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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

出エジプト記 40章

2024年03月16日 | 出エジプト記
出エジプト記 40章
雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らは旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。
(40・36~37)


荒野におけるイスラエルの旅路は、常に幕屋が中心でした。人々の宿営は幕屋を中心に各部族ごとに設営されました。つまり、幕屋に象徴される神が中心であり、その神への礼拝が彼らの旅の中心に位置づけられていました。

また、旅立つのも、留まるのも、幕屋に現れる〝雲〟次第でした。出立する時は、雲が幕屋の上から移動する時でした。雲が移動しない時は、先を急ぎたくてもそこにとどまりました。

このように、幕屋には栄光の雲とよばれる雲がいつもありました。夜になると、その雲の中に火がありました(40・38)。この雲は神の臨在を表していました。 ※この光景は天の御使たちが天と幕屋とを往来する様子が、雲のようにも見え、火のようにも見えたのであろう。

何もない荒野で、人々はこの雲を見てどんなにか勇気づけられたことでしょう。道に迷ったときも、この雲を目当てに宿営にもどることができました。こうして荒野における雲は、人々の生活の指針となりました。また、神が共におられることの励ましでありそのしるしとなりました。

この雲は、新約の時代の聖霊を表しています。聖霊は、私たちに神が共におられることを分からせてくださいます。現世という荒野を旅する私たちは、いつも聖霊に頼ります。

聖霊が私たちを進ませるとき、有無を言わず従います。聖霊がとどめられるとき、自分の考えでは進みたくても、とどまります。

そういえば、伝道者パウロもアジアへ進むことを聖霊が禁じられたことがありました(使徒16・6)。彼の宣教旅行は聖霊の導かれるままでした。

イスラエルの人々は荒野において神に従う訓練を受けました。私たちも、心をしずめて聖霊の導きを知る訓練が必要です。聖霊の声と自分の考えを区別できる訓練です。

そのためには、日々聖書の御言を読み、聖霊の語りかけに耳を傾けながら、天国を目指して旅をします。新約教会の旅が祝福されますように……。


出エジプト記 39章

2024年03月15日 | 出エジプト記
出エジプト記 39章
モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それを成し遂げていたので、モーセは彼らを祝福した。
(39・43)


幕屋の建設工事もようやく終わろうとしています。ひとつひとつが主がモーセに命じられた通りに成し遂げられました。

天地が滅びるまで律法の一点一画もすたることなく、ことごとく全うされると主イエスが言われたように(マタイ5・18)、神はご自身の御言に妥協なさいません。それに比べて、私たち人間のなすことは何と不完全なことでしょうか。しかし、だからといって手を抜くことなく、力の限り神に忠実であろうとするなかで幕屋は完成します。

ただし、主を愛する心で忠実であることと、完璧主義とは区別されるべきものです。

さて、39章には、主がモーセに命じられたとおりであると10回も記されています。神の前には失敗だらけのイスラエルの人々でしたが、幕屋建設にいたっては主の御言に従順しました。

「主が命じられたとおりにする」ことによって、その幕屋や各種の器具も、またそこで仕える祭服も祭司たちも、本物であるという証しです。いわば「お墨付き」をいただいたわけです。

後のイスラエルが分裂して誕生した北イスラエル王国には〝主が命じられたとおりではない〟神殿や祭司たちが置かれたのですが、これらは偽りの神殿、偽りの祭司たちでした。本物と偽物の違いは、〝主が命じられた通りか否か〟です。

また、イエス様がユダヤ人たちにさばかれた時、そこに立った証人は、みな偽りの証人たちばかりでした。私たちは偽物であってはならない。

本物と偽物の違いは、御言どおりか否かにかかっているのです。主が命じられた通りとは、御言どおりということです。

新約の時代に、主イエス様が命じられたことは何でしたか。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」と言われた通りに生きよう。それが、本物の教会の姿です。

「互いに愛し合うなら、それによって、あなた方がキリストの弟子であることを、すべての者が認めるだろう」(ヨハネ13・35)とあるように、私たちが御言どおりに生きることによって、私たちが本物のキリスト者であることが承認されるのです。

