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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨシュア記 24章

2024年11月23日 | ヨシュア記
ヨシュア記24・23 あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい。

ヨシュアの遺言説教は続きます。

父祖アブラハムから今日に至るまで、主なる神が成してくださった恵みを顧みています。今あるのは、主が与えて下さった恵みであることを忘れてはならないと語られています(24・1~12)

自分たちが労しなかった土地を受け、自分たちが労しなかった家、作物、富を得ている。これは主が与えて下さったのだと語られています(24・13)

この恵みを忘れて、自分の力で成し遂げたと思う傲慢から堕落が始まります。

新約聖書でも、こう告げられています。「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、何故もらっていない者のように誇るのか」(Ⅰコリ4・7)

すべてを与えてくださっている神を忘れることが傲慢です。

だから、私たちはすべての根源である神を礼拝します。礼拝とは、すべてが神のものであるとの告白です。自分さえも自分のものではなく、神よ、あなたものですと告白するのが礼拝です。この礼拝を忘れると人は傲慢におちいります。

だから、主なる神への礼拝を第一としよう。

ヨシュアは、何度も偶像礼拝を警告しています。神ならぬものを神として礼拝すること……これが偶像礼拝です。そしてヨシュアは、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさいと命じました(24・23)

今日のクリスチャンが神社・仏閣に詣でて意図的に拝むことなどしないでしょう。むしろ気をつけるべきは、冒頭の聖句が指摘しているように、私の内にある偶像異なる神々です。

主イエス以上に頼りにしているもの。主イエス以上に愛していて、それとイエスとどちらを選ぶのかと問われたら、主イエスを捨てて選んでしまいそうなもの。それは偶像であり、異なる神々です。

ヨシュアは、そのような異なる神々を捨て去れと命じました。そうすることによって、心を主に傾けるのだと教えました。つまり、私の中に偶像があると、主イエスに心を傾けなくさせるのです。

祈りましょう。主イエスに心を傾けることを妨げている偶像があるなら、主よ示してください。そして、それを捨て去ることができるようにして下さい。

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【一日一章】 朝マナ ヨシュア記 24章 【聖書通読】
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ヨシュア記 23章

2024年11月22日 | ヨシュア記
ヨシュア記23・6 あなた方は堅く立って、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。

イスラエルの民を導いたヨシュアも晩年を迎えるにあたり、民の長老たちを集め、遺言を語りました。第23~24章はその内容です。イスラエルの民に残すべき大切な教えが語られています。

(1)律法(神の御言)を守れ(23・6)

御言から離れて右にも左にも曲がってはならない。人はパンだけで生きる者ではありません。パン(ご飯)は肉体を養う食物です。しかし、私たちの霊魂は、霊的な食物で養われます。それは神の御言です。

旧約時代の御言は「律法」でしたが、新約時代の御言は「福音」です。イエスをキリストとして信じる信仰から離れてはなりません。この福音から右にも左にも曲がってはなりません。

(2)他の国民と交わってはならない(23・7~8)

このことは誤解しないようにしてください。当時、イスラエル民族以外の国民は、偶像礼拝者たちです。神ならぬ神を拝み、神の忌み嫌われる習慣を持っていました。そんな国民と交流が盛んになれば、その影響力は甚大です。

神は、イスラエル民族を神の国民、聖なる民として選び育てようとなさったので、このような命令が与えられました。他の国民と交わったり、婚姻することで、偶像礼拝をイスラエルに持ち込ませないためです。

ところが、この後のイスラエルは、この点で多くの失敗をしました。そして、まことの神から離れ、堕落し、逸脱して行きました。新約時代のクリスチャンにとって、これは霊的教訓です。

しかし、このことを極端に解釈して、未信者と関わりを持たないようにするのは間違いです。クリスチャンはイエス様を我が内に宿している者たちで、すでに聖なる者たちです。

未信者の人々と関わりを持ったからといって、自分が駄目になるような弱い存在ではありません。主があなたの中に住まわれていることを忘れないでください。むしろ、積極的に出ていって福音を伝える存在です。新約の民は、未信者の人々から影響を受ける柔(やわ)な存在ではなく、逆に影響を与える存在です。そのために聖霊を受けたのですから……。

ただ、注意すべきことは、偶像礼拝にかかわってはならないということです。これは、主なる神に仕える者にとって重要な課題です。

(3)ひとりで千人に当たることができる(23・9~10)

今日に至るまでの勝利は、イスラエルが強かったからでもなく、優秀であったからでもありません。ひとえに、主なる神が共におられたからです。このことを忘れてはならないと教えられています。

