ヨハネ17・16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
イエス様は、弟子たちのことを「この世の者ではありません」と言われました。この世の者でなく、天に属する者です。これは、イエスを信じるすべての者たちも同じです。
本来、私たちはこの世で生まれたので、この世の者でした。日本で生まれたので、日本の国籍を持っています。しかし、イエスを信じた私たちの国籍は天にあります。だから、この世の者ではないと主は言われるのです。
聖書はこう証言しています。「イエスをキリストと信じる者は、神から生まれた者である」(Ⅰヨハネ5・1)。イエスを信じる人の霊魂は新しく生まれます。神から生まれます。つまり、天で生まれます。
私の肉体は日本で生まれたので、日本国籍を持つに至ったように、私の霊は天で生まれたので、天の国籍を持つようになりました。肉体は地上で生まれ地上で朽ちて行きますが、肉体が朽ちても霊魂は天に国籍があるので天に戻ります。
このように、私たちはこの世の者ではありません。私の肉体の感覚からすれば、肉親の父を「父」と呼びますが、霊の感覚では天の神を「父」と呼びます。肉の感覚では、地上の栄誉を受けようとしますが、霊の感覚では、天の神の栄光を慕い求めます。このように、イエス様を信じる者の心には「肉の感覚(肉の思い)」と「霊の感覚(霊の思い)」が共存するようになります。前者の感覚はこの世の者としての感覚であり、後者は天に属する者のそれです。
イエスを信じる者は、肉の感覚で生きようとしないで、霊の感覚で生きようとします。地上の国民としてではなく、天の国民として生きようとします。だから、世の人々からすれば、クリスチャンは変わり者です。でも、変わり者であることを恥じてはなりません。
日本で住んでいる外国人は、日本人からすれば習慣や価値観が違います。だから少し変わっています。ましてや、クリスチャンは天国人ですから、なおさらです。変わっていて当たり前です。
そこで、変わった奴(やつ)だと思われたくないばかりに、天国人としての味を失って、この世に属する者として生きようとする誘惑があります。
とはいえ、隠遁(いんとん)生活の勧めではありません。この世と関わりを断つことは御心ではありません。社会から隔離した場所で、クリスチャンだけで生活するのは神のご計画ではありません。
そのことについてイエス様は、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」(17・15)と言われました。あえてこの世に私たちを残しておかれています。
つまり、天に属する私たちが、天からこの地に派遣されているのです。これがクリスチャンの立ち位置です。イエスが、「天の父がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言われたとおりです(17・18)。
(1)何のために遣わされているのか
父なる神が子なる神(イエス・キリスト)を遣わされたように、今度は、イエス・キリストが私たちを遣わすのだと言われています。
では、天の父が御子イエスを世に遣わされた目的は何ですか。それは、悪魔の業(わざ)を滅ぼし、悪魔のもとで一生涯奴隷となっている人類を解放するためです(ヘブル2・14~15)。それと同じ目的のために、クリスチャンは世に派遣されています。
もちろん、悪魔のわざを滅ぼすのはイエスのなさることです。しかし、私たちは怯(おび)えてイエスの陰に隠れるのではなく、イエスと共に戦う者たちです。
戦うといっても、銃や刀で戦うわけではありません。霊的な戦いです。祈りによる戦いです。私たちの聖なる生き方が「光」となって、悪魔の闇のわざを照らし出すことによる戦いです。
また、悪魔のもとで一生涯奴隷になっている人類を救い出すのはイエスです。しかし、その救いを人々に知らせるのは私たちの役割です。イエスを信じるなら罪がきよめられ、死の滅びから救われるのに、それを知らせる人がいなければなりません。
(2)この世と区別するものは何か
このように、私たちは世にいながら、世の者ではありません。でも、クリスチャンが何のために世に遣わされているのかを曖昧(あいまい)にするなら、世に属するのか天に属するのか、分からなくなってしまいます。
だから、イエス様は、私たちをこの世と区別なさいます。天国の味付けを失わないために、イエスは「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」と祈られました(17・17)。
真理……つまり神の御言が、私たちを世と区別させます。神の御言をもっていない人は、この世の人と区別がつかなくなります。天国人なのに、この世の人のように生きてしまいます。
だから、私たちは神の御言を受けます。神の御言は、天国人としての規範だからです。天国人としての規範を見失ったら、この世と同じ価値観や発想法で生きるようになります。
こうして御言によって、世に属する人と、天に属す人とは区別されます。
日本人特有の「他者(ひと)と同じでないと不安だ」という感覚で……同調圧力に弱い……、クリスチャンが世の人と同じように生きようとしたら、それはクリスチャンの堕落です。世の人々と同じであろうとする思いから自由になろう。なぜなら、私たちは「この世のものではない」のですから。どうして世の人と同じように振る舞おうとしますか。
次に、クリスチャンをこの世と区別するもの……それは真理(御言)ともうひとつあります。それは「イエスの御名」です。
御子イエスは信じる者たちにイエスという御名を与えてくださいました。この名によって罪を赦し、この名によって癒され、この名によって私たちがひとつとなり、この名によって世と区別されるのです。
まず、御子イエスは、信じる者たちに神の御名をあきらかにされました(17・6)。その名は「あなたの御名」です(新改訳)。あなた……つまり天の父の名です。この名こそ栄光を受けるべき名です。