イエスが愛されたように愛すること。それが本物の教会の証拠です。

御言どおりにできない弱さもあります。でも、そんな弱さも、あのキリストの十字架で完全な赦しを頂いているのですから、これからも大胆に「御言どおり」に生きることにしよう。そして何度でも、「御言どおり」になるようチャレンジしよう。御言どおりに愛する教会であろう。本物の教会として、本物の弟子として、主に仕えるために……。


出エジプト記 38章

2024年03月14日 | 出エジプト記
出エジプト記 38章
あかしの幕屋にもちいた物の総計は次の通りである。
(38・21)


幕屋にはたくさんのささげ物と、多くの人々の労力と献身が費やされました。そして、ささげ物の数量を記録にとどめました。金が29タラント730シケル。銀が100タラント1775シケル。青銅が70タラント2400シケルでした。

実に聖書の記録は〝まめ〟です。細かな量まで記録されています。

旧約聖書全体にいえることですが、聖書はささげ物の数、人数、家系など、また、捕囚の地バビロンから約束の地カナンに戻ってきた人々の名に至るまで、実に細かく記録しています。

神は私たちのささげ物を決してお忘れになりません。また、神のために献身した人々の名を、神は決してお忘れになりません。聖書の記録の〝まめさ〟は、神の記憶の〝まめさ〟を意味しています。

イエス様の弟子たちが伝道に出かけ、その先々で大きな成果が得られたことを報告しました。すると主は、献身的に働いたあなた方の名が天に記されていることを喜びなさいと言われました(ルカ10・20)

また、イエスの弟子であるゆえに、この小さい者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれたら、その人は決して報いからもれることがないと、主は言われました(マタイ10・42)

このように、主は覚えておられます。私たちの小さなささげ物を、それがどんなに小さくても、神を畏れ、神を愛する心でなされたささげ物を、神は覚えておられます。天に記録されています。

小さなささげ物、小さな献身から始めよう。


出エジプト記 37章

2024年03月13日 | 出エジプト記
出エジプト記 37章
ベザレルはアカシヤ材の箱を造った。……また、純金で贖罪所(あがないのふた)を造った。
(37・1)


幕屋の調度品の中でも最も聖なるものは契約の箱別名あかしの箱と呼ばれる箱です。この箱には、十戒が刻まれた石板が納められました(申命記10・2)

神の御言は神をあらわしていますから、神の御言が記された十戒の板は、まさに神を象徴するものです。その十戒は、神の「きよさ」と「義」をあらわしています。

しかし、その十戒の板を納めた箱には贖いのふたを造って〝ふた〟をしました。ふたをしたのは、十戒の板を直接見ることのないためです。 ※「贖いのふた」は口語訳では「贖罪所」、新共同訳では「贖いの座」と翻訳。契約の箱にふたをする役割になっている。

ところが後の時代のことですが、ベテシメシの人々がそのふたを開けて見たところ、多くの人々が神に撃たれて死んだと記録されています(Ⅰサムエル6・19)。彼らは「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか」と嘆きました。この事件は、神をあらわす十戒の石板を「贖いのふた」無しに見ることも、行うこともできないことを象徴する事件でした。

十戒の御言はすばらしい内容ですが、それをまともに実行しようとしたら、有罪の宣告を受けて死んでしまいます。十戒の板は、お前は罪人だと私たちを定罪する板です。

だから贖いのふたが必要なのです。でもそれは、その蓋で永遠に隠すためではありません。イエス様は、罪のゆるしのために私たちを贖ってくださいました。このイエスの贖い無くして、私たちは神の御言を行うことができません。でも、主の贖いがあるので、躓きながらも、何度でも、十戒の内容を行おうと思うわけです。イエスの十字架による贖いがあるからです。そのようにして、神は十戒を完成なさるのです。


出エジプト記 36章

2024年03月12日 | 出エジプト記
出エジプト記 36章
モーセはベザレルとアホリアブ及びすべて心に知恵ある者、すなわち、その心に主が知恵を授けられた者、またその工事をなそうと心に望むすべての者を召し寄せられた。
(36・2)