このように主が共におられるなら、ひとりが千人に当たることができると、励ましの御言が与えられています。

ヨシュア記に一貫して流れているテーマは、「インマヌエルの神」です。主が私たちと共におられることです。

このことは、イエス・キリストによって私たちに成就しています。今や、私たちはイエスの中に居り、私の中にイエスが居られます。イエスこそ、インマヌエルの神です。

神が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると、主は約束されています。

現在、日本のクリスチャン人口は1%と言われています。つまり、100人にひとりの割合です。日本人口約1億人のうち、約100万人がクリスチャンです。何と少ないことでしょうか。

さらに、実際に教会に集って明確な信仰をもって生きているクリスチャンともなればもっと少なくなると言われていますから、1000人にひとりという割合になるかも知れません。

でも、人数が問題ではありません。主が共に居られるなら、ひとりで千人に当たることができると主は言われるではりませんか。それなら、現在のクリスチャンたちで1億の日本の人々に対応できるということになります。

勇気をもってキリストの証人として立ち上がりましょう。そして祈ります。どうか私を、ひとりで千人に当たることのできる者にしてください。


ヨシュア記 22章

2024年11月21日 | ヨシュア記
ヨシュア記22・10 ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。

イスラエルは12の部族からなっていますが、その内の「ルベン族」「ガド族」「マナセの半部族」の人々は、すでに、ヨルダン川の東側の地を受け嗣ぐことになっていました(民数記32章)。

実は、神がイスラエルに与えると約束なさった地は、ヨルダン川の西側です。しかし、上記の2部族と半部族の人々は、東側の地が気に入ったので、それを自分たちのものにしたいと申し出たのでした。

神のご計画よりも自分たちの要望を優先したことになります。

そこで、モーセは彼らの要望を認める代わりに、ヨルダン川の西側を獲得するまで、兵士を派遣して共に戦うという条件を付け、彼らはそれに従ったわけです。そしてついに戦いも終結し、ルベン族とガド族とマナセの半部族は、ヨルダン川の向こう側、東の地に戻ることになりました。

今でこそ橋や道路といったインフラが整っていますが、当時、川によって隔てられることは、社会的にも信仰の面でも、隔たりが生じることは当然のことでした。そのことを危惧した2部族と半部族は、ヨルダン川のほとりにひとつの祭壇を建設して、信仰から離れまいとしました。

ところが、他の部族からすれば、シロの幕屋とは別にもうひとつの祭壇を築くことになり、それはイスラエルに霊的分断をもたらす危険性があるとして、人々は異議を唱えました。

彼らは戦争をも辞さない覚悟で、東側の人々に詰め寄った結果、シロの幕屋に代わる祭壇ではない」、「東側の民は、西側の民とひとつであることの証しの祭壇であるという見解を得て一件落着とあいなったわけです。

さて、これが本当に「一件落着」であったのかどうかは、時を経なければ分かりません。

神が用意なさった約束の地は、ヨルダン川の西側です。自分の都合を優先して東側にとどまり、川を渡ろうとしなかった人々は、その後、イスラエルの歴史から姿を消してしまいます。

「証しの祭壇」と呼び名は美しいのですが、気に入った領地も欲しいが、信仰的な祝福も手放したくない。そんなわがままを両立させる欲望の記念碑に過ぎなかったのではないかと思います。

主イエスは、神と富との両方を主人とすることはできないと言われましたが、ヨルダン川の東側の人々は、神と富との両方を主人としようとした姿ではないだろうか。熟考すべき課題です。

川を渡って神の約束の地に入り、そこにとどまるべきではなかっただろうか。イスラエル人の別名はヘブル人ですが、その名の由来は川を渡ってきた者です。

世俗の側から神の側へ、罪の世界から神の光の世界へ、川を渡って来た者がヘブル人です。歴代の信仰の父祖たちは、数々の川を渡ることで、それ以前の生き方を葬って、神と共にある新しい生き方へと渡って来たのです。これこそがヘブル人の真髄です。

このヨルダン川東岸のイスラエルの事例を通して、私はヘブル人となっているだろうかと自問してみるのは大切なことです。


ヨシュア記 21章

2024年11月20日 | ヨシュア記
ヨシュア記21・41 イスラエルの人々の所有のうちに、レビびとが持った町々は、合わせて四十八であって、それに属する放牧地があった。

イスラエルの各部族には嗣業としての相続地が分割されたことは、すでに見たところです。そして、レビ族だけは分割地がなく、幕屋(のちの「神殿」)で神に仕えることが嗣業でした。

とはいえ、レビ族の人々の居住地は必要です。そこで、12部族の分割地からレビ族が居住できる町と放牧地を提供することになりました。その町の数は48であったと記されています。このようにして、レビ族の人々はイスラエルの各地に分散して居住することになりました。