そして、信じる者たちを御名の中で守るようになさいました。「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と祈られました(17・11)。新改訳では「聖なる父。あなたがわたしに下さっている〝あなたの御名※〟の中に、彼らを保ってください」です。
御父がご自分の名を御子に与え、御子もその名を私たちに与えて下さいました。その名は「イエス」です。この名を讃美しよう。この名を呼ぼう。この名によって天国の民とし区別されよう。
※「イエス」という名は、ヨセフとマリヤの考えた名ではない。「イエスとつけよ」との神の命令だ(マタ1・21)。ヨハネ福音書は、イエスご自身が父に向かって「あなたの名」と告白し(17・6、11)、父の名を子が受け継いだことを示している。また、聖霊についても「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われた(ヨハネ14・26)。つまり、「イエス」という名は、父の名であり、子の名であり、聖霊の名である。
イエスは弟子たちに「父と子と聖霊の名によってバプテスマをほどこせ」と命令された(マタイ28・19)。この〝名〟は単数形で表記されている。つまりひとつの名だ。父と子と聖霊にそれぞれ別の名があるのではない。
この命令に従って、ペンテコステの日にペテロは、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けよ」と説教した(使2・28)。また、弟子たちは、サマリヤ人にも(使8・16)、ローマ人のコルネリオにも(使10・48)、イエスの名によってバプテスマした。つまり、父と子と聖霊の名は「イエス」だと解釈される。
イエスの御名は新約に至って啓示された神の名だ。使徒行伝では、ありとあらゆる事が「イエスの名によって」である。祈りも、罪のゆるしも、癒しもみなイエスの名によってである。この偉大な神の御名を我々にも与えられた。だから、すべてのことをイエスの名によって為すのである(コロ3・17)。
旧約においてはイエスの名は啓示されていなかった。旧約では御使たちが「主」という名で働いた。しかし、新約になって、神の御子が父から受け継いだ「イエス」の名で働かれた。イエスの名は権威も権能も御使のそれよりはるかに偉大ですぐれている。「御子は、その受け継がれた名が、御使たちの名にまさっているので、彼らよりすぐれた者となられた」(ヘブル1・4)と記されているとおりである。
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神の小羊であるキリストが屠(ほふ)られるべき「時」が遂に来ました。
キリストとしての活動初期は、カナの婚礼において「わたしの時はまだ来ていない」と言われ(ヨハネ2・4)、仮庵の祭がキリストを現す絶好のタイミングだと提案する兄弟たちにも、「時はまだ来ていない」と言われました(7・6)。また、イエスを捕らえようとしても、だれも手出しができませんでした。時ではなかったからです(8・20)。
しかし、いよいよその時が来ました。だから、イエスは祈られました。「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」と(17・1 新改訳)。
その「時」とは、イエスが捕らえられ、罪の生贄(いけにえ)である小羊として、過越しの祭に殺される時のことです。そんな凄惨(せいさん)な場が「栄光をあらわす時だ」というのです。さらに、「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせてください」とも祈っておられます(17・5)。
もちろん、今までも御子イエスを通して栄光は現れました。病の癒しや悪霊追放をはじめ種々の奇跡は神の栄光でした(12・28)。しかし、その「時」である十字架と復活は、今まで以上の栄光なのです。御子が御父の中でお持ちになっていた栄光……つまり、最高の栄光で輝こうというのです。
人の目には愚かに見える十字架の死が、視点を変えれば最高の栄光で輝く姿なのです。人の目には惨(みじ)めな姿ですが、霊的には最高に輝いているのです。
いったいどのように輝いていたのでしょうか。それは「死に至るまでの従順」という栄光です。この栄光は悪魔を滅ぼす光です。闇は光によって滅ぼされるように、神への反逆者である悪魔は、御子イエスの従順という栄光によって滅ぼされたのです。
話しは変わるようですが、崇高な人格者と出会うと、腹黒い自分の姿に恥じ入るという経験はありませんか。その清さの前で、己の不純な姿が照らし出されるような思いをするわけです。
まさに、キリストの御前で人々は自分の罪を示されて悔い改めました。悪霊は居たたまれずに出て行きました。大漁を目の当たりにしたペテロは恥じ入って、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と告白しました。このように、イエスの栄光の光で照らされると罪人は滅びるしかありません。
御子イエスは十字架の死に至るまで、天の御父に信頼し従順なさいました。この御子の姿は誠実で、真実で、一切の恨(うら)みごともなく、本当に純粋で美しく輝かしい姿でした。この姿を前に悪魔はいたたまれず「お前が神の子なら十字架からおりてみよ」と叫ばざるを得ませんでした。もちろん、これは十字架の傍(かたわ)らにいた男の野次ですが、私は悪魔が彼をして言わせたのだと思っています。
イエスの従順なお姿と真逆なのが悪魔です。自分も神のようになろうと傲(おご)り高ぶり、自分のおるべき所を捨てて神に不従順したのが悪魔です。この悪魔にとって御子イエスの従順な姿は余りにも輝いていて、その栄光の輝き故に滅びるしかなかったのです。
この御子イエスの輝きが「ひとり子としての栄光」です。17章の祈りは、このような栄光で輝かせてくださいという意味なのです。
さあ、栄光についての概念を変えよう。地上の栄光とは水準が違います。たとえ、人の目には惨めな姿であったとしても、なおも父なる神を愛し、信頼する生き方は栄光なのです。それは「神の子どもとしての栄光」です。この輝きこそが、悪魔に打ち勝つ栄光なのです。イエスの祈りに続こう。