幕屋の建設のために心に知恵ある者が召されました。単に手先が器用だからとか、頭の回転が早いからというのではなく、「心に知恵ある者」です。

神のご用には、人間的な能力が優れているからお役に立てるわけではありません。むしろ、心に知恵が必要です。それは、「神が知恵を授けてくださった」とあるように、人間的な知恵ではなく、神が授けてくださる知恵です。どんな知恵でしょうか。

第一に、神を畏れる心です。

神を畏れることは知恵の始まりです(箴言1・7)。どんなにすぐれた技術や知識があっても、高慢になったり、神を畏れない人は、本当の知恵者ではありません。神を畏れる心とは、裏をかえせば神の御前に謙そんな心です。

第二に、神を愛する心です。

私たちの知恵には限界があります。どんなに頭を絞って考えても、問題が余計にねじれてしまうことがあります。でも、そんな状況の中でも神を愛します。神を愛し、神が喜ばれる道を選び取ります。それが神からの知恵です。なぜなら「神は、神を愛する者たち……と共に働いて、万事を益となるようにして下さる」からです(ローマ8・28)

第三に、足ることを知る心です。

幕屋の建造にあたった心に知恵ある者たちは、民たちが献げた資材が充分であると判断し、献品を断った旨が記されています(出エジ36・4~7)。これが「悪知恵」によるなら、余分で私腹を肥やすことになったかも知れません。

そうではなく、神からの知恵とは「足ることを知る」知恵です。「知恵」という文字は恵みを知ると記すように、神からの恵みは充分であることを知ることが肝心です。

このような「心に知恵ある者」たちによって、キリストの教会も建て上げられて行きます。


出エジプト記 35章

2024年03月11日 | 出エジプト記
出エジプト記 35章
心から喜んでするものは、主にささげる物を持ってきなさい
(35・5)


イスラエルの大失態ゆえに、神のご計画は頓挫したかに見えましたが、神は確実にご自身の働きをなさいます。神は、人の失敗さえも益に変えて御業をなさいます。

そのようなわけで、神がホレブの山で示されたとおり、人々は幕屋の建設に取りかかりました。このために、ひとりひとりの自発的なささげ物によって幕屋の材料が集められました。

一人当たりの機械的な割りあてではなく、心から喜んでする者はと聖書は記しています(35・5)。そして実際に心から喜んでする男女はみなそのようにしたのです(35・29)

新約の私たちも、神が住まわれる神の宮を建て上げています。それは旧約の場合の物質でできた建物ではなく、霊的な住まいです。クリスチャンたちによる共同体……それが神の宮です。

私たちが喜んで神のために自分自身をささげることによって、どんなに素晴らしい宮が完成することでしょうか。

聖書は、私たちの体を生きた聖なる供え物としてささげるよう勧めていますが(ローマ12・1)そのような自発的な献身が組み合わさって、新約の宮が建造されます。神はそのような献身を喜ばれます。

献金も献身と同じです。各自は惜しむ心からではなく、また強いられてでもなく、自ら決めたとおりにすべきである。神は喜んでささげる者を愛してくださるのです(Ⅱコリ9・7)

おのおの分に応じた献げものによって、神の宮の建設に参加しよう。


出エジプト記 34章

2024年03月09日 | 出エジプト記
出エジプト記 34章
モーセはさきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。
(34・29)


モーセが主なる神から御言を聞くとき、人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られました(33・11)。いったいこれはどのような状況なのでしょうか。目の前に神の顔を見るのです。

この「朝マナ」で一貫して申し上げていることは、神を見た者はいないのです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1・18)。ですから、モーセと顔を合わせて語り合ったのは、主(ヤーウェ)という御名で遣わされた天使(御使)と解釈すべきでしょう。 ※「朝マナ」の創世記18章、アブラハムに現れた3人の御使について参照。

