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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

歴代志上 14章

2018年04月30日 | 歴代志
歴代志上14:10 ダビデは神に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手にわたされるでしょうか」。

ダビデが全イスラエルの王として就任したニュースは、近隣諸国に伝わりました。それに対する諸国の反応はそれぞれ異なりました。ツロの王ヒラムは、ダビデ王に就任の祝いを届けるほどに親イスラエル外交です(14:1)

逆に、ペリシテはこれを機会に攻撃に撃って出てきました。

さてペリシテびとはダビデが油を注がれて全イスラエルの王になったことを聞いたので、ペリシテびとはみな上ってきてダビデを捜した。ダビデはこれを聞いてこれに当ろうと出て行った。(14:8)

王になって安泰かと思いきや、攻撃が激しくなることもあります。

私たちも、あやふやな信仰の時は何となく平穏であったのに、イエスを信じて旗印を明確にするや、何かと戦いや葛藤が生じるという経験をします。

ツロの王ヒラムのように信頼を寄せてくれる人もいれば、ペリシテのように敵愾心をあらわにする人もいることでしょう。でも、私たちの主イエス・キリストが味方です

ダビデは、そんな事態に至ってもあわてず、主に祈ってたずねています(14:10)。この時は「攻め上れ」との御言があり大勝利を得ました。

二度目の戦いの時も、再びダビデは神に問うて祈っています(14:14)。この時の神の御言は「待て」です(14:14)

神と共に生きることは、儀式を行うようにして、いつも同じことの繰り返しではありません。時に、「行け」と言われ、時に、「待て」とも言われます。なぜなら、主は生きておられるからです。なぜなら、主と私たちの交わりは、いつも生きた交わりだからです。

イエス・キリストに問いながら生きよう。主に祈りながら進む時、主はその課題の先を進んでおられることを知るでしょう。

ダビデに対しも、「神はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから(新改訳14:15)と応えられたように、私たちの祈りに対しても、主は先だって戦われるからです。(Ω)

歴代志上 13章

2018年04月28日 | 歴代志
歴代志上13:3 神の箱を我々の所に移しましょう。我々はサウルの世にはこれをおろそかにしたからです。

ダビデが王に至るまでの経過は要点のみ。それは、サムエル記に詳しく記録されているからです。むしろ、歴代志は神殿とそれに伴う神礼拝についてフォーカスしています。

従って13章からは、ダビデが全イスラエルの王として着任して最初に取りかかった事業が〝礼拝改革〟であったと記しています。

礼拝改革の中心をなすものが神殿であり、その神殿の中心が「神の箱」でした。そこでダビデは、神の箱を首都エルサレムに迎えようとしたのです。神の箱には、十戒が刻まれた石板荒野の時代に民を養ったマナの入った壺、そして、アーモンドの芽を出したアロンの杖が納められていました。

この神の箱は〝契約の箱〟とか〝証しの箱〟とも呼ばれ、まさに神の御臨在を象徴するものでした。

神の箱は、出エジプトしたイスラエルの民が荒野で旅をした時代、神を礼拝するために幕屋を建造した時のものです。神の箱は、幕屋の最も神聖な場所である至聖所に安置されました。

カナン侵攻後は神の箱を担ぎながらの戦争でした。戦争も落ち着き、人々がそれぞれの土地に安住し始めると、徐々に神の箱はおろそかにされるようになりました。

サウル王の時代にはそうであったと述べています。

契約の箱(神の箱)をまずイスラエルの首都であるエルサレムにお迎えすべきだそれこそ神の御国であるイスラエルのあるべき姿だ。ダビデはそう考えたのです。

何を第一とすべきか。何を国の中心にすべきか。国のみならず、私たちひとりひとりの人生においても重要なことです。

ダビデがしたように、あなたは「神の箱」を自分自身の都にお迎えしているでしょうか。それはイエス・キリストです。それとも、サウル王のように、あなたの中ではおろそかにされる存在でしょうか。(Ω)

