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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ゼカリヤ書 8章

2023年07月31日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 8章
勇気を出せ。あなた方は、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。
(8・9 新改訳)


イエス・キリストを信じた当初、心は熱く燃えていても、歳月が流れると冷めたり弱ったりすることがあります。神殿再建の使命に燃えていた人々も、様々な困難や世の煩いの中で弱さを覚えていました。ですから、ゼカリヤは神殿再建の向こう側に用意されている祝福を預言し励ましたのです。

完成した神殿で真実な礼拝がささげられるとき、そこは神が共におられる祝福の場所なのだと言われるのです。出エジプト以来、イスラエルの民が求めてきた安息の場所とも言えるでしょう。

まず第一に、神殿の建つ都エルサレムは真実の町となります(8・3)。町の広場には老人や子どもたちが平和に暮らす様子も描かれています(8・4~5)

今まで戦乱に次ぐ戦乱で、流血の町エルサレムしか知らない人々にとって、このような平和に満ちた町の姿は安息の世界です。神はそのような町を目指しておられるのです。『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われるように神には当然の帰結です(8・6)

第二に、私たちの信仰は喜びに溢れたものになると預言されています(8~23)

先の7章では「断食はもういいじゃないですか」と質問したことが記されていました。それは人々には信仰は苦行に感じられたからです。喜びではなかったのです。しかし、まことの神殿と礼拝が完成すると、断食はユダの家の喜び楽しみの時となり、よき祝いの時となるのです(19)

「断食」とありますが、信仰生活のことです。礼拝のことです。私の心の内に神殿が再建されたら、礼拝は喜びです。楽しみです。でも、内なる神殿が壊れている人にとっては、礼拝とか信仰生活は苦行に感じることでしょう。

さらに、そのように喜んで礼拝する姿を見て、異邦人がひとりのユダヤ人の衣の裾をつかまえて『あなた方と一緒に行こう。神があなたと共にいますことを聞いたから』と言うのです(23)。これこそ究極の伝道です。

これが、神殿再建の向こう側に用意されている世界です。だから勇気を出して、神の御言を信頼して、神殿再建工事を熱心に進めよと主は命じられます。冒頭の御言の通りです。

やがて終わりの時に完成するこの約束を想い出してください。その約束を忘れてしまうので、世のわずらいによって惑わされるのです。さあ、思い起こそう。預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか(8・9)

日頃、聖書を読む中で、聖霊はあなたに御言を語っておられるではありませんか。毎週の主日礼拝で、牧師の口を通して神の約束を聞いているではありませんか。そこが、私たちの寄って立つべき所です。


ゼカリヤ書 7章

2023年07月29日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 7章
あなたがたが70年の間、5月と7月とに断食し、かつ泣き悲しんだ時、はたして、わたしのために断食したか。
(7・5)


第7章は「ダリヨス王の第4年」とありますから、先の預言から2年が経過しています。ハガイとゼカリヤの預言を通して、人々の信仰は燃やされ神殿再建工事が前進しました。しかし、徐々に信仰は冷めていったようです。

というのは、ベテルの人々から質問が寄せられたのです。それは、私は今まで、多年おこなってきたように、5月に泣き悲しみ、かつ断食すべきでしょうかというものでした(7・3)

ここまで再建工事も進んだし、もうそろそろ断食しなくてもいいんじゃないですか、というわけです。質問者にとっては、断食と祈りは苦痛なことであり、自分の当面の必要が満たされるための交換条件のように考えていたのでしょう。

そもそも、断食とは祈りのためです。日常の飲み食いの時間を祈りの時間としてささげようというのが、断食の精神です。肉の生活から離れて霊的生活を確保するわけです。その意図を踏まえるなら、べテルの人々の質問は的を外しています。

そこで、逆に神が質問なさっています。いったいあなた方は何のために祈っているのですか。冒頭の聖句を要約するなら、今まで断食して祈ったというけれど、果たしてわたしのために……つまり神のために祈ったのですか。むしろ、自分の願望のためだったのではありませんかというのです。

どんなに熱心な断食や祈りでも、それは御利益を得るためとか、願望をかなえるための修行になっているなら、自分のためです。そうではなく、神のためにという本質を見失っていないだろうかと問われているのです。 ※「もちろん、私個人の必要のためにも祈ろう。でも基本は「神のため」である。

主の祈りの前半は神のための祈りです。神の御名があがめられるために祈り、神の御心が成就し、神の御国と栄光が表されるようにと祈ります。その後で、私のための祈りです。

もっと神のために祈ろう。主よ、あなたの正義がこの世になされるようにと祈ろう。主よ、あなたの真実な愛が行われるように祈ろう。だから、ゼカリヤも質問者にこう語っているのです。

真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない。(7・9~10)

これは神の御心です。神が世に現そうとなさっている神の義と愛です。それを疎かにして、自分の欲望を実現するための祈りや断食は、どんなに熱心であっても、神の喜ばれる断食ではありません。


ゼカリヤ書 6章

2023年07月28日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 6章
万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。
(6・12)


