祭司の役目です。

祭司の元の意味は「橋渡し役」です。神に礼拝をささげつつ、人々と神との橋渡しをします。でも、この意味を忘れて、イスラエルは誤った選民思想に傾いて行きました。上から目線的な態度は、「祭司の国」とはかけ離れています。

はたして、今日の教会はどうだろうか。同じ過ちをしていないか吟味しよう。人々とイエス様との間との「執り成し役」「橋渡し役」として、謙遜にその任務を果たすことができるよう祈ります。

(3)聖なる民とする……「聖」には二つの意味があります。

第一は、罪のきよめられた状態のことです。これは現在進行形です。罪ゆるされた私たちが、日毎の罪からもきよめられることを主は願っておられます。

第二は、神のために区別するという意味の「聖」です。言い換えれば「聖別」のことです。たとえば、聖餐式のグラスやパン皿は、日頃の飲み食いのためには使いません。神のご用のために区別しています。これが聖別の意味です。

このように、神は私たちを神のご用に使うために、この世から区別なさいました。

「あなた方は、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である」(Ⅰペテロ2・9)とあるように、私たちもこの務めを受けています。


出エジプト記 18章

2024年02月20日 | 出エジプト記
出エジプト記 18章
あなたも、あなたと一緒にいる民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。
(18・18)


荒野を旅する中で、民の日々の相談事がモーセのもとに寄せられるようになりました。家庭の悩みや仲間同士のトラブル、信仰の上の疑問や質問など様々だったでしょう。

モーセはそれに対して一つひとつ対応していました。そのため、宿営地のモーセのもとには長蛇の列ができていました。

これに対して、モーセの舅(妻の父)のエテロは忠告と提言をしてくれました。このままでは指導者のモーセは手一杯、また、民も解決に時間がかかるため両者共に疲弊してしまう。だから、モーセ以外のリーダーを立てて導くことです(18・18)

教会においても同じことが言えます。初代教会の時代も、12人の使徒たちが教会員の身のまわりの世話までしていて混乱しました。そこで、聖霊と知恵に満ちた執事を立てました。

エテロの提案もそうでした。10人の長からはじめて、50人の長、100人の長、千人の長を立てました。モーセがひとりで対処するのではなく、リーダーを立てました。

教会も牧師ひとりですべてをこなすのではなく、小人数を養うことのできるリーダーが必要です。聖霊と智恵に満ちたリーダーたち、神を畏れる誠実なリーダーたちが必要です。

そのリーダーの資質とは、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物と記録しています(出18・21)。この箇所を新改訳では、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々と記録しています。

単に能力のある人物というのではなく、「神を畏れる」「誠実な人」であることが肝心です。神に対しては畏れ」、人に対しては誠実という態度を持ち合わせる人物です。

そんなリーダーたちの存在が、出エジプトした民を約束の国へと導くのです。


出エジプト記 17章

2024年02月19日 | 出エジプト記
出エジプト記 17章
モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
(17・11)


旅の行く手をはばむ事件が起きました。アマレク人がイスラエルを攻めてきたのです。長い間エジプトで奴隷であったイスラエルの人々には、戦うための武器も術もありません。

しかし、忘れてならないことは、神の民に敵対することは即ち主なる神に敵対することです。ですからこの戦いは主が戦われます。逆に、イスラエルに親切にする者を神は祝福されます。この原則は一貫しています。かつて、イスラエルを滅ぼそうとしたエジプトは壊滅的な打撃を受け、かたや、生まれ出る男児を助けた助産婦たちは祝福されました。

さて、そこでモーセはヨシュアを軍の長に任命し戦いに送り出し、モーセとアロンとホルは戦いを見渡せる丘に登りました。モーセが手を上げているとイスラエルが勝ち、手を下げると劣勢になりました。

聖書では、手を上げて御名を呼ぶ祈る)」(詩63・4)とか、きよい手を上げて祈る(Ⅰテモ2・8)とあるように、手を上げるとは「祈り」を意味しています。また、礼拝の最後に牧師が手を上げて祝祷するのも同じです。

教会には、ヨシュアのようにからだを動かして奉仕する人も必要ですが、それと共に、否それ以上に祈りが欠かせません。祈りの裏付け、祈りの支援がなければ、〝アマレクが優勢〟になってしまいます。