彼らが仕えるべく幕屋は、エルサレムの町から北に約30㎞のところにあるシロという町におかれており、このシロの幕屋に出掛けて礼拝にかかわる働きをすると共に、居住地では人々に律法を教え信仰を養いました。こうして神は、レビ族を各部族の中に住まわせることによって、神の律法、即ち御言を伝える働きをさせました。

神の御言を伝え教える働きはとても重要です。

もし、レビ族の働きがなかったなら、イスラエル民族は雲散霧消していったことでしょう。人々はカナンの習慣に埋没し、異教の神々の影響を受け、主への信仰を失うことになったことでしょう。

今の時代も同じです。私たちの目や耳を通して入ってくる情報の99%以上が、この世に属するものです。神に属する情報、天に属する情報は、どれぐらいあるでしょうか。

今日、世俗からの情報量はますます増えています。テレビ、雑誌、インターネット等々。情報の洪水の中で溺れそうです。ある人は、「情報断食」なるものの必要を提案していますが、それほど、現代社会のような環境の中で、イエス・キリストについて知ることは難しいことであるし、だからこそ、それを語り伝える働きは重要です。

祈りましょう。レビ族の人々が地域に分散して、神の律法(御言)を伝えたように、私たちがイエス・キリストを伝えることのできる存在となり得ますように。


ヨシュア記 20章

2024年11月19日 | ヨシュア記
ヨシュア記20・2~3 のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。

私たちは故意に罪をおかすこともあれば、誤っておかしてしまう罪もあります。そこで神は、あやまって人を殺してしまった者を保護するためにのがれの町を定められました。

律法では、「目には目を、歯には歯を」と言われているように、目が被害を受けたなら、おなじ目をもって償(つぐな)わなければならないと定めています。 ※これは「やられたらやり返せ」という報復を奨励しているのではない。目をやられたら〝目だけ〟にしておけ、という限定報復を意味する。過剰な報復を禁止するものである。

ですから、殺人に対しては死をもって償わなければなりませんでした。これが原則です。しかし、故意によらない殺人もあります。事故や正当防衛の場合が考えられるのですが、そのような場合、「死には死を」を根拠に報復してしまわないために、のがれの町が定められました。

のがれの町は、イスラエルの各地に点在し、どこからでも1日路ほどの距離にありました。

あやまって人を殺した者が、のがれの町に逃げ込んだ場合、町は彼を保護し、彼はこの町で正当なさばきを受けることができました。このように、助かりたい者は、のがれの町に逃げ込むことができました。

神は、罪人が滅びるのを喜ばれません。悔い改めて生きることを願っておられます(エゼキエル18・32)その悔い改めて生きようとする者が生きられる方法がのがれの町だったのです。

まさにイエス・キリストは新約時代ののがれの町です。

旧約ののがれの町は過失の罪をおかした者に対する保護とゆるしでしたが、新約のイエス様は〝誰でも〟です。この〝誰でも〟は新約の特徴です。「誰でも重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。「今やキリスト・イエスにある者は誰でも罪に定められることがない」。

このように、のがれの町はやがて実現するイエス・キリストによる救いを予表しています。旧約ののがれの町の場合、救済できる罪人には限度がありましたが、イエス・キリストにあっては〝誰でも〟です。このイエスにのがれる者は、誰でも救われます。

旧約の律法によれば、油断してのがれの町を出てしまうなら、追っ手によって彼は殺されることもありました。そのように、イエスから出てしまうなら、追っ手である悪魔は私たちの罪を根拠に容赦なく責めて滅ぼしてしまうでしょう。

ですから、イエスの中から出てはいけません。イエスの中にとどまってください。イエスの中で私たちはゆるされ、イエスの中で救われ、イエスの中でいのちを得るのですから。


ヨシュア記 19章

2024年11月18日 | ヨシュア記
ヨシュア記19・49 こうして国の各地域を嗣業(しぎょう)として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業をヌンの子ヨシュアに与えた。

遂にイスラエルのすべての部族に嗣業の地が与えられました。ところが、最功労者であるヨシュアの住む土地が決まっていませんでした。彼は、民の居住地を優先して、自分は後回しにしたからです。

ヨシュアの立場と功績を考えるなら、最も良い地を早々に得ていてもよいはずなのですが、ヨシュアはあえて、エフライムの山地にあるテムナテ・セラという町を選びました(19・50)

この地は、偶像礼拝の盛んなところであったと考えられています。地誌学によれば、太陽神を拝む言葉が町の名の由来だそうです。

そんな曰(いわ)く付きの土地を建て直そうというのです。そのことを聖書は、彼はその町を建てなおして、そこに住んだと記しています(19・50)

ヨシュアはすでに高齢に達していました。もう隠退してもよい境遇でしたが、彼はこの偶像礼拝の町を建て直すことに残りの生涯を費(つい)やしたのです。

神からの使命に年齢差はありません。青年には青年の使命があります。壮年には壮年の、老人には老人でなければならない使命があります。何歳になっても、今の私に与えられた神からの使命を果たす者でありたいと願います。