ゼカリヤが見た幻の第1~5番目までは、直面している神殿再建に関わる幻でしたが、その後は世の終わりに伴う幻へと展開しています。最後の第8番目の幻は4つの戦車とそれを引く馬の幻です。情報があまりにも少ないので、断定的な解釈は避けるべきですが、世の終わりに全地を行き巡るさばきと戦いを表していると思われます。以上が幻による預言です。

つづいて主は、ゼカリヤを大祭司ヨシュアのもとに派遣しました。そして、大祭司の頭に冠をかぶせよと命じられたのです(6・11)。まるで王を任命する戴冠式のようです。

歴代の王はダビデ王家直系の子孫ですから、大祭司が、王になることはあり得ないことです。ですから、ゼカリヤのこの行為は預言としての行為であって、この時点で実際にヨシュアが王となったわけではありません。

大祭司でありながら王となる人物。しかも、その名がヨシュアであるのは預言です。なぜなら、ヘブル語の「ヨシュア」は、ギリシャ語では「イエス」だからです。新約における主イエスが御国の王であり、かつ大祭司であることを想起させます。

この戴冠式で語られた言葉が冒頭の聖句です。王と大祭司を兼ねた人物がやって来るというのです。そのお方が枝(若枝)です(3・8)。先に申し上げたように、枝とはメシヤのことを指します。捕囚前にイザヤによって預言された「若枝」ですが、この時に至ってそれが、王であり大祭司であるお方だと啓示されています。

そして、そのお方こそが神殿を建て直す方だと言われます。冒頭の聖句の主の宮を建てるとは、そういう意味です。

勿論、大祭司ヨシュアも総督ゼルバベルも熱心に神殿再建工事に尽力してきました。しかし、その神殿再建は、終わりの時代に完成する本物の神殿再建を予表する出来事なのです。

若枝として来られるお方とは、神の御子イエス・キリストです。イエスは当時の神殿をご覧になって、この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろうと言われました(ヨハネ2・19)。イエスがご覧になった神殿とは、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルの時代に再建された神殿のことです。正確には後にヘロデ王によって大改修がなされ、荘厳な神殿へと生まれ変わっていましたが、それが完成形ではありませんでした。

イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである(ヨハネ2・21)とあるように、イエス様の体こそが本当の神殿です。イエスの中にこそ神殿の真意が完全に実現されています。イエスの中にこそ神へのまことの礼拝があり、イエスの中でこそ罪のゆるしがあり、神との親しい交わりがあるのです。

そして、このイエス・キリストこそ、まことの大祭司であり、まことの王です。罪の執り成し手である大祭司と、罪をさばいて支配する権威ある王とが矛盾なくひとつになっておられるお方です。

ですから、このお方のことをゼカリヤは次のように預言しています。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある(ゼカリヤ6・13)。王の立場と祭司の立場とに一致があるお方こそ、私たちの主イエスなのです。


ゼカリヤ書 5章

2023年07月27日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 5章
これは全地のおもてに出て行く、のろいの言葉です。すべて盗む者はこれに照して除き去られ、すべて偽り誓う者は、これに照して除き去られるのです。
(5・3)


ゼカリヤが見た6番目と7番目の幻は、空を飛ぶ巻物(5・1~4)と、エパ枡の中に座る女(5・5~11)でした。

空を飛ぶ巻物は神の律法であろうと思われます。巻物のサイズが神殿の聖所と同じであるのは、神の聖なる基準の象徴だと考えられます。

巻物が空を飛ぶようにして全地を行き巡り、その基準に従って罪が暴かれる様子が描かれています。罪を悔い改めない者にとっては、その巻物は「のろい」だと言われてしまいます。しかし、神の御言を受け入れて従う者には、救いの言葉であり、蜂蜜のように甘いのです。

イエス様も、ご自分の語られた御言が、世の終わりのさばきの基準であると言われました。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネ12・48)

次に、エパ枡の幻は何でしょう。約23リットルの枡で、分量を量る道具です。その中には人々の罪が詰まっています(ゼカ5・6)。そして、その蓋を開けると、ひとりの女が座っているのです(7)

「罪と女」というキーワードは偶像礼拝を意味します。黙示録が預言しているように、最後に滅ぼされるのは大淫婦バビロンという名の女です。聖書では、女は人間を表します。そして、この場合、偶像礼拝の罪に満ちた人々を表しています。

そんな罪がギューッと詰まったエパ枡は、地と天の間に高く上げられます(9)。人々が崇拝するような高みへと上げられるのです。そして、エパ枡はシヌアルの地の神殿に安置されるというのです(11)。シヌアルとはバビロンの地です。偶像礼拝の象徴であるバビロンで崇拝されるために、エパ枡は高く上げられるというわけです。

ゼカリヤの預言ではそこまでですが、ヨハネの黙示録によれば、それは大淫婦バビロンとして滅ぼされることになっています。ですから、この偶像礼拝から離れよ。まことの礼拝者たれ。それがイエス・キリストを信じる者たちの生き方です。


ゼカリヤ書 4章

2023年07月26日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 4章
ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
(4・6)


今までも見て来たように、帰還民による神殿再建工事は非常な困難が伴いました。それを率いる総督ゼルバベルの心労は量りがたいものでした。そんなゼルバベルを励ますための預言です。それは、ゼカリヤ書の5番目の幻で、金の燭台と2本のオリブの木の幻です(4・2~3)※先の第3章では、大祭司ヨシュアへの励まし。ここでは総督ゼルバベルへの励ましである。