歴代志上 12章

2018年04月27日 | 歴代志
歴代志上12:1 ダビデがキシの子サウルにしりぞけられて、なおチクラグにいた時、次の人々が彼のもとに来た。

11章と12章は時間軸が前後するので読みにくいところです。咲喜の11章の前半は、サウル王が戦死した後、ダビデが王に就任した記録。11章の後半はダビデがサウルの手を逃れて〝ほら穴生活〟をしていた時の記録でした。

そして、今日の12章前半は、ダビデがペリシテ人の領地チグラグに住んだ時の記録です。荒野のほら穴を転々とするものの逃れきれないと判断して、イスラエルと敵対するペリシテ陣営に逃げ込んだのです。

この時、ダビデたちを迎えてくれたのがガテの王アキシュでした。彼は、ダビデたちにチグラグの町を与え、そこに住むことを許可した訳ですが、冒頭の聖句はその時のことです。

次期イスラエルの王はダビデであるとの、神の御言による宣言はあったものの、状況はまったく逆です。サウル王からは反逆者としていのちを狙われる身。こんな状況下でダビデに従うことなど、損得計算ではありえないことです。

しかし、そんな不利な状況の中でもダビデに付き従う人々がいました。この12章はそんな人々の記録です。

損得計算で従うのは本物ではありません。イエス様に従うのもそれと同じです。損得計算を越えたもの……それはです。神を愛する心で従う者が本物です。ダビデにもそのように従う人々がいました。彼らは本物の勇者たちです。

私たちはイエス様を信じていることに不都合がないので信じているのでしょうか。もし、不都合なことがあれば……つまり、イエスを信じて迫害を受ける事態になったら、鞍替えするのでしょうか。

それは、本物の弟子ではありません。

だから、イエス様は「十字架を負って従え」と言われたのです。苦労を承知の上で従ってきなさいと言われるのです。そのような従順の根拠は損得勘定ではありません。愛の他に何もありません。

困難で不利な時もダビデに従った勇士たちは、歴代志に名を残しました。私たちもそのようにして天の記録に記されるものになりたいものです。(Ω)

歴代志上 11章

2018年04月26日 | 歴代志

歴代志上11:9 こうしてダビデはますます大いなる者となった。万軍の主が彼とともにおられたからである。

 
11章からはダビデの物語が始まります。しかし、サムエル記の「ダビデ物語」と比べると、多くを端折っており、要点のみの記述です。10章前半はダビデ王の即位。後半はダビデ王を支えた部下たちの記録です。
 
この部下たちは「勇士たち」と呼ばれ、その武勇伝が記録されています。このような勇士たちがダビデの脇を固め、その王国が安泰となったかに思われます。
 
しかし、冒頭に挙げた聖句が示すように、「万軍の主が彼とともにおられたからである」と、王国繁栄の主要因を述べています。
 
また、勇士たちが、単に敵に対して勇敢であったからでもありません。彼らのことを聖書は、「主がイスラエルについて言われた言葉に従って、彼を王とした人々である」と紹介しています(11:10)
 
つまり、ダビデに従った勇士たちは、ダビデ王に忠実である以上に、ダビデを王として召された神に忠実であったのです。ここは大切なところです。
 
教会も同じことが言えるのではないかと思います。牧師は自分を召してくださったイエス・キリストに忠実でなければなりません。そうすることが、「万軍の主が彼とともにおられたからである」につながります。
 
また、信徒の皆さんも、牧師に忠実であるのではなく、その牧師を遣わされたイエス・キリストに忠実であることが大切です。ダビデと勇士たちの麗しい関係が王国を建て上げたように、牧師と信徒との麗しい関係が、キリストの教会を建て上げるのです。(Ω)

歴代志上 10章

2018年04月25日 | 歴代志

歴代志上10:13 こうしてサウルは主にむかって犯した罪のために死んだ。


歴代志の記録は厳しい記録が続きます。神は恵み深いお方でありますが、同時に峻厳なるお方であることを忘れてはなりません。

先の9章では、バビロン捕囚の原因が、ユダヤ民族の神に対する不信仰であったことを見ました。そして10章では、サウル王が滅びたのも、主に向かって罪を犯したためだと記録しています。

彼の最期はギルボア山におけるペリシテ人との合戦でした。敗戦の理由として、ペリシテ人の武器が鉄製であり、イスラエル軍の武器にまさっていたことを指摘することもできます。