さて、一連の嗣業(相続地)の割り当ては〝くじ〟をひいて決めたと何度も記してあります。重要なことをくじ引きにするなんて軽率ではと思います。民主主義が定着した現代では、何でも話し合って決めるのが最高の結論だと思っているからです。

しかし、人間の小賢(こざか)しい意見や下心が行き交う会議の結果、得られた結論にも疑問符が灯(とも)ります。何かを決めるというのは難しいものです。そこで〝くじ〟の登場です。神に決めてもらおうじゃないかという訳です。

意外とくじ引きには神の御心が反映されているのではないかと私は思っています。自分の人生を振り返って見ても、自分で決めたとおりになったことは何割でしょうか。1割あるでしょうか。特に重要なことはもっと低いかも知れません。

なぜ、藤原家の次男坊に生まれたのか。なぜ京都の田舎に生まれたのか。なぜ日本人なのか。なぜ昭和の時代なのか。どれをとっても〝くじ〟で決められたかのような人生です。

でも、そこに神の御心があるのです。そこに、神が与えた嗣業があるのです。ならば、これを由(よし)として受けとめようではないかと思うのです。

私には私の、あなたにはあなたの、くじを引いて得た嗣業があるのです。それを誠実に生きよう。タラントを増やすように生きよう。そんな人生であるように祈ります。


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ヨシュア記 18章

2024年11月16日 | ヨシュア記
ヨシュア記18・3 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなた方は、先祖の神、主が、あなた方に与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか」。

ヨシュア記は、救われた私たちが大人の信仰者に成長する物語として読むことができます。荒野ではマナが天から与えられたましたが、約束の地に入ってからは自分の手で食物を得るようになったという記録も、そのことを表しています。

棚から牡丹餅(ぼたもち)式に与えられるのは〝幼な子の時代〟です。いつまでもそのままではありません。〝おとなの時代〟へと進まなければなりません。主が共におられることを信じて勇気をだして前進します。

だから、先の17章でも「自分で切り開きなさい」と命じられていました。また、今日の18章でもいつまで怠(おこた)っているのかと叱責されています。

イスラエルの各部族に嗣業の地が分け与えられたにもかかわらず、7つの部族は、いまだそれを手にしていませんでした。そんな彼らにヨシュアは、「いつまで怠っているのか」と呼びかけました。新改訳ではいつまで先延ばしにしているのですか」。

主なる神は、私たちに豊かな勝利をすでに約束なさっています。あとは、私たちが約束を信じて、行動するだけです。

行動を躊躇(ためら)わせるものは何なのでしょうか。日々の生活のわずらいもその一因でしょう。

御言の種がまかれ、芽が出て茎も伸びたのですが、いばらが生え出て成長を妨げるように、日々の生活のわずらいが、先延ばしの原因になります。

また、イエス様はこうも言われました。(すき)に手をかけてうしろを振り返る者は、神の国にふさわしくないと。

過去の失敗や間違いを振り返ると、私たちの志気はなえてしまいます。適切な反省は前を向くのに役立ちますが、過度な原因さがしや後悔は、前を向くどころかバックギアが入って前進を防げてしまいます。私たちはイエスを信じ、神の御国のために鋤に手をかけた者たちです。前に向かって、主が用意なさった嗣業を手にしようではありませんか。

私たちの行く所々に、神の御国のご支配をもたらすことは、私たちのミッションであり嗣業です。私たちの周りの環境はどうでしょうか。神の栄光が現れる所となっているでしょうか。むしろ、悪魔の勢力がのさばる世界の方が大きいのが現実です。

イエス様の福音を知らずに、罪と死の奴隷となっている世界がまだ残っています。その地を取りに行くのは神の御心です。そこは私たちの嗣業です。

それなのに、いつまで先延ばししているのですか、と主は問いかけておられます。

祈りましょう。まだ、イエスのご支配が及んでいない人々や社会を、イエスのものとすることができるように、私たちをお遣わしください。


ヨシュア記 17章

2024年11月15日 | ヨシュア記
ヨシュア記17・18 山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます。

イスラエルの各部族ごとに嗣業(しぎょう)が割り当てられる中で、ヨセフの子孫から不平が出てきました。

「ヨセフの子孫はヨシュアに言った、『主が今まで、私を祝福されたので、私は数の多い民となったのに、あなたはなぜ、私の嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか』。」(17・14)

1タラントを受けた者には、2タラントを受けた人が羨(うらや)ましく見えます。また、2タラントの者には5タラントが魅力的です。しかし、その違いは差別ではなく、〝それぞれの能力に応じて分け与えられた〟ことを見落としてはなりません(マタイ25・15)