このメノーラと呼ばれる金の燭台は、神殿の聖所に設置されているものです。燭台には7つの「ともしび皿」があり、この火は消してはなりませんでした。ですから、神殿で奉仕する祭司は、オリーブ油を定期的に注がなければなりませんでした。これは、世を照らす神の栄光の象徴です。

しかし、ゼカリヤが見た燭台の幻は、神殿に置かれているものとは様子が違っていました。それぞれ7つのともしび皿に〝給油管〟がついていて、両隣の2本のオリーブの木から油が途切れることなく供給されているのです。

このオリーブの木から供給される油は、聖霊を表しています。この聖霊の油注ぎによって、神の御業は遂行され、神の栄光は輝き続けるのです。冒頭の聖句のこれは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのであるとはそういう意味で(4・6)

神の働きもそれに伴う栄光も、人間的な能力や立場上の権力によってなされるのではなく、ただ、神が注がれる聖霊によるのです。

ゼルバベルはペルシャ帝国からユダヤ総督の任命を受け、その権威を授かって帰還民を統率しました。また、彼はダビデ王家の子孫であって、その能力は優れていたことでしょう。しかし、エルサレムに帰還してみて、その権勢も能力も歯が立たない現実にぶつかっていたのです。

現代の私たちも息切れをしていませんか。無力感に押しつぶされていませんか。ゼルバベルもそうだったのです。しかし、だからこそこれは権勢によらず、能力によらず、聖霊によるのです。

花婿を迎えるために火を灯しながら待っていた娘たちも、疲れ切って眠ってしまい、その火を消してしまいました。しかし、思慮深い娘たちは予備の油を用意していて、すぐに火を灯して花婿を迎えることができました。このように、私たちも時には眠ってしまうことがあります。しかし、聖霊の油そそぎを忘れてはなりません。いつでも悔い改めて、聖霊なる神につながって、油の供給を得るようにしましょう。とは言え、「そうだ!!聖霊によってだ!!」と、再び肉で頑張るのではありません。誤解を恐れずに申し上げますが、聖霊によってとは、〝力を抜くこと〟です。主イエスに任せて〝手を抜いて〟みてください。

すると、神は、大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろうと宣言なさいます(4・7)

「大いなる山」とは神殿建設を妨げる困難のことです。しかし、この幻で勇気を得たゼルバベルは、神殿の「かしら石」……つまり神殿の重要な礎石を据えることができたのです。

行く手を阻む「大きな山」に向かって「お前は平地となれ」と叫んでみましょう。そして、「恵みだ、恵みだ」と賛美しながら進むのです。それが、権力や能力によらず聖霊によって歩む私たちの生き方です。

さて、ゼカリヤの預言では、燭台の両脇に立つオリブの木は、たりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者と解説されています(4・14)

先の3章では、大祭司ヨシュアへの励ましがあり、この4章では、総督ゼルバベルへの励ましです。帰還民を率いて神殿再建のリーダーとして立てられたこのふたりによって、民は励まされ使命を果たして行きます。彼らがしっかりと聖霊によって立つことで、民は働くことができたのです。

いつの時代にも、神の業がなされるために〝ふたりのオリーブの木〟が立てられるのではないかと思います。出エジプトではモーセとアロン。バビロン解放後にはゼルバベルとヨシュア。初代教会の時代にはペテロとヨハネとかパウロとバルナバ等々です

やがて、世の終わりに登場する聖霊に満ちたふたりのことも聖書は預言しています。ヨハネの黙示録では、反キリストが暗躍する時代に聖霊の油注がれたふたりの証人が描かれています(黙11・1~12)

最後の最後まで、聖霊の確かな証しと光が世を照らすことになるはずです。いつの時代も、そのような聖霊の油が注がれた「世の光」となる人物が求められています。あなたがその人です。


ゼカリヤ書 3章

2023年07月25日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 3章
御使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。
(3・4)


ゼカリヤに啓示された4番目の幻は大祭司ヨシュアの幻でした。

このヨシュアは総督ゼルバベルと共にバビロンからの帰還民を率いて戻ってきた大祭司です。しかし、そんな偉大な大祭司も、幻の中では、サタンによって訴えられているのです。しかも大祭司ヨシュアの服は汚れています。

この服とは、礼拝を執り行うときに着る「祭服」のことで、その汚れはヨシュア個人の罪を意味していると共に、イスラエル民族の積み重ねた罪をも象徴しています。

そんな罪に汚れた大祭司が、いったい神への執り成しのわざをなし得ようかと、サタンはヨシュアの傍らに立って彼をとがめ、お前など神の任務にふさわしくないと訴えるのです。このサタンの攻撃に人は滅入ってしまいます。実際にヨシュアも、帰還民を信仰に導くにあたって挫折を味わっていたのです。