祈りは、私たちの目も耳も心も主に向けることです。主以外の何かに、私たちの目や耳や心が向いてしまうなら、どんな活動もむなしい結果に終わるでしょう。祈ってから動き出そう。祈りつつ進もう。


出エジプト記 16章

2024年02月17日 | 出エジプト記
出エジプト記 16章
イスラエルの人々は40年の間マナを食べた
(16・35)


荒野で食物を得ることは至難のわざです。神によって養われる以外に生きのびる方法がないのが荒野です。神は民に対して、この荒野で神によって養われる経験をお与えになりました。

そこで神は、マナを降らせて人々を養われました。このマナは天から降る不思議なパンでした。何とも形容しがたい食物であったため、人びとはマナなんだこれは?)」と呼んだため(16・15)、それがこの食物の名となりました。 ※ちなみに森永製菓のビスケット「マンナ」命名の由来はこの「マナ」である。また、創業者の森永太一郎は熱心なキリスト教徒であった。

神は、このマナを通して、大切なことを教えられました。

それは人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出るひとつひとつの御言によって生きることを教えられたのです(申命記8・3)。穀物でできたパンは肉体のために必要だが、神が与えて下さるパン、即ち神の御言は霊魂を生かす食物だという意味です。

では、どのように神の御言で生きるのでしょうか。

⑴ ひとり1オメルずつ。

マナを多く集めた人も少なく集めた人も、収穫後に量るとみな1オメルでした(出エジプト16・18)。聖書をたくさん読む人もいれば少しの人もいますが、神は各自に必要な1オメルの御言をくださいます。

⑵ マナを翌日まで取って置いても腐ってしまった。

毎朝マナを集めるのは面倒だと思った人は、翌日分まで集めたのですが、翌日には腐ってしまって食べることができませんでした。結局、毎朝、マナを得なければなりませんでした。

つまり、毎日、その日の分の御言が必要だということです。冬眠する熊のように、たくさん食べて蓄えておくわけには行きません。

⑶ マナは朝に集めた。

朝の早起きが苦手な人もいました。彼らは、すっかり陽が昇ってからマナを集めに外に出たのですが、日中の暑さでマナは溶けてしまいました(16・21)

御言は朝に受けるのが効果的です。日中は忙しさの中で、御言も溶けてどこへやら……。一日の始めに、何の妨げのない時に御言を受けましょう。

⑷ 天からのマナはイエス・キリストの予型だった。

イエス・キリストとは、神の御言が肉体となって世に来られたお方です(ヨハネ1・14)。このお方こそ本当の天から降ったマナです。聖書を読むとは、天から降ったマナであるイエスを食べることです。

わたしは天からくだってきた命のマナだとイエスは言われました。そしてわたしを食べなさいと言われたのです(ヨハネ6・51)。イエス・キリストを食べることこそ、本当の食物です。

イスラエルが荒野でマナを食べて生きたように、私たちは〝命のマナ〟であるイエス様をいただいて、この世という荒野を生きて行きます。


出エジプト記 15章

2024年02月16日 | 出エジプト記
出エジプト記 15章
ときに、民はモーセにつぶやいて言った
、「私たちは何を飲むのですか」。(15・24)


イスラエルの人々は、紅海(葦の海)で神の偉大な御業を目の当たりにしました。人々は、主こそまことの神であると確信したことでしょう。その感動と感謝の讃美が1~21節に記されています。

こうして、いよいよ荒野へ旅立ちました。

新約時代のクリスチャンも、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けて信仰の歩みが始まります。それは、イスラエルの民が荒野を旅したように、私たちにとっても荒野における旅路です。約束の国である天国にむかって荒野を通過するのです。

しかし、荒野では数々の問題が待ち受けています。イスラエルの民は手持ちの水が底をつき、メラ(マラ)の泉に到達したものの、その水は苦くて飲用には適していませんでした。すると、メラの泉から苦い水が湧き出るように、彼らの口からも愚痴や不平があふれ出てきました。

あの讃美からまだ3日しかたっていないのに、あの素晴らしい経験はどうしたのでしょう。この苦い水を出す泉の件でも、主が御業をなしてくださると信じられなかったのでしょうか。