多い方が良い、大きい方が良い、という価値観は正しいのでしょうか。少ないことは悪いことなのでしょうか。弱いことは欠点なのでしょうか。また、皆が同じ数、皆が同じ量というのは正しいのでしょうか。差があることは悪いことなのでしょうか。違いがあることはいけないことなのでしょうか。

聖書は、それぞれの能力に応じて……と述べています。それは神がご覧になった裁量によるのであって、私たち人間が推しはかることのできない領域です。

さて、ヨシュアはヨセフの子孫たちに、あなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジ人やレパイム人の地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなた方には狭いのだからと提案しました(17・15)。しかし、そこに住むカナン人が鉄製の武器を持っているので開拓するのは難しいと、ヨセフの子孫は言い訳をしました。

なにやら、1タラントを使わずに土の中に埋めておいた者のようです。そんな人々に自分で切り開きなさいと命じました(17・15)

タラントの話しでは、2タラントの者はそれを用いて4タラントに、5タラントの者は10タラントに増やしました。ヨセフの子孫たちにも、タラント増やすようにして切り開くことが求められたのです。

それを躊躇させる原因は「恐れ」でした。1タラントの者も、これを失ったら大変だと思い、恐れたので、土の中に埋めておいたのです。

ヨセフの子孫たちも恐れました。土地を切り開くにも、そこにはカナン人が住んでいて、しかも鉄製の戦車を持っているからです。彼らは、主なる神が今までしてくださったように、これからも成してくださることを忘れていました。

だから、彼らに与えられた御言は、カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます※という約束でした(17・18)。 ※口語訳・新共同訳を参照。新改訳は「強いので、追い払わなければならない」と翻訳。

相手がどんな武器を持っているかが問題ではありません。私たちの持っている武器の質も量も重要な問題ではありません。主が共におられることこそ最も大切なことです。

主が共におられることを忘れてはいないだろうか。今日、もうひとたび、主が共におられることゆえに、勇気をもって前進しよう。
 

ヨシュア記 16章

2024年11月14日 | ヨシュア記
ヨシュア記16・10 ゲゼルに住むカナンびとを、追い払わなかったので、カナンびとは今日までエフライムの中に住み、奴隷となって追い使われている。

「カナンの地を聖絶せよ」。これがイスラエルに課せられた神からの命令でしたが、イスラエルの民はそれを徹底できずにいました。

冒頭の聖句でも、カナン人がエフライム部族の地域に残っていると記録しています。

先にも申し上げたように、「聖絶」という命令(口語訳では「滅ぼしつくせ」)は旧約に限られたことで、新約では罪との戦いを表しています。

つまり、カナン人がそのまま残っている状態は、新約的には、罪と戦わないでそのまま残しておくことを意味しています。

今日の聖書ヶ所では、カナン人の生き残りが今も存在していることを記録しているだけですが、これが後の時代の禍根となります。ヨシュア記の次の書である士師記では、生き残りのカナン人によってイスラエルは大いに苦しめられるのです。

カナン人の偶像礼拝に影響を受けて、主なる神から離れてしまったり、カナン人に支配される事態にもいたります。だからこそ、主なる神はカナン人を聖絶するよう命じられたのですが……。

それと同じように罪の結果はやがて刈り取ります。罪は雑草のようです。しっかりと根から抜き取ってしまわないと、何度でも出てきます。

相手をゆるしたのに、ゆるし切れていない。記憶から忘れ去ろうとしているだけで、ふたをした状態。苦々(にがにが)しい思いが残っている。この状態は、「ゆるさない」という罪が根っ子から抜き切れていません。

そのことを聖書はこう記しています。苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい(ヘブル12・15)

私たちの原罪(神を認めない罪)はイエス様の十字架の死によって完全にきよめられました。しかし、救われたものの、日々おかす罪は、神に告白することでゆるされ、きよめられます(Ⅰヨハネ1・9)

苦い根が残っていると指摘されている罪は、後者の「日々の生活の中でおかす罪」のことです。神に告白しないで放っておくとか、口先だけの告白で終わっているようなとき、苦い根として残ります。

神に申し上げるとは、神の前に明らかにすることです。雑草を根っ子から引き抜いて天日にさらすことで干からびてしまうように、日毎の罪も神の御前にさらけ出すことによって、神の栄光の光で干からびてしまいます。それが、新約における聖絶です。


ヨシュア記 15章

2024年11月13日 | ヨシュア記
ヨシュア記15・19 彼女は答えて言った、私に贈り物をください。あなたはネゲブの地に、私をやられるのですから、泉をください。カレブは彼女に上の泉と下の泉とを与えた。

先の14章でヘブロンの地を攻め取ることになったカレブは、その戦いにおいて、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与える」と約束しました(15・16)