私たちクリスチャンも同じです。「えっ!お前みたいな奴がクリスチャンなのか」と、ほくそ笑むサタンの嘲りが聞こえてきそうです。

でも、恵み深き神のもとに救いがあります。神は、大祭司ヨシュアの汚れた服を脱がせ、彼にきよい祭服を着せられたのです(3・4)。この〝神が着せてくださる服〟というモチーフは、旧約では罪を犯したアダムとイブに、神は皮の衣を着せてくださったことに始まります(創3・21)。それは、新約に至ってイエス・キリストという服の預言です。イエスを信じる者はキリストを〝着た〟とあるとおりです(ガラ3・27)

ですから、サタンが執拗に私を責めようとも、神が着せてくださった祭服を着て、私たちは神の御前に出て祈り、神に礼拝するのです。この祭服を着ないでは、だれも神にお会いすることができません。せっかくの婚宴の席からつまみ出される他ありません(マタイ22・11~13)

さらに神は、この大祭司ヨシュアに語りかけるようにして、後の時代に登場する〝本物の大祭司〟について語っておられます。

見よ、わたしは〝わたしのしもべなる枝〟を生じさせよう。(ゼカリヤ3・8)

この「わたしのしもべなる枝」とは、キリストを表しています。預言者イザヤは、エッサイの切り株から若枝が芽吹くようにしてキリストは登場すると告げました(イザ11・1)。また、預言者エゼキエルも、神の若枝が成長し豊かな木となることを語りました(エゼ17・22~24)。この若枝なるキリストこそ本物の大祭司であり、彼の執り成しによって、人々の罪は〝一日の内にきよめられる〟というのです。

万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。(ゼカリヤ3・9)

まさに、大祭司キリストは、たった一度限りの十字架の死によって、全人類の罪を取り除いてしまわれました。因みに、石とはキリストのこと、石の7つの目とは聖霊のことと考えられます。このような完全なる大祭司の登場を待ち望みつつ、大祭司ヨシュアは帰還民の執り成し手として祈り、神に仕えました。

私たちもイエス・キリストという祭服を着て神に仕えるべく「新約時代の祭司」です。


ゼカリヤ書 2章

2023年07月24日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 2章
主は言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。
(2・10)


ゼカリヤが見た幻はさらに続きます。測り縄を手にした人がエルサレムを測りに行く幻でした。彼は、町の周囲を測量して、街を守るための〝城壁〟を建設しようというのです。しかし、それには及ばない。城壁などで収まらないほどに人々や家畜でエルサレムは繁栄するようになるからです。

ですから、石造りの城壁ではなく、主なる神ご自身が〝城壁〟となってくださり、エルサレムの町を守ってくださるのです。エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる。とはそういう意味です(2・4~5)

主なる神からの心強いエールです。このような励ましとビジョンを心に抱きながら、人々は神殿を再建したのです。

そして、さらに主の励ましの預言は続きます。冒頭の聖句です。シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むのです。シオンとはエルサレムのことであり、娘とはそこに住む民のことです。

第一義的には、再建されるエルサレムの街を意味します。しかし、王の住まうエルサレムは、キリストを迎え入れた新約の教会でもあり、それは花婿であるキリストと共にある花嫁としても表現されます。

そして、やがて天で完成する天の都エルサレムではまさに文字通り、キリストがそのただ中にすまわれるのです。そんな聖なる都が完成するのですから、娘たちよ喜び歌えと言われるのです。

さあ、私たちの人生という街のただ中にも、主イエスは住まわれます。また、キリストの教会のただ中に住まわれるという意味でもあります。そして、その街の中心は〝再建された神殿〟です。そこでは、まことの礼拝がささげられます。

帰還したユダヤ人たちが神殿再建工事に苦労したように、新約の私たちも、人生の中心にまことの礼拝という神殿を完成させるには、苦労が伴います。サマリヤ人が妨害したようにサタンの邪魔も入ります。

でも、私たちはゼカリヤの預言した幻を胸に抱きながら神殿を再建するのです。


ゼカリヤ書 1章

2023年07月22日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書 1章
あなた方の先祖たちのようであってはならない。
(1・4)


ゼカリヤは先のハガイと同じ時期に活躍した預言者でした。ハガイが預言したダリヨスの第2年第6月から遅れること2ヶ月、第8月に預言活動が始まっています(1・1)

帰還したユダヤ人たちは預言者ハガイの御言によって奮起し、神殿再建工事を再開しました。そんな人々に、ゼカリヤは励ましの御言を預言しました。この神殿再建の更に先に用意されている神のご計画について語りました。

まず神は、あなた方の先祖たちのようであってはならないと語られました。

この先祖たちとは、バビロン捕囚以前のイスラエルのことです。歴代の預言者たちによって悔い改めが勧められたにもかかわらず、彼らは御言に耳を傾けませんでした。そして遂にバビロン捕囚へと追いやられたのです。人々はこの試練を通してたたき直されたわけです。あの悲しく悲惨な出来事を通して、人々は悔いし砕けし魂へと変えられたのです。

新約における私たちもキリストを信じて新しく生まれ、新しく造られた者です。その私たちにも同様に「以前のようであってはならない」と励まされています。だから、この私から、新しい流れを造り出そうという気概を持つのです。

さて、ゼカリヤ書の前半は8つの幻の描写と解説からなっています。

第1章からは、赤馬に乗った人の幻です(1・8)