イエス様が多くの御業をなされても、人々は悟ることができず、もっとしるしをみせてくれと願いました。奇跡を体験しても悟ることのできない愚かさは、昔も今も同じです。

また、金持ちとラザロのたとえ話の中でも、「御言に耳を傾けないなら、たとえ死人の中からよみがえった者が語っても、受け入れないだろう」と主は言われました(ルカ16・31)。つまり、死者の復活という奇跡を見たとしても、御言に耳を傾ける信仰がなければ、私たちはすぐに不信仰になってしまうのです。主の御業を体験したら、「あ~よかった」ですませてはなりません。それを信仰に結びつけましょう。

彼らと同じく、私たちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4・2)

信仰に結びつけるとは、主への信頼を増し加えることです。

モーセは荒野の困難の中でも主を信頼して祈りました。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなったのです(15・25)

この「木」とは何を意味しているのでしょうか。十字架のを表しているのかも知れません。不平が湧いて出てくる心の苦き泉に、十字架を投げ込むのです。不平の泉はあの十字架によってきよめられ、主への感謝が湧き出る泉へと変えられます。

荒野の旅はこれからも続きます。事件のたびに、エジプトで染みついた奴隷根性(肉の思い)が砕かれ、神の民に相応しく造りかえられる機会であると信じて祈りましょう。


出エジプト記 14章

2024年02月15日 | 出エジプト記
出エジプト記 14章
主があなた方のために戦われるから、あなた方は黙していなさい。
(14・14)


エジプトを脱出したイスラエルが、海※のかたわらに宿営していたところに、パロはエジプト軍を率いて進軍してきました。行く手は海、うしろは敵軍、内には動揺……絶体絶命の危機です。 ※一般的に「海」は「紅海」だと言われているが、アラビヤ半島とアフリカ大陸にはさまれた紅海ではなく、エジプトとシナイの間に入り組んだ入江のようなところであったと考えられている。

まさに八方ふさがりとはこのことです。しかし、上は空いています。私たちは平面の世界で生きるのではなく、立方の世界で生きる者たちです。天に向かって祈り、上からの助けを信頼します。

モーセはそれを悟らせるために、主があなた方のために戦われるのだと告げました。あなた方は黙していなさいとは、不平や人間的な議論を黙して、主を信頼して祈りなさい……ということです。

かくして、海は左右に分かれ、民は海を渡りましたが、追撃してきたエジプト軍は海の中で滅びました。

この神の偉大な御業はバプテスマを象徴しています。聖書は次のように記しています。

わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けたのです(Ⅰコリント10・1~2)

旧約の民は海の水を通ってモーセにつくバプテスマを受けました。それと同じように、新約のクリスチャンはバプテスマ式で水の中に入って出てくることによってイエスにつくバプテスマを受けます。

旧約の民が過越しの事件を経てエジプトを出たら、次に海を渡ったように、新約の私たちは、過越しの小羊であるイエスを信じて救いを得て〝出エジプト〟します。その次に、水のバプテスマを受けます。では、このバプテスマは何を意味するのでしょうか。

第一に、過去を葬って新しい生き方をさせます。

水をくぐるのは「葬り」とか「死」を意味します。イスラエルの民はエジプトにおける奴隷の身分を海の中で葬りました。エジプトでの奴隷の生活に決別して、神の民としての生活を始めました。

エジプトの生活や価値観を引きずったままでは、新しい生き方はできません。それと同じように、新約の民も罪人であった古い自分を葬り、キリストにつながって神の子どもとしての生活をはじめます。

第二に、エジプト軍の追撃から逃れます。

イスラエルの人々は、海を渡ることによってエジプトの支配に脅える必要はなくなりました。追撃してきたエジプト軍は紅海の水で滅んでしまったからです。

出エジプトした民をエジプト軍が追って来たように、悪魔は私たちを罪の支配に連れ戻そうと追ってきます。だから、私たちもバプテスマの水を通過して、罪の世界と完全に決別し、イエスに属する者であることを明確にします。

このようにバプテスマには深い恵みが込められています。あなたはバプテスマを受けましたか。イエス・キリストを信じて罪のゆるしを受けたなら、次はバプテスマを受けるのです。

すでにバプテスマを受けたのなら、バプテスマに込められた神の恵みを再確認します。古い過去の私はすでに死んだのです。いま生きているのはキリストと一緒になって新生した私が生きているのです。


出エジプト記 13章

2024年02月14日 | 出エジプト記
出エジプト記 13章
あなた方は、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなた方を導き出されるからである。
(13・3)