その結果、オテニエルが勝利し、カレブの娘アクサはオテニエルのもとに嫁ぐことになり、その領地であるネゲブに行くことになりました。ネゲブはユダの南部地方で乾燥した不毛の地でした。

花嫁の父が娘に贈り物をするのが習わしですが、その際、オテニエルは妻のアクサに畑を求めるようにと促(うなが)しました。新改訳ではそそのかしたと訳されています。 ※「彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。」(15・18・新改訳)

オテニエルに割り当てられた領土(嗣業)は乾燥した不毛の地でしたから、不満もあったことでしょう。だから、娘のアクサを通じて、義父に、耕作のできる畑を求めたのだと思います。ところが、アクサは思慮深い女性です。夫オテニエルの勧めとは違い、泉を求めたのです。

彼女は、畑ではなく泉を求めました。

アブラハムの息子イサクは、どこに遣わされても井戸を掘りました。どんな土地でも、井戸を掘りあてて、そこから豊かな収穫を得ました。

また、イエス様がスカルの井戸でサマリヤの女とお話しになったことを思い出します。イエスはこう言われました。私が与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わき上がるであろう。(ヨハネ4・14)

不毛の地で必要なのは畑ではなく泉です。枯れることのない泉さえあれば、荒れ地を耕すことができます。たとえ私たちの心が不毛の地のようであっても、そこに泉があれば、豊穣の地へと変えられます。

イエスが語りかけられたサマリヤの女も、その心は不毛の荒れ地でした。むなしさで干からびていました。だから、彼女は「その水を私にもください」と求めました。

あなたは何を求めますか。オテニエルのように畑を求めますか。それともアクサやサマリヤの女のように、汲めども尽きることのない泉を求めますか。

イエスを信じる者には、その腹からつきることのない泉がわき上がります。

しかし、古い自分からは苦い水がわき上がります。罪によって汚染された源泉だからです。イエスを信じるとは、古い自分を葬って、新しいきよい泉を内に与えられることです。

私たちの中に住まわれるイエスは、いのちを無限に供給してくださる泉のようなお方です。愛に限界を感じるとき、イエスの泉から汲めどもつきない愛をくみ出すことができますように祈ります。


ヨシュア記 14章

2024年11月12日 | ヨシュア記
ヨシュア記14・12 それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、私にください。あの日あなたも聞いたように、そこにはアナキ人がいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主が私と共におられて、私はついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう。

各部族の嗣業の地が次々と決まる中で、エフンネの子カレブは、アナキ(アナク)人の地ヘブロンを嗣業としてほしい旨を申し出ました。

他の部族は、先の戦いですでに勝ち取った場所を嗣業としたのですが、カレブが申し出たヘブロンは、まだアナキ人が支配しており、しかも、彼らの町は大きく堅固でした。

このカレブは、イスラエルの指導者ヨシュアと共にエジプトを脱出して以来、今に至るまで生き延びた者です。それ以外の民はみな荒野で死に絶え、約束の地に入ったのは次の世代でした。そういうわけですから、40歳代で出エジプトしたカレブは、荒野の40年を経て今では85歳になっていました。

もう隠退してもよい歳です。それに、すでに征服した地を受けるべく功労者なのに、カレブはなおもヘブロンの地を嗣業として申し出たのです。

カレブはこう言うのです。私は今日すでに85歳ですが、 今もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。私の今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。(14・10~11)

カレブがこのように申し出た根拠は、彼自身の中にはありませんでした。

主が私と共におられて、私はついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができると考えたのです(14・12)。つまり、主が共におられることに根拠があるのです。

多くの場合、私たちは、自分の能力や財力や健康を根拠に判断します。でもそうではありません。神が私と共におられることを根拠にすべきです。

逆に、どんなに自分に能力があっても、神が共におられないなら、その働きは遅かれ早かれ頓挫するでしょう。私の能力が1であろうが100であろうが、全能の神が共におられるなら〝かける無限大〟です。(1×無限大)も(100×無限大)も大した差ではありません。 ※人は自分の持っている力の多少に捕らわれてしまう。信仰はかけ算だ。信仰がない状態はゼロ。ゼロ×無限大はゼロ。からし種〝ひとつ〟の信仰×無限大だ。

カレブは自分が歳をとっていることも、力が弱っていることも言い訳にしませんでした。彼は、神にまったく従った人です。新改訳では、従い通したと訳されています。

祈りましょう。どうか、カレブのように、歳をとってもなおイエス様に従い通す者にしてください。


ヨシュア記 13章

2024年11月11日 | ヨシュア記
ヨシュア記13・33 レビの部族には、モーセは何の嗣業(しぎょう)をも与えなかった。イスラエルの神、主がその嗣業だからである。