可視的存在ではない神が、直接に姿をあらわすことはありません。新約の時代になってようやく、神のひとり子が見える姿で来られた限りであって、ましてや、旧約の時代に現れたのは神ご自身ではなく、主ヤーウェという名を受けた天使だと考えられます。

ですから新約聖書では、「シナイ山でモーセに語りかけた御使」(使徒7・38)と記しており、その「御使たちによって伝えられた律法」(使徒7・53)です。また、パウロは「律法はなんであるか。それは、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない」(ガラテヤ3・19)と記しているわけです。

つまり、初代教会は、モーセが受け取った律法は、御使(天使)から受け取ったと解釈しているのです。直接に神を見たのではなく、神の御使と顔を合わせたのです。でも、それは神と語り合ったに等しいのです。だから、「神は言われた」と記すわけです。

さて、モーセはこのようにして、主の御使を介して神の御言を受け取りました。この尊いお役目ゆえに、彼の顔の皮膚が光を放ちました。神の栄光を受けて光っていたのです。

旧約の時代でも、神の御言の任務に用いられると、こんなにも光り輝きました。ましてや、新約における御言を伝えるという任務に用いられる私たちは、それ以上の栄光で輝きます。

パウロはそのことを第二コリント3章7~11節で次のように記しています。

「もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。」

旧約の御言の任務とは律法の御言を伝えることですかたや新約の御言の任務とは「福音の御言」を伝えることです。同じ神の御言ですが、律法は「あなたは罪人だ」と定罪する働きでした。つまり、罪を宣告する務めです。しかし、福音は「あなたの罪はゆるされた」と告げる働きです。

モーセは律法という御言を伝えるために輝きましたが、新約のクリスチャンたちは福音という御言を伝えるために、神の栄光で輝くのです。

福音という最高の栄光ある御言を伝えるご用は何と素晴らしいことでしょうか。福音の御言を聞き、語る者たちに、神はモーセ以上にその顔を輝かせてくださるに違いありません。


出エジプト記 33章

2024年03月08日 | 出エジプト記
出エジプト記 33章
モーセは主に言った、「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、私たちをここからのぼらせないでください」。
(33・15)


先の32章では、「金の子牛事件」によって、主の厳しいさばきがなされました。そのことで、主はイスラエルの民と一緒にのぼって行かないとまで言われました(33・3)

主が共に行ってくださらない旅に何の意味があるでしょう。そもそも、主がイスラエルをエジプトから呼び出されたのは、彼らと共に住むため、彼らを通して神の栄光をあらわすためでした。

だからモーセは主に祈ったのです。

主よ、あなたがご一緒でなければ、私たちは進むことができません。一緒にのぼってくださいこれは霊的な死活問題です。どんなつらい旅路も、主が共に行ってくださるなら、私たちは乗り越えることができます。逆に、物事が順調に進んでいても、主が共におられないのであれば、それは空しい繁栄です。順境の時も、逆境の時も、主が共におられる人生でありたいものです。

なぜ、主は共に行かないなどと言われたのでしょうか。もちろん直接の原因は金の子牛の事件ですが、その背景にあるのはかたくなな心(新改訳・うなじがこわい)」です。思い出してください。エジプトの王パロがかたくなな心であったことを……。何ということでしょう。パロのもっていた性質はイスラエルにも引き継がれていたのです。新約の民も、罪と死の奴隷であった時代に、その支配者であった悪魔(サタン)の性質を受け継いでいるのと同じです。

以後、このかたくなさがイスラエルを悩まし、その旅路を困難にします。「かたくな」とか「うなじがこわい」の原意は、家畜を綱で引いても主人に従わないで首を固くする様子をあらわす言葉です。

私たちはエジプトを出て救いを得ましたが、にかたくなさがあると、信仰生活が困難になります。祈りましょう。御霊が私の内のかたくなさを砕いてくださいますように……。


出エジプト記 32章

2024年03月07日 | 出エジプト記
出エジプト記 32章
モーセは宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板をなげうち、これを山のふもとで砕いた。
(32・19)