この馬に乗った人とは御使のことです。彼らが全地を行き巡ると全地は穏やかだと言うのですが、エルサレムとユダの町々はそうではありません(10~12)。ユダヤ人は帰還したものの、なおもペルシャ帝国の属国としてその支配下に苦しんでいるからです。

ですから、万軍の主よ、あなたは、いつまでエルサレムとユダの町々とを、あわれんで下さらないのですか。あなたはお怒りになって、すでに70年になりましたと述べられています(12)

それに対して主は、わたしはエルサレムとシオンをねたむほど激しく愛したと言われます(14・新改訳)。「ねたむ」など、神には不適切な表現のようにも思いますが、人の語彙では表現しきれないほど神の愛は大きく深いのです。

なぜ、ねたむほどに愛されるのかと言えば、都エルサレムの中に王なる神が住まわれることは、変更することのない計画だからです。

16~17節のわたしはあわれみをもってエルサレムに帰る。わたしの家はその中に建てられ、測りなわはエルサレムに張られるとか「わが町々は再び良い物で満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶとの聖句は、神の揺るがない決意表明であり、今はまだ荒れ廃れていても、主はシオンの繁栄を必ず回復し、エルサレムに共に住まわれるのだという励ましの言葉です。

それは、新約の私たちにも同じです。私たちも、私の内なる霊魂に神殿を完成させます。そこでささげら真実な礼拝の中に主イエスは共に住まわれ、まことの繁栄を回復なさるのです。

さて、18節以降は4つの角と4人の鍛冶の幻です。角とは王権であり、エルサレムを散らした4つの帝国のことだと考えられます。バビロンとペルシャ。さらにこれから登場するギリシャとローマです。

その角を鍛冶職人のように打つのは、それら帝国を制御する御使たちのことだろうと思われます。いかなる大国の王権であろうとも、神のご支配の下でなされることを意味しています。


ハガイ書 2章

2023年07月21日 | ハガイ書
ハガイ書 2章
さあ、あなた方は、今日から後のことをよく考えよ。すなわち、第9の月の24日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。
(2・18 新改訳)


先の第1章では、現状をよく考えよと主は言われました。そして、第2章では、今日から後のことをよく考えよと言われます。

第1章では、本来の使命である神殿再建を後回しにして、自分の生活のことだけに明け暮れている現状を考えるように導かれました。そして、人々は悔い改めて神殿再建に着手したのです。

時に、ペルシャの王ダリヨスから神殿再建の承認がなされました。それを不服とするサマリヤ人たちからの妨害は相変わらずあったものの、人々は勇気を得て再建工事に着手したのです。その時の励ましが2章1~9節です。

神殿再建は進むものの、かつてのソロモン王が奉献した神殿の規模からすれば、いま自分たちが再建している神殿はあまりにも見劣りしています。

それはそうですよね。あの栄華をきわめたソロモン王が、当時の莫大な財力をもって奉献したのが第1神殿でした。かたや、自分たちは奴隷の地からようやく戻ってきたのです。自分の生活ですら、やっとのことなのに、神殿再建のために用意できる財力も資材も、あのソロモンの神殿には到底かないません。

バビロンからの帰還民の中には、かつての第1神殿の荘厳な姿を知る長老もいて、それと比較して落胆することもあったようです。その様子が次のように語られています。

あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。(2・3)

荒廃したエルサレムにおける再建工事ですから、何もかもが劣っているのは明白です。見た目にはみすぼらしく、かつての栄光が薄らいでいるようにも見えたことでしょう。しかし、主が励ましてくださるのは、再建する神殿の栄光は、以前の神殿の栄光にまさっているのだと言われるのです。

主の家宮・神殿の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる。(2・9)

新約の時代にイエス・キリストを信じた私たちはどうでしょうか。イエスを信じる以前の方が物質的には富んでいたかも知れません。世の栄華に輝いていたかも知れません。

しかし、イエス様を信じて世の富や栄華よりも、天における富や栄光を求めるようになりました。見た目には、劣っているかのようです。クリスチャンの姿を見て嘆く人もいるかも知れません。

ある牧師の話です。東京大学を卒業して前途有望な将来を約束されていたのに、牧師に転身しました。周りの人々は、それを勿体ないと批判したのです。その人々には、東大出身の肩書きが栄光に富んでいると思えたからです。

しかし、主は言われるのです。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさるのだと。そのような後の宮である神殿再建に着手した今日から後のことをよく考えよと主は言われます。しかも2回にわたって言われます(2・15、18)

神はその後の祝福を約束なさっているからです。

まず神の国と神の義を第一にしようと決断し、着手した後に用意されている祝福を考えよというのです。「それらの必要は与えられるのだ」と言われた主の約束を信頼せよと言われるのです。

旧約の人々も神殿を完成させるために苦労しました。その苦労は新約のクリスチャンも同様です。ハガイが語る預言は、そんな私たちに対するエールでもあります。

主は言われる。ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。

これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたの内に宿っている。恐れるな。
(2・4~5)