イスラエルの各部族には嗣業が与えられました。ところが、レビ族に対しては土地というかたちでの嗣業が与えられませんでした。なぜならイスラエルの神、主がその嗣業だからである」。

神である主ご自身が嗣業であるとは、何という光栄でしょうか。

イスラエルは12の部族からなっていますが、その内のレビ族は、神殿(幕屋)の働きのために区別された部族でした。

幕屋(神殿)とは、神の住まいと呼ばれ、神への礼拝をささげる所です。そこで、いけにえをささげたり、香をたいて祈ったり、さらに、礼拝で使う調度品を保守管理したり、礼拝に関するすべての働きをレビ族が担いました。祭司の家系であるアロンの家系も、このレビ族に属していました。

神に仕え、神の働きのために用いるために、神はレビ族を区別なさいました。そのため、他の部族のような土地を受け嗣ぎませんでしたが、彼らの嗣業は神である主ご自身でした。このことは13章に2回も記されています(13・14、33)

新約におけるクリスチャンは、このレビ族のような存在ではないかと思います。なぜなら、御子イエスを信じる私たちは、私の内にイエスご自身を受け入れているからです。そして、御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない(Ⅰヨハネ5・12)と言われるように、永遠のいのちを嗣業としていただいているのです。

このように、神は私たちを愛してくださっています。その愛は、神のひとり子であるイエス様を、私たちにたまわるほどの愛です。神はご自身を与えるようにして御子をくださったのです。イエス・キリストが私の嗣業です。

レビ族に与えられた嗣業は、こんな新約の祝福を預言しているのです。


ヨシュア記 12章

2024年11月09日 | ヨシュア記
ヨシュア記12・7 ヨシュアとイスラエルの人々とが、撃ち滅ぼした国の王たちは、次のとおりである。ヨシュアは彼らの地をイスラエルの部族に、それぞれの分を与えて嗣業(しぎょう)とさせた。

カナンの地における戦争は終結しました(11・23)。第12章からは、戦いを終えたイスラエルの各部族に、カナンの各地が嗣業(相続地)として分け与えられたことが記録されています。

嗣業という語句は一般の辞書には掲載されていません。新改訳では「相続地」と訳されていますが、単なる遺産としての相続地ではなく、神から授かった〝働き〟とか〝使命〟といった意味が込められています。つまり、嗣業の地とは、それを転売するなど自分勝手にできる土地ではなく、神からあずかったミッションといえるでしょう。それが「嗣業」に込められた意味です。

ですから、イスラエルの人々は、神から賜った地を手放してはならないと律法に定められています。たとえ困窮ゆえに手放すようなことがあっても、それを買い戻さなければなりませんでした(レビ25・25~27)。また、長い間買い戻すことができないでいる場合も、ヨベルの年には、無償でその土地は所有者に返還されなければなりませんでした(レビ25・28)

これは、単なる分配地ではなく、神から各自に分け与えられた使命としての嗣業だからです。

ユダ部族に与えられた嗣業はユダ部族の使命であって、他の部族が奪うことも譲ることもできません。ベニヤミン部族の嗣業はベニヤミン部族の責任のもとに成し遂げなければなりません。

あなたには、どのような〝嗣業〟が与えられているでしょうか。それはあなたの嗣業であって、他の人の嗣業とは異なる地です。羨(うらや)むことも、誇ることもありません。

ちょうど、主人がしもべたちに、各自の能力に応じてタラントを分け与えて旅に出た話と同じです。ある者には1タラント、ある者には2タラント、ある者には5タラントが与えられました(マタイ25・14~30)

そのように、私には私でなければならない働き……すなわち嗣業があります。他の人の嗣業は、自分の嗣業よりも大きく見えるかも知れませんが、大切なことは嗣業に対して忠実であることです。

それを手放してはなりません。私の責任で買い戻さなければなりません。

私に与えられた嗣業とは何か……考えてください。もうすでに与えられています。そして、そのミッションを果たすことができるように祈ろう。


ヨシュア記 11章

2024年11月08日 | ヨシュア記
ヨシュア記11・9 ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。

アモリ(エモリ)人の5人の王たちによる連合軍に勝利したイスラエルは、さらに大きな連合軍を迎え撃つことになりました。ハゾルの王ヤビンらによる大連合軍でした。「浜辺の砂のように」と表現されるほどの大軍です。

ここでも、主なる神の御言は同じです。恐れてはならない(11・6)

私たちが恐れるのはなぜですか。それは、目に見える世界〝だけ〟を見ているからです。

弟子のペテロは、「来なさい」と言われたイエスの御言を信じて水の上を歩き出しました。しかし彼は、「風を見て恐ろしくなり」、そしておぼれかけました(マタイ14・30)。湖上の波風という見える世界に目がうばわれたからです。

