マルコ11:17 わたしの家は全ての国民の祈りの家ととなえられるべきである。
今週はイエス・キリストが十字架で死なれた金曜日を含む「受難週」です。その週の出来事に沿って十字架と復活の御足跡を辿ってみることにします。
昨日は、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城なさった日で「棕櫚の日曜日」でした。その翌日の月曜日は、「宮きよめの月曜日」と呼ばれます。
「宮」とは「神殿」のことです。イエス様はエルサレムに入り、神殿をご覧になりました。しかし、そこは本来の神殿の姿ではありませんでした。
出エジプト記には「幕屋」について記されていますが、それは神殿の原型となったものです。その幕屋(神殿)とは……、①神が住まわれる家です。②神への礼拝がささげられる場所です。
ところが、当時のエルサレム神殿における人々の関心は、神への祈りではなく、商売のことでした。そのことをイエス様はお怒りになりました。本来の姿を失った神殿に、神が住まうことができるでしょうか。
だから、イエス様はこう言われたのです。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)。
イエス様が来られたのは、罪人を救うためではありますが、視点を変えれば、「神殿の本来の姿を回復するため」と言えるでしょう。その姿とは、本来の人間のあるべき姿とも言えます。それは……、
第一に、神と共にある人間の姿です。
神殿のように神を住まわせる家……それが、私たちの本来あるべき姿です。神が共に住まれる家ってどんな家なんでしょう。まさに、神殿はそのモデルルームのようなものです。
神殿で罪のゆるしのための血が流されたのは、罪がきよめられた所に、神が住まわれることを予表しているわけです。イエス・キリストの血によって罪のきよめがなされ私たちの中に、神は共におられるのです。
第二に、神を礼拝する人間の姿です。
神殿で礼拝がささげられ、祈りがささげるように、私たちの本来あるべき姿は、神を礼拝する姿、神への祈りのある生き方です。
ところが、罪人である人類は、本来の姿からほど遠い者になっています。堕落したエルサレム神殿の姿は、罪によって堕落した人類の姿をあらわしています。
ですから、イエス様がエルサレム神殿の堕落に対して怒られたのは、私たちに対する怒りでもあります。
神を住まわせようともしないで、神に反抗する頑なな心を、イエス様は悲しんでおられます。神への祈りの家とせず、商売の家としてしまっている……富を主人とする姿……ことへの、愛を込めた怒りなのです。
その後、イエス様は、私たちの罪をきよめるために十字架で血を流されるわけですが、それは、私たちを、神の住まう場所としてふさわしく、きよめるためです。
私たちこそ、新約時代の神殿です。聖書はこう言っています。「あなた方は神の宮(神殿)であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないのか」(Ⅰコリント3:16)。
ですから、イエスが「わたしの家は全ての国民の祈りの家ととなえられるべきである」と言われたように、私たちは祈りの家、礼拝の家となるべきです。
神は、イエスの血で私たちをきよめ、聖霊の住まわれる神殿となさいました。私たちが、神殿にふさわしく、祈りがあふれる家であり続けることができますように。(Ω)
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