さあ、勇気を出して雄々しくあろう。主は共におられるのですから。しかも、罪の奴隷から〝出エジプト〟した時に働かれた聖霊が、今も私たちの内におられるのですから……。

このようにしてハガイ書は、現状をよく考え、悔い改めよ。そして、その後の栄光のことをよく考えよと命令しています。


ハガイ書 1章

2023年07月20日 | ハガイ書
ハガイ書 1章
今、万軍の主はこう仰せられる。あなた方の現状をよく考えよ。
(1・5 新改訳)


本書のハガイ書とそれに続くゼカリヤ書とマラキ書は、バビロン捕囚以降の預言書です。ユダヤ人がバビロンから帰還した後のことは、エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記に記録されています。そのエズラ記によると、ユダヤ人たちがバビロンから帰還してまず最初に着手したことは神殿建設でした。

しかし、それは順調には行きませんでした。バビロンによって破壊された祖国は荒れ廃れたままであり、そこを再建することは至難のわざでした。

また、先住民であるサマリヤ人の執拗な妨害に苦しみました。彼らは、ユダヤ人たちが無許可で神殿を再建していると訴えたため、再建工事は中断したままになってしまいました。しかし、神殿再建はペルシャの王クロスによって許可されたはずであり、その真偽を確認すべくダリヨス王に伺いを立て、ようやく古文書の中からクロス王の勅令が確認され、神殿建設工事は再び動き始めることになりました。

預言者ハガイは、神殿工事が中断された時代の預言者でした。帰還した人々の神殿再建への情熱は冷め、その使命は消え去ろうとしていました。そこで、ハガイは民に向かって語ったのです。

主の家神殿はこのように荒れはてているのに、あなた方は、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。(1・4)

自分たちは何のためにバビロン捕囚から解放されたのか。何のために約束の地に帰還したのか。本来の使命を忘れて、自分の生活のために明け暮れていて良いのか。神の住まいである神殿よりも、自分の住居や生活のために生きるだけで良いのか……。そんな問いかけをハガイは語ったのです。

勿論、神は私たちに飢え死にせよと言われるのではありません。しかし、私たちが何を着ようか、何を食べようかと思いわずらい、そのことで盲目になってしまうことを警告なさっているのです。まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば、それらの必要は与えられるのだとの約束を信頼するのです(マタイ6・33~34)

バビロンから帰還したユダヤ人たちの使命が神殿を再建することであったように、新約時代の私たちの使命は、神を礼拝し、神の栄光のために仕えることです。日々の生活はどうでもよいというのではありません。学校の勉強を欠かしてはいけません。社会で働きます。また、家事仕事にもいそしみます。しかし、それが人生の最終目的ではありません。私たちの使命は、私たちの心に神殿を完成させることです。まことの礼拝者としての人生をまっとうすることです。

さて、帰還したユダヤ人たちの生活は何か歯車がかみ合っていない様子です。神殿のことより自分の生活を第一としている割りには、収穫は少ないし、食べたり飲んだりしても満足がないのです。

ハガイはその様子を次のように語っています。

あなた方は多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。(1・6)

何かが狂っています。どこか歯車がかみ合っていないのです。そんな人々に、冒頭の聖句のように、あなたがたの現状をよく考えよと主は言われます。

5節でもそう言われ、再び7節でも同じように語られています。第一にすべきことを後回しにしていませんか。あなたの現状をよく考えてください。本来の使命を忘れていませんか。そこから、人生を組み立て直す必要がありませんか。


ゼパニヤ書 3章

2023年07月19日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 3章
その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべて彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる。
(3・9)


ゼパニヤをはじめ多くの預言者たちは主の日の到来を預言しました。それは、主がこの地をさばかれるその日です。しかし、そのさばきの後にもたらされる、新しい世界についても預言しました。

ゼパニヤもさばきの後に完成する新しい世界を預言しています。そしてその世界は、冒頭の聖句にあるように、まことの礼拝の回復です。

神はまことの礼拝者を求めておられます。しかし、それを妨げるのが「偶像礼拝」です。だから、預言者が告げる主の日におけるさばきは、この偶像礼拝に対する激しい神の御怒りとして描かれています。

ゼパニヤが預言した「まことの礼拝」は、人々のくちびるをきよめることから始まります。

私たちの口は何を語っていますか。不平の言葉、呪いの言葉、さげすみの言葉、時々感謝の言葉……。聖書は、この言葉を発する「舌」は、船を操る舵のようだと言っています。つまり、この口が何を語るかによって、人生という船の行き先を決めるのです。

私たちの人生の行き先は、運命に引きずられるようにして否応がなしに進んでいるのではありません。各自のくちびるから出る言葉によって舵を切っているのです。

問題は、そのくちびるからどんな言葉が出されているのかです。

神は、さばきの後に私たちのくちびるをきよめてくださいます。私たちの口から神を讃美する言葉が出るようにしてくださいます。私たちの口が主の御名を呼ぶようにしてくださいます。

それは聖霊の働きによるのです。

こうして、私たちは主の御名を呼び、主を礼拝する民として回復されます。礼拝の中で、私たちの口は、主を讃美する言葉で溢れます。このようなことは、救いを得る以前にはなかったことです。