目に見える世界だけを見ていると、私たちには不安や恐れがやって来ます。そして、不安と恐れの海におぼれてしまいます。私たちが見るべきは、イエス様であり、主イエスの御言です。

見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐべきです。なぜなら、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(Ⅱコリ4・18)

神は目に見えませんし、神の御言も見えませんが、それは永遠であり、確かな拠り所です。

浜辺の砂のような大軍を見て恐れない者はいません。その恐れを越えることのできる勇気は、恐れてはならない。わたしはあなたと共にいると言われる神の御言を信頼することから生じます。

また、私たちは、いのちを失うことを恐れます。それは、目に見える肉体のいのちだけを見ているからです。目に見える肉体のいのちは永遠ではありません。しかし、私たちの内なる霊的ないのちこそ永遠に続くいのちです。

目に見える肉体のいのち〝だけ〟を見ている人は、恐れが来ます。しかし、主は言われました。「肉体を滅ぼしても、霊魂まで滅ぼすことのできない者どもを恐れるな」と。

目に見えませんが、私たちの霊魂をお救いくださる神こそ、本当に畏れるべきお方です。正しく畏れることは、世の恐れを超越するのです。

さて、主なる神は、この大軍と戦って勝利しても、敵軍の馬の筋を切り、戦車を焼け(ヨシュア11・6)と命令されました。当時の戦いにおいて、馬と馬が引く戦車は強力な武器でした。

荒野の民であるイスラエルにとって、戦利品としての馬と戦車は魅力的であったはずです。これがあれば、イスラエルの戦力は各段に増強されます。でも、主はそれを大胆に焼き捨てよと命じられました。惜しむ思いもあったかも知れませんが、ヨシュアはそれを大胆に焼き捨てました(11・9)

もしも焼き捨てずに馬や戦車を手にしたら、イスラエルは神を信頼するよりも、馬や戦車を信頼するようになったことでしょう。

目に見えるものを恐れる人は、目に見える何かを得ようとします。目に見える戦車で恐れを消そうとします。目に見える富で恐れに勝利しようとするのです。

しかし、私たちが真に頼るべきは主なる神です。目に見える馬や戦車を頼り始めると、馬や戦車の数で恐れたり、逆に慢心するようになります。詩篇の作者の告白を私たちの信仰告白としよう。

ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。(詩20・7)

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ヨシュア記 10章

2024年11月07日 | ヨシュア記
ヨシュア記10・8 彼らを恐れてはならない。私が彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らの内には、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。

ギベオンの人々がイスラエルと和を講じたことを聞いて、カナンの王たちは連合軍を組んで、ギベオンに攻め上ってきました。この連合軍は、アモリ人たちの王と記されています(10・5)。 ※カナンの王たちからすれば、ギベオンの行為は裏切りであった。それに対する報復攻撃である。

そこで、ギベオンはイスラエルに援軍を要請し(10・6)、ヨシュアはイスラエル軍をひきいて駆けつけることにしました。

ここに、主の御名による契約のすばらしさを見ることができます。

主なる神は契約の神です。ご自身の御名の栄光のために、神は契約を守られます。ですから、イスラエルもギベオンとの契約に誠実に応えました。

私たちがイエス・キリストを信じることは契約です。しかもそれは「新しい契約」であって、ヨシュアの時代の契約より、さらにすぐれた契約です。イエスを信じる者を、神は見捨てることなどあり得ません。主は援軍をお送りくださるのです。

さて、イスラエルの人々にとって、このような連合軍を相手にするのは初めてです。数からしても、今までで最大規模の戦いです。恐れが生じないわけがありません。

でも、主は言われます。彼らを恐れてはならない。私が彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう(10・8)。

目に見える条件だけで、私たちは恐れます。相手が大きかったり、多かったりすると恐れます。逆に、小さかったり、少なければ侮(あなど)ります。人生で直面している困難の大小が問題ではありません。


大切なことは、主の御言がヨシュアに臨んだように、神の御言が私と共にあることです。「彼らを恐れてはならない」といわれる神の御言があれば大丈夫です。神の御言の権威を信頼すべきです。

「自分の部下をいやしてください」とイエスに申し出た百人隊長(百卒長)は、「イエス様に直接おいでいただく必要はありません。お言葉を下さい」と申し出ました。

イエス様の「いやされなさい」という御言があれば、それはイエス様が来てくださり、いやしてくださったことと同じだからです。

神の御言があれば、神が共におられることと同じです。神の御言を信じるとは、神を信じることと同じなのです。

主なる神は、カナンの地に入って行くにあたり、ヨシュアに「私はあなたと共にいる」と宣言なさったことをすでに見ました。まさに、ヨシュアに表されている神の啓示は、「共におられる神」(インマヌエル)です。

今日も、神の御言を携えて進もう。御言を通して、神は私たちと共におられることを、体験させてくださるからです。

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