イスラエルが小羊をほふった日の夜、エジプト中の初子が死にました。これにはさすがのパロも観念して、この地から出ていってくれと願い、ついに出エジプトが実現したのです。

主は、この日を忘れてはならないと言われます。だから、イスラエルはこの出来事を心に刻むために、今も過越祭として続いているのです。

イエスを信じるとは、出エジプトすることです。

イスラエルがパロのもとで奴隷であったように、私たちも悪魔のもとで罪の奴隷でした。イスラエルが過越しの時に小羊をほふって奴隷から解放されたように、イエスも過越しの祭の日に死なれ、私たちは罪と悪魔の支配から解放されました。

イスラエルの人々がこの出エジプトの恵みを忘れないために過越の祭を守り続けたように、新約の私たちも出エジプトである罪からの救いを忘れてはなりません。その記念として聖餐式を執り行います。

聖餐式でパンと杯を受けるのは、この事を忘れないためです。パンは小羊なるイエス様の体、杯はその血です。数千年前のイスラエルも過越しの夜、小羊の肉を食べ、その血を玄関に塗りました。

それを記念して過越しの祭を祝ったように、新約のクリスチャンはパンと杯で記念します。

イスラエルを救い出すことは人には不可能です。しかし、神が力強い御手をもって導き出されたのです。

ソドムから救出されたロトも、御使に手を引かれなければ町を出ることができなかったように、この日を覚えるたびに、私が救われたのは、神の力強い手による一方的な恵みだと感謝するばかりです。


出エジプト記 12章

2024年02月13日 | 出エジプト記
出エジプト記 12章
その血はあなた方の家々で、あなた方のために、しるしとなり、私はその血を見て、あなた方の所を過ぎ越すであろう。
(12・13)


神はエジプト中の初子を撃たれる前に、イスラエルの人々に小羊をほふって、その血を家の玄関に塗りなさいと命じられました。この血はしるしとなって、死のさばきはイスラエルの人々を〝過ぎ越して〟行きました。 ※これを記念して過越祭を祝うようになった。イエス・キリストはこの過越祭の日に十字架で死なれた。

本来ならば、エジプトに居住するすべての罪人にさばきはくだります。しかし、小羊の血はさばきはすでに終わった」「身代わりに小羊が殺されたというしるしになるのです。

イスラエル民族といえども、神のさばきに対して大目に見てもらえるわけではありません。エジプトの民と同じ罪人です。死のさばきから逃れうる者は誰もいません。しかし、イスラエルの人々は小羊を身代わりに殺して血を流しました。

つまり、イスラエルの代わりに小羊がさばかれたわけです。

ですから、この血はさばきがすでに終わったことのしるしとなりました。だから、死のさばきは、この血をしるしに過ぎ越して行きました。

この事件は、イエスが十字架で私たちの身代わりとして死なれることの予表です。イエスは過越祭の日に、十字架で血を流されました。この血こそが、神のさばきが過ぎ越して行く唯一の〝しるし〟です。

学歴も身分も財産も、神のさばきから救われるしるしとはなりません。たとえ立派な行いや品性や人柄であっても、神のさばきから逃れ得るしるしとはなりません。ただイエスの血だけです。

イエスを信じるとは、この血を受けることです。

さらに、イエスの血は、悪魔に対しては勝利のしるしです。悪魔は罪の告発者です。罪を根拠に私たちを責め立てます。しかし、イエスの十字架によって罪の刑罰がすでに終わったのですから、イエスの血はサタンに対する勝利のしるしです。

イエスの血によって臆面もなく神に近づき、イエスの血によって大胆に悪魔に立ち向かうことができるのです。

最後にもうひとつ。身代わりの小羊の骨を折ってはならない、と主は命じられています(12・46)。不思議な命令です。しかし、やがてイエス・キリストが十字架で死なれたとき、イエス様の骨だけは折られることはありませんでした。

あの過越祭の時、十字架で死んだのはイエス様の他に二人の囚人がいました。キリストは過越しのいけにえの小羊として死ぬのですから、この二人の囚人もキリスト候補と言えます。

本物のキリストを指し示すために、小羊の骨は折ってはならないと神は命じられたのです。そして、その通りになりました。十字架刑で二人の足の骨は折られたのに、イエスの骨は折られなかったのです(ヨハネ19・31~37)。このお方こそ、正真正銘の神のキリストであることを証しするためです。