しかし、歴代志の記者は「主に対する罪のゆえである」と述べています。

人間であるペリシテ人と戦う前に、すでにサウル王は霊的戦いに敗北していました。彼は、「主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、主に問うことをしなかった」と記しています(10:13)

まさに聖書が告げているとおりです。「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである(エペソ6:12)

血肉」とは人間のことです。敵対するのは人間ではありません。私たちを真の神から目を背けさせようと働く悪魔や悪霊です。彼らが私たちを攻撃する武器である罪との戦いです。

まことの礼拝者たちからなる御国を建てようとするとき、サウル王の最後は貴重な教訓を与えてくれます。(Ω)

歴代志上 9章

2018年04月24日 | 歴代志

歴代志上9:1 ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。


長々と記録された系図も最後のまとめに入ってきました。第9章では、系図の締めくくりとして、この度のバビロンの捕囚の原因は何か。それは、不信仰のゆえであったと結論を述べています。

新改訳聖書では「不信の罪のゆえ」、新共同訳では「神に背いたために」とそれぞれ翻訳していますが、いずれも霊的な原因を示しています。

戦力が貧弱であったとか、政治や外交努力が足りなかったか、列強諸国に包囲された弱小国ゆえであったとか……。一般の歴史家たちが述べる解釈ではなく、歴代志の記者は「神に対する不信仰が原因である」と指摘したのです。

ですから、バビロンから帰還した我々は、今度こそ信仰を第一とし、神である主を礼拝する〝まことの礼拝者〟となろう。そのような民による国を建てあげようと、歴代志は語っています。

そのために、第9章では、かつてエルサレムに住んだ人々と神殿で奉仕する祭司の主だった系図と人数、レビ人の主だった人々、神殿の門で奉仕する人々、神殿の器具を管理する人々の記録を残しました。

ユダヤ人にとってバビロン捕囚は忘れがたい苦難でありましたが、そこで、彼らは得難い訓練と教訓を得たのです。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ(伝道7:14)とありますが、人々は捕囚の地バビロンで考え反省したのです。  ※新改訳では「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」。

第9章の最後に再びサウル王につながる系図が記録されています。第10章から始まるサウル王の物語の序章として再録したものでしょう。(Ω)

歴代志上 8章

2018年04月23日 | 歴代志
歴代志上8:34 ヨナタンの子はメリバアル。

第8章はベニヤミン族です。ベニヤミン族は12部族の中では小さな部族ですが、イスラエルの初代の王サウルを生み出しました。また、さらに後の新約の時代に活躍した使徒パウロもベニヤミン族の出身です。

就任当初のサウル王は謙遜な人柄でしたが、後には高ぶり、神の道から離れて行くようになりました。その経緯が、彼の生んだ息子たちにつけた名によって現れています(8:33)

サウルの長男はヨナタンで「神の賜物」という意味。ヨナタンは信仰にあつく、後の王となるダビデの良き友人でありました。次男はマルキシュアで「主なる王は救い」。

しかし、三男はアビナダブで「わが父は高貴である」という意味の名です。「わが父」とは、主なる神を指しているのではなく、サウル王自身を指していると思われます。この辺からサウルの高ぶりが見られます。

そして、四男はエシバアル。「バアルは居ます」という意味。カナン人の間で崇拝されていた異教の神です。イスラエルの民は、このバアル信仰に惑わされて、まことの神から離れて行ったことはよく知られているとおりです。

「バアルは居ます」という名をわが子につけるほどに、サウル王は偶像礼拝に傾斜していったのです。

しかし、長男のヨナタンは自分の息子に「メリバアル」と名づけました。これは「バアルに反対する者」という意味です。ヨナタンは父であるサウルを愛し仕えましたが、信仰においては父とは異なりました。

わが子に「バアルに反対する者」と名づけることによって、自らの信仰の立場を明確にしました。このヨナタンの子メリバアルが別名「メヒボシェテ」です。

メヒボシェテは父ヨナタンが戦死した後、王ダビデによって救い出され愛された人物です。信仰によって歩んだ家系を、神はお忘れにならず、よき報いをもって応えて下さることを教える事例です。(Ω)