さあ、主を礼拝しよう。霊とまことをもって礼拝しよう。私の内に住まわれる聖霊によって、新しい言葉を語ろう。呪いの言葉ではなく、祝福の言葉が湧き出るのです。不平の言葉ではなく、感謝の言葉が私の口から出るようになるのです。ゼパニヤが預言した新しい世界は今や始まっています。


ゼパニヤ書 2章

2023年07月18日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 2章
すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなた方は主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
(2・3)


神は、主の日のさばきから救われるように、「集まれ」と呼びかけておられます。それは、主に立ち帰れという呼びかけです。神に立ち帰る者とは、冒頭の聖句にある「へりくだる者」です。

神はこの「へりくだる者」に呼びかけておられます。

主を求めよ
正義を求めよ
謙遜を求めよ」。この三つの〝求めよ〟です。


この三つは連動しています。主を求めるとは、主の助けを求めることですが、それは主の正義による正しいさばきに立脚します。私の正しさなど何の足しにもなりません。神の公正なるさばきに身をまかせるしかありません。これは、先のハバクク書で学んだ通りです。だから、自己正義を捨てて、神の正義を求めます。そのためには謙るしかありません。だから謙遜を求めよと言われるのです。

そうすれば、主の御怒りの日に〝隠される〟かもしれないと言われます。

「隠される」とは「かくまわれる」という意味です。「あるいは……であろう」とは、キリストにある確実な救いが成就していない時代ゆえの不確かな表現なのでしょう。

しかし、神は、私たち人間が救いを受けるようにと、いにしえより定めておられます。これは、先のミカ書5章でも見ました。神は、人間を罪の中で滅ぼすために創造なさったのではありません。それは、新約においても、神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのであると言われている通りです (Ⅰテサロニケ5・9)

つづいて、ゼパニヤ書2章4節以降は、イスラエル以外の周辺諸国にくだる御怒りについて預言されています。西のペリシテ人に対して(4~7)、東のモアブとアモン人に対して(8~9)、南はエチオピア人に対して(12)、北のアッシリヤに対して(13~15)語られています。

興味深いことに、そのような異邦人たちの中にも、悔い改めてまことの礼拝者となって救いを受けると記されていることです(2・11)。主はいつの時代にも、いかなる民族にも、「まことの礼拝者」を求めておられるのです。

しかし、北のアッシリヤに関しては徹底的な滅びが語られています。何故なら、彼らは、私だけは特別だとおごり高ぶっていたからです。この箇所は、口語訳の「ただ私だけだ、私の外にはだれもない」という翻訳では分かりにくいので、新改訳聖書を参照してください。

自分は大丈夫。自分は特別だから滅びない。神のさばきなどあるはずがない。そう高をくくってはなりません。主イエス・キリストの中に隠されるほかは、特別な道も場所もないのです。


ゼパニヤ書 1章

2023年07月17日 | ゼパニヤ書
ゼパニヤ書 1章
彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。
(1・18)


預言者ゼパニヤはヒゼキヤ王の5代目の子孫であると記されています(1・1)。ゼパニヤの曾々祖父にあたるヒゼキヤ王は南ユダの宗教改革を推進した王として有名です。しかし、次のマナセ王はこの改革をぶちこわしてしまいました。信仰の面では暗闇の時代に逆戻りしてしまいます。

やがてヨシア王の時代になって、再び宗教改革がなされ、その時代に本書の著者であるゼパニヤが預言者として召され、ヨシア王の宗教改革を霊的に支えたわけです。

ゼパニヤは、「バアルの残りの者」(4)と呼ばれる偶像礼拝者たちに、悔い改めてまことの神である主に立ち帰れと語りました。神は、偶像礼拝とそれに伴う道徳的退廃した南ユダを滅ぼそうと準備なさっているからです。

主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである(7)とありますが、「備えられた犠牲」とは、さばきの日に屠られる南ユダのことを指しています。また、それを屠る祭司役として「招いた者」がいます。それは何と、南ユダを滅ぼすバビロンのことなのです。

この日のことを、ゼパニヤをはじめ他の預言者たちは主の日と呼んでいますが、14節以降は、主の日のさばきが如何に厳しく激しいものであるかが記されています。彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができないのです(18)

神がもっとも忌み嫌われることは何かご存知ですか。聖書はそれを繰り返し述べています。それは偶像礼拝です。だから、ゼパニヤをはじめ多くの預言者たちは、終わりの日には偶像礼拝が徹底的にさばかれ、滅ぼされると預言したのです。

かつてのヒゼキヤ王は宗教改革を試みたものの、すべての偶像を取り除くことができませんでした。また、志を同じくするヨシヤ王も道半ばにして、改革しきれませんでした。

しかし、歴代の敬虔な王たちが成し遂げられなかったことを、神が完成なさいます。終わりの日に、偶像礼拝を徹底的に滅ぼし罰せられるのだと、ゼパニヤ書第1章は語っています。

神が偶像礼拝をこれほどに忌み嫌われるということは、裏をかえせば、神が求めておられるのは、まことの礼拝だという意味です。イエス様も、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである と言われたとおりです (ヨハネ4・23)

神は、まことの礼拝者を求めておられます。この目的に向かってすべての出来事は繋がります。聖書はこの神はまことの礼拝者を求めておられるという視点で読むべきすそれを「人類の救いのため」という視点だけで読み解くのは無理があります。すると、どうしても人本主義つまりヒューマニズム的キリスト教になってしまい、神の御心を見誤るからです。聖書は神本主義です。