モーセがシナイ山に登り、神からの律法を受け、十戒の石板を授かって下山するまでに40日が経過していました。その間、イスラエルの民はモーセが戻るのを待ちきれず、金の子牛を造ってそれを礼拝していたのです。

何故こんなことになったのでしょうか。過越しの御業を経験し、紅海を渡り、天からはマナを受け、これほどの沢山のしるしを経験したのに、それは無駄だったのでしょうか。ここに人の弱さがあります。

パウロもガラテヤ教会の人々に語りました。「あなた方は御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるのですか。あれほどの経験をしたのは無駄だったのですか」(ガラテヤ3・3~4)

人は肉体的な感覚で神を知りたい、神を体験したいと願う傾向にあります。霊の感覚より、肉の感覚の方が研ぎ澄まされているからです。そこで、神を見えるかたちに表現し、これが神だというしるしを求めます。金の子牛は肉の感覚で神を知ろうとすることの象徴ですガラテヤ教会の人々も、救いの感覚が希薄になるにつれて、割礼という肉体に見え、肉体で感じられるしるしを受けようとしたのです。肉の感覚で救いを確信したかったのです。

私たちの信仰の根拠であり救いの根拠は、見ることはできませんが、神の御言にあります。聖霊が神の御言を私の霊魂に刻んでくださることにあります。

御霊で始めたことを、金の子牛で仕上げてはならないのです。私たちと共に住まわれる聖霊に期待すべきです。聖霊に頼ります。

さて、金の子牛を鋳造したアロンについて考察してみましょう。

兄アロンは、口の重い弟のモーセに代わって神の御言を語ってきました。しかし、それは「このように語れ」という命令があって、それに従順であったわけで、実際に神の御言を受け取ったのは、語るのが苦手なモーセでした。

そのようなわけで、アロンは御言を語っていても、神の御言と民の声(目に見える神を造ってくれという要求)を峻別できなかったのです。自分自身も神の御言に聞き従うという従順がなければ、時として民の声に惑わされることになります。

私はアロン型リーダーなのだろうか。それともモーセ型リーダだろうか。そんなことを考えさせる出来事です。


出エジプト記 31章

2024年03月06日 | 出エジプト記
出エジプト記 31章
主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板2枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。
(31・18)


モーセが神から授かったあかしの板には十戒(10項目からなる戒律)の御言が、神の指によって刻まれていました。神の御言が記された石の板は、神をあらわす板という意味で、あかしの板とも呼ばれます。

さて、人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる存在ですから、神は私たちを生かすために御言をくださいます。あかしの板は、まさに神の御言そのものでした。つまり、旧約の時代に与えられた神の御言は、石の板に刻まれた御言でした。そして、それは文字として与えられました。

石の板に刻まれた御言を実行できれば、生きることができます。十戒の内容は人類が代々に守るべき基準です。人類が十戒の通りに生きたなら、どんなに素晴らしい世界になったことでしょう。

しかし、実際は挫折の連続でした。これは旧約の限界です。そこで神は、後の時代になって、新しい契約を立てる日が来ると預言なさいました。その日には、わたしの律法をその心の板に書きしるすと言われました。

「それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。(エレミヤ31・33)

この約束はイエス様が昇天なさった後、五旬節(ペンテコステ)の日に、聖霊がイエスを信じる者たちにくだることによって実現しました。かくして、聖霊は、私たちの霊魂に神の御言を刻んでくださいます。

イエスは言われました。わたしがつかわす聖霊は、わたしのことばを思い起こさせる(ヨハネ14・26)。石板に刻んだ「文字」ではなく、内なる霊魂に聖霊によって御言が刻まれるとき、私たちはその御言によって生きることができます。文字は人を殺すが、御霊は生かすのです(Ⅱコリ3・6)

旧約では石の板に御言を刻んで神をあかししましたが、新約では私たちの霊魂に御言を刻んで神をあかしします。神は私たちを石の板ならず、心の板に書かれた神からの手紙(Ⅱコリ3・3)として世におかれたのです。


出エジプト記 30章

2024年03月05日 | 出エジプト記
出エジプト記 30章
アロンとその子たちに油を注いで、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
(30・30)


30章の前半には香をたく祭壇」(香壇について記されています(1~10)。香壇は聖所に置かれ、祭司は日々ここで香を焚き祈りました。ですから「香をたく」とは祈りをあらわしています。黙示録では「この香は聖徒たちの祈りです」と表現されています(5・8)

このように、幕屋は常に祈りがささげられるところです。

神が「あなた方と共に住む」といわれた幕屋は、祈りの家です。新約の私たちも「祈りの家」ととなえられるべきです(マタイ21・13)。そのような「祈りの家」に、主が共に住まわれます。

次に水を入れた洗盤についての記録です(出エジ30・17~21)。これは聖所の手前に置かれていて、水で手足を洗いきよめて聖所に入りました。日本の神社にある手水舎と似ています。

新約ではは御言を意味しています。私たちが、御言という水によってきよめられ、聖なる者となることを主は願っておられます。

キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、御言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。(エペソ5・26~27)

物質である水は人の表面をきよめますが、心まできよめることはできません。旧約における「水の洗い」は象徴であって、水そのものに神秘的な効力があるわけではありません。

新約の私たちは、神の御言という「水」で心をきよめ、新たにされて行きます。邪悪な心や闇の考えは、神の御言によって追い出され、造りかえられ、神の聖なる考え方や心へと変えられて行きます。

次に、冒頭の聖句です。祭司は〝油を注がれて〟聖別されました(30・30)

この油は特別な油でした(30・22~25)。神のために用いられる人物や器具に、この特別な油を注いで「神のもの」として区別しました。これを「聖別」と呼びます。神はご自身の働きをなさるにあたって、そのご用にあたる者を聖別なさいます。その区別を表すために油を注いだわけです。

つまり祭司とは油を注がれた者ですヘブル語の「メシヤ」も、ギリシャ語の「キリスト」も「油を注がれた者」という意味です。

神のご用にあたる者は、油を注いで聖別して任務に当たりました。かくして、歴代の祭司は任務についたのですが、やがて、神から特別の油を注がれた大祭司が来る。彼こそ、人類と神との間を執り成す究極の大祭司だと、旧約聖書は預言しています。

イエス様はその油注がれし者」、つまりキリストとして世に来られましたイエスこそ真の祭司、祭司の中の祭司……つまり大祭司です。

※後の時代になって、王の任命にも油を注いで聖別するようになった。そこから、やがて来たるべき油注がれし者(メシヤ・キリスト)は、王的存在としても描かれた。祭司であり王。両者とも油注がれて聖別された存在である。それをイエスは兼ねそなえておられる。

この大祭司なるイエス・キリストには聖霊という特別の油が注がれたように(マタイ3・16)、それに続く新約時代の祭司である私たちにも聖霊が注がれます。大祭司なるイエス・キリストに従って祭司の務めをするためです。新約の祭司の務めが全うされるよう祈ります。


出エジプト記 29章

2024年03月04日 | 出エジプト記
出エジプト記 29章
わたしが彼らの内に住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知るであろう。わたしは彼らの神、主である。
(29・46)


神がイスラエルをエジプトから導き出されたのは、彼らの中に神ご自身が住まわれるためでした。神は遠くにおられる方ではなく、私たちの中に住まわれる神です。つまりインマヌエルの神です。

インマヌエルとは「神が、私たちと共におられる」という意味です。イエス・キリストがお生まれになるときも、その子は、インマヌエルと呼ばれると預言されました(マタイ1・23)。今やイエス様が私たちの中に住まわれる新約の時代です。

しかし、出エジプト記の時代の〝インマヌエル〟は幕屋を通して顕現されました。いずれにせよ、神は私たちと共に住まわれて、神の栄光をあらわそうとなさっています。

では、どのようにして、私たちと共に住まわれるのでしょうか。それは、幕屋における礼拝のただ中に神がお住みになるという方法によってです。幕屋で祭司たちが礼拝をささげると、幕屋は神の栄光によって聖別されるとあります(出29・43)。つまり、栄光の輝きが現れて、それを見て民は神が共におられることを感じました。

荒野は死と隣り合わせのような殺伐とした所です。しかし、そんな環境の中でも、イスラエルの人々がいる所には幕屋があり、礼拝がありました。ですから、そこだけは神の栄光で輝いていました。荒野に出現したオアシスのように、そこは恵みとか祝福があふれている場所です。殺伐とした荒野と栄光に輝く幕屋とのコントラストは明瞭です。まるで、ここは神のための特別の場所だといわんばかりにです。

幕屋が神の栄光によって聖別されるとは、そのような光景であったと思われます。

今日、イエス様は私たち教会の中に住み、この世界で神の栄光を輝かせようとなさっています。現代社会という殺伐とした時代のただ中にあって、真実な礼拝がささげられるところに神の栄光が輝いています。そこは恵みにあふれています。ここに集えばいのちを得ます。インマヌエルの神を体験します。

ですから、主を愛して礼拝しよう。現代の荒野に、オアシスのような場所を用意しよう。


出エジプト記 28章

2024年03月02日 | 出エジプト記
出エジプト記 28章
アロンとその子たちのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
(28・4)


28章からは祭司の服装について記されています。それは神に仕えるための「聖なる衣服」で、普段着ではありませんでした。祭司が神の御前に出るとき、聖なる衣服を着なければなりませんでした。

あのエデンの園の事件を思い出してください。人は罪をおかしたとき、イチジクの葉でつくりそれを腰に巻きました(創世記3・7)。彼らは、罪をおかした自分を恥じて思わず服で覆ったのです。

罪人は、罪をおおうための服を必要とするのです。「服」の思想には、自分を良く見せようという思想が込められています。罪人のままでは格好悪いので、できるだけ格好の良い服を着たいのです。

アダムとエバが自分でその服を作って以来、人類は「文明」という服、「偽善」という服、「学歴」という服を始め、「身分」とか「自己正義」や「言い訳」といった、自分を良く見せるための様々な服を作り出してきました。

しかし、神はそのような服ではなく、聖なる衣服が必要であることを示しておられます。

王子の婚宴の席に人々が招かれた時、礼服を着ていない人が追い出されたように(マタイ22・11)、神の前に出るとき、聖なる衣服が必要です。あなたはそれを着ていますか。

クリスチャンは新約時代の祭司です。だから、聖なる祭服を着なければなりません。新約の祭司が着る服とは「キリスト」です。イエス・キリストによるバプテスマを受けた私たちは〝キリストを着た〟と聖書は告げています。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなた方はみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ3・27)

罪人である私たちは、キリストという服に完全におおわれて、祭司として礼拝をささげます。旧約の祭司たちも聖なる衣服を着て主に仕えたように、私たちも礼拝を通して主に仕えます。

礼拝は英語で「service(サービス)」ですが、まさに「仕えること」です。 ※神に仕えるサービスが、人に仕え、便宜をはかることを〝サービスする〟と言うようになった。

神を愛するとは神に仕えることです。新約時代の祭司とされた誇りと感謝をもって礼拝しよう。


出エジプト記 27章

2024年03月01日 | 出エジプト記
出エジプト記 27章
あなたはアカシア材で祭壇を造らねばならない。
(27・1)


27章の前半は祭壇の造営についての記録です。

いけにえの動物を焼いて、その香りを神に献げるための場所です。超大型のグリルのような装置です。移動式で、棒を通して担ぐようにもなっていました。荒野を旅するのですから、この大型グリルのような祭壇も担いで運びました。

続いて、聖所のまわりに庭を設け、それをを囲むようにしてあげばり掛け幕)」をはることが記されています。この外側を囲んでいる「掛け幕」の長さは、東西に約45m南北に約22・5mで、東側にがあります。

このように、聖所は掛け幕で囲まれているので、どこからでも入れるわけではありません。必ず東側にある門から入らなければなりません。

神に最も近いところとされる「至聖所」に到達するに裏口はありません。行くには順番があります。まず、必ず門を通って行きます。私たちが神に近づくのも同じです。

イエス様はわたしは門であると言われました(ヨハネ10・9)。イエスという門を通して神に近づきます。門を通らないで入る者は盗人であり強盗だとも言われました(ヨハネ10・10)

次に、門をくぐると庭があり、すぐに目にするのが先程の祭壇です(出エジ27・1)

祭壇はいけにえを屠って、血を流し、その肉を焼いて神に献げる場所です。聖所に入る前に必ず、いけにえを献げなければならないことを意味しています。

つまり、神に近づくためには、罪のきよめのための〝いけにえ〟が必要だということです。

旧約の人々は、神に礼拝をささげるたびに、動物のいけにえを祭壇で献げなければなりませんでしたから、罪の解決なしに神に近づくことはできないことを、体験的に学びました。

しかし、それは動物のいけにえなので、罪の本当の解決にはなりませんでした。

今や、神の御子イエス・キリストが十字架で罪のいけにえとして血を流してくださいました。新約の私たちは、イエスという門をくぐり、いけにえとして死なれたイエスという祭壇を経て聖所に近づきます。これ以外の道がありません。裏口もありません。


出エジプト記 26章

2024年02月29日 | 出エジプト記
出エジプト記 26章
その垂れ幕はあなた方のために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。
(26・33)


引き続き26章も幕屋の詳細が記されています。幕屋の中心部は聖所と至聖所です。その聖所と至聖所は板塀に囲まれた部屋になっており、その板の寸法と枚数が記録されています。

また、板で囲まれた聖所と至聖所の天上部は大きな幕で覆われていました。一枚物の幕を作ることができないので、10枚の幕をつなぎ合わせて一枚にし、それで覆いました。

さて、板塀で囲まれた部屋の入り口から入ってすぐの部屋が聖所であり、その奥にある正方形の部屋が至聖所です。この至聖所は神に最も近く、かつ最も聖なる所を意味しています。この至聖所はを象徴しています。

毎日、祭司たちは聖所に入って神への礼拝のために燭台に油を注ぎ、パンを供え、香をたきました。しかし、至聖所に入ることはできませんでした。定めを無視して入った者は神に撃たれて死んでしまうとされていました。

そのように誤って至聖所に入ってしまわないために、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕がもうけられていたわけです。

主なる神はいつくしみ深いお方ですが、近づきがたいほど聖なるお方でもあります。至聖所を隔てる垂れ幕は、神の聖さをあらわしています。その聖なるが故に、罪人のままでは近づくことのできないことを啓示しています。

しかし、この至聖所には年に一度だけ贖罪の日に、祭司たちの代表である大祭司が犠牲の小羊の血をたずさえて入ることができました。このことは次のことを意味していました。

①罪のきよめ無くして天国に入ることができない。
②罪をきよめる真の大祭司が必要である。


イエス・キリストこそ真の大祭司です。イエス様は動物の血ではなく、御自身の血をたずさえて天に入られました。私たちの先駆けとなって天に入る道を開いてくださったのです。

ですからイエスが十字架で血を流して死なれた瞬間、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が、上から下に向かって引き裂かれてしまいました(マタイ27・51)

これは人の手で裂かれたのではありません。舞台の緞帳の数倍の厚さがあるとされる神殿の垂れ幕を、人の手で引き裂くなど不可能です。しかも〝上から下に向けて〟裂かれたのです。人が裂くとしたら下から上へと裂くしかありません。

この垂れ幕が引き裂かれる光景を、聖所で奉仕していた祭司たちが目撃しました。まだ見たことも入ったこともない至聖所が目の前に露わにされた出来事に、祭司たちは驚嘆したことでしょう。

イエス・キリストが十字架で死なれたことによって神殿の垂れ幕が引き裂かれたことは、今まで閉ざされていた至聖所への道―それは天国への道―が開かれたことを意味していました。

今や、真の大祭司であるイエス様によって、私たちは大胆にも至聖所である天に入り、聖なる神に近づくことができるのです。