さて、話題を戻します。

偶像礼拝といっても、仏像などの偶像もあれば、富や地位や名誉といったものも偶像になり得ます。それを神のように崇拝するならそれは偶像です。

イエス様は、神と富との両方を主人とすることはできないといわれました。神こそまことの主人です。なのに、富が主人となり、富に仕え、富の奴隷となるなら、富は偶像です。私たちは神のしもべにはなっても、富のしもべになってはなりません。神が私たちのまことの主人であって、富に対しては、私が主人となって、富を正しく管理するのです。この順番が逆転してはいけません。

冒頭の聖句が示すように、金も銀もまことの主人ではないので、終わりの御怒りの日に、私たちを救い出すことができません。救い出すことのできるのは、私たちの主イエス・キリストだけです。


ハバクク書 3章

2023年07月15日 | ハバクク書
ハバクク書 3章
しかし、私は主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ
(3・18)


主からの応答を受けて、ハバククは讃美と祈りをささげました。第3章はその内容です。主がなさるさばきは厳しいけれども、正しいさばきであり、主のなさることを信頼するのだと告白しています。

ですから、怒る時にもあわれみを思いおこしてくださいと祈っています(3・2)。新改訳では激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」。神の愛を信頼するが故に、そのさばきにも身をゆだねようという決意の表れです。

確かに、神のさばきは厳しく痛みが伴います。しかし、そのさばきを通して神が実現なさる、神の義と神の国を求めるのです。十字架の死という痛みの先には、永遠のいのちに至る復活があるのです。

このような神のさばきへの信頼ゆえに、ハバククは迫り来る厳しい状況を覚悟しつつも、神のなさることにゆだねている様子が現れています。

私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。
(3・16)


このような神への深い信頼は特筆すべきです。目先の問題解決や利益のために信じているわけではありません。時に不利益さえも甘受し、さらに滅びさえも覚悟し、神のさばきを信頼する姿です。

これこそ義人の姿であり、義人が信仰によって生きることです。

ハバククが預言した時代の南ユダの情勢は、さらに混迷を増すばかりでした。神のさばきと御怒りがひたひたと近づいているのが感じられました。その状況を次のように述べています。

いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる(3・17)。被造物全体も罪の中で苦しんでいる情景です。しかし、そのあとに18節の聖句が続きます。

しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶのです。状況が好転しているから喜ぶのではありません。神の正しいさばきの向こう側に用意されている復活の恵みを知って喜ぶのです。

これが神の喜ばれる信仰です。このような信仰者を神は義とされるのです。そして、「義人は信仰によって生きる」のです。


ハバクク書 2章

2023年07月14日 | ハバクク書
ハバクク書 2章
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
(2・4)


ハバククは自分の訴えに対して、神がどのように応えてくださるのか待ちました(2・1)。そして、主からの応答があったのです。

この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。(2・2~3)。つまり、神の約束は必ず成就するのです。「もし遅ければ待っておれ」と言われます。私たちに求められていることは〝遅くても信じて待つ〟ことです。この約束とは神の正しいさばきのことです。

なのに、「神は約束を忘れたのだ」「神は理不尽なお方だ」という不信感は、待ちきれない者の口から出てきます。神がいるならなぜ悪を放置されるのだという不満は、神のさばきを待ちきれず、自分の正しさでさばいてしまう思い上がりから出てきます。そのような考え方は、ハバククいわく「魂の正しくない者」であり、「魂の正しくない者は衰える」のです。

かたや、神の約束すなわち神の正しいさばきを〝遅くても待つ〟ことが信仰です。神のさばきを信頼する者が神の目には義人であり、彼こそが本当の意味で生きることになるのです。なぜなら義人はその信仰によって生きるからです(2・4)

さて、バビロンは神に用いられて神の民を撃つという大役を担いました。しかし、そのことが、バビロンを高慢にさせました。神の民でさえ、神はかくも罰せられるのであれば、ましてや自分はどうだろうかと謙虚に受け止めませんでした。自分はさも「正しい者」であるかのように振る舞ったのです。

日本でも「勝てば官軍」と言われるように、勝った方が正義になります。この時のバビロンも〝勝って官軍〟となったわけです。でも、その正しさはどれほどのものですか。人の義は何ともあやふやです。自分が正しいと思って他者をさばきます。しかし、その自分の義は何が根拠ですか。ちっぽけな自分の正義ではありませんか。それを「自己正義」と言います。

神の義を知らない者は、このあやふやな自己正義の上に人生を建てあげます。しかし、信仰のある者は、神の正しいさばきを待ち望みます。そのような者こそが、〝生きる〟のです。

第2章は、バビロンに下されるさばきです。そして、最後は次のような力強い御言で終わっています。

主はその聖なる宮にいます。全地はその御前に沈黙せよ(2・20)。いかなる不平も不満も、また、自己正義によるいかなる主張や訴えも、いったい神の聖なる義の前にいかばかりのものでしょうか。恥じいる内容ばかりです。全地はその御前で静